*chapter06a|望遠 *scene01_1|開幕 バン、バンバン! と空で乾いた花火の音が響いていた。[plc] それを彩りの一つに添えて、明るい調子で鳴り響く地上のオーケストラ調パレード。[plc] 壮大に過ぎる、[ruby text="ツリー"]水[ruby text="マンタ"]都のオープニングだった。[plc] 【アナウンス】 ≪本日はニュータウン・水都にお越しいただき、誠にありがとうございます!≫[plc] 【アナウンス】 ≪水都は文字通り、水の都。水との戯れをテーマに、マンション・テーマパーク等を開発いたしております!≫[plc] そのパレードを邪魔するかのように、タウン全域へと向けられたアナウンスが流れていく。[plc] 【北斗】 「すごいなぁ……これじゃ、まるで遊園地だ」[plc] 【南】 「ホント、壮観だねー」[plc] 人の流れとアナウンスの合間をぬうように二人して感嘆の息をこぼした。[plc] 【アナウンス】 ≪もちろん水人だけでなく、空人、地底人、その他希少種の方々もお楽しみいただけるよう、工夫をこらさせていただきました!≫[plc] 【アナウンス】 ≪ショッピングで、おうちで、テーマパークで! あらゆるところで水都を感じていただければと思います!≫[plc] 締めくくりの言葉と共にひときわボリュームをあげたアナウンスと同時、音楽も最高潮を迎える。[plc] そしてまた曲を初めから演奏しだす。[plc] 同時に、注意事項としてのアナウンスが流れはじめた。[plc] 【アナウンス】 ≪大変恐縮ではございますが、当タウンではセレモニー開催期間のみ、スタッフを除いた無断飛行を禁止させていただいております。ご了承ください≫[plc] 【東一郎】 「さて―――せっかく学校も早帰りだったんだ。驚くのは後にして、さっさと行こうぜ」[plc] 【真鉄】 「む」[plc] 【麗朱】 「はい、楽しみましょう!」[plc] 【西院歌】 「そうね」[plc] 【北斗】 「あ、ちょっと待ってよ、イチロー……みんな!」[plc] イチローの号令にあわせて、全員がどんどん先へと進んでしまった。[plc] ひとり取り残された僕の肩に、南がポンと手を置いた。[plc] 【南】 「あれでも、心配してるんだよ」[plc] 【北斗】 「……南?」[plc] 【南】 「この前、急に休んだりとか。西院歌のこととか。なんかあったんでしょ?」[plc] 【北斗】 「あ……」[plc] ―――だから、あんな風に……。[plc] 【南】 「話さなくていいからね。別に話す用事ってわけでもないんでしょ」[plc] 【北斗】 「ゴメン……」[plc] 【南】 「いいから。代わりに、思いっきり楽しむよ」[plc] そう釘刺すようにビッと指をつきつけて、彼女はニッと僕に笑った。[plc] 【北斗】 「……うん!」[plc] 【南】 「じゃあ行くよ! 目標は出店のパフェ全制覇!」[plc] 【北斗】 「がってんです、姐さん!」[plc] そんな風にふざけあいながら、僕ら二人はイチローたちを追いかけるために人ごみへ向かっていった。[plc] *scene01_2|裏側 両腕を組んで難しい顔をした丘は、時折吹く風にマントをはためかせながら、じっとたたずんでいた。[plc] 水都の少し外れに、喧騒を一望でき、かつあらゆる事態に対応しやすい場所を確保したのだ。[plc] 【丘】 「…………」[plc] 【穂波】 「主任、言われたとおり職員の何人かを待機させましたけど……」[plc] 【丘】 「…………」[plc] 【穂波】 「主任? 丘主任?」[plc] 【丘】 「ん? あぁ、穂波くんか。お疲れ様です、配置は大丈夫ですか?」[plc] 【穂波】 「……は、はい。北斗くんに二人と、里さんに一人を……」[plc] 【丘】 「そうか、了解しました」[plc] 戻ってきた穂波が何か言いたげな顔をしているのを無視して、丘は水都の盛り上がりを見据えた。[plc] あの人だかりの中に、“喜多 北斗”はいる。[plc] おそらくは友人と一緒だろう。[plc] 【丘】 「……ずっと一緒だといいが」[plc] 【穂波】 「は?」[plc] 【丘】 「いや……なんでもありません」[plc] 増木 里が提出した書類にどれだけの思惑がこめられているか、丘は完全に把握できなかった。[plc] だが、あのときの増木 里の眼光を自分は見逃していたわけではない。[plc] その鋭さの増した目が、たしかに物語っていたのだ。[plc] 【丘】 「いや、だが……」[plc] 理屈の上では、ありえない話ではない。[plc] 彼女が真に“喜多 北斗”を理解しているというならば。[plc] ソレは何も、不可能な話ではないのだ。[plc] 【丘】 「それでも……無茶すぎる」[plc] いくら不可能ではないとはいえ、不可能に近いことには変わりない。[plc] 【丘】 「接触、か……」[plc] 第一次接触を起こすことで、“喜多 北斗”はその種族の肌から種族に関する情報を得る。[plc] だが、得られるのは根本的に多存種に属する種族のものだけだ。[plc] 希少種という、いずれ滅ぶべき種族の情報は、“ヒト”になる過程の違いによって得ることはできないはずだ。[plc] 【丘】 「だが、もし―――第二次接触が存在するのなら」[plc] 希少種の情報を得るための識域野を、なんらかの条件下によって“喜多 北斗”が得るように進化していたなら。[plc] 【丘】 「北斗が『変身』できる種族は……種族の垣根を越える」[plc] それは言ってしまえば、禁忌中の禁忌だ。[plc] 『変身』という出自も不明のありえない力に加え、その制限が存在しなくなるなどという事態になれば―――。[plc] 【丘】 「今度こそ、世界は容認する」[plc] それも歓喜しながら、“喜多 北斗”の枠を壊して変身種族たちを容認するだろう。[plc] 希少種の絶滅阻止のための、救済措置として。[plc] それだけのための『装置』として容認するだろう。[plc] 変身種族たちの人権など消えて。[plc] ただ救済するためだけの義務を背負わされることになる。[plc] 希少種という存在に、“喜多 北斗”はすべからく占有される。[plc] 丘は不快さのあまり、ギリと歯軋りした。[plc] 【丘】 「……そこまでして、救われたいか……!?」[plc] 【穂波】 「しゅ、主任……?」[plc] 組んだ両腕に疑惑と混乱と怒りの力をこめつつ、丘はただ何も起こらないことを願っていた。[plc] *scene02|幕間、限界 なんとしても、救われたい。[plc] 影の願いは単純にしてひとつだった。[plc] そのためならば手段など問わず、可能性など考えるまでもなかった。[plc] ―――北斗くんを手にするだけで、私は救われるのだ……![plc] 影には奇妙な自信があった。[plc] どこから湧いて出てきたものか分からないが、それはたしかに自信だった。[plc] どうとでもなるというような、不気味な確信。[plc] それが泉のように湧き出てふつふつと煮えたぎり、沸騰してぐつぐつと理性の蓋を揺らがせる。[plc] それが、影を焦らせていた。[plc] ―――落ち着け……。まだ早い、早すぎる。[plc] 如何に自信があろうとも、時期においてはあまりに早すぎた。[plc] もっと段階を踏んだ上での計画とするべきなのだ。[plc] 分かっている、そう分かってはいるのに。[plc] ―――落ち着け、落ち着け、落ち着け……![plc] 影の笑みはしかし、理性に反してどんどんと濃く、そして鋭いものへと変わっていく。[plc] 限界が、近づいていた。[plc] *scene03|迷子 【北斗】 「あ、美味しい。コレ」[plc] 南の宣言どおり、出店のパフェ全制覇にあやかって僕もパフェを注文してみた。[plc] 歩きながらのパフェは少し食べにくいが仕方ない。[plc] 休む時間がもったいないという南の意見で、食べながらすでに次の店に向かっているからだ。[plc] 【西院歌】 「……ちょっとちょうだい」[plc] 【北斗】 「うん、いいよ。はい」[plc] 【西院歌】 「…………甘い」[plc] 隣を歩く西院歌さんに一口あげると、感想とは逆に少しだけ渋い顔をした。[plc] 僕は思わずぷっとふき出してしまう。[plc] 【北斗】 「そりゃそうだよ、パフェだもん。何期待してたのさ」[plc] 【西院歌】 「アレ」[plc] そう言って西院歌さんが指差した先を見ると―――。[plc] 【南】 「辛ぁー! からぁひー!!」[plc] 【東一郎】 「水! 水! 水、水!!」[plc] 【真鉄】 「……む……ぐ……」[plc] 【麗朱】 「だから辛いのはやめたほうが良いって言ったんですよ、真鉄」[plc] 出店の名物と称された『青唐辛子&ハバネロパフェ』とか言う辛さの権化みたいなものに挑戦したお馬鹿さんたちの姿だった。[plc] 人ごみの中で顔を赤くしたり青くしたり、せわしないことこの上ない。[plc] 【北斗】 「だから座って食べようって言ったのに……。西院歌さん、あんなのが食べたかったの?」[plc] 【西院歌】 「ハバネロは神様だから」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] きらりとメガネを光らせ、妙なことを言った西院歌さんに僕は唖然とした。[plc] 【西院歌】 「南からもらってくる」[plc] 【北斗】 「ちょっと、西院歌さん?」[plc] しかし、西院歌さんが先を進んでいた南たちのところに小走りに行ってしまった。[plc] 一人取り残された僕はパフェを片手に、仕方がないなぁと肩をすくめる。[plc] ―――まぁ、西院歌さんの日傘が目印になるし、大丈夫だろう。[plc] そんな風に油断した考えで、もう一口パフェを頬張ろうとしたそのとき。[plc] ――ドンッ![plc] 【北斗】 「うわっと!」[plc] 人の流れに押され、気を抜いていた僕はバランスを崩してしまう。[plc] 当然、べしゃりと間抜けな音をたてて地面に落下するパフェ。[plc] 【北斗】 「あー、しまった」[plc] 生クリームとかは悪いけれど、掃除の人にまかせるしかない。[plc] 僕は急いでパフェの入れ物やスプーンを拾って、立ち上がった。[plc] 【北斗】 「あらら、皆行っちゃったよ……」[plc] しかし時既に遅く、イチローたちは先へ先へと進んでしまったようだ。[plc] 目印にするつもりだった西院歌さんの日傘も、すでに見えない。[plc] 【北斗】 「はぁ……」[plc] 僕はもう一度仕方ないとため息をついて、近くにゴミ箱がないかを探しはじめた。[plc] そうして左・右と顔を動かして、そこに見知った顔を見つけた。[plc] 【北斗】 「あれ……来てたんだ」[plc] 微妙に驚きつつも、ちょうどいいと僕は思い直した。[plc] 迷子になったとき、下手に動くと危ないらしい。[plc] 皆が戻ってきてくれるまで、あの人と話でもしていよう。[plc] 【北斗】 「麻耶さーん」[plc] そう思った僕は、視線の先の彼女の名前を呼びながら、足早に駆け寄った。[plc] *scene04|幕間、崩壊 影に、そんなつもりはなかった。[plc] 焦る必要はないと、自身に言い聞かせた。[plc] 落ち着けと念仏のように何度も胸で繰り返した。[plc] だから、コレは私のせいではないと影は思った。[plc] このあまりによく出来た偶然は、けっして自分の意図したものではないと影は思った。[plc] では、これはいったいどうしたことだろう? と影は歓喜に痺れる頭で考えた。[plc] 人ごみという自然の檻の中で、獲物が勝手に一人になった。[plc] 今、“喜多 北斗”の周りにはいつもいたはずの鬱陶しい連中の姿が無い。[plc] いるのは、一人だけ。[plc] あの鬱陶しい女さえいなければ、もう障害はないはずだ。[plc] …………。[plc] この偶然は、はたしてなんなのだろうか? と影は考える。[plc] まだ焦る必要はなかったはずだ。[plc] 今はまだ動くときではないと自分で戒めたはずだった。[plc] だが現に、こうしてチャンスは訪れている。[plc] どうしたらいい……!?[plc] 痺れた頭で、影は考える。[plc] しかし、影の手は歓喜と興奮で染められた思考よりも早く、着実に動いていた。[plc] 影はすでに、崩壊していた。[plc] *scene05_1|疑惑 【北斗】 「麻耶さん、こんにちは」[plc] 【麻耶】 「あら……北斗くん! こんにちは」[plc] 僕が挨拶すると、露店のテーブルを拭いていた麻耶さんはこちらを振り返って、華やいだ笑顔を見せた。[plc] 【北斗】 「今日もアルバイトですか?」[plc] 【麻耶】 「ええ、今日は水都まで出張営業です。―――北斗くんはどうされたのですか?」[plc] 【北斗】 「いえ、皆と来たんですけど……はぐれちゃったみたいで」[plc] 【麻耶】 「まぁ、それは大変」[plc] 【北斗】 「あぁ、いえ。大丈夫です。パフェ全制覇とか言ってましたから、多分このお店にも来ますよ」[plc] 【麻耶】 「あら、それは楽しそうですね。そういうことでしたら―――」[plc] 言いつつにこやかに微笑んで、彼女はガタリと椅子を動かすと僕に座るよう促した。[plc] 【麻耶】 「どうぞ、いらっしゃいませ。ごゆっくりしていってください」[plc] 【北斗】 「あ、すいません。失礼します」[plc] 僕も軽く頭を下げて、席に座る。[plc] すると麻耶さんは慣れたもので、すぐにメニューを持ってくると僕に手渡した。[plc] しかし、その顔はお客様に接するときのような笑顔ではなく、どこか後ろめたさのある暗さがあった。[plc] 【北斗】 「……麻耶さん?」[plc] 【麻耶】 「……北斗くん、この間はごめんなさい」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 【麻耶】 「私ったら、何も知りもしないくせに、勝手なことを……」[plc] そこまで言われて、ようやく気が付いた。[plc] 麻耶さんが僕を助けるために、丘さんに正面切って意見したことを謝っていると。[plc] 【北斗】 「そんな……お礼を言うのは、僕のほうです」[plc] 【麻耶】 「ですけど、私、差し出がましいことをしてしまったのではないかと」[plc] 【北斗】 「良いんですよ、麻耶さん。