一 「ぎりぎりせーふ!」  夕暮れ迫るホームに、警告音が高らかと響く。発車寸前の電車に、三人は滑り込んだ。  間一髪。景色が流れ出す。閉まった扉を背にして、それぞれ肩で息をする。 「危なかったねー」と、第一声を発したのは、野村未来だ。長袖のブラウスの裾を巻くって、ピンク色のタオルハンカチで額を拭う。 「本当だよ、だいだい真一が余裕で間に合うとか言うから……」ぱたぱた顔をあおぎながら、小方拓也は、隣に立つ浅井真一に向かって、愚痴を零した。 「あはは、いやぁ、俺の中では余裕だったんだけどなぁ!」  真一は、相変わらず呑気というか楽天家だった。大きな口で笑う真一を見て、拓也と未来も顔を見合わせて笑った。 「でも、今日のミーティング長かったね」  未来が前髪を整えながら、切り出した。 「ああ、八月の県大会のセンバツを、これから決めていくんだってな。選考基準は、記録(タイム)だけ……」  拓也が真面目な調子で呟くと、 「ははは、どうせ俺らには関係ないって。まだ一年なんだし。気楽にやろうぜ。なぁ拓也?」  真一の明るい調子に乗せられて、思わず拓也も二つ返事で答えた。 「ああ、そうだよな」  しかし、目線は真一にではなく、静かに流れる外の景色に向いていた。 「あ!」その時、未来が素っ頓狂な声を上げた。  拓也と真一は顔を見合わせた。すると、未来は二人に耳打ちするように言った。 「ねぇねぇ、あれ生物の水澤じゃない?」  ちょうど向かいの扉の前に立ち、流れる景色に目を遣っている一人の綺麗な女性。  亜麻色の長い髪に、端整な顔立ち、白い清楚なブラウスに、タイトスカタートを履いた、芙蓉のようなしとやかな佇まいが、独特の色香を醸し出している。そして、その繊細な佇まいには不釣合いな、巨大な銀色のクーラーバッグを肩から提げていた。 「あ、本当だ」二人もすぐに気がついた。  天井から流れる低い声のアナウンスが駅名を告げると、電車のスピードが緩やかになった。すると、水澤あかりは視線を三人の方へ向けた。 「あら」  電車が停止し、扉が開く瞬間。あかりはツカツカとヒールを鳴らし、三人の間をすり抜けた。三人は慌てて頭を下げた。 「一年E組の子たちね? ふふ、仲がいいのね」  彼女は、風に吹かれればすぐに消えてしまいそうなほのかな笑みを浮かべ、プラットホームへと消えていった。 「水澤も電車通勤なんだな」両手を頭の後ろに回して、真一がポツリと言った。 「あの先生さぁ、ちょっと暗いけど、美人よね」  未来はそんな感想を漏らした。そんな中、拓也は一人、消えた彼女のシルエットを思い浮かべていた。どこか影がある人。その時は、それくらいの感想しか抱かなかった。  気だるい六月の空気が、まとわりつくように拓也の首を絞めていた。教室を包んでいた生徒たちの喧騒が徐々に遠のいていくのを、拓也は頭の片隅で感じていた。  高校一年生の夏が訪れようとしている。 「おい、拓也、ボーッとしてないで部活行こうぜ」と真一に言われるまで、拓也は、教室の外の景色を眺めたまま一言も喋らずに座っていた。 「あ、真一ごめん、今日日直だから、職員室に行かないと」  拓也は、徐に席から立ち上がった。長袖カッターシャツ姿の真一から、もうすでに少し汗ばんでいるような匂いがするのを感じて、やはり夏が来るのだと悟った。  真一に先に部活に行くよう伝えて、拓也は、教卓の上に集められた全員分のノートの束を両手で持ち抱え、南校舎二階の職員室へと向かった。  私立F高校は北校舎と南校舎に分かれていて、拓也達1年E組の教室と、職員室は南棟にある。南校舎二階の職員室の扉を開けると、その向こうにはむせるようなコーヒーと煙草の臭い、それから教師たちの気配があった。 「失礼します」と言って中に入り、目当てのデスクまで来て、ようやくここへ自分を来させた当の人物がいないことに気がついた。 「小方、どうした?」 たまたま横を通りかかった拓也の担任の山崎が話しかけてきた。 「水澤先生に用があるんですけど……」 「水澤先生なら理科室だぞ」  拓也は少し溜め息をついた。このまま黙ってこのノートの山を水澤の空のデスクに置いて立ち去ってもよかったのだが、なんとなく気が引ける。 「ありがとうございます」  拓也は山崎にちょこんと会釈をして、ノートを抱えたままむさ苦しい空気の職員室を出た。  理科室は職員室とは真反対の、北校舎の一階にある。渡り廊下を歩きながら、以前真一が、水澤あかりは変わった教師で、普段は職員室ではなく理科室の奥に篭っているらしいという噂話をしていたのを頭の片隅で思い出していた。  がらんとした長い廊下を抜けて、一階の一番奥まった隅にある理科室に辿り着いた。この学校には、理科室を利用する部活動は存在しないので、放課後になれば、理科室は死んだように静まり返る。理科室の引き戸を開けると、ツンとした薬品の臭いが鼻をついた。無造作に置かれたパイプ椅子もスライド式の黒板も数々の実験機材も、どこかよそよそしいような佇まいだ。拓也はそれらの間をくぐり、一番右奥にあるもう一つの扉の前に立った。扉の上には古めかしい書体で『理科予備室』と書かれている。覗いたことはないが、彼女がいるとすればここだろう。  拓也は自分が緊張しているのに気がついた。見慣れないその灰色の扉の向こうには、見たこともない異世界と繋がっているんじゃないか、そんな荒唐無稽な考えが、一瞬頭を過ぎる。 「失礼します」  勇気を出して拓也は扉を開けた。扉はすんなり開いた。そこにあったのは、さっきの自分の考えが、あながち間違いではなかったと思わせるような光景だった。  室内は、遮光カーテンのせいで暗く、ほとんど夜のようだった。微かに薬品の匂いが漂っており、また、左側の壁に沿うようにして、ずらりとガラス扉のついた金属製の棚が並んでいる。ガラス扉の中には無数に置かれたシャーレや、ケージや、植物の標本らしきものが陳列してある。天井に近い所にある換気扇からはわずかに外の光が漏れていて、光に照らされた埃が天使の羽根のようにちらちらと舞っていた。この部屋の主であるあかりは、一人デスクの上で顕微鏡を覗き込んでいた。まるで、山奥の、誰にも知られることなく佇む研究所に足を踏み入れてしまったかのように思えた。  あかりは、拓也が扉を開けたのに、顕微鏡を覗くのを止めず、身体をデスクに向けたままだった。 「何かしら?」 「あの、先生……」  拓也がおずおずと言うと、彼女はやっと顕微鏡を覗くのをやめ、眼鏡をかけ直すと、拓也の方に身体を向けた、そして、彼が抱えているノートの束に気がついた。 「あら、小方くんじゃない。もしかして、わざわざ持ってきてくれたの?」 「はい」  拓也は呆気にとられていた。薄暗くても彼女の姿ははっきりとわかった。顕微鏡やら植物の鉢やらノートパソコンやらレポート用紙やらが雑多に置かれたデスクの前で、足を組み、ゆったりとした居住まいで、眼鏡越しに拓也を見ている。彼女の、ゆるくウェーブした少し薄い亜麻色の髪、その下の白い首筋、そして女性らしい、華奢でありながらも柔らかな輪郭をした身体を包む白衣が印象的だった。水澤の姿は、まるでこの暗がりに潜む深窓の令嬢か、もしくは妖精のようですらあった。 「やだ、職員室の机に置いておいてくれればよかったのよ? 律儀ねぇ」  そんな風に言いながら、彼女は手元のコーヒーカップを口もとへやった。  拓也は一瞬彼女の唇に目を遣ったが、すぐに逸らした。何故だか心臓が高鳴っていた。 「……いえ。これどうすればいいですか?」 「そこに置いておいてちょうだい」  彼女は座ったまま、拓也の右手に置かれた窓際の古いベッドを指差した。革張りが所々痛んでいる。どうやら年代ものらしい。そこに、自分の中に生まれた動揺を打ち消すように、提出物の山を置いた。 「ありがとね」  拓也は彼女を見た。あかりは、その色素の薄い大きな瞳を細めて少しだけ笑った。あかりは授業中でも笑うことがあまりない。だから、なんだかとても珍しいものを見た気がした。 「あの、先生」  拓也は、ベッドの前で立ち止まったまま言った。彼女はほんのちょっと首を傾けた。 「なあに?」 「なんで先生はこの部屋にいるんですか?」  拓也は思ったことをそのまま口にした。すると彼女はまた小さく笑った。 「職員室って騒がしいじゃない? 私、静かなところが好きなのよ」  彼女は薄っすらと笑みを浮かべた。 「……ここで何をされているんですか?」  たぶん失礼なことを聞いていることはわかっていた。だが、この水澤あかりという女性を目の前にしていると、不思議と、惹きつけられるように、自分の中から勝手に言葉が放たれてしまうのだった。  「知りたいの?」  するとあかりはちょっと意地悪っぽく言った。 「あ、いえ、すいません。じゃあ僕はこれで……」  と、急に恥ずかしくなって、慌てて踵を返したところで、 「興味があるなら、明日も放課後来なさい? 先生がここで何をしているのか教えてあげるわ」   あかりは拓也の背中にそんな台詞を投げかけた。  拓也は背中にたくさん冷や汗をかきながら、「失礼しました」と言うと、拓也はその謎めいた理科予備室を出た。  その日、陸上部の練習が終わっても、拓也の心は、何かに縛られていた。  すっぱい匂いの立ちこめる狭いロッカールームで、自分の汗を拭いているジャージ姿の拓也に、真一が話しかけてきた。 「お前、今日どうしたんだよ。練習中もぼけっとしてんじゃん」  散漫とした拓也の様子に、何かおかしいと思ったらしい。だが、おかしいと思っているのは拓也自身とて同じだった。 「さぁ」  拓也は投げやりな調子で言うと、呆気にとられたような顔でいる真一をよそ目に、さっさと制服に着替えていた。 「まったく、お前って奴は。のうのうと遅れて来たかと思ったらこれだよ。先輩たちにどやされても知らねーぞ!」  真一は呆れた調子で拓也に忠告した。だが、それも今の彼にはなしのつぶてだった。  二人は着替え終わると、運動場の片隅の狭い棺おけのような部室から出た。外の空気が火照った頬を冷やす。空は桃色から紺色に変わり、すでに夜の訪れを感じる。ふと、のろのろと歩き出した二人の元へ聞きなれた声が届いた。 「ねぇー、二人とも、先輩たちが今からファミレス行かないかって」  未来がこちらにやってきた。拓也と真一と未来は、同じ中学出身で、さらに同じクラス、同じ陸上部でもあったので、三人は一緒に行動することが多かった。 「マジで? そうだな、せっかくだから行こうかな。なぁ拓也?」  