←前へ  次へ→    『色心二法抄』
(★24n)
 実に起滅せざるを妄りに起滅すと謂へり。只妄想を指すに悉く是法性なり。法性を以て法性に繋け、法性を以て法性を念ず。常に是法性にして法性ならざる時無し。体達すること既に成ずれば妄想を得ず、亦法性を得ず。源に還り本に反れば法界倶に寂なり。是を名づけて止と為す」云云。明らかに知んぬ、此の釈の意は無始輪廻の生死の法は悟りの境界なりと釈せり。法性の故に生死ありけるなり。故に弘決の一に云はく「理性有るを以ての故に、故に生死有り、生死は理を用ゆ。生死は即ち是理なりと知らず。故に日に用ひて知らざると名づく」云云。此の釈の意は我等がいとひ悲しめる生死は、法身常住の妙理にて有りけるなり。此の旨を能く能く悟るべし。譬へば我等が生死と云へるは過ぎ行く日月に付いて生死は有るなり。されば此の日月は生死の本体にて有るなり。此の日月に付いて、東西をも弁へ、昨日今日をも分別し、又十二時をも分かち、三十日を一月とし、十二月を一年とする事も、世間の事に於て前後をも乱さず、理をも失はず、月日の過ぎ去るに付いて、残の命幾ならずと云ふ事をも知るなり。明らかに知んぬ、十界の衆生の依正二報の生死は唯此の日月よりをこるなり。又是金胎両部の全体本迹二門の実理なり。此の実理の故に生死は有りけるなり。此の日月の本体の故に有りける生死なるが故に、弘決の一に「仏なる故に生死あり」と釈し給ふなり。止観に云はく「起は是法性の起、滅は是法性の滅」と釈し給ひしも唯此の意なるべし。故に一年十二月は十二因縁の生死なり。正月の生の位より十二月の老死滅の位に至る。又此の滅の位より生の種をついで、十界の因果三世に改まらずして、十界の生死は過ぎ行く日月にて有るなり。又我等衆生の身のみならず、草木も皆此の日月の明け暮れ生死にうつされて、我等と倶に生々死々するなり。譬へば生ずるは心法なり、滅するは色法なり。色心の二法が不二なりと云ふは、譬へばもみを種におろすに、もみは去年の菓なれば心法なり。此の心法を今年種に下ろすに此の種子苗と成る。心、色と成るが故に心法の形見えず、但色法のみなり。然りと雖も此の色法の全体は心法なる故に、日月の過ぎ行くに随って
 
平成新編御書 ―24n―