*chapter05a|瞳の色 *scene01|クライ 朝。[plc] 黒のキャンパスを染め返すかのように、日の出と称して太陽が躊躇なく空へ侵攻していく。[plc] それを窓から漏れる微かな日差しで感じながら、僕は見慣れた天井から目を逸らした。[plc] 【北斗】 「…………はぁ」[plc] 結局、眠ることはできなかった。[plc] 色あせない恐怖はもとより、昨日当たり散らしてしまった罪悪感で頭の中がいっぱいだった。[plc] 【北斗】 「どうしよう……?」[plc] 今日も学校がある。[plc] さすがに二日連続不眠での登校は、自信がない。[plc] いや、それ以前にこんな顔で僕は彼女の前に立てるだろうか?[plc] 【北斗】 「いやー……無理、絶対無理」[plc] ひとりごちて、ベッドにうつ伏せになる。[plc] くしゃくしゃになったネクタイを目の隅にとらえて、またため息をこぼす。[plc] そのときようやく自分が昨日着替えるのを忘れたことに気がついた。[plc] 【北斗】 「うわ……最悪だ」[plc] これでは皺になってしまう。[plc] 学校指定の制服とはいえ、気分のいいものでもなかった。[plc] 【北斗】 「……怒られるなぁ」[plc] 無意識にポツリと呟いたが、誰にとは言えなかった。[plc] …………言えるわけがなかった。[plc] ―――トントン。[plc] そのとき、控えめなノックが聞こえた。[plc] 【北斗】 「…………だれ、ですか?」[plc] 内心でその事実をどこか客観的に受け止めながら、体勢を変えないまま声をしぼりだす。[plc] 【西院歌】 「あの……」[plc] 聞こえた声は、いつもよりも大きめに設定されていて、どこかぎこちなかった。[plc] 声の主もそれを自覚しているらしく、先の言葉が出ないのか、言い表せない沈黙がおりる。[plc] それに耐えられなくなって、こちらから声をかけた。[plc] 【北斗】 「…………西院歌さん」[plc] 【西院歌】 「あ……何?」[plc] 【北斗】 「ごめん、学校休む」[plc] 【西院歌】 「――――」[plc] ドアの向こうで、息を呑む音。[plc] 【北斗】 「みんなには、うまく言っといて」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 返事がなかった。[plc] 【北斗】 「西院歌さん?」[plc] 【西院歌】 「……えぇ」[plc] どこか削げ落ちたような返答がひとつこぼれ、そしてドアの向こうから人の気配が消えた。[plc] それを確認してから、僕はまた、眠れるはずもない暗闇へと戻るために、瞼を下ろした。[plc] *scene02|確信犯で愉快犯 二度目のノックは、もうお昼が近くなってからやってきた。[plc] 【里】 「北斗くん、起きているかい?」[plc] 僕はぼんやりと眺めていた天井から目を外して、堅牢な扉を見た。[plc] 【北斗】 「なんですか、里さん? どうしてここに?」[plc] 【里】 「さてね。うちの旦那様は結構人使いが荒いのだよ」[plc] 僕の質問に肩を竦めて答えているのが見えるようなため息をついて、里さんは苦笑した。[plc] 対して、僕は眉をひそめる。[plc] 【北斗】 「乃兎さんに、頼まれたんですか? 僕を見てるよう」[plc] 【里】 「ふむ。まぁ、それもある。あと個人的に気になったからも足して七割と言ったところだ」[plc] 【北斗】 「?」[plc] 奇妙な違和感を帯びた里さんの口調に、僕は首をかしげた。[plc] なにか、今の含みに妙な意味合いを感じたような気がした。[plc] 【里】 「いやいや。まぁ、私のことはいいじゃないか。―――さて、北斗くん」[plc] 【北斗】 「……なんです?」[plc] はぐらかされた気分を口中に感じながらも、応じてみる。[plc] すると。[plc] 【里】 「お姉さんと、デートする気はないかね?」[plc] なんて、トラブルメーカーはのたもうた。[plc] 【北斗】 「…………は?」[plc] 【里】 「だから、この里お姉さんと一緒に昼食でもいかがかなと訊いたんだよ、プリンセス」[plc] ―――いや、僕はプリンセスじゃないです。ちゃんとついてます。[plc] なんて、どうでもいいツッコミを頭の中でしてしまうほどには、混乱する一言だった。[plc] 【里】 「こっちの準備はすんでいるから、そちらも準備できたら言ってくれたまえ」[plc] 【北斗】 「……何言ってるんですか、まだ行くなんて一言も―――!」[plc] その混乱した頭に追い討ちしてきた里さんの勝手な言葉に反応して、最悪の返答をしてしまった。[plc] 【里】 「ほほ〜。そうかそうか、分かったよ北斗くん」[plc] 【北斗】 「あ、いや、違うんです。そうじゃなくて―――」[plc] 【里】 「そんなに私と一緒にお昼したいのか、そうかそうか。ならば仕方ない、ああ、まったくもって仕方ないなぁ」[plc] とてつもなく晴れやかな声で、ニコニコと里さんは僕の部屋に入ってきた。[plc] ―――ありえない、部屋の鍵はきっちりかけたはずだ。[plc] 予想外の事態に僕は慌てる。[plc] 【北斗】 「さ、里さん!? どうやって入ったんですか!?」[plc] 【里】 「どうって、鍵を開けたんだよ。ガチャリと」[plc] 【北斗】 「なんで鍵を開けられ―――」[plc] そこまで言って、ハッとする。[plc] 忘れていた。この人はそういうことができる≪最後の人≫だということに。[plc] 【里】 「いやいや、これでも軟泥種族、最後の一人の矜持もあるのだよ。開錠の一つや二つ」[plc] 人差し指をすっと立てると、鍵の形に変え、ニコリと笑みをこぼす里さん。[plc] 普段はこんなことをする人じゃないから油断していた。[plc] 【里】 「さぁ、私とデートだ、デート。しかも制服デート。フ、フフ、フフフフフフフフ」[plc] 煮え湯のたぎった地獄の釜みたいな笑い声を出しながら、里さんがにじり寄ってくる。[plc] 必要以上に両手をわきわきと動かしてニヤニヤと笑う様子が、不気味なことこの上ない。[plc] 【北斗】 「ふ、不法侵入!! プライバシーの侵害! 人権無視!」[plc] 涙目になりながら良心に訴えつつ、部屋の隅に後退する。[plc] しかし、そんなもの地獄の三丁目生まれと言われても納得できそうな女性には届かなかった。[plc] 【里】 「さぁ、綺麗な花びら散らしてみせ……おっと、食事に行こうじゃないか、グヘヘヘヘ♪」[plc] 【北斗】 「よ、汚される―――!!」[plc] 本格的に危機感をおぼえて、廊下へと走って逃げようとした僕だったが、何かに足を押さえられる。[plc] 足元を見ると、がっしりと里さんの足がその形を触手のように変えて巻き付き、僕を離してくれなかった。