あのときは正直、すごく助かりました」[plc] そう、僕の苦手意識を吹き飛ばすほどに。[plc] あのときの彼女は、輝いていた。[plc] 【麻耶】 「ですけど私は、喜んでいたんですよ? 自分と似てる人を見つけて」[plc] 共感。[l]彼女が僕に見つけた、類似点。[plc] それは彼女自身の問題で、そこに僕は一切関与しない。[plc] それなのに彼女は、懺悔するように自分の手を握りしめていた。[plc] 【北斗】 「構いませんよ、全然。僕は気にしてないですから」[plc] 【麻耶】 「ですが……」[plc] 【北斗】 「麻耶さん、良いですってば」[plc] 【麻耶】 「北斗くん……」[plc] 安心させるように笑いかけると、麻耶さんは少し困った顔をしながらも胸を撫で下ろしていた。[plc] 【北斗】 「さてと、メニューなんですけど……」[plc] 【麻耶】 「はい、何にいたしますか?」[plc] 麻耶さんが落ち着いたところでオーダーしようとメニューを覗き込んだとき。[plc] それは突然にやってきた。[plc] 【男】 「喜多 北斗くん。すまないが、こちらに来ていただけないか?」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 少し離れた場所から、見覚えのない男性がこちらに来るよう呼びかけてきた。[plc] 僕が呆けた顔をしていると、麻耶さんが小声で尋ねてくる。[plc] 【麻耶】 「お知り合いですか?」[plc] 【北斗】 「いえ。あのー、すいません。どちら様でしょう?」[plc] 【男】 「すまない。時間がないんだ、とにかくこちらへ」[plc] 【北斗】 「?」[plc] 言動が不明瞭な男性の言葉に僕は小首をかしげるばかりだったが、麻耶さんは表情を厳しくしていた。[plc] 【麻耶】 「どちら様でしょう? こちらは私のお店のお客様です。ご用なら、私が承ります」[plc] 【男】 「いえ、本人に直接。突然変異体・外種の“喜多 北斗”くん。きみの身柄を預からせていただこう」[plc] 麻耶さんを素通りした男性が僕に近寄りながら、用件を言ってきた。[plc] その用件の内容に僕は思わず固まった。[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 【男】 「増木一等陸尉がお呼びだ。悪いが、少々雑になる」[plc] 【北斗】 「里さんが?―――って、ちょっと!?」[plc] 問い質す間もなく、無理やりに抱きかかえられた僕は慌てるも、口を塞がれて声が出なくなった。[plc] 【男】 「すまない。舌をかまないよう、口を閉じていてくれ」[plc] 【北斗】 「ぐむっ!?」[plc] あまりに巨大な手で口をふさがれ、僕は呼吸することもままならなくなった。[plc] いったい、何が―――!?[plc] 混乱する頭でどうにか思考しようとしたそのとき。[plc] 【麻耶】 「私の友達に、何するんですか!」[plc] 【男】 「ぬぉ!?」[plc] 【北斗】 「うわぁっ!?」[plc] 後ろから思い切り麻耶さんが男性を押したため、バランスを崩して僕ごと倒れこんでしまう。[plc] 地面に打ち付けられそうになったのをどうにか着地して防ぐと、麻耶さんが僕の手を取った。[plc] 【麻耶】 「逃げましょう、北斗くん!」[plc] 【北斗】 「ま、麻耶さん! ちょっと!!」[plc] 混乱しきっている頭をさらに混乱させるように、麻耶さんは僕の腕を引っ張った。[plc] 【男】 「ま、待つんだ、“喜多 北斗”!」[plc] 立ち上がろうとしている男性の静止の言葉も聞かず、麻耶さんは足を速めた。[plc] 【麻耶】 「とにかく逃げましょう、北斗くん!」[plc] 【北斗】 「え、えと、あの……」[plc] 里さんの使いの人というなら、きっと護衛の人なのだろう。[plc] 何故その人が急にあんな乱暴に出たのか、僕には分からなかった。[plc] ただ―――。[plc] 【麻耶】 「北斗くん!」[plc] 【北斗】 「は、はい!」[plc] 必死の表情の麻耶さんに促され、僕は彼女の手の引く方向へひたすらに走った。[plc] *scene05_2|発見 【東一郎】 「おーい、そっちいたかー?」[plc] 【南】 「ぜーんぜん、ダメ。聞いてもみたけど誰も見てないってさ」[plc] 【東一郎】 「ちなみに聞くがどんな聞き方した?」[plc] 【南】 「金髪でどっか抜けてそうでほっぺたがぷにぷにのチビ見ませんでした? って」[plc] 【東一郎】 「もう一度聞き直して来い!!」[plc] 【南】 「いやーん、なんでー?」[plc] パタパタと羽音をたてながら走り去る南を見送りつつ、東一郎は左右をもう一度見渡した。[plc] 失態だった。[plc] まさか北斗とはぐれるなどという大ポカをやるなどと、彼は夢にも思っていなかったのだ。[plc] とりあえず全員で辺りを探してはいるのだが、こういうときに限ってなかなか見つからない。[plc] 【東一郎】 「どうすっかな……」[plc] ひとりごちつつ、彼は隣の青い顔のままで絶句している少女を見やった。[plc] 一見無表情にしか見えないが、その実、仁志 西院歌は日傘を持つ手を微かに震えさせていた。[plc] 【西院歌】 「………………」[plc] 【東一郎】 「大丈夫だって、センセイ。心配すんな、すぐに見つかる」[plc] 【西院歌】 「……えぇ」[plc] まだ冗談の域ですむ、と東一郎はあえて楽観視した。[plc] この事態を重く見ているのは、自分と西院歌の二人だけ。[plc] 彼女の状態が他の仲間にばれる前に、とにかく北斗を見つけなければならない。[plc] 【東一郎】 「しっかし、あのバカはどこを……」[plc] 西院歌の様子を気にしつつ、北斗への悪態をつきながら再度左右を見渡した東一郎は、ある一点に目の動きを止めた。[plc] 【東一郎】 「あれは……?」[plc] 川のように流れる人ごみの中を逆らうように疾駆する見覚えのあるエプロンドレスと、それに手を引かれる金髪。[plc] ―――なんだってあの人と一緒にいやがるんだ?[plc] 【西院歌】 「イチロー……?」[plc] 【東一郎】 「見つけたぞ、センセイ。行こうぜ、ビンゴだ!」[plc] 胸中にわいた疑問を無視して、とにかく隣の少女を安心させようと東一郎は西院歌を促した。[plc] そして、見かけた二人の姿を見失わないよう、彼と彼女も並んで走り出した。[plc] *scene05_3|信頼 【穂波】 「主任! ま、待ってください! 待って!!」[plc] 【丘】 「くそっ!? やっぱりこうなったか!」[plc] 丘は走りながら、悪態をついた。[plc] 職員からの報告により、増木 里ゆかりの護衛部隊が動き出した報告を受けたからだ。[plc] ―――『里さん』、どうして……!?[plc] 苛立ちにも似た思いを胸中に抱きながら、彼女のやった暴挙をいますぐ咎めようと、セレモニー関係者の部屋へ向かう。[plc] そこにはおそらく、彼女の関係者ないし彼がいることを見越してのことだった。[plc] 【警備員】 「……? 何のご用件でしょうか?」[plc] 【丘】 「緊急事態だ! 通してくれ!」[plc] テナントの前に立つ警備員を強引に押しのけ、丘はドアを開け放つ。[plc] 幾人かの職員がその大音声に驚いて丘を見たが、彼はそんなもの眼中になかった。[plc] 【丘】 「仁志 乃兎!」[plc] 静まり返る室内に丘の叫びだけが響いたが、返答はなかった。[plc] しかし、構わずに彼はずかずかと奥へと進みながら、増木 里に通じているだろう男性を呼び出す。[plc] 【丘】 「乃兎! いるんだろう、返事をしなさい!」[plc] 【乃兎】 「…………なんですか、丘さん? そんなに慌てて」[plc] ゆらりと幽鬼のように奥から姿を見せた乃兎に、丘はすかさず食ってかかった。[plc] 【丘】 「何故慌てるか? 当たり前だ! 増木 里が“喜多 北斗”に接触を図ろうとしたんだぞ!」[plc] 【乃兎】 「接触……? あぁ、前に話していた第二次接触ですか?」[plc] “喜多 北斗”の危険性の一端。[plc] それに関して、“喜多 北斗”の保護者として選出したこの後輩に丘はすべてを話していた。[plc] 【丘】 「そうです、その通りです。彼女が“喜多 北斗”を占有しようと目論んだんだ」[plc] 【乃兎】 「…………」[plc] 丘の決定的な猜疑の告白に、乃兎は無言のまま頭を掻いたあとではっきりと言い放った。[plc] 【乃兎】 「ありえませんね」[plc] 【丘】 「なっ……!?」[plc] いつもの無表情を忘れるほどの笑顔で言い切った乃兎に、丘は棒立ちになった。[plc] 【乃兎】 「あのバカがつくほどお調子者で心配性でお節介焼きの里が、そんなことをするわけがない」[plc] 【丘】 「何を言って……?」[plc] 【乃兎】 「分からないですか、『先輩』?」[plc] うろたえる丘をフッと不敵に笑って、乃兎は自身の婚約者をこう評した。[plc] 【乃兎】 「あいつがオレに相談もなしにそんなバカするわけがないでしょうが」[plc] 【丘】 「……………」[plc] 一片の曇りもない地底人の瞳で言い切られ、丘はぶつけるべき言葉を見失ってしまう。[plc] すると、それに追い討ちをかけるように後ろから声が投げられた。[plc] 【穂波】 「しゅ、主任! やっと見つけました!」[plc] 【里】 「ここにいたか、由吉!」[plc] 【丘】 「穂波くん!……増木大尉!?」[plc] 【乃兎】 「里、どうした?」[plc] 血相変えて飛び込んできた件の人物に、丘のほうが面食らったように驚く。[plc] しかしそんな暇などないと言うように、里は丘の胸倉を掴みにかかった。[plc] 【里】 「本部に応援を呼べ! 今すぐにだ! まんまと逃げられた!!」[plc] 【丘】 「な、何を……」[plc] 【乃兎】 「里、落ち着け。何があった?」[plc] ぐいと丘から引き剥がして、ゆっくりと端的に乃兎は里に問いかけた。[plc] そして、里の口から吐き出された衝撃の一言に、丘は自身の失態に全身が揺らぐ錯覚を味わった。[plc] 【里】 「あの女にしてやられた! あの田村 麻耶に! 北斗くんを連れ去られた!」[plc] 乃兎が、穂波が、丘が、そしてその場にいた職員の全員が、その言葉の意味を咀嚼する沈黙が過ぎた。[plc] 【穂波】 「え……?」[plc] 【乃兎】 「連れ去られた……?」[plc] 【丘】 「ま、待ってくれ、『里さん』。“田村 麻耶”だって……!? それじゃあ―――」[plc] 丘が真実を理解して言葉を発するその前に、失態と悔恨に握り拳を崩さないままの里が続きを叫んでいた。[plc] 【里】 「あぁ、そうさ! 第二次接触が起きれば終わりだ! 田村 麻耶は“喜多 北斗”を占有するぞ!」[plc] *scene06_1|急転 僕は最初、夢を見ているのではないかと思った。[plc] 【北斗】 「う、うわ、と、ととと!!」[plc] そして次に、時間が逆流しているのではないかと思った。[plc] 僕を取り残して、見終わった映像を巻き戻すかのように。[plc] 【麻耶】 「はやく、北斗くん! こっちです!」[plc] 【北斗】 「ま、待ってください、麻耶さん……!!」[plc] それくらいに麻耶さんの足取りは軽やかで速かった。[plc] そんな彼女にぐいぐいと手を引っ張られ、僕は前につんのめりながらもどうにか進んでいた。[plc] いくら種族間では身体能力に差が出るとはいえ、これでは歴然という言葉でも足りない。[plc] 【北斗】 「ま、麻耶さん! ど、どこに……!?」[plc] 【麻耶】 「とにかく逃げましょう! あそこは危険です!!」[plc] 一心不乱といった[ruby text="てい"]体で前だけを見ている麻耶さんに、僕は内心いぶかしんだ。[plc] 逃げるとばっかり言っているけれど…………。[plc] 【北斗】 「だ、大丈夫ですよ、麻耶さん。里さんが僕にひどいことするなんて―――」[plc] 【麻耶】 「じゃあ、さっきの男の人はなんですか!? あれが危険でなくて、何と!?」[plc] 【北斗】 「え、えと、それはきっと手違いか何かだと」[plc] 【麻耶】 「手違いなんかじゃありません!」[plc] ぴしゃりと切って捨てられ、僕はびくりと体を震わせてしまった。[plc] しかし、同時に内心の疑問がさらに鎌首をもたげてくる。[plc] 【北斗】 「どうして……?」[plc] 【麻耶】 「……え? 何かおっしゃいました、北斗くん?」[plc] 【北斗】 「どうして言い切れるんですか?」[plc] 【麻耶】 「――――」[plc] 僕の疑問に、麻耶さんが息を呑んだ気がした。[plc] 思わず僕は走る速度をゆるめ、自然に足を進めるのを止めてしまう。[plc] しかし、麻耶さんはそれを咎めることなく、一緒に立ち止まってくれた。[plc] だけど彼女の手は、僕の手をしっかとにぎって離さない。[plc] 【北斗】 「麻耶さん……?」[plc] 【麻耶】 「逃げましょう、北斗くん。はやく」[plc] 【北斗】 「ま、待ってください!」[plc] ぐいともう一度引っ張るように促されるが、僕はその場でぐっと踏みとどまった。[plc] 【麻耶】 「北斗くん……?」[plc] 【北斗】 「やっぱりおかしいです。里さんが僕にひどいことするはずありません」[plc] 【麻耶】 「…………」[plc] 【北斗】 「僕、戻ります。麻耶さんも、戻りましょう。ご迷惑かけて、すみませんでした」[plc] 麻耶さんに頭を下げてから後ろを振り向こうとしたとき、ブツブツとか細い声が聞こえた。[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 【麻耶】 「…………北斗くん、逃げましょう」[plc] 【北斗】 「ま、麻耶さん?」[plc] ブツブツと何かを呟きながら、僕を引っ張る麻耶さんに戸惑ったそのとき、後ろから別の誰かの声がした。[plc] 【東一郎】 「北斗! ここにいたか!」[plc] 【西院歌】 「はぁ……はぁ……見つけた」[plc] 【北斗】 「イチロー! 西院歌さん! どこ行ってたのさ!?」[plc] 【東一郎】 「そりゃ、こっちのセリフだ。バカヤローめ。