*chapter03a|夕日 *scene01|どこかのシロ テレビから、声が聞こえていた。[plc] 【ゴボウイヤー】 「おのれ、トラムネ! 何度も貴様に勝利の栄養は与えん! ここで我が養分となれぃ!」[plc] 【トラムネ】 「推参なり、ゴボウイヤー。貴殿の悪行、見過ごせぬ。見過ごせぬのだ」[plc] 暗い部屋だった。[plc] 部屋を照らすものはテレビの光しかなく、またそれも弱弱しいものだった。[plc] 【ゴボウイヤー】 「黙れ、大旋風! ビッグ・パンプ様のご寵愛を一番に受けておきながら、その始末! この裏切り者め!」[plc] 【ミミ】 「え?……裏切り? トラムネが?」[plc] 【トラムネ】 「……………」[plc] 【ゴボウイヤー】 「知らんのか、小娘! ならば教えてやろう!」[plc] ゴボウイヤーは戸惑う町娘に嫌味な笑顔を見せつけ、トラムネを触手で指し示した。[plc] 【ゴボウイヤー】 「そやつはもともと我ら『ベジタリ』を統括する地位を授けられ、ビッグ・パンプ様の右腕として大陸を生きた男だ!」[plc] 【ミミ】 「そ、そんな……」[plc] ウサギを模した町娘は衝撃にして突然の事実に戸惑い、口もとをおさえた。[plc] 対するトラムネは、無言。[plc] 【ゴボウイヤー】 「なぁ、そうだろう? コタロウ?」[plc] 幼少時の名前で自らを呼ばれ、憤慨したのかトラムネが無言で抜刀した。[plc] 彼の眼が、彼の代わりに悲痛さを伴って叫んでいた。[plc] 『その名で、呼ぶな!』と。[plc] 【トラムネ】 「…………」[plc] 【ゴボウイヤー】 「フハハハ、どうした、コタロウ? 昔を思い出したのか?」[plc] 【トラムネ】 「昔など……ない」[plc] 【ゴボウイヤー】 「そうかな? ビッグ・パンプ様とお前、そしてコジロウと私の四人で、あんなにも楽しく暮らしていたではないか?」[plc] 『忘れてしまったのか?』と残念そうに告げるゴボウイヤーの言葉尻に噛みつく勢いで、トラムネは叫んでいた。[plc] 【トラムネ】 「その平穏を初めに壊したのは誰だ、ゴボウイヤー!? 紛れもないビッグ・パンプだ! あいつが俺を、そしてお前たちを、裏切ったのだ!」[plc] 一息に吼えたトラムネをじっと見据え、ゴボウイヤーは告げた。[plc] 【ゴボウイヤー】 「………だが、そのあとの貴様の裏切りで、あのお方は笑わなくなったのだ」[plc] 【トラムネ】 「……なん……だと………?」[plc] 寂寞の思いを帯びたゴボウイヤーの目に、トラムネが自身の憤慨を瞬間忘れた。[plc] 【ゴボウイヤー】 「以来、ビッグ・パンプ様は、お嬢様は変わられた。P伯爵やキャロリーナなどという下劣な輩ばかりを仲間に引き込んだ」[plc] 【トラムネ】 「……………」[plc] 【ゴボウイヤー】 「コタロウ、いや、トラムネよ。あのお方はたしかに貴様から見れば裏切ったのかもしれん。だが、もし……」[plc] 【???】 「しゃべりすぎだ。ゴボウイヤー」[plc] 【トラムネ・ゴボウイヤー】 「!?」 頭上からの声に、問答をしていた二人の顔が上がる。[plc] そして空から舞い降りた一人の屈強そうな侍は、鬣をひるがえしながら、ゴボウイヤーに相対した。[plc] 【ゴボウイヤー】 「シシウジマル……」[plc] 【シシウジマル】 「貴様のしゃべっていることが事実にせよ、なんにせよ、今の貴様には関係なかろう?」[plc] 【トラムネ】 「貴様、以前の雄獅子!」[plc] 【シシウジマル】 「帰還するぞ、ゴボウイヤー。今の貴様はあきらかに戦意を欠いている」[plc] 【ゴボウイヤー】 「…………承知した」[plc] 【トラムネ】 「待て、貴公ら! まだ話は終わっていない!」[plc] 【ゴボウイヤー】 「……………いずれだ、コタロウ。そのときにこそ、決着を」[plc] 【シシウジマル】 「………………」[plc] そしてトラムネを残し、二人は朝霧の中に消えていった。[plc] ………………。[plc] 突如現れた謎の男・シシウジマルと、過去への想いに目を曇らせるゴボウイヤー![plc] 明らかになりつつあるトラムネの過去! ビッグ・パンプと彼の関係とは―――!?[plc] そしてトラムネの正体を知ってしまったミミ! いったい、彼らの運命はどうなってしまうのか―――![plc] ―――つづく![plc] …………………。[plc] 【???】 「……ふぅ―――」[plc] 緊迫に止めていた呼吸を再開し、三十分間の幸福を味わった男はため息をついた。[plc] 【???】 「何度見ても、良い演出だ」[plc] 【???】 「このストーリーの荒唐無稽さ、べたついた脂のようなテカリ具合、ざく切りの撮影技法、どれを取っても素晴らしい」[plc] ぶつぶつと品評をはじめた男。[plc] そのメガネ越しの瞳は、どこか人を食った色味を帯びている。[plc] それがテレビの光に照らされ、なんとも言えない不気味さをかもし出していた。[plc] と。[plc] 【女性】 「こんなところにいたんですか、主任? って、またソレですか……」[plc] 【???】 「ん? あぁ、穂波くんか。こんなところとは失礼だな、私の心はいつだってココにある」[plc] 【穂波】 「またそんな世迷言を……。明かりつけますよ、主任」[plc] 【???】 「はいはい」[plc] 白衣をまとった女性が明かりをつけ、部屋の全体が明らかとなる。[plc] 照らされたのは、一面の白。古ぼけた小さいテレビ以外の棚や机、ソファーにグラス。それらがすべて白で埋まっていた。[plc] 【???】 「うぅ〜ん、老いた体に鞭打ってソファーから立ち上がる私」[plc] 【穂波】 「誰に説明してるんですか、気色悪い」[plc] 【???】 「失礼だな、喜色は満面だよ。それが私のモットーだから」[plc] くるりと顔の向きだけ変えて、穂波という女性を指差す男。[plc] 口もとを吊り上げてはいるが、目は相変わらず人を小ばかにするように歪んでいる。[plc] その表情を見慣れているのか、穂波がため息をついた。[plc] 【穂波】 「そっちのキショクじゃありませんよ……まったく。そろそろお時間ですよ、[ruby text="おか"]丘主任」[plc] 【丘】 「はいはい、それじゃー仕事嫌いの丘主任は嫌々仕事に向かうとしましょうか」[plc] 腰骨に手をやって後ろに反らせながら、主任・[ruby text="おか"]丘 [ruby text="ゆ"]由[ruby text="きち"]吉は部屋の出口へと向かう。[plc] その迷いのない足取りに、仕事を急かしたはずの穂波の方がとまどった声を出した。[plc] 【穂波】 「しゅ、主任……? 大丈夫、ですよね?」[plc] 【丘】 「うん? 大丈夫かって? 大丈夫じゃないだろうなぁ」[plc] 【穂波】 「それでも……彼に、会いに行くんですか?」[plc] 【丘】 「行きますよ、職務怠慢でクビにはなりたくないし」[plc] さっきまで特撮番組を品評していた男のセリフとは思えなかった。[plc] 【穂波】 「ですが、彼は―――」[plc] 【丘】 「穂波くん、存外に時間が無い」[plc] コツコツと愛用している腕時計を指でつついて、丘は穂波の言葉を待たずに歩き出した。[plc] 同じ白衣を着た男の背中を見送りながら、穂波は迷いを振り切ったのか、勢いに告げる。[plc] 【穂波】 「も、もし彼と会ったときに、その、自分のことを覚えているか、聞いてはいただけませんか?」[plc] 【丘】 「気が向いたら」[plc] そう応えて、丘は研究所の最深から地上へと抜け出す階段へ足をかけた。[plc] コツコツコツ―――。[plc] 白の階段でひどく目立つ黒の革靴だけが、フロア全体に音を響き渡らせる。[plc] 【丘】 「覚えているか……か」[plc] その静寂に耐えかねたのか、丘は口を開いた。[plc] 【丘】 「ありえるわけがないだろうに」[plc] ぼやいた男のメガネ越しの瞳に、人を食った色合いはもうなかった。[plc] *scene02|出掛けの朝 【西院歌】 「…………どこか、行くの?」[plc] 【北斗】 「うん、真鉄とイチローと待ち合わせ」[plc] チュンチュンと小鳥のさえずりを背景に、僕と西院歌さんは朝食をとっていた。[plc] 本日は大変お日柄の良い休日ということもあって、僕個人としてはとても気分が良い。[plc] 今日も里さんが作りに来てくれた朝食のパンに鼻歌交じりでジャムを塗りながら、僕は質問に答える。[plc] 【北斗】 「ほら、この前新しくゲームセンターができたらしくてさ」[plc] 【西院歌】 「そう……」[plc] 【北斗】 「ちょうど[ruby text="ツリー"]水[ruby text="マンタ"]都の近くまで行くから、下見にもなるし」[plc] 【西院歌】 「……そうね」[plc] 【北斗】 「そのついでに乃兎さんの様子でも見てくるよ」[plc] 本日、休日出勤の一家の大黒柱の仕事を見てみたいという気もあった。[plc] 先日の教頭先生の熱弁が、少なからずと言えど僕自身に効いていたことに、自分でも驚きだったりする。[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 【北斗】 「西院歌さん?」[plc] 【西院歌】 「ええ……そうね」[plc] 【北斗】 「………?」[plc] 僕が答えてから心ここに在らずと言った顔の西院歌さんに、首をかしげながらパンをかじった。[plc] あ、今日のブルーベリー、絶品。[plc] 【北斗】 「里さん、このジャム美味しいですね」[plc] キッチンで何かいそいそと調理中の里さんに声をかける。[plc] 彼女は少しだけこちらへと視線を投げ、すぐにまた戻しながら言った。[plc] 【里】 「んー、それは知人におすそ分けしてもらったものだ。なかなか奇特な御仁でね。何でもブルーベリーからして自前の品だと」[plc] 【北斗】 「へー……」[plc] キッチンからなんとも心地よい焼き音と香ばしい匂いをさせる里さんの言葉に感嘆の声をこぼしながら、パンをまた頬張った。[plc] なんともいえない酸味の利いていながらの甘味。[plc] 【北斗】 「おいし♪」[plc] 今日のおやつはコレとヨーグルトで決まりかなぁ。[plc] ん? おやつ?[plc] ……………なんか、あったような……。[plc] …………。[plc] 【北斗】 「あ」[plc] 【西院歌】 「どうかした?」[plc] 【北斗】 「え? あー……[l]うん。なんでもないってことにしといて」[plc] 短く声をあげた僕にすかさず反応した西院歌さんへと、[ruby text="かぶり"]頭を振った。[plc] それにしてもいけないいけない。すっかり忘れて約束をやぶるところだった。[plc] 【西院歌】 「そう……それよりも、ひとつ」[plc] 【北斗】 「んー? 