*chapter_epilogue|たったひとつの金と星 *scene01|それから 【里】 「あのさわぎからもう一ヶ月、か。言葉という文化が嫌になるね」[plc] 【乃兎】 「……何故だ?」[plc] 【里】 「一ヶ月という単語に、私たちの苦労やら血やら努力やらがまとめられてしまうからさ」[plc] 【乃兎】 「……なるほど」[plc] 【里】 「いまいましい。まったくいまいましい」[plc] 心底そう思っているかのように里は新聞をがさがさ言わせながら、ぼやいていた。[plc] 夕暮れも近い、最近の仁志家の一番の目玉。[plc] それがこの過剰に不機嫌な里の姿だった。[plc] 【乃兎】 「そう言うな。オレは事後処理がようやく済んで、一安心だ」[plc] 【里】 「あー、そうだろうさ。間接的にしか関わってないやつなんてのは一ヶ月程度で済むだろうさ」[plc] 【乃兎】 「からむな、鬱陶しい」[plc] ジト目で睨んできた里を一蹴して、乃兎はズズとコーヒーに口付けた。[plc] それをさらにムッとした表情で里が見る。[plc] 【乃兎】 「あぁ、やはり美味いな。塩コーヒー」[plc] 【麻耶】 「えぇ、私の特製ブレンドですから♪」[plc] ひょいとキッチンから顔を出して、麻耶が微笑んだ。[plc] いつものウェイトレス姿に身を包み、幸せそうに笑っている。[plc] 【里】 「何故こうなっているのだか……」[plc] 我が身の不幸を嘆くように頭をかかえた里を尻目に、乃兎は淡々と説明をはじめた。[plc] 【乃兎】 「もとより、世界レベルで重要な“喜多 北斗”の誘拐など公にはできん。お偉いさん方が責任転嫁し放題だったしな」[pln] 「となれば、残った手は事実の隠蔽と内密な処理だけだ」[plc] コーヒーを呑み終わり、おかわりを麻耶に注文しながら、さらに先をつなげる。[plc] 【乃兎】 「事実の隠蔽それ自体には問題はなかったが、流石に事件の張本人を野放しにもできない」[pln] 「だから、『それなりの地位のある者』の監視下で『保護観察』させる」[pln] 「彼女が≪最後の人≫であることも、丸め込むには都合がいい。―――すべてお前の提案だったはずだが?」[plc] 【里】 「あぁ、知っているとも! 上司には『お前の街は治外法権か!』と怒鳴られたよ! 悪いか!!」[plc] テーブルをひっくり返す勢いで里が一息にまくし立てた。[plc] そこに乃兎のコーヒーのお代わりを持ってきた麻耶が近づいてくる。[plc] 【麻耶】 「悪くなんて何もないですよ、お姉さま〜♪」[plc] 【里】 「えぇい、ひっつくな! やい、乃兎! では、この番狂わせはどう説明する気だ!?」[plc] 【乃兎】 「オレにふるな。知らん」[plc] べたべたと甘えるように抱きついてきた麻耶を必死に引き剥がしながら、里が乃兎へ訴える。[plc] 【麻耶】 「あ、お姉さまの香りが……♪」 【里】 「ひぃぃぃぃ!? そ、そもそも、麻耶! きみは一体全体、どうしてそんな風になってしまったのだ!?」[plc] 騒ぎも一段落し、田村 麻耶の保護観察が決まって、彼女は仁志家に住まうことになった。[plc] しかし住み込んでからしばらくの後に露になった彼女の性格は、里にとって驚天動地であり、天変地異であったと言っていい。[plc] こともあろうに頬を染め、目を潤ませて「お姉さま」などと囁かれた日には怖気が走るのも無理はなかった。[plc] 【麻耶】 「何度も言ってますでしょう? 私、お姉さまのお言葉に感動したのです!」[plc] 【里】 「だ、だからアレは別に大したものでも―――」[plc] 【麻耶】 「いいえ! 私、感動したのです! 心が震えたのです! 北斗くんも言ってましたもの!」[plc] 【里】 「言・い・な・が・ら、顔を寄せるな〜!! 近いのだよ、不必要に!」