短い黒髪に、ちょっと短い紺色のスカートを棚引かせている未来。彼女に話しかけられた真一はちょっと浮かれたような調子で言った。だが、拓也は彼女の誘いにも特別な反応を示さなかった。 「ごめん、今日は帰る。先輩によろしく言っといて」  そんな彼を、真一は慌てて引き止めた。 「おい、なんだよ、どうしたんだよ」 「どうもしないよ。今日は用事があるんだ」  と、拓也は、バッグを背負い、二人に背を向けた。 「ねぇ、拓也何かあったの?」 「さぁ。あいつ今日ずっとあんな調子なんだよ」  二人は顔を見合わせて、一人運動場を横切って行く拓也の後姿を見送った。    家に着くとすぐに、拓也は自室に篭った。電気もつけず、ベッドに寝そべる。シンと静まりかえった夜の部屋。アクリルガッシュを塗りたくったような夜の闇がそこかしこに沈殿している。深い場所から這いでくるような、得体の知れない感情のせいで、胸が詰まった。こんなことなら、いっそのこと真一たちに着いていった方が、まだ気がまぎれて良かったかもしれない。 (興味があるなら、明日も放課後来なさい?)  彼女の、空に浮かぶような優しい言葉が蘇る。  拓也は、勢いをつけて起き上がると、鞄の中を探った。雑多なプリント類の中に、4月の学年便りがあった。そこには、1学年を担当する教諭の名前と写真が掲載されている。拓也はゆっくりと、指でなぞるようにその名前を探した。 「水澤、あかり」  つんとした表情で写っている写真と一緒に、確かに彼女の名前がある。  拓也は、得体の知れない感情が下腹部の辺りからむくむくと湧いてくるのを感じた。 「あかり……」  拓也の呟きが、小さい部屋の壁に反響して消えた。  二  翌日、トーストを齧りながら、テレビのニュースを見る。なんてことのない普通の一日の始まり。昨日までと変わるところなんて……。カッターシャツを羽織り、レジメンタル模様のネクタイをしめる。行ってきます、と母に言い残して、拓也は玄関を飛び出した。庭の紫陽花が満開になっていた。紫陽花の薄紫は、憂い色の空の下でよく映える。  学校についても、普段と変ったことはなかった。真一や未来とくだらない話をしながら、眠い授業に耳を傾ける。高校生活にも慣れたものだった。だが、一つだけ、拓也の頭の隅にーこびりついているものがあった。  水澤あかり。彼女のことであった。  六時間目の授業が終わり、クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように教室から立ち去って行った。その流れに合わせて、拓也も教室を出た。  目的はただ一つ、理科予備室に足を運ぶことだ。もう一度理科予備室に行けば、自分の中に生まれた了解不明のこの気持ちの正体もわかるだろう。拓也はそう考えていた。  南校舎二階の廊下は、たくさんの生徒たちでごった返していた。ふと誰かが後ろから声をかけきた。 「ねぇ、拓也! 何でそそくさと行っちゃうのさ? 部活でしょ?」  後ろを振り返ると、教室から追いかけてきた未来がちょっとだけ眉を膨らませて立っていた。ショートボブの黒髪の下には、弾けそうな瞳がある。夏服を身に纏ったその四肢からは、健康的に日焼けした瑞々しい肌が覗いている。 「……今日って確か自主練習だったよね? 先に行っててくんない?」 「いいけどさ、でも昨日も遅れて来たじゃん」 「いや、ちょっと用事があるんだ。すぐ行くからさ」  拓也は苦笑いしながら言った。 「しょうがないなー」  憮然と立ちすくんでいる少女を残して、拓也は急いで北校舎に向かった。後ろめたい。けれど、この気持ちのむずがゆさを治めるためには、真相を確かめるしかない。授業の終わった生徒たちでざわつく廊下を拓也は一人歩いていった。  理科室の扉に手をかけると、やはり鍵は閉められていなかった。中に入ると酢酸の臭いが漂ってきた。理科室の、灰色を基調とした無機質な風景は、この学校の他のどの場所とも似ていない。いつでもシンと静まり返って、誰からも忘れ去られたような雰囲気があった。拓也は、教室の一番前のやたら大きな教卓を横切り、一番奥まったところにある理科予備室の扉の前に立った。  静かな緊張が拓也の全身を支配していた。  先生がもしいなかったら……いや、いなければいい。そしたら、昨日と今日のことは全部僕の勘違いで済むんだ。そんなことを考えながら、拓也は扉をノックした。  しかし、そんな拓也の後ろ向きな期待とは裏腹に、中から「はい」と声がした。  拓也は息をのんで理科予備室の扉を開けた。  相変わらずカーテンが締め切られており、中は薄暗かった。部屋の主であるあかりの白衣姿が、この暗闇に浮かび上がるようであった。彼女は、昨日と同じような姿勢でデスクの上の顕微鏡を覗いていた。 「あら、本当に来てくれたんだ?」  あかりは少しだけ相好を崩して言った。 「あの……」  拓也は入り口に突っ立ったままだった。どうしてここにまた来たのか。単なる好奇心か、それとも、自分の中に生まれた得体の知れない新しい感情のせいか、判然としない。 「どうしたの? ほら、遠慮してないで、こっちに来なさい」  あかりは、悪戯に手招きして見せた。拓也は、そんな仕草にドキドキしていた。  彼女は立ち上がると、左手にずらっと並んだ金属製の棚の前に立った。 「先生がここで何してるか知りたいんでしょ?」 「は、はい。まぁ……」 「じゃあ、これ、見てごらんなさい?」  あかりはガラス戸を開くと、中から一つのシャーレを取り出した。  拓也は、恐る恐るあかりに近づき、その手に乗せられたシャーレを覗き込んだ。 「これって……」  シャーレの中には、黄色い液体のような物質が入れられていた。それは透明なシャーレのあちこちに血管のような筋を伸ばし、ぬめぬめとした色の光沢を放ていった。その妙な存在感に、拓也の目は釘付けになった。 「これ変形菌って言うの。一般的には粘菌とも言われてるわね。動物と植物両方の性質を持っていて、とてもおもしろい生き物なのよ」  あかりは微笑みながら言った。彼女の好きなものを話すときの興奮したような吐息が伝わってくる。拓也の胸は無性に高鳴った。 「生きてるんですか、これ」  平静を装うように拓也は言った。 「ええ、もちろん」  拓也はシャーレから目を離すと、彼女の顔を見た。薄暗闇でもはっきりとわかるその眼鏡越しの瞳。優しくて、何もかもお見通しのようなその瞳……。 「先生はこれをここで……?」 「もちろん許可はとってるわ。変形菌の観察をするには、ここが一番なのよ」  そういって、彼女は理科予備室を見渡した。  彼女は、シャーレをガラス扉の棚の中に戻した。中には、ずらっとシャーレや水槽が並んでいて、彼女が変形菌と呼んだ生き物が飼育されているらしい。 「……変形菌なんて、高校の生物の授業には出てこないし、テストにだって全く関係ないんだけどね。まぁほとんど先生の趣味ね。実を言うと私の祖父はこの高校の校長だったんだけど、祖父も仕事の傍らここで変形菌の研究をしていたの。この予備室は、祖父の代から、変形菌研究に私物化されていたってわけ。それで、祖父が死んだ後、たまたま私もこの高校に赴任することになったのよ。私も好んで生物の教師になるくらいだから、変形菌には興味あったのよね。だから、この理科予備室ごと、祖父の研究を継がせてもらったの」  そう言い終えると、あかりは、口元にちょっと手をやって言った。 「あ、ごめんなさい。私ったらつい……」 「いえ……それより、先生がそんなすごいことをしているなんて知りませんでした。良かったら、またここへ遊びに来てもいいですか?」  我ながら、大胆なことを言っていると拓也は思った。だが、変形菌のことも、そしてあかり自身のことも、もっと知りたいと思ったのは間違いではなかった。  あかりは、少し虚を突かれたようだったが、すぐに、ほころぶような笑顔を見せた。 「嬉しいわ。生徒にそう言ってもらえるのは」  彼女のこんな笑みは今まで見たことがない。授業中は感情をほとんど表に出さず、冷静に、淡々と、講義を行う。その仮面を取り去れば、あかりは、こんなにも豊かに笑う。その露な感情に、拓也は心を惹かれずにいれなかった。 「そういえば、小方くんって陸上部だったわね。時間は大丈夫かしら?」 「あ……」  腕時計に目をやると、十六時半を過ぎていた。今日は自主練習と聞いていたが、さすがにそろそろ行かないとまずい。 「気にしないで行ってらっしゃい。……そうだ。もしよかったら、明日午前中だけど、時間ある?」 「明日ですか?」  次の日は土曜日だった。 「うん。興味があるなら、変形菌が生きているところちゃんと見せてあげようと思ってね。もちろん、小方くんがよければ、だけど」  あかりの提案に拓也は即答した。 「大丈夫です。じゃあ明日来ます」  思ってもみないあかりの提案は、拓也の心を動かすのに十分だった。 「ふふ、よかった。じゃあ、またね」  そっとはにかむあかりに、拓也は丁寧にお辞儀をし、理科予備室を後にした。本当はもっとあかりと話をしていたかったが、部活の時間もあるし、何よりこれ以上あかりと話していると、心臓が膨らんでパンクしてしまいそうだった。  熱を帯びた頭を冷ますように、放課後の静けさが漂う北校舎を、拓也は走り抜けて行った。 「おーい、拓也ぁ、そろそろ帰ろうぜ!」  すでに、校舎をオレンジ色に染めていた太陽が、その身を住宅街の向こうへ沈ませようとしていた。拓也は無心で乾いたトラックの上を走り続けていた。一周四百メートルのトラックに、自身の中にわだかまるエネルギーをすべてぶつけるようにして。だが、真一に呼び止められ、ようやく拓也は走るのをやめた。噴出した汗が、重力に引かれるように滴り落ちる。肩で息をする。疲労を感じるが、身体の芯ではまだまだ走り足りないような気がしていた。  拓也は静かに汗を拭うと、ジャージから制服に着替え、真一と一緒に帰路についた。校門を出て、坂を下ったところにある最寄の旭丘駅(あさひがおかえき)から電車に乗る。真一は拓也の倍はしゃべる男だった。好みのグラビアアイドルの話、音楽の話、新作ゲームの話、近々開催される体育大会に、期末テストの話……。  十五分ほどして、電車が拓也の下車駅である桜台駅(さくらだいえき)に近づく。 「次は、桜台、桜台。お降りの方は……」  アナウンスが車内に響く。  その時ふいに、拓也は切り出した。 「真一、誰かを好きになったことあるか?」 