[plc] 【里】 「エヘ♪」[plc] 【北斗】 「ア、アハハハ……」[plc] 諦観の笑いに、無邪気そうで邪気満載な笑いが重なる。[plc] 【里】 「ほっくっとっく〜ん♪」[plc] 【北斗】 「いーやー!! たーすーけーてー!!」[plc] *scene03|デラックスパフェ 【里】 「無理に誘ったのは謝るよ。だから、私のおごりだとも言っているじゃないか、北斗くん」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【里】 「仲直りしてくれないか? 頼むよ、この通りだ」[plc] 両手を合わせて、ごめんごめんと何度も謝ってくる里さん。[plc] 【北斗】 「それはもういいんですけど……」[plc] 【里】 「おお、そうか! ありがとう!」[plc] 僕がぶすっとしたままの表情で答えると、目の前の女性はパァと顔を輝かせて喜んだ。[plc] 【北斗】 「そんなことより、里さん」[plc] 【里】 「なんだい、北斗くん?」[plc] 【北斗】 「これ、なんです?」[plc] 僕は目の前に置かれている里さんのおごりと言われた商品へ視線を向ける。[plc] 【里】 「見れば分かるだろう。お子様限定のスペシャル苺デラックスパフェだ」[plc] 【北斗】 「だからなんでそのお子様限定が僕の前にあるんですか――!!」[plc] きりっと真顔になって答える里さんに、心から慟哭する僕。[plc] 対して、軟泥種族の彼女は快活にプルプルと笑った。[plc] 【里】 「なぁに、マスターの許可は得ているよ。問題はなにもない。安心して食べることだ」[plc] 【北斗】 「そういう問題じゃないです!」[plc] というより、なんでよりにもよって麻耶さんの働いてる喫茶店で昼食なんだ。[plc] 僕はてきぱきと働いている麻耶さんを見かけるたびに身をちぢこませた。[plc] 【北斗】 「それに……何も喫茶店でお昼にすることないじゃないですか」[plc] なんとなくでしかないのだが、麻耶さんの懸命な姿を見れば見るほど、妙な罪悪感が胸に渦巻く。[plc] うぅ……居心地悪い。[plc] 【里】 「そりゃあ、私の好きな塩コーヒーがある店だからねぇ」[plc] 私の種族は、塩分の補給が最も重要視されるのさと皮肉げに里さんは言いながらコーヒーに口をつける。[plc] 【里】 「それに、この方が話しやすいだろう? きみも私も」[plc] 【北斗】 「話……?」[plc] 【里】 「そう、話だ」[plc] コクリとうなずいてコーヒーカップを置くと、里さんはまた真顔になった。[plc] 【里】 「いい加減、一人だけ蚊帳の外なのは性に合わなくてね。教えてもらいたいのさ」[plc] 【北斗】 「ぅ…………」[plc] 【里】 「何があった? 分かるように説明したまえ。北斗くん」[plc] 飄々とした里さんの印象が消えて失せ、真剣そのものの眼差しには逆らえない類の威圧感があった。[plc] 【北斗】 「さ、里さん……」[plc] 【里】 「拒否権はない。黙秘権もありはしない。あるのは義務と、事実だけだ。分かるね?」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 僕は何も言えなかった。[plc] 別に話すまいと口をつぐんだわけじゃない。[plc] ただ、久しぶりに見た里さんの本業の姿に、声を失っていただけだ。[plc] 【里】 「分かってくれ、北斗くん。これも私の仕事なんだ」[plc] そんな僕の様子を察したか、彼女は少しだけ表情を柔らかく戻すと、肩をすくめた。[plc] 【北斗】 「……すいません。気を使って、いただいて」[plc] 【里】 「なぁに。可愛い弟分のため。これでもこの任務は私情をある程度挟めるのでね」[plc] 世界でただ一人の外種である“喜多 北斗”の保護観察と護衛。[plc] どんな種族であれ、“喜多 北斗”に実害を与えようとする人から僕を護る。[plc] 言ってしまえば、ボディーガードだ。[plc] それが一介の軍人である増木 里に命ぜられた任務だと、彼女は初めて会ったとき、そう語った。[plc] 【里】 「さて、きみは昨日仁志妹をどなりつけたな。『全部知っていたな』と」[plc] 【北斗】 「…………はい」[plc] 【里】 「それは理解できるよ。きみには今まで私たちが知っていることは秘密にしていたからね」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【里】 「だが―――」[plc] ギラリと里さんのの眼光が鋭く光った。[plc] 【里】 「どうにも解せない。先日までの部下の報告から、きみに関連して変わったものは何もなかった」[plc] 【北斗】 「はい」[plc] 【里】 「では、きみはその事実をどこで知った?」[plc] 彼女の鋭さが変わらない。どうやら、ほぼ確信しているようだった。[plc] 【北斗】 「どこでって……」[plc] 【里】 「あぁ、きみが変わった日といえば、友人と出かけた日だろう。それは知っている」[plc] 里さんは一拍を置いて、また口を開いた。[plc] 【里】 「護衛はしっかりつけておいた。それでも、その日の報告に不審な点はない」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] …………やっぱり、あのときも護衛の人がどこかに潜んでいたらしい。[plc] なら、あの現場はしっかりと見られているはずだ。[plc] それなのに、里さんに報告がされていないということは……。[plc] ―――決まってるだろう? そんな単純なことは。[plc] 頭の中で、いやに冷静な自分が嘲笑を浮かべながら、結論付けた。[plc] 【北斗】 「そういうことか……」[plc] 【里】 「どうかしたかね?」[plc] 【北斗】 「止められたんだと、思います。里さんへの報告が」[plc] 【里】 「…………だろうね」[plc] 里さんの眉間に皺が寄る。[plc] 肘をついて、殴りつけたいといった表情で窓から空を見上げながら悪態をついた。[plc] 【里】 「ありがとう。確信したよ。やはり『あの男』が出てきたか」[plc] 【北斗】 「はい。丘さんに……会いました」[plc] 【里】 「なるほどな、ああ、なるほど。それだけで十二分だ」[plc] 合点がいったかのように里さんはしきりにうなずくと、カップを口もとに運ぶ。[plc] 【里】 「それで、きみは知ったわけか。“喜多 北斗”も、きみの実体も」[plc] 【北斗】 「えぇ……まぁ」[plc] 曖昧にうなずく。[plc] できれば、うなずきたくはなかったけれど。