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60年代前後をふりかえる その肉体性の奪還

60年代前後をふりかえる
その肉体性の奪還
及川廣信

 60年代の運動の前奏として、56年の2月のソ連共産党20回大会でのフルシチョフのスターリン批判、10月のポズナニでのポーランドの暴動、10、11月のハンガリア事件を、第1、第2、第3と続く、決定的な連鎖アタックとして考えたい。それ以後の時代の動きと色調を、それ以前のものとは全く違ったものであるとして、客観的に時代を考察しながらも、あえて主体の側から積極的に解体し、区分する。
 しかし、歴史は必ずしも進歩の道を辿るとは言えないし、典型的なドラマの構成で展開するばあいもあるが、第一幕と第二幕の間が空きすぎたり、ひとつのドラマが中断して、また他のドラマが発生するということもある。
 いずれ(*1)にしろ、歴史は現在時の関心から発足し、逆戻りして、過去の忘れ去られたものを発掘し、ひとつの相対的な観念を得たあとに、新たな筋道を立てて見せることだと思う。
 権威の側から、また、その時大勢を占めていたモードから、抽象し、捨象し、論理づけ、意識と活字をもって決定づけられた歴史に、利害と党派性からねつ造されたその歴史を、権威に向う反抗の地層から、当然とらえるべき過去への道に照明を当ててみたい。捨て去られたものを掘り起こすためには、選択され、歪曲され、活字化され、決定づけられる以前の、うわさと触覚の段階の出来事、マスメディアの対象にならなかった部分、その本来の意味を全く顧みられなかった人々について触れて行きたい。

 55年には神武景気が始まり、いわば家庭電化の時代になり、高度成長の波がこの時から起こった。この年、石原慎太郎が「太陽の季節」でデビューした。マスコミの力による、新しい時代の感覚の最初のデビューという意味で、76年の「限りなく透明に近いブルー」の村上龍の場合にこれは非常に似ていた。
 ただ、石原のばあいは、多少スキャンダラスなものがあった。彼には反抗のジェスチュアが見えたが、やがて気概のある前途有望な青年として、体制の大人たちの側に引き込まれて行く。それは、明治以来のひとつの出世のパターンとも言えるが、最初から、大人たちに認めてもらうための甘えの反抗だったのではないかと思われても仕方がないほど、世間的に成功するにつれて、右翼化し、作品の質が落ちて行った。
 私はこの56年の夏まで続いた「太陽族」騒ぎを、割と冷ややかな眼で見ていたのだが、同年11月のハンガリア事件の新聞の記事を見たときの、信じられぬ打撃に目が眩み(*2)、打ち崩れる思いをしたことをまざまざと思い起こす。あの時、大げさでなく、世界が眼の前で崩壊したのである。それは、決して私だけのことではなかった。
 この時から、目的のない自由と、とらわれぬ思想が動き始め、世界が迷わずにひとつの混沌のなかに突入することが可能となった。
 50年代の前半はまだ、日本はアメリカと天皇の、二重の束縛のイメージに包まれていた。そんな重苦しいアメリカとの接触のあとに、やがて、アメリカを占領国として意識しない世代が成長する。同時に、占領国としてのこわもてのアメリカでなく、ジェイムス・ディーンに代表されるアメリカの若いジェネレーションの直接的な息吹が知らされる。ギンスバーグの「吠える」が諏訪優によって紹介され、ケルーアックの「路上」の翻訳も出され、ビートニックのサンフランシスコとカリフォルニアでの生活がうわさされる。
 鈴木大拙を通して彼らの精神的なひとつの支えでもあったらしい「禅」ということばが、かつて西田幾多郎たちが感じたものとは違った意味で、あらためて日本の若者たちに新鮮な実践的な行動精神として感じとられる。
 自由な若やいだ気分、せきを切られたエネルギーと、既成の社会と大人たちへの反抗、これがアメリカの二番煎じでなく、同時に進行した日本のビート・ジェネレーションの真髄だった。イギリスのオズボーンの「怒りをこめてふり返れ」に同感し、映画では、「エデンの東」「墓にツバをかけろ」「年上の女」「黒いオルフェ」などがその代弁だった。