「へぇ? ちょ、いきなりなんだよ」  虚を突かれて、真一は素っ頓狂な声を上げた。それと同時に、電車は桜台駅についた。 「悪ぃ。なんでもないんだ。じゃあまた」  ぽかんと呆気にとられている真一を車内に残して、拓也はホームに降り立った。  一緒に電車から降りた人々は、あっという間に消えてしまう。長いホームに六月の生ぬるい風が吹きつけ、拓也の頬を撫でる。 (好きな人、かぁ)  知らないうちに、自分の両手が汗ばんでいた。  土曜日。 「あら、早かったわね」  部屋の主は、昨日の約束どおりやって来た拓也を見るなりそう言った。いつもと同じ白衣から覗く四肢は、雪のように白い。この少しフェミニンでシンプルな服装と、淡々とした立ち居振る舞いとが、彼女本来の美しさ、麗しさをより一層際立たせているのかもしれない。 「すいません、あの」  何故かわからないが謝ってしまった。 「あはは、呼んだのは私だよ? 本当に、来てくれてありがとう」  彼女は、バニラアイスクリームが溶けるような柔和な笑顔を見せた。拓也は顔を思わず赤らめる。  部屋は遮光カーテンによって陽光を遮られ、相変わらず夜のような暗中にあった。あかりによれば、それは変形菌を変質させないために暗くしているとのことだった。変形菌は、光に当たると、それまでのアメーバ状の変形体から、子実体と呼ばれるきのこのような姿に変異する。子実体になった変形菌は胞子を放出し、次の世代へ移行してしまう。変形菌の様子を観察するためには、アメーバ状の姿で活動する変形体の時期が一番ちょうどいい。湿度や光など、環境さえ整えてやれば、変形体の姿を保ったまま観察を続けることができる。あかりは、そんなことを拓也に話して聞かせた。  変形菌の密やかなる生態を説明し終わったあかりは、今度はガラス扉の棚を開け放ち、彼女が飼育している数十種類の変形菌のサンプルを拓也に見せた。網目上のものや、卵のようなものや、宝石のようなもの。それらの、変異で多種多様な姿形、千紫万紅の花々にも劣らない色彩に、拓也は目を惹かれた。まさしく、生命の不思議が目の前に広がっている。  確かに、この生物に、あかりがただならぬ関心を持ちながら、密かに生育を行っているのも、理解できた。 「そうそう、せっかくだからこれも見てちょうだい?」  あかりは少し興奮している拓也を、彼女のいつも座っているデスクへと手招きした。  デスクの上には小さな迷路のようなものが置かれていた。その迷路の中を覗いてみると、昨日見た黄色い変形菌が道(ルート)を作っていた。変形菌は、スタートからゴールまで、最短距離の道になるように凝集している。 「これは……」 「ふふ、面白いでしょ? これは私が作った迷路なんだけど、この子は、簡単に最短ルートを導き出したのよ。この変形菌はモジホコリっていう種類なんだけどね。これを見てみて?」  そう呟くと、今度はデスクに置かれたノートパソコンを開き、動画を見せてくれた。そこには、あかりが作った迷路が撮影されていた。予め迷路の四隅に黄色いモジホコリが置かれている。倍速で進む画面。すると、モジホコリたちは次第に無数の腕をあちらこちらに伸ばし始め、集合離散し、最後には正解のルートに集まった。モジホコリが迷路を解いたトリックは、迷路のスタートとゴールに彼らの好物の餌が仕掛けてあって、それを捕食する過程で、ある部分は衰退し、ある部分は成長し、最終的に効率よく餌を捕食し輸送するルートが、すなわち迷路の解答になるというわけだった。拓也は、深く感心した。一見気味が悪く、無生物にさえ見える変形菌が、まるで意思を持っているみたいに動くなんて。 「すごいですね」 「ええ。変形菌の変形体は、今見てもらったように、餌を探したり、水分を補給するために、自分たちに適した環境に移動するのよ。この迷路でも、変形菌たちはもっとも効率よく餌を運べる道を、吟味し導き出している。まるで、そこに意志が存在しているみたいにね。でも実際には、変形菌は一つの大きな細胞に過ぎないのよ」 「まるで……本能みたいな」  拓也は思わず呟いた。 「そうね。どんな生き物にも本能はある。この変形菌にも……」  そう言った時のあかりの横顔。美しく、どこか神秘的で、神に思いを馳せるような、そんな儚い横顔が、脳裏に焼きついて離れなかった。    三 「……原形質流動とは、生きている細胞の内部で、原形質が流れるように動く現象です。 主に植物細胞で見られるような、細胞内部での運動を指しますが、アメーバ運動のような細胞全体の運動もこれに含みます…… 」  外では土砂降りの雨の音がうるさく響いていた。その反対に、驚くほどの静寂に包まれている教室では、あかりの淡々とした声だけがする。あかりの、流れるような言葉、その旋律、調子が、拓也の心の襞を撫でた。六時間目の授業で、クラスメイトは皆眠気を堪えるのに必死だったり、放課後の計画について思いを馳せたりしていた。拓也は、この時間が永遠に止まってしまって、このまま、ずっとあかりの声を聞いていられればいいのに、と、机に片肘をついて溜め息をついた。  しかし、そんな甘美な授業もあっという間に終わってしまった。 帰り支度をしている拓也の机に、真一と未来がやってきた。 「拓也ぁ、今日部活ないから一緒に帰ろうよ」  火曜日は、元々部活が無い日だった。未来は、授業が終わった開放感からか、目を爛々と輝かせていた。 「帰りゲーセン寄ってこうぜ」  未来の隣の真一が、ニヤニヤしながら言った。二人とも、無邪気で爛漫な様子だった。それはいかにも高校一年生らしい姿だった。 「悪い、俺ちょっと理科室に行かなくちゃいけないんだ」  咄嗟に嘘をついてしまった。 「へ? 理科室って、なんで?」  それを聞いた未来がやたら甲高い声を上げた。 「いや、その、先生に呼ばれて……」 「理科の先生? ……水澤?」  真一が勘繰るように拓也に問いかけた。 「あ、ああ。そうなんだ。すぐ終わるから、二人とも昇降口で待っててよ」 「ふーん。わかった。じゃあ待ってるね」  未来は、それ以上勘繰ることなく拓也に手を振った。  拓也はスクールバッグを右肩に背負って、そそくさと教室を後にした。こめかみを汗が伝い落ちた。心臓がどくんどくんと脈打つのを感じる。拓也は、あかりに会いたい気持ちを抑えきれない自分に気づいていた。  理科室に着くとそこは相変わらずがらんどうだった。今日はほんのちょっと挨拶して、それで帰ればいい。この前はありがとうございましたって、それだけでいいんだ。拓也はそんな風に自分に言い聞かせながら、理科室の奥の理科予備室の前に立った。  すると、いつもはきちんと閉まっている予備室の扉が、ほんの少し開いていた。拓也は予感めいたものを感じていた。音を立てないように、静かに予備室の扉に手をかける。キィとほんのわずかな金属音。つづいて予備室の扉が少し開いた。室内は、ほとんど夜みたいに、闇の中に沈んでいた。  あかりは、デスクの前に立っていた。ジッと俯いて、自分の右手を眺めている。左手には、果物を切るような小さなナイフを持って。  拓也の鼓動は激しくなった。あかりは、ほんのわずかな躊躇すら見せず、左手に持ったナイフで、自分の右指を切りさいた。彼女の白い指からは、鮮血が滴り落ちた。そのぞっとするほど美しい血液は、デスクの上に置かれたシャーレへ注がれた。彼女の表情は、ここから見ているだけではわからない。だが、彼女が動揺していないことは明らかだった。彼女は、ただ静かに、呼吸することさえ忘れてしまったかのように、デスクの上のシャーレに、自分の血を流し続けていた。  拓也は、予備室の扉から一歩、二歩、後ずさりした。見てはいけないものを見てしまったという後悔と同時に、何か名状しがたい気持ちが自身の中で芽生えていくのを、拓也は感じていた。  先生は何をしていたんだろう? 自分は先生のことを何も知らない。まだ何も知っちゃいないんだ。先生、あなたのことを……。    理科室を飛び出した拓也は、何も考えないようにして廊下を通り抜け、昇降口まで急いだ。慌しく生徒たちが行きかう広い昇降口に、真一と未来の姿があった。 「拓也―、こっちこっち」  未来が手を振って合図をした。その隣の真一も意味もなく笑っていた。 「すごい雨になっちゃったね」 「ああ、うん」  拓也は動揺をなるべく隠そうと努めた。  三人は傘を差して運動場へと繰り出した。  濃鼠色の空から無限に降り続く雨粒が、足元を濡らし、泥が跳ねる。 「そういえば、柔道部の磯部さ、ウチのクラスの吉田と付き合ってるらしいぜ」 「えー!? 順子が? うそだぁ!」  真一と未来は、雨に濡れてもまるで構わないような素振りで笑いながら歩いていく。  楽しげに会話をしている二人と、黙り込んだまま歩いている拓也には、今までにはなかった距離が生じていた。  傘を差した三人がちょうど校門を抜けようとするところで、下校する生徒の見守りをしている担任の山崎が声をかけてきた。 「おい、お前ら、気をつけて帰れよ」体躯が大きい山崎の、野太い声が雨の中で響く。 「はーい。先生ばいばーい」  未来が三人を代表して、適当に挨拶して校門を通り抜けた。  下校時の教師による見守りは交代で行われている。今、もしあかりが校門に立っていて、自分たちに向かっていつもの調子で「気をつけて帰ってね」なんて言ってくれたら、この居所のない不安な気持ちが解消したかもしれないのに。 「ねぇ、拓也ったら聞いてるの?」  拓也がそんなことを考えていると、未来が顔を覗き込んでいた。彼女の大きな瞳が、二、三回瞬きした。 「あ、ごめん」 「もー、拓也ったら! 今度の土曜日さ、あたしん家でテスト勉強しない? 今日出された宿題も三人で片付けちゃおうよ」 「いいねー。そういや中三の受験のときも、拓也と一緒に野村の家に行ってたよなぁ」  と、真一も相槌を打つ。 「まさか三人一緒の高校になるなんて思ってなかったよね」 「ああ。高校生になって色々不安だったけど、拓也と野村と一緒で、安心したぜ」 「私も! ね、拓也?」 「うん……そうだね」  拓也は静かに頷いた。拓也は、元来騒がしいのを好まない性質で、友達も多くはないが、彼らには安心感を持っていた。もし、この自分の中にどろどろと渦巻いている感情をさらけ出してしまったら、彼らは受け入れてくれるだろうか。そういう日が来るだろうか……。    200……300……350……400!!  乾いたトラックを一気に走りぬけた拓也の身体から風が離れていく。走るのを止めた途端、全身から汗が吹き出る。