←前へ  次へ→    『法門申さるべき様の事』
(★430n)
  又俗の難に云はく、慈覚大師の常行堂等の難。これをば答ふべし。内典の人外典をよむ、得道のためにはあらず、才学のためか。山寺の小児の倶舎の頌をよむ、得道のためか。伝教・慈覚は八宗を極め給へり。一切経をよみ給ふ。これみな法華経を詮と心へ給はん梯磴なるべし。
  又俗の難に云はく、何にさらば御房は念仏をば申し給はぬ。答へて云はく、伝教大師は二百五十戒をすて給ひぬ。時にあたりて、法華円頓の戒にまぎれしゆへなり。当世は諸宗の行多けれども、時にあたりて念仏をもてなして法華経を謗ずるゆえに、金石迷ひやすければ唱へ候はず。例せば仏十二年が間、常楽我浄の名をいみ給ひき。外典にも寒食のまつりに火をいみ、あかき物をいむ。不孝の国と申す国をば孝養の人はとをらず。此等の義なるべし。いくたびも選択をばいろはずして先づかうたつべし。
  又、御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかゝれて候事、かへすがへす不思議にをぼへ候。そのゆへは僧となりぬ。其の上、一閻浮提にありがたき法門なるべし。設ひ等覚の菩薩なりともなにとかをもふべき。まして梵天・帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあずかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門まぼり、又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其の上、日本秋津島は四州の輪王の所従にも及ばず、但島の長なるべし。長なんどにつかへん者どもに召されたり、上なんどかく上、面目なんど申すは、かたがたせんずるところ日蓮をいやしみてかけるか。総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば、始めはわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるう、せう房がごとし。わ御房もそれていになりて天のにくまれかほるな。
  のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物ぐるわし。定んでことばつき音なんども京なめりになりたるらん。ねずみがかわほりになりたるやうに、鳥にもあらず、ねずみにもあらず、田舎法師にもあらず、京法師にもにず、せう房がやうになりぬとおぼゆ。言をば但いなかことばにてあるべし。なかなかあしきやうにて有るなり。尊成とかけるは隠岐の法皇の御実名か、かたがた不思議なるべし。
  かつしられて候やうに当世の高僧真言天台等の人々の御いのりは叶ふまじきよし前々に申し候上、今年鎌倉の真言師等は去年より変成男子の法行をこなわる。隆弁なんどは自歎する事かぎりなし。七八百余人の真言師、
 
平成新編御書 ―430n―