何?」[plc] 【西院歌】 「私と南たちも、あとから合流するから」[plc] 【北斗】 「――――」[plc] ……………。[plc] 【西院歌】 「どうかした?」[plc] 【北斗】 「乃兎さんの紅茶にまで砂糖入れる甘党っぷりはどうかと思うんだけど、西院歌さんはどう思う?」[plc] 【西院歌】 「話、逸らさない」[plc] ―――ちぇっ。[plc] 一瞬呆然としてしまった自分を恥じながら、西院歌さんに問う。[plc] 【北斗】 「それにしても、何でまた? 西院歌さんも出かける予定だったの?」[plc] 【西院歌】 「えぇ、今日は新作の発売日だから」[plc] 【北斗】 「また傘ですか」[plc] 西院歌さんの傘マニアっぷりもここまでくると筋金入りだ。[plc] しかも日傘・雨用の二種類から、春夏秋冬の四季節にバリエーションが分かれるから恐ろしい。[plc] 乃兎さんなんて、真っ黒の傘一本だけだって言うのに。[plc] まぁ、そんなことはともかくと僕は話を本題に戻した。[plc] 【北斗】 「出かけるのも、新作の傘も良いけど……合流は、ちょっと」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] あ。無言の圧力。ロードローラーに潰されるようなプレッシャー。[plc] とはいえ、無抵抗でぶっつぶれるのも僕の趣味ではない。[plc] 【北斗】 「ほら、男同士で積もる話というか、なんというか………」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 【北斗】 「だ、大丈夫だって。イチローたちと一緒にいるから、そんな心配しなくても」[plc] ここまで僕が必死に断るのには、それなりの理由があった。[plc] その理由がまたなんとも珍妙で、自分でもなんであいつのためにこんなことを、と思うのだが。[plc] でも正直な話、休日まで西院歌さんの監視下にあるのは少し気が引けるというのもあった。[plc] 【西院歌】 「なら…………」[plc] よし。来たぞ、譲歩案。[plc] 【北斗】 「うん、何?」[plc] 【西院歌】 「合流は、兄さんのところで」[plc] 【北斗】 「それなら、オッケー。二人にも言っておく」[plc] どうせ乃兎さんの場所に回るのは最後だから。それまでに話を終えてしまえば問題ない。[plc] あいつめ……一つ貸しだからな。[plc] なんて思ってたら、西院歌さんがポツリとこぼしてきた。[plc] 【西院歌】 「ありがとう」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 【西院歌】 「合流、許してくれて」[plc] 【北斗】 「あぁ、そんなことか。気にしなくていいよ」[plc] 【西院歌】 「イチローと会う口実ができた」[plc] …………………なんですと?[plc] 一瞬、僕だけ世界が止まった気がした。[plc] 【北斗】 「……さ、西院歌さん」[plc] 聞き間違いであってほしいと願いつつ、僕は確認の声を投げた。[plc] 【西院歌】 「何?」[plc] 【北斗】 「イチローと、会いたかったの?」[plc] 【西院歌】 「えぇ、彼……面白いから」[plc] …………………またまたなんですと?[plc] 再び、世界が止まった気配。[plc] のちにざーっと音をたてて、全身から血の気が引いていった。[plc] 青。あお。アオ。僕は、今、青一色。[plc] 【北斗】 「な、ななななんなあなな―――」[plc] 【西院歌】 「……どうしたの?」[plc] 【里】 「ふぅ―――仕上がった仕上がった。って、うわ、どうしたね、北斗くん? くるみ割り人形とは渋いイッパツ芸だ」[plc] エプロン姿の里さんがキッチンからでてきたとか。[plc] 面白いからと言った西院歌さんの顔が今までにないくらい優しげに見えたとか。[plc] 今の僕はくるみ割り人形みたいなリアクションなのかとか。[plc] そんなことはどうでもよくて。[plc] そう、そんなことは全部どうでもよくて―――僕は、思わずさけんでいた。[plc] 【北斗】 「だ、駄目駄目駄目だよ、西院歌さん! イチローは駄目! ダメ、ぜったい! 同居人として認めません、ええ認めませんともこんちくしょー!」[plc] 【西院歌】 「………駄目って、何が?」[plc] 【里】 「新鮮だねぇ、彼がここまで盛大に壊れるとは」[plc] なんだか冷めた目でこっちを見てくる二人がいるけど、今の僕にはそんなこと関係なかった。[plc] なんてったって僕の心情風景は今や天変地異を飛び越え、世界創造の域に到達しかけていた。[plc] とにかく駄目なのだと言う感情だけがトップギアのままアクセル全開なんですよ―――![plc] ああ、刻が見える……かも?[l]―――じゃなくて![plc] 【北斗】 「と・に・か・く! イチローは駄目! いくらイチローだって、西院歌さんをやれるもんか!」[plc] 【西院歌】 「――――」[plc] 【里】 「おっ」[plc] 僕のぎゃーぎゃーとうるさい喚きに西院歌さんが目を見開き、里さんが意外だったのか丸くした。[plc] 【里】 「驚きだ。まさか、北斗くんがここまで積極的だったとは」[plc] 【北斗】 「……え? 何がです、里さん?」[plc] 吠えたせいで息を乱した僕は里さんの言ったことの意味がよく理解できなかった。[plc] 【里】 「何、つまらん感嘆というやつさ。それよりも……」[plc] ちらりと、里さんは隣の西院歌さんを見るように僕へうながした。[plc] そうして視線を戻した僕の先に映っていたのは―――なにごとか黙りこくっている西院歌さん。[plc] 【里】 「さて、彼にどう返すのかな? お姫様は?」[plc] 【西院歌】 「…………!」[plc] 西院歌さんは里さんの嫌みったらしいニヤケ顔に反応したのか、ピクリと肩を震わせた。[plc] 気のせいか、彼女の耳がまた妙に赤い。しかも、気のせいじゃなければ、いつもの比じゃない。[plc] 【北斗】 「西院歌さん?」[plc] 【西院歌】 「……なん、でもない」[plc] それだけ搾り出したように言うと彼女は勢い良く立ち上がり、食器を片してリビングを後にしてしまった。[plc] 遠くで響いたのは、冷静で物静かな彼女らしくないドタドタという階段を駆け上がる音と、バタンと勢いでドアを閉める音。[plc] …………………。[plc] 【北斗】 「里さん、僕、ひょっとしてすごい地雷踏みました?」[plc] ずずーっと、勝手知ったる他人の家と言わんばかりに茶を啜っている女風来坊に聞いてみる。[plc] すると、里さんは考えるまでもないと一言で切って捨てた。[plc] 【里】 「ある意味、とびっきりのをね」[plc] 袈裟がけに斬られた僕は、自己嫌悪でテーブルに突っ伏した。[plc] *scene03|停留所まで 【北斗】 「あ〜、なんであんな失敗したかなぁ」[plc] 目的地に向かいながら、僕はさっきの大失態をぼやいていた。[plc] あのあと西院歌さんは結局部屋から出てこず、僕はなんとも微妙な心もちのまま外に出てしまったのだが。[plc] 【北斗】 「……いや、僕やっぱりなんか悪いこと言ったのかな?」[plc] そりゃ多少感情的になってはいたけれど。[plc] 【北斗】 「でも、間違ったことは言ってないはずだ……」[plc] いや、間違いとかそんなこと関係なく西院歌さんがイチローに興味を抱いたことが驚きだった。[plc] 西院歌さんは基本的に周りの人たちのことを名指しして、何か言う人でもなかったから尚のこと……。[plc] 【北斗】 「あれ?」[plc] そのとき、嫌な予感が頭をよぎった。[plc] それって、つまり。[plc] それほどまでイチローに感心を抱いてるということ……?[plc] 【北斗】 「…………うっわ」[plc] なんかすごくお腹がムカムカしてくるんですけど。[plc] そういえば叫んでたときもこんな風になってたような、なってなかったような。[plc] 【北斗】 「む〜」[plc] 嫌だ。なんかすっごく嫌だ。[plc] この理由も何も二の次になってしまいそうなムカムカが、僕の神経を逆なですることこの上ない。[plc] 【北斗】 「なんだ、これ?」[plc] …………病気かな? 食べすぎ、とか。[plc] うぅ、たしかに最近ちょっと自分でも食べるなぁと思ってはいるけれど。[plc] だが、また里さんと一緒にダイエット用ヨーグルト三昧がはじまるのは御免被りたい。[plc] いくら外種の僕だって、色々気になるものはあるんだ。……体脂肪率とか。お腹のプニプニとか。[plc] 【北斗】 「はぁ、食べても太らない人は良いよなぁ」[plc] なんて声に出しては見たけれど、ムカムカはおさまらない。[plc] どうやら食べすぎが原因というわけでもないらしい。[plc] 【北斗】 「じゃあ、なんだ?」[plc] ひとりごちてから、考える。[plc] 西院歌さんのことを考えててムカムカするんだから、西院歌さんに関係がある。[plc] でも普段の西院歌さんにはそんな風に思わないから、西院歌さんに関連した何かだ。[plc] 西院歌さんが僕をここまで不快にさせるとは考えにくいのだけれど……。[plc] …………。[plc] ―――『彼……面白いから』。[plc] 【北斗】 「ぅ〜……」[plc] ともすればすぐに西院歌さんの姿が脳内で上映され、うなってしまう僕。[plc] どうやら自分でも意識しないうちに重傷のようだ。[plc] しかし、こんななんでもないことで……?[plc] 【北斗】 「あれ?」[plc] そんなとき、ふと思い当たった。[plc] もしかして僕、西院歌さんがイチローを気にかけてることに怒ってる?[plc] ………………。[plc] 【北斗】 「いや。いやいや。いやいやいや! ない、ないよ、それはない!」[plc] 語尾に力を込めて断言した。[plc] なんか慌ててるみたいな口調になっちゃったけど不可抗力だから、他意はない。[plc] …………ないったらない![plc] 【北斗】 「ない、ないない。ないから関係ない」[plc] 関係ないけど腹立つからあとでイチローには相応の目にあってもらおう。[plc] 気持ち悪いムカムカを下っ腹を撫でて誤魔化してから、よしと気合を入れなおす。[plc] そうして僕は集合場所の停留所で足を止め、まだ来ていない二人を待つことにした。[plc] *scene04|遅刻注意報 ……………。[plc] おそい。[plc] 集合をこの時間にこの場所だと指定したのはイチローのくせに。[plc] 真鉄はどうせお忍びで来るんだろうからともかくとして、イチローが遅すぎる。[plc] 【北斗】 「また寝坊だな、あいつ」[plc] さて、いよいよどうしてくれようか。