←前へ  次へ→    『善無畏三蔵抄』
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     善無畏三蔵抄   文永七年  四九歳
 
  法華経は一代聖教の肝心、八万法蔵の依りどころなり。大日経・華厳経・般若経・深密経等の諸の顕密の諸経は震旦・月氏・竜宮・天上・十方世界の国土の諸仏の説教恒沙塵数なり。大海を硯水とし、三千大千世界の草木を筆としても、書き尽くしがたき経々の中をも、或は此を見、或は計り推するに、法華経は最第一におはします。
  而るを印度等の宗、日域の間に仏意を窺はざる論師人師多くして、或は大日経は法華経に勝れたり。或人々は法華経は大日経に劣るのみならず、華厳経にも及ばず。或人々は法華経は涅槃経・般若経・深密経等には劣る。或人々は辺々あり、互ひに勝劣ある故に。或人の云はく、機に随って勝劣あり、時機に叶へば勝れ、叶はざれば劣る。或人の云はく、有門より得道すベき機あれば、空門をそしり有門をほむ。余も是を以て知るベしなんど申す。其の時の人々の中に此の法門を申しやぶる人なければ、おろかなる国王等深く是を信じさせ給ひ、田畠等を寄進して徒党あまたになりぬ。其の義久しく旧りぬれば、只正法なんめりと打ち思ひて、疑ふ事もなく過ぎ行く程に、末世に彼等が論師人師より智慧賢き人出来して、彼等が持つところの論師人師の立義、一々に或は所依の経々に相違するやう、或は一代聖教の始末浅深等を弁へざる故に専ら経文を以て責め申す時、各々宗々の元祖の邪義、扶け難き故に陳じ方を失ひ、或は疑って云はく、論師人師定めて経論に証文ありぬらん、我が智及ばざれば扶けがたし。或は疑って云はく、我が師は上古の賢哲なり、今我等は末代の愚人なり、なんど思ふ故に、有徳高人をかたらひえて怨のみなすなり。
  しかりといへども、予自他の偏党をなげすて、論師人師の料簡を閣いて、専ら経文によるに、
 
平成新編御書 ―436n―