[plc] 【里】 「…………」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] お互いに目を逸らし、沈黙した。[plc] 目の前で放置してしまったデラックスパフェが徐々に溶けていた。[plc] 見た目よりもアイスが多かったらしい。[plc] 僕がそんな風にどうでもいいことを考えていると、[plc] 【里】 「それで……きみはどうしたいのかな?」[plc] 里さんのそんな声が聞こえた。[plc] *scene04|料理と家族 【北斗】 「僕が……?」[plc] 【里】 「そう。きみが、だ」[plc] 僕の反芻に、里さんがゆっくりとうなずいた。[plc] 【北斗】 「でも、里さん―――僕は……」[plc] 【里】 「なんだね? 何をためらう? 誰にはばかるでもない。自分のことなのだから」[plc] 矢継ぎ早に言葉を繋げ、里さんは僕をうながした。[plc] 【北斗】 「だって……僕は―――」[plc] それでも僕には、こんな言葉しか出せなかった。[plc] 里さんは呆れたのか、諦めたのか、ハァとひとつためいきをこぼした。[plc] 【里】 「きみという存在は一人だが、それがどうかしたのかね?」[plc] 【北斗】 「!?」[plc] 【里】 「たしかに一人だよ、“喜多 北斗”は。きみがどれだけ拒もうが震えようが、眠れなかろうがね」[plc] こともなげに、いや、いっそ切り捨てたように里さんは言う。[plc] 【北斗】 「そんな、なんで里さんがそこまで―――」[plc] 僕は瞬間反論しようと口を開きかけて―――[plc] 【里】 「私が、そこまで言う権利はないか?」[plc] 里さんの、さびしげな笑みにそれを止められた。[plc] 【里】 「きみの、『一人になった』という気持ちは、私には永遠に分からない」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【里】 「だが、種族として『孤独』であることに関して、≪最後の人≫たる私も、少しは理解できるつもりだ」[plc] 里さんは、希少種に分類される軟泥人種の≪最後の人≫だ。[plc] 異種族間の交配で子を為せず、滅ぶことが決定してしまった種族の最後の生き残り。[plc] 【北斗】 「ごめんなさい……」[plc] 【里】 「なに、謝ることでもないよ。存外、私もこの待遇には満足しているのさ」[plc] 「そのおかげでエリートコースだったからね」と彼女はあっけらかんに笑った。[plc] だが、里さんがそこをどのように苦しみ、そして進んできたのか、僕には見当もつかなかった。[plc] 彼女はその『孤独』をどうやって―――?[plc] 【北斗】 「どうしたら……」[plc] 【里】 「ん?」[plc] 【北斗】 「どうしたらそんな風になれるんですか……!?」[plc] 気づけば、自分の手を拳のようにぎゅっと握りながら、訊ねていた。[plc] 【北斗】 「分からないんです……! 僕には、この胸が破けそうになる気持ちを、どうしたらいいか分からないんです……!』」[plc] 【里】 「…………」[plc] 【北斗】 「教えてください、里さん……僕はどうしたら―――」[plc] 【里】 「……北斗くん。ときに訊ねるが、私のつくるご飯は美味しいかね?」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] あまりに的外れな質問で返され、僕は言葉を失う。[plc] 【里】 「ご飯だよ、ご飯。監視のほかに、私はきみの体調管理もまかされているからね」[plc] 【北斗】 「そ、それが……」[plc] 【里】 「まぁ、ずぼらな幼馴染とその妹にも食わせてやってるのは、私個人の勝手だがね」[plc] 【北斗】 「それがいったい……」[plc] 【里】 「いいから、頼む。答えてくれないか」[plc] 柔らかながら有無を言わせぬ里さんの語調に、僕はぐっと喉をつまらせた。[plc] 【北斗】 「……美味しいです。いつも、言ってるじゃないですか」[plc] 【里】 「ありがとう」[plc] 臆面もなく、むしろ誇らしげに里さんは僕へ頭を下げた。[plc] そして顔をあげ、プルンと苦笑に表情をゆがませる。[plc] 【里】 「まぁ、白状すると、私の料理も最初はひどかったんだよ。乃兎が泣き叫ぶくらいだからね、いや、ホント」[plc] 【北斗】 「の、乃兎さんが……」[plc] 【里】 「上達も遅くてねぇ。ほら、私こんな種族だから、味見もできなかったんだ。味噌汁とかはともかく」[plc] 【北斗】 「……そうだったんですか」[plc] およそ、今のとても美味しい彼女の料理からは、想像しがたいことだった。[plc] 【里】 「よく言われたよ。『お前に料理は無理じゃないのか』ってね」[plc] 【北斗】 「乃兎さんに、ですか?」[plc] 【里】 「他にも散々。知り合い全員から『無理だ、諦めろ』と言われたときは、流石の私もへこんだよ」[plc] 【北斗】 「……意外です」[plc] 【里】 「そうかね? まぁ、紆余曲折あって、今や私の料理はかの“喜多 北斗”をうならせるものにまで進化した」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【里】 「すごいと思わないか? 自分の料理を食べられない女が、他人に料理で『美味しい』と感謝されるんだ」[plc] いやいや、まったくとでも言いたげな大げさな身振りで、里さんはまたプルプルと笑う。[plc] 【里】 「だからね、北斗くん。私はこう思うのだよ」[plc] 【北斗】 「……なんです?」[plc] 【里】 「今は意味が分からなくても構わない。ただ覚えておいてくれないか」[plc] そう言って、姉代わりは一拍を置くと―――[plc] 【里】 「ヒトは―――」[plc] とんでもないことを言った。[plc] *scene05|幕間、祖父 影には祖父がいた。[plc] 血の繋がらない祖父ではあったが、優しい祖父だった。[plc] だが、影は祖父をきらっていた。[plc] 他人のはずなのに、何故自分に優しくしてくれるのか。[plc] その理由が分からなかったから、きらいだった。[plc] 影はいつだってひとりだった。[plc] どんなに周りが優しく接しようとも、結局はひとりだった。[plc] そういった意味で言えば、影は“喜多 北斗”にひどく共感していた。[plc] 影にとって、それだけならば“喜多 北斗”はただ似通ったものでしかなかった。[plc] しかし、影の目的は違っていた。[plc] 死んだ祖父の残した言葉こそが、影の目的を挿げ替えていた。[plc] きらいな祖父の言葉が、なぜか影の中に染み渡り、いつしか根幹に根ざしていた。[plc] いつだって、影は繰り返す。[plc] 【???】 