[plc] なんて、一人ぶつぶつと呟いていた僕に向かって、少し遠くから声がかけられた。[plc] 【???】 「お〜い! ほくと〜!」[plc] 見れば、そこには手を振っている凹凸の差が激しい二人組の姿。[plc] 誰あらん、真鉄とイチローの二人だった。[plc] 【北斗】 「やっと来たよ……。おそーい! 駆け足ー!」[plc] 僕の号令一下、二人が同時に全速で駆けてきた。[plc] それにしても物凄いスピードだ。[plc] なんだか疾る二人の表情には鬼気迫るものがある。[plc] というより、殺気そのものだ。[plc] 如何な理由であろうとも貴様だけは許さん。爪を剥ぎ、肉を抉り、骨を砕いて、残りは海に撒いてやるみたいな。[plc] ――――え? 殺気?[plc] 【東一郎】 「このチビ! どこほっつき歩いてたぁ!?」[plc] 【真鉄】 「…………」[plc] 【北斗】 「へぶぅ!?」[plc] 勢いをつけた助走のち跳躍からの大胆な蹴りが二つ、僕の鳩尾と喉仏をしたたかに蹴り貫いた。[plc] 軽く吹き飛ぶ僕。[plc] ―――け、蹴った! 本気で蹴りました、この人たち![plc] 【北斗】 「しかも片方無言で蹴ってくるところから思うにマジで怒ってます! 見た目同様大人気ない!」[plc] 衝撃で後頭部から地面に転がった僕は、頭を押さえつつ立ち上がる。もちろん、涙目で。[plc] と。目の前に、二人はいなかった。[plc] 【東一郎】 「お前の頑丈さには毎度あきれるが、今日ほどあきれ果てた日はねぇ……」[plc] 【真鉄】 「………」[plc] 後ろから声と沈黙。[plc] ダラダラと冷や汗。[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 肩に置かれた手。[plc] 【真鉄】 「…………」[plc] 振り向いて、苦笑い。[plc] 【北斗】 「ア、アハ……」[plc] 【真鉄】 「……♪」[plc] 無垢な子供の笑顔で返される。[plc] 安心。[plc] 【真鉄】 「死ね♪」[plc] 直後の死刑宣告。[plc] 【北斗】 「にゃー!? なじょしてー!?」[plc] 速やかに動く真鉄の腕。首をがっちりとホールドされ、そのまま締め上げられる。[plc] 【東一郎】 「真鉄ー、あんまりやりすぎるな。遊ぶ暇なくなるから」[plc] 【真鉄】 「んー」[plc] 【北斗】 「あ! ちょ! 真鉄、首はダ―――ぎゃ、痛、ぐぇっ!……が……ま……!?」[plc] ゆるやかに落ちていく意識の隅で、見上げた空は今日も青かった。[plc] *scene05|(ネコ)バスの中で 【北斗】 「えーと、すいませんでした」[plc] 持ち前のうっかりで指定された場所を間違えていた僕は、平に謝った。[plc] 気絶して数分で意識を取り戻し、とりあえずバスとも呼ばれるネコという乗合車へ駆け込んでから二・三分が経過。[plc] 【東一郎】 「…………」[plc] 【真鉄】 「…………」[plc] 二人はまだ口を聞いてくれない。[plc] 【北斗】 「反省してます。猛省してます。もうしません、三十度としません」[plc] 【東一郎】 「律儀に回数覚えてんじゃねぇ」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 【アナウンス】 ≪次は―――……でございます。御降りの方はお荷物・傘の置き忘れの無いようご注意ください≫[plc] 真鉄のうなずきと同じタイミングで、ネコが次の停留所へ停車する。[plc] 次の次が自分たちが降りる場所であることを確認してから、また二人へ向き直った。[plc] 【北斗】 「それはそうと今日行くところさ、僕まだ行ったことないんだけど」[plc] 【東一郎】 「オレもないな。真鉄は?」[plc] 身振りでの問いかけにイチローが答え、真鉄へと目線をやった。[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 喋るのが億劫なのか、あるという意思表示に縦に首を振る真鉄。[plc] 【北斗】 「へぇ。どうだった?」[plc] 【真鉄】 「悪くない、と思う」[plc] 【東一郎】 「オレお気に入りのアレはあったか? あのクイズの――」[plc] 【真鉄】 「……あった、ような」[plc] 【東一郎】 「なんだよ、真鉄ともあろう者がそんな弱気な。らしくねぇ」[plc] イチローの意外そうな言葉に真鉄もそれを自覚しているのか、口もとを不服に歪めながら、言った。[plc] 【真鉄】 「……寄ったときは、侍従長たちとレイから逃亡中だった」[plc] 【北斗・東一郎】 「あー……なるほど」[plc] 真鉄の言葉に二人して納得する。[plc] 来部財閥のお嬢様・来部さんと神矢 真鉄は、幼馴染であると同時に家族ぐるみの付き合いだ。[plc] なんでも真鉄のおじいさんと来部さんのおばあさんからの付き合いだとか。[plc] まぁ、それだけならともかく、仮にも来部さんは財閥の大事な一人娘。社長令嬢だ。[plc] そんな彼女と幼馴染なのだから、神矢家も来部財閥に及びこそしないもの、その財力、推して知るべしである。[plc] 【北斗】 「よくこっちまで逃げてこれたね」[plc] 【東一郎】 「記録大幅更新ってやつか」[plc] 二桁に及ぶメイドさんたちの決死の追跡から逃げおおせ、よくもここまでと感心する。[plc] 【真鉄】 「む……」[plc] しかし真鉄の青い顔は、そのあとの折檻の凄惨さを少しだけ教えてくれた。[plc] そんな彼を慮り、「ともかく」と僕は話を本線に戻す。見て見ぬ振りも立派な友情だ。[plc] 【北斗】 「じゃあ、真鉄もまだ眺めただけなんだ」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 肯定のうなずきと声。[plc] だが眺めただけでも真鉄が面白いだろうと判断したのなら、そこに八割がた間違いはない。[plc] 【北斗】 「…………」[plc] あ。なんか唐突に楽しみになってきた。ちょっと体が疼いているのが自分でも分かったりする。[plc] そうだ。折角西院歌さんや里さんの監視の目もないんだから、目いっぱい遊んで―――……。[plc] 【北斗】 「あれ?」[plc] 【東一郎】 「どうした、北斗?」[plc] 【北斗】 「いや、なんか、なんだろう? すごく厄介なことがあったような」[plc] そう、たしか原因は目の前にいるイチローが―――あ。[plc] 【北斗】 「……忘れてた」[plc] あのときもらった二発の跳び蹴りは、あの厄介ごとを記憶から一時的に抹消してくれていたらしい。[plc] だが結局思い出してしまった事実を、どうしたらいいか分からない僕。[plc] イチローに伝えておくべきか。おかないべきか。[plc] 【北斗】 「あの、イチロー……」[plc] 【東一郎】 「ん? どした、北斗?」[plc] 怪訝に軽く眉を寄せ、当惑しっぱなしの僕へと向き直るイチロー。[plc] あああああ……! なんて言えばいいのか!?[plc] 『うん、実はね、西院歌さんがイチローに会いたいから、あとで合流するとか言ってたけど、僕は許さんぞ! うちの娘を貴様なんぞにやれるか!』[plc] ―――違う! 途中から雑念が混じった!?[plc] 【アナウンス】 ≪次は―――……でございます。お降りの方は―――≫[plc] 【東一郎】 「お。着いたか、行こうぜー」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 【北斗】 「いや、でも、雑念と言うより本心だけど。いやいや、そんなことは関係なくて―――ってあれ?」[plc] 必死に思考を働かせつづけた僕が顔を上げた先、当人ともう一人は、すでに目的地へと降りていた。[plc] 【北斗】 「ちょ、ちょっと待ってよ、二人とも!!」[plc] 慌てて駆け出した僕は、雑念その他もひっくるめて、また厄介なことを忘れた。[plc] *scene06|阿修羅ガールの登場 ちょっと思うときがある。[plc] 【東一郎】 「だから、オレたちが何をしたってんだよ」[plc] 世の中というのは、上手くできているものだ。[plc] 【老人】 「黙れ、小童! ワシは今気が立っとるんじゃ!」[plc] ひとつ良いことがあると、必ずひとつ悪いことが起きて釣り合いをとるのが良い例だ。[plc] 【東一郎】 「イチャモンで、んなこと言われても知らねーよ。いいから通せ」[plc] だが、僕は今日特別何か良いことがあったわけでもない。[plc] 【老人】 「いーや、通さん! 貴様らにはみっちり社会の厳しさを教えてやるわ!」[plc] むしろ遅刻して責められた上に気絶させられたり、どう考えても悪い方に分があった気がする。[plc] 【東一郎】 「わからねぇ爺さんだな! こっちの言い分くらい聞きやがれ!」[plc] 【老人】 「じゃかましいわ! クソ餓鬼が!」[plc] 【東一郎】 「なんだと、ジジイ!」[plc] だから、こんなところでトラブルに遭っているのはひどく正しくないと思う。[plc] 【北斗】 「あー、イチロー。いくら理不尽でもおじいさん相手に本気になっちゃ駄目だよ?」[plc] 【東一郎】 「向こうが勝手に道塞いでんだ。オレは知らない」[plc] 【老人】 「そうじゃ、ワシが道を塞いでるんじゃ。とっとと失せろ!」[plc] 乱暴に吐き捨てたイチローの言葉に、さらに食ってかかるおじいさん。[plc] その目は焦点を捉えておらず、呂律も怪しい。[plc] 【北斗】 「……真鉄」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 真鉄に確認すると短くうなずいた。[plc] どうやら、このおじいさんは白昼堂々の酔っ払いらしい。[plc] 理由はよく分からないが、とにかく僕たちをこの先へと通すことを拒んでいるようだ。[plc] 【北斗】 「お酒は構わないけど……からみ酒はなぁ」[plc] まいったな、まだゲームセンターにも行ってないのに。[plc] この様子じゃ、ここで諦めたほうが平和的に解決できそうな気もする。[plc] 【北斗】 「ねぇ、イチロー。諦めて別の道行こうよ」[plc] 【東一郎】 「あぁ? いや、オレはそれでもいいけどよ」[plc] 【北斗】 「なにかあるの?」[plc] 【東一郎】 「んー、いやな」[plc] イチローが、物凄い剣幕で周囲の人に喚き散らしているおじいさんをあごで差した。[plc] 【東一郎】 「ほうっておけないだろ? ありゃ、いずれ警察沙汰になるぞ」[plc] 【北斗】 「…………イチロー」[plc] ばつの悪そうに苦笑したイチローの顔に、つい釘付けになった。[plc] 【東一郎】 「俺の悪癖だぁな。悪いが、付き合ってもらえるか?」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【東一郎】 「駄目か?」