 私は大野慶人がこのビート・ジェネレーションの代表者だったのではないかと思う。私のスタジオに現われたとき、まだ文化学院に入ったばかりで、青年になりきらぬ、自然そのままに伸びたギリシャの美少年を思わせた。
 彼の均整のとれた姿態が、よく状況に置かれた人間の苦悩的な態度を表わし、その筋肉質な胸と背は、ロダンの彫刻のように緊迫したけいれんを見せた。彼は暗黒の中に咲く青いロマンの花を持っていた。彼の演技の特性は、「偶発性」だった。
 ジョン・ケージの音楽は、われわれの眼には、非常に行動的な演劇として見られたのだが、大野慶人は、その日常の生活感を舞踊の土台にするという意味で、またケージの言う「目的に満ちた無目的性」という意味で、はなはだ彼はケージ的だった。
 彼は59年の4月、大野一雄モダンダンス公演で、ヘミングウェイの「老人と海」でデビューする。同年5月に、土方巽と組んで三島由紀夫の「禁色」を第6回新人舞踊公演に呈出する。11月には、バレエ東京の「血の婚礼」と「背徳」に出演する。
 この「禁色」が土方巽の認められた最初の作品だった。後ほど、この作品が前衛舞踊の最初の記念碑的な意味を持つことになるが、それはいろいろな要素を含んでのことである。
 この59年の5月まで、私にしろ、若松美黄にしろ、土方巽にしろ、いわゆる舞踊界の権威者と批評家たちに爪はじきされていた。
 それがどうした弾みか、この作品が認められたのである。それほどこの作品は、素直な感性に富んだ、肉体とロマンが結合した、誰も認めたくなるような佳作だったのである。
 もうひとつは、この時はじめて、舞踊が、マイムとダンスが結合して、現在の舞踏につながる、いわゆる踊らぬダンスとして表出されたのである。土方巽が作品を作り、舞台では彼がワキに廻って、大野慶人の肉体の素材と、マイム技術をフルに生かした作品だった。
 最後に付言するが、この作品を契機に、土方が三島由紀夫の知遇を得たことである。このときは無断で作品を上映しあのだが、後ほど詫びを入れ、9月の第一生命ホールでの「9月5日6時の会」では、三島由紀夫を後ろ楯にしている。これが後ほど多くの批評家、詩人、画家などと彼が結びつくための最初のチャンスだったし、当時三島由紀夫に認められるということは、識者に認められるための最短コースだったのである。
 この「9月5日6時の会」が、内容的には、60年からの彼が主催する「ダンス・エクスペリエンスの会」と、その後の彼の公演にそのままつながって行く。
 私が土方巽と最初に出会ったのは、56年の6月、安藤三子と堀内完のユニークバレエ団の、湯浅譲二作曲「カルメン」のときだった。私は帰国後、小牧バレエ団を脱退して6月に「バレエ東京」を結成。その同じ月に、この「カルメン」に賛助出演している。その時の土方はもしかしたら初舞台ではなかったかと思う。後年あれほど活動するとは、その際夢にも思わなかった。
 たしか翌57年のことだったが、ユニークバレエ団の公演レパートリーの中に、土方巽の作品を一つ入れることになって、結果的にはぼつになったのだが、頭を地につけてしつように回転するその動きに、この男が何かひとと違った鬱積した内面を抱いている風に見えた。
 当時の彼の友人で、後にブラジルに移住する、やはりユニークバレエ団(*3)の図師明子を、私は第2回のマイムの公演に出演依頼したこととか、大野慶人が私と土方との両サイドでの活動や、彼の公演への助演者の私のスタジオからの送り込みなどで彼とのつながりを持つことになるが、それが67年4月のアルトー館第2回公演、大沼鉄郎作「ゲスラー・テル群論」への彼の出演依頼まで続く。
 土方はユニークバレエ団(*3)を辞してヨネヤマ・ママコのところにしばらくおり、58年の12月、彼女の「ハンチキキ」に出演している。その後、津田信敏の傘下に入る。
 ここで津田信敏のことについて触れてみよう。
 彼はダダイズムの系統を引く舞踊家なのだが、圧えられた潜伏の後、突然舞踊界の表面に出て決定的な意識改革を迫った。