その場で俯いて、肩で呼吸をする。 「拓也!すごいじゃん!!五十秒切ったよ」  そう未来に声をかけられるまで、拓也は俯いたまま、無心で呼吸を続けていた。夢中で走っている時には止まっていた時間が、突然動き出したように感じる。 「八月の県大会、いい記録が出せそうね」  拓也は大きく息を吸って、嬉しそうに爛々と瞳を輝かせる未来に言葉を返した。 「まだだよ。目標は四十五秒なんだ」  そう呟いて、未来からタオルを受け取った。汗を拭き、自分が走っていたトラックを見返す。 「そんなこといっちゃって。先輩たちが話してるの聞いたよ。県大会のセンバツ、一年では拓也が有力だって」  未来ははしゃぎながら、ノートに彼のタイムを記録して、言った。 「買い被ってるんだよ、みんな」  拓也は苦笑いを浮かべた。  拓也にとって、走っている時こそ、唯一自分が無心になれるときだった。走っていれば、何もかもから開放される。走ることで、越えられる壁がある。時間の壁を越えることは、普通なら決して近づくことのできない神の世界に一歩近づくことになる。それは走り続ける者にだけ許された特権だ。  拓也はタオルを首にかけたまま、顔を上げた。すると、運動場の端っこにある、夕日色に染まる南校舎の、ちょうど陰になった外の渡り廊下を誰かが歩いていくのが見えた。  拓也はドキッとした。外の渡り廊下を歩いていくのは他でもないあかりだったのだ。テーラードジャケットを着て、右肩に白いバッグを提げている。これから帰宅しようとしているところなのだろう。  拓也は未来に「ちょっとゴメン」と言って、あかりの方へ駆けていった。  未来は「あっ」と声をあげたが、拓也は振り返らなかった。 「水澤先生」  拓也がそう声をかけたところで、あかりも彼の姿に気がついた。 「あら」  彼女は足を止めると、拓也に向けてほんの僅かな笑みを浮かべた。楚々とした彼女の雰囲気はいつも通りで、昨日のような違和感を覚えることはなかった。 「小方くんじゃない。部活の練習中?」 「えと、あの、はい」  拓也は言葉を詰まらせた。 「がんばってるみたいね。担任の山崎先生も褒めてらっしゃったわ」  あかりは雲の隙間から差し込む日差しのように、拓也に微笑みかけた。 「僕、走るの好きですから……。あの、先生」  拓也は俯きながら言った。さり気なく視線を、彼女のバッグ持っている右手にやる。そこには確かに包帯が巻かれていた。尋ねるなら今しかないと思った。 「……その指、どうしたんですか?」  少し不自然かもしれなかった。だが、その質問をせずにはいられなかった。 「ああ、これ?」  虚を突かれたように、あかりは甲高い声を出して、右指を自分の顔の辺りに持ってきた。 「あはは、これかぁ、ちょっとね。リンゴを剥いてる時に切っちゃったの。私結構おっちょこちょいだから」 「そうだったんですか。すいません、いきなり変なこと聞いて」 「いいのよ。じゃあ、部活がんばってね」  彼女は、あえて怪我をした方の右手で、拓也にひらひらと手を振って、校舎と校舎の間の薄暗がりに消えていった。  昨日見たのは何かの間違いだったんだ。拓也は自分に言い聞かせながら、陸上部の練習に戻っていった。   「なぁ拓也」  部活も終わり、帰りの電車に乗り込んだところで真一が言った。 「お前さ、水澤と仲いいの?」  大きな金属音を立てて下り列車が動き出す。  彼の質問に、拓也は動揺を隠せなかったが、親友に誤魔化し続けるのもよくないと思い、正直に答えた。 「たまたま話す機会があってさ」  真一は、少し俯き溜め息を吐き、天井の蛍光灯を眺めて、それから拓也に言った。 「……それならいいんだけど、今日、四百メートルの練習していたらお前が突然水澤のところに行って何か話してたって、野村が気にしてたから。俺もちょっと気になってさ」  拓也は何も言わずに、向かいの扉の外を流れる景色を見ていた。 「水澤って」  と、再び真一が口を開いた。 「なんかさ、冷たくない? ツンとしてるっていうか……」 「そんなことないよ」  拓也は即答した。 「え?」 「先生は優しいよ」 「そ、そうかよ」  ちょうどその時、電車が桜台駅に到着した。向かいの扉が開く。拓也はスクールバッグを肩にかけなおし、扉に向かって歩いた。 「おい、拓也」  後ろから真一が呼びかける。拓也は振り返って真一の顔を見た。 「……なんでもねぇ」  そう言った真一の、何かをかみ殺すような、切なく不安に満ちた表情。扉が閉まる。電車が去る。強い風がホームを吹きぬける。拓也と一緒に電車を降りた客たちは、もうとっくにホームを後にした。ただ一人ホームに残された拓也は……真一の顔を思い出しながら、居所なく頬に手をやった。  親友である真一の表情が、心の深いところにある泉に、いくつも波紋を残すようだった。    四  結局、あれから、真一にあかりのことを聞かれることはなかった。季節は進み、いつも通りの日々が続いた。真一と一緒に未来の家で一緒にテスト勉強をしたときも、皆いつもと変わらないやりとりをした。ただ、拓也の中に潜む、あかりへの想いが密かに、音も立てずに、熟していた。  期末テストの勉強を口実に、拓也は、幾度か理科予備室を訪れた。拓也が扉を開ける度に、あかりはほんのりと粉雪のような繊細な笑顔をみせた。拓也の心境がどうであれ、彼女も勉強熱心な生徒の訪問を断ることはしなかった。  彼女は、拓也を自分のデスクに座らせ、スタンドライトをつけ、自分は生物の教科書をめくりながら、彼に丁寧に勉強を教えた。 「いい? もう一度説明するわね。減数分裂では二倍体の細胞から一倍体、つまり元のDNAが半分になった細胞が生じるの。一回の減数分裂で、元の細胞から四つの、染色体数が半分になった細胞が生じる。今言ったことを、この問題に当てはめて考えると……」  彼女の声の調子(トーン)は、古いピアノのように、どこか懐かしいようなリズムで、拓也の胸を叩いた。拓也はその声をずっと聞いていたいと思った。ずっと、永遠に。拓也は彼女に目を遣った。流れるような髪、眼鏡の下の優しい瞳、色っぽい首筋、そして夏物のグレーのポロシャツの下に隠されたふくらみ。彼女のすべてが永遠にそこにあって、すべてが自分のものになればいいのにとさえ、思った。 「あら、どうかした?」  彼女の切れ長の瞳が、拓也を捉える。  拓也は思わず身体を硬直させ、「い、いえ」と返すのが精一杯だった。  拓也と彼女との距離は、あまりに近く、あまりに遠かった。あかりは、教師としても、女性としても、つかみどころがなく、ふと気がつくとどこかに流れていってしまう風のような人だった。こうして勉強という媒体を通して彼女の声を聞く。それが唯一、彼女に近づく方法だった。  七月も二週目の金曜日を迎えた。連日の勉強で、いつもの部活動での疲労とは違う、喉の奥にひっかかるような眠気に襲われていた。  その日、ようやくすべての期末テストが終了した。HRで、担任の山崎はもうじき夏休みだからといってハメを外さないように、なんてつまらない話をした。HRの後、拓也は、真一や他のクラスメイトとテストの結果についてあれこれ予想し合い、それもひと段落してしまうと、ざわつく教室を抜け出し、またあの秘密の箱庭へと足を運んだのだった。  テストの後ということもあって、理科室はいつも以上に静かだった。日常とは少し違う時間が流れているのかもしれない。シンとした理科室をすり抜け、理科予備室の前に立つ。クラスの誰もが、この秘密の部屋を知らない。理科の授業に必要なものは、理科室の背側にある棚にすべて用意されているし、仮に必要があっても、わざわざ生徒が理科予備室に入ることはない。そう、自分だけがこの内側にある庭園を知っている。自分だけが、彼女の見せる柔和で何物にもかえがたい笑顔を知っている。自分だけが……。  拓也は予備室の扉を叩いた。  返ってくるはずの声はない。  留守だろうか? 拓也は、予備室の扉をそっと開けてみた。相変わらず部屋は暗黒に閉ざされている。いつの時も、この部屋から暗闇が去ったことはない。それが不思議と拓也に安心感を与えていた。明るすぎる光は、時に人の心を無防備にさせる。こういう暗闇ではそういう心配は無い。あかりは、分厚い遮光カーテンをしている理由を「変形菌の管理のため」と説明したが、変形菌はもとより、彼女自身にもこの暗闇は必要なのかもしれない。そして、そんな彼女の影のある姿に、拓也は惹かれて止まなかったのだ。  部屋の奥で、あかりは、いつものようにデスクに向かっていた。だが、いつもとは違うことがあった。  彼女の顔を何かがほんのりと照らしている。杳々とした室内に、いつもとは違う、暗緑色の光が灯っている。拓也は、声がかけられなかった。あかりは、拓也に気がつかないほど熱中して、両手に包まれたその物体から漏れ出る、妖しく、そしてどこか神々しいような光に見入っている。まるで、敬虔な信者が、神に祈りを捧げるような顔で……。 「あの、先生……」  そのままにしていたら、あかりはどこか別の世界に行ってしまうのではないか。そんな感覚に襲われて、耐え切れず、拓也は声をかけた。  あかりは少し身体をびくつかせて、ようやく拓也の方を見た。彼女は狐につままれたような顔をした。 「いやだ、私全然気がつかなくって……」  真顔で返答する。その表情には驚きと戸惑いとがあった。もしかしたら、テストが終わった昼前の放課後に、ここに訪問してくる者などいるはずないと思ったのかもしれない。 「見られちゃったかぁ」  彼女はちょっと後悔したような口ぶりで言った。それから、しばらく天井を見つめ、入り口で放心したようにぼうっとしている拓也に手招きをした。 「仕方ないわね。おいで。あなたにも見せてあげる」  おずおずと、拓也はあかりの元へと近寄った。彼女の掌の上にあるシャーレから、暗闇を照らす光が漏れ出し続けていた。 「但し、誰にも言わないでね」  彼女は予め忠告した。 「わかりました」  彼女の、普段とは違う強い口調に、拓也は身を強張らせた。拓也は彼女の掌のシャーレを覗き込んだ。よく見ると、蛍色の光を放っている物質は、どろどろとした体をした変形菌らしかった。 「これ……変形菌ですか?」 「そうよ。名前はタママユホコリ。私の祖父が発見した新種なの。まだどこの学会にも発表してないわ。その性質は、他のどんな変形菌とも異なる。一番特徴的なのは、こうして発光すること……」  あかりの手中からは、妖しい緑色の光が漏れ出ている。拓也は椅子に座り、彼女の話を聞いた。 「あれは、私が大学生の時だったわ。当時私は、大学で生物学を専攻していて、暇を見つけては、あちこち飛び回っていた。羊歯植物の観察のために屋久島に行ったこともあるのよ。それで、ちょうど四年の時だったかな。教員試験に合格した頃、祖父から連絡があった。祖父は変わり者で、この学校の学長の職を退いた後は、親類はおろか家族とも碌に連絡を取らず、一人で熊野の山中で生活していたの。そんな祖父からすぐに熊野に来るようにって言われて、急にどうしたんだろうって不思議に思って、それで私はすぐに熊野に向かった」  あかりはすらすらと、今まで聞いたことのない身の上話を拓也に話して聞かせた。 「祖父の家は、熊野の山奥の、人里離れたところにあって、道なき道をかきわけるのに慣れてる私でも、ちょっとびっくりしちゃうような、鬱蒼とした原生林の只中に、ポツンと佇んでいた。本当に小さなアトリエみたいな家で、こんなところに人が住んでるのかって疑ってしまうくらい」  そこまで話して、急にあかりの声の調子が暗くなった。 「……それで、私が祖父の家についたときね……祖父はすでにこの世にいなかったの。信じられるかな? 祖父は、いつも座っていた自分の机に突っ伏したまま……息を引き取っていた。ひっそりと、誰にも知られないまま、植物が枯れてしまったみたいにね。私は驚いたわ。でも同時に、今まで感じたことのない感情を持ったの。人間はこんなにもあっけなく終わりを迎えてしまうんだって。高校生のあなたに、こんな話するべきじゃないかもしれないけど。どんな生き物も、植物も、人間も、死の運面には逆らえないんだって思った」  滔々と流れる彼女の言葉に、拓也はゆっくり頷いた。 「私の頭は不思議と冷静だった。早く警察を呼ぼう、でもこんな山奥まで来てくれるかしらなんて考えながら、ふと、机に突っ伏して絶命している祖父の傍らに、何かメモみたいなものがあるのに気がついた。メモには遺筆のようだった。そこにはこんなことが書かれていた。『私は大台ケ原の山中にて、新種の変形菌を発見した。原生林の奥地の古い岩場に僅かに付着していたものを、私が培養したものだ。あかりよ。もしおまえがここへやってきたのなら、この変形菌をすぐに焼却処分してくれ。この変形菌は大変危険な性質を持っている。今は冷凍し、菌核(変形体が冬眠状態になったもの)化させて保存してある。いいか、決してこの変形菌を外に出してはならん。世に放ってはいかんのだ。これを、私だけの発見として終わらせてほしい。あかり、これが私の最後の頼みだ』」  あかりは一気に言い終えると、ふぅと思いつめたような湿った吐息を吐いた。 「私はいてもたってもいられない気持ちだった。祖父の遺体に毛布をかけた後、私は研究用の冷凍庫を開けてみた。そしたら、そこに一つのシャーレが入れられていたわ。シャーレには名前が記入してあった。それがこのタママユホコリなの」  あかりは拓也にもう一度その蛍光を発する変形菌が入ったシャーレを見せた。 「祖父は、自分の研究していた変形菌さえほとんど遺棄していた。恐らく、祖父は自分の死期を悟っていたのでしょう。唯一、このタママユホコリだけが遺されていた。私は警察が来る前に、そのシャーレを自分のバッグに忍び込ませた。私は、祖父の言いつけを破ったわ。だって、私には、タママユホコリこそ、祖父の遺産のように思えてならなかったから」  拓也はあかりの顔を見つめていた。あかりの少し俯いた顔は、タママユホコリの光に照らされ、まるでこの世の人でないように見える。 「……私は、その後もずっと、誰にも秘密でこの菌を保管していた。そしてこの高校に赴任した時、祖父のもう一つの遺産であるこの理科予備室の存在を知ったの。それで、私は決意した。祖父の遺産であるこのタママユホコリをここで育てようって。もちろん育てるといっても、変形菌は条件が揃えば発芽して子実体を形成し、胞子になってしまうから、そうならないように、変形菌の姿のままで、この菌を保管しているの。いい? これが私の秘密。変よね? 高校の教師が、急逝した祖父の、誰にも知られなかった研究を、密かに続けているなんて……」  するとあかりは、そっと汗ばんだ拓也の手に、しなやかな両手を重ねた。 「こんなこと話してゴメンね。今日のことは、私と小方くんの秘密にして」 「……約束します」  拓也は頭がおかしくなってしまいそうだった。彼女の張り詰めた表情と、相反するような凄艶な仕草に、拓也の意識は完全に乱されてしまった。  それからあかりと何を話したか、よく覚えていない。とにかく無我夢中で、社交辞令を言って、理科予備室を抜け出し、気がつくとがらんどうの教室に戻っていた。E組には、誰の姿もないはずだった。 「……拓也?」  ハッとした。黒板の前に立ったまま、放心している拓也に声をかけるものがあった。  振り向くと、教室の入り口に未来の姿があった。  彼女は細い眉を顰めて、少し怪訝な表情をしている。彼女の日焼けした首筋に汗が伝う。 「どこに行ってたの?」それはいつもの陽気な声ではなく、低く、深刻な声だった。 「どこって……」 「また理科室?」  彼女の言葉が鋭く教室の空気を裂いた。  拓也は何も言わなかった。汗が一筋こめかみを伝って落ちる。未来は普段と全然違う張り詰めた雰囲気を漂わせていた。彼女の中には何らかの確信が生まれているらしかった。 「水澤? 水澤に会いに行ってたの?」 「……」  問い詰められても尚、拓也は黙っていた。 「ねぇ、そうなんでしょ!? 拓也最近ずっと変だよ!! 一人で隠れて、こそこそして……ねぇ、あの人と何があるの?」  拓也は俯いたまま、彼女の脇を通りすぎた。 「ねぇ、拓也! 何か言ってよ!!」  彼女は叫ぶような声を上げた。 「ほっといてくれ!」  拓也は一言だけ返した。それが精一杯の言葉だった。  拓也は早足で廊下を走り去った。何者からも遠ざかりたい気分だった。後ろでしきりに自分を呼ぶ、涙交じりの声がしたが、それでも拓也は振り返らなかった。 「あら拓也こんな時間にどこに行くの?」 「体が鈍ってるから、ちょっと走りに」  拓也は玄関を飛び出すと、ジャージ姿で、土曜の夜の街に繰り出した。外の空気は、夏が近づく前とは思えないほど涼しかった。遠くの山には雷雲がかかっている。天気予報によると、今年は冷夏になるかもしれないということだった。  孤独な水銀灯が照らす、なだらかな坂道の大通りを下り、さらに工業団地の横を通り、二駅先にある芸術大学の前まで行く。拓也が走るいつものコースだった。特別理由はないが景色が好きだった。走り続けていると、時々、誰か知らない人とすれ違う。どこかで、さびしく蝉が鳴いている。走っているときは、いつも孤独である。拓也にとってそれは心地のいい孤独さだった。  芸大を通り過ぎて、近くの公園で立ち止まる。もうかれこれ四十分は走っていた。大きく肩で息をする。全身から汗が噴出す。  それから一人ベンチに座って、自販機で買ったスポーツドリンクを飲む。すると、誰かが声をかけてきた。 「おい、拓也じゃねーか!」  聞き覚えのある明るい声だった。声のする方を見ると、すっかり夜の帳が下りた公園の入り口に真一が立っていた。 「俺予備校の帰りなんだけど……お前、こんなところでどうしたんだ?」 「家から、ランニングで」  拓也は、ようやく整ってきた呼吸で言った。真一は「ほー、がんばるねー」なんて言いながら、拓也の隣に座った。 「やっぱりお前には適わないよ。そこまで熱心になれないもん」  座るなり、真一はこぼした。それは侮蔑ではなく、親友に対する純粋な嫉妬であることを拓也は感じた。 「先輩たちも、一年の中ではお前が一番才能あるって言ってたぜ。俺みたいな凡人が何をしてもお前みたいな天才には適わない……」 「天才だなんて、大げさだよ。僕はただ走るのが好きで……走ると色々忘れられるから」  そう言った後、しばらく二人は黙っていた。涼風が頬を撫でた。すると突然、真一が切り出した。 「お前さ、野村となんかあったのか?」  それは深刻な口ぶりだった。 「は?」と思わず聞き返す。  真一は狼狽した様子で話した。 「いや、その、今日な、同じ予備校の吉田にさ『学校で、未来と小方くんが口ゲンカしてて、それで未来が泣いてたんだけど、何か知ってる?』って聞かれてさ。それで……」  真一は言葉を詰まらせた。真一は四十分以上走ってきた自分より余程苦悶の表情をして、俯いていた。その姿が胸に突き刺さった。  拓也は黙っていた。拓也は、未来があの時、何を思って自分に問いかけてきたのかなんとかなくわかっていた。それでも、あの時は、彼女の気持ちに構っている余裕はなかった。 「野村に何か聞かれたのか?」真一がいつもよりずっと真剣な口調で続けた。 「放課後、たまたま教室に戻ったら未来がいて、それで、水澤先生と何かあるのかって……」  拓也はこれ以上真一に隠すことはできないと思った。 「前に……お前さ、人を好きになったことあるかって俺に聞いたよな」  真一は交差させた指をそわそわと動かしていた。「お前、もしかして……」  そう言い掛けた真一の言葉を、拓也は遮った。 「僕は、水澤先生が好きだ」 「な……」  真一は驚きのあまり立ち上がって、拓也の両肩を掴んだでゆすった。 「お前、本当に本当なのかよ」 「嘘なんてつくかよ」 「だって……お前、そんなのおかしいよ……だって、だって相手は先生なんだぜ?」 「先生を好きになったらいけないのかよ!!」  拓也も立ち上がって、真一の顔を見つめた。その顔は、苦渋に歪み、困惑の色に染まっていた。 「俺だってお前のことを応援したいよ!!だけどな、俺たちは間違ってるんだ!!俺たちはどうしてこうなっちまったんだ……」  真一は声を荒げたあと、がっくりと肩を落とした。目が少し潤んでいる。その憔悴した様子に拓也も困惑した。 「真一、お前……」 「クラスの女子が噂してる。今日吉田も言ってた。野村はお前のこと好きなんだよ……」  真一は涙声で言った。その告白は、三人の間に横たわる、ある覆しがたい事実を、同時に吐露するものだった。 「え……」  その事実を、拓也も薄々感じてはいた。 「俺も一回だけ野村に言われたことある。拓也って好きな人いるのかなって……でも、でも俺は言えないんだ。俺の気持ちを!」 「……真一」 「俺は野村が好きなんだよ!!」  咆哮が夜の公園を包んだ。その静寂をオートバイの音が引き裂いた。