←前へ  次へ→    『戒体即身成仏義』
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 「欲の無表は表を離れて生ずること無し」文。此の文は必ず表有りて無表色は発すと見えたり。無表色を優婆塞五戒経の説には「譬へば面有り鏡有れば則ち像現有るが如し。是くの如く作に因りて便ち無作有り」云云。此の文に鏡は第六心王なり、面は表色合掌の手なり、像は発する所の無表色なり。又倶舎論に云はく「無表の大種に依止して転ずる時、影の樹に依り光の珠宝に依るが如し」云云。此の文は、表色は樹の如く珠の如し、無表色は影の如く光の如しと見えたり。此等の文を以て表無表・作無作を知るべし。五戒を受持すれば人の影の身に添ふが如く、身を離れずして有るなり。此の身失すれば未来には其の影の如くなる者は遷るべきなり。色界・無色界の定共戒の無表も同じ事なり。又悪を作るも其の悪の作と表とに依りて、地獄・餓鬼・畜生の無作・無表色を発して悪道に堕つるなり。但し小乗教の意は、此の戒体をば尽形寿一業引一生の戒体と申すなり。「形寿を尽くして一業に一生を引く」と申すは、此の身に戒を持ちて、其の戒力に依りて無表色は発す。此の身と命とを捨て尽くして彼の戒体に遷るなり。一度人間天上に生ずれば、此の戒体を以て二生三生と生まるゝ事なし。只一生にて其の戒体は失ひぬるなり。譬へば土器を作りて一度使ひて後の用に合はざるが如し。倶舎論に云はく「別解脱の律儀は尽寿と或は昼夜なり」云云。又云はく「一業引一生」云云。此の文に尽寿一生等と云へるは、尽形寿と云ふ事なり。天台大師の御釈に「三蔵尽寿」と釈し給へり。然るに此の戒体をば不可見無対色と申して、凡夫の眼には見えず、但天眼を以て之を見る、定中には心眼を以て之を見ると云へり。然るに私に此の事を勘へたるに、既に優婆塞五戒経に「面有り鏡有れば則ち像現有り」と云ひて、鏡を我が心に譬へ、面を我が表業に譬へ、像をば無表色に譬ふ。既に我が身に五根有り、左右の十指を合すれば五影を生ず。知んぬべし、実に無表色も五根十指の如くなるべきを。又倶舎論に中有を釈するに「同と浄なる天眼とに見らる。業通ありて疾し。根を具す」云云。此の文分明なり。無表色に五根の形有らばこそ、中有の身には五根を具すとは釈すらめ。提謂経の文を見るに、人間の五根・五臓・  
平成新編御書 ―2n―