 石井漠、高田せい子系統のモダン・バレエ(これは遠く帝劇のオペラの振付師、ローシーまで遡ることができる)。江口隆哉、宮操子のモダン・ダンス(ドイツのモデルネ・タンツの流れを引く)。これら二つの流派が占める、創造のパターンのマンネリ化にホコ先を向け、破壊と無への還元を旗印に、若い舞踊家の叛逆のバックになったのは津田信敏だった。
 津田は永い沈黙のあと、53年の9月の公演を皮切りに、徐々に(*4)追打ちをかけて行く。ジャン・ヌーボ、若松美黄、のちに土方巽が津田のスタジオ(現在のアスベスト館)に出入りする。その高まりが、58年5月の津田門下生による「叛旗」公演、さらに巾を拡げて後の「女流アヴァンギャルド公演」になる。
 この叛逆の徒を抱いた津田信敏と、従来の舞踊界との緊張した対峙は、ついに59年10月、現代舞踊合同公演を持って炸裂する。
 「海のバラード」と「月に吠える」のニ作品の内容を、というよりも舞踊界の現状を徹底攻撃したのは、批評家の山野博大、池宮信夫たちだった。
 「月に吠える」に出場していた大野一雄は、この時から江口隆哉の下を離れて、津田の仕事に協力する。
 その成果が、59年12月、都市センター・ホールでの「20人の女流AVAN・GARDE」だった。これには、大野一雄、大野慶人、土方巽、若松美黄が加わった。また、武智鉄二も作品を呈出した。
 武智はすでに50年代の当初から、伝統芸術の分野に於いて、優れた業績を残し、その反逆精神と、鬼面人を驚かす才能によって数度の実験公演を行ない、参画した各分野の若手に多大の影響を与えていた。
 だが、この公演に於て彼の作品が同列に並んでみると、いかにも職業人らしい前衛的な技術の駆使の冴えを感じながらも、稚拙な部分を隠し切れぬながらも躍動する他の舞踊家たちに比べてみると、彼の作品の肉の欠如が感じられたのだった。この時の作品としては、奈良加宮「子宮」、菱妖子「朱の糸」が印象に残った。
 50年代の始めに作られた、造形、音楽、文学、照明、技術のメンバーによる「実験工房」の仕事ともまた違って、室内の実験から荒々しく野に出た肉体芸術は、ひとつのたくましさを持って、50年代後半のその反抗の歴史をついで、そのまま60年代に突入する。

 1954年の早春、私は私費留学生として、貨客船でフランスへ向かった。神戸から出航した船の甲板から、次第に小さくなって行く見送りの堀内完の姿、海岸べりを拡げてねずみ色に遠ざかって行く本土を眺めながら、私はある後ろめたさを覚えていた。
 それほど、日本はまだ経済的に疲へいしていた。一般大衆の生活は明日の糧もおぼつかないほどのどん底の状態だった。私自身の懐も、帰りの船賃はおろか、フランスに着いて何ヶ月持つか分からぬほど頼りないものだった。
 そういう状況の中で、朝鮮戦争のさ中に、懐寒いながらもひとり自分だけが、放たれてフランスへ留学に向かえるということにある後ろめたさを感じていたのである。
 私がぜひにもフランスへ行きたかったのは、新しがり屋だったからだ。西洋から文明を摂取することが、そのまま進歩につながる良いことであり、先んじてそれをする人が選ばれて優秀な人間であるという、明治以来ずうっと(*5)受継がれて来たインテリの考え方がまだその当時は支配していた。
 私は前衛ぶっていた。白井浩司のアンチロマンの紹介を下敷きに知ったか振るほどの軽薄さも持っていた。
 さて、そのような自分が、2年の留学で得たものは何だったのだろう。
 毎晩のように劇場へ通うことによって、ヨーロッパの演劇の流れと現状は一通り知ることが出来た。しかし、あのブレヒト自身の演出による「コーカサスの白墨の円」も含めて、私はある物足りなさを感じ続けた。期待したバローの作品も、品良く作り上げられて満足できなかった。
 昼はバレエのテクニックの習得に専念した。しかしバレエの作品はみな博物館ものだった。優れた才能の持主はもうバレエの仕事などしないのだろうかと淋しさを感じた。だが、みなお高くとまって東洋人を馬鹿にしていた。その頃、日本には彼らを見返してやれるものは何一つ持っていなかった。貧乏でみすぼらしく、文化のはしくれもなく、ただ遣る瀬なく耐えることだけが、与えられた任務だった。