[plc] ぎりぎりと顔を必死に押し退ける里と、恍惚とした表情でそれを受け止める麻耶。[plc] 【麻耶】 「そんな!? これで近いなんて。お姉さま……ヒトは無限なのですよ。ほら、こうすればもっと近く……♪」[plc] 【里】 「ひ、人の座右の銘を、エロく使うな! いや……きゃあ!? ちょ、どこ触ってる―――!?」[plc] 【麻耶】 「お姉さま〜♪ あぁん、お待ちになって♪」[plc] その身を奮わせながら絡んでくる麻耶から逃れて、里は両手を前に突き出して待ったと示す。[plc] 【里】 「ま、麻耶。ホラあれだぞ。もうすぐ北斗くんたちが帰ってくる」[plc] 【麻耶】 「それが何か?」[plc] じりじりと間合いを詰めながら、麻耶が尋ねる。[plc] 【里】 「北斗くんが言っていたではないか。正々堂々の申し込みだったら、まだ分かりませんよ、と」[plc] 【麻耶】 「それもちょっと魅力的な提案なのですよね……。でも、お姉さま。私はもう大丈夫ですよ」[pln] 「不肖、田村 麻耶。もうひとりでも大丈夫なのです」[plc] ぴたりとふざけるのをやめて、麻耶はニコリと里に告げた。[plc] その言葉に里はまず難しそうな顔をして、それを不服そうな顔に変え、やがて苦笑を刻んでいった。[plc] 【里】 「そうか……大丈夫か」[plc] 【麻耶】 「えぇ、ですから私は新しい恋に生きるのです♪ お・ね・え・さ・ま〜♪」[plc] ペットの犬のような所作で里へと抱きついて押し倒し、スリスリと頬擦りする麻耶。[plc] 油断していた里は、組み伏せられながらも必死に抵抗した。[plc] 【里】 「うわああ―――ん! た、助けてくれ、乃兎〜!!」[plc] 【乃兎】 「……美味いなぁ、塩コーヒー」[plc] ぎゃーぎゃーとやかましい二人を背景に、乃兎は安穏とコーヒーを堪能していた。[plc] *scene02|どうして ;なんでもない与太話。くだらなくて語る価値もない。 ;大丈夫ですよ、きっと、大丈夫です。 【丘】 「やはり、規定値に大きな変動は見られない……か。完全な固定だ」[plc] 【穂波】 「ですか」[plc] 大量の数値が記された書類とカルテとを何度も見比べてから、丘はお手上げだと態度で示した。[plc] 【丘】 「どうもこうもないです。見事に安定している。あの不規則な乱れが、『変身』への鍵ということは間違いなさそうだ」[plc] 【穂波】 「ですね」[plc] 別の書類をかたづけながら、妙にぞんざいな穂波に丘は首を横にかしげた。[plc] 【丘】 「穂波くん? 何かあったんですか?」[plc] 【穂波】 「…………デス」[plc] 【丘】 「不吉な一言だけを漏らすのは、やめてもらえませんか」[plc] 恨みのこもった、よく切れる刀のような眼差しで睨まれ、丘は椅子ごと身を引いた。[plc] それに穂波はぶすっとした表情のまま、不機嫌の理由を話す。[plc] 【穂波】 「だって、主任。聞いてくれなかったでしょう?」[plc] 【丘】 「何を?」[plc] 【穂波】 「北斗くんが、私のこと覚えてくれてるかどうかですよー!! もー!」[plc] 【丘】 「あー……」[plc] 【穂波】 「あー、じゃないです! おかげで北斗くんに誰ですか? って聞かれて―――うわぁぁん!」[plc] 【丘】 「うぉっと!? お、落ちつけ、穂波くん」[plc] うがー! と手近にあったバインダーを振り回しながら、涙目で暴れだす穂波。[plc] それをなだめようと丘が近づくも、今の彼女はそんなことを聞き入れる余裕はなかったようだ。[plc] 【穂波】 「もー! バカバカバカー!!」[plc] 【丘】 「い、痛い痛い痛い!! 角はやめてください、角は!」[plc] 二人がなかば漫才じみてる喧嘩を繰り広げていると、不意に部屋の扉が開いた。