「ヒトは―――」[plc] それがひとりであった自分を、ひとりでなくしてくれた魔法の呪文だったから。[plc] だからいつだって、影は繰り返す。[plc] 【???】 「ヒトは―――」[plc] *scene06|丘と北斗 里さんのそれを聞いたとき、言葉にならなかった。[plc] ビリビリとしびれた脳髄と体はただ無意識の内に握っていた拳をゆるめてくれただけだった。[plc] 【北斗】 「あ……」[plc] 【里】 「……なんだね? やっぱり変か? 私も正直、少し恥ずかしいんだ」[plc] 【北斗】 「い、いえ! そんなことないです!」[plc] 【里】 「そうかね?」[plc] 【北斗】 「すごいです……そんな風に思えるなんて、僕は、僕にはとても……」[plc] 【???】 「やぁやぁ、増木大尉。こんなところにいましたか」[plc] 【里・北斗】 「!?」[plc] 聞き覚えのある声が後ろからかかり、僕は身をひるがえすように後ろを見た。[plc] 【丘】 「ご丁寧に北斗まで一緒とは、いやはやなんとも。お仕事熱心で助かります」[plc] 【里】 「賢しいぞ、丘 由吉。戯言なら他所でやれ」[plc] 【丘】 「残念至極。我が麗しの大先輩にはこの言葉繰りがお気に召さぬ様子で」[plc] そこにいたのは、片眼鏡に顎ひげ、相変わらず人を食ったような笑顔を貼り付けた男だった。[plc] 自然、僕はその男を睨みつけるような目付きになってしまう。[plc] 【丘】 「おや、北斗。そんなに怖い顔をしてどうしました?」[plc] 【北斗】 「……今度は、何の用ですか?」[plc] かみつくように、威嚇して訊ねる。[plc] 【丘】 「用? それを聞かれると困るな。この間のお前が逃げてからの続きだから」[plc] 【北斗】 「逃げた? 僕が?」[plc] 【丘】 「そうですよ。『変身』して翼を出して、脱兎のごとく。いや、この場合は脱鳥の、かな」[plc] あのとき僕は自分がどのようにして帰路についたのか、本当に曖昧模糊としていた。[plc] だから、体が勝手にそんなことをしていても、僕にとってはあまり不思議でもない。[plc] 【北斗】 「おぼえてませんし、どうでもいいです。大体、丘さんの話はもうほとんど終わってたでしょう」[plc] 【丘】 「…………。おぼえていない……ふむ」[plc] 丘さんが一瞬、神妙な顔になった。[plc] 【北斗】 「?」[plc] 【丘】 「ああ、いえ。まぁ、そういうこともあるでしょう。とにかく私の話にはまだ続きがある」[plc] 【里】 「前置きはいい。話をするなら、はやくしろ」[plc] 里さんの厳しい口調にやれやれと丘さんは肩をすくめた。[plc] 【丘】 「大尉が聞く必要もないんですが。……北斗、この前言ったことはおぼえていますか?」[plc] 【北斗】 「……大体は」[plc] 【丘】 「よろしい」[plc] 【丘】 「細部ははぶきますが、お前の種族を固定するために私たちも全力でサポートする体勢を整えている」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【丘】 「そこで、ものは相談なんだが、北斗。私のもとに来る気はないか?」[plc] 【里・北斗】 「!?」[plc] 僕はびくりと肩を震わせ、里さんは目を見開いた。[plc] 【丘】 「何、難しいことじゃない。“喜多 北斗”をサポートするのなら、手近にあったほうが対処がはやい」[plc] 【里】 「だが、この話は“喜多 北斗”が社会に出ることをそもそもの研究対象としているはずだろう。それでは意味がない」[plc] 【丘】 「状況が変わってきました。臨機応変に対応するのも、私の務めですから」[plc] 【里】 「チッ、たぬきめ。そもそも、その種族の固定とはなんだ? “喜多 北斗”の行く末は暴走。お前はそう言っていただろう」[plc] 【丘】 「だから大尉は別に聞くことでもなかったんですが……まぁ、いい。お話しましょう」[plc] 言って、丘さんはあらましを説明した。[plc] “喜多 北斗”の限界と、それを予防するための方法を。[plc] その上で、あの人を食ったような笑みのまま、補足する。[plc] 【丘】 「種族の固定こそ、我ら『変身』種族の悲願。辿り着けなかった究極の理想なんですよ」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 『きっと、それは―――お前にはなれて、私にはなれないものですよ』[plc] いつかの言葉を、思い出す。[plc] 【里】 「それはお前の理想だろう。違うか、丘 由吉」[plc] 【丘】 「たしかに。その通りです、大尉。ですから、私は“喜多 北斗”に問いましょう」[plc] 【北斗】 「……?」[plc] 里さんの眉根を寄せた言葉にも動じず、丘さんは僕を見た。[plc] 【丘】 「北斗。お前は種族の固定をしたくないですか?」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 【丘】 「社会に出て五年。友人もできただろう。その彼らと同じ輪に入りたくはないか?」[plc] 【北斗】 「それ……は……」[plc] 誰とは言わず、頭の中で友と呼べる連中の顔が浮かぶ。[plc] 【丘】 「たしかにお前と同じ世代なら、お前のことを蔑視する者などほぼ皆無だろう」[plc] 【北斗】 「あ……ぅ……」[plc] 【丘】 「だが、誰しも認識しているはずだ。お前は特別だと。その上で、それを看過している」[plc] それは、僕を毎日のようにからかってみたり。[plc] まるで本当の弟のように、世話を焼いてくれたり。[plc] 【丘】 「これがどういうことか、分かりますか? 北斗」[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【丘】 「お前が内実、『世界でたった一人』であることの証明だ」[plc] 【北斗】 「!!」[plc] 【里】 「やめろ、由吉! それ以上は“喜多 北斗”への実害ありと見なすぞ!」[plc] 【丘】 「『里さん』は黙っていてください。これは、“喜多 北斗”だけの問題だ」[plc] 【里】 「『北斗』……お前……!?」[plc] 【丘】 「それでは北斗、質問を代えましょう」[plc] 丘さんはそう言って、黙りこんだ僕へ向き直った。[plc] そして紡ぐ。[plc] “喜多 北斗”だけが理解できる、絶対に避けがたい言葉を。[plc] 【丘】 「お前はまだ、[ruby text="ひ"]孤[ruby text="とり"]独でいたいのですか?」[plc] 【北斗】 「………………」[plc] 【丘】 「答えろ、北斗」[plc] 怖い。[plc] 【丘】 「お前が極度に『孤独』を恐れるのは、『変身』種族なら当然のことだ」[plc] ひとりは怖い。