―――麻耶さん、お久しぶりです」[plc] こちらに歩み寄りながら麻耶さんへと挨拶したイチローだったが、彼女から返礼はなかった。[plc] 【麻耶】 「…………」[plc] 【北斗】 「……麻耶さん?」[plc] 【東一郎】 「おろ?」[plc] イチローの挨拶に何の反応も示さないまま、麻耶さんはブツブツと小声を言うだけだった。[plc] それが何かを聞こうと僕とイチローが顔を見合わせたあとで、一歩、彼女に近づく。[plc] そのとき―――。[plc] 地底人の卓越した耳で麻耶さんの小声を聞き取れたのか、西院歌さんが叫びをあげた。[plc] 【西院歌】 「……!? ダメ、二人とも、逃げて!!」[plc] 【東一郎】 「え、なに―――[l]がふっ!!」[plc] イチローが西院歌さんに聞き返そうとしたが、無駄だった。[plc] 一瞬の内に彼は下腹部を麻耶さんに殴られ、地面へと伏していたからだ。[plc] 【東一郎】 「ごほっ!?―――ごほ、げほ!!」[plc] 【北斗】 「イチロー!? 麻耶さん、あなた、何を―――!!」[plc] 【西院歌】 「ダメ、離れて!」[plc] 悶えるイチローに僕自身困惑しながら、麻耶さんに詰め寄る。[plc] 【麻耶】 「北斗くん、逃げましょう」[plc] しかし彼女は微笑みながら、僕に逃げるよう促すばかりだった。[plc] 【北斗】 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! なんでイチローをなぐっ―――」[plc] 【麻耶】 「聞き分けのない子。仕方がありません」[plc] 僕の言葉をさえぎるように麻耶さんはそう言うと、ずっと離さなかった僕の手をくるりと捻った。[plc] ―――ゴキリ、と鈍い音がした。[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 【麻耶】 「さ、行きましょう」[plc] 僕がその音の正体に気づくよりも先に、麻耶さんはいつの間にか手袋を外した手で僕を殴りつけた。[plc] 拳の入った場所が悪かったのか、僕は朦朧とする暇もなく、一撃で気絶した。[plc] 【西院歌】 「いやぁぁぁ―――!!」[plc] ただその直前、彼女の絶叫だけは耳に届いていた。[plc] *scene06_2|最悪 【里】 「そもそも、恐竜人種とは群れで行動する意識が他の種族より強く、極端に孤独を嫌う」[plc] 【丘】 「それが彼女の動機だと?」[plc] 【里】 「それだけとは限らんがな。動機の一端、そう捉えることは可能だ」[plc] 水都のセレモニーが円滑に進んでいる中、関係者室は一種異様な緊張感に満ちていた。[plc] 【里】 「くわえて、恐竜人種は力が並外れているというのも問題点のひとつだ」[plc] 【乃兎】 「“喜多 北斗”に危害を加える可能性がある、と?」[plc] 【里】 「生来、思い込みが激しく直情的な種族だからね。楽観視できるものではない」[plc] 里の忌々しいと言わんばかりの発言に、乃兎や丘だけに留まらず、穂波も不安に表情を曇らせた。[plc] 【穂波】 「だから、里さんは彼女を危険視してたんですか」[plc] 【里】 「あぁ、彼女が種族を明かしたときから。もしやと思っていたが、まさかこんなにも早く……」[plc] 机に散りばめた書類のひとつを握りしめながら、里は悔しさに歯噛みした。[plc] それを見て、丘も口を開いた。[plc] 【丘】 「いいえ、大尉。悪いのは私です。私がもっと早くに気がついていれば良かったんだ」[plc] 【穂波】 「主任……」[plc] 【丘】 「あまつさえあなたに疑いをかけた。本当の馬鹿は、間違いなく私だ」[plc] 懺悔するように頭を垂れた丘を見やってから、乃兎が口火を切る。[plc] 【乃兎】 「責任云々は今、語るべきことじゃない。今はやれることをやるときだ」[plc] 【丘】 「…………」[plc] 【里】 「あぁ、そうだな……」[plc] 無言でうなずく丘と肩の力を抜いた里を確認してから、乃兎は丘の隣にいる女性に声をかけた。[plc] 【乃兎】 「最後に北斗たちを確認した場所は?」[plc] 【穂波】 「え、えぇと、職員の話では水都の中央から少し南寄りのエリアで見たのが、最後です」[plc] 【乃兎】 「よし、進んでいた方向は分かるか」[plc] 乃兎が水都の地図を机に広げると、穂波はそれを見ながら指をすべらせた。[plc] 【穂波】 「街と結ぶ鉄橋の方へ走っていたそうですから、北に向かっているのかと思われます」[plc] 【乃兎】 「分かった。里、こちらは関係者にかけあって水都の入場口に職員を何人か配置する」[plc] 【里】 「あぁ、私も鉄橋の出入り口に至急検問を敷くよう命じる」[plc] 水都の中を逃げ回れるよりも、最も厄介なのは外へと逃げられることだ。[plc] 里も乃兎も、そして丘も、それを阻止せんとするために頭を働かせる。[plc] 【丘】 「穂波くん、その北斗を見かけた職員は今、どこに?」[plc] 【穂波】 「報告を他の職員にまかせて、彼はそのまま追いかけていったそうです。何か動きがあればこちらに来るよう―――」[plc] 穂波が言いかけたちょうどそのとき、部屋の扉を突き破るように誰かが飛び込んできた。[plc] 【職員】 「失礼いたします、丘博士、穂波博士! 緊急の報告があります!」[plc] 【丘】 「どうした?」[plc] 【職員】 「はい、“喜多 北斗”のご学友と思われる少年が倒れているのを発見したんです」[plc] 言いながら、彼は背負っていた一人の少年をベンチに寝かせた。[plc] その人物を見て、里と乃兎は絶叫した。[plc] 【里・乃兎】 「東一郎!」[plc] 呼びかけられた声に、腹を押さえながら東一郎が顔をあげる。[plc] 【東一郎】 「ぐ……里さん、ですか? 北斗が、連れてかれちまった。センセ……西院歌が、それを追っかけて……」[plc] 【里】 「なんだと!?」[plc] 【乃兎】 「―――!」[plc] 東一郎は悔しさと痛みに顔を歪ませながら、乃兎を見た。[plc] 【東一郎】 「すいません、乃兎さん。オレ、止められなくて……」[plc] 【乃兎】 「あの馬鹿……」[plc] 【里】 「すぐに人を出す。妹を止めるのが最優先だ」[plc] 【穂波】 「私は他の北斗くんのお友達を探してきます。同じことされちゃ大変ですから」[plc] 乃兎が吐き捨てるのとほぼ同時に、里と穂波が関係者室から飛び出した。[plc] その場に残った丘が躊躇しながらも、乃兎に声をかけた。[plc] 【丘】 「乃兎。被害者が出た以上、セレモニーは……」[plc] 【乃兎】 「分かっています。中止するよう、進言するしかないでしょう」[plc] 【丘】 「すまない……」[plc] 丘の謝罪には応えず、沈痛な面持ちで乃兎は重いため息を吐き出した。[plc] 【乃兎】 「西院歌……」[plc] *scene06_3|疾駆 僕は最初、夢を見ているのかと思った。[plc] 次に時間が逆流しているのかと思った。[plc] だけど、その考えは左からやってくる激痛に掻き消された。[plc] 【北斗】 「痛ッ――――!?」[plc] とっさに歯を喰いしばって、痛みをこらえたのは正解だった。[plc] そうでなければ、あまりの速度に舌を噛んでいただろう。[plc] 【麻耶】 「お目覚めですか、北斗くん」[plc] 【北斗】 「ぐ……麻耶さん……! 放してください!」[plc] 【麻耶】 「何を言ってるのです、北斗くん。せっかくあの女から逃げられたのに」[plc] 麻耶さんの脇に軽々とかかえられ、抵抗しようにも腕が痛くて動けない。[plc] 【麻耶】 「無理に振りほどくと転げ落ちますよ。この速度は」[plc] 先ほど僕の手を引いて走っていたときとは比べ物にならない速さ。[plc] しかもヒト一人を抱えこんでいるのに、まったく意に介していない。[plc] 【北斗】 「くっそ……!?」[plc] 視界の端に映る鈍く光る鱗の手が、彼女が何者であるかを主張していた。[plc] 【北斗】 「こんなことして、どうしようって言うんですか!」[plc] 【麻耶】 「あまりしゃべると舌を噛みますよ」[plc] 【北斗】 「麻耶さん!!」[plc] 【麻耶】 「…………」[plc] 僕の訴えをまるで無視しながら、彼女は右へ左へと曲がって、どんどん先へ進んでいく。[plc] 腕の痛みをこらえながら、僕は必死に辺りを見回した。[plc] せめてどこを走っているのかさえ分かれば、彼女の目指している場所もそれとなしに分かるはずだ。[plc] 【北斗】 「……!」[plc] そして僕が目にしたのは、水都と僕らの街を唯一結ぶ鉄橋の、あまりに無骨な一部分だった。[plc] *scene07_1|誰か 少女は日傘を差しながら、必死に水都を駆けていた。[plc] 【西院歌】 「はぁ……はぁ……」[plc] 早く彼らに追いつこうにも種族上持久力はなく、また彼女には平均より体力がなかった。[plc] 自身の情けなさを、少女・仁志 西院歌は呪った。[plc] 【西院歌】 「なんで……!?」[plc] こんなにも、遅いのか。[plc] 西院歌にはもどかしかった。[plc] ―――そりゃ、あんたが『地底人』だからさ。[plc] それを誰かが嘲笑った。[plc] 誰かは誰かだった。自分にも分からない、しかし自分にしか感じられない誰かだった。[plc] 【西院歌】 「何が……!?」[plc] 反論するように、西院歌は無意識に叫び返そうとした。[plc] しかし、言葉がつづかない。[plc] ―――返せないよなぁ。言うとおりなんだから。[plc] 【西院歌】 「うる……さい……!」[plc] ―――あぁ、悪い悪い。そういや、あんた大嫌いだったっけなぁ、『地底人』。[plc] 誰かの言葉は正しかった。[plc] この世で仁志 西院歌ほど、『地底人』を恨むものはいないと思えるくらい、嫌いだった。[plc] ―――鼻が利いて、耳良くて、それで終わってりゃ良かったのに……。[plc] 呆れたと言わんばかりのため息が、誰かから聞こえる。[plc] 【西院歌】 「だまって……」[plc] 西院歌は走りながら、誰かの声に耳を傾けまいと必死になる。[plc] ―――中途半端に[ruby text="・"]視[ruby text="・"]え[ruby text="・"]るから、本当に参るよな。[plc] 誰かが西院歌の瞳を指差しながら、乱暴な口調で嘲笑った。[plc] 【西院歌】 「関係ない……!」[plc] 息を切らしながらも、西院歌は誰かの言葉に声を荒げる。[plc] しかし、誰かはそんな西院歌のことなど歯牙にもかけずに話をつづけた。[plc] ―――婆ちゃんに、散々言われたもんなぁ。『視るのは、よしなさい』って。[plc] 【西院歌】 「なん……で、今……!?」[plc] そうだ。何故、今このときにそんな話をするというのか。[plc] 西院歌は拒絶するように問いかけた。[plc] それに誰かはニヤニヤと嗤う。[plc] ―――なんでか? 決まってるだろ、あいつを追いかけてるからじゃないか。[plc] 【西院歌】 「う……」[plc] ―――あんたの大好きなあいつさ。心配で心配でたまらない、あいつさ。[plc] 【西院歌】 「やめて……」[plc] 誰かのいやらしい声に、西院歌はぎゅっと日傘を握りしめた。[plc] ―――初めて会ったときから、気になってたもんなぁ。あの『白い場所』で。[plc] 【西院歌】 「お願い、やめて……!」[plc] ―――綺麗な金髪で、目が澄んでてよ。あんたとは大違いだ。[plc] 誰かの声は止まらなかった。[plc] 西院歌を次々と追い詰めるかのように、また思い出させるかのように、ゆっくりと真実を告げていく。[plc] ―――それがあんたにはうらやましかった。うらやましくてたまらなかった。[plc] 【西院歌】 「違う……!! 違う、ちがう、ちがう!」[plc] ―――だから、好きになったんだろう? いいや、違うか。好きなんかじゃあないもんな。[plc] いよいよ自分の根幹までたどりついた誰かに、西院歌はとうとう戦慄して足を止めた。[plc] 肩を震わせ、日傘を地面に落として自分自身を掻き抱きながら、必死に叫ぶ。[plc] 【西院歌】 「違う、そんなこと……!!」[plc] ―――あんたはあいつになりたかった。“喜多 北斗”に。それだけだもんなぁ、西院歌。[plc] そうして自分とそっくりの顔をさらした誰かに、西院歌は絶叫した。[plc] 【西院歌】 「―――[ruby text="・"]ボ[ruby text="・"]クは、そんなこと望んでない!!」[plc] *scene07_2|兄妹 【乃兎】 「西院歌とは、あいつが三歳のときに初めて会ったんです」[plc] 【丘】 「…………」[plc] 【東一郎】 「……え?」[plc] イチローの応急処置のかたわら、乃兎がぽつぽつと語りだしたのは妹との出会いだった。[plc] 【乃兎】 「親の離婚とかごたごたのせいで、あいつは祖母に世話してもらってた」[plc] 【東一郎】 「……そうだったんですか」[plc] 【乃兎】 「その初めて会ったときです。あいつが普通の地底人より目が視えるって聞いたのは」[plc] 【東一郎】 「!」[plc] 【丘】 「……それは、種族のイレギュラーにしても稀有なケースだ」[plc] 【東一郎】 「…………」[plc] 【乃兎】 「たまに会うたびに、あいつはどんどんゆがんでいた。無口で無愛想、自分が嫌でたまらないみたいだった」[plc] 【乃兎】 「自分が引き取ったときには、本当の自分をまるで忘れたみたいに屈折してた」[plc] 乃兎は懺悔するように語る。[plc] 彼女の性格のゆがみの原因は、十中八九幼い頃からの目の違和感と祖母の教育に寄るものだった。[plc] それにも関わらず、まるで自分のせいで妹が歪になったかのように彼は悔やんでいた。[plc] 【乃兎】 「……その後です、あいつが北斗に出会ったのは」[plc] 【丘】 「『あのとき』か……。そうですね、たしかにあの娘はあの場にいた」[plc] 【乃兎】 「それから……北斗を預かることになってから、あいつは少しずつ変わっていった」[plc] あるいは北斗と出会ったときから、すでに彼女は変わろうとしていたのかもしれない。