[plc] 【北斗】 「丘さん、穂波さん、入ります……って何してるんですか?」[plc] 【丘】 「やぁ、北斗。これはいいところに゛!? とりあえず結果ががが!? やめてくれ、穂波くん!」[plc] 【穂波】 「うぇーん!! 主任のバカ、意地悪、唐変木!」[plc] 【北斗】 「あー……出直します? 僕」[plc] 【丘】 「い、いえ、それには及びません」[plc] どうにか穂波を落ち着けて、丘は検査を終了させ、私服へと着替えた北斗へ向き合った。[plc] 【丘】 「結果なんですが、この一ヶ月経過を見てきましたけれど、変わりありません」[plc] 【北斗】 「じゃあ、やっぱり……?」[plc] 【丘】 「はい、やはりあの騒ぎのときの無茶がたたったんでしょうが、お前の『変身』能力は消えている」[plc] 【北斗】 「そうですか」[plc] 特に落胆でも喜びでもない表情を浮かべながら、北斗はうなずいた。[plc] その表情はたしかに正しいだろうと、丘もならうようにうなずく。[plc] 【丘】 「ですが……まさか『変身』前の状態で安定するとは思ってもみませんでしたが」[plc] 【北斗】 「はぁ……」[plc] 【丘】 「ともあれ。今のお前は健康そのものです。で、日常生活を送るにあたり、何か不便は?」[plc] 【北斗】 「いえ、特に何も」[plc] 【丘】 「……でしょうね。分かりました。これからも検査のために呼び出すことになる。そのときは素直に応じてください」[plc] 【北斗】 「はい。それじゃ、丘さん」[plc] 【丘】 「あぁ、また」[plc] 丘の嫌味節とも言えるあまり素直ではない口調にうなずいて、北斗はそのまま“城”をあとにした。[plc] その後姿を見送ったあとで、丘が誰にでもなくつぶやく。[plc] 【丘】 「特に何も、か。末恐ろしいな」[plc] 【穂波】 「何がですか、主任?」[plc] 【丘】 「穂波くん。どんな種族であれ、代償が存在しますよね」[plc] 【穂波】 「えぇ……」[plc] 【丘】 「今の北斗には、それがないんです」[plc] 【穂波】 「はぁ……」[plc] いまいちピンとこないのか、曖昧な返事をする穂波に丘はため息をこぼした。[plc] 【丘】 「きみには分からないか。まぁ、そうですね。それが純然たる種族というものだ」[plc] 【穂波】 「?」[plc] 【丘】 「気にしなくて良い。ただこれからも北斗のようなやつが出てくるのか、と思っているだけです」[plc] 穂波の不可解に染まる表情を一瞥したあと、空を見上げて丘は考える。[plc] 『変身』という病魔に冒された種族の行き着く先、それがもしあの“喜多 北斗”が出した答えなら、と。[plc] 【丘】 「人間……ですか」[plc] 【穂波】 「主任、にん……なんですか?」[plc] 聞き慣れない単語に穂波がいぶかしむ声を聞いて、丘は空を見上げたまま答えた。[plc] 【丘】 「ニンゲンです。いつしか私たちが無くし、そして忘れ去った彼方の人種だそうです」[plc] 【穂波】 「主任……?」[plc] 【丘】 「彼らは翼を持たずとも空を飛ぶ技術を持ち、太陽を恐れず、水の渇きにも襲われなかったそうですよ」[plc] 【穂波】 「は、はぁ……じゃあ、なんで忘れちゃったんですか?」[plc] 途方もない話に穂波が呆然としたまま、質問した。[plc] 助手の言葉に、それを訊ねるかと言わんばかりに丘は肩をすくめた。[plc] 【丘】 「そうですね、忘れるほどどこか遠くに旅立ってしまったからですよ、きっと」[plc] 【穂波】 「どこか遠く、ですか……」[plc] 【丘】 「そう、どこか遠く。百億の昼を超えた、千億の夜の先、星々が瞬く無限の荒野に」[plc] 【穂波】 「……なんですか、それ?」