わら をのがれた。ただし、火花が舞い、飛び散っているので、藁小屋とガソリンはますます危険な状 態だ。気が気ではない。何としても、ガソリンだけはどこかほかへ移さなくては。 I32 アメリカ人の絶望的な気分は次の電報をみるとよくわかる。 南京、一九三七年十二月二十日、在上海アメリカ総領事館御中。 重要な相談あり。アメリカの外交官、南京にすぐ来られたし。状況は日々深刻に。大使およ び国務省に報告乞う。マギー、ミルズ、マツカラム、スマイス、ソーン、トリマー、ヴォート リン、ウィルソン。 一九三七年十二月二十日南京日本大便館御中。海軍基地無線を通じて転送を要請します。 M・S・ベイツ ほかに方法がないので、日本大使館に頼んでこの電報を送ろうというのだろう。だがこれでは 何もかもつつぬけだ。日本は承知するだろうか? それにしても、アメリカ人は非常に苦労している。私の場合は、ハーケンクロイツの腕章やナ チ党バッジ、家と車のドイツ国旗をこれ見よがしにつきつければ、いちおうのききめはあったが、 アメリカ国旗となると日本兵は歯牙にもかけない。今朝早く、日本兵に車をとめられたので怒鳴 りつけて国旗を示したところ、相手はすぐに道を空けた。それにひきかえ、トリマーやマッカラ ムはなんと鼓楼病院で狙撃されたのだ。運良く弾はそれた。だが、我々外国人に銃口が向けられ ノ■.いノ,■小、・・■〔∫'h、、、∵…{川ゾ。・.ハ、、1■け、、ノノリ々入山収忠慢0)舳が}れ、ししよ、りω心 む少`ない。レかもかれ〜は何千人ポか剛欠干引生か沽ち伽大判-収劉して面倒を見ズザるのだグ 昨日、スマイスはこんなことをいっていた。いったいいつまで、ハツタリをきかせていられる のだろうか。その気持ちはよくわかる。われわれの収容所にいる中国人のだれかが、妻か娘を強 姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。安全区は血の海になるだろ う。つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が日本大使館から打電を拒否されたという知ら せが入った。そんなことだろうと思っていた。 午前中にガソリンを残らず本部へ移させた。中山路でこれからまだ相当数の家が焼け落ちるの ではない.かと心配だからだ。そういう火事の前兆はもうわかっていゑ突然トラツクが何台もや ってくる。それから略奪、放火の順だ。 ' } 〕 甘 1 一 ' 一 一■ 1 午後二時、ドイツ人やアメリカ人全員1つまり外国人全員が鼓楼病院前に集結して、日本大 使館ヘデモ行進を行った。アメリカ人十四人、ドイツ人五人、白系ロシア人二人、オーストリァ 人一人。日本大使館あての手紙一通を手渡し、その中で人道的立場から以下q二点を要求した。 一、街をこれ以上焼かないこと。 二、統制を失った日本軍の行動をただちに中止させること。 三、食糧や石炭の補給のため、ふたたび平穏と秩序がもどるよう・ 必要な措置をとること。 デモ参加者は全員が署名した。 I33 I34 われわれは日本軍の松井郡櫛司令官と会談し、全員が彼と握手した。大便館では私が代表して 意見を言い、田中正一副領事に、日本軍は町を焼き払うつもりではないかと思っていると伝え た。領事は微笑みながら否定したが、書簡のはじめの二点については軍当局と話し合うと約束し てくれた。だが第一二点に関しては、耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に苦しんでいるので、 われわれのことなど知ったことではないというのだろう。 そのあと、まだ日本大使館にいるときに、海軍将校からローゼンの手紙を受け取った。彼は南 京に非常に近いところに停泊しているイギリス砲艦ビーに乗っているのだが、まだ上陸を許され ていない。これ以上多くの人間に事情を知られたくないのだろう。ローゼンはじめ、シャルフェ ンベルク・ヒュルターの両人がどうしてビーに乗っているのかわからない。福田氏にそのことを いうと、ジャーディン社の船が爆撃されて、沈没したのではないかと心配していた。 ローゼン■記官よりジョン・ラーぺあての手紙 南京を目前にして、一九三七年十二月十九日 イギリス砲艦ビー船上より 親愛なるラーべ氏、 昨日から南京市を目の前にしながら上陸することができません。 甘ξんのごボ苧、それかケドイツ人の宗が響かどうか、お知らせく旭さい. なお、ここからは大使あてに無線で連絡がとれます。 当方にもいろんなことがありました。このことはいずれお目にかかった折にお話しします。 この手紙が日本軍を介して貴君に届くかどうかわかりませんが、とにかくやってみます(願わ くは私への返事もうまくいくといいのですが)。 よろしく。ハイル・ヒトラー!敬具 ローゼン 十二月二十二日 憲兵本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになっ た由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別 収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。 そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、つまりメインスト リiトの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。あのあたりはもう安全区に入っている。 そうなったらわが家も危ない。仲問と安全区の中を片づけていたら、市民の死体がたくさん沼に 浮かんでいるのをみつけた一たった一つの沼だけで三十体あった)。ほとんどは手をしばられて いる。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。 わが家の難民はいまだに増えるいっぼうだ。私の小さな書斎だけでも六人が寝ている。