[plc] 【真鉄】 「ハッ」[plc] 不安そうに首をかしげたイチローを、真鉄が笑った。[plc] つられて僕も少し笑い、イチローの肩を叩いて歩き出す。[plc] 【北斗】 「駄目なわけないでしょ。ホラ、さっさとあのおじいさん連れていこう」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 病院でも交番でも良い。とにかくここより周りの人たちに被害が及ばない場所だ。[plc] イチローと真鉄との三人でおじいさんが滅茶苦茶に振り回している腕をつかみ、抵抗しないように押さえる。[plc] 【老人】 「なんじゃ!? 暴力か! 負けんぞ、坊主ども!」[plc] 【東一郎】 「落ち着けよ、じいさん。酒の呑みすぎなんだ」[plc] 【老人】 「にゃにおぅ! 酔ってなんぞおらんわ!」[plc] 余計バタバタと暴れだしたおじいさんを、必死の思いでおさえつける。[plc] 【北斗】 「呂律まわってないし、お酒臭いし、説得力ないよ……」[plc] 【老人】 「だからワシは酔ってな―――?」 【北斗】 「?」[plc] 【老人】 「……坊主、お前……」[plc] おじいさんが、急に声をひそめて僕をじっと見つめてきた。[plc] 【北斗】 「なんですか?」[plc] 【老人】 「お前さん……“喜多 北斗”か?」[plc] たしかめるようなおじいさんの声が、固く低くなっていることに僕は気づいていなかった。[plc] 【北斗】 「はぁ、そうですけど」[plc] 【老人】 「は、離せ、貴様!!」[plc] 認めると、何故だか余計に暴れだした。[plc] 慌てて手を離す。[plc] 【老人】 「この国にいるとは聞いとったが、こんな近くにおったのか!」[plc] 叫んだ語尾に嫌悪の念が強く込められていた。[plc] そこで、僕はようやく事情を理解する。[plc] 【北斗】 「あぁ……はぁ、まぁ」[plc] 【老人】 「えぇい、失せろ失せろ! ワシに触れるな! 近寄るな!」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 油断した。[plc] 最近はここまで直接的に“喜多 北斗”を嫌う人と出会っていなかったせいだ。[plc] 【東一郎】 「おい、じいさん。何もそんな言い方ねぇじゃねか。こいつが一体何をしたって―――」[plc] 【老人】 「やかましい! こんな得体の知れん化物なんぞの近くにいられるか!」[plc] 【東一郎・真鉄】 「!!」[plc] 嫌悪は未知という存在への恐怖の裏返しでしかない。[plc] だからおじいさんの行動も、僕にはどこか正しく見えた。[plc] 【北斗】 「……………」[plc] 顔を伏せると、おじいさんは嘲笑うように口もとをつりあげた。[plc] 【老人】 「ふん、化物が!! 外をへらへらとふらついて、いっぱしのヒト気取りか!」[plc] 【東一郎】 「……………」[plc] 【真鉄】 「……………」[plc] 【老人】 「貴様なんぞ、幽閉でも研究でも一生されておればいいものを!」[plc] おじいさんの言葉に隣で二人が絶句していた。[plc] イチローは、言葉の意味を咀嚼しきれずに。[plc] 真鉄は、僕のほうをちらりとうかがうように。[pl だから、僕が代わりに口を動かした。[plc] 【北斗】 「もう満足ですか?」[plc] 【老人】 「な、なんじゃ……!?」[plc] 【北斗】 「それじゃあ、僕らは行きます」[plc] 言って、きびすを返した。[plc] つられるように、隣の二人もおじいさんに背を向ける。[plc] これ以上ここにいれば、僕はともかく、おじいさんのほうが危なく―――。[plc] 【老人】 「あぁ、帰れ帰れ、この化物!」[plc] おじいさんがペッと唾を吐き捨てた。[plc] ―――ときには、もうあいつは拳を振り上げていた。[plc] 【東一郎】 「このクソジジイ―――!」[plc] 【老人】 「ひぃっ!?」[plc] 【北斗】 「やめろ、イチロー!」[plc] 【真鉄】 「―――!」[plc] 真鉄といっしょに飛びかかって、爆発したイチローを押さえつける。[plc] どすん! と大きな音をたてて、三人で地面へ倒れこんだ。[plc] 【東一郎】 「ぐ!? 離せ、離せよ!」[plc] 振り上げた拳を落とせなかったイチローが、我がことのように暴れだす。[plc] 【東一郎】 「おいこら、北斗! てめぇのことなんだぞ、悔しくねぇのか!?」[plc] 【北斗】 「イチローが怒ることじゃないだろ! 落ち着いて!」[plc] 【東一郎】 「うるっせぇ!! このジジイは一回ぶん殴らなきゃ気がすまねぇ!!」[plc] 【真鉄】 「吾妻。いい加減に―――」[plc] 寡黙な真鉄が痺れを切らせたように口を開いた、そのときだった。[plc] とどめの言葉が、もつれ合う僕らのそばに立ったおじいさんから出てきたのは。[plc] 【老人】 「な、何が落ち着けだ、化物め! ≪けっして否定しない≫さえなければ貴様なぞ―――」[plc] 【北斗】 「!」[plc] ヤメロ、ソレ以上ハ―――![plc] 【老人】 「生きることさえでき―――」[plc] 【???】 「コラー!! おじいちゃーん!!」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 【東一郎】 「あ?」[plc] 【真鉄】 「む?」[plc] 【老人】 「げ!? ま、[ruby text="ま"]麻[ruby text="や"]耶ちゃん!?」[plc] 新たな誰かの登場によって、それ以上は言われなかった。[plc] 【北斗・東一郎・真鉄】 「?」[plc] とはいえ、聞き知らぬ声の主に僕らは三人とも首をかしげた。[plc] そうして首をかしげた先、商店街の路地から猛スピードで駆けてくる何かが見えた。[plc] 【北斗】 「あれって……」[plc] 【真鉄】 「む……」[plc] 【東一郎】 「……メイドだ」[plc] 何かとは、メイドだった。[plc] いや、メイドらしき服を着た女性だった。[plc] それが、ずんずんと怒りを浸透させた足取りでおじいさんへと迫っていた。[plc] 【麻耶】 「また! 酔っ払って誰かに迷惑かけたのですか!!」[plc] 【老人】 「ま、麻耶ちゃん違うよー。おじさんはそんなことしてないってー」[plc] 【麻耶】 「じゃー、その手に持ってるお酒のボトルはなんなのです? この人たちは?」[plc] 【老人】 「え!? あー、いやー、これは」[plc] 綺麗な女性だった。[plc] だが、頬は笑顔ながら引きつり、手袋をしたままでも分かるほど手が震え、こめかみには青筋を浮かべている。[plc] よほど怒っているらしい。[plc] 【麻耶】 「あれほどお店でお酒呑んだら、すぐおうちへ帰るように言いましたよね」[plc] 【老人】 「う、うぅ……」[plc] 【麻耶】 「一度や二度じゃないのですから、おじいちゃんは」[plc] 【老人】 「め、面目ない」[plc] 【麻耶】 「分かったら、即撤収! 撤収なのです!」[plc] 【老人】 「は、はい!!」[plc] 噛みつくように犬歯をぎらつかせて吼えた女性に、おじいさんはおびえながらうなずいた。[plc] しかしがくがくと震える膝が思うように動かないのか、なかなかその場を動こうとしない。[plc] それを、目の前のメイドさんは―――。[plc] 【麻耶】 「駆け足ー!!」[plc] 【老人】 「ひゃ、ひゃーい!?」[plc] ちっとも容赦しなかった。[plc] 【北斗・東一郎・真鉄】 「…………………」[plc] 展開についていけず、呆然とする僕ら。[plc] そんな僕らにメイドさんはこちらへと向き直る。[plc] 【麻耶】 「お怪我はございませんか?」[plc] 【北斗】 「はぁ、まぁ一応」[plc] 【麻耶】 「……ご迷惑をおかけして、まことに申し訳ございませんでした」[plc] 曖昧にうなずくと、バッと勢いよく頭を下げられた。[plc] 【麻耶】 「私どももお酒をご注文されたお客様が泥酔なされて、他の皆様にご迷惑がかからぬよう気を付けているつもりだったのですが」[plc] そこでメイドさんは一呼吸置いた。[plc] どうも自分の失態を悔やんでいるのか、涙ぐんでいるらしい。[plc] 【麻耶】 「この度は私の不注意であちらのお客様から目を逸らしてしまい、皆様にご迷惑を、その、本当に……」[plc] 【北斗】 「あの〜……」[plc] 【麻耶】 「申し訳ございませんでした!」[plc] 【北斗】 「あの……メイドさん?」[plc] 【麻耶】 「本当に、申し訳ございませんでした!!」[plc] 【北斗】 「メイドさーん、帰ってきてー。カムバーック」[plc] 【麻耶】 「ふぇ?」[plc] 頭を下げたメイドさんに呼びかけて、ようやく気づいてもらえた。[plc] 【北斗】 「いや、あの、大丈夫ですから。怪我もないですし」[plc] 【麻耶】 「で、ですが……」[plc] 口ごもるメイドさんを見かねて、つい口が動いていた。[plc] 【北斗】 「責任はあんなになるまで呑んだおじいさんに一番ありますよ」[plc] 【麻耶】 「いえ、ですが、それでも」[plc] だがメイドさんの顔から、陰りは消えなかった。[plc] さっきの阿修羅みたいな人と同一人物とはとても思えない。[plc] 【北斗】 「あー……つまり、あれだね」[plc] 【真鉄】 「?」[plc] 【北斗】 「良い人だ、この人」[plc] 【真鉄】 「む!」[plc] ポンと手をうって、僕の言葉に合点がいった表情をする真鉄。[plc] 【麻耶】 「い、良い人だなんて、そんな……」[plc] 【北斗】 「とにかく、メイドさんは悪くないんですから、あんまり気にしないでください」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 謙遜するメイドさんに釘を刺すようにびしっと言いはなった。[plc] するとメイドさんは苦笑してから、それでも手を横に軽く振って返してきた。[plc] 【麻耶】 「いえ、あのですね、というか……私、メイドではないのですけれども」[plc] 【北斗】 「あれ? でもその格好は―――」[plc] メイドさんにしか見えない格好。擬音で言えば、フリフリのフワフワ。[plc] 【麻耶】 「あ、これはバイト先の制服で。ウェイトレスをやってるのです」[plc] 【北斗】 「ウェイトレスさんでしたか」[plc] うーん、惜しかった。[plc] 【麻耶】 「はい、あちらのお店で働かせていただいております。[ruby text="た"]田[ruby text="むら"]村 [ruby text="ま"]麻[ruby text="や"]耶と申します」[plc] 言って、メイドさん改め麻耶さんは商店街の奥にかすかに見える喫茶店らしき物件を手で示した。[plc] 【北斗】 「んー、見えない。あそこの黒い建物?」[plc] 【真鉄】 「その右」[plc] 【北斗】 「あぁ、あの青い屋根の」[plc] 【真鉄】 「まったく逆。どこ見てる?」[plc] だって、この体勢じゃ見えるものも見えないんだってば。[plc] イチローの足さえ押さえてなければ見れなくもないんだけど。[plc] 【東一郎】 「……じゃあ、どけばいいじゃねぇかよ」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 【真鉄】 「む?」[plc] 【麻耶】[plc] 「あら?」[plc] 【東一郎】 「なぁ……いい加減どかねぇか? お前ら?」[plc] 聞き覚えのあるドスのきいた声だなぁと思ったら。[plc] 押さえつけられたままだった鬼神・イチロー様のお怒りの声だった。[plc] 途端、麻耶さんが顔を真っ赤にして、僕らから目を逸らす。[plc] 【麻耶】 「いえ!! 大丈夫なのです! 私、その、お耽美な世界には多少の理解がありますので!!」[plc] 残念ながら、まったくフォローになってなかった。[plc] 【北斗・真鉄】 「……………」[plc] 無論、二人して神速でイチローから離れる。[plc] 【東一郎】 「ったく、重いんだよ。お前ら」[plc] パンパンと砂埃を払いながら立ち上がるイチロー。[plc] 結局拳の落としどころが見つからなかったのもあり、見るからに不機嫌そうだ。[plc] 【北斗】 「まぁまぁ。何もなかったんだからいいだろ」[plc] 【東一郎】 「うるせー。オレは納得しねぇからな」[plc] 【北斗】 「そんなこと言われても……」[plc] ぶつぶつと口をとがらせて文句を言うイチローに、少し頭を抱えた。[plc] さて、どうかわしたものか……。[plc] 【麻耶】 「あ、そうでした」[plc] 【北斗】 「はい、なんでしょう? 麻耶さん」[plc] 救いの女神となってくれた麻耶さんへ振り返り、イチローの刺すような視線から逃げる。[plc] 【麻耶】 「皆さん、これからご予定はございますか? ご迷惑のお詫びに、お店へご案内したいのですが」[plc] 【北斗】 「だってさ、どうしよ?」[plc] 【東一郎】 「ちぇ、逃げやがって……。まぁ、ゲーセンはまたの機会でもいいしな」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] イチローの言葉に賛同するようにうなずく真鉄。[plc] 【麻耶】 「まぁ。でしたらさっそく私のお店に。サービスさせていただきますから」[plc] パァッと花咲くように笑って、案内として先頭をスタスタと歩いていく麻耶さん。[plc] 【北斗】 「やっぱり良い人だなぁ」[plc] 【東一郎】 「けったいな人とも言うがな」[plc] 【真鉄】 「………………」[plc] 【麻耶】 「皆さーん、こちらなのでーす!」[plc] 遠くから、麻耶さんがにこやかに手を振っていた。[plc] 【北斗】 「それもそうだね。―――って、真鉄? 行かないの?」[plc] 先ほどから奇妙に固まっている真鉄に声をかける。[plc] その真鉄の瞳はなぜかきらきらと輝いていた。[plc] 【真鉄】 「…………だ」[plc] 【東一郎】 「真鉄?」[plc] 【真鉄】 「可憐だ……」[plc] 【北斗・東一郎】 「え゛?」[plc] *scene07|喫茶店にて カラカラン♪ と乾いた小さな鐘の音が店内に響く。[plc] 扉を開けた向こうは、やすらかな音楽に彩られながらも活気に満ち溢れた、不思議な場所だった。[plc] 【マスター】 「いらっしゃいませー」[plc] 【麻耶】 「ただいま戻りました、マスター」[plc] 【マスター】 「ああ、おかえり、田村さん。お疲れ様だったね」[plc] ちらりとこちらに一瞥をくれてから、マスターらしき人は麻耶さんをねぎらった。[plc] 【麻耶】 「あ、マスター。こちらの方たちにサービスお願いいたします」[plc] 【マスター】 「………ふむん」[plc] それだけの説明で事態を了解したのか、マスターは一度息を長くゆっくり吐く。[plc] 【マスター】 「それでは、カウンターにどうぞ。ご注文が決まりましたら、お呼びください」[plc] 【麻耶】 「こちら、お水のほう失礼いたします」[plc] いつの間にかカウンターへと回っていた麻耶さんがレモンを添えたグラスを三つ置いていた。[plc] 【東一郎】 「すいません、なんだか」[plc] 【北斗】 「ありがとうございます」[plc] 【真鉄】 「……失礼」[plc] 三者三様、それぞれの言葉を返して、席に着く。[plc] 手近にあった小さいメニューを取り、ざっと目を通して、品目を確認する。[plc] 【東一郎】 「すいません、オレ、オリジナルで」[plc] 【真鉄】 「同じものを」[plc] 【麻耶】 「はい、オリジナル二つ」[plc] しかしまだ決めかねているときに、二人が注文を終えてしまう。[plc] 慌てて自分も決めようとメニュー表に目を戻して―――[plc] 【北斗】 「塩、コーヒー」[plc] 妙な文字が、飛び込んできた。[plc] 【麻耶】 「あ、そちらはマスターのオススメメニューなのです。美味しいですよ」[plc] 【北斗】 「はぁ、でもこの塩コーヒーって……」[plc] 【マスター】 「読んで字の如く。塩を入れるコーヒーです。ボクの尊敬している人が、好きでしてなぁ」[plc] 僕の困惑した表情に気づいたか、くだけた口調でマスターが言った。[plc] 【北斗】 「!」[plc] その言葉の真意、隠された根底に気づいた僕はそれを確かめるべく、マスターを睨みつけた。[plc] まさかとは思うが、この人……!?[plc] 【北斗】 「マスター……」[plc] 【マスター】 「はい、なんでしょう?」[plc] 【東一郎・真鉄・麻耶】 「?」[plc] 穏やかではない声音を不可解に思ったか、他三人が相対する僕らを見ていた。[plc] 僕は青眼。相対するマスターはカウンターを挟んでの、大上段。[plc] そして僕は、記憶の声を再生した。[plc] 【北斗】 『このシシウジマルに勝てると思うてか』[plc] 【マスター】 『[ruby text="シ"]獅[ruby text="シ"]子[ruby text="ビト"]人、推参なり……!!』[plc] 【東一郎・真鉄・麻耶】 「へ?」[plc] 間髪いれずのマスターの答えは不敵な笑みとともにやってきた。[plc] その答えに満足した僕も、不敵な笑みで返す。[plc] もう間違いがなかった。[plc] 【北斗】 「あなたもでしたか、コノヤロー!」[plc] 【マスター】 「ご同類かい、こんちくしょー!」[plc] 【バカ二人】 「アッハッハッハ!!」[plc] バチンと勢いよく手を叩きあって、降りていた沈黙を吹き飛ばす。[plc] 【東一郎・真鉄・麻耶】 「はぁ?」[plc] 【北斗】 「いやいやいや、尊敬なんて言うから誰かと思えば、トラムネですか」[plc] 【マスター】 「ハハハハ。そりゃボクは特撮全盛期の世代だからなぁ」[plc] 【北斗】 「やや、そうであられたか。それは無理からぬことにござる」[plc] 【マスター】 「いやいや、げに恐ろしきはいくつ年重ねても消えぬこの憧れよ。罪深きことじゃ」[plc] 【バカ二人】 「なんちゃってねぇ―――アッハッハッハ!」[plc] 【東一郎】 「いいかげんにしろぃ」[plc] バコンッ!![plc] *scene08|喫茶店の阿修羅ガール 【東一郎】 「あー、つまり、なにか? この店のマスターはお前と同じ特撮好きと」[plc] 【バカ二人】 「はい、そうなります……」[plc] 痛む頭を押さえながら、事情を説明する僕ら。[plc] 実は、塩コーヒーこそが『大旋風トラムネ』に登場する我らが主人公・トラムネの好むものだ。[plc] ちなみに、僕がマスターを試すために使ったセリフは、第十話『敵か味方か!? 謎の侍、シシウジマル!』からの引用だったりする。[plc] このトラムネと相対したときに発したシシウジマルのセリフはのちのちの展開にも関係し、最終決戦ではなんと―――![plc] 【東一郎】 「あー、めんどいからその辺は端折れ。ってか、オレの一言だけで説明つくだろうが!」[plc] 【北斗】 「えー」[plc] せっかくなので注文した塩コーヒーをかきまぜながら、冷たいイチローにぶーたれる僕。[plc] 【マスター】 「まぁまぁ、是非ゆっくりしていってください。田村さんのこともありますし」[plc] そう僕らに言って、他のお客さんへの応対などでせわしなく動き出すマスター。[plc] 他の従業員も麻耶さんしかいないのか、あまり回転率は良くなさそうだ。[plc] ―――と、そんなことより。[plc] 【北斗】 「そういえばさ、このあとどうしよっか?」[plc] 【東一郎】 「あー、ゲーセンが駄目になっちまったからな」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 予定ではたしかこのあと、水都を見て乃兎さんに一言挨拶でもしてから、帰ろうかなんて考えて……あれ?[plc] ………………。[plc] 【北斗】 「あ、あああああああ!」[plc] がたんと椅子から転げ落ちそうな勢いで叫んでしまった。[plc] 【東一郎】 「どうした、北斗? 鳩が豆鉄砲打ち返した顔して」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 【北斗】 「わすれてた……」[plc] 【東一郎】 「何を?」[plc] 首をかしげるイチローと真鉄に、死刑宣告にも近い言葉を投げた。[plc] 【北斗】 「このあと、西院歌さんたちが合流します……」[plc] 【東一郎・真鉄】 「………………」[plc] あ、石像がふたつ。[plc] 【東一郎】 「ほ、ほくとくん……その、『たち』にはあれかね? まさか南とか―――」[plc] 【真鉄】 「レイも、来る……のか?」[plc] 【北斗】 「たぶん、間違いなく」[plc] こちらが男衆三人組なら、あちらは三人寄ったらかしましいトリオで通っている。[plc] 西院歌さんが来ると言った以上、まず間違いなく三人でやってくるだろう。[plc] そして力関係的に言えば、あっちがジャンケンのグーならこっちはチョキだ。[plc] つまり、百回やっても必ず百回負けるくらいに、僕らは三人ともそれぞれ彼女らが苦手だったりする。[plc] 【東一郎】 「……………」[plc] 【真鉄】 「……………」[plc] 急にそわそわとしだす二人。[plc] 一人は一身上の都合で、もう一人は勝手に家を抜け出してきたためだろう。[plc] そこから考えると僕はまだ幸せな方なのかもしれない……。