[plc] 【丘】 「なんでもない与太話だ、語る価値もない」[plc] ぞんざいに手を振った丘に、穂波が首をかしげた。[plc] しかし丘はそんな彼女を気にも留めず、ただポツリポツリと言葉をこぼしていった。[plc] 【丘】 「そう、無限の宇宙から舞い降りた二億八千万。その一つがようやく原初への標になろうとしているだけのことです」[plc] 【穂波】 「???」[plc] 【丘】 「独り言ですよ。―――休憩にして、コーヒーでも飲むか。私特製ブレンドで」[plc] 【穂波】 「はーい! ご馳走様です!」[plc] 元気の良い助手の返事を背に受けて、丘は給湯室へと歩き出した。[plc] *scene03|これから 【東一郎】 「おぉい、センセイ、南。帰ろうぜ……?」[plc] 【南】 「……遅かったね、イチロー」[plc] 夕暮れ時の教室で、南は晴れない表情でイチローを出迎えた。[plc] 【東一郎】 「おう、委員会でな。んで、北斗は今日休みだったけど、センセイは?」[plc] 【南】 「……これ」[plc] 【東一郎】 「?」[plc] 南が示した一枚の紙切れをイチローが覗き込む。[plc] そこにはこう記してあった。[plc] 『今日も青空が綺麗なので早退します。不意打ちで大金星を捕獲するのだっ☆』[plc] 『―――追伸・夕飯はおでんです。それと南、ゴメンね♪』[plc] 【東一郎】 「……ハァ? これ、センセイが書いたのか?」[plc] 【南】 「んで、午後にはもういなかったわ。今月でもう二回目。担任も頭抱えてたよ」[plc] 吐く息さえも疲れきったように力のない南。[plc] イチローは手渡された紙をもう一度読み返して、思わず笑ってしまった。[plc] 【南】 「ちょっと。笑いごとじゃないでしょ? 西院歌がグレたってのに」[plc] 【東一郎】 「悪い悪い。いや、楽しそうだなぁ、と思ってさ」[plc] 【南】 「そりゃ、ね。今までが今までだったし、あの二人」[plc] 【東一郎】 「ようやくおさまりがついたって感じだろ、いいじゃねぇか」[plc] さも自分のことのように嬉しそうに笑って、東一郎は南を見た。[plc] 南はそんなイチローに賛同しながらも苦笑交じりに嫌味をもらす。[plc] 【南】 「あー、やだやだ。どうせ結婚式まで一直線だよ、あの二人」[plc] 【東一郎】 「そんときゃアレだな。仲人は丘さんだな。そのときまでに結婚してるか分からんけど」[plc] 【南】 「えー、ああいう人に限って一番泣いてそうだけど」[plc] 【東一郎】 「うーん、あるかもしれん。じゃあ、アレだ。乾杯の音頭は―――」[plc] 【南】 「里さんしかいないでしょ」[plc] 【東一郎】 「……だよなぁ」[plc] ハハハと笑い合って、やがて沈黙が流れ、どちらからともなくため息をついた。[plc] 【東一郎】 「何くだらないこと言ってんだろうな、俺ら」[plc] 【南】 「むなしくなるわー」[plc] ずんとした重量感のある空気に押しつぶされそうになっていると、南がクスリと笑った。[plc] 【南】 「でも、まぁ……」[plc] 【東一郎】 「?」[plc] 【南】 「結局、根本は変わってないってことじゃないの? 北斗たちも私たちも」[plc] 【東一郎】 「……かもな」[plc] 夕暮れどきの教室で、二人はひっそりと笑い合う。[plc] 変わったことで良かったこともあれば、変わらないことで良いこともあるはずだ。[plc] 二人の微笑みは、お互いにそう言っていた。[plc] すると南が何かに気づいて首をかしげる。[plc] 【南】 「そう言えば、麗朱は?」[plc] 【東一郎】 「真鉄とバイト……バカどもも引っ張って、そりゃ大所帯だったぞ」[plc] 【南】 「あー、あたしもコーヒー飲みたかったなぁ」[plc] 【東一郎】 「ぼやくなぼやくな、帰ろうぜ」[plc] 【南】 「はーい」[plc] 苦笑しながら先に教室を出ようとするイチローの後ろで、南が何事かつぶやいた。