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【日露戦争と朝鮮】
仁川で艦隊同士の戦闘が始まる直前の1904年2月、日本は朝鮮の局外中立化宣言を無視して日韓議定書を押し付けた。この条約が韓国皇室の安全と大韓帝国の独立・領土保全を謳うものであったことは先に述べたが、そのためにも第三国(ロシア)の侵略や内乱の際には日本の臨機必要な措置を受け入れ、それに協力しろというのが、この条約の趣旨であった。この結果、日本は韓国政府の戦争協力を取り付けることになる。この半年後には第一次日韓協約も押しつけ、財政と外交を日本が推薦する顧問を通じて操作しようとした。また、外国と交渉などをする際には日本と事前に協議しろ、という。財政と外交を握られたら独立国とはいえないだろう。実質的な自主権の奪取である。
議定書に基づいて日本は韓国の土地収奪を始める。軍用地や鉄道用地という名目で、恣意的なやり方で土地を奪っていった。土地は通常の価格の10分の1、20分の1で買い叩いた。しかも、日本の「不良商人」が一攫千金を狙って随分と朝鮮に渡ってきていた。日本人が朝鮮で土地を買い始めるのはこの頃だが、これは「買う」というより「国家を背負った泥棒」である。日本で食い詰めた人間が朝鮮に渡って軍部と親しくなる。勝手に田舎に行って「これは軍用地だ」といって住民を追い出す。カネも払わない。そういうことを日本の政府も軍部も許したわけだ。
外国人の特派員が、日本がいかにひどいことをやっているかを、当時すでにルポルタージュとして書いている(F・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』)。とにかく、朝鮮人を見つけては殴る。意味もなく面白がって殴る。これは差別意識以外の何物でもない。10年前、日清戦争のときに朝鮮に渡った鈴木天眼という人物は、新聞に朝鮮見聞記を書いているが、それには朝鮮人は「気の知れぬ人民、人間外の人間」だと書かれている。しかし日露戦争の時には、日本の商人は欧米人に対しても同じような態度をとっていた。何故か。軍隊が控えているからだ。外国人も手が出せない状態になっていた。司馬遼太郎さんはこんなことは書かなかったですね。
日露戦争の際における日本の収奪には、労働力の収奪もあった。鉄道敷設などにタダ同然で動員する。賦役ですね。実際上、民衆は動員を拒否することなどできない状況であったといえる。賃金が支払われる場合でも、通常の2分の1以下程度しか払われなかった。あまりの酷さに耐えかねた大韓帝国政府は1904年9月、役夫強制募集の禁止を発令するが、日本軍はこれを無視する。朝鮮北部には日本軍も敏感になっていて、戦争当時軍制が敷かれたが、朝鮮住民の内にはスパイ嫌疑などで殺された者も少なくなかった。その地域では、当初は反ロシアの気分から親日の立場の民衆がいたことは否めないが、戦争の進展に連れて反日に転換していった。
しかし、一進会だけは愚直に日本軍の指示に従った。日本に恩を売ることで、後日の対等合邦に益するところがあると考えたからである。「自分たちは騙された」と考えた一進会の一部の人々は、併合後「満州」などの地で独立運動を繰り広げることになる。「つくる会」界隈では、「当時の最大政党だった一進会が併合に賛成した」として日本の政策を正当化する主張があるが、これはイデオロギーが史実確認に先行してしまった悪しき例である。
当然、民衆の反発も高まってくる。軍部によしみを通じた長森藤吉郎という日本人が荒無地開墾計画を推進しようとするが、これに対してはソウルで反対の示威集会があり、失敗に帰した。鉄道運行についても、民衆は石を投げて妨害し、京釜鉄道(ソウル−釜山間)の敷設工事に対する妨害(1904年5月)やソウルでの鉄道用地収奪に反対する決起などが起きている(1905年8月)。また、いたるところで軍用電線が切断された。
韓国併合に対する日本政府の見解は、現在でも「100年前、あなた方朝鮮人も併合に賛成したじではないか。我々は国際法に則って併合したに過ぎない」というものだが、これは嘘八百である。反日義兵の存在を完全に無視している。1906年から1911年頃まで、義兵は日本軍正規軍と2,800回ほど戦闘を交え、約17,700人の義兵が戦死し、あるいは逮捕処刑された。これは、「立派な」戦争である。儒生の指導があったにせよ、基本的には土地を奪われ賦役に駆り出された民衆が怒りに打ち震えて自律的に立ち上がったために、義兵活動はなかなか制圧できなかった。日本は、「南韓大討伐」などと称する大焦土化作戦を行ったが、それは日中戦争などで行われた、いわゆる「三光作戦」(焼き尽くし・殺し尽くし・奪い尽くす)の原型ともいえる。日本は義兵をほとんど弾圧し終えた時、ようやく1910年に朝鮮を併合することができたことを確認しておく必要がある。
【戦争の結末】
日露戦争の結果、1905年11月に第2次日韓協約(乙巳保護条約)が結ばれた。これは伊藤博文が軍隊を率いて景福宮に赴き、皇帝以下閣僚を脅しつけて結んだものである。参政大臣(首相に相当)の韓圭喬だけが積極的に反対し、他の5閣僚(五賊)は不本意ながら賛成する事態となった。この保護条約が国際法として有効かどうかというのは、実は今も問題になっている。北朝鮮と国交正常化交渉が今頓挫しているが、北朝鮮は「当時から無効だ」という主張である。これに対し、「当時は有効だった」というのが日本政府の公式見解であり、実は韓国との国交正常化交渉間でももめた。1965年に日韓条約が結ばれるが、あの時も日本は詫びていない。賠償金も正式には出しておらず、「独立祝賀金」という名目で3億ドル出したが、詫びていない。
条約の第2条では「1910年8月22日以前に締結された旧条約がもはや無効であることの確認」が行われているが、これは曖昧な表現となっている。日本側が、当時にあっては国際法的に有効であったが、現在となっては無効になったという解釈であるのに対し、韓国側は国際法的にも当時からすでに無効であるという解釈である。
ともあれ、この保護条約で朝鮮は外交権を奪われて実質的な植民地になった。そして統監府が置かれ、義兵の抵抗が本格化するようになる。特に閔宗植(1906年5月・忠清道洪州)と崔益鉉(同6月・全羅道淳昌)の蜂起が有名だが、彼らを待っていたのは日本軍ではなく、大韓帝国軍だった。崔は戦うことを諦め、武装解除する。この時、彼は「日本政府大臣に致すの書」というものを書いている。そこには、忠君愛人と守信明義は人類普遍のものであり、これを持たない国は必ず亡びるしかないが、今、韓日清三国連帯の信義に背いている日本は、将来必ずや亡びると書かれている。アジア太平洋戦争の敗北を予見しているようだ。日露戦争の結果が日本の幸福ではなく、かえって不幸しかもたらさなかったことを記憶に止めておくことが重要である。
(感想)
「忠君愛人と守信明義は人類普遍のもの」というが、日本にとっては「忠君」だけしか存在しなかった。近代国家としては実にお粗末な構造だ。朝鮮の義兵に関しては、日本の歴史教科書も写真を載せるなどして取り上げているが、ひとり「新しい歴史教科書」だけがこの動きを無視している。「生き残りを賭けた国民戦争」などという虚像をデッチ上げることに汲々で、「殺される側の論理」など忖度する矜持さえ持たないのだろう。恥ずかしい。
12月25日付の読売新聞朝刊が日露戦争の特集記事を載せており、伊藤博文に関するコラムもある。「日韓の連邦化 探った宰相」なのだそうだ。噴飯ものである。伊藤は産業振興、金融機関設置、裁判制度整備、公立学校整備など「自治育成政策」の音頭をとったという。だが、「日本の指導を嫌う韓国民族主義者の抵抗はかえって強まる」。バカか? 何が「指導」だ。これまで見てきたように、日本の朝鮮に対する政策は「指導」などというものではない。【侵略】である。それに抵抗したのは「民族主義者」ではない。一般の民衆である。佐々木隆・聖心女子大教授によると、「伊藤の根本方針は、韓国を衛星国ないし保護国にすることで、併合は望んでいなかった」そうだ。だが、衛星国も保護国も、旧東欧のように自主外交を奪われた「奴隷国」である。形の上で「併合」でなければよいというものではあるまい。記事は「確かに、伊藤には当時の韓国民族主義者たちが望んだような自主独立という選択肢はなかった」と認めている。「自主独立」は「民族主義者」の希望ではなく、朝鮮全体の願いだったのだ。それにしても、「日露戦争100年」で様々な特集記事が組まれているが、どさくさに紛れて勝手な「言い分」を紛れ込ませるのはいかがなのか。このコラムを書いた「鬼頭誠」記者には猛省を促したい。
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