 朝は、やっと紹介者を得て、ドゥクルーのマイム研究所に通った。同じフランス人でも、バレエとマイムの人間はこうも違うものかと思うほど仲間は親密にしてくれた。彼らはマイムの本場は日本だと思っているかのようだった。私は懸命に技術を習得した。だが、帰国後の私のマイムの仕事は、その時得た技術をひとつひとつ、別な解釈で剥ぎ取ることだった。私はドゥクルーに感謝している。彼に教わった土台がなかったら、私はとても自分の動きを見い出すことは難しかったろう。伝統芸能からいきなり出発することは、とても無理だった。それほど、当時は、西洋と日本は、舞台芸術も、日常生活も、あまりにも異質にかけ離れていた。
 ヨーロッパと同列に並び、文化の質もその接触点を見い出すようになるのは、やっと70年代に入ってからのことなのである。
 帰国は金のないままにフランス船の船底で帰った。すでにインドシナ戦争は終結していたが、ベトナムへの派遣のフランス兵、それにアラブ、ベトナミアン、中国人と一緒だった。ごったまぜの人種が甲板に行列を作って食事をもらう。夜は風も通らぬ蒸し暑いキャビンの中で、ハンモックにじっと寝つかれぬ夜を噛みしめる。
 しかし、私はこの30余日の船底で多くのことを学んだ。いろいろな民族との肌の触れ合い、アラブのほとばしる反抗の情熱と、ベトナミアンのやさしさと忍耐など、気どらない生のままの民衆の息吹きをその時私は知った。
 私は、夜はハンモックであれこれ考えごとをすることが多かったが、昼はジャン・ルイ・バローのレフレクション(回想)を階段に腰かけて読んだ。
 バローのこの本は渡仏する前からの私の愛読書だった。しかし私は、フランス滞在中は、ほかの本を読み渉って、この本は顧みなかった。いまやっと帰国の途について、再びこの本を読んでいたのだった。
 その中の一章に、アントナン・アルトーのことが書かれてあった。彼の生活と行動、演劇についての信念と理論。アントナン・アルトーは、もうその時はこの世にいなかった。私はフランスでは、彼についての伝説的な思い出話を、聞いただけだった。彼の精神が、もう演劇の中に呼び戻されることはないだろうかと思った。シュール・リアリズム(*6)の残映さえその当時は見るのが難しかった。
 私は本を読んで疲れると甲板に出てよく海を眺めた。この恐ろしく強力で、広大な自然の前に、自分は一片の力も持たぬことを感じる。
 ただ自分の頭脳の中に、動くもの、働くものを感じる。生きていること、精神の活動。アルトーのこと、シュール・リアリズム(*6)のこと。
 私は遥かな地平線(*7)を眺めながら、こんなことが、よく出世話(*8)に出てくる場面だなと思いながら、自分の未知の未来に対して、決意のほぞを固めた。

 私が帰国した直前、55年の12月にマルセル・マルソーが来日している。
 私はマルソーによって引き起こされた、ちょっとしたパントマイムのブームの唯中に帰って来て戸惑いを感じる。すっかりマルソー流のパントマイムだけを西洋の伝統的なマイムときめ込んでしまっている日本人に、その変り得る肉体の動きとしてのマイムというものをどうしたら納得させうるか。
 私は一年間沈黙する。一年目に私はマルソーのスタイルとは全く別のマイムドラマを発表するが、果してニセモノというレッテルを貼られ(*9)る。ニセモノということは、私に言わせれば、マルソー流でないということである。私はマルソーのようなマイムはやりたくない。
 マイムを、日本の能や歌舞伎と同じように、ローマ時代からずうっと(*5)伝統的に伝わっているものと思い勝ちだが、それは間違いである。マイムは、ローマ時代のパントマイム、中世の神秘劇、ルネッサンスのコメディア・デラルテ、19世紀のロマンチック・パントマイムと、みな切断されて別種のものである。