[plc] 【南】 「まぁ、これはこれで役得なんだけどね」[plc] 【東一郎】 「……? どうかしたか?」[plc] 【南】 「なんでもないでーす」[plc] *scene04|どうなる 麻耶のバイト先であった喫茶店。[plc] 優雅な曲を背景に、ゆとりある静かな時間を過ごせるはずのその場所。[plc] しかし、今日はどうも勝手が違っているようだった。[plc] 【麗朱】 「まだです! まーだ分かりません! まだ勝負はついてないです!」[plc] 【女子A】 「く、来部さん、落ち着いて。深呼吸よ、深呼吸」[plc] 【女子B】 「くるくるのおなじみ暴走たーいむ」[plc] 同じテーブルの友人たちに冷やかされながら、それでも麗朱は小さい体をいっぱいに動かして叫んでいた。[plc] 【麗朱】 「いくら過去の清算ができたからといって、決定打じゃないのです。まだ私にもチャンスが―――」[plc] 【男子A】 「だけどなぁ、最近の二人はもうアレだしなぁ」[plc] 【男子C】 「うむ、かつての初々しさも良かったが、今は今でよい」[plc] 【男子B】 「というか、アレが決定打でなくて、なんだ?」[plc] 【麗朱】 「外野は引っ込んでてください!」[plc] 目を三角にして怒鳴る麗朱に、隣のテーブルに着いていた男性陣は身を小さくして、閉口した。[plc] 【男子D】 「これだもん……北斗の前だとあんなにおしとやかなくせに」[plc] 【男子A】 「忍法猫かぶり?」[plc] 【男子B】 「うまい、半粒子人だからすり抜けの術もできるってわけだな!」[plc] くだらない話題で盛り上がっている男子陣を無視して、麗朱は頭を抱えた。[plc] 【麗朱】 「考えて! 考えるのよ、麗朱! まだ遅くない。修学旅行だってあるし、学園祭だってある」[plc] 【女子A】 「そ、そうね。イベントはまだまだ目白押しだものね」[plc] 【女子B】 「ダメだー、びょうきだー。あー、てっちゃんコーヒーお代わりー」[plc] 【真鉄】 「む。……レイも働け。注文くらいはとれるだろう」[plc] ウェイトレスの服にイメージを変えたままの麗朱に、同じくウェイター姿の真鉄が恨みがましい視線を送る。[plc] しかし麗朱は自分の世界に没頭しているようで、聞く耳を持っていなかった。[plc] 【麗朱】 「そうです、そこで北斗くんの心象を良くすれば……ウフフフ」[plc] 【真鉄】 「むぅ……」[plc] 疲れたようにため息をついて、真鉄はカウンターへと戻った。[plc] 付き合いきれんと言った表情でコーヒー豆の在庫を確認していると、そこにマスターがやってきた。[plc] 【マスター】 「あぁ、すまないね。今日も」[plc] 【真鉄】 「いえ。友人の頼みですから」[plc] 保護観察になってしまった麻耶が戻ってくるまで、バイトをする。[plc] 麻耶がおずおずとその頼みごとをしてきたとき、自分も含めた全員が快諾した。[plc] 【マスター】 「本当に……きみたちには、頭があがらないな」[plc] マスターなりに、雇い主とバイトだけの関係であっても、麻耶のことを気にかけてはいたらしい。[plc] 彼女の事情を説明したとき、さびしそうに笑ったことを真鉄は忘れなかった。[plc] 【真鉄】 「…………」[plc] 【マスター】 「そうだ。きみたちにからんだ、あのおじいさん。常連だったんだがね。しばらくは来ないそうだよ」[plc] 【真鉄】 「……そうですか」[plc] 【マスター】 「麻耶ちゃんが戻った日に呼んでくれ。復活客第一号になってやると息巻いてたさ」[plc] 【真鉄】 「ハハ」[plc] あのお酒ばっかりの老人が、そこまで無関係の麻耶のことを思えるのは、真鉄にとって少し意外だった。