[plc] 【乃兎】 「恩人なんだと思います、あいつにとって北斗は」[plc] 【丘】 「…………」[plc] あるいは、妹にとってはそれ以上の存在なのかもしれない。[plc] だが乃兎にとって、喜多 北斗は妹を救ってくれた恩人だった。[plc] けっして本人に感謝の言葉など言わないが。[plc] 底意地の悪い笑みを隠しながら、乃兎はイチローの応急処置を終えた。[plc] 【乃兎】 「ただの打ち身だな。当たり所が悪かったんだろう」[plc] 【東一郎】 「とっさに避けたのが……逆効果だったみたいです」[plc] 【乃兎】 「避けるなら、ちゃんとやれ。自業自得だ」[plc] 手厳しい一言をイチローにこぼして彼が立ち上がると、突然、関係者室の無線に連絡が入った。[plc] 【里】 『聞こえるか、乃兎、丘。こちら、増木一等陸尉。先行してる妹君を保護したぞ』[plc] 【丘】 「本当ですか、大尉!」[plc] 【東一郎】 「良かった……」[plc] どこから機材を揃えたのか連絡手段を用意していた里の言葉に、丘と東一郎が胸をなでおろす。[plc] しかし、乃兎は機械ごしの幼馴染の声に何か妙な含みをおぼえた。[plc] 【乃兎】 「里、何を隠してる?」[plc] 【里】 『あぁ、その、ね。たしかに保護は出来たんだが……』[plc] いやに歯切れの悪い彼女の声に、その場にいた全員が眉根にしわを寄せる。[plc] 【里】 『実は―――』[plc] *scene08_1|望遠 水都の鉄橋から少し進んだとある場所。[plc] 正確な位置は連れられた僕にも分からず、麻耶さんが何を考えているのかはもっと分からない。[plc] 痛む腕と足を無理やり縛られ、泣きそうになりながらも僕は虚勢を張りつづけていた。[plc] 【北斗】 「ほどいてください!! なんですか、この縄!」[plc] 【麻耶】 「あら、ダメですよ。ほどいたら逃げてしまうでしょう」[plc] 麻耶さんは僕を拘束すると、少し離れた場所に座ってニコニコと微笑んでいる。[plc] 【北斗】 「だから何でこんな……痛てっ!!―――ぐぅ〜……!?」[plc] 【麻耶】 「あらあら、大変。暴れちゃダメですよ。腕、折れてるのですから」[plc] 【北斗】 「……はぁ、はぁ、折ったのは、あなたじゃないですか!」[plc] 血の気が失せる倦怠感を全身に覚えつつも、僕は麻耶さんをにらみつけた。[plc] 【麻耶】 「あら? 聞き分けのない子におしおきしただけですよ」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 話がまるで通じている気がしない。[plc] この人は本当に、あの田村 麻耶さんなのだろうか。[plc] 【北斗】 「こんなことしてどうしようっていうんです……?」[plc] 【麻耶】 「フフ。聞きたいですか?」[plc] 【北斗】 「僕を連れて逃げようなんて無理ですよ。里さんたちが、すぐにやってくる……」[plc] そうだ。これでも“喜多 北斗”という称号は伊達ではない。[plc] そう簡単に世界でただ一人の存在を、あの人たちがあきらめるはずがなかった。[plc] しかし、麻耶さんはそんな僕の言葉に笑う。[plc] 【麻耶】 「里……? あぁ、あの軟泥人種の。大丈夫ですよ、時間稼ぎさえできれば充分です」[plc] 【北斗】 「……?」[plc] 【麻耶】 「さて、北斗くん。やっと二人きりになれました、本題に入りましょう」[plc] 麻耶さんはそう言っていつも通りに微笑み、優しく告げてきた。[plc] 【麻耶】 「私、子供は二人がいいのです。男の子と女の子を、一人ずつ」[plc] 【北斗】 「―――は?」[plc] 【麻耶】 「男の子には運動させたいですし、女の子にはお習字かピアノなんていいですね」[plc] 【北斗】 「ま、待って、麻耶さん、何を……痛ッ!!」[plc] 戸惑った僕は思わず身をよじってしまい、激痛に襲われた。[plc] 麻耶さんはそんな僕を見つめながら、嬉しそうに語る。[plc] 【麻耶】 「あら、未来の予定ですよ、北斗くん。あなたと私の」[plc] 【北斗】 「何が言いたい……!? ふざけるのもいい加減にしてください!!」[plc] 【麻耶】 「怒らないでください。すぐにお話します」[plc] いい加減焦れてきた僕に対し、麻耶さんはすっと歩み寄ると僕の手を取った。[plc] 【麻耶】 「私と結婚しませんか、北斗くん?」[plc] 瞬間、僕の時間は止まった。[plc] だけどすぐに思考が再起動して、その提案をはねつける。[plc] 【北斗】 「何を言いだすかと思えば……!!」[plc] 【麻耶】 「変身種族“喜多 北斗”の種族固定。まだ、されていないのでしょう?」[plc] 【北斗】 「……!!」[plc] 【麻耶】 「でしたら恐竜人種はいかがかしらと提案しているのですが、どうでしょう?」[plc] 麻耶さんの表情が一変した。[plc] 笑みはそのままにただ瞳だけをぎらつかせるその表情は、異常の一言に尽きた。[plc] まるで餓えているかのようだ。[plc] 【北斗】 「お断りします。僕にだって、自由に選ぶ権利くらいある」[plc] 【麻耶】 「では何故、今日まで悩んでいるんです?」[plc] 麻耶さんは僕の弱いところをつつくように問いかけてくる。[plc] 【麻耶】 「それは……分かっているからでしょう、北斗くん」[plc] 【北斗】 「何をですか?」[plc] 【麻耶】 「たとえどんな種族になっても、あなたは結局“喜多 北斗”から逃れられないことに」[plc] 【北斗】 「!!」[plc] 僕が絶句したのを一瞥してから、麻耶さんはニコリと笑う。[plc] 【麻耶】 「同じ種族となった方々が、気安くあなたに接するとお思いですか? 思わないでしょう」[plc] 【北斗】 「元・“喜多 北斗”……」[plc] 【麻耶】 「そう。たとえどんな風に変身から逃れ得ても、あなたは“喜多 北斗”のレッテルから逃れられない」[plc] 【北斗】 「同種族から、迫害されると言いたいんですか」[plc] 【麻耶】 「そんな大事なところをあの二人は分かっていなかった。あぁ、可哀想な北斗くん」[plc] だから助けたとでも言いたいのだろうか。[plc] 芝居めいた麻耶さんの口調に怒りをおぼえていると、彼女が僕に顔を寄せてきた。[plc] 【麻耶】 「だから、私が助けてあげましょう。恐竜人種になりなさい、北斗くん」[plc] 【北斗】 「どうして……そうなる!!」[plc] 【麻耶】 「私だけは、けっしてあなたを否定しないからです」[plc] 【北斗】 「!?」[plc] 恐竜人種の≪最後の人≫。[plc] 彼女がそう宣言した以上、僕はたしかに恐竜人種からのけ者にされることはなくなった。[plc] だが、僕の第六感が彼女の笑みにはそれ以上の何かがあると告げていた。[plc] 【麻耶】 「≪けっして否定しない≫なんて、子供じみた幻想です。誰も、そんな言葉に耳を傾けてない」[plc] 【麻耶】 「だけど、北斗くん。私だけはあなたを≪けっして否定しない≫から」[plc] ―――だから、うなずけ。[plc] そう言わんばかりの彼女の横柄な態度に、僕は痛みも忘れて反抗した。[plc] 【北斗】 「嫌だね」[plc] 【麻耶】 「まだ、分かりませんか?」[plc] 【北斗】 「麻耶さん、そういうあなたこそ何を企んでるんです? 僕を恐竜人種にして」[plc] 【麻耶】 「…………」[plc] 【北斗】 「ただ、自分の種族を残したいってだけじゃ、≪最後の人≫がいやだってだけじゃないのか!」[plc] 麻耶さんのたくらみが、ようやく僕にも分かってきた。[plc] とにかく僕を恐竜人種に固定させることに執着している。[plc] そうなれば、理由もおのずと限られていた。[plc] 【麻耶】 「えぇ、そうですよ? 私は≪最後の人≫が大嫌いですから」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【麻耶】 「いつだって向けられるのは好奇心と同情、そして奇異の目線ばっかりです」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【麻耶】 「でも、北斗くん。あなたが来てくだされば私は独りじゃなくなります」[plc] 【北斗】 「僕の変身は、希少種にまで変身できるかどうか、まだ解明されてない……!」[plc] 【麻耶】 「大丈夫、時間はまだまだあります」[plc] 彼女のたくらみの出鼻をくじこうとした最高の奇襲も、簡単にかわされてしまう。[plc] だから僕は彼女に噛みつくようにもう一度叫んだ。[plc] 【北斗】 「時間の問題じゃない、出来ない可能性が高いって言ってるんだ!」[plc] 【麻耶】 「絶対に大丈夫!! そうに決まっている!!」[plc] 【北斗】 「――――」[plc] しかしそれ以上の剣幕で返され、僕は声をなくした。[plc] 彼女の望みは、ありえないほど遠くにあった。[plc] だけど麻耶さん自身はそのことに気づいていない。[plc] 星に手が届くと信じ切っている。そんな、違和感があった。[plc] 【北斗】 「無理です……第一、やり方が分からない」[plc] 【麻耶】 「だったら、体に聞けばいいのです」[plc] 【北斗】 「何を……―――!? ぐあぁぁぁぁ!!」[plc] 折れた方の腕をねじられ、僕はあまりの痛さに絶叫した。[plc] その様子を嬉しそうに見つめながら、麻耶さんは僕に提案する。[plc] 【麻耶】 「こうやって、少しずつ曲げていきましょう。きっとそのうち、変身したくなるはずです」[plc] 言いながらも徐々に彼女は僕の腕を回転させていく。[plc] 折れた腕の中でぎちぎちと肉と骨がせめぎあって、悲鳴をあげた。[plc] 【北斗】 「ぐぅ!? が、ぁ、わあぁぁぁ―――!!!」[plc] 二人きりの場所に、僕の絶叫だけがこだました。[plc] *scene08_2|彼女 里が手に持っている無線機から、怒号が響いていた。[plc] 【丘】 『仁志 西院歌を同行させるですって!? 大尉は何を考えてるんですか!』[plc] 【東一郎】 『そうだ、里さん! 危険すぎる!!』[plc] 【里】 「ま、待て待て、二人とも。分かっている、私とて分かってはいるとも。だがね……」[plc] 無線機越しの気迫に押された里が、困り顔で西院歌の方に視線を向けた。[plc] 対して、彼女の表情は決して引き下がらないと言わんばかりの仏頂面。[plc] 【里】 「すまん、分かっている。分かっているがどうにかそこを……」[plc] 【丘】 『事は一刻を争うんです! こんなところで小娘のわがままを聞いてる状況じゃない!』[plc] 【里】 「……丘」[plc] 事は一刻を争うことなど、里にも分かっていた。[plc] だからこそ、彼女は仁志 西院歌を同行させたいと思ったのだから。[plc] 【西院歌】 「里さん。少し話させて」[plc] 【里】 「な、何?」[plc] 【西院歌】 「―――お願い」[plc] 急に話しかけてきた西院歌に戸惑いつつも、言われたとおりに無線機を渡す。[plc] すると西院歌は口もとにそれを寄せると、静かに話し出した。[plc] 【西院歌】 「お話中すみません、仁志 西院歌です。お久しぶりです、丘さん」[plc] 【丘】 『……えぇ、お久しぶりです。北斗のアレ以来だ、きみとは』[plc] 【西院歌】 「恨んでおいでですか?」[plc] 【丘】 『いいえ。それよりも、西院歌さん。今すぐに戻ってきてください。北斗のことは里さんにまかせて』[plc] 【西院歌】 「嫌です」[plc] 丘の言葉を真っ向から否定する西院歌に、里は息を呑んだ。[plc] ―――こんな少女だったろうか?[plc] 【丘】 『小娘のわがままに付き合っているほど、時間に余裕がないんです』[plc] 【西院歌】 「わがままは承知です。それに、あなたに許可してもらおうとは思ってない」[plc] 感情を表に出すまいとしていた仏頂面の瞳に、いつしか炎が宿っていた。[plc] 里が幻視したそれは、西院歌の意志の炎。[plc] 彼女が[ruby text="つい"]終ぞ押し殺し、見せなかったはずのものだ。[plc] 【西院歌】 「兄さん。そこにいる?」[plc] 【乃兎】 『なんだ?』[plc] 【西院歌】 「…………あの子を、助けに行きたい」[plc] 【乃兎】 『足手まといになると、分かっていてもか?』[plc] 【西院歌】 「うん」[plc] はっきりとした口調で兄に答える西院歌に、さらに里は困惑した。[plc] 何かに意固地になっているように見えれば、それが彼女を奮い立たせているようにも見える。[plc] 【乃兎】 『……駄目と言ったら?』[plc] 【西院歌】 「それでも行く」[plc] 【丘】 『いい加減にしろ、仁志 西院歌! きみが行って何ができると―――!』[plc] 【西院歌】 「―――うるさい!! ボクが助けに行くって決めたんだ!!」[plc] 【丘】 『!?』[plc] 【里】 「―――!」[plc] 突然の彼女の怒号に、今度は無線機越しから息を呑む声が聞こえた。[plc] 丘も言葉が出ないのか、息づかいだけが微かに響いている。[plc] 【丘】 『……里さん』[plc] 【里】 「なんだ、丘?」[plc] 【丘】 『そこにいるのは、本当に仁志 西院歌ですか?』[plc] 【里】 「どうした? 当たり前だろう。まさか、どこかの誰かに似ているなどとは言うまい」[plc] 丘の戸惑いを隠せていない口調に、里はおかしそうに話しかけた。[plc] 里にはもう理解できていた。[plc] 彼女が何に意地になっているのかも、どうして北斗にばかり執着するのかも。[plc] 【丘】 『ですが、今のはまるで北―――』[plc] 【乃兎】 『西院歌』[plc] 【西院歌】 「何?」[plc] 丘の疑問をさえぎって、乃兎が妹の名を呼んだ。[plc] 【乃兎】 『気をつけて行ってこい。怪我するなよ』[plc] 【西院歌】 「ありがとう」[plc] 【丘】 『乃兎! 何を―――!!』[plc] 向こうでぎゃあぎゃあと丘が喚き立てはじめたのを確認して、里は無線機を返してもらう。[plc] 【里】 「許可はもらった。通信を切らせてもらうぞ」[plc] 【丘】 『ま、待ってください! まだ話は―――』[plc] 【里】 「乃兎、妹は全力で守る。