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朝鮮から見た日露戦争(2)朝鮮知識人の日露戦争観
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日韓関係史  ピエール E-MAIL  - ^05/3/20 -

引用なし
   【大韓帝国期の中立化構想】
その後、朝鮮では中立化構想が具体化してくる。日清戦争後、朝鮮は清とも日本とも対等だという意識から大韓帝国という国名に変更し、国王の高宗も皇帝と称するようになった。この時期に大きな力を持つようになった市民団体が独立協会である。この団体は自主独立ための中立化路線を主張するが、彼らはロシアを危惧していた。日本も相当問題ある国だが、やはりロシアは「白人の国」であり、日本は同じ「漢字文化圏」という考えがあったのだろう。ロシアは朝鮮に銀行を作ろうとしたり、軍事顧問を置こうとしたり、港を確保しようとしたりしていた。独立協会の運動は、そういったものを悉く無に帰させている。

中立化路線は現実政治の上でも高宗皇帝によって推進されようとしていた。1895年10月の駐朝公使三浦吾楼による閔妃虐殺以降強まった日本の力を退けるため、彼は一時ロシア公使館に身を避けていたが、その本意は勢力均衡政策にあった。彼は、特定の一国に依存する外交策を避けようとしたといえる。近代化のための資金も、多角的な利権譲渡や借款によって獲得しようとした。しかし日本は、日本1国だけに依存させたかった。鉄道敷設も朝鮮は独力でやろうとするが、日本はそれを徹底的に妨害した。1900年、駐日公使の趙秉式が日本に中立国になろうとする意思を表明したが、日本はこれを無視した。しかし朝鮮は、日露戦争が急を告げる1903年11月と翌年1月に一方的に局外中立を宣言する。英仏独伊清などは即座にこれを了承したが、日本はこれを認めなかった。

【知識人の日露戦争観】
ここで、当時の朝鮮知識人の日露戦争観について見ておきたい。まずは、開化派の巨頭金允植である。朝鮮では鎖国攘夷派を衛正斥邪派と呼んでいたが、彼はこれに対抗して朝鮮の近代化を目指していた。ただ、清との協調体制を維持しつつ「万国公法」体制にも対応しようとしており、兪吉濬の二重体制論と近似した構想を抱いていた。ところが日清戦争後、清との関係が切れる中で、彼の構想にも変化が見られるようになる。日露戦争の際には、彼はこの戦争を「日本の義戦」ととらえた。明治天皇の開戦の詔勅には「韓国ノ安全」のためにロシアと戦うということが謳われていたからである。彼は韓国併合に際して朝鮮貴族に列せられた人物だが、併合には元来反対の立場だったし、また1919年の3・1運動の際には、独自に独立請願書を総督府に提出して植民地統治を批判し、逮捕されている。

在野の知識人として重要なのは愛国啓蒙運動に携わっていた李沂で、「日覇論」を書いている。この文章では、ロシア以上に日本を危険視して、アジアに覇を唱えようとしている日本を批判している。日本はロシアに、朝鮮での日本の独占的地位を認めてもらう代わりに、「満州」でのロシアの独占的地位を認めようとする「満韓交換論」を唱えていたが、李沂はこれを警戒したのである。しかし彼の本来の考えは、朝鮮と日本と清が手を結んでロシアに対抗しよう、というアジア連帯思想であった。その場合、「日本が盟主になってもいい」という立場だった。彼はポーツマス条約の際に、「朝鮮人が条約に参加しないのはおかしい」と考える。なぜかというと、日本はロシアと戦うに当たって朝鮮と同盟関係になるべく日韓議定書を結び、その結果朝鮮は嫌々ながら戦争協力をしたのだし、何よりも議定書には韓国皇室の安全と大韓帝国の独立・領土保全が保証されることが明記されているのだから、朝鮮の命運を議論する場に朝鮮がいないのは不当だと考えたからである。そこで彼はポーツマスに乗り込もうとまでするが、日本の妨害にあってうまくいかなかった。やむなく日本に行き、天皇に上奏したり、伊藤博文に手紙を出したりする。そうこうするうちに、1905年11月彼は、第2次日韓協約(乙巳保護条約)が結ばれ、朝鮮が日本の保護国にされたという事実を知らされる。保護国にするということは、外交権を奪うということ。外交権を奪うということは、これは植民地と同じである。自由に他国と条約も結べない。この時彼は初めて「騙された」ことを知り、以後国家主義者に変貌を遂げていく。

最後に伊藤博文を「暗殺」したことで有名な安重根について見てみよう。安もアジア連帯主義者だった。彼は「日露戦役までは2000万朝鮮人同胞は日本人民になることを望んでいたのです」と言っている。つまり、日韓が同じ国になってもいいと考えていた。韓国にはそういう発想があった。欧州でも小国が連合する、一種国民国家の論理を超えた国家構想が、北欧などを中心にあった。しかし彼もやはり、保護条約の締結により日本に騙されたことを痛恨の思いで知ることになる。彼も開戦の詔勅に騙されたわけで、以後薄弱な民族意識から脱却し、職業的な民族独立運動家へと転身していく。

(感想)
やっぱり、日本は朝鮮独自の近代化を徹底的に邪魔していたんですね。「朝鮮半島は日本に向けて突きつけられた匕首。ここをロシアに押さえられれば、日本は存亡の危機に瀕する」(藤岡信勝拓殖大教授=自由主義史観研究会代表=「新しい歴史教科書をつくる会」副会長)という【ウソ】が明らかになりました。ロシアに対抗するなら、朝鮮とともに手を携えて近代化に注力すればいい。それは日韓で相乗効果を生んだであろう。それをやらずに、勝手に「お前が頼りないから、俺が叩き直して鍛えてやる」というのは、朝鮮にしてみれば迷惑千万な話である。
朝鮮知識人の日露戦争観に様々なものがあったことは興味深いが、戦争をするに当たって同盟関係を築きながら、戦争が終わったら併合してしまうというのは、「人の道」からみても許しがたい裏切り行為だろう。日本に「義」など全然ない。しかし、日本に騙され続けた朝鮮の知識人たちよ。どうか、お許しください。

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