オフィ I35 スと庭も見わたすかぎり難民で埋まっており、燃えさかる炎に照らされてだれもが血のように赤 く染まっている。今数えただけでも、七ヵ所で火災がおこっている。 6 3 1 私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が 五十四人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。 ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ!それは三、四日前のことで、 しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたからという のが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。 そばの二人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。 今日の午後、酔っぱらった日本兵に中国人が銃剣で首を突かれた。それを知って助けにいった クレーガーとハツツの二人も襲われた。ハツツは椅子を使って身を守った。だが、クレーガーの ほうは日本兵にしばられそうになった。やけどした左手を包帯でつっていなければ、そうはなら なかっただろうが。フィッチと私が車でかけつける途中、むこうから二人がもどってくるのに出 くわした。フィッチと私は二人をのせてただちに現場にむかった。するとその兵隊は、偶然通り かかった日本の将校から平手打ちを食っていた。そばには日本大使館の田中氏もいた。 その日本兵はどうやらクレーガーたちに不利になるような報告をしたらしい。しかし、将校は かまわずなぐり続け、ついにそいつは目に涙をためた。この事件は我々にとって悪い結果にはな らなかった。だが、いつもそうなるとはかぎらない。 十二月二十三日 昨夜、総領事館警察の高玉清親氏来宅。外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたい とのこと。なんと今日の昼までに、という。そんなことがらくにできるのは一国の大使館くらい なものだろう。我々にはそんな簡単な仕事ではない。だが、やりとげた。さっそくクレーガー、 シュペアリング、ハッツに来てもらい、地区ごとに分担を決め、時問までにちゃんと仕上げた。 それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは三十八軒。うち、一軒(福昌飯店)は燃やされ てしまった。だがアメリカ人の被害ははるかに甚大だ。全部で百五十八軒にものぼる。 ' … 〕 “ ' 一 ■ ^■ ' E ^ ' ■ ^ ¶ '、 「[ T H リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。日本兵が押し入り、 私の書斎をひっくり返して、二万三千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。ク レーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。金庫は無事だった。どうしても開 けられなかったとみえる。 昼食のとき、兵隊が三人、またぞろ塀をよじ登って入ってきていたので、どやしつけて追い払 った。やつらはもう一度塀をよじ登って退散した。おまえらに扉なんかあけてやるものか。クレ ーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。私が本部にもどる直前、またまた日本兵が、塀を 乗り越えようとしていた。今度は六人。今回もやはり塀越しにご退場願った。思えば、こういう 目にあうのもそろそろ二十回ちかくになる。 I37 午後、高玉氏に断固言い渡した。私はこういううじ虫を二度とわが家に踏みこませない。命が けでドイツの国旗を守ってみせる。それを聞いても高玉は動じるようすもない。肩をすくめ、そ れで一件落着だ。「申し訳ないが、警官の数が足りないので、兵隊の乱暴を抑えることができな いんですよ」 8 3 1 六時。家へむかって車を走らせていると、中山路の橋の手前が炎に包まれていた。ありがたい ことに、風向きはわが家と逆方向だった。火の粉が北へ舞っている。同じころ、上海商業儲蓄銀 行の裏からも火の手があがっていた。これが組織的な放火だということぐらい、とっくにわかっ ている。しかも橋の手前にある四軒はすでに安全区のなかにあるのだ。 わが家の難民たちは、雨の中、庭でひしめきあい、おそろしぺも美しく燃えさかる炎を息をの んで見つめていた。もしここに火の手がまわったら、この人たちはどこにも行き場がないのだ。 かれらにとっての最後の希望、それは私だけなのだ。 張は、小さな石油ランプを四つ、モミの小枝で飾り付けた。目下のところ、照明といえばロウ ソクの残りのほかはこれしかない。それから赤いアドヴェントシュテルン(クリスマスに使う星 形のロウソク立て)を出してきて、ロウソクに赤い絹のリボンを結びつけた。そうだ、明日は十 二月二十四日、クリスマスだ。しかも娘のグレーテルの誕生日ではないか。 クリスマスだからといって、友人の靴屋が古いブーツの底を張り替えてくれた。そのうえ、革 の双眼鏡カバーまで作ってくれたのだ。お礼に十ドル渡した。ところが靴屋は黙って押し戻した。 パ小H,プ。、二り)、ツい収ハし〕んL仏に“休い内川が山ろから、し`一い.りのだ-・ 今目、シンバーグがO口山から持ってきてくれた手紙には(彼は、江南セメントエ場S南京間 をふつう一時問半で往復する)、棲霞山の一万七千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えて あった。あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりを尽くしているのだ。 