しばらく二人とも黙っていた。 「情けない奴だよ、俺は。結局どんなに願っても、努力しても、お前には適わない。勉強も、運動も、恋も……」  真一は、悔しさと悲しさと涙でぐしゃぐしゃになった顔を拓也に向けた。 「本当に好きなのか、水澤のこと。野村よりずっと?」  その質問に、拓也は即答した。 「今は先生のことしか」  拓也は、親友の告白を聞いても尚揺らぎそうにない自分の気持ちを言った。自分は頭が狂っているのかもしれなかった。相手は大人で、教師で、自分のことなど眼中にないに決まっている。なのに、一度発生してしまった感情は、心の内の暗がりで、最早誰にも止めることができないほど増殖してしまったのだ。 「もう止められないんだ。一旦好きになってしまったから。自分でもおかしいってわかってる。でも、それでもこの気持ちだけは」  公園に響き合う声は、出口のない闇へと吸い込まれていく。  真一はがっくりとうなだれながら言った。。 「ああ、わかった。よくわかったよ、拓也。俺だって……同じなんだ。どんなに惨めでも、苦しくても、それでも、誰にも譲れない気持ちなんだ」  拓也は、真一の肩にそっと手を置いた。 「真一。心配かけて悪かった。お前の気持ちよくわかったよ。未来にも……今度きちんと話すよ。だからさ……思いつめないでくれ」  それが今拓也に言える精一杯の言葉だった。 「ああ、わかった。俺のほうこそ……ごめん、拓也。急にこんな話しちまって」  ようやく真一は、自身の張り詰めた緊張から解放されたようだった。二人は少しだけ苦笑いを浮かべた。 「俺たちさ何があっても……ずっと友達だからな」   その後、拓也は真一と別れた。今度こそ、誰もいなくなった公園。ぼんやりと光る水銀灯。拓也はいてもたってもいられない気分になって、走り出した。ここへ来たときよりずっと早いペースで、拓也は、得体の知れない途方もない夜に向かって駆け出した。    五  銀色の雨が降る日曜日の街は、暗く、行き過ぎる誰もが、本心を隠しているように俯いている。あくる日、拓也はいてもたってもいられず家を飛び出していた。一人で何もせずにいると、自分の心の中にある感情が殻を破って一気に溢れそうになるからだ。  会いたい。先生に会いたい。  あの薄闇に浮かび上がる柔らかなシルエット、儚げな姿、仄かな香り、そして心を慰める声。自分のものにしたい。彼女のすべてを……昨日の出来事があったばかりだというのに、拓也の頭に浮かぶのはあかりのことだった。親友の気持ちを裏切ってまでなお、自分は彼女に対する気持ちを諦めることができない。  トラックが路傍すれすれに通りかかって、水を跳ね飛ばしていく。拓也は歩いて学校に行こうと思った。電車ならたかだか十五分の道のりでも、歩けば一時間はかかる。一時間も雨の中歩くなんて、正気じゃないかもしれない。それでも、自分の中で高まる熱情を鎮めるには、今彼女に会うしかないと思った。右手に傘を握り締め、空のスクールバッグを肩にして、拓也は歩き続けた。  何も考えずに、ぐっしょり濡れたズボンの裾も気にしないで歩き続けると、ひっそりとした住宅街の間から高校の校舎が見えてきた。  誰もいない校庭を横切って、昇降口まできてようやく傘を畳んだ。雨の校舎はモノクロームな写真を見ているようだった。玄関は開いている。拓也は静かに校舎へ侵入した。  理科室に行くまで、誰ともすれ違わなかった。理科室に行って誰もいなければそれでいい。そう考えるうちに、理科室の扉の前まで来た。引き戸に手をかける。扉がすんなりと開く。ここが開いているということは、あの花園に今日も彼女がいるのだ。理科室に足を踏み入れた拓也は、いつも以上に緊張しつつ、机の間を通り抜け、シンとした予備室の扉の前に立った。扉の向こうの、暗いままの部屋に少し安心している自分がいる。自分が何を言うかもまだ決めていないのに、拓也は予備室の扉をコンコンと叩いた。 「はい」  あかりの声に、吸い込まれるように、拓也はその花園に足を踏み入れた。  ふいに現れた拓也に、あかりはあっと声をあげた。薄暗闇のなかで、彼女の表情がわかる。拓也の出現に驚いているようだった。 「あら、どうしたの?」  拓也は、彼女に話しかけられたのに言うべき言葉が見つからず、ただ立ち尽くしていた。 「こんな雨の中……びしょぬれじゃない」  彼女は立ち上がって拓也の顔を眺めた。 「ほら、拭きなさい? 風邪ひくわよ」  あかりはピンク色のタオルを拓也に手渡した。 「すいません」 「まったく、仕方ない子ね」  やれやれと苦笑いを浮かべたあかりは、それ以上拓也の行動を追求することはなかった。 「私だって、どうしてここに毎日来てるのって聞かれたら、困っちゃうものね。今のあなただって、それと同じなんでしょ?」  昂ぶった感情を往なすようなあかりの言葉に、拓也は頷くしかなかった。  拓也は、黙って濡れた身体を拭いた。あらかた拭き終わって、拓也はあかりにタオルを返すと、言った。 「先生……この前のタママユホコリ、また見せてもらえますか?」  あかりのことを考えるとき、いつも変形菌のイメージが一緒について回った。殊に、あのタママユホコリの妖しい光に照らされていた時の、あかりの横顔が、瞼の裏に刻まれたように、今でもはっきり思い浮かんでくる。 「いいわ」  彼女は、変形菌がコレクションされているガラス戸を開け、一番下の棚の隅から、大きなシャーレを取り出した。  取り出した瞬間にはもう、タママユホコリはあかりの手の上で光を放っていた。  その光は、この世界にあるどの光とも似ていない。暗闇で光るその様は、何か無性に、人が心の奥底に仕舞い込んでいる原初的な感情を掻き立てるみたいだった。  あかりは拓也にシャーレを渡した。拓也の手の中で、タママユホコリは妖光を放ち続ける。とても普通の生き物とは思えない。不可思議で、不気味で、それでいてどこか神々しいような……。  拓也は椅子に座ってタママユホコリを眺め続けた。しばらく、沈黙が小さな部屋を支配した。外では相変わらず雨が降り続けていた。  やがて、あかりが切り出した。 「小方くん、何か悩みでもあるんじゃないかしら?」 「……え?」  ふぅとあかりは溜め息をついて、ジッと拓也の顔を見つめた。 「あなたの顔に書いてある」  拓也は顔を赤らめた。図星であった。心臓が激しく鼓動する。汗が頬を伝う。拓也は、もうどうにでもなれという気持ちで、あかりに切り出した。 「先生は」  拓也は震えた。 「本気で人を好きになったことありますか」  あかりは一瞬、時間が止まってしまったように硬直した。が、すぐに表情を緩めて、ふふっと苦笑いをしてみせた。 「大人をからかうもんじゃないわ」  彼女の吐息まで肌に伝わるようだった。彼女にたしなめられてもなお、拓也は自分の感情を止めることができなかった。 「からかってなんていません! 僕は……」  拓也は立ち上がった。薄暗い部屋の中で、拓也の影があかりに覆いかぶさった。  あかりはシンと張り詰めたような表情で、拓也の顔を上目遣いに見上げた。彼女の色素の薄い瞳は、少し濡れていた。 「僕は先生のことが……」  拓也は俯いて、拳を強く握り締めた。全身が震えた。するとあかりは、静かに立ち上がって、彼の前に立った。  すると、あかりはその細い人差し指で、拓也の唇をそっとふさいだ。 「その気持ちは……他の誰かのためにとっておきなさい」  彼女の顔は優しかった。 「先生……」 「あなたの気持ち、嬉しいわ。だけどね、私みたいな女を好きになったら……ダメ」  母親が優しく幼児をあやすような、聖母が毅然と信者を諭すような、そんな言葉に、拓也はそれ以上何も言えなかった。わなわなと全身が震えた。とめどなく涙が頬を伝った。 「ごめんなさいね……」  と、その時だった。あかりは突然頭を押さえると、苦悶の表情を浮かべ、俯いた。 「先生!?」  拓也が叫んだ時には、あかりはうめき、頭を抱えたまま、床に蹲った。 「先生、どうしたんですか! 先生!!」  身体を縮こませて、苦しみにうめく彼女に、拓也の声は届いていないようだった。拓也は、尋常ならざるものを感じて、なりふり構わず、彼女を背中に負ぶった。あかりの香りと体温が拓也の本能を刺激した。拓也は無我夢中で、彼女を負ぶさったまま理科室を飛び出し、南校舎の職員室へとかけこんだ。  たまたま職員室にいた二、三人の教師は、ぐったりと身体の力が抜け、ひどく青ざめているあかりの顔を見て驚き、すぐに救急車を呼ぶことにした。  外の雨は依然として強く振り続けた。雨の中、緊急搬送されていくあかりを見て、拓也は咄嗟に付き添いを申し出た。教師たちは顔を見合わせたが、結局、彼女が倒れたとき傍にいて状況を説明しやすいだろうという理由で、拓也は救急車で病院に同伴することを許された。あかりの診察が終わるまでの間、拓也は、処置室の前の、エタノールの臭いがする廊下のソファで一人待ち続けていた。俯き、両手で頭を抱える。彼女の様態に対する不安と恐怖で、全身が震えた。同時に、彼女が倒れる前、自分に言った言葉が、ぐるぐると、幾度も頭の中を駆け巡っていた。  ――その気持ちは他の誰かのためにとっておきなさい。  (どうしてですか。先生。どうして僕はあなたを好きになってはいけないんですか)  二時間ほどして、あかりは病室に運ばれることになった。医者によると、特別な病変は見当たらないが、意識が戻るまでは病院で様子を見るとのことだった。  窓ガラスをたたく雨の響きは止むことを知らなかった。偶然にも、あかりの病室には他の患者がいなかった。穢れのない真っ白いベッドに寝かされたあかりを、拓也は時間が許す限り静かに見守っていた。彼女の顔は血の気が引いてしまって、額には薄っすらと汗をかいている。長い睫毛に隠された瞼はきつく閉じられている。亜麻色の髪の毛が、白いシーツに、血のように広がっている。点滴を刺された繊細な右腕が、痛々しくベッドから覗いている。彼女の細い指はぴくりともしない。  もしかしたら、ずっとこのままなんじゃないか。そんな考えが拓也の頭を過ぎった。同時に、ずっとこのまま時間が止まってしまえばいいのに、そうしたら先生は僕だけのものに……そんな考えも浮かんできて、拓也はゾッとした。思わず立ち上がり、外を見ると、すでに夜の帳が下りていた。サーと雨音が病室の静寂を破っている。雨はまだ、止む気配がない。  翌日。  拓也は、教室で未来や真一と顔を合わせたが、うまく言葉が出ず、結局ほんのちょっと挨拶を交わしただけだった。