←前へ 次へ→ 『主師親御書』
(★48n)
実なるかな、釈迦仏は中天竺の浄飯大王の太子として、十九の御年家を出で給ひて檀特山と申す山に篭らせ給ひ、高峰に登りては妻木をとり、深谷に下りては水を結び、難行苦行して御年三十と申せしに仏にならせ給ひて一代聖教を説き給ひしに、上べには華厳・阿含・方等・般若等の種々の経々を説かせ給へども、内心には法華経を説かばやとおぼしめされしかども、衆生の機根まちまちにして一種ならざる間、仏の御心をば説き給はで、人の心に随ひ万の経を説き給へり。此くの如く四十二年が程は心苦しく思し食ししかども、今法華経に至りて「我が願既に満足しぬ、我が如くに衆生を仏になさん」と説き給へり。久遠より已来、或は鹿となり、或は熊となり、或る時は鬼神の為に食はれ給へり。此くの如き功徳をば法華経を信じたらん衆生は是真仏子とて、是実の我が子なり、此の功徳を此の人に与へんと説き給へり。是程に思し食したる親の釈迦仏をば、ないがしろに思ひなして「唯以一大事」と説き給へる法華経を信ぜざらん人は争でか仏になるべきや。能く能く心を留めて案ずべし。
二の巻に云はく「若人不信毀謗此経、則断一切世間仏種、乃至不受余経一偈」と。文の心は、仏にならん為には唯法華経を受持せん事を願ひて、余経の一偈一句をも受けざれと。三の巻に云はく「如従飢国来忽遇大王膳」と。文の心は、飢ゑたる国より来たりて忽ちに大王の膳にあへり。心は犬野干の心を致すとも、迦葉・目連等の小乗の心をば起こさゞれ。破れたる石は合ふとも、枯れ木に花はさくとも、二乗は仏になるべからずと仰せられしかば、須菩提は茫然として手の一鉢をなげ、迦葉は涕泣の声大千界を響かすと申して歎き悲しみしが、今法華経に至りて迦葉尊者は光明如来の記別を授かりしかば、目連・須菩提・魔訶迦旃延等は是を見て、我等も定めて仏になるべし、飢ゑたる国より来りて忽ちに大王の膳にあへるが如しと喜びし文なり。我等衆生無始曠劫より已来、妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども、無明の酒にたぼらかされて、衣の裏にかけたりとしらずして、少なきを得て足りぬと思ひぬ。南無妙法蓮華経とだに唱へ奉りたらましかば、速やかに仏に成るべかりし
平成新編御書 ―48n―