十二月二十四日 昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルンを今朝もういちど念入りに箱に詰め、ジーメン スのカレンダーといっしょに鼓楼病院へもっていった。女性たちへのクリスマスプレゼントだ。 ちょうどいい機会だからと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。顔じゅう銃剣の傷だらけ の婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを 負った男性もいた。ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。この人はサンパンをいくつか 持っている。まだ≡一亘二言口がきけるが、明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。 地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるん でいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。 民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。七歳くらいの男の子のもあった。銃剣の傷が四 つ。ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれて から二日後に死んだという。 この一週間、 い姿を見ても、 おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。だから、こういうむごたらし もはや目をそむけはしない。クリスマス気分どころではないが、この残虐さをぜ I39 ひこの目で確かめておきたいのだ。いつの日か目撃者として語ることができるように。これほど の残忍な行為をこのまま闇に葬ってなるものか! 0 4 1 私が病院に出かけているあいだ、フィッチがわが家の見張りをしてくれた。まだ当分は兵隊た ちにおそわれる心配があるので、難民だけにしておくわけにはいかない。うちの難民は三百五十 人から四百人くらいだとばかり思っていた。だが、今では全部で六百二人。なんとこれだけの人 間が庭一たった五百平方メートル)と事務所に寝泊まりしているのだ。韓によると男三百二人、 女三百人とのこと。そのうち十歳以下の子どもが百二十六人。ひとりは、やっと二ヵ月になった ばかりだ。これにはジーメンスの従業員やわが家の使用人、またその一族は入っていないので、 全部入れると六百五十人くらいになるのではないだろうか。 張はうれしそうだ。かみさんが今朝退院したのだ。さっき車でつれてきたが、それからずっと 屋根裏部屋で子どもたちと眠っている。そこしかあいていない。 私に少しでもクリスマス気分を味わわせようとして、みながはりあっている。見ていると胸が あつくなる! 張はクリスマスローズを買ってきて家をかざりつけた。小さなモ、、、の木も。私のためにクリス マスツリーを飾ろうというのだ。どこかで長いロウソクを六本買ってきて、ついさっき上機嫌で 帰ってきた。突如みなが私を好いてくれるようになった。昔は、だれにも好かれていないように 思ったが。はて、あれは私の思い違いだったのかな?ふしぎだ。ドーラ、子どもたち、孫た ち!今日、私のために祈ってくれていることだろう。私にはちゃんとわかっているよ。おまえ ダdω傑い埜に包まれているのを感じる。それを思うと私はかぎりなく癒されるのだ。この二週 問、ただ曹しみしか味わわなかったのだから。私もおまえたちのために心で祈っている。世にも おそろしい光景を目にして、私たちはふたたび子どものころの無垢な信仰へと立ち返った。神、 ただ神だけが、この恥ずべき輩、人を辱め、殺し、火を放っている無法集団から我々をお守りく ださるだろう、と。 今日、新たな部隊が着任するという知らせが届いた。これでようやくいくらか混乱がおさまる だろう。法にそむく行為はすべて、みせしめのために罰せられるにちがいない。ぜひそうであっ てほしい!その時が来ているのだ!我々はじきに力尽きてしまう! 神よ守りたまえ。私たちがいま味わっている苦しみを、いつの日かおまえたちが味わうことの ないように!この祈りを胸に、今日の日記を終えよう。ここに残ったことを悔いてはいない。 そのために、多くの人命が救われたのだから。だが、それでも、この苦しみはとうてい言葉につ くせはしない。 十二月二十五日 昨日の午後、日記を書いているとき、張と中国人の友人たちがひっそりと小さなクリスマス ツリーの飾り付けをしていた。そういえば以前、張はよくこれを手伝っていた。 小さいというのを別にすれば、このツリiは、前に飾っていたのとそっくり同じだ。なんとク リスマスの庭(キリスト誕生の瞬問を再現した厩の模型一まであった。厩をとりかこむ動物たち も。人になれているのも野生のも入り混じっている。私たち家族はみなこれを見て喜んだものだ った。食堂のまん中の扉が開いて、わずかばかりのロウソクが部屋に貧弱な光を投げかけると、 1 4 1 それでもそこはかとなくクリスマスの気分が漂った。 I42 クレーガーとシュペアリングがクリスマスツリーを見にきた。南京広しといえどもツりーがあ カれき るのはここだけだ。クレiガーは白ワインを一本提げてきた。シャルフェンベルク家の瓦礫から 「救出された」ものだ。残念ながら漏れてしまって半分しか残っていなかったが。遠く離れた家 族の幸福を願って、私たちは黙ってグラスを傾けた。 そのあとクレーガーとシュペアリングは平倉巷のアメリカ人の家へ向かった。そこのクリスマ スディナーに招待されていたのだ。が、私は家を空けられない。 六百二人の難民を保護者なしでおいていくわけにはいかない。ただ、仲問がとちゅうでしばら く交代してくれることになっていた。そうすれば私もアメリカ人の同志たちとしばし楽しい時が 過ごせる。入れちがいに、福井氏がやってきた。