安心して待っているといい」[plc] 【乃兎】 『……お前も、気をつけろ』[plc] 【里】 「あぁ、分かっているとも」[plc] 里は無線機の電源を切ると、すでに道を見据えていた西院歌へと振り返った。[plc] 【里】 「まったく、帰ったら大目玉だよ。妹、きみのせいだぞ」[plc] 【西院歌】 「ごめん、里さん。ボクも一緒に謝るから」[plc] 【里】 「それですめばいいがね。……さて、道案内頼めるか」[plc] 苦笑しつつ、里は西院歌を促した。[plc] 西院歌もそれに頷いて、歩を進める。[plc] そうして二人は、鉄橋の隣にひっそりと隠れるように開いていた洞穴へと潜っていった。[plc] *scene09_1|恐竜 水都と街を結ぶ鉄橋の隣には、重要なパイプラインがあった。[plc] それが、僕が連れてこられた洞穴―――天然の水路だ。[plc] 水都の周りは海水しかなく、街から天然の水を確保する唯一の路だった。[plc] 【麻耶】 「ですから、時間稼ぎには充分だと思うのですけれど」[plc] 【北斗】 「それでも……来るさ。里さんたちは」[plc] 必要最低限の明かりしかない洞窟の中で発する声は、弱弱しい僕のものでも充分に反響する。[plc] 【麻耶】 「このような暗闇で、私たちの匂いを追う鼻もなく、道を判断する感覚もなく、どうやって?」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] そうだ、いくら里さんたちが凄いとは言っても、種族上の得手不得手はある。[plc] 万が一、里さんの部下の人が地底人であり、かつこの場所を怪しんでも、そう簡単には辿り着けない。[plc] それほど枝分かれしている複雑なルートを、僕は案内させられたのだから。[plc] 【麻耶】 「実際に見ると、ますます思います。便利ですね、『変身』は」[plc] 【北斗】 「でも考えものですよ……変態に連れ去られますから」[plc] 【麻耶】 「あら? それはたしかに考えものです―――ね」[plc] 【北斗】 「ぐがっ……!?」[plc] 言葉尻に合わせて、彼女は僕の折れた腕を足蹴にした。[plc] 絶叫する余裕すらなく、呻き声をあげるしかない僕。[plc] 【北斗】 「痛ぅ……くそっ」[plc] 【麻耶】 「ウフフ、北斗くん。意外に強情ですのね」[plc] 【北斗】 「……あれ、知りませんでした? 僕、負けず嫌いなんですよ」[plc] それでも、この人に屈服するのだけは嫌だった。[plc] だから僕はただ今は痛みに耐える。[plc] 必ずチャンスは巡ってくるはずだ。[plc] 【麻耶】 「そうですね。私も困ってしまいます。はやく『変身』していただかないと」[plc] 【北斗】 「何度言えば分かるんですか、希少種の『変身』なんて僕にはできな―――」[plc] 【麻耶】 「あら、もしかして私の力が足りないのでしょうか? それっ」[plc] 【北斗】 「ぐっ!? が、あああああ―――!!」[plc] 僕の言葉をさえぎって、麻耶さんは捻る腕に力をこめた。[plc] ぎしりと折れた腕が音をたて、痛みのあまり僕は絶叫した。[plc] 【麻耶】 「あらあら、痛そう」[plc] 【北斗】 「ホント、に……もう、勘弁してもらえませんか?」[plc] 痛いなんてものじゃなかった。[plc] 折れた骨は肉に食い込み、腫れ上がり、内側からは出血し、どす黒くなってきている。[plc] これ以上やられたら、僕の腕は元通りにならないだろう。[plc] 【麻耶】 「でしたら、早く『変身』していただけますか?」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 麻耶さんの表情は異様だった。[plc] 眼差しは真剣そのものでありながら、口もとは喜悦に吊りあがっている。[plc] その瞳には、揺らめいた黒いものが浮かんでいるようにも見えた。[plc] まるで僕を連れ去ったことで、自分自身を追い込んでいるような……。[plc] 【北斗】 「……嫌だ」[plc] 【麻耶】 「強情な人。無理やりは私の趣味ではないのですけど」[plc] 【北斗】 「それこそ冗談でしょ」[plc] 【麻耶】 「……クス」[plc] 今の挑発が、決定打だったのかもしれない。[plc] 真剣そのものだった彼女の目が細まり、胡乱に僕を見つめはじめた。[plc] ―――腕をもがれる。[plc] 僕がそう覚悟して痛みに耐えようと目を閉じたとき。[plc] 【里】 「そこまでだ、田村 麻耶!!」[plc] 【北斗】 「里さん―――やった!」[plc] 僕の絶叫が反響して、ようやく里さんの耳にも届いたらしい。[plc] 再三の挑発が実った瞬間、僕は安堵の声を出していた。[plc] だけど、そこまでだった。[plc] 【麻耶】 「おそい」[plc] はっきりと麻耶さんは言い放つと、僕を突き飛ばして里さんへとおどりかかった。[plc] ―――ばれてた!?[plc] 恐竜人の本領とも言うべき凶暴性が、その鋭利な爪で里さんを切り裂こうと振り下ろされる。[plc] 【北斗】 「里さん!!」[plc] 思わず叫んだ僕だったが、里さんはしかし慌てることもなく、素手で彼女の手首を掴んで動きをおさえる。[plc] 【里】 「今だ―――妹! 私が押さえているうちに北斗くんを連れて逃げろ!!」[plc] 【西院歌】 「うん!」[plc] 【麻耶】 「何!?」[plc] 【北斗】 「西院歌さん!?」[plc] 里さんの後ろに隠れていた西院歌さんが、合図と同時に飛び出してきた。[plc] 僕と麻耶さんも同時に驚きの声をあげる。[plc] 僕の匂いをよく知っていて、なおかつこの暗闇の洞穴を案内できる地底人。[plc] その答えは、彼女だったのだ。[plc] 【北斗】 「ど、どうして―――!?」[plc] 【西院歌】 「話は、あとにして!」[plc] 息をなかば切らしながら、彼女は僕を縛っていた縄をほどこうとする。[plc] ぎしりと折れた腕がまた痛んだが、それを気にしている場合でもなかった。[plc] 【北斗】 「ぐぁ……!?」[plc] 両腕と足が自由になり、僕は呻きとともに立ち上がる。[plc] 【里】 「今だ、逃げろ二人とも!」[plc] 【北斗】 「わ、分かりました!」[plc] 【麻耶】 「ダ……ダメェェェェェ!!」[plc] 僕が自由になったのを見るや、里さんに押さえつけられた麻耶さんが咆哮した。[plc] そこにあの清楚さや優しさは欠片もなく、種族としての本能がむきだしの表情があった。[plc] 【里】 「ぐぅ、これほど……!?」[plc] 【麻耶】 「ダメ、ダメ、ダメ、ダメェェェ!!」[plc] 両腕だけでなく体中を震え上がらせて、麻耶さんは絶叫していた。[plc] それに気圧された僕と西院歌さんが、進むのを一瞬躊躇する。[plc] 【里】 「馬鹿っ! 止まるな!!―――あぁっ!?」[plc] 【麻耶】 「あああああ――――!!」[plc] 【西院歌】 「きゃあっ!!」[plc] 【北斗】 「西院歌さん!?」[plc] その一瞬で、麻耶さんには充分だった。[plc] 獣のように吠えたけると里さんを壁に弾き飛ばし、僕ではなく西院歌さんの腕をとっていた。[plc] 捕まった西院歌さんが麻耶さんへと引き寄せられ、僕も走りかけていた足を思わず止める。[plc] 【西院歌】 「だめ、逃げ―――むぐっ!?」[plc] 【麻耶】 「ハァ、ハァ、ハァ……フ、フフ、フフフ……!!」[plc] 【北斗】 「麻耶さん……!!」[plc] 肩で息しながら、形勢を逆転した麻耶さんがクツクツと笑う。[plc] 僕はただ、西院歌さんの首筋に向けられた鋭利な爪を睨むことしかできなかった。[plc] *scene09_2|名前 【麻耶】 「さぁ……北斗くん。こちらへ、いらしてください……。この娘が、どうなってもいいのですか?」[plc] 【北斗】 「くそ……!!」[plc] 自身の爪をちらつかせて北斗を呼ぶ女性に、彼は素直に従って一歩こちらへ近寄った。[plc] 西院歌はそれを止めようと声を出そうとするが、女性に口を押さえられ、声を出すことができない。[plc] 【里】 「ダメだ……行くな、北斗くん」[plc] 代わりに、壁に背中を打ちつけて息も絶え絶えながら、里が彼を止めようと声をかけた。[plc] 【北斗】 「里さん、でも……!?」[plc] 【里】 「きみを助けるために、私も妹もここに来た! 分かっているのか、“喜多 北斗”!!」[plc] 【北斗】 「でも、西院歌さんが―――」[plc] 【麻耶】 「いいのですか、北斗くん?」[plc] 【北斗】 「―――!! 待ってください! 今、行きますから……」[plc] 女性の再度の呼びかけに怯えるように答えてから、力なく歩み寄る北斗。[plc] そんな彼を見ながら、西院歌は自身の無力を痛感していた。[plc] すると素直に近寄ってくる北斗に、麻耶と呼ばれる女性が笑う。[plc] 【麻耶】 「……そうです。優しい子。なんだ、ウフフ、最初からこうすれば良かった」[plc] 【北斗】 「ふざけるな……西院歌さんに指一本触れてみろ」[plc] 【麻耶】 「えぇ、分かってますよ。……北斗くん、あなたは本当に優しいのですね」[plc] じりじりと折れた腕をおさえて近づく北斗に、麻耶は嬉しそうに語る。[plc] 【麻耶】 「優しい、本当に優しい。なんて付け入りやすい子なのでしょう」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【麻耶】 「優しくして付け入れば、誰でも隙を見せてくれる。そこにうまく調子を合わせれば、誰でも素直になってくれる」[plc] それは彼女の人生観か。西院歌は耳元で囁かれるその言葉に妙な違和感をおぼえていた。[plc] 【里】 「それが……きみの、宗教か」[plc] 【麻耶】 「えぇ、そうですよ。優しくして取り入れ。弱さを支えて、隙を作れ。そこに居座れ。おじいちゃんの言葉です」[plc] 揶揄するような里の皮肉も、今の麻耶には届いていないらしい。[plc] なおも近づいてくる北斗を見つめながら、彼女は恍惚と語っていた。[plc] 【麻耶】 「“ヒトは―――弱い”。弱いから群れを成す。おじいちゃんが教えてくれた。だから、私はそこに付け入るのです」[plc] 【北斗】 「麻耶さん……」[plc] 【麻耶】 「だって私は群れがない。だから私には誤魔化すことでしか居場所を作れない!!」[plc] 西院歌の拘束をゆるめ、憤慨しながらも泣き喚くように麻耶は言った。[plc] かと思えば、途端に表情をゆるめ、だらしなく笑いながら北斗を見やる。[plc] 【麻耶】 「でももう終わりです。あなたが来てくれた。私にちゃんと騙されて、あなたが来てくれた。これで私は、孤独じゃない」[plc] 【北斗】 「そうまでして……≪最後の人≫が嫌ですか……!!」[plc] 【麻耶】 「えぇ、あなたにだって、そこの軟泥人種にだって分かるでしょう! だって、独りはさみしいもの!!」[plc] 【里】 「…………」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 情緒不安定な麻耶の狂態に、北斗も里も押し黙る。[plc] しかしそんな中、西院歌はただ一人、胸中で別の感情が湧きあがるのを感じていた。[plc] 口を押さえる手の緩みから、ポツリとつぶやく。[plc] 【西院歌】 「……さみしい?」[plc] 【麻耶】 「えぇ、そうよ! あなたみたいな多存種には分からない!! 分かるはずもない!」[plc] 独りという虚しさ、寒さ。そのすべてを訴えるように麻耶は西院歌のつぶやきへと憤慨した。[plc] しかしその憤慨にこそ、西院歌は自身の暗い感情を呼び覚ます。[plc] ―――傑作だ。まるで逆だぜ。なぁ、『ボク』ちゃん。[plc] 内心の誰かの嘲笑に合わせて、西院歌は身をよじらせる。[plc] 【西院歌】 「独りがさみしい……? 独りだから、さみしい?」[plc] 【麻耶】 「なっ、この―――!?」[plc] 【北斗】 「さ、西院歌さん!」[plc] 突然の抵抗に麻耶は困惑し、北斗は驚愕していた。[plc] しかし、西院歌の声は止まらなかった。[plc] 【西院歌】 「……けるな」[plc] 【麻耶】 「え? 何か?」[plc] 【西院歌】 「ふざけるなって言ったんだ!!」[plc] 西院歌の怒号に、洞穴内から一瞬、音が消える。[plc] 全員が驚愕に沈黙する中、西院歌はただ一人笑っていた。[plc] 【西院歌】 「ひとりだからさみしいだって? ひとりだとそんなに辛いの?」[plc] 【麻耶】 「だ、だから何です? あなたに分かるのですか!?」[plc] 【西院歌】 「分からないね、あぁ、ちっとも分からないや」[plc] 【麻耶】 「この……!!」[plc] 挑発に乗せられ、麻耶は西院歌を壁際へと叩きつけた。[plc] 【西院歌】 「ぐぅ!?」[plc] 【麻耶】 「あなたに、あなたみたいに安穏と多存種として生きてきたヒトと違うのです!」[plc] 全身に痛みをおぼえながら、西院歌はそれでも麻耶の匂いがする方へ顔を向けた。[plc] そこにあるであろう女性の輪郭をとらえながら、西院歌はとうとう自身の思いを口にした。[plc] 【西院歌】 「それじゃあ、あなたの目は見える?」[plc] 【麻耶】 「!?」[plc] 【西院歌】 「あなたの目は、ボクを映せるじゃないか」[plc] 【麻耶】 「な、何を……」[plc] 【西院歌】 「それなのにどうして、それ以上を望めるの?」[plc] それこそが、仁志 西院歌という少女の根幹だった。[plc] 地底人であり、空人でもあり、水人でもある“喜多 北斗”にあこがれた。[plc] 使えない感覚器官のもどかしさを知りながら、そのすべてを堪能できる彼をうらやんでいた。[plc] ―――そうだよなぁ、だからあんたは渡したんだ。“喜多 北斗”に。[plc] 【西院歌】 「どうして……?」[plc] 【麻耶】 「こ、この……」[plc] 【西院歌】 「ねぇ、どうして……?」[plc] 【麻耶】 「う、うるさい!!」[plc] 望みたくても望めなかった。[plc] 目が見えるような何かになりたくても、西院歌には無理だったのだ。[plc] ―――だから、あんたは“喜多 北斗”に渡した。渡して逃げた。[plc] 【西院歌】 「どうしてボクは……あの子の泣き顔も見れないの?」