新学期初日。  春の日差しは強い。太陽の高度のあまりない時期だ。日光を真横から受けて、 僕の頬は熱をおびている。  教室は閉めきられている。冷房はもちろんついていない。僕は窓から顔を背 け、赤外線から頬をそらした。  春の風は強くて涼しく、僕の頬の熱を消し去るに足る。しかし、僕は窓を開 けずにいる。教室中をぼんやり見回すと、部屋の隅においてある(本棚なのか 物置なのかしれない)木箱にプリントが積まれている。それはとても不安定で、 少しの風でなだれてしまいそうに見えた。また、教室には机が整列している。 五行六列に並んだ席の、一番廊下側の連中は僕とは正反対に、寒さにちぢこま っていた。  そうしている間にも、太陽は僕の黒い後頭部と制服に熱を重ねていく。僕は 「新木」という自分の名前に刻まれた、呪いめいた宿命に歯ぎしりをたてた。  窓際最前列の僕の前には上記の木箱と黒板だけがある。右隣の席には「中野」 という男が座っている。中野は目の前の黒板だけをまっすぐ見つめ、その様子 は僕を拒絶しているようにもみえた。まるで黒板のような印象を、僕は彼にも った。  一方、教室のあちらこちらではもう仲良しグループができあがっているらし かった。お前と一緒のクラスかよ、とか、去年はナニナニだった、とか。ある いは、聞くにたえない下品な話、まるで理解できないオタッキーな話。それら が教室にうずまいて、僕の熱ぼったい耳に入ってくる。 「おい、あいつ留年してるらしいぞ」  ざわめきに混じって、そう聞こえた気がした。 「じゃあ、中野゛さん゛だな。敬語使えよお前」  にわかに起こった嘲笑。聞こえないようで、微かに聞き取れる声。計算され た声量に基くその会話は、僕の右隣の中野に向けられた揶揄のようだった。  僕は中野を見た。彼は相変わらず黒板を見つめている。何も書かれていない 黒板の一点だけを見据え、喋らない。「自分は動じていない、何も聞いていな い」と主張しているようだった。  恐らく彼の予想通り、その揶揄の会話は長くは続かなかった。彼の思惑通り、 揶揄した者達は中野へ別段の興味を抱くことなく、彼自身もまた気分を損ねた 様子はなかった。  しかし、中野のその態度で、揶揄の内容に真実味がおびた。そして、異常な 迫力をもって、揶揄の内容が僕に迫った。  僕の、中野を見る目は、その時点から厳しいものになる。彼の視線や佇まい 全てが白々しくみえた。  しばらくして、チャイムが授業の開始を知らせた。それでも教室のざわめき は消えない。燻りつづける同級生達の会話と、相対的に熱を失っていく僕の気 持ちは、教師が教室に入ってくると少しだけ収まった。  女の教師が扉を開く。小柄で肉をたらし、眼鏡の下に笑顔をつくりながら教 壇へと進む。 「はじまるよー」  教師が教壇につくと、まだ談笑を止めない少数の生徒に向かってそう言った。 子供みたいな声だった。 「はじめまして、君たちの現代社会の授業をうけもつ○○です」  教室が静かになったのを確認すると、教師はさらに大きな笑顔で自己紹介を した。 「社会で生きるうえで、もっとも必要なものはなんでしょう? 知識かな?  体力かな?」  一回目の授業では、教師はまず持論を説くものだ。目の前の現代社会の教師 も同じように演説をはじめた。 「協調性かな? 忍耐力なんかも必要だよね」  壇上から教師は問いかける。僕は、その口調に良い気がしない。教師の口調 の、まるで小さい子を諭すような、万人が理解できるようにあえて程度を落と したような話し方が、気に入らない。 「でも一番大事なのは、会話する力です。自分を発信する力です。社会で生き るってことは、常に誰かと関わって生きる、ということなんだ。そんな中で、 自分だけ集団から離れて一匹狼、ではやっていけないよね。だから、集団で生 きる、自分を生かすためには、自分の考えを伝えなきゃいけないんだ」  教師は、教室の端から端まで笑顔を振りまきながら続ける。 「自分が集団にとけこむためにも、やって来た人を迎え入れるためにも、何よ りも重要なのは話すこと、その力なんだね」  そこで教師はしばらく黙る。生徒の反応を確かめるような沈黙のあと、教師 は言った。 「それでは授業をはじめるよー。まずは隣の人とペアを組んで」  僕は、その言葉にぎくりとした。  教室中が「えーっ!」