[plc] 【丘】 「お前が『孤独』を恐れる理由も、私には分かる。私にだけは分かる」[plc] どんなに日の下で笑っていても、急に影が差すのが怖い。[plc] 【丘】 「何故なら、お前は空白だったからだ」[plc] 自分の空虚さに、気づいてしまうから怖い。[plc] 【丘】 「私がそうなるようにしたでもなく、お前は空白になっていったからだ」[plc] だって空っぽなら、ひとりが怖くないから。[plc] 【丘】 「それが『孤独』を回避するための本能的行動だったことも知っている」[plc] でも。[plc] 【丘】 「だから答えろ、北斗。お前はまだ一人でいたいのか?」[plc] でも何か、その空っぽの中に、まだ見える。[plc] 【丘】 「北斗」[plc] 『じゃあ、××の『××』をあげるから―――』[plc] 白いちらつきがよみがえる。[plc] あげる? 僕は一体、誰に何を―――。[plc] 【丘】 「答えなさい、北斗」[plc] いったい、誰から何をもらったのだろう?[plc] 【丘】 「北斗!」[plc] 【???】 「やめてください!」[plc] *scene07|いいひと。 丘さんの糾弾に割って入った人物は、その場にいた誰にとっても意外だった。[plc] 【北斗】 「……麻耶、さん」[plc] 制服の前掛けをぎゅっと握りしめ、目を潤ませ、震えながらも、麻耶さんは丘さんと相対していた。[plc] 呆然としていた丘さんが、いつもの笑顔を消して、麻耶さんと視線を合わせる。[plc] 【丘】 「……どちらさまで?」[plc] 【麻耶】 「わ、私は―――あの、北斗くんの、そのあの……えっと……」[plc] 【北斗】 「丘さん、僕の知り合いです」[plc] 【麻耶】 「あ……」[plc] 【丘】 「知人ね……。それで、何の御用でしょうか?」[plc] どこまでも冷淡に問う丘さんの声色に、気圧されながらも麻耶さんは退かなかった。[plc] 【麻耶】 「わ、私は難しい話は良く分かりません。それに、北斗くんがどんな境遇にあるのかも」[plc] 【麻耶】 「それでもあなたのそれは、ただのや、八つ当たりにしか、私には見えないのです」[plc] 【丘】 「……」[plc] 【北斗】 「なっ……!?」[plc] 愕然とした。[plc] 初対面とはいえ、この人にそこまで真っ直ぐに言葉をぶつけられる人を、僕は初めて目にした。[plc] 【麻耶】 「提案なら、もっと優しく言えばいいのです。意見なら、そっと告げればいいのです」[plc] 【丘】 「…………」[plc] 【麻耶】 「私には分かりません。何故あなたは、ヒトに優しくできないのですか?」[plc] 毅然とした態度で、麻耶さんは丘さんを見ていた。[plc] 丘さんもまた、憮然とした表情を崩すことなく、彼女を見ている。[plc] 【丘】 「……部外者にしては少し言葉が過ぎると思いますが?」[plc] 【麻耶】 「自覚しています。それでも放ってはおけないのです」[plc] 【丘】 「それはまた、何故?」[plc] 【麻耶】 「……私が、北斗くんの『友達』だからです」[plc] 【北斗】 「!」[plc] ざあっと、音をたてるように全身の血液が沸いたような感覚があった。[plc] これが、麻耶さんの信念だった。[plc] あのときの僕の見立ては、やはり正しかったのだ。[plc] 【丘】 「知人、では? 顔を見かけたら、挨拶する程度の」[plc] 【麻耶】 「友達、です。困っていたら、放っておけないほどの」[plc] 麻耶さんは、良い人だった。[plc] ただただ、本当に良い人だった。[plc] 【北斗】 「麻耶さん……」[plc] 僕がどんなに良い人が苦手でも関係なかった。[plc] それが彼女の信念でしかないのだから。[plc] 彼女にとっては僕の感情など論ずるに値せず、当然のように僕を助けるだけなのだ。[plc] 【丘】 「ふむ……弱い」[plc] 【麻耶】 「……?」[plc] 【丘】 「『友達』だから。了解です。ですが、弱い。それだけでこの話に関わってくるには、押しが足りない」[plc] しかし、そんな彼女に向かって、悠然と丘さんは言い放った。[plc] その程度の事情で、自分はこの姿勢を曲げないと言わんばかりに。[plc] 【麻耶】 「―――では、あと一押しさせていただきます」[plc] 【丘】 「なに?」[plc] 【北斗】 「……ま、麻耶さん?」[plc] 急に声と表情を変貌させた麻耶さんに、僕と、そして丘さんも戸惑った声を出した。[plc] 【麻耶】 「[ruby text="シン"]共[ruby text="パシー"]感。それがもう一押しです」[plc] 言いながら、彼女はいつも填めていた手袋を外した。[plc] 【丘】 「それは……」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 外された手袋から現れたそれに、僕と丘さんが目を見張る。[plc] 【麻耶】 「私は、北斗くんに共感している」[plc] 【麻耶】 「いえ、正確には“喜多 北斗”という種族に共感している」[plc] その鋭利な爪と、光を反射して時折ギラリと鈍く光る鱗は、まさに異形と言えた。[plc] 【麻耶】 「私も一人だから。私も彼に似て、残された一人だから」[plc] 【北斗】 「≪最後の人≫……」[plc] 【丘】 「その鱗、その眼、その爪……。そうか、あなたは[ruby text="ト"]恐[ruby text="カ"]竜[ruby text="ゲ"]人か」[plc] 【麻耶】 「そうです。だから、私は彼を助けるのです」[plc] そう言って、恐竜人種の≪最後の人≫、田村 麻耶さんは丘さんに向かってニコリと笑んだ。[plc] 【麻耶】 「これでもまだ、足りないでしょうか?」[plc] その言葉は、そっと告げるように優しげだった。[plc] *scene08|幕間、手 影は、打ち震えていた。[plc] それは恐怖にでも悲哀にでもない。[plc] 途方もない歓喜にだった。[plc] 体中の細胞が活性化して、ぶくぶくと泡立っているかのようだった。[plc] ―――届いていた。[plc] 影は胸中で反芻した。[plc] 話を聞いていて、たしかに理解したのだ。[plc] ―――手が、届いていた。[plc] 届かないと思っていた羨望の手。[plc] 夜空の星をつかむように手を伸ばし、無理だと苦笑して下ろそうとした手が、実は金星をつかんでいた。[plc] そんな喜びだった。そんな感動だった。[plc] 影にとって、周りの状況など一切が眼中になかった。[plc] 注目すべきはただ一点、“喜多 北斗”の種族を固定するという所にあった。[plc] ―――おじいちゃん、夢がかなうよ![plc] 死んだ祖父に、そう叫びたくなった。