そうこうしているうちに一時間目の生物の授業が始まった。教室に入ってきたのは、あかりではなく科学を担当している老年の教師だった。その事実を知らない拓也以外の生徒はざわついた。 「えー、突然のことですが、水澤先生が病気で倒れられたので、急遽私が担当します」  そう言って、教師は何事もなかったように、教科書をめくった。  放課後、帰り支度をしていると、誰かが声をかけてきた。未来だった。白い夏の半袖が彼女が抱いている感情とは反対にとても涼しげに見える。 「拓也、ちょっといい?」  そう言った未来の顔は、少し険しそうだったが、それでも金曜日のあの時に比べたら随分穏やかな、普段通りの表情に見えた。 「ああ、うん」  拓也は立ち上がって、彼女の指示に従うことにした。先日の後ろめたさのようなものが、まだ拓也の中にはあった。  未来は、拓也を三階から屋上に通ずる階段へ連れて行った。そこは、日も入らなければ、電気もついていない、暗くて静かな場所だった。他の生徒の邪魔が入ることもないので、人に聞かれたくない話をするのにはうってつけな所だった。 「水澤先生、倒れたんだってね」  最初に切り出したのは未来だった。俯いた彼女の長い睫毛が幾度も瞬いた。 「そうらしいね」  拓也は俯いて、あかりのことは知らない振りをして答えた。 「拓也、この前ごめんね」  未来は拓也を見つめた。黒水晶みたいな瞳から、視線が注がれる。 「いや、僕も、その冷たい言い方しちゃって……」  拓也は彼女の瞳に応えられず、俯いて言った。すると未来が、 「あのさ、拓也」と切り出した。  拓也は黙って彼女の言葉の続きを待った。 「私、拓也が好きなの」  拓也は驚いて、彼女の顔を見つめてしまった。きらきらと輝くその瞳に一切の曇りはない。 「でも……やっぱり拓也は……水澤が好きなんだよね?」  彼女は俯き、細い眉根を寄せて、ふっと溜め息をついた。黒く短い髪が揺れた。拓也は息を呑んだ。やはり自分も覚悟を決めるしかないと思った。 「ありがとう。でも、ごめん。どうしても諦められないんだ」  それが精一杯の言葉だった。 「そっか……」  未来は俯いて、もう一度溜め息をついた。その後、思いっきり笑って見せた。 「私だって諦めないからね」  笑顔の瞳に、少しだけ涙が残っていた。彼女は、それだけ言い残すと、制服を翻して一足先に教室に戻った。 (僕は……)  誰もいない埃っぽい階段で、拓也は大きく息を吐いた。  雨の帰り道、拓也は誰にも内緒でこっそりあかりが入院している病院へ立ち寄った。  未来の告白を受けて、拓也は動揺していた。だが、それでも拓也はあかりへの気持ちへ決着をつけなければならないと思っていた。ところが、拓也を待っていたのは思わぬ結果だった。 「水澤さん? 本日退院されましたよ」  小太りの看護師は、当たり前のように言った。拓也は、病院の無機質なリノリウム張りの廊下に立ちすくんでしまった。もう元気になったのだろうか? しかし、回復したのなら今日学校に来るはずだし、おかしい。拓也は辻褄の合わないその事実に、足が竦みそうだった。何かとても悪いことが起こるんじゃないか、そんな不安が、拓也を襲っていた。  翌日、拓也はHRが始まる前から職員室に駆け込んだ。それとなく、担任の山崎にあかりのことを聞いてみる。 「ああ? お前知らなかったのか? 水澤先生は昨日からご病気でしばらく休まれるそうだぞ」  サーと周りの景色が遠のいていく気がした。足元がぐらつくのをなんとか堪えながら、拓也は教室に戻った。空を覆っている真っ黒な雲みたいな、得体の知れないモノが、徐々に頭をもたげてきた。  いつまで経っても雨は止まなかった。あかりが学校に来ないということを除けば、いつも通りの日常が続いた。真一との関係も、未来との関係も、特別変化することはなかった。顔を合わせれば冗談を言い合う。ずっと前から変わらない関係。そしてこれからも……本当にそうだろうか? 変化がないように見えて、ただ誰もが、自身の中にある欠落から目を背けようとしているだけではないだろうか。拓也はそんなことを考えるようになった。  すべては、自分があかりに恋をしてしまったせいなのだろうか。道ならぬ恋。そのせいで……。拓也は苦虫を潰すような苦しさに襲われていた。大きな空白を残したまま、長い夏休みが訪れようとしていた。  終業式の日を迎えた。  長雨がようやく上がって、外は夏の雰囲気に満ちていた。蒼穹から際限ない日差しが注がれた。拓也達は終業式のため、体育館に集まった。一番前のステージに立った校長が長ったらしい話をする中、拓也は、何気なく目線を泳がせて、体育館の端に立ち並ぶ教師の列を見ていた。  その時、思わず拓也は「あっ」と声を漏らした。隣の真一が声を潜めて言った。 「おい、どうしたんだよ」 「いや、なんでもない……」  いつもの教師たちの面子に紛れて、あかりの姿があったのだ。  彼女は、ワインレッドのブラウスに、グレーのテーラードジャケットを着ていて、ビシっと背筋を伸ばして立っていた。眼鏡越しの視線はツンとしていて、いつもと特段変わったところはないように見える。 (先生……一体どうして)  拓也は、最早周囲の声など耳に入らなくなった。  無事終業式が終わり、一学期最後のHRも終わり、残すは放課後の部活動のみとなった。 「おい拓也、部活まで暇だから飯でも食いに行こうぜ」といつもの明るい顔で話しかけてきた真一に、拓也は思いつめた口調で答えた。 「真一、実は……」  拓也は真一に耳を貸すように言った。 「何?」 「水澤先生が今日来てたんだよ」 「え、マジで?」 「これからちょっと話をしてくる」 「わ、わかったよ。お前がそう言うなら」  真一は、複雑な表情をしながらも、覚悟を決めた拓也のことを止めることはしなかった。  その後、拓也はこっそり教室を抜け出した。教室の入り口の方で、女子連中とたむろして話していた未来がその後姿を視線で追っていたことに、拓也も気がついていたが、拓也は振り返らなかった。  北校舎へと抜ける渡り廊下を走り抜けると、理科室の扉が見える。理科室の扉は、今日は開いていた。拓也はホッとした。ここが開いているということは、間違いなく中にあかりがいる。拓也が安心しながら、並んだテーブルの間を横切って、一番奥の、理科予備室の前に立ったとき、その異変に気がついた。  理科予備室の扉のすりガラスからは、日差しが漏れていたのだ。  その時、拓也はスッと背中にナイフを突きたてられたような寒気がした。おかしい。今まで一度だって、この扉の向こうが明るかったことなどないのに。それは、先生がこの部屋で密かに変形菌を育てているから……。拓也は早く胸騒ぎを止めたくて、理科予備室のドアノブに手をかけた。金属の擦り切れるような音がして、あっけなく扉は開いた。  あの薄闇に包まれた秘密の花園は、すっかり様変わりしていた。暗闇を作っていた分厚い遮光カーテンは、今ではすっかり開け放たれており、外の日差しを遮るものは何もなかった。窓から差し込む強い光と、部屋の陰になった部分とがはっきりとしたコントラストを作り、この部屋を二分している。 「先生!」  叫び声が虚しく響いた。デスクの前にはあかりがいた。あかりの髪に光が反射してきらきらと輝いている。  あかりは、デスクに寄りかかるようにして立っていた。血の気の通っていないような人差し指を、悪戯に、机の盤面にすーと沿わしている。その様は、いつもより気だるそうで、一つだけ言えるのは、あかりの様子が普段と明らかに違うということだった。 「あら、何の用?」  彼女は眼鏡を外した、猫のような瞳を侵入者である拓也に真っ直ぐ突き刺した。 「あの、先生……お身体は?」  するとあかりは少し甲高い笑い声をあげながら、ずるりと拓也の目の前に這い寄った。 「身体? とっても調子いいわよ。だってこんなに動きやすいんだもの!」  と言って、あかりは口角をニッと吊り上げて見せた。  ――動きやすい?  唐突に、まるで気が狂ってしまったようなあかりの言動に、拓也は戸惑いを隠せず、まともな言葉を返せなかった。 「……ところで、何をしに来たのかしら?」  その言葉には冷酷な響きがあった。陽光に照らし出されたあかりの白っぽい顔は、ゾッとするほど艶やかだった。だが、その見開かれた目に、いつものような優しさはなかった。まるで、肉食動物が獲物を見定めるときのような瞳だった。 「……僕は……先生と話がしたくて……」  拓也は何か得体の知れないものを見ているような気がして、それ以上あかりの顔を見ることができず、俯いた。  あかりは拓也の反応を見て、またしても笑い声をあげた。何か箍が外れてしまったような甲高い笑い声だった。 「アハハハ、そっかぁー、キミは、私のことが好きなのよね?」  あかりは、右手で自分の胸を指した。続けて、拓也を弄ぶように、彼のだらりとぶら下がった汗まみれの右手を、スッと持ち上げると、そのまま、窓際の、古いベッドに座らせた。拓也を座らせてしまうと、あかりは猫のような仕草で、拓也の両脚に馬乗りになった。下腹部に彼女の熱が嫌というほど伝わってくる。拓也が顔を上げると、あかりの満月のような瞳が自分を見下ろしている。あかりは、じらすような仕草で、ゆっくりと、紅く妖しい光沢を放つワインレッドのブラウスのリボンを解き、その下の第一ボタンと第二ボタンを外した。ブラウスの隙間からは下着と乳房がこぼれそうだった。 「……先生……」  拓也は、行動することはおろか、思考すら全く麻痺してしまいそうだった。  あかりは尚も挑発的に、拓也の頬から顎にかけて、愛でるようにスーッと手を沿わした。 「愛してるんでしょ? 殺したいほど」  彼女は薄い唇を歪ませながら、目を見開いて、拓也の目を覗き込んだ。その虹彩は光の加減なのか、薄っすら緑色に光っていた。 「先生!!正気に戻ってください!!」  拓也は彼女の誘惑を振り払うように叫び声を上げた。するとあかりは、興ざめしたように、拓也の太ももからぴょんと飛び降りた。 「……つまらないプライドにしがみついちゃって。手に入れたいものは、殺してでも奪い取る。それが生物の本能ってモンでしょ?」  そう言ってあかりは再び甲高い笑い声をあげる。狭い予備室が、彼女の気の触れた声にで満ちていく。再びあかりは拓也の目を見た。その時拓也は、やっとこの部屋を支配している違和感に気がついたのだ。  拓也は、無我夢中でベッドから飛び上がると、あかりの横を通り抜け、変形菌が飼育されている金属製の棚を開けた。