[plc] とりあえず緊張や不安といった類の汗を流さなくてすむのだから。[plc] 【北斗】 「……まぁ、いっか。それで」[plc] 西院歌さんのイチロー云々発言も気にはなるけど、とりあえず今は様子を見よう。[plc] 当のイチローが幼馴染の誰かさんのことであんなに戸惑っている以上、西院歌さんに気を向けられるはずがないから。[plc] 【麻耶】 「あの、お二人とも……どうかなさったのですか?」[plc] 【北斗】 「あー、ただいまスペシャル覚悟タイムなんです。終わったらさわやかな顔してますから、お気になさらず」[plc] 【麻耶】 「は、はぁ」[plc] 他のお客の応対が一段落ついたのか、怪しすぎる二人を心配して声をかけてくる麻耶さんに説明した。[plc] 実を言えば、絶望さえも朽ち果てたという顔とひどく似通ったさわやかではあるけれど。[plc] 【麻耶】 「あの、それで……お客様」[plc] 【北斗】 「はい?」[plc] 【麻耶】 「先ほど、あの、おじいちゃんに何か言われませんでした?」[plc] 【北斗】 「……!」[plc] えらく単刀直入に訊ねてきた麻耶さんに驚き、コーヒーを眺めていた顔を上げた。[plc] 【麻耶】 「おじいちゃんは、なんと言いますか、お酒が入るとよく人に当たってしまう人なので、その……」[plc] どうやらあれほど自分が怒っていたにも関わらず、“おじいちゃん”の心証を悪くしたくないらしい。[plc] わざわざこうやってフォローしに来るあたり、よほどあのおじいさんが心配なのだろうということがよくわかった。[plc] 【北斗】 「大丈夫ですよ、大したことは言われてません。聞き慣れてますから」[plc] 最近はあまり聞かなくなったけど、一時期はそりゃもう日常茶飯事の大賑わい。大特価バーゲンセールだったのだ。[plc] 未知が好奇の的となり、幾多の目を注がれ、時が経つと、それは好奇から恐怖、恐怖から嫌悪へと変わっていく。[plc] 何も不思議ではなく、当然のことだ。[plc] 【麻耶】 「聞き慣れているって……」[plc] 【北斗】 「化物ぐらいなら、まぁほぼ毎日。他にも悪魔、怪物なんてのは序の口で、直接的には近寄るなが一番多かったですね」[plc] 【麻耶】 「!」[plc] 人は問題を忌避する生きものだ。くさいものには蓋の理論で型をなしている。[plc] そこに僕のようなくさいものがひょっこり現れた場合。[plc] そりゃ、結果は火を見るより明らかだろう。[plc] 【麻耶】 「あなたは……」[plc] 【北斗】 「自己紹介が遅れました。僕は喜多 北斗。お察しの通り、しがない外種です」[plc] その行程のすべてを経て、その結果を全部受け止めて、今の“喜多 北斗”はここにいる。[plc] あの日々と比べれば、あの程度ではあまりに強烈さが欠けていた。[plc] 【麻耶】 「あなたがあの、有名な……」[plc] 【北斗】 「そうなります。自分から有名になったわけでもないですけど」[plc] アハハハと笑い飛ばしながら言う。[plc] 本当に、そんなこと願い下げだった。[plc] 【麻耶】 「あ、私ったら、ごめんなさい……」[plc] 【北斗】 「いえいえ」[plc] あきらかに麻耶さんの声に抑揚がなくなった。[plc] 突然の事実への驚愕と、僕が外種であると知ってからの奇異。二つの視線が、ちらちらと見え隠れしている。[plc] 僕と同じぐらいの年代の人は、あまり“喜多 北斗”に抵抗を覚えないはずなのだが。[plc] どうもやはり、初対面の人だとこうなりやすいらしい。[plc] 【北斗】 「それじゃ、そろそろ行こうか二人とも。ご馳走様でした、麻耶さん」[plc] 【東一郎】 「しかたねぇ、覚悟決めるか。マスター、ごちそうさんでした」[plc] 【真鉄】 「また来ます」[plc] 良い温度まで下がった塩コーヒーをぐっと飲み干して、席を立つ。長居は禁物のようだ。[plc] 【マスター】 「はい、またのお越しをお待ちしております」[plc] マスターの接客スマイルに見送られながら、ドアへと進む。[plc] 【麻耶】 「ありがとう、ございました……」[plc] 店を出ようとドアに手をかけたときに、心ここにあらずと言った麻耶さんの声が届いた。[plc] 塩コーヒーのさっぱりした口当たりの良さは、その声の粘着さまで誤魔化してはくれなかった。[plc] *scene09|Flash Back Section 麻耶さんが勤める喫茶店を出た僕らは、簡単な昼食を済ませて、水都へと向かっていた。[plc] 【東一郎】 「んで、北斗。先生たちとはどこで合流する予定なんだ?」[plc] 【北斗】 「あー、詳しくは僕も知らない。水都の辺りで合流ってくらいしか」[plc] 西院歌さんのことを『先生』と呼ぶイチロー。[plc] 優等生に対する嫌味というよりは、何故か雇った浪人に対するそれに響きが近い。[plc] やっぱりあれかな。西院歌さんの殺陣がうまいのが理由かな。[plc] まぁ、きっと深い意味なんてないだろうけど。[plc] 【東一郎】 「それだったら、オレらはぼんやり水都に向かってりゃいいわけか」[plc] 【北斗】 「たぶんね」[plc] どうでもいいことを考えながら、イチローの言葉に相槌をうつ。[plc] これで案外、麻耶さんとのやりとりが堪えてはいるようだ。[plc] 【北斗】 「……まいったな」[plc] 意識しないようにしていたんだけど。[plc] 思いながら、足を進める。[plc] 陰口には慣れていた。[plc] 直接口悪く罵られたことも、無くはなかった。[plc] そのどれもが、自分にとって―――。[plc] 【北斗】 「……………」[plc] ―――『≪けっして否定しない≫さえなければ、貴様なぞ―――!』[plc] ウルサイナ、黙ッテロヨ![plc] 【北斗】 「ちっ」[plc] おじいさんの言葉が脳内から呼び戻され、鮮明に再生される。[plc] 新品のレコーダーじゃあるまいし、ここまで高品質にならなくてもいいだろう……?[plc] 口中で愚痴を噛み殺しながら、足を進める。[plc] 【真鉄】 「喜多……?」[plc] 【北斗】 「……………」[plc] 何かがちらつく。[plc] 焦りと苛立ちの中、目端をかすめていくように遠い何かがちらついている。[plc] ちらつきに目を細め、それでも歩を進めた。[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 言われなくても、分かっていた。[plc] “喜多 北斗”が生きていられるのは、偶然の産物だと。[plc] [ruby text="ダブ"]双[ruby text="ルマ"]精[ruby text="ザー"]神の効果が最大限に発揮され、この場にいられるのだと理解していた。[plc] 理解しているから、今、歩みを進められていた。[plc] 【東一郎】 「ん? どっかしたのかよ、北斗?」[plc] 【真鉄】 「喜多」[plc] 【北斗】 「………………」[plc] ≪けっして否定しない≫は僕という不確定要素を、けっして否定せず。[plc] ≪道筋に沿って≫は僕という存在を世界に容認させた。[plc] そのおかげで僕は存在した。[plc] だから、ここで今も歩けている。[plc] 【東一郎】 「おい、北斗。どうした、日射病なんて季節外れにも程があるぞ」[plc] 【真鉄】 「喜多、返事」[plc] 【北斗】 「……………」[plc] ちらつきがやまない。[plc] 断続し、点滅するそれはまるで光のように鋭く目に突き刺さる。[plc] いや、光ではないのかもしれない。[plc] 首を左右に振って、足を動かす。[plc] 【東一郎】 「北斗、このやろ。いい加減に―――」[plc] 【真鉄】 「吾妻、様子がおかしい」[plc] そのちらつきのすべてが、あまりに白すぎるから。[plc] 光のようだと、この頭が思っている。[plc] だが、歩みはけっして止まらない。[plc] 【北斗】 「…………」[plc] ちらつきはひどく、目はかすみ、苛立ちと焦りはつのって。[plc] 気づいた。頭がひどく痛い。[plc] それなのに、歩みが止まらない。[plc] なんだ、その白い先には何がある?[plc] あの場所には、何もなかった。[plc] 片手で事足りると、笑ったこともあった。[plc] だが、その数えた片手には―――白以外の、何かが色づいていた気がする。[plc] ―――『そうだな。お前がなれるとするなら、きっとそれは―――』[plc] 【???】 「…………」[plc] 【北斗】 「!」[plc] ちらつきのさらに奥、その先によく知った姿を見た。[plc] 風船が弾けたかのように、思わず顔を跳ね上げる。[plc] 【東一郎】 「おわっ!」[plc] 【真鉄】 「!」[plc] 【北斗】 「あっち……今、誰かいなかった?」[plc] 一瞬だけ見た人物のいた先を指し示す。[plc] しかし、真鉄とイチローの二人は首を横に振るに留まった。[plc] 【真鉄】 「誰も」[plc] 【東一郎】 「だんまりの次は幻覚か? ここらはまだ水都の未開発区域だから、人はあんま通らねぇよ」[plc] 【北斗】 「そう……」[plc] たしかに、あたり一面見渡せばさびしげな野原だった。[plc] 吹く風はかすかに潮の香りをのせ、海が近いことを否応なく感じさせる。[plc] そのさわやかな風が、痛む頭を冷やし、ちらつきを薄れさせてくれた。[plc] 【北斗】 「そう、だよね」[plc] それもそうだ。こんなところにあの人がいるはずはない。[plc] いったい僕は何を考えていたんだろう?[plc] コツコツと軽く頭を小突いて、反省。[plc] 【東一郎】 「おい、北斗。大丈夫なんだろーな?」[plc] 【真鉄】 「…………」[plc] 【北斗】 「ごめんごめん。平気だよ」[plc] 怪訝そうにこちらをうかがう二人に、へらっと笑いかける。[plc] 【東一郎】 「ったく、しっかりしてくれよな。じゃないと俺らが先生に何言われるか」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] ぼやく東一郎に賛同するようにしきりにうなずく真鉄。[plc] 【北斗】 「分かってるよ、大丈夫だってば」[plc] それに念を押すように苦笑いで応じてから、視線を前へ戻した。[plc] けれど、一度見つけてしまったあの人の姿は、焦げつきのように目に焼きついて離れなかった。[plc] *scene10|視線の先 しばらく歩きつづけていると、ようやく建造途中の建物を見つけた。[plc] おおよそは完成しているらしく、作業員が最後の詰めのため、右に左にとせわしなく動いている。[plc] その喧騒から一歩離れたところに彼女たちはいた。[plc] こう天気が良いと地底人が外に出てくることは少ないせいもあって、西院歌さんの日傘が良く目立っている。[plc] 【北斗】 「あぁ、いたよ。