喝采と共に、壮大な音楽を流したかった。[plc] ―――おじいちゃん、できるよ! これでできる![plc] 大嫌いな祖父の、それでも優しげな顔を思い出し、次いでよく頭を撫でてくれた無骨な手を思い出した。[plc] その老人の、すべての所作が影は嫌いだった。[plc] だからこその歓喜であり、だからこその喝采だった。[plc] 祖父から受け継いだ思想に基づいた、自分の思想と理論をたしかめる機会が、ようやく影に訪れた。[plc] そんな影の燃えるような心境に、水を差す言葉が外界から聞こえた。[plc] 『―――提案なら、もっと優しく言えばいいのです。意見なら、そっと告げればいいのです』[plc] ……うるさいな、さっきから。[plc] 影は歓喜に水差す外界の言葉にあきれた。[plc] 何故、そんなに真剣になっているのだと、思わず問いたくなるほどだった。[plc] しかし、言葉は止まらなかった挙句、こうつづいた。[plc] 『―――何故あなたは、ヒトに優しくできないのですか?』[plc] 一気に、影の気分は最悪にまで落ち込んだ。[plc] できることなら今すぐにでもつかみかかって、嘲りながら罵ってやりたかった。[plc] そんな当たり前のことを訊いて―――。[plc] そして、こう繋げたかった。[plc] ―――バカじゃないか?[plc] *scene09|夜を歩いて 夜を歩いていた。[plc] 唐突に現れた丘さんの話は、麻耶さんの登場により、完全にうやむやになってしまった。[plc] 結局、何を言うでもなく丘さんは席を立ち、里さんも何事か考えている表情でどこかにいってしまった。[plc] そして僕は一人、バスを使って帰るべき道のりをゆっくり歩いている途中だった。[plc] 【北斗】 「……ハァ」[plc] ため息がつきない。[plc] 誰かに話せば少しは楽になるかと思えば、新たな問題が現れただけだった。[plc] 【北斗】 「……『まだひとりでいたいのか?』かぁ……」[plc] ひとりと言われると、あの白い場所にいたときのことを思い出す。[plc] 何もなかった。[plc] 丘さんからあの言葉をもらうまで、僕には“僕”さえありえなかった。[plc] 【北斗】 「…………丘さん」[plc] 『きっと、それは―――お前にはなれて、私にはなれないものですよ』[plc] あの人は、僕に期待している。[plc] それが“喜多 北斗”でもあったあの人の願いだから。[plc] 同じ僕に、何らかの種族になり、『変身』の暴走を回避することを期待している。[plc] 【北斗】 「……自分がなれなかったから、かな」[plc] きっとたくさん研究して、その仮説にまでこぎつけたのだろう。[plc] もう自分と同じ“喜多 北斗”を出さないために、それこそ必死で。[plc] 【北斗】 「口悪いけど……良い人、なんだよね」[plc] けれど、僕は悩んでいる。[plc] 悩む理由はなくて、それこそすぐにでも種族を変えなければならないはずなのに。[plc] 帰り道をゆっくり歩いて考えたいと思うほどに、悩んでいる。[plc] 【北斗】 「でも、なんでこんな悩んでるんだろ……?」[plc] 自分でも、理由なんて分かっちゃいなかった。[plc] こんなにもひとりが怖いのに、何故種族の固定に躊躇するのかを。[plc] 【北斗】 「分かんないんだよな……」[plc] ただ頭が混乱していて現状を受け止め切れてないのかもしれない。[plc] 普通に考えるなら、それが妥当だ。[plc] 【北斗】 「でも……」[plc] 普通には、考えられなかった。[plc] だって、あんなに怖い空白に何か見える。[plc] 色づいた何か、遠すぎる何か。[plc] ちらつきのようにかすんで、とっくに色あせて擦り切れた何か。[plc] 【北斗】 「…………なんだったっけ?」[plc] よく思い出せば、きっと出てくるはずだ。[plc] 僕があの場所で手にしたものなんて、本当に少ないはずなんだから。[plc] ………………。[plc] 『じゃあ、××の『××』をあげるから―――』[plc] 【北斗】 「……だれ、なんだ……?」[plc] そしていったい何を、僕にくれるって―――?[plc] 『ここに、×××なの?』[plc] 【北斗】 「そうだ、最初にそう訊かれて……」[plc] ゆっくりと、点が浮かび上がってくる。[plc] その点が、星のようにまたたいて次々と、線を結んでいく。[plc] 『大丈夫? 苦しいの?』[plc] 『だれか呼んでくる?』[plc] 『え?―――ここにいてほしいの?』[plc] 【北斗】 「誰なんだ……この人、は?」[plc] 分からない、分からない、分からない。[plc] 思い出そうとすればするほど、脳の片隅にあった景色に砂嵐が混ざっていく。[plc] 『ねぇ、どうして×××なの?』[plc] 『え? 分からないの?』[plc] 『あ……』[plc] その代わりと言わんばかりに、ノイズ交じりだった声の点だけが鮮明になっていった。[plc] 『きっと、それは―――』[plc] 【北斗】 「―――え!?」[plc] 急に浮かび上がってきた言葉に、思わず俯きがちだった頭が無意識に跳ね上がった。[plc] 今……僕は何を思い出した……?[plc] 【北斗】 「『きっと、それは―――』……?」[plc] ありえなかった。[plc] その言葉は違う意味をもっているはずだった。[plc] 何故、ここにもその言葉が埋もれているのか理解できなかった。[plc] 【北斗】 「冗談、だよ……ね?」[plc] だけど冗談ではなかった。[plc] その言葉はたしかに、丘さんの声ではない他の誰かによって、発せられているものだった。[plc] 【北斗】 「いったい、何がどうなって……」[plc] 記憶が混乱していた。[plc] 記憶が混線していた。[plc] 記憶が混濁していた。[plc] 【北斗】 「うぁ……!?」[plc] 僕は頭をおさえた。[plc] 確信があった。[plc] 原因はここだ、と。[plc] 種族の固定への躊躇だけじゃない。[plc] 僕がひとりを怖がることになったことの原因も、ここだと思った。[plc] 根拠も証拠もないままに、僕の確信だけはそれをつかんで離さなかった。[plc] 『きっと、それは―――』[plc] 【北斗】 「誰なんだよ……きみは……!?」[plc] そんな哀しそうな顔をして、いったい誰だって言うんだ……!?[plc] 頭を掻き毟った。[plc] いら立ちが鈍痛になって頭全部に鐘の音のように響いていた。[plc] 【北斗】 「くそっ……」[plc] 自身を奮い立たせるために、軽く頭を振ってこめかみを押さえた。[plc] そうして自分を誤魔化してから、何気なく閑散とした公園に目線を映す。[plc] そこに、なんと見知った顔を見かけた。