空が、近い。  JR東海道本線快速を住吉駅で降りた明松陽一郎は空を見上げて、ため息をついた。  濃い灰色の雲は厚みを増し、雪を孕んで陽一郎の頭上に垂れ込めていた。  冬は寒いから嫌いだ。  子どもじみたことを今さら胸のうちで繰り返して、陽一郎は早く目的地へ着いてしまおうと足を速めた。  大阪を出るときすでに空は不穏な暗さを見せていたが、ほんの20分、神戸で列車を降りるとそれはもう不穏どころでなく確信となり、目的地を前にちらりと雪が舞い降りるのを認めた陽一郎は立ち止まった。  天気予報では気温は2度。目に入る通行人のほぼすべてが、いかにも凍えるように背を丸め気味にし、コートのポケットに手を突っ込み、マフラーに顎を埋めている。  吐く息の白さが寒さを増大させるようで、憎しみすら湧く。  自分の吐いた息の行方を見送って、陽一郎はまたため息をついた。  陽一郎が寒さを苦手とするのは幼少の頃から変わらない。雪が珍しい大阪の生まれ育ちだが、たまに降る雪の中を友達と駆け回るということもほとんどしたことがない。体が弱いとか風邪を引きやすいとか腹を壊すとか、そんなことは一切なく、ただ陽一郎はひたすら、寒さが苦手でならなかった。手や頬がかじかむあの感じが、たまらない寂しさを呼び起こすようだ、という理由は学生の頃にやや感傷的になって思いついた後付けに他ならない。  ひとくち、ウイスキーを。  そんなことを、勤務中というのに考えた刹那、「温かいスープ、コーヒー、いかがですか」と若い女性の凛とした声が飛び込んできた。駅から10分ほど南下し、国道に沿う広い歩道でそれと出合った。  白いベンチコートの裾から除くサーモンピンク色のスカートは、見慣れたものだった。  この寒さの中、よくやる。  呆れるやら驚くやらで、陽一郎は普段にも増して無愛想な表情で女性を一瞥し、無言でその場を去った。  目の前の横断歩道を渡り、国道沿いのファミリーレストランに入ると、先ほどの女性と同じサーモンピンクが数名、きびきびと動き回っていた。足元は白のスニーカーで軽快だ。男性スタッフは紺のベストとライトグレーのスラックスで、それが映える明るい店内だった。全体に店の雰囲気は明るさと品の良さが前面に出ており、それが押し付けがましくなく好印象だ。  ざっと店内を見渡したところ、稼動率は40%というところか。主に子ども連れの若い主婦のグループと、ビジネスマン風の男性。夕方のよくある光景だ。このあと19時にかけてがもっともこの種の店がはやる時間となる。  陽一郎のそばを軽い会釈とともに小走りに去ったスタッフに会釈を返すでなし、また無愛想な面を下げて、陽一郎は勝手知ったる事務所まで来るとドアをノックした。 「あ、明松係長」とパソコンの画面から顔を上げ、すっくと立ち上がったのは店長の戸田聡だった。 「参った、雪が降るほどの寒さだよ」と口では世間話風に言うものの、相変わらず陽一郎の顔は笑っていない。学生時代から「何を考えているかわからない」と言われた陽一郎の無表情は、会社に勤めてさらに厳しさを加えた。 「こんな中でも宣伝をやるなんて、さすが戸田店長ですね」と陽一郎はさきほど「コーヒーいかが」と声をかけられた方向へ目をやりながら言った。 「ご覧になりましたか」と言って戸田は少し笑った。 「あの子は、先月採用した子なんですがね、仕事の覚えが悪いからせめてみんなが嫌がる宣伝だけは人一倍やるんだそうで」と話す戸田は、おかしそうに笑みを浮かべている。仕事の覚えが悪いと自覚があるなら、努力すべきだ。みなが嫌がることを引き受けるというのは、努力の方向がずれている。にも関わらず、戸田の微笑はそれを許すどころか、認めてることを伝えていた。  しかし、陽一郎は戸田のそういったやり方を咎めはしない。フランチャイズ展開のファミリーレストランで無個性になりがちな店舗運営にあって、店長の特色を発揮させる機会は大いに活かすべきだと常々考えていたからだ。 「つい先ほどまで、中津マネージャーが来られていました」と戸田から報告されたが、陽一郎は「そう」とだけ応えた。マネージャーが何を話していったか、特段訊ねようとはしない。