そして、中から一つのシャーレを探し出した。『タママユホコリ』と確かに書かれたそのシャーレは空になっていた。 「これは……」  自分の直感が嘘であってほしかった。こんな馬鹿げたことが起こるわけがない、そう思いたかった。変わり果てたとはいえ、目の前に立つのは、あの愛おしいあかりに他ならない。だが、彼女が、すでに以前の彼女ではないことを明確に物語っている証拠がそこにはあった。拓也はゆっくりと立ち上がって、彼女の瞳を見据えた。その瞳は、あのタママユホコリと全く同じように、緑色に光っていた。 「あら? ようやくわかったの?」  すると彼女は、デスクの上に無防備に置かれていた一本のナイフを手にした。 「正解よ。私はあなたたちの呼ぶタママユホコリ……本当の名前は、ヘテロ・ニュング。この女の身体は、私が乗っ取ったの」 「そんなこと……一体何がどうなって……」  拓也は著しく混乱していた。だが、それを見透かしたように、平然と、あかりを乗っ取ったソレは喋り続ける。 「どうもこうも簡単なこと。この女の血は私のものになったの。それだけ、よ」  彼女は薄っすらと笑みを浮かべながら、話し続けた。 「ある時、革命が起きたの。一人の男が、私をあの深い森から連れ出してくれた。その時、私ははじめて人間という生き物を知ったわ。私の欲望を叶えてくれる愚かなる生き物。それが人間」  拓也は慄然としながら彼女の言葉を聞いた。彼女はぺらぺらと喋り続けた。 「アハ、あの男もあなたと同じ目をしてたわ。男は、私の性質を知り愕然とした。恐怖したのね。自らが捕食される恐怖。今までに決して味わったことの無い恐怖ね。それは動物の根源的な感情よ。だから、男は私を凍らせて動けないようにして、恐れのあまり自らの命を絶ったのよ……やっぱり人間って愚かね。長い進化の中で、自分が食べられるって立場にあったことを忘れちゃったんだもの」  その話ぶりは多分に狂気を孕みながらも、理知としていた。自分の生物としての役割、本能をよく弁えたような語り口だった。何より、ヘテロの話は、あかりが話した内容とピッタリ同じだったのだ。 「その男こそ、この女の祖父なる者。そしてこの女も、男と同じように、私を研究対象として見た。女はみるみる私に魅了され、その好奇心は増していった。男があれほど忠告したのにも関わらず、この愚かなる女は私を焼き捨てるどころが、密かに培養させて、増殖させたの。女は背徳感を抱きながらも私への興味を絶つことができなかった」 「そんな……」 「私は女に訴え続けた。あなたの血をちょうだいって、この女の脳に語りかけた。そしたらこの女はまんまと私に血を分けたのよ」  そう言って、彼女は手にしたナイフの切っ先を拓也に向けた。拓也の脳裏には、以前この部屋で、一人指をナイフで切り、シャーレに血を滴らせていたあかりの姿が思い出された。恍惚として、どこか魂の抜けたようなあかりの姿。あの時すでに、彼女はこの悪魔に魅入られていたのだろうか。 「やめろよっ!!」 「うふふ、この女がそんなことするなんて信じられない? でもそれはキミがこの女のことを知らなかっただけ。人間の欲望の底深さを知らないだけ」  ヘテロの言葉が心に刺さる。拓也の目からは涙が滴り落ちた。胸が震えはちきれそうだった。あかりを止めることができなかった、何も知らなかった無邪気な自分への怒りと、変貌してしまった彼女への情念、悲しさ、悔しさが渾然一体となって拓也の心をかき回す。 「女の血を手に入れた私は、新たに人間の中枢神経に作用する光を放てる体に進化した。私は訴え続けたわ! 私の体を食べなさい。私の体を食べなさい。私の体を食べなさい。私の体を食べなさい…………」 「やめろ、それ以上言うな!!」  ヘテロは、嘲るように甲高く笑った。おかしくてたまらないといった調子で。 「アハハッ! それでどうなったと思う? 女はね、私の体をゴクリと飲み込んだの。女の身体に侵入した私は、吸収され、血液に乗って、全身を駆け巡った。意識を失い、戻ったときにはもう手遅れ。そう、私はこの女を乗っ取ることに成功したの! もう、薄暗い森の中で惨めに生きることもない。それどころか、私はこの身体を使って人間たちすべてを支配することだってできるわ」  あの強い雨の日、拓也の目の前で倒れ運ばれたあかりは、すでに全身をヘテロ・ニュングに乗っ取られていたのだ。 「みなさい」  あかりは緑色に光る瞳を見開くと、今度は自らの手首にナイフを当てた。そして、何の躊躇もなくナイフを引いて見せた。当然、彼女の手首からは、鮮血が吹き出た。あかりの血が、拓也の頬にかかった。 「この血そのものが、私の新しい体。私は神になったの。人間の頂点に立つね。こんな素晴らしいことが他にあって!?アハハハ!!」 「やめろ!!それ以上先生を傷つけるな!!」 「何を言ってるの? これはこの女が望んだことでしょ? それに……」  彼女は嘲笑した。 「もうあの女はいないのよ」  その言葉に、拓也は激情した。 「お前が……お前が先生を!!」  拓也は怒りに任せて、彼女のブラウスの首元を両手で捻りあげた。彼女は抵抗しなかった。そして、極めて冷徹な声で言った。 「そうやって私を犯すの? それとも殺してみるのかしら? ね? 小方クン?」  その顔はあかりの顔と寸分違わない。拓也は震えた。怒りと悲しみに震えたまま、両手を離し、がっくりとその場に膝をつき崩れた。  涙が幾筋も頬を伝った。 「うぅ……うぅ……」  惨めに泣き崩れている拓也の顔を、ヘテロは膝をついた姿勢で覗き込んだ。 「ふふ、まぁ、いいわ。私はこれから消えるから。見ててごらんなさい? 世界は、私の血一色で染まるわ。そうなったら、また会いましょ」  そう言い終えると、彼女は拓也の唇を強引に奪った。彼女の舌が拓也の舌を舐めつくした。甘い味が口一杯を満たした。拓也は最早喋ることさえできず、彼女になされるままだった。拓也は理性も何もかも失い、恍惚としていた。やがて、ヘテロは唇を離すと、静かに耳元で呟いた。 「さようなら」  その幻聴じみた言葉がフッと泡のように現れて、消えた瞬間、拓也は我に返った。そして、必死で彼女に追いすがろうとするが、不思議なことにみるみる身体の力が抜けていき、立つことはおろか座ることさえ出来なかった。 「あかりぃー!!」  最後の力を振り絞った叫びが、理科予備室に虚しく響いた。拓也の目は最後まであかりの背中を追っていた。だがそんな意思に反して、拓也の意識は朦朧とし、やがてスーッと深い闇の底へ落ちていってしまった。    すべては終わる。  次に拓也が意識を取り戻したとき、すでに夕刻が迫っていた。どうやら眠らされたらしかった。慌てて周囲を見渡すと、そこには変わり果てた予備室の姿があった。開け放たれた窓からは強い西日が入り込んでいて、部屋全体を橙色に染めていた。かつての安らかな暗闇はもうどこにもない。あかりの手によって丁寧に棚にしまわれていたはずの変形菌のシャーレやケージは、すべて床に落とされ、床に散乱していた。シャーレからこぼれだした多種多様の変形菌は、床の上で光を浴び、変形体から胞子を飛ばすための子実体へと変異しつつあった。きっと、ヘテロに乗っ取られたあかりが、仲間の変形菌を解放するためにこのようなことをしたのだろう。  開け放たれた窓から夕時の、涼しい風が吹き込んでくる。今年はやっぱり冷夏かもしれない。今になってそんなことを思い出していた。この部屋の変形菌たちも、この風に乗せて胞子を運びどこかで発芽し、変形体になって、そしてまた胞子をつくる。あかりも、自らを胞子のようにして、どこか知らない世界へと旅立ってしまった。そして、そのどこか知らない世界で密かに増殖するのだろうか。そしていつか、この世界はあかりのものになってしまうのだろうか。そうなったとき、自分は……ああ……。 「あなたは……ずるいです」  変わり果てた部屋の中で、拓也は呟いた。とめどなく涙が流れた。  エピローグ   俯いて、靴紐をぎゅっと結びなおす。誰もない更衣室は、シンと静まっていて、張り詰めた緊張感に満たされていた。  いよいよ県大会本番だった。拓也はゆっくり立ち上がり、深呼吸を繰り返す。身体なら十分に出来上がっている。  ――今日まで、一心不乱で練習してきたんだ。 「拓也、リラックスしていけよ!」  扉を開け、ちょうど更衣室から出たところで、廊下で待っていた真一に声をかけられた。 「ああ、精一杯走ってくる」  真一のいつもの変わらない、おどけたようなその笑顔は、拓也に安心感を与えた。  拓也は真一に力強い笑みを返すと、ひらひらと手を振って、光をいっぱいに浴びた、白く輝くグラウンドへと足を踏み出した。  あの終業式の日以来、あかりは姿を消してしまった。あかりの血を浴びたせいで、何度も教師から呼び出しを受けたり、警察にしつこく事情聴取を受けたりしたが、拓也は一切何も答えなかった。真実を話したところで信じてもらえることはないし、あかりの名誉を傷つけたくはなかった。  拓也は、あの終業式の日以来、それまでの倍以上、部活での練習を行った。走って走って、走り続けて。それは偏に、あの日の血を振り払うため、そして、自身の感情を昇華させるため……。  人間は神にはなれない。人間だけじゃない、どんな生き物も、神になることなんて出来やしない。ヘテロがどんなに力を持っていても、生き物が神になることは出来ない。  だが、人間が神の世界に近づく方法はある。神の世界に近づく方法、それはただ一つ――。 「拓也―!!がんばってぇ!!」  トラックのスタート地点に立ったとき、頭の後ろから未来の声がした。拓也は振り返って、観客席の中で、向日葵のような屈託のない笑顔を咲かせている彼女に、笑い返した。  あれから、真一は勇気を出して未来に告白したが、結局振られた。拓也は、真一と苦笑いし合った。自分たちの関係も、やはり変異していく。誰だって、以前と同じではいられないのだ。どこか見知らぬ場所に向かって、それぞれがそれぞれの道を歩んでいく……。  同じスタートラインに並んだ屈強な選手たちは、真っ直ぐに前を見据えている。  拓也は俯いて集中力を高めた。  神よ。  僕はあなたの世界に近づくために走る。自分に出来ることは、ただ走り続けることだけだから。  スタートを告げる銃声が響いた。拓也は、何もかも振り払うように、一歩スタートを切った――。                           《了》