[plc] 【北斗】 「西院歌……さん」[plc] 僕は、一も二もなく彼女のもとへと駆け出していた。[plc] *scene10|幕間、加速 影は、微笑んでいた。[plc] 今日は人生で最良の日だと認識していた。[plc] あきらめていたものに手が届くという奇跡に影は打ち震えていた。[plc] そう、奇跡。これは間違いなく、影を見かねた神様が起こしてくれた奇跡なのだ。[plc] ―――これを喜ばずして、何を喜びとするのだろう![plc] どんなものでも、願いつづければ手は届くのだ。[plc] どんなものでも、信じつづければ夢は叶うのだ。[plc] どんなものでも、望みつづければ盃は満ちるのだ。[plc] 影の考えは、加速していた。[plc] あとはどうやって、“喜多 北斗”をこちらに引き込むかだった。[plc] いや、それは簡単だった。[plc] もとより彼には、そう悪い印象を与えていない。[plc] じっと待っていれば、自ずとチャンスは舞い降りてくるはずだった。[plc] そうだ、落ち着け、落ち着け、自分……。[plc] まずはゆっくりと、地盤をかためてからでも遅くないんだ……。[plc] 焦る必要はない……。[plc] 何も焦る必要はない…………![plc] 影の考えは、加速していた。[plc] 影の微笑みは、いつしか凄惨な笑みに変わっていた。[plc] *scene11|瞳の色 公園の敷地内に入って、彼女がたたずむ場所へ一目散に走った。[plc] 躊躇も何もなかった。[plc] ただ、彼女の姿を見たらいても立ってもいられなかった。[plc] 【北斗】 「西院歌さん……!」[plc] 【西院歌】 「あ……」[plc] 駆けつけるように現れた僕に、西院歌さんが目を点にした。[plc] 【北斗】 「ダメじゃないか! 傘も持たないで、こんなところに!」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 【北斗】 「日に当てられたら、どうするのさ? ただごとじゃないんだから。さぁ、帰ろう」[plc] 口早に言って、西院歌さんの手を引っ張った。[plc] 【西院歌】 「あの……」[plc] 【北斗】 「何、もしかして具合悪い?」[plc] 【西院歌】 「いえ……今、夜よ。日差し、ないから」[plc] 【北斗】 「あ」[plc] 完全にそんなことを忘れていた僕は、すごく間抜けな声を出してしまった。[plc] 日傘をもっていない西院歌さんに焦っただけで、そんなことまで頭がまわらなかった。[plc] 【北斗】 「そっか……そう、だよね……アハハ、何言ってんだろうね、僕」[plc] 乾いた笑いで誤魔化しながら、握ったままの彼女の手へと自然、目がいっていた。[plc] 半ば強引につかんだ、西院歌さんの華奢な掌の感触がやけにこそばゆい。[plc] ……………。[plc] う…………どうしよう。めちゃくちゃ恥ずかしい。[plc] 【西院歌】 「――――」[plc] そんな僕に気づいたのか、西院歌さんはすっと手を持ち上げた。[plc] 当然、僕の手と、そして目線も持ち上がり、それは西院歌さんの灰色の瞳と重なった。[plc] 【北斗】 「あ……!? いや、その、これはとっさで!! えっと……ゴメン……」[plc] 【西院歌】 「……フフ」[plc] 【北斗】 「え?」[plc] 僕の弁解に、西院歌さんが表情を和らげたかと思ったら、肩をかすかに震わせはじめた。[plc] 【西院歌】 「フ、フフフフ……」[plc] 【北斗】 「あ、バ、バカにして!」[plc] 【西院歌】 「だって……あなた、恥ずかしがってる匂いしかしないもの」[plc] 【北斗】 「う、ぅ〜〜〜!!」[plc] 【西院歌】 「……ダメ、おなか痛い。よじれちゃった……」[plc] 僕はそんな西院歌さんらしからぬ彼女の行動に戸惑いながらも、恥ずかしさに声が出なかった。[plc] 西院歌さんは西院歌さんでそんなにツボに入ったのか、肩を震わせて笑っている。[plc] 【北斗】 「…………」[plc] そこまで笑わなくても良いじゃないか……。[plc] 僕がそんな風に内心で不貞腐れた言葉を出したとき、ふと彼女が気づいたように僕へ声をかけた。[plc] 【西院歌】 「……あなた、どうしてここに?」[plc] 【北斗】 「え? あ、僕はね……里さんに連れ出されて、その帰り」[plc] 【西院歌】 「そう……良かった」[plc] 彼女はホゥと一息つくように、安堵の声を出した。[plc] 【北斗】 「西院歌さん、良かったって……何が……」[plc] 【西院歌】 「いいえ、なんでもない」[plc] すっと夜空に顔の向きを変え、彼女は柔和な表情を浮かべながら、もう僕の問いには答えてくれなかった。[plc] 手を繋いだまま、僕も彼女にならって、星を見上げた。[plc] 【北斗】 「…………」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 西院歌さんが何を考えているか、良く分からなかった。[plc] いつもの西院歌さんらしくないといえばそうだけど、何故か落ち着くものがあった。[plc] 【西院歌】 「もうすぐ、[ruby text="ツリー"]水[ruby text="マンタ"]都のセレモニーね」[plc] 【北斗】 「あ……そういえば、そうだね。来週だっけ」[plc] 【西院歌】 「えぇ、楽しみ」[plc] 【北斗】 「西院歌さん……?」[plc] 【西院歌】 「あなたは?」[plc] きゅっと、西院歌さんが僕の手を少し力を込めて握ってきた。[plc] 【北斗】 「そりゃ、楽しみだけど……」[plc] 【西院歌】 「そう」[plc] 僕の戸惑いがちな声にうなずいて、彼女はまた夜空をその双眸で見上げた。[plc] 地底人である彼女には、その空にまばゆく光る星も微かにしか見出せないはずなのに。[plc] 西院歌さんが何を考えているか、僕には良く分からなかった。[plc] ただひとつ。僕が彼女から感じ取れたことは。[plc] 【北斗】 「西院歌さん……ひょっとして、その……怒ってる?」[plc] 【西院歌】 「………………」[plc] 【北斗】 「―――ごめん……なさい。勝手なことばっかりして」[plc] ぎゅっと彼女の手を握り返しながら、僕は頭を下げた。[plc] 叩かれるか、手を弾かれるか―――。[plc] どちらにせよ自業自得の選択肢を嘆きながらも、僕はその一撃を静かに待った。[plc] しかし、いつまで経ってもその一撃は見舞われず、代わりに西院歌さんが顔をこちらに向けた。[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 無言のまま正面へと回られ、すっと握っていた手を離すと、彼女はその両手で僕の頬を挟み込んだ。