と、動揺とも歓喜ともつかない声をあげる間も、中野 はひたすら前ばかり見ていた。 「君たちはクラス替えしたばかりで、まだお互いのことをよく知らないよね。 せっかくだから、先生が友好の場をプレゼントしちゃいます。この機会にお互 いのことをよく知ろう!」  そこで中野はようやく僕の方を向いた。お互いの目が合うと、中野は控えめ すぎる笑顔をよこした。 「では、ペア同士で話し合っちゃおう。内容は何でも構わないよ。自分のこと、 相手のこと、興味があること、何でもどんどん言っちゃおう」  彼の控えめな愛想が、失笑にすらみえた。  次の瞬間、同級生達が一気に喋りだした。あたり一面から強弱関係なく喋り 声が響き、僕の鼓膜をたたく。教師は満面の笑みで、その状況を見ている。僕 は、教室の熱狂に驚いて、萎縮してしまった。  とりあえず皆がそうしているように中野の方へ身を向ける。膝に腕をのせて 上体を中野の方へ傾けると、中野も同じようにした。そうして、喋る格好を用 意したものの、喋ることが何もない。僕達は何も発信しない。  彼について知っていることは留年のことだけだが、それは話題の切り口には 適していない。  僕は、周りの会話から、話題になりそうなものを探した。楽しそうな声と盛 大な笑いが聞こえる。しかし喧騒にもまれて、肝心の会話が聞こえない。明瞭 な言葉がひとつも耳に入らない。  ざわめく教室で、多分僕達だけが喋っていない。  僕達は唸り声と失笑だけを交わす。その様子をみかねたのか、教師が僕と中 野の間に割って入った。 「どうしたのかな? 何話してもいいんだよ?」  笑顔を維持させてハイトーンで教師は言うが、その様子は相当無理している ように感じられた。 「ほらほら、どんどん言っちゃおうよ」  教師は中野の背中をおす。しかし、授業開始から失笑のみが続いている状況 だ。それくらいで話せるようになるはずがない。無力感に羞恥心まで加わり、 僕も中野も教師を見ない。  まるで希望がない。しばらくして、教師がそう悟ったらしい。言葉も残さず に、笑顔だけを引きずって去った。その場に残された僕達の間には、鉛色の重 い空気が残った。  授業が進むにつれて加速する同級生の会話に、耳鳴りをおぼえた。笑い声が あちこちに拡散しはじめ、目を閉じるとそれは際限なく広がっていくように感 じた。  悪意のない周囲の喋り声は、僕達の失笑を沈黙に置き換えて、教室を縦横無 尽に駆け巡る。 「留年」の引力が強烈すぎる。それに伴う中野の態度が印象的すぎた。僕の思 考の方向は全てそれにもっていかれてしまい、時間が経つほど、僕の考えるこ とは「留年」に限定されてしまう。  頭を回し、両拳を固めると、目眩がする。  いっそのことトイレに篭ってしまおうかと考えたが、その状況では手をあげ ることすらはばかられる。  そのまま吐き出してしまいそうな心地がした頃、ふいにチャイムが鳴った。 「はい、そこまでー」  教師がそう言ったのを合図に、教室のざわめきはゆっくりと収束していく。  今までの騒ぎがなかったことになると、僕達にのしかかっていた重い空気も 急に消えた。 「はい、今話してみて、他の人の考えに新しい発見ができたかなー?」  もっとも、僕の過熱した頭までは収まっていない。ぼんやりした頭に、教師 の言葉が入り込む。 「それとも、大いに共感できたかなー?」  中野が、皆がそうしたように、僕もまた上体をもどし正面に向き直った。日 光にあてられ眩む目で、黒板を眺める。 「どっちにしても、君たちが社会に出てから、他の人と話をすることはとって も重要になるんだ。だから、社会に出て困らないように、今からしっかりと練 習して慣れていこうね。……以上で授業終わりっ」  僕の視界の隅で、教師は教室を見回しながら言った。ただ、僕達の方だけ見 ない。教壇から離れる時も、教室からひきあげる時も、教師は僕達を見なかっ た。  教師が出て行ったのを皮切りに、再び教室中がやかましくなる。僕は、中野 を見ないで教室から出た。そのまま屋外のトイレへと向かう途中、思わず自嘲 的に笑った。  春風が僕の熱をさらう。学生服のボタンを外し汗で濡れたカッターシャツを 晒すと、今度は冷えすぎてしまう気がした。  僕はしばらく屋外の風を浴びながら、授業終了を知らせたチャイム音の新鮮 さを思い出していた。