目下この人が日本大便館で一番上のポストにい る。高玉氏もいっしょだ。大使館の人たちに、クリスマスプレゼントだといってジーメンスのカ レンダーを贈ったので、お返しにハバナ葉巻を一箱持ってきてくれたのだ。う1ん、残念。タバ コをやめてしまった!タバコ類は、いまやひじょうな貴重品だ。以前は八十五セントだった紙 巻タバコ一缶が、いまでは六ドル以下では手に入らない。クリスマスのお祝いに、私はこの二人 とワインを一杯飲んだ。二人ともクリスマスツリーと花を見てびっくりしていた。うちにあった 花をわけると、たいそう喜んだようだった。日本人はとても花が好きだ。わが家の難民のため に、この人たちとある程度親しくなっておきたい。なにしろ蚤言権があるからだ。 二人が帰った後、ロウソクを飾った食堂で、クリスマスの晩餐をとった。塩づけ肉にキャベ り。・ハ小,一び\・りトe"内朴川"し■りにパいしく忠えた。韓、求がきたので、アドヴェンツク ランツ(クリスマスリースの一、テーブルに口いてロウソクを立てる)を贈った。ロゥソクが 四本ついているJ奥さんと子どもたちには、それぞれ、モミの木にぶらさがっている贈り物から 一っずつ選んでもらった。色とりどりの飾り玉、象、小さなサンタクロース。それで私が用意し たプレゼントはすべてなくなった。それにしても張には驚いた。思いもよらない素晴らしいもの をもって現れたのだ。ハiト形のレープクーヘン一クリスマスに食べるはちみつと香料入りのク ツキ↓!四つあった。私はわれとわが目を疑った。ハート形のレープクーヘンが四つも。ド ーラが赤い絹のリボンで飾っておいたものに、張が若いモミの小枝をそえて持ってきた。という ことは、使用人たちが一年問しっかり保管しておいてくれたことになる。私と客は大喜びで、レ ープクーヘンをまたたくまに飲みこんでしまった。すると、あまり行儀のいい話ではないが、の どにつかえてしまったのだ。もちろん菓子のせいではない。レープクーヘンは文句なくおいしか った。そう、のどがおかしかったのさ。 、、、 ドーラ、私たちはみな心から君を懐かしんでいる。なかにひとり、うっすら涙を浮かべていた 男がいたよ。 ミルズがきて、見張りを交代してくれたので、私はアメリカ人の家へと車を走らせた。果てし ない闇、死体だらけの道を。もう十二日問も野ざらしになっている。 仲問たちはひっそりと座っていた。みな物思いに沈んでいる。ツリーはない。ただ暖炉の赤い 小さな旗に、使用人たちのせめてもの心づかいが感じられた。私たちは難民登録というさしせま った問題について話し合った。心配でたまらない。 難民は一人残らず登録して「良民証」を受けとらなければならないということだった。しかも 3 それを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。。4 早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大ぜいより てきしゆつ わけられた(別出一のだ(写真13一。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。 兵隊用の大がかりな売春宿をつくろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされる と、クリスマス気分などふきとんでしまう。 I44 半時問ほどして、また悪臭ふん遮んたる道を戻る。だが私の小さな収容所には平和とやすらぎ があった。見張りが十二人、交代で壁づたいに歩き回り、ときどきささやきあっている。眠って いる仲間を起こさないよう、ちょっとした合図をしたり、とぎれとぎれの言葉をかわすだけだ。 ミルズは家に帰った。私もやっと眠れる。いつものように、そのまま飛び出せるかっこうだが。 日本兵が入ってきたら、すぐに放り出さなければならない。だがありがたいことに、今晩は平穏 無事だった。苦しそうな息づかいやいびきがほうぼうから聞こえてきて、なかなか寝つかれなか った。合問には病人の咳。 十二月一一十六日十七時 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!なんたって六百人をこす人々 の命なのだから。新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。 男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。女と子どもは左、男は 右。ものすごい数の人だった。しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすん ズ。蛛o)企陵巾学校では」一卜人以h引き渡さなければならなかったというのに。元中国兵という 擬いで処刑されるの把という。わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。 いま、日本兵が四人、庭で良民証を作っている。今日中には終わらないだろうが、そんなことは どうでもいい。将校が決定した以上、もうひっぱられる心配はないのだから。 葉巻とジーメンスのカレンダーを担当の将校に渡したとき、百子亭にある家からもうもうと煙 わら が上がってきた。庭は灰の雨だ。藁小屋は大丈夫だろうか。いくぶん考え深げにその様子を眺め ながら、その将校はフランス語であっけらかんと言った。「わが軍にも、なかには粗暴なやつが いましてね」 そう、なかには、ね。 昨日は日本兵が押し入ってこなかった。この二週問ではじめてのことだ。やっといくらか落ち ついてきたのではないだろうか。ここの登録は昼に終わった。しかも後からこっそりもぐりこま せた二十人の新入りにも気前よく良民証が与えられた。 使用人の劉と劉の子どもが、病気になったので、鼓楼病院のウィルソン先生のところに連れて いった。トリマー先生が病気で、いまはこのウィルソン先生一人で病院を切り盛りしている。