 ローマ時代のものは、マイムダンスともいうべき、ダンスとマイムの混合したものだった。中世の神秘劇は、教会の中で行われたもので、シンボル性を主にしたナレーション入りのものだったし、コメディア・デラルテの即興劇は、セリフと動きのラッチで仕組まれた、即興の類似劇だった。19世紀のロマンチック・パントマイムは、ことばを入れない、顔面表情とジェスチュアと、アクロバットの黙劇だった。しかし、これも一応伝統が途絶えている。
 これらとは全く別な形で、演劇のジャック・コボーの門下の、エチアンヌ・ドゥクルーが、からだの純粋な動きの研究から現代マイムを創り上げる。ジャン・ルイ・バローもマルセル・マルソーもドゥクルーから出発している。現代マイムは本来、スタイルのない自由なものだが、マルソーは彼独自のスタイルを創る。
 当時の日本の現代舞踊の俊才はマイム的な踊りに傾いていた。ヨネヤマ・ママコ、伏屋順仁、関屋幸雄たちである。
 私はクラシック・バレエをやっていたので、マイムとバレエを結合できずに、別にやりながら50年代を過ごす。私がバレエを捨てたのは61年の「バレエ・プラス・マイムの会」の直後である。
 大野一雄は以前からマイムというより、演劇的な、心理的要素を多分に持った踊りをしていた。それがひとつの状況のなかで、心理よりもより内面的な精神性を表出するようになり、それと同時にダンスと演劇の部分が一緒に結合して、舞踊の根源としてのマイムにより近づく。彼は踊ることを捨て、自らの舞踊を、自覚して舞踏と名づける。
 だがマイムというのもは、特定のものではない。それはヨーロッパだけでなく、日本にも存在している。演劇と舞踊が発生する以前の、最初の根元的な、生の表出と芸である。
 現在もそうなのだが、当時はなおのことマイムを真面目にあつかってくれる批評家はいなかった。舞踊の批評家としては、芦原英了と光吉夏弥がいたが、以前はそれぞれ、洋舞、日舞にそれぞれ身を入れて、実際面に於てもかなりな功績を残していたのだが、もうその頃は外国のバレエだけを対象によるようになっていた。
 当時の舞踊家、批評家は、来日したパブロバ、アルヘンチーナ、クロイツベルクなどで舞踊の鑑賞眼を養っていたが、舞踊の本質を見る眼は、最良のものを数少なく感激性をもって見たせいか、かなり高度な人もいた。永田龍雄などは理論家としても、マスコミの人間としても、尊敬に価する人だった。
 だが、ほとんどのマスコミの批評家と称する人間や、舞踊界のおえら方は、舞踊に対して非常に狭い考え方しか持っていなかった。その上、舞踊界は序列式の権威主義で、それを打ち壊すことは容易なことではなかった。
 50年代の後半に亘る奮戦のあと、遂に私は敗残し、矢尽き刀折れた形で、家庭も破れ、借金に追い込められ、宿を転々として、上中里の裏街の一角のアパートに居つく。肉体も心も疲れ切り、もう何もする気力もなく、毎日四畳半の天井を眺め暮す日が続く。愉しみといえば毎日中、銭湯へ行くことで、よく隠居に若い者がこんな時刻に、と怪しげにじろりと見られたりした。
 起きることも、手を動かすことさへ億劫な、誰と話すこともない暗鬱な日々の中に、私の60年代は明ける。
 私のからだの奥に気力らしいものが少しずつ(*10) 湧いてくるのが感じられ、そろそろまた動き始めようかと思っていると、丁度、舞台美術の吉田先生がマイムに力を入れて下さり、協会を結成し、新橋に日本マイム研究所を作ることになる。
 開校はちょうど安保闘争のさ中だった。レッスンの後よく論争した。六・一五の翌日、吉本隆明の逮捕を新聞で知った。当時、私は吉本隆明と橋川文三の仕事に注目していた。
 私は再び読書に熱中するようになる。ある日なに気なく求めた大岡信の「芸術マイナス1」のナイーブな感受性と、その着実な嗜好性に目を瞠る。
 大岡信はすでに、56年飯島耕一、東野芳明、江原順、針生一郎らと「シュルレアリスム研究会」を結成し、瀧(*11) 口修造とも親近し、59年に吉岡実、清岡卓行、飯島耕一岩田宏らと「鰐」を創刊。またその頃からすでに、現代美術の批評をも行なうようになっていた。