[plc] 【麻耶】 「何を言って―――」[plc] ―――見れないさ。だって、あいつはあんただ。あんたが“喜多 北斗”をあんたにしちまったんだ。[plc] 戸惑う麻耶と、内心で西院歌の思いを嘲笑う誰か。[plc] 二つの声に挟まれながら、それでも西院歌は口を動かした。[plc] 目が少しだけ見える彼女だからこその、それは羨望だった。[plc] 【西院歌】 「笑った顔が見たいよ。泣いた顔が見たいよ。同じ景色が、見たいよ……。ボクは……」[plc] 【麻耶】 「まだしゃべりますか、この―――!!」[plc] 【北斗】 「西院歌さん、逃げて!」[plc] 麻耶が鱗を鈍く光らせながら、爪を振り上げる。[plc] ―――どうしても、それを望むのか。あんたは。[plc] 誰かの声が呆れのふくみをもって、吐き出された。[plc] 【西院歌】 「ボクは……!!」[plc] それはどうしても彼女が望んだこと。[plc] “喜多 北斗”に自分を押し付けてしまったことへのあがないと、少年への身勝手な想いの現われだった。[plc] 【西院歌】 「名前を、呼びたいよ……!!」[plc] 瞬間、彼女のぼやけた視界は閃光で埋め尽くされた。[plc] *scene09_3|『 』 僕は最初、夢を見ているのかと思った。[plc] しかし、違った。[plc] 目の前に映し出されたのは、夢なんかじゃなかった。[plc] 【???】 『ここに、ひとりなの?』[plc] そこにいたのは、淡い灰色の瞳をした少女ともいえない女の子。[plc] そして問いかけれたのは、壁にもたれて苦しむ誰か。[plc] 【???】 『大丈夫? 苦しいの?』[plc] 【???】 『だれか呼んでくる?』[plc] 女の子は誰かを案じていた。[plc] 透明で見えず、表情も読めない、まるでのっぺらぼうな誰かを。[plc] 誰かは苦しみながらも、輪郭だけの首を横に振った。[plc] 【???】 『え? ここにいて欲しいの?』[plc] 女の子は戸惑いながらも、誰かの隣にそっと座った。[plc] 誰か分からない誰かは、しかし女の子を無視するように苦しみつづけていた。[plc] 【???】 『ねぇ……どうして、ここにひとりなの?』[plc] 苦しむ誰かを理解しかねたのか、女の子が問いかけた。[plc] 誰かはその言葉に荒れている呼吸を整えながら、また首を横に振る。[plc] 【???】 『え? 分からないの?』[plc] 誰かは、女の子の言葉にようやく縦に首を振った。[plc] 【???】 『あ……』[plc] 途端、女の子の瞳が誰かへと焦点を当てられる。[plc] 誰かがその女の子の声に反応して、目を合わせる。[plc] そして彼女は、誰か―――いや、僕にこう言ったのだ。[plc] 【西院歌】 『きっと、それは―――かなしいね』[plc] そのときの僕に、かなしいという言葉は分からない。[plc] ただ首を横に振っただけだ。[plc] だから彼女は、西院歌さんは、そんな僕へと手を差し出したのだ。[plc] 【西院歌】 『じゃあ、ボクの『ボク』をあげるから』[plc] 【北斗】 『…………』[plc] 【西院歌】 『これでもう、ひとりじゃないよ?』[plc] そう言った彼女の笑顔につられたのか、気づけば僕は手を伸ばしていた。[plc] そして起こる閃光。[plc] 明滅。[plc] 誰かの叫び声。[plc] 【里】 『何が起きてる!? 『北斗』!」[plc] 【丘】 『第一次接触だ……。入力された情報を識域野で無意識のうちに選択して……』[plc] 【里】 『そんなことはいい! 何がどうなる!?』[plc] 【丘】 『ひとつですよ! あとは出力だけだ! 『変身』です!』[plc] 【北斗】 『こ、こ、は……どぉ……こ?』[plc] それが“僕”のはじまりだった。[plc] 思い出した。[plc] “ボク”とは、彼女のものだったのだ。[plc] “僕”は、“彼女”だったのだ。[plc] *scene10_1|暴走 閃光の出所が歩いている少年からだと気づいたとき、里は驚愕の声をあげた。[plc] 【里】 「第二次接触!? 北斗くん!」[plc] 発光と進行をつづけながら、北斗の体が『変身』のきざしを見せる。[plc] 遠目から分かるほどに皮膚が硬質化し、まるで鱗のように切り替わった。[plc] 【北斗】 「……なかったんだ」[plc] 【麻耶】 「な、何ですか、これは!?」[plc] 突然の光に戸惑いながらも、麻耶がとうとう目の前の少年の姿を見出す。[plc] そして歓喜の声をあげた。[plc] 【麻耶】 「北斗くん! あぁ、その爪は!!」[plc] 身長に対して肥大化していく爪、ぎらつきを見せる鱗、そして金色に輝く鋭い瞳。[plc] まごうことなき恐竜人種の姿が、そこにはあった。[plc] 【麻耶】 「素晴らしい! なんて素晴らしい、北斗くん! やっと分かってくれたのですね!!」[plc] 【北斗】 「……なかったんだ」[plc] 麻耶の喜悦の混じった声も無視して、北斗は発光をつづけ、そしてゆっくりと歩を進める。[plc] そのとき、里はやまない閃光の中に信じられないものを見た。[plc] 【里】 「…………なんだ、アレは?」[plc] 【北斗】 「……最初から、なかったんだ」[plc] ぶつぶつと何事かをつぶやいている北斗の、折れた腕。[plc] あらぬ方向に捻じ曲がり、凄惨さを物語っていたその腕が、なぜか澄んだ青色に染まっていた。[plc] 【里】 「アレは……まさか……」[plc] 【麻耶】 「さぁ、北斗くん! 早くこっちに! 私にその素晴らしい姿を見せてください!」[plc] 【北斗】 「……全部、最初から、なかったんだ」[plc] 麻耶は歓喜のあまり、その変化に気づいていなかった。[plc] 里はその青色を知っていた。[plc] 自分が一番身に染みて分かっているその色合いを、里は忘れることなどなかった。[plc] 【里】 「軟泥……人……種?」[plc] 【北斗】 「僕には最初から全部、なかったんだ」[plc] その青色が今、骨の折れたはずの腕を[ruby text="やわ"]軟らかくし、まるで泥をこねるように形を整えていく。[plc] 気づけば少年の腕は、折れたことなど忘れたように元通りになっていた。[plc] 【麻耶】 「さぁ、北斗くん。こっちに。あぁ、その顔をもっと近くで見せて」[plc] 【北斗】 「……“僕”さえ、なかったんだ」[plc] ようやく麻耶の眼前にたたずんだ北斗は、それでも麻耶を意に介さなかった。[plc] 【麻耶】 「北斗くん! 聞こえているのでしょう!?」[plc] 【北斗】 「……西院歌さん」[plc] 【西院歌】 「!」[plc] 不意に名を呼ばれ、西院歌が顔をあげる。[plc] 【北斗】 「当ててみせようか? 何考えてるか」[plc] その不安げな表情を前に、北斗は微笑みながら話しかけた。[plc] 【麻耶】 「北斗くん! 私を―――」[plc] 【北斗】 「どうせ“僕”を渡したこと、悪いと思ってるんでしょ」[plc] 【西院歌】 「―――!! どうして……」[plc] 【北斗】 「分かるよ。だって、“僕”は“ボク”だもの」[plc] 苦笑しながら、さも当たり前のように少年は答えた。[plc] そして自身の胸にそっと手を置いた。[plc] 【北斗】 「もらいもの……ばっかりだ」[plc] 【麻耶】 「私を見なさい! 北斗くん!!」[plc] 【北斗】 「だから、今度は僕の番だね」[plc] やおら北斗が宣すると、彼の服を突き破って背中から翼が姿を現した。[plc] それは間違いなく、空人が有するべき翼。[plc] 【麻耶】 「!? 北斗くん、それは―――!?」[plc] 【里】 「!」[plc] 里はこのとき確信した。[plc] 今の彼には、種族のへだたりも弊害も代償も際限さえもなく、『変身』できるのだということに。[plc] それは丘が仮定し、かつ恐れた第二次接触の正体さえも超えた、完全な暴走に違いなかった。[plc] 【里】 「しかし―――ここまでとは……!!」[plc] 戦慄しながら、里がうめいた。[plc] 今の“喜多 北斗”は完全に『変身』の限界を、いや、ヒトという枠を超えていた。[plc] 【里】 「よせ、よすんだ……」[plc] 「北斗くん、今すぐ『変身』を解け! そのまま戻ってこれなくなるぞ!!」[pln] 知らず叫んでいた。[plc] 里の脳裏に、朽ちた翼と色の落ちた瞳を持つ男の姿がよぎる。[plc] それはおそらく、北斗の中でもそうだったのだろう。[plc] しかし彼が返した言葉は、里の予想を裏切っていた。[plc] 【北斗】 「嫌です」[plc] 【里】 「北斗くん!」[plc] 【麻耶】 「いいかげんにしなさい! さぁ、早くこっちに!!」[plc] 里の叫びと同時に、麻耶が痺れを切らして手を差し伸べながら、北斗へ吠えた。[plc] その瞬間の油断を、北斗は見逃さなかった。[plc] 【北斗】 「西院歌さん!」[plc] 【西院歌】 「―――!!」[plc] 呼び掛けと共に翼をひるがえして麻耶の手をはじいた。[plc] その衝撃に呆然としている麻耶の拘束から抜け出した西院歌をすぐに抱きとめる。[plc] 【北斗】 「里さん、逃げます!!」[plc] 【里】 「な、何!?」[plc] 突然の言葉に戸惑う里。[plc] だが、西院歌を抱きかかえて低空を飛びながら逃げてきた北斗の目を見て、とっさに手を伸ばしていた。[plc] その手を、北斗がつかもうと同様に手を伸ばした。[plc] 【麻耶】 「ダメェェェェ!!」[plc] しかし、そこで麻耶の泣き崩れるような狂声が、そのまま彼女と共に飛び掛ってきた。[plc] そして、その禍々しく光る鱗の手が、里へと掴みかかる。[plc] 【里】 「ぐぁっ!?」[plc] 【西院歌】 「里さん!!」[plc] 【北斗】 「くそっ!?」[plc] 突き飛ばされた里の手を掴みそこね、北斗が地面に降りようとする。[plc] 【里】 「ダメだ、逃げろっ!!」[plc] 【北斗】 「!!」[plc] 里の裂帛の怒号にそれを制止させられ、逡巡した北斗だったが―――。[plc] 【北斗】 「西院歌さん、しっかり捕まって!!」[plc] 言うや、洞穴のせまさをもろとも言わせぬ自由さで、宙を飛びながら狭い通路を逃げていった。[plc] *scene10_2|“ヒト” 【麻耶】 「わあああぁぁぁぁ!!!」[plc] 【里】 「ぐっ……!!」[plc] 北斗が西院歌とともにその場から見えなくなると、麻耶は壊れた叫びをあげた。[plc] 同時に放り投げられた里が、壁に背中を打ちつけて苦痛に呻く。[plc] 望んだ金星を掴みかけ、結局は掴めなかったことへの憤慨。[plc] 今の麻耶はそれで埋め尽くされていた。[plc] 【里】 「さて……ここで、私が颯爽ときみを御用と相成れば、一件落着なんだが……」[plc] 【麻耶】 「あああぁぁぁ!! いや、いや、いや、いやぁぁぁぁ!!」[plc] 地面をその爪でえぐり、また壁を殴りつけて、麻耶は狂態をあらわにしていた。[plc] その様子にいつもの軽口が通じないことを理解した里は、舌打ちする。[plc] 【里】 「やはり、簡単に行きそうもないね……。聞きたまえ、田村 麻耶!!」[plc] 【麻耶】 「う、うぅ、うぅぅ……!」[plc] ボロボロと涙と嗚咽をこぼしながら、里の呼びかけに麻耶が振り返る。[plc] 【里】 「きみの罪状は……あー、こんなところで言うのもなんだな。とりあえず誘拐の現行犯で逮捕だ」[plc] 【麻耶】 「ぅ、うぅ、お前の……せいだ……!」[plc] 【里】 「―――何?」[plc] 麻耶の涙ながらの恨みを乗せた言葉に、里の眉根の皺が寄った。[plc] 【麻耶】 「お前さえ、お前さえいなければ……!!」[plc] 【里】 「おいおい、責任転嫁かね? わがままな子供でもそうは言わんぞ」[plc] 【麻耶】 「どうして!? なんで!? 同じ≪最後の人≫なのに、何故分かってくれないの!?」[plc] 【里】 「分からんね。いたいけな少年をかどわかし、あまつさえ力づくでものにしようなどと」[plc] にべもなく言い捨てる里の言葉に、麻耶は悔しさからかさらに地面をけずった。[plc] 【麻耶】 「だって、だって……私には、それしかないもの!! その『力』しかないもの!」[plc] 【里】 「何故そう言い切れる?」[plc] 【麻耶】 「貴女だってそうでしょう! 同じ人なんていなくて、種族なんてないも同然!……≪最後の人≫なんて、どうせ同情の塊よ!」[plc] 【里】 「同情ねぇ……。されて嫌なものでもないと思うが」[plc] 『少なくとも、きみほどの凶行には走らないよ』と胸中で言い添えて、里は麻耶を見た。[plc] 麻耶はそんな含みを持たせた里の目に、怒りをつのらせる。[plc] 【麻耶】 「≪けっして否定しない≫に無理やり生かされ、ただ死ぬことだけを強制されて!!」[plc] 【里】 「―――!」[plc] 【麻耶】 「何が否定しないよ! 考えてもくれないくせに!!」[plc] 北斗を手にできなかった哀しみが、ようやく彼女の根幹を表に見せはじめた。[plc] 【麻耶】 「≪道筋に沿って≫? ふざけないで! 誰がこんな私の隣なんかを歩くのよ!」[plc] 【里】 「田村 麻耶……きみは」[plc] 【麻耶】 「歩いてくれてた。たった一人、歩いてくれてたおじいちゃんだって……もう―――」[plc] そこまで言って、麻耶の瞳からポツリと涙がこぼれだす。[plc] しかし、彼女はそれをすぐにもみ消した。[plc] 【麻耶】 「違う、違う違う! 私は、私はあんな人……大嫌いだったんだ!」[plc] 【里】 「…………」[plc] 【麻耶】 「いつもヘラヘラ笑って、お酒臭くて、いくらやめろって言ったって、聞かなくて……」[plc] しかしそこで涙が再び混じる。[plc] そして予定調和のように、それを振り払って麻耶は再び声を出した。[plc] 【麻耶】 「私なんかの、保護者なんかになるから、周りから変な風に見られたくせに……笑ってて……」[pln] 「あんな人、大嫌いだから……いなくたって、関係、ないんだ……う、うぅぅ」[plc] 【里】 「はぁ……なるほどな、それがきみの由縁か」[plc] 麻耶の言葉にようやく合点がいったのか、里が頭を掻いた。[plc] 【麻耶】 「そうよ……だから私は、ヒトの弱さに付け入るんだ。