先 生から、新しい患者を見せられた。若い娘を世話できなかったという理由で撃たれた中年婦人だ。 下腹部を銃弾がかすめており、手のひら三つぶんくらいの肉がもぎとられている。助かるかどう かわからないという話だ。 安全区本部でも登録が行われた。担当は菊池氏だ。 持っている。安全区の他の区域から、何百人かずつ、 この人は寛容なので我々一同とても好意を 追いたてられるようにして登録所へ連れて 5 4 1 二言三言やさしく話しかけた。すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売 春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしていないようだった。ミニは 言葉を失った。 8 4 1 十二月一一十七日 サンタクロースのまねをしようと思い、百二十六人いる難民の子どもたちに二十セント硬貨を 贈ることにした。ところがさんざんな目にあってしまった。もみくちゃにされて、ひきさかれそ うになったのだ。乳飲み児を抱いた父親たちが押しつぶされそうになっているのに気がついて、 私はあわてて中止した。プレゼントをもらったのはおよそ八十人から九十人。いずれ折を見て、 だれがまだもらっていないか聞いてみよう。今日、本部を片づけた。仕事もないのに、ここには 怠け者の苦力がたくさん泊まりこんでいた。ものの二十分でぴかぴかになり、元通り堂々たる姿 になった。 鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五ヵ所も銃剣で刺されている。金陵中学の難 民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、そのうちの一人だという。この元 兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。目下この方法が取られている。 さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、なにかあったのか、とうるさいから だ。 デH、仮レ」帷が、 、桝崎□ へ。ポツダム広旧切JにH巾含弁商店ができて、 ありとあらゆる食料品が 口えると知らせに来花.私は}といっしょに砲かめに行った。そしてはからずも、 に放火する現場を目撃したのだ!日本軍はこの街を破壊しようというのか! この建物 十二月一一十八日 あいもかわらず、放火がくりかえされる! まるで重い病いにでもかかっているようだ。おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々と して進まない。難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。酔ったいきおいで、日本兵がますま す乱暴を働くにきまっているからだ。慰めようとするが、いまひとつ力がこもらない。それはそ うだろう、そういう我々自身、信じていないのだから! 誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。そのため何 万人もの人が登録所につめかけた。安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。私はドイ ツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。ここではハーケンクロイツのついた私の車を知らない 者はない。なんとかして道をあけようとして、ぶつかり、押し合いへし合いしている。そのわず かな隙間に滑りこみつつ、ようやく目的地に着いた。私が通ったとたん、あっというまに元通り 埋まってしまう。休憩時間にでもあたったら、ここから抜け出すのは並大抵のことではないだろ う。 今日、ほうぼうから新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。こうして文字 にするのさえ、ためらわれるほどだ。難民はいくつかの学校に収容されている。登録前、元兵士 9 イ ー がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。保護してやるという約束だった。ただ、 労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。ある所では、五十人くらいだったという。 彼らはただちに連れ去られた。生きのびた人の話によると、空き家に連れていかれ、貴重品を奪 われたあと素裸にされ、五人ずっ縛られた。それから日本兵は中庭で大きな薪に火をつけ、一組 ずつひきずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げこんだというのだ。そのうちの 十人が逃げのびて塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。人々は喜んで服をくれたという。 これと同じ内容の報告が三方面からあった。もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。 こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。ベイツはいまこれについて詳しく調べている。た だ、いざ報告するときには、誰から聞いたか分からないよう、よくよく気をつけなければならな い。知らせてきた人にもしものことがあったら大変だ。 フィッチが上海から手紙を受け取った。委員会に三万五千ドルの寄付が集まったというロータ リークラブからの報告だ。金をもらってもしかたがない。必要なのは、人問、それもこちらに来 て協力してくれる外国人なのだ。だが日本軍は誰も南京に入れようとしない。 日本大使館の役人はわれわれの立場をもう少しましなものにしたいと思っているようだ。だが 同じ日本人同士でも、こと軍部が相手だと歯が立たないらしい。