←前へ  次へ→    『諸宗問答抄』
(★36n)前
 汝が云ふ所の即身即仏の名目も此くの如く有名無実なり、不便なり不便なり。次に不立文字と云ふ。所詮文字と云ふ事は、何なるものと心得此くの如く立てられ候や。文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり。汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つべからず。汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責むべきなり。さてと云ふも、かうと云ふも、有と無との二見をば離れず。無むと云はゞ無の見なりと責めよ、有と云はゞ有の見なりと責めよ。何れも何れも叶はざる事なり。次に修多羅の教は月をさす指の如しと云ふは、月を見て後は徒者と云ふ義なるか。若し其の義にて候はゞ、御辺の親も徒者と云ふ義か。又師匠は弟子の為に徒者か、又大地は徒者か、又天は徒者か。如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ、御辺を出生して後はなにかせん。人の師は物を習ひ取るまでこそ用なれ、習ひ取って後は無用なり。夫天は雨露を下すまでこそあれ、雨ふりて後は天無用なり。大地は草木を出生せんが為なり、草木を出生して後は大地無用なりと云はん者の如し。是を世俗の者の譬へに、喉過ぎぬればあつさわすれ、病愈えぬれば医師をわすると云ふらん。譬へに少しも違はず相似たり。所詮修多羅と云ふも文字なり。文字は是三世諸仏の気命なりと天台釈し給へり。天台は震旦の禅宗の祖師の中に入りたり、何ぞ祖師の言を嫌はん。其の上御辺の色心なり。凡そ一切衆生の三世不断の色心なり。何ぞ汝本来の面目を捨てゝ不立文字と云ふや。是昔移宅しけるに、我が妻を忘れたる者の如し。真実の禅法をば何としてか知るべき。哀れなる禅の法門かなと責むべし。
  次に華厳・法相・三論・倶舎・成実・律宗等の六宗の法門いかに花をさかせても、申しやすく返事すべき方は、能く能くいはせて後、南都の帰伏状を唯よみきかすべきなり。既に六宗の祖師が帰伏の状をかきて
 
平成新編御書 ―36n―