付け入って、私の居場所を作るんだ……」[plc] 【里】 「“ヒトは、弱い。ゆえに群れを成す”。きみのおじいさんが唱えた、きみの宗教だったな。実に素晴らしい考えだ」[plc] 粛々とうなずいた里に、麻耶は一瞬言葉を失ったが、それを皮肉と受け取ってすぐに牙をむいた。[plc] 【麻耶】 「何が……おかしいの!」[plc] 【里】 「おかしいことなどあるものか。その通りだよ。きみのおじいさんは正しい」[pln] 「ただ……きみのおじいさんが伝えたかったのは、それだけなのかと思ってね」[plc] 【麻耶】 「……?」[plc] 里の真っ直ぐな表情に、今度は麻耶が戸惑った顔になった。[plc] 【里】 「おじいさんは、分かっていたんじゃないか? そういう含みを持たせなければ、きみが聞き入れてくれないことに」[plc] 【麻耶】 「…………!」[plc] 【里】 「きみが、ヒトと触れ合わなくなることを恐れて、そう言ったんじゃないのか?」[plc] 【麻耶】 「……違う、おじいちゃんは―――」[plc] 【里】 「本当はただ、誰かを助けて、そして誰かに助けてもらえと、言いたかったのではないか?」[plc] 【麻耶】 「違う!! 勝手に決め付けないで!」[plc] 里の言葉に追い詰められ、次第に麻耶の顔に焦燥の色が滲み出す。[plc] それでも里は、言葉を、自身の中に生まれた可能性を止めなかった。[plc] 何よりもただ、目の前で涙に濡れる女性のために。[plc] 【里】 「田村 麻耶。きみに、≪けっして否定しない≫でもらいたかったのではないか?」[plc] 【麻耶】 「やめて……」[plc] 【里】 「ヒトの優しさも、残酷さも。そのすべてを≪けっして否定しない≫という言葉に乗せて」[plc] 【麻耶】 「お願い、やめて……!!」[plc] 【里】 「まずはきみ自身に、認めてもらいたかったのではないか?」[plc] 【麻耶】 「やめてよ!! やめて!!」[plc] 【里】 「“ヒトは弱い”、ということを」[plc] 【麻耶】 「やめてよぉぉぉ!」[plc] 里の言葉が締めくくられると同時に、麻耶の絶叫が洞穴全体に響き渡った。[plc] *scene10_3|ボク 狭い洞穴の通路を北斗に抱きかかえられながら、西院歌は出口へと向かっていた。[plc] 本来なら地底人である自分が、彼に出口へのルートを教えるべきなのだろう。[plc] しかし今の北斗には、それさえも必要としなかった。[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 呆然と少年を見つめる。[plc] すべての種族をその身に現し、地底人の瞳を片目に宿した北斗の姿は、単純に言って歪だった。[plc] 【北斗】 「……何、西院歌さん?」[plc] 【西院歌】 「う、ううん、別に」[plc] 彼と目が合ってしまい、なんでもないと[ruby text="かぶり"]頭を振った。[plc] その自分の所作に何故か、北斗がクスリと笑い出す。[plc] 【北斗】 「そんな感じなんだ?」[plc] 【西院歌】 「え?」[plc] 【北斗】 「本当の西院歌さんが、さ。……ぐっ!?」[plc] 軽口をたたいた北斗が、何かに顔を歪め、身を縮ませる。[plc] 近くなった彼の顔に見える汗に、西院歌はいち早く異変に気付いた。[plc] 【西院歌】 「だ、ダメ! 『変身』を解いて、早く!」[plc] 【北斗】 「だ、だいじょぶだって……というか、解きかた分からないんだよね。勝手にこうなっちゃったから」[plc] やはり無理があったのだ。[plc] 代償も垣根も質量もそのすべてを無視した『変身』など、ヒトの身ひとつに収まる力ではなかったのだ。[plc] 【北斗】 「ぐ、ぐくっ……!?」[plc] 【西院歌】 「お、降ろして! ボク、自分で走るから!」[plc] 【北斗】 「ダメ……だよ。この方が早いし、麻耶さんの所に戻れない……」[plc] 【西院歌】 「!!」[plc] 北斗の断固としたその言葉に驚き、西院歌はとっさに彼の胸をどんと押した。[plc] 反動で、彼女は北斗の腕から落ち、そのまま地面を転がる。[plc] 【北斗】 「さ、西院歌さん!?」[plc] 【西院歌】 「……どうして?」[plc] 立ち上がりながら、彼女は北斗の匂いをする方向を見上げた。[plc] それは彼女の再びの問いだった。[plc] 【西院歌】 「どうして、戻るなんて言うの?」[plc] 【北斗】 「だって里さんを放っておけないし、麻耶さんだって―――」[plc] 【西院歌】 「せっかく助けたのに! また戻るって言うの!!」[plc] 非難の声が自分の口からあがっていることを、西院歌はどこか冷めた自分と一緒に見ていた。[plc] ―――どうしてどうしてとまぁ、訊いてばっかりだな。あんた。[plc] その隣で、またあの誰かが茶化すように嗤った。[plc] 【北斗】 「ごめん……でも戻らなきゃ」[plc] ―――そら、もういっちょ。[plc] 【西院歌】 「どうしてっ!?」[plc] 内心で自分と瓜二つの誰かに冷やかされながら、それでも西院歌は叫んだ。[plc] 北斗はそんな感情をあらわにする自分に戸惑ったのか、少したじろぎながらも言った。[plc] 【北斗】 「僕にも……まだ、良く分からないんだけど」[plc] 【西院歌】 「………………」[plc] 【北斗】 「西院歌さんの言葉や、麻耶さんの話を聞いてて、思ったんだ」[plc] 【西院歌】 「何を……?」[plc] 【北斗】 「次は、僕の番なんだって」[plc] 【西院歌】 「あなたの……番?」[plc] 弱弱しかった彼の言葉が、少しずつ力を帯びていることに西院歌は気が付いた。[plc] 【北斗】 「いっぱいもらったんだよ、ここに来るまで」[plc] 【北斗】 「丘さんに“喜多 北斗”を、乃兎さんに帰る家を、里さんにはいつも美味しいご飯を」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 【北斗】 「イチローに仲間を、南に楽しさを、真鉄に面白さを、来部さんに優しさを」[plc] 北斗から涙の匂いがした。[plc] ぼやけていて見えないが、彼はもしかして泣いているのだろうか……?[plc] ―――馬鹿だな、あんた。こういうときこそ、よく視ろよ。[plc] 【北斗】 「そして初めに、西院歌さんに“ボク”をもらったんだ」[plc] 【西院歌】 「!!」[plc] 【北斗】 「もらいものばっかりで、“僕”が初めからもってたものなんて、なかったんだよ」[plc] 言葉とは裏腹に明るさをともなった北斗の言葉に、今度は西院歌がたじろぐ。[plc] それを見て、何を思ったか北斗が一歩、西院歌に近づいた。[plc] 【北斗】 「でもね、西院歌さん……もらいものばっかりだけど」[plc] そして彼女の転がって泥によごれた頬を、彼は手でぬぐった。[plc] 【北斗】 「“僕”は“ボク”だったけど―――」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 【北斗】 「今の“僕”は“北斗”なんだ。他の誰でもない、僕が“喜多 北斗”なんだ」[plc] 【西院歌】 「!!」[plc] 【北斗】 「だから……名前で呼んでよ」[plc] 彼の言葉と手の温もりに、西院歌の脳裏に何かがよぎる。[plc] 『ダメじゃないか! 傘も持たないで、こんなところに!』[plc] 『あ、バ、バカにして!』[plc] それはいつか感じた温もりと優しさの証だった。[plc] それは苦しみのただなかにあった、身勝手な想いの証明だった。[plc] 『西院歌さん……ひょっとして、その……怒ってる?』[plc] 『―――ごめん……なさい。勝手なことばっかりして』[plc] 過ぎった風景と言葉に、西院歌の瞳から熱いものがこぼれた。[plc] 【西院歌】 「――……も、いいですか?」[plc] 【北斗】 「西院歌さん……?」[plc] 【西院歌】 「これからも、ぅ、ぃ、一緒にいても、いいですか?」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【西院歌】 「笑った顔が、見たいです……ひっく……泣いた顔が、見たいです……う、うぅぅぅ」[plc] 【北斗】 「同じ景色が、見たいんでしょ? いいに決まってるだろ」[plc] 【西院歌】 「……! ぅ、うぅぅ……ふ、ふぇぇ」[plc] 【北斗】 「笑った顔が見たいなら、そばに寄るよ。泣き顔が見たいなら、西院歌さんに泣きつくよ」[plc] 北斗が涙で言葉にできない自分の気持ちを汲んでくれた。[plc] 西院歌の胸の熱さが、またしても灰の瞳から零れ落ちる。[plc] 気づけば、彼女は再び彼の胸の内にあった。[plc] 【西院歌】 「ボクって……言ってもいいですか?」[plc] 【北斗】 「当たり前。今まで借りててごめんね」[plc] 【西院歌】 「名前を、呼んでもいいですか?」[plc] 【北斗】 「もちろん、好きなだけ」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 北斗の快諾に再び目を潤ませ、彼の顔を一心に見つめながら、西院歌は意を決した。[plc] 内心で、そんな彼女の様を誰かが笑った。[plc] ―――やれやれ。ようやくお役ゴメンかよ……。遠回りが過ぎるぜ、うちの姫様はよ。[plc] 言いつつ、誰かの声は徐々に小さくなっていく。[plc] 同時に、その西院歌にしか見えない誰かの姿が目の前の少年と重なっていった。[plc] 西院歌はそこで理解した。これは、決別の言葉なのだと。[plc] 【西院歌】 「……北斗」[plc] 【北斗】 「やっと、呼んでくれたね。西院歌さん」 ―――やっと、呼んだか。西院歌。[plc] ;↑ここちょっと特殊。同時にウィンドウに流す演出できるかね? 幻視した誰かの姿と声が完全に北斗に切り替わり、ふわりと自分の中の何かが消える感覚があった。[plc] それが決別の証明だと気づいたとき、西院歌にはもう我慢ができなかった。[plc] 【西院歌】 「ほくと……北斗……北斗」[plc] 【北斗】 「はいはい。そんなに呼ばなくても聞こえてるよ」[plc] 【西院歌】 「ごめん……ごめん、北斗。ごめん、ごめんよ……う、うぅぅ」[plc] 【北斗】 「ほらほら泣かない。涙でぐちゃぐちゃだ」[plc] 謝罪の言葉を途中で止めさせ、北斗はもう一度彼女の頬をぬぐった。[plc] そして表情を優しげなものから取り替えると、キッと真っ直ぐに西院歌を見据えた。[plc] 【北斗】 「だからね、西院歌さん。今度は僕の番なんだ」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 【北斗】 「いっぱいもらったから、今度は僕が渡さなきゃ」[plc] 【西院歌】 「……ダメって言っても、行くんでしょ?」[plc] 【北斗】 「ハハ……ごめん」[plc] 【西院歌】 「謝るな、バカ北斗」[plc] ばつの悪そうな声色の彼に、噛みつくように西院歌は言った。[plc] 言った自分自身が信じられなかったが、それでも彼女の口は止まらなかった。[plc] 【西院歌】 「約束して。絶対、無事に帰ってくるって」[plc] 【北斗】 「当たり前だろ。別に喧嘩しに行くわけじゃないんだから」[plc] 笑いながら、北斗が西院歌から離れる。[plc] そして体の向きを変え、再び洞穴の奥へと進みだそうとした。[plc] 【西院歌】 「―――北斗!」[plc] 【北斗】 「何、西院歌さん?」[plc] 【西院歌】 「……いや、その、ごめん。なんでもない」[plc] とっさに呼び止めてしまったことを恥ずかしく思いながら、西院歌が言葉をにごす。[plc] 北斗はそんな自分を不可解に思ったのか、首をかしげながらも奥の暗闇へと消えていった。[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] ひとり取り残された西院歌は、ただじっと彼が消えた方向を見据えたあとで、自身の胸に手を置いた。[plc] 一歩、足が彼の方向へと進もうとしていた。[plc] 踏みとどまる。[plc] 胸に置いた手をぎゅっと握りしめ、西院歌は耐えるようにつぶやいた。[plc] 【西院歌】 「愛してる、愛してるよ、愛してるから……」[plc] 洞穴の暗闇と自分の胸の中に向けてつぶやいて、彼女もまた外へ歩き出した。[plc] *scene11_1|継承 【里】 「ぐぅ……む、いかんなぁ」[plc] 年甲斐もなく、あんな恥ずかしいセリフを言ってしまったことを、里は後悔していた。[plc] 【里】 「私はどうも、すぐに熱くなってしまうらしい」[plc] ぱらぱらと頭上から崩れ落ちる小石を払いながら、里は立ち上がろうとした。[plc] 【里】 「……おろ?」[plc] しかし力が入らず、そのまま地面に倒れそうになってしまう。[plc] そのとき、誰かが里と地面の間に手を滑り込ませた。[plc] 【北斗】 「ふぅ……大丈夫ですか? 里さん」[plc] 【里】 「やぁ、北斗くんか……。しかし、これはますますもっていかんな」[plc] 戻ってきた少年に軽く応じつつ、里は自分の失態を呪うようにぼやいた。[plc] 【北斗】 「里さん。麻耶さんは?」[plc] 【里】 「さてね。私を叩きのめして、どこかに行ってしまったよ」[plc] ぐっと力を入れて体勢を立て直すが、やはり足に力が入らない。[plc] 仕方なく里は壁に寄りかかって、そのまま腰を落ち着けた。[plc] 【里】 「はぁ……まったく、最近の若者はやたら元気だな」[plc] 【北斗】 「だ、大丈夫ですか?」[plc] 【里】 「私はきみの方が心配だがね……どうして戻ってきた?」[plc] 自分を心配そうに覗きこんできた少年に、それでも冷気を乗せた眼差しをぶつけた。[plc] 北斗は一瞬気圧されたが、すぐに姿勢を正すとそれに応じる。[plc] 【北斗】 「麻耶さんにあげなくちゃ、いけない気がして」[plc] 【里】 「あげる? 何をだね?」[plc] 【北斗】 「そこがまだ自分でも分からないんですけど……。アハハ、ハハ……」[plc] 乾いた笑いで誤魔化しながら、その実嘘を言っていない少年の目を里は見つけた。[plc] 一瞬怒鳴ってやろうかと思い、しかし全身の痛みに邪魔され、やむなくため息をこぼした。[plc] 【里】 「分かったよ……行きなさい。