すでに我々の耳に入っているこ とだが、軍部は日本・中国委員会を認めていない。これは、日本大使館が設けたもので、ちょう ど我々の委員会のような性格のものだ。初めてここへ来たとき、いみじくも福田氏がいってい た。「軍部は南京を踏みにじろうとしています。けれども、我々はなんとかしてそれを防ぎたい と考えています!」 へ∴dが∴-……、…巾、舳咋"だれひレ」り、}郁の写えを亦欠えさばることはでき往かった! Iラo ■籔師のフォースターからジョージ・フィッチにあてた手紙 ジョージヘ! 鳴羊街十七号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、中国人の死体がおよそ五十体ある。 元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週問ほど前から放置されている。もうかなり 腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。私のところに は、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、日本当局からの許可なしでは不安 らしい。許可がいるのかなあ?もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか? よろしく! } 〕 一1 1 ■一 ' 一 1■ ' ' 1 ' 、 フィッチにあてたフォースターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。この五十体 のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでにも我々は たびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このと ころ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。 スマイスと私は、日本大使館にいき、福井氏や岡という少佐と二時間話し合った。岡少佐は、 トラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、次のように言った。今南京にいるド イツ人は全部で五人だが、いっしょに暮らしてもらえないか。そうすればこちらとしても保護し やすい。もしそれに賛成でない場合は、その旨一筆書いてもらいたい、と。私はきっぱ2言った。 「身の安全ということなら、中国人とおなじでけっこうですよ。日本軍は中国人を保護すると約 束しているんですからね。もしも中国人を見殺しにするつもりだったら、トラウトマン大使や他 ー ラ ー のドイツ人といっしょにさっさとクトゥー号で逃げていましたよL 岡少佐はいった。「私はあなた方の命を守るように頼まれているんです。それはともかく、日 本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、政府が弁償するか、かわりのも のを支給するかします」それについては、ただ次のように答えるしかなかった。「南京陥落後の 十二月十四日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、ドイツ人の家も持ち物も無事で した。略奪や放火、強姦、殺人、撲殺、こういうことが始まったのは日本軍がやってきてからで す。誓ってもいいですがね。同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。舞い戻ってきた 中国軍によって略奪された家はもともと多くありませんでしたし、みんな太平路にありました。 太平路には外国人の家は一軒もありませんでしたからね」 I52 七時半ころ、下士官が一人、私の衛兵といっしょにやってきた。二人ともがっしりした体格で 銃剣をたずさえ、泥だらけの軍靴を履いていた。おかげで、カーペットがすっかり汚れてしまっ た。この二人は私の護衛を命じられているのだそうだ。すぐにまた外へ出ていって、この雨や雪 のなかを歩きまわらなければならない。外は砂どい天気なので、さすがにちょっと気の毒になっ た。 夜の九時ころ、日本兵が二人、こっそり裏の塀をよじ登っていた。私が出かけようとしたときに は、やつらはすでに食料貯蔵室にもぐりこんでいた。私は取り押さえようとした。クレーガーに は衛兵を呼びにいってもらった。ところがどうだ、衛兵はドロンをきめこんでいたのだ!クレ ーガーが私に知らせにきたときには、こっちの二人もあわてて塀を乗り越えて逃げだしていた。 と福井氏から枳みこまれた。 使館にとって具合の悪いことは知らせないでくれということなのだ。私は請け合った。そうする ほかないじゃないか?日本大使館を通さなければ手紙が出せないのだから。だが、いつの日か きっと、真実が白日のもとにさらされる日が来る。 このときとばかり私は福井氏に、十二月十三日に射殺された中国兵の死体をいいかげんに埋葬 するよう、軍部にかけあってくれないかと頼んでみた。福井氏は約束してくれた。 それから、今後安全区に衛兵を派遣することになったと聞かされた。日本兵が入りこまないよ うするためだというのだ。あるとき私は、その衛兵とやらをじっくり観察してみた。だれ一人呼 びとめられるでもなく尋問されるでもない。それどころか、奪ったものをかかえて日本兵が出て くるのを見て見ぬふりしていることもある。どうせそんなことだろうと思っていた。これで「保 護します」とは聞いて呆れる! 上海にいる妻にあてたジョン・ラーぺの手紙一九三七年十一一月三十目於南京 ドーラヘ 昨日十二月二十九日、日本大使館から君の心のこもった手紙を受け取った。十二月六日、十 二日、十五日、二十二日の分だ。私がここでどんな目にあったか、いまのところ話すわけには いかない。けれども我々二十二人の欧米人はみな元気だ。韓一家も。