 50年代後半の、肉体の自覚による反抗につづいて、これから60年代の肉体の開花と闘争の時代に入る。先に述べたユニークバレエ団(*3)の「カルメン」と私の第3回マイム公演「生田川」の舞台装置を担当した小原庄が、篠原有司男、黒木不具人とそのグループ・アルシミストを56年に結成している。その後、小原庄は図師明子と一緒にブラジルに移住し、篠原はやがて荒川修作、吉村益信などと合流してネオ・ダダの運動を展開する。土方巽はおそらく小原庄との連がりから、しぜんネオ・ダダの連中と付き合うようになったことと思う。彼の創造活動の出発はネオ・ダダだと私は見ている。
 ネオ・ダダ、ハプニング、ポップ・アート、サイケデリック、エンバイラメントと、連鎖反応のように内容的に関わりを持ってつぎつぎと問題提起され、60年代後半に及ぶ。
 ハプニングはアクションベインティング(*12) とジョン・ケージの影響の下に、画家、詩人、音楽家、舞踊家によって起こされた、内発性を主眼に、自由と偶然をテーマにしたひとつの運動だった。ハプニングという言葉がそのような動きに対して使われたのは、59年の春の、アラン・カプローのニューヨークでのイベント「六つの部分からなる十八のハプニング」からだとされている。
 肉体と物との関わりの点で、同時にヨーロッパに起こったイブ・クラインのヌーヴォー・レアリスムとそれは近似している。
 ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、アンディ・ウォーホルのポップ・アート。LSDによるサイケデリック。行為の広がりを持った認識としての環境(エンバイラメント)。
 ネオ・ダダを通ってハプニングを日本で行った人は、篠原有司男、アイ・オー、秋山祐徳太子、加藤好弘(ゼロ次元)たちである。
 これとはべつに、67年に樋口四郎の企画によって新宿のモダンアートに於て、ヌードと軽演劇との組合わせで、天井桟敷、表現座、吉田道紀と私の作品、それにまずら流弾、小坊太子、牧郎、ガリバー、トイレットなどの、ハプニング、ヌーヴォー・レアリスム、サイケデリックとりまぜの舞台がつぎつぎに展開されたが、いつの間にか完全なストリップ小屋となってしまう。
 樋口はまた、池袋に球体劇場という一風変った劇場を開く。表現座による「つげ義春の世界」で始まり、石井満隆もリサイタルをここでやるが、残念ながらこの劇場も消える。
 サイケデリックは浜野安宏、宮井睦郎、やがて横尾忠則がポップとサイケをとりまぜたような彼独自の作風で出現する。
 そのような状況の67年の12月、伊藤ミカの「O嬢の物語」は、同年の笠井叡の同名の作品とともに、時代の転換を感じさせるものだった。
 65年1月のグループVAV公演、大沼鉄郎作、小杉武久作曲、及川廣信演出、三浦一壮、西森守、武井慧出演による「傾斜の存在」。68年6月、石井満隆のガスホールでの第2回リサイタル「オジュネ」。69年11月、大野慶人の厚生年金でのダンス・エクスペリエンスなど、この流れにそった特記すべき作品である。

 61年の9月、第一生命ホールで、土方巽は3度目の「ダンス・エクスペリエンス」を行った。この頃には、もう大野一雄、大野慶人とのコンビが出来ていたが、ほかに若松美黄、遠藤義久、川名かほるなどのダンサー、それに細谷清、野村純一などのマイマーが加わった。
 黒い頭巾をかぶって、パンツ姿の五、六人の若者が輪を作って背を向けている。背を強調するために、後方に突き出し、両腕は前方に廻して見えないようにし、頭部も前に傾けて隠すようにする。すり足の足踏をして、無言で男たちは円を縮めてゆき、互いに顔を突き合わせたり、横にずり足をしたりする。これが「半陰半陽の昼さがりの秘儀」である。
 社会に対して黙して背を向ける。何ごとか秘密に相談するかのように、触覚的に通じ合って片隅にたむろする。欲求不満が倒錯して股間に咲いた青い花。これが60年代前半の若者の状況を適格に表出したものだった。
 このパターンがその後、あちこちでイヴェントされ、昼さがりの町角の片隅のイメージから、誰いうとなく「暗黒舞踊」と命名(*13) された。その頃はまだ舞踊で、舞踏ではