←前へ  次へ→    『諸宗問答抄』
(★37n)後
 桓武天皇に奏し奉る。仍って彼の帰伏状を山門に納められぬ。其の外内裏にも記されたり。諸道の家々にも記し留めて今にあり。其れより已来、華厳宗等の六宗の法門、末法の今に至るまで一度も頭をさし出ださず。何ぞ唯今事新しく、捨てられたる所の権教無得道の法にをいて真実の思ひをなし、此くの如く仰せられ候ぞや、心得られずとせむべし。
  次に真言宗の法門は、先づ真言三部経は大日如来の説か、釈迦如来の説かと尋ね定めて、釈迦の説と云はゞ、釈尊五十年の説教にをいて已今当の三説を分別せられたり、其の中に大日経等の三部は何れの分にをさまり候ぞと之を尋ぬべし。三説の中にはいづくにこそおさまりたりと云はゞ、例の法門にてたやすかるべき問答なり。若し法華と同時の説なり、義理も法華と同じと云はゞ、法華は是純円一実の教にて、曽つて方便を交へて説く事なし。大日経等は四教を含用したる経なり、何ぞ時も同じ義理も同じと云はんや、謬りなりとせめよ。次に大日如来の説法と云はゞ、大日如来の父母と、生ぜし所と、死せし所を委しく沙汰し問ふべし。一句一偈も大日の父母なし、説く所なし、生死の所なし、有名無実の大日如来なり。然る間殊に法門せめやすかるべきなり。若し法門の所詮の理を云はゞ、教主の有無を定めて、説教の得・不得をば極むべき事なり。設ひ至極の理密・事密を沙汰すとも、訳者に虚妄有り。法華の極理を盗み取って事密真言とか立てられてあるやらん不審なり、之に依って法の所談は教主の有無に随って沙汰有るべきなりと責むべきなり。次に大日如来は法身と云はゞ、法華よりは未顕真実と嫌ひ捨てられたる爾前権教にも法身如来と説かれたり、何ぞ不思議なるべきやと云ふべきなり。若し無始無終の由を云ひていみじき由を立て申さば、必ず大日如来に限らず、我等一切衆生螻蟻蚊虻等に至るまで、みな無始無終の色心なり。衆生に於て有始有終と思ふは外道の僻見なり、汝外道に同ず、如何と云ふべきなり。
 次に念仏は是浄土宗所用の義なり。此又権教の中の権教なり。譬へば夢の中の夢の如し。有名無実にして其の実無きなり。
 
平成新編御書 ―37n―