だから安心してくれ。イ ンシュリンはまだ予備がある。こちらも心配はいらない!クトウー号の荷物はどうなった? その後なにか分かったかい?なくなっていなければよいのだが。 なにしろ、日記が全部そのなかに入っているのだから。 I53 やらなければならないことがたくさんある。すぐにまた「市長のポスト」を取り上げられて もちっとも悲しくないよ。いや、そうできるなら喜んで1さっき言ったように、私たちは肉 体的には元気だが、気持ちの上では疲れきっている。近いうちに君に会えるといいのだが。 Iラ4 心からの挨拶とキスを一検閲なんかくそくらえだ!) ジョニー 十二月三十日 新しく設立された自治委員会は、五色旗一北京政府時代の中国国旗)をたくさん作った。一月 一日に大がかりな公示がある。そのとき、この旗が振られることになっている。この「自治委員 会」は我々に取って代わろうとしている。仕事を引き継いでくれるというのなら文句はない。だ が、どうも金目当てのような気がしてしかたがないのだ。 こちらからは何ひとつ引き渡さない。あくまでも、ごり押しされた場合にかぎる。ただし、そ のときもねばれるだけねばるっもりだ。思うに、日本の外交官たちは日本軍のやり方を恥ずかし く思っているらしい。だからドイツの旗がついた家が四十軒も略奪にあい、しかもそのうち何軒 も焼き払われたなどということはうやむやにしておきたいのだ。 わら ぬかるみとごみにまみれた通称ジーメンス・キャンプのわが庭の藁小屋のなかで、二晩続けて 、ゲド」dが午よれた。月の戸と久の戸。こんな宿しか産婦に与えられない世の中なのだ。医者も、 助産婦も、看護婦もいない。おむつもない。親たちの手には汚れたぼろ切れ数枚だけ。私はそれ ぞれの親に十ドル贈った。「お礼に」と、女の子は「ドーラ」、男の子は「ジョニー」と名づけら れた。いやあ、うれしいね! 6 5 1 松の盆栽を二つ買った。平たい磁器の鉢に入ったりっぱなものだ。福井氏と南京地区西部警備 司令官の佐々木到一少将に渡す年賀だ。ふたつともあまりきれいなので、手放すのが惜しくなっ てしまった。だが、このご時世だ、日本人をたてておかなければ。それから手作りの年賀状をこ しらえた。表には安全区のマークと私の署名、裏には南京にいる二十二人の欧米人全員の署名が ついている。 十二月三十一日 今日、うちの難民がふたり、外をぶらついていたところを日本兵に連れていかれて、略奪品を 運ばせられた。昼、家にもどると、かみさんのひとりがひざまずいて訴えた。「お願いです! うちの人を連れ戻してください。でないと、殺されてしまいます!」みるも哀れな姿だった。し かたなく私はそのかみさんを車に乗せて、中山路でようやく連中を見つけた。 武装した兵隊二十人とむきあう。案の定二人を引き渡そうとはしない。私の立場はちょっと具 合の悪いものだった。なんとか連れ戻すことができたときには心底ほっとした。 家に戻ってから難民を集めて、この二人のおろか者をみなの前で叱りとばした。ばかなことを して捕まっても知らんからな。六百三十人もいる人問のあとをそのたびに追っかけちゃいられな い。いったい何のためにここに逃げてきたんだ?また私が助けに行くと思ったら大まちがい だ。こんなことが続いたら、いずれ取り返しのつかないことになる……。 日本兵は、新年に三日、休みをもらう。兵たちがうろつかないように安全区を封鎖するとかい I59 っていたが、あてになるもんか。 そかに樹立される。 明日は、一九三八年一月一日。 いよいよ「自治委員会」 がおご I6o 一九三八年一月一日 昨日の夜九時半、七人の同志が年始に来た。アメリカ人のフィッチ、スマイス、ウィルソン、 ミルズ、ベイツ、マッカラム、リッグズの面々だ。手元に残った最後の赤ワインをあけ、一時問 ほどおしやべりした。日頃は意気軒昂のベイツが、疲れはてて眠りこんでしまったので、はやめ にお開きになった。私にも中国人の客にとっても休養をとることに異存はなかったから、そろっ て十一時に寝た。 朝七時ごろ、張がきた。かみさんの容態が悪化したという。私は大急ぎで服を着て、鼓楼病院 へ連れて行った。三回目だ。 ラオバイシン 家に戻ると、盛大な歓迎が待っていた。うちの難民たち「老百娃」(中国語で名もなき民の意) はずらりと両側に並び、私に敬意を表して、日本軍からもらった何千もの爆竹をいっせいに鳴ら した。こうして新しい自治政府を祝うのだ。それから六百人全員で私を取り囲み、白い包装紙に 朱液で書かれた年賀状を手渡し、いっせいに三度お辞儀をした。ありがとう、とうなずいて私が 年賀状を折り畳み、ポケットにつっこむと、まわりから歓声があがった。残念ながら、大きすぎ てとてもこの日記帳にはおさめられない。中国人の友人が訳してくれたところによると、 どうか貝い年であり皇すよう 一億があなたのそばにいます!収容所の難民たち 一九三八年 この「一億」がどういう意味なのか、いまだに私にはよくわからない。たぶんこれは「一億人 の善男善女」の意味だろう。張に聞くと、こともなげにいった。 「ドイツ語で新年おめでとうっていうことですよ!」 火沌切雨のあとは、使用人とジーメンスの従業員が総出で行列をつくり、おごそかに慣例の新 年の叩頭の礼をした。 午後、シュペアリングとリッグズが年始に来たので葉巻を一本ずつ進呈する。豪華な贈り物だ。 今では葉巻一本が五ドルから七ドルもする。そのほか、シュペアリングには安全カミソリも。最 近盗まれたからだ。 夜の九時に日本兵がトラツクに乗ってやってきて女を出せとわめいた。戸を開けないでいたら いなくなった。見ていると中学校へむかった。ここはたえず日本兵におそわれている。私は庭の 見張りをいっそう厳重にして、不寝番に警笛を持たせた。こうしておけば、いつお越し下さって もすぐに馳せ参じられる。だが、ありがたいことに、今晩は無事に過ぎた。 2 6 1 一月一一日 本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げて きた。