[plc] だが、そんな老人の優しさを知っていたからこそ、麻耶はあのとき老人をかばっていたのだろうか。[plc] もういなくなった、彼女の祖父の影を追うように。[plc] 【マスター】 「それより……いいのかい、彼女は?」[plc] 【真鉄】 「む?」[plc] 真鉄が似合わない感傷に浸っていると、マスターが言いづらそうに訊いてきた。[plc] 【マスター】 「いや、ホラ、幼馴染なんだろう? 北斗くんのこととか、気にならないのかい?」[plc] 【真鉄】 「あぁ……そのことですか」[plc] 合点がいったように真鉄はうなずくと、ちらと麗朱を一瞥して笑った。[plc] 【真鉄】 「あいつ、喜多が好きなんじゃなくて、養子に欲しいんですよ」[plc] 【マスター】 「…………はぁ?」[plc] マスターが真鉄の突然の告白に硬直した。[plc] 【真鉄】 「オレとレイは親同士の関係で、結婚が決まってまして」[plc] 【マスター】 「そ、そうなのかい……」[plc] いまだに困惑しかけているマスターにそれでも真鉄は自身の体を叩いて、言った。[plc] 【真鉄】 「オレもあいつも、こんな種族ですから。子供は絶対に無理と諦めてたんですよ」[plc] 【マスター】 「そ、それで……北斗くんかい?」[plc] 【真鉄】 「初めて会ったときに、あいつが。『この世にあんな可愛い男の子がいるなんて!』と一目ぼれで」[plc] 【マスター】 「は、はぁ……だが、きみはいいのか?」[plc] 【真鉄】 「いいですよ、別に。あいつが北斗を養子に欲しいっていうなら、オレは止めません」[plc] あっけらかんとした口調で答える真鉄に、マスターは辟易したように呟いた。[plc] 【マスター】 「いや……養子にも驚いたが、しかし、同級生だろう? さすがに無理があるんじゃ……」[plc] 良識の範囲内で戸惑っているマスターの声を聞いたのか、麗朱が突進するようにやってきた。[plc] 【麗朱】 「おじさま、それなら心配に及びません。北斗くんはまだ社会に出て五年しか経っていないのです」[plc] 【マスター】 「はぁ……」[plc] 【麗朱】 「つまり、私の愛しい息子(予定)の北斗くんは、書類上、五歳! まだ七五三の歳なんです!」[plc] 【真鉄】 「だから、一応問題ないそうです。喜多の関係者も呆れて笑ってました」[plc] 【マスター】 「だろうねぇ」[plc] 真鉄の言葉に、マスターはしみじみとうなずいた。[plc] 麗朱はしかしそんな二人を気にも留めず、鼻息荒く宣言する。[plc] 【麗朱】 「フフフ……見ていてください、仁志さん。必ずや北斗くんを貴女から掠め取り、うちの子にしてみせます!」[plc] 【女子A】 「ダメだわ、もう周り見えてない……」[plc] 【女子B】 「くるくるー。さいちんもいっしょに養子にしちゃえばいいんじゃないの?」[plc] 【麗朱】 「―――!! そ、その考えはありませんでした! ま、マー君、どう思う?」[plc] 【真鉄】 「いいかげんにしろ」[plc] 麻耶のバイト先であった喫茶店。[plc] 夕暮れ時のその場所で、子供たちの笑い声が飛び交う喧騒はまだ終わりそうになかった。[plc] *scene05|たったひとつ 近くの自販機でコーヒーを買って、帰りのバスを待ちながら、僕は夕焼けを眺めていた。[plc] 【北斗】 「しかし……バスが一時間に一本ってのは、ないんじゃないかなぁ」[plc] 本格的に冬に入って、夜が近くなった。[plc] でもそれは、今の僕にはちょっと嬉しいことだった。[plc] 誰かさんと始めた、ちょっとした日課のために。[plc] だから今もこうして、一日の役目を終えた太陽を笑顔で見送っている。