←前へ  次へ→    『善無畏三蔵抄』
(★437n)前
 法華経は勝れて第一におはすと意得て侍るなり。法華経に勝れておはする御経ありと申す人出来候はゞ、思し食すべし。此は相似の経文を見たがへて申すか。又、人の私に我と経文をつくりて事を仏説によせて侯か。智慧おろかなる者弁へずして、仏説と号するなんどと思し食すべし。慧能が壇経、善導が観念法門経、天竺・震旦・日本国に私に経を説きをける邪師其の数多し。其の外、私に経文を作り、経文に私の言を加へなんどせる人々是多し。然りと雖も、愚かなる者は是を真と思ふなり。譬へば天に日月にすぎたる星有りなんど申せば、眼無き者はさもやなんど思はんが如し。我が師は上古の賢哲、汝は末代の愚人なんど申す事をば、愚かなる者はさもやと思ふなり。
  此の不審は今に始りたるにあらず。陳隋の代に智・法師と申せし小僧一人侍りき。後には二代の天子の御師、天台智者大師と号し奉る。此の人始めいやしかりし時、但漢土五百余年の三蔵人師を破るのみならず、月氏一千年の論師をも破せしかば、南北の智人等雲の如く起こり、東西の賢哲等星の如く列なりて、雨の如く難を下し、風の如く此の義を破りしかども、終に論師人師の偏邪の義を破して、天台一宗の正義を立てにき。日域の桓武の御宇に最澄と申す小僧侍りき。後には伝教大師と号し奉る。欽明已来の二百余年の諸の人師の諸宗を破りしかば、始めは諸人いかりをなせしかども、後には一同に御弟子となりにき。此等の人々の難に我等が元祖は四依の論師、上古の賢哲なり、汝は像末の凡夫愚人なり、とこそ難じ侍りしか。正像末には依るベからず、実経の文に依るべきぞ。人には依るべからず、専ら道理に依るべきか。外道仏を難じて云はく、汝は成劫の末、住劫の始めの愚人なり。我等が本師は先代の智者、二天三仙是なり、なんど申せしかども、終に九十五種の外道とこそ捨てられしか。
  日蓮八宗を勘へたるに、法相宗・華厳宗・三論宗等は権経に依って或は実経に同じ、或は実経を下せり。是論師人師より誤りぬと見えぬ。倶舎・成実は子細ある上、律宗なんど小乗最下の宗なり。人師より権大乗、実大乗にもなれり。真言宗・大日経等は未だ華厳経等にも及ばず、何に況んや涅槃・法華経等に及ぶべしや。
 
平成新編御書 ―437n―