クレーガiは、防空壕の上からひらりと塀をとび越えた。塀はひじょうに高いのだが、警 官がひとり手伝ってくれたので、私もあとを追おうとした。ところが二人ともバランスを崩して 落ちてしまった。さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすん だ。その間にクレーガーは兵たちをとっっかまえた。やつらはあわてふためいて逃げていった。 ただちょっと様子を見にきただけだというのだ! 十日前、銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを鼓楼病院に運んだが、今日ようやく退院が許さ れた。入院費は一日当たり八十セント。お金がないというので、私がかわりに払った。 日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院 で開かれた。演説者が協力ということばを口にしているそばから、病院の左右両側で家が数軒焼 けた。軍の放火だ。 自治奮会の代表で君かつ紅卍字会のメンバー、露がもつたいぶつて私にいつた。一ある 重要な件につき・近いうだお話ししたいのですが一どうぞどうぞ!とっくに心づもりはでき ている。お宅たちがなにを狙ってるのかなんざ、お見通しだよ! 安全区の通りは、あいかわらず見渡すかぎりの人の海だ(写真20)。何千というおびただしい 入々が道ばたにたたずんでいる。値段の交渉をしている人もある。道路の両側には行商人が鈴な -ゴー∴、、1・■-1…、ツ、い-、L□い火…収ん・1-川)、しいろ。 旭れもが目本の睨竈・や国娯をつけてとび回っている。棚町や道路の問の空き地には、 所せましと建ち並び、難民村ができている。わが家と同じ光景だ。うちの庭には、もはや草一本 生えていない。美しかった生け垣もあっという間に踏みつぶされ、見る影もなくなった。なにし ろ大人数だ、しかたあるまい。なによりまず生きることが先決なのだ! 昨夜、またしても日本兵の乱暴があいついだ。スマイスが書きとめ、いつものように抗議書と して日本大使館に提出した。 我々がひそかにおそれていたことがついに起こった。中国の爆撃機がやってきたのだ。といっ たからといって、けっして友人としてではない。敵としてだ!かつての日本軍のように、時問 どおりに爆弾を落としていく。だが、いままでのところ、幸いなことにたいていは同じ場所、つ まり南の飛行場かその近くに限られている。日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、い とも手薄だった。 空襲がこのまま安全区の外にとどまるかどうかは、あとになってみないとわからない。だが、 そうであってほしい。さもないと、いままでよりもっと悲惨なことになるかもしれないのだ。い まの安全区の混み具合ときたら、日中は上海よりすごい。そんなところに一発爆弾が落ちたが最 後、ものすごい数の人命が失われるのだ。そう思っただけでぞっとする。 一月三日 きのう夜七時に、 きた。 スマイスがフィッチあての報告書を手に医者の許伝音氏のところからやって 4 6 1 フィツチ様! 本日午後四時三十分ごろ、劉培坤は、暴行されそうになった妻を守ろうとして日本兵に射殺 されました。 近所の家が日本兵に占領されているため、わが家はいま、逃げてきた婦人たちでいっぱいで す。私はシュペアリング氏に手紙を書き、すぐにこちらへきて我々を守って下さるようお願い しました。シュペアリング氏の体があかない場合、ここ寧海路五号に、だれか他の外国人をさ しむけていただけないでしょうか?敬具 許伝音 本部に泊まりこんでいるはずのシュペアリングをスマイスが探しに行っている問、私はマギー といっしょに日本大使館へ行った。マギーはすでにこの件について詳しい報告を受けていた。田 中氏に軍部に出向いてもらい、この事件を調査するよう要求してもらうのだ。これは実に計画的 で残虐な犯行だ。 劉の妻がおそわれたのは昨日の朝だった。五人の子どもがいる。夫がかけつけ、日本兵の横っ …小は,こ^、い広った。午後、媚は几腰だったその兵士は、今度はピストルを持ってやってきて、 台所に口れていだ醐をひ曽ずり旭した。近所の人が必死で命乞いをし、ある者は足もとにひれ伏 してすがった。だが日本兵は聞き入れなかった。 田中氏は、ただちに軍部に報告すると約束した。私も氏が約束を果たさなかったとは思ってい ない。だが結局、沙汰やみだ。兵士の処罰といえば、いつだってたかだか平手打ちどまり。それ 以上こらしめたという話を聞いたことがない。 せめてもの慰めのつもりだろう、田中氏は、そのあととてもうれしいことを教えてくれた。目 下蕪湖にいるローゼン、それからたぶんヒュルタiとシャルフェンベルクの三人が、一月五日に 南京に到着するそうだ。ということは、アメリカ大使館の人たちと同じ日だ。そちらからはすで に連絡がきている。 クレーガーは紫金山にいった。天文台は粉々になり、頂上に行く道もかなりひどいことになっ てはいたが、通れないわけではない。なにもそんなところに行かなくてもいいのに。わざわざ危 ない目にあうことはない。のっぴきならない事情でもあれば別だが。ま、だれかあいつにそうい ってやってくれ! 今日は二階の風呂場で水がでた。正午には、ところどころ、電気もついたのだが、一時ごろに なってまたとまってしまった。たぶん、我々にラジオのニュースを聞かせないためだろう。 給食所と収容所の決算報告で、委員会の財政がかならずしも楽ではないことがわかったが、こ れには改めてうなってしまった。要するに、働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っ ていたのだ。なんせここは中国だ。手数料なしにはなにひとつ運ばない。 今日うちの庭で、とほうもない値段をふっかけようとした野菜売りをつかまえた。ちょうどそ 5 6 1 こにいあわせた女の人たちが晶物をそっくり買いとろうとしたので、私はそれをとめ、そいつを 追い払った。 I66