[plc] 【北斗】 「今日も、雲ひとつないなぁ」[plc] ここ一週間ほど、そんな陽気が続いている。[plc] そろそろ雨が降ってもいいかなと思う反面、だけどやっぱりそれを嬉しく思う自分がいた。[plc] 【北斗】 「やれやれ……大分、毒されちゃったなぁ」[plc] 別にいやでもないくせにため息をこぼしてみる。[plc] こういうのを、世間一般ではノロケと言うのだろうか?[plc] 【西院歌】 「―――誰が、毒だって?」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 【西院歌】 「強襲!!」[plc] 【北斗】 「うわぁ!?」[plc] ベンチの後ろから声がしたかと思えば、僕はその声の主に思い切り飛び掛られた。[plc] とっさにコーヒーをこぼさないようにしながら、彼女を受け止める。[plc] 【北斗】 「……ふぅ。あっぶないなぁ、もう」[plc] 【西院歌】 「アハハハハ。いつかの仕返しだよ」[plc] 【北斗】 「いつの話だよ、それ?」[plc] 【西院歌】 「さぁ?」[plc] クスクスと笑いながら、彼女が僕に甘えるように擦り寄ってきた。[plc] やれやれと呆れ半分に僕も笑って、西院歌さんの頭を撫でる。[plc] 【北斗】 「うーん、撫でやすい」[plc] 【西院歌】 「む!? ボクの頭、そんなに髪の毛ない? はげてる?」[plc] 【北斗】 「いや、さらさらでいいなぁと思って」[plc] 他愛もない会話をしながら、二人でもう一度ベンチに腰掛け、バスを待つ。[plc] ……と、そこで僕はようやく違和感に気がついた。[plc] 【北斗】 「西院歌さん」[plc] 【西院歌】 「なにー?」[plc] 【北斗】 「なんでいるの?」[plc] 【西院歌】 「なぜでしょー?」[plc] エヘへ♪ と可愛らしく笑った西院歌さんに、またかとため息をついた。[plc] 【北斗】 「ダメだよ、学校サボっちゃ。南がきっとカンカンだ」[plc] 【西院歌】 「大丈夫、ちゃんと謝っといたから」[plc] 【北斗】 「そういう問題でもないと思うけど……」[plc] しょうがないなぁと思いながらも嬉しく感じてしまうのは、惚れた弱みに違いない。[plc] いよいよダメだな、僕は。[plc] そんな風に自分をたしなめてから、彼女の頭を撫でるのをやめた。[plc] 【西院歌】 「ん、北斗、どうかした?」[plc] 【北斗】 「西院歌さんの分、コーヒー買わないと」[plc] 【西院歌】 「あー、平気だよ、そんなの」[plc] 【北斗】 「どうして?」[plc] 僕が首だけひねると、彼女は僕の缶コーヒーを手にとって、一口飲んだ。[plc] そして、僕にそれを差し出す。これでもかというほどの、笑顔で。[plc] 【西院歌】 「ひとつあれば、足りるでしょ」[plc] 【北斗】 「――――」[plc] 【西院歌】 「北斗?」[plc] 【北斗】 「え? あぁ、いや、なんでもない」[plc] 一瞬見惚れてしまったなんてのは、不覚のうちにも入らなかった。[plc] ただ幸せそうに笑った彼女がいてくれた事実が、本当に嬉しくて。[plc] 自分のために差し出された手が、本当に嬉しくて。[plc] 万感の思いに身を包まれながら、僕は彼女からコーヒーを受け取った。[plc] 【北斗】 「―――ありがとう」[plc] 【西院歌】 「なんで北斗がお礼言うのさ」[plc] そう言って、彼女は笑う。[plc] それに僕も、笑って返した。[plc] 【北斗】 「言いたい気分だったからさ」[plc] 寒空の下、夕焼けがまもなく沈もうとしている。[plc] 雲ひとつない空には、もうすぐ夜の[ruby text="とばり"]帳が下りる。[plc] そして月が夜空を照らす頃には、きっと満天の星たちが輝いて―――僕らを迎えてくれるだろう。[plc] 〜了〜