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<1994年6月4日>
彼岸で丘の方の墓に行った。豚の肉、イモとタピオカで作ったモチを持って。豆腐もあった。豚は友軍に供出する。住民はやみ殺しの肉を手に入れた。ハルは久々のごちそうを楽しみにしていた。
十五歳だった新垣ヨシは、家のヒンプンに登って飛行機を数えた。一、二、三…三十二まで。友軍と思い、勇んで数えた。それが編隊を組んで襲ってきた。空襲で燃える集落は、住民が避難した壕や墓からよく見えた。
ハルの親せきのおじいが機銃に撃たれ死んだ。夕方から、たんすの引き出しに入れ、葬った。慌ただしかったが、葬式らしいのは、このおじいまでだった。
四四年六月の南洋の激戦が伝わるころ、住民はT字型の幅一メートル、奥行き五メートルほどの一家だけの小さな壕をつくった。北部への疎開は「島はどこへ逃げても同じ」と行く者は少なかった。食料もどうなるか、心配だった。
三月二十三日の空襲、中城湾は軍艦で埋まり、翌日から激しい艦砲射撃が始まる。
十五歳の大城盛保は家族と壕にいた。友軍がきて、体格のいい盛保はその場で爆弾運びに徴用。父親の樽(当時四十九歳)も防衛隊にとられていた。母・カナシ(90)は「盛保を残して北部には行けない」と思った。
和宇慶の住民の多くは守備軍の指示、壕追い出しもあって、南へと逃げる。男は兵隊、防衛隊にとられ、母親が中心となった老人と婦女子による家族単位だった。
西原から東風平、または旧真和志村、豊見城へ。そして糸満、真壁、喜屋武の激戦地をさすらう。
カナシも子供五人を連れ南部へ逃げた。東風平で樽と出会い、盛保も捜し出した。二人は防衛隊を離れ、家族と一緒になる。それもつかの間、糸満・照屋で爆弾二個が直撃した。樽とおぶっていた六歳の三男盛一、十一歳の四女フミと抱いていた二歳の七女スエ子、六女のハツ子五歳、五女のハル十歳。一瞬にして六人を失う。
カナシは「十人産んで、八人は元気に育てたのに」と五人の子が無念でならない。
女子青年団長の儀間トヨは十八歳、軍と行動を共にした。和宇慶の隣、伊集の壕で「ほんとに行くの」と母カメは聞いた。別れたのは四月の初めだった。
真壁の広い自然壕。民間人が多く、壕入り口で親を求めて四、五歳の男の子が泣いた。「親はいないか」と兵隊の声。返事はない。兵たちがその子を奥へ連れていく。止血用だろう三角布で首を絞めた。布を引き裂いて細くして、また絞めた。トヨは目をそらした。
トヨは八月十五日ごろ捕虜となった。祖母、父母、四人の弟妹は亡くなり、生き残ったのは防衛隊の兄・仁徳と二人だった。
和宇慶区は三年前から全犠牲者の名簿作りを進めている。戦前の集落を描き、屋号ごとに。従来の記録より九十六人も増えた。
三百八十一人の名を刻む「和宇慶之塔」は今月末に完成する。(敬称略)
防衛隊 防衛召集により編成された住民を中心とする部隊。満17歳以上45歳の男子に軍人資格を与え、補助兵力とした。44年10―12月は飛行場建設、45年1―3月は持久戦のための陣地構築が主任務。以後、正規の手続きはなく各部隊が勝手に召集、障害者、13歳や75歳もいた。約22000人のうち約13000人が戦死。
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