三人とも一緒だ」[plc] 【東一郎】 「うぅ……なんだか妙にわき腹が痛い」[plc] 【真鉄】 「帰ってもいいか?」[plc] 西院歌さんたち三人の姿を見つけるや否や、体調不良と早退許可を訴えだす二人。[plc] あー、ここに来るまでに覚悟しきれなかった分だろうなーと、苦笑する。[plc] 【北斗】 「まぁまぁ、この距離ならもう西院歌さんには聞こえてるだろうし」[plc] 【東一郎】 「分かってるよ、ちくしょ……う?」[plc] 諦めたように近寄りながら、軽く手を振ったイチローだったが、向こうからの反応がないことに眉をひそめた。[plc] 僕と真鉄も同様に顔を見合わせて、いぶかしむ。[plc] おかしい。この距離なら間違いないのに、三人には僕たちが見えていないのか。[plc] 【北斗】 「西院歌さーん」[plc] 気になって名前を呼びながら駆け寄る。それでも彼女らから反応は見られなかった。[plc] 【西院歌】 「………………」[plc] 【南】 「……………」[plc] 【麗朱】 「…………」[plc] 【北斗】 「さ、三人とも? どうかした?」[plc] それぞれの様子が明らかに変だった。[plc] 【東一郎】 「お、おい、南? どうしたんだよ?」[plc] 西院歌さんはすべてを押し殺した無の瞳。[plc] 南はキラキラといつか辿り着くべき理想へ恋焦がれる少女の瞳。[plc] そして来部さんは、目の前にあるものを許容できないといった驚愕の瞳。[plc] しかし三人の視線は完全に一点を捉えている。[plc] いち早くそれに気づいたらしい真鉄は、彼女らと同じ方向へと目をやり、[plc] 【真鉄】 「――――!?」[plc] 声にならない悲鳴をあげた。[plc] 【北斗・東一郎】 「真鉄、どうかした―――」[plc] 僕とイチローの二人もそれに釣られて後ろを振り返ってしまった。[plc] そのときに僕らは知ったのだ。[plc] 現実とは時として名を変え姿を変え、あらゆる人々を惑乱に陥れる罠だということを。[plc] *scene11|里ほど素敵なお嫁はいない? さんさんと照る太陽の下、様々な種族が水都の完成に向けて工事作業に勤しむ中。[plc] 男たちの汗と土ぼこりの舞うその場所を、悠然と歩む一人の女性がいた。[plc] しゃなりとしなるような、麗しいその体躯と所作、場にそぐわない女性の香に作業員たちがそちらへ視線を移す。[plc] 【里】 「おはようございます、皆さん。お疲れ様です」[plc] 【作業員A】 「お、おはようございます!」[plc] 【里】 「それで、そのお忙しいところ恐縮なんですが、主人、乃兎に……」[plc] 【作業員A】 「はい! 仁志社長ですね! すぐ呼んできますんで、待っててください!」[plc] 【里】 「ありがとうございます」[plc] 艶やかな声音と仕草にやられ、上気した作業員の一人が小走りで関係者用のテントへと駆けた。[plc] その間にもバスケットを両手で抱えた里の麗しさに、作業員たちの頭に花が咲く気配がした。[plc] 【作業員B】 「おい、すげぇ美人さんだな」[plc] 【作業員C】 「あやや、これは一大事。誰か鏡持ってないか」[plc] 【作業員D】 「ささ、これで思う存分。自分の顔に絶望しろ」[plc] 【作業員C】 「わー、絶望するー♪ じゃねぇよ!」[plc] 【作業員E】 「聞いたか? あの人、設計の仁志社長の婚約者らしいぞ」[plc] 【作業員B】 「なぬ!? ぐぉー、若社長で嫁もち!? どこまで勝ち組だ!」[plc] 嫉妬と羨望の声があちこちで起こる最中、テントから日傘片手に男性が現れる。[plc] 【乃兎】 「…………」[plc] その表情、唇を真一文字に結び、つり目がちな目がさらにつりあがっている様子。[plc] そのどれもが言葉では表せない怒りを訴えているように見えた。[plc] 作業員たちの別の意味で熱い視線を受け止めながら、呼びつけた女性のもとへ歩む。[plc] しかし、里はそんな相手に喜びと労いを調和させた笑顔を向けた。[plc] 【里】 「あなた、お疲れ様」[plc] 【乃兎】 「……………ぁぁ」[plc] あまりに小さい返答。しかし、パァと顔を輝かせて、里はつづけた。[plc] 【里】 「あの、お弁当、作ってもってきたの」[plc] 【乃兎】 「…………ぁぁ」[plc] 良く見ると乃兎の首筋には恐ろしいほど鳥肌がたっていたりするが、里はさらに笑顔を光らせる。[plc] 【里】 「しっかり食べて、お仕事頑張ってくださいね♪」[plc] 【乃兎】 「……ァリガトゥ」[plc] 周囲はその表面上甘ったるい会話に羨望と嫉妬とをさらに強くしていった。[plc] 【作業員A】 「ぐぉぉぉ、うらやましい……」[plc] 【作業員B】 「あんな、あんな美人で優しそうな嫁さんと……」[plc] 【作業員C】 「ちくしょう、オレもあのときああしてりゃ……」[plc] 【作業員D】 「たらればはよせ。死にたくなるから」[plc] などなど、それぞれが悶々としている最中、とうの二人は甘ったるい会話をつづけていた。[plc] が、しかし。それはあくまで表面に過ぎなかった。[plc] 【乃兎】 (何しに来た、この厄病ナメクジ)[plc] 乃兎の目は相手を爪で引き裂かんとする獰猛なモグラの敵意に満ちており―――[plc] 【里】 (ふん、労いもくそもない目だね? あーあ、奥さんは悲しいなー)[plc] 里はそんな幼馴染をからかうことが生きがいとでも言いたげなナメクジの様相だった。[plc] 【乃兎】 (お前……)[plc] 【里】 (ハハハ、麗しき婚約者から愛情たっぷり弁当の差し入れだぞ? かまえないかまえない)[plc] 【乃兎】 (何が狙いだ、ナメクジ女)[plc] 【里】 (いやなに、夫の職場に顔出しくらいはしておくべきだろう? 『美人で優しい奥さん(予定)』としては)[plc] 【乃兎】 (殴られたいのか)[plc] 【里】 (えー、こわーい♪)[plc] と、ここまでの意思疎通を目だけで行ってしまうあたり、二人の仲はともかく、付き合いの長さは良く分かる。[plc] 【里】 「それじゃ、私、そろそろ失礼します」[plc] 【里】 (さて、撤収するよ。本業に戻らなければ)[plc] 【乃兎】 「アァ、気ヲツケテナ」[plc] 【乃兎】 (二度と来るな)[plc] ふふんと勝ち誇ったような笑みを一瞬見せた里に、乃兎は苦虫を噛み潰した顔でテントへと戻った。[plc] その手にはしかし、しっかりと彼女の作った弁当を持っていたが、彼がそれをどう処理したかはまた別の話だ。[plc] *scene12|一方のこちらでは 【東一郎】 「詐欺だ。ひどい詐欺を見た。訴えたら勝てるな」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 【麗朱】 「おぞましさすら感じます」[plc] イチローたち三人がガクガクと怯えながら、里さんの悪行を評した。[plc] 【北斗・西院歌】 「………………はぁ」[plc] 何をしてるんだ、あの人は。[plc] もう慣れっこになってしまった事態に僕と西院歌さんはため息が尽きない。[plc] そんな中。[plc] 【南】 「里さん、やっぱり素敵……」[plc] うっとりとした眼の夢見る乙女がひとり、盛大に釣られていた。[plc] 【東一郎】 「おい、南。まだ里さんを勘違いしてんのか、あの人の本性はそりゃ悪魔みたいな人だぞ」[plc] 【南】 「天誅!」[plc] 【東一郎】 「ぐふぇ!?」[plc] イチローの鳩尾に見事決まる女性にあるまじき十六文キック。[plc] 【南】 「ふん、イチローには分からないのよ。里さんの素晴らしさが!」[plc] 【東一郎】 「……いや、そんな新興宗教みたいなこと言われても……」[plc] 【南】 「粛正!」[plc] 【東一郎】 「あぐぇ!?」[plc] 痛みに悶えるイチローの背後に回り、ギリギリとチョークを決める南。[plc] しかし彼と彼女の身長差では、南はなかばおぶさるようにしなければ首をしめられない。[plc] 【南】 「いい!? あの愛する人にお弁当を届けたときの充足感と幸福に満ちた笑み! あれこそが女性が輝くとき、真に見せるものであり―――」[plc] 【東一郎】 「ぐぇぇぇぇ!?」[plc] 【真鉄】 「レイ」[plc] 【麗朱】 「いえ、あれは間違いなく相手をおとしめることで満ちる、サディスティックな笑いでした」[plc] 真鉄と来部さんの正しすぎる評価に言葉が出ない。[plc] 【南】 「シャラップ! あんたたちには里さんの乙女心が何一つ分かっていないのよ!」[plc] 【東一郎】 「あ゛の、さっきから、背中に゛、なんか当たって、もう……かんべん……」[plc] そして呼吸が困難になるのとは、また別の理由で顔を赤くしているイチローに、合掌。[plc] しかし、いくら密着しているとはいえ、はた目では南にそれほどあるとも思えない。[plc] 【西院歌】 「あなた、今、変なこと考えた」[plc] 【北斗】 「いいや、何も!? って、断定!? ひどいよ、西院歌さん!」[plc] 【里】 「フフフ、楽しそうね。皆」[plc] 【南】 「里さん!」[plc] いつの間にかこちらに気づいていたらしく、笑いながら話しかけてきた里さんに南がパァと顔を輝かせる。[plc] ポイとゴミを投げ捨てる勢いでイチローを放り出し、里さんへと駆け寄った。[plc] 【里】 「えぇ、南ちゃん。こんにちは。今日も可愛いわ」[plc] 【南】 「そ、そんな……里さんと比べたら、あたしなんて」[plc] 【里】 「フフ、可愛さは比べられないわ。それに―――」[plc] ずいと、里さんが南に顔を寄せた。[plc] 【里】 「南ちゃんは恋する女の子だもの。私なんかより、ずっと可愛いわ」[plc] 【南】 「は、はぃ……」[plc] 里さんの艶とした笑みに、茹で上がる勢いで沸騰する南。[plc] 【東一郎】 「里さん、こんにちは。それとさようなら。行こうぜ、南」[plc] 【南】 「わきゃっ!? ちょ、イチロー!?」[plc] 【里】 「あらあら、仲が良いのね」[plc] その魔女の毒牙から逃がすべく、無謀にも堂々と南を引き寄せて逃走をはかるイチロー。[plc] 【東一郎】 「そうです、仲が良いんです。だからあんたみたいな人とはあまり関わらせたくないんです」[plc] 【南】 「イチロー、里さんに向かって―――」[plc] 【里】 「ウフフ、チロちゃんには嫌われちゃったわねぇ」[plc] 【東一郎】 「!?」[plc] チロちゃんと呼ばれたイチローがびくりと肩を震わせる。[plc] 背後からイチローの肩に手をかけた里さんの両眼があやしく輝いていた。[plc] 【里】 (フフフフフフフ、なかなか言うようになったじゃないか、吾妻の小僧っ子が)[plc] 【東一郎】 (こ、このアマ、本性現しやがった―――!!)