まだ近くにいるだろう。ひょっとすると、また余計なことをしているかもしれん」[plc] 【北斗】 「……はい、ありがとうございます」[plc] 礼をのべて頭を下げた北斗が、すぐさま麻耶を探そうと走り出す。[plc] その背中を見たせいか、里はいつもの世話焼きが首をもたげた感覚をおぼえた。[plc] 【里】 「北斗くん。すまんが、それなら一緒に伝えてやってくれないか?」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 振り向いた少年の、戸惑いながらも迷いのない目。[plc] あぁ、それなら問題はないかと里は言葉をつづけた。[plc] 【里】 「分かるだろう、今のきみなら。あのときに、私が伝えた言葉の意味を」[plc] 【北斗】 「里さん……」[plc] 【里】 「伝えてくれ、彼女に。こんな私でも、料理ができるのだということをね」[plc] 【北斗】 「はい!」[plc] 自分の言葉に勢いよくうなずき、走り去った北斗を見送って、里はやれやれと肩をすくめた。[plc] 【里】 「しかし、実際いかん。この性格は本当にいかんなぁ」[plc] ぼやきながら、彼女は応援を呼ぶためにポケットに入れたままの無線機の無事をたしかめた。[plc] *scene11_2|無限 ザザンと音を立てる波打ち際があまりにも遠い下に見えていた。[plc] 街と水都を結ぶ唯一無二の天然水路。[plc] その枝分かれした路のひとつは行き止まりだった。[plc] 【麻耶】 「…………」[plc] 岸壁に穴が空き、真下にはあまりにも青く澄んだ海が顔をのぞかせている。[plc] むなしかった。[plc] そのむなしさを抱くように自分の腕を押さえて、鱗の感触にぞっとした。[plc] 【麻耶】 「……気持ち悪い」[plc] 当たり前の感想が口からこぼれた。[plc] その言葉に、自分自身で傷ついた。[plc] 胸をおさえ、よろめいて、横の壁に体をあずけると何故か視界がにじんだ。[plc] 【麻耶】 「ぅ、ぅう、うぅ……」[plc] ザザーと波が岸壁にぶつかってたてる音と一緒に、彼女の嗚咽が混じった。[plc] 分からなかった。[plc] 自分が正しかったのか。[plc] 祖父はなんと言いたかったのか。[plc] 【麻耶】 「おじいちゃん……」[plc] あの女の言葉が、真実だったのか。[plc] 祖父は何を自分に伝えたかったのか。[plc] もはや、麻耶には分からなくなっていた。[plc] 【麻耶】 「助けて……おじいちゃん……」[plc] ただ醜い手で自らを掻き抱き、すでにいない人へ助けを求めることしかできなかった。[plc] だが、あの優しくて、大嫌いだった祖父はもういない。[plc] 【麻耶】 「誰か、誰か……」[plc] この寂寥とした景色の中には、麻耶が助けを求められるような人は誰もいなかった。[plc] だから麻耶はむせび泣いた。[plc] 【麻耶】 「誰か、助けてよ……」[plc] ≪けっして否定しない≫という言葉に苦しめられた少女の、それは必死の羨望だった。[plc] “喜多 北斗”よりも何よりも、結局彼女が一番に求めたのはその救いだったのだ。[plc] 【麻耶】 「誰か私を……肯定してよ……」[plc] 【北斗】 「麻耶さん」[plc] 【麻耶】 「―――!」[plc] 呼びかけに振り返る。[plc] そこにはあの歪な姿のまま、自分の方へと歩み寄る少年の姿があった。[plc] 【麻耶】 「どうして、来たんですか……?」[plc] 【北斗】 「迎えに来ました。戻りましょう、麻耶さん」[plc] そう言って、北斗は麻耶に微笑みかけた。[plc] 額に汗をにじませ、肩で息をしながら、それでもつらそうな顔を見せなかった。[plc] 【麻耶】 「どうして来れたんですかっ!? わ、私はあなたを騙して、さらって、力づくで―――!」[plc] 【北斗】 「だから、迎えに来たんですってば」[plc] 【麻耶】 「それなら、あなたが私のほうに来てよ!!」[plc] 北斗の再度の呼びかけに、麻耶は吠えていた。[plc] 耳障りな波の音を背に、微笑みかける少年に全力でかみついた。[plc] 【麻耶】 「私のほうには来れないくせに! どうして迎えには来るの!!」[plc] 【北斗】 「そ、それは……」[plc] 【麻耶】 「同情なんていらない! あなたが来ないなら何もいらないの、私は!」[plc] 【北斗】 「ちがいます、麻耶さん! ちがうんです!」[plc] 麻耶の言葉をさえぎって、北斗が困った顔のまま、ゆっくりとつぶやいていく。[plc] 【北斗】 「僕が、ここに来たのは……その……伝言を、頼まれて。あぁ、いや、それだけじゃないんですけど」[plc] 【麻耶】 「…………伝言?」[plc] 何かを言いよどむ北斗の口調に多少毒気を抜かれ、麻耶は声を落とした。[plc] 【北斗】 「麻耶さんは言いましたよね? “ヒトは弱い”って」[plc] 【麻耶】 「…………」[plc] 【北斗】 「僕、それとよく似た言葉、ある人から教わってるんです」[plc] そう言って少年は少し呼吸を整えると、まるでその言葉を手渡すように麻耶に告げた。[plc] 【北斗】 「“ヒトは―――無限だ”」[plc] 【麻耶】 「!」[plc] 一陣の風が、海のほうから流れ込んできた。[plc] それは麻耶と北斗の髪をたなびかせ、潮の香りを伝えてくれていた。[plc] 【北斗】 「無限なんですよ、麻耶さん。ひとりでも、[ruby text="レギ"]数[ruby text="オン"]多でもなくて」[plc] 【麻耶】 「あ……」[plc] 潮の香りと少年の言葉になぜか遠い郷愁の思いを掻き乱され、麻耶が嘆きの声を漏らす。[plc] 【北斗】 「弱くて群れを成したとしても、ヒトは、ヒトが持つ可能性は、無限なんです」[pln] 「自分が食べられなくたって、美味しいご飯が作れるんです」[pln] 「もらいものばっかりだって、いつか本物の自分になれるんです」[plc] その言葉のひとつひとつを誇るように、北斗は麻耶へ告げていた。[plc] 麻耶の顔が、次第に嘆きの表情へ歪んでいく。[plc] 【北斗】 「だから、麻耶さん。麻耶さんだって無限なんだ。ひとりなんかじゃないんです」[plc] 【麻耶】 「ほく……と……くん」[plc] 【北斗】 「帰りましょう、麻耶さん。皆が待ってる」[plc] そう言って、少年は最後に麻耶へと手を差し伸べた。[plc] そろそろと手が伸びかけ、鱗の醜悪さが目について麻耶は思わず手を引っ込めた。[plc] 【麻耶】 「皆って……誰ですか?」[plc] 【北斗】 「マスターにイチロー、真鉄だって待ってますよ、きっと。それにこれからどんどん増えます」[pln] 「僕らと仲良くなったのが運のツキです。いろんなやつらに振り回されますよ、これから。覚悟しておいた方がいい」[plc] 麻耶の質問に北斗はその惨状を思い浮かべたのか、苦笑しながらそう言った。[plc] 【麻耶】 「嘘です……そんなの、信じられない」[plc] だが麻耶にはまだ、自分の手の醜さが忘れられなかった。[plc] ごつごつとざわめいた鱗、獣のように伸びた爪、それが麻耶を責め苛んでいた。[plc] 【北斗】 「嘘じゃないですよ。少なくとも―――今、ここで、僕が待ってる」[plc] 【麻耶】 「!」[plc] もう一度恐竜人ではないほうの手を伸ばした北斗が、彼女にそう言った。[plc] あんな華奢な手など力を入れて握ってしまえば、簡単に潰れてしまうのに。[plc] 【麻耶】 「北斗……くん」[plc] それでも彼は、その手を差し伸べてくれたのだった。[plc] 【北斗】 「あなたのところには行けないけれど、でも、僕は麻耶さんを待ちますから」[plc] 涙で麻耶の世界がにじんだ。[plc] あふれてあふれて止まらなかった。[plc] それでも涙を拭いながら、おずおずと手を差し伸べようと体に力を入れたとき―――。[plc] がらりと、何かが崩れる音がした。[plc] 【麻耶】 「え―――」[plc] 【北斗】 「麻耶さん!?」[plc] 力の落としどころが分からない特有の浮遊感に包まれる中。[plc] 麻耶の鼻腔を、潮の香りが突いた。[plc] *scene11_3|心臓 手を伸ばしかけた麻耶さんの足場が崩れたとき、僕の心臓は止まっていたと思う。[plc] ただ気がつけば彼女の手を取って、必死に落ちないよう支えていた。[plc] 【北斗】 「ぐっ……くぅ〜……!!」[plc] 【麻耶】 「ほ、北斗くん……!」[plc] 人ひとりの体重を腕一本で支えるのは、この体にはあまりにも過酷だった。[plc] 普段でさえ無理と思えるのに、加えて今の僕にはもう一つの問題があった。[plc] 【北斗】 「ぐぅ……クソッ、こんなときばっかり……!!」[plc] 『変身』の無茶がたたったのか、先ほどから体中が焼けるように熱くてたまらなかった。[plc] 力を入れたくても、のぼせたかのように力が出ない。[plc] 【麻耶】 「ほ、北斗くん!? 血、血が……」[plc] 僕の腕に捕まって、なかば呆然としていた麻耶さんが途端、声をあげた。[plc] 麻耶さんの爪と鱗が僕の手に食い込み、どうやら血が流れているらしい。[plc] 【北斗】 「大丈夫……ですよ、これくらい。それより、すぐ引き上げますから」[plc] 【麻耶】 「どうして……!? どうしてそこまでするんですか!」[plc] 麻耶さんが泣きそうな声で訊いてきた。[plc] 今日の僕は質問されてばっかりだなぁと思いながら、答えを返す。[plc] 【北斗】 「言ったでしょう……迎えに来たんです」[plc] 迎えに来た理由は、まだどうしても言葉にできないけれど。[plc] 僕がその言葉にできない何かを、麻耶さんに渡す番なのだ。[plc] 【麻耶】 「それって……結局、同情からじゃないですか。そんなもの、いらない! 離して!!」[plc] 【北斗】 「嫌ですよ。絶対連れて帰ります」[plc] 【麻耶】 「だって、だって北斗くん。そんなに血が、いっぱい出てるのに……」[plc] 麻耶さんの言葉に僕はやっぱりとため息をついた。[plc] 結局、何を言い訳にしていても、この人はいい人なんだなぁとどこか呆れてしまった。[plc] そのとき、心臓がざわついた。[plc] 【北斗】 「あ…………」[plc] 潮の香りが、鼻をかすめた。[plc] 何かを、思い出させてくれた。[plc] そのいい人は、なんと言ってくれたのかを。[plc] 『―――では、あと一押しさせていただきます』[plc] 【北斗】 「そうか……そうだよ……」[plc] 【麻耶】 「北斗くん……?」[plc] 【北斗】 「麻耶さん、じっとしててください! 一気に引き上げます!」[plc] 【麻耶】 「え? だ、ダメです! そんなことしたら、北斗くんの手が!」[plc] 全身に力がわいてきた。[plc] 体の熱さなんてどうでも良くなった。[plc] ただ心臓の鼓動だけが感じられた。[plc] 【北斗】 「大丈夫ですって。僕、頑丈ですから。麻耶さんが一番知ってるでしょ?」[plc] 【麻耶】 「やめて、やめてください! 北斗くん! 血が、血が止まってないんですよ!」[plc] 【北斗】 「こんなの……痛くも、かゆくも……ないですってば」[plc] 【麻耶】 「北斗くん!」 肝心なところで少し言葉が詰まってしまい、逆に麻耶さんを不安にさせてしまった。[plc] 情けないと思いつつも、ざわめく心臓の言うとおりに僕はもう一度力をこめた。[plc] 【麻耶】 「いらないです、私、そんな同情なんていらない……」[plc] 【北斗】 「同情なんかじゃないですよ」[plc] もう一度泣きそうな声をあげた麻耶さんに、今度は胸を張って答えていた。[plc] 【北斗】 「麻耶さんが先に言ってくれたんじゃないですか」[plc] 心臓をざわめかせるそれは、言葉として見つけた今もなお、心臓で唄っていて。[plc] 嘘偽りのない、僕個人の感情だった。[plc] だから僕は、喜びのあまり涙が出そうになるのをこらえながら、彼女に伝えた。[plc] 【北斗】 「僕と麻耶さんは似てるんだって」[plc] 【麻耶】 「―――え?」[plc] 【北斗】 「“喜多 北斗”と田村 麻耶は似たもの同士だって、言ってくれたじゃないですか」[plc] 【麻耶】 「あ、あぁ……」[plc] 言葉を伝えて、自分が彼女に渡せたという喜びがあった。[plc] もらいものばかりだった自分を、それでも許せると思える瞬間を迎えることができた。[plc] 【北斗】 「だから麻耶さん。僕はあなたを迎えに来れたんです」[pln] 「この言葉を伝えたくて、あなたを待っていたんです」[plc] 【麻耶】 「北斗くん……!!」[plc] その心臓で唄う想いが、僕をここまで連れてきてくれたのだ。[plc] この右手を、間に合わせてくれたのだ。[plc] 【北斗】 「[ruby text="エン"]共[ruby text="パシー"]感が、僕の最後の一押しなんです」[plc] 言い終えて、僕はようやく麻耶さんを無事に引っ張り上げた。[plc] すぐにまた崩れそうな崖のふちから離れ、二人してどさりと腰を下ろす。[plc] 【麻耶】 「ほ、北斗くん……あの……血が」[plc] 【北斗】 「ごめんなさい、麻耶さん。手当てしてもらえます? 痛くて動かせないや」[plc] おずおずと麻耶さんが言ってきたのを遮って、正直に答えてみた。[plc] 【麻耶】 「だ、だからやめてって言ったのに!!」[plc] 【北斗】 「アハハ、ごめんなさい」[plc] 言い合っているうちに心臓のざわめきが少しずつやんでいき、同時に体の熱さが舞い戻ってきた。[plc] やりとげたという達成感と安堵とが織り交ざって、だんだんと僕の意識は消えていく。[plc] 【麻耶】 「…………北斗くん? ほ、北斗くん!! しっかり、しっかりして!」[plc] 麻耶さんの声が、ひどく遠くに聞こえた。[plc] 叩かれている頬が自分のものとは思えないほど痛みがなかった。[plc] ただ麻耶さんが握ってくれている手を、小さく握り返していた。[plc] 【北斗】 「……やったよ」[plc] 【麻耶】 「北斗くん! ほくとくん!……くん! だれか!!……か……!!」[plc] 誰にでもなくその喝采をつぶやいたのを最後に、僕の意識はまどろみに落ちていった。[plc]