←前へ 次へ→ 『念仏無間地獄抄』
(★40n)
念仏三昧を捨て給ふ。之に依って、阿弥陀経の対告衆長老舎利弗尊者、阿弥陀経を打ち捨て、法華経に帰伏して、華光如来と成り畢んぬ。四十八願付嘱の阿難尊者も浄土の三部経を抛ちて、法華経を受持して、山海慧自在通王仏と成り畢おわんぬ。阿弥陀経の長老舎利弗は、千二百の羅漢の中に智第一の上首の大声聞、閻浮提第一の大智者なり。肩を並ぶる人なし。阿難尊者は多聞第一の極聖、釈尊一代の説法を空に誦せし広学の智人なり。かゝる極位の大阿羅漢すら尚往生成仏の望みを遂げず。仏在世の祖師此くの如し。祖師の跡を踏むべくば、三部経を抛ちて法華経を信じ無上菩提を成ずべき者なり。
仏の滅後に於ては祖師先徳多しと雖も、大唐楊州の善導和尚にまさる人なし、唐土第一の高祖なり云云。始めは楊州の明勝と云へる聖人を師と為して法華経を習ひたりしが、道綽禅師に値ひて浄土宗に移り、法華経を捨て念仏者と成り、一代聖教に於て聖道・浄土の二門を立てたり。法華経等の諸大乗経をば聖道門と名づけ自力の行と嫌へり。聖道門を修行して成仏を願はん人は、百人にまれに一人二人、千人にまれに三人五人得道する者や有らんずらん、乃至千人に一人も得道なきことも有るべし。観経等の三部経を浄土門と名づけ、此の浄土門を修行して他力本願を憑んで往生を願はん者は、十即十生百即百生とて十人は十人、百人は百人、決定往生すべしとすゝめたり。観無量寿経を所依と為して四巻の疏を作る。玄義分・序分義・定善義・散善義是なり。其の外、法事讃上下・般舟讃・往生礼讃・観念法門経、此等を九帖の疏と名づけたり。善導念仏し給へば口より仏の出で給ふと云ひて、称名念仏一遍を作すに三体づつ口より出で給ひけりと伝へたり。毎日の所作には阿弥陀経六十巻、念仏十万遍、是を欠く事なし。諸の戒品を持ちて一戒も破らず、三衣は身の皮の如く脱ぐ事なく、鉢瓶は両眼の如く身を離さず精進潔斎す。女人を見ずして一期生、不眠三十年なりと自歎す。凡そ善導の行儀法則を云へば、酒肉五辛を制止して口に齧まず手に取らず。未来の諸の比丘も是くの如く行ずべしと定めたり。一度酒を飲み、
平成新編御書 ―40n―