←前へ  次へ→    『南条兵衛七郎殿御書』
(★326n)
  念仏実に往生すべき証文つよくば、此の十二年が間、念仏者無間地獄と申すをば、いかなるところへ申しいだしてもつめずして候べきか。よくよくゆはき事なり。法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき。このごろの人の申すことこれにすぎず。結句は法門はかなわずして、よせてたゝかいにし候なり。念仏者は数千万、かたうど多く候なり。日蓮は唯一人、かたうど一人これなし。いまゝでもいきて候はふかしぎなり。今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。第四の巻に云はく「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」と。第五の巻に云はく「一切世間怨多くして信じ難し」等云云。日本国に法華経よみ学する人これ多し。人のめをねらひ、ぬすみ等にて打ちはらるゝ人は多けれども、法華経の故にあやまたるゝ人は一人もなし。されば日本国の持経者はいまだ此の経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよ読みはべれ。「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。
  もしさきにたゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ。よもはうなき事は候はじ。但一度は念仏、一度は法華経となへつ、二心ましまし、人の聞にはゞかりなんどだにも候はゞ、よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ。後にうらみさせ給ふな。但し又法華経は今生のいのりとも成り候なれば、もしやとしていきさせ給ひ候はゞ、あはれとくとく見参して、みづから申しひらかばや。語はふみにつくさず、ふみは心をつくしがたく候へばとゞめ候ひぬ。
 
平成新編御書 ―326n―