[plc] 【里】 (私の可愛い可愛いおもちゃの南とラブラブチュッチュなんぞ百年と二秒は早い)[plc] 【東一郎】 (な、何の話だー!?)[plc] 里さんの喉からケタケタケタという、恐怖の底なし沼から出ているような声がする。[plc] イチローは一人では不利とようやく悟ったか、僕らの方を向いた。[plc] 【東一郎】 「くっ、北斗、真鉄! 助けてくれ!」[plc] 【麗朱】 「勝手に家を抜け出した罰です、真鉄。帰りますよ」[plc] 【真鉄】 「む♪」[plc] 【東一郎】 「おい!? 逃げんな、そこ二人ー! あと真鉄、露骨に嬉しそうにすんな!!」[plc] いそいそと帰路へ向かっている二人を止めようとイチローは声を張り上げたが、効果はなかった。[plc] 【東一郎】 「じゃあ、北斗! お前はオレを見捨てないよな?」[plc] 【北斗】 「あ、西院歌さん。僕、この前約束したお団子買いに行きたいんだけど、一緒に行く?」[plc] 【西院歌】 「すぐ行きましょう」[plc] 【北斗】 「そうこなくちゃ♪」[plc] 【東一郎】 「ま、待てー!?」[plc] 一も二もなく食いついてきた西院歌さんと連れ立って、元来た道を戻ろうとする僕。[plc] 【里】 「あらら、皆、用事があって忙しいのね」[plc] 【南】 「なんだよー、じゃあ、あたしも帰ろうっと」[plc] 【東一郎】 「げ、南! お前まで!?」[plc] 【南】 「じゃ、先に帰るね、イチロー。さよならです、里さん」[plc] 【里】 「ええ、またね。南ちゃん」[plc] にこやかに手を振る里さんと、丁寧に会釈して去る南。[plc] 【東一郎】 「待て、オレも―――」[plc] 【里】 「チロちゃんは! まだ! 私とお話があるのよねぇ?」[plc] がっしりと掴まれるイチローの肩。[plc] 里さんの目はいよいよあやしく燐光を発していた。[plc] 【東一郎】 「え? あ、う、お、お姉さま……オレ、まだ死にたくな―――ぎゃああああああああああ!!」[plc] ついさっきまで親友だった男の断末魔が聞こえたが、僕らはひとしく黙祷するに留めた。[plc] *scene13|苦手なもの イチローたちとあのまま別れ、団子屋に向かっている西院歌さんと僕。[plc] どうやら、西院歌さんの日傘はさっき買ったばかりの新品らしく、本人はいやに気に入っていた。[plc] ちなみに僕には、どれも同じにしか見えない。[plc] 【北斗】 「何が違うのさ?」[plc] 【西院歌】 「重さと持ち具合」[plc] 【北斗】 「やっぱり、ブランド物は違うってこと?」[plc] 【西院歌】 「えぇ」[plc] 他愛もない会話をしながら、団子屋へと向かっていた、その途中。[plc] 【麻耶】 「あ……」[plc] 【北斗】 「あ」[plc] 【西院歌】 「?」[plc] 予想外な人と出くわした。[plc] 手にぶら下がる買い物籠を見るかぎり、どうも買出しだったようだ。[plc] 【麻耶】 「ど、どうも」[plc] 【北斗】 「あー、いえ、さっきはご馳走様でした」[plc] 麻耶さんも僕と出会うということが意外だったらしい。[plc] 【麻耶】 「えと、その……あの」[plc] 何を言えば良いのか困っている麻耶さんを見て、忘れかけていたちらつきがよみがえる。[plc] これ以上ここにいると、またやっかいなことになりそうだ。[plc] 【北斗】 「それじゃあ、僕たちちょっと用事があるんで、これで」[plc] ニコリと笑みを見せて、隣で麻耶さんをいぶかしむ西院歌さんをうながした。[plc] 【麻耶】 「あ、ま、待ってください!」[plc] 【北斗】 「なにか?」[plc] 困惑を声に変えたような呼びかけに応じて、麻耶さんの方へ首だけを向けた。[plc] 【麻耶】 「さ、さきほどは本当に申し訳ありませんでした」[plc] 【北斗】 「………………」[plc] 【麻耶】 「あの、私本当に、失礼を……」[plc] 【北斗】 「大丈夫ですよ。慣れてますから」[plc] 顔を伏せ、たれた前髪が表情をさらに暗く見せていた麻耶さんの顔を見て、僕は確信した。[plc] この人は、本当に良い人なのだ。[plc] 赤の他人だろうが誰だろうが、悲しんでいる人を見たら放っておけない類の人だ、と。[plc] 【麻耶】 「……ですが」[plc] 【北斗】 「アハハ。むしろ謝ってくれてありがとうございます。正直、気が楽になりました」[plc] 【麻耶】 「は、はい」[plc] こういうタイプの人は、今の自分を認めてもらえないといつまで経っても、うじうじとしてばかりだ。[plc] 【北斗】 「だから、お気になさらず。またコーヒー飲みにいかせてもらいますし」[plc] 【麻耶】 「あ、はい! そのときは是非!」[plc] 【北斗】 「ええ、それじゃまた」[plc] 【麻耶】 「はい、北斗くん」[plc] 今度こそ、麻耶さんから顔を背け、団子屋へと向かう。[plc] 隣で西院歌さんがすんごい仏頂面をしているところから、あとで根掘り葉掘りされるのは覚悟するとして。[plc] 麻耶さんのような、ある種病気といっても過言ではない人たちを、僕が苦手なのはたしかだった。[plc] 良い人が苦手、というのも困った話ではあるけれど。[plc] 【北斗】 「あれとジャガイモのお味噌汁だけは、どうもダメなんだよねぇ」[plc] 【西院歌】 「好き嫌い、ダメ」[plc] 【北斗】 「うへ。はぁい」[plc] 閑話休題。[plc] 今は隣でむくれているお姫様のご機嫌取りでもするとしましょうか。[plc] *scene14|那由他の夜から 結局、無事に団子屋でお団子も買い終わった。[plc] さっきまで不機嫌だった西院歌さんも、表情から見るに内心ホクホク顔をしているだろう。[plc] 今、彼女は無心にみたらし団子を頬張っている。[plc] 【西院歌】 「美味しい」[plc] 【北斗】 「老舗の味でござんすから」[plc] 相槌をうちながら、僕も自分に買ったあん団子を一口。[plc] ―――うむ、甘露なり。[plc] 【北斗】 「さて、お土産も買ったし」[plc] 久しぶりの遠出もこれにて終了だ。[plc] なんて、考えたときだった。[plc] 【北斗】 「!?」[plc] 忘れかけていたちらつきの奥から現れた、あの人の姿を見つけたのは。[plc] ドクン、と心臓が跳ね上がる。[plc] 【西院歌】 「どうかした?」[plc] 【北斗】 「……ごめん、西院歌さん。まだ用事があった。先に帰ってて」[plc] 【西院歌】 「え?」[plc] 西院歌さんのわずかな戸惑いの声さえも気にならないほどに、僕は動揺していた。[plc] なぜだ。[plc] なぜあの人がここにいる。 なんだってまた、こんなときに……。[plc] 【西院歌】 「あの、用事って……」[plc] 【北斗】 「お土産、持って帰っといて。僕、いつごろ帰るか分からないから」[plc] 【西院歌】 「なん―――」[plc] 【北斗】 「じゃ!」[plc] 物陰に隠れたのか、見えなくなってしまったあの人を探すために駆け出した。[plc] 夕方が近い商店街だったが運良く人も少なく、邪魔になるような障害物もなかった。[plc] 僕の体力なら充分に追いつけるはずだ。[plc] 立っていたはずの曲がり角を曲がってみるが、突き当たりの壁があるだけで、人の姿は無い。[plc] 【北斗】 「くそっ!」[plc] ならばとさらに路地の裏手の方へ誘い込まれるように足を速めた。[plc] ラーメン屋の横を駆け抜ける。[plc] 曲がって、古びた自転車屋を通り過ぎ。[plc] さらに。[plc] さらに奥へ。[plc] さらに奥へと進み。[plc] 気づけば、水都と町を結ぶ橋の近くまで来てしまっていた。[plc] しかし、あの人の姿はない。[plc] 【北斗】 「はぁ、はぁ、はぁ……」[plc] 肩で息をしながら、辺りを見渡す。[plc] しかし、そこは夕焼けになりつつある太陽だけが存在するすべてだった。[plc] …………。[plc] あまりの静けさに頭を冷やされ、呼吸も落ち着き始めた。[plc] やはり、僕の見間違いだったのだろうか。[plc] 【???】 「彼方の果てに数多ありき」[plc] 【北斗】 「!」[plc] 唐突に後ろからかけられた声へ振り返る。[plc] 【???】 「彼方の果て、此方の無より生まれ落ちた数多は幾星霜もの時を経て、千億の夜を降り百億の昼へ」[plc] 【北斗】 「え……?」[plc] 独り言のように呟かれるそれは、まるで呪文か歌のような旋律があった。[plc] 【???】 「百億の昼さえも降りて残りしその数、そろえて二億八千万」[plc] 【北斗】 「な……」[plc] 雄弁に語られる、とてつもない何か。[plc] 【???】 「降りた金星はことごとく散ったが、その金の中、いまだ輝く星がひとつ」[plc] 【北斗】 「なんで……」[plc] 僕にはその唐突さが信じられなかった。[plc] 【???】 「無に輝くそれは天の星。[ruby text="スペ"]宇[ruby text="ース"]宙より出でし星」[plc] 【北斗】 「え、[ruby text="スペ"]空……[ruby text="ース"]白?」[plc] 聞き慣れない単語さえ耳にした。[plc] しかし、ひどく懐かしい。[plc] 僕は知らなくとも、“喜多 北斗”も分からなくとも、この全身が覚えている。[plc] 全身に去来するその郷愁を、その懐かしさを掻き抱くように胸を押さえつけた。[plc] 【???】 「宇宙とは、空白にして有限を超えた海原。お前の故郷だよ」[plc] 呪文か、はたまた歌と呼べるそれがやんだ。[plc] 僕はいつの間にか目前へ歩み寄っていたその人物へ、声をかける。[plc] 【北斗】 「どうして……どうして丘さんがここに?」[plc] 僕の質問から少し遅れて風がふき、丘さんの長髪を揺らす。[plc] 髪をぞんざいに掻きながら、あの人、[ruby text="おか"]丘 [ruby text="ゆ"]由[ruby text="きち"]吉はクックと低く笑った。[plc] 【丘】 「どうしてと訊くか。お前も相変わらずですね、北斗」[plc] さも当然のように、丘さんは僕の前に立ち尽くす。[plc] 背中から照らす夕日に押されて、あの人の表情がうかがえない。[plc] 【北斗】 「………………」[plc] その影を作り出す夕日は、まるで日常の終わりを告げているかのようだった。[plc] *scene15|幕間、誰かの理想 影はうらやんでいた。[plc] その遠い誰かをうらやんでいた。[plc] 喜多 北斗と呼ばれる至高の存在を、ひたすらにうらやんでいた。[plc] 恨めしく、うらやましく、辿り着きたい、遠き理想。[plc] しかし、それにはどうしても届かないことは理解していた。[plc] 影は、ひとつため息をこぼして、帰路へとついた。[plc]