[plc] まるで里さんのような立ち振る舞いに僕は驚きのあまり、瞬間、声がでなかった。[plc] 【北斗】 「…………むぁ?」[plc] 【西院歌】 「…………」[plc] 僕の顔を餅か何かのように扱いつつ、彼女は徐々に僕の方へとその顔を近づけてくる。[plc] 地底人特有の白い肌、華奢な腕、可憐な首元、そして何よりも印象的な、淡い灰色の双眸。[plc] それが僕の視界を埋め尽くすすべてになるほど、西院歌さんが自身の顔を近づけたとき、彼女はようやく口を開いた。[plc] 【西院歌】 「……変な顔」[plc] 【北斗】 「…………むぐ?」[plc] 【西院歌】 「罰ゲーム。たまには私も、これくらいさせて」[plc] そう言って彼女は目尻を下げ、頬へ込めた力をゆるめ、口もとを少しつり上げて柔らかく微笑んだ。[plc] 【北斗】 「さひかさん……?」[plc] 【西院歌】 「これで、許してあげる」[plc] 僕は夢でも見ているんだろうか……?[plc] 自分の正気を疑いたい気持ちだった。[plc] 西院歌さんがこんなにも柔らかく微笑んだところを、僕はいまだかつて見たことがない。[plc] 【西院歌】 「さ、帰りましょう」[plc] 【北斗】 「う、うん……」[plc] 呆けてしまった僕を無視するように、西院歌さんはパッと身をひるがえして、再び僕の手を握った。[plc] その華奢な感触と不意にやってきた人肌の温かみを、何故か僕は懐かしいと思ってしまった。[plc] 『きっと、それは―――』[plc] 耳の奥、鼓膜さえもさらに超えた根幹的などこかで聞こえる、あの声と共に。[plc] *scene12|増木 里という女 眠たげに目をこすりながら、丘 由吉は書類の作成にいそしんでいた。[plc] 日中は“喜多 北斗”の監視や懐柔のため忙しく、こんな片田舎での書類整理などという瑣末は放棄していた。[plc] 三日ほどはそれで誤魔化せたのだが、さすがに部下に見咎められ、こうして最新鋭のパソコンに向かっていた。[plc] 【丘】 「しかし、まいった」[plc] 先人の残した“来たるべき軌跡”の中でも、特に利便性に長け、率先して普及された代物を前に、丘は苦戦していた。[plc] 【丘】 「……こう、目が痛くちゃ……先人の恩恵も、あったもんじゃないですね」[plc] 彼の“代償”は重い。[plc] 多存種の三種をすべて混合させたその体躯には、もちろんその三種すべての“代償”が組み込まれていた。[plc] 片目は地底人のように極端に弱まり。[plc] 一時間に一回は、全身が水分を求めて異物感を訴え。[plc] 夜ともなれば、ある欲求が頭を駆け巡り、仕事どころではなくなる。[plc] 率直に言って、彼は今『空人』の“代償”によって、極端な睡魔に襲われているのである。[plc] 【丘】 「眠い……」[plc] それでも目をこすりこすり作業している理由は、それなりにあった。[plc] 【丘】 「…………北斗」[plc] 叶えさせてやらねばならない。[plc] 言ってしまえばそれだけの理由、といえばそうかもしれなかった。[plc] 【丘】 「ふわぁ……」[plc] 彼を“喜多 北斗”として終わらせるのは、もったいない。[plc] チャンスは平等に与えてしかるべきだ。[plc] 自分にもそのチャンスが一応あったから、今ここにいられる。[plc] 【丘】 「ですが、彼までこんなはずれくじを引くことはない……」[plc] 自分が出したのは、そこそこ悪いサイコロの目であることを丘は自覚していた。[plc] 彼にはもっとふさわしい、良い目があるはずだ。[plc] オリジナルの“喜多 北斗”が選ぶ、他の“喜多 北斗”への自由。[plc] それは“丘 由吉”の回避そのものだった。[plc] その悲願を達成することにこそ、丘のすべてが詰まっていた。[plc] これまでも、そしてこれからもそうだろう。[plc] そのためにも彼は、眠いのを押して書類の整理に立ち向かわなければならなかった。[plc] たとえ、眠い目をだますようにこすりながらであっても。[plc] 【丘】 「とはいえ、眠いですねぇ……」[plc] 大あくびをひとつこぼして、丘は一度パソコンのモニターから目をはなした。[plc] 何かあったかい飲みものでも飲みたいなぁと内心、ぼやいてみる。[plc] しかし、そう都合よくお茶請けが勝手に出てきてくれるほど、世の中甘くはあるまい。[plc] 丘が自分の冗談に肩をすくめたとき、研究所の扉が開いた。[plc] 【穂波】 「主任、お茶持ってきましたけど」[plc] 【丘】 「愛してるよ、穂波くん」[plc] 【穂波】 「うわっ、なんですか。気色悪い」[plc] 【丘】 「いや、無性にお茶が恋しかったものでね」[plc] お礼を冗談めかして誤魔化しつつ、丘はおぼんにのった湯飲みを受け取った。[plc] ずずと一口飲んでほろ苦さと香りを楽しみ、一息をつく。[plc] 【丘】 「やぁ、生き返った。ありがとう」[plc] 【穂波】 「何よりです。それはそうと主任、これ、なんだか分かります?」[plc] 【丘】 「ん? どれですか?」[plc] 湯飲みを自分のデスクに置いてから、丘は穂波が持っている書類の束を受け取った。[plc] 【穂波】 「申請書みたいですけど、なんだか変なんですよね。見たことないんですけど」[plc] どれどれと、穂波の言葉をたしかめるように書類を斜め読みした丘は、なるほどと苦笑した。[plc] 【丘】 「あぁ、それもそうでしょう。これは軍の申請書ですから」[plc] 【穂波】 「じゃあ、ひょっとして里さんですか」[plc] 合点がいったように、穂波がポンと手をうった。[plc] 【丘】 「ええ、大方私が邪魔したので、お昼代の請求でしょう。請求書代わりにこんな正式な書類を使うなんて……」[plc] 言いつつ、二枚目の書類へ目をやった丘は、その苦笑に近かった表情を途端に強張らせた。[plc] 【丘】 「何……?」[plc] 【穂波】 「どうかしました、主任? 水増しでもされてました?」[plc] 【丘】 「あぁ、いえ。これは私が内々で処理しますから、大丈夫」[pcl] 言いつつ、丘の頭ではいくつもの不穏な考えが浮かんでは消えていった。[plc] それだけのことが、その書類には書いてあったのだ。[plc] 『研究対象である“喜多 北斗”の保護・観察待遇の強化申請について』[plc] そんな題を記された申請書は、丘にとってあまりに不穏当極まりなかった。[plc] この時期に、ここまで段階が進んで、何故今さら……?[plc] いや、そもそも、本当に保護や観察を強化したいのか、彼女は……?[plc] 【丘】 「増木 里。何を、たくらんでるんだ……?」[plc] 丘は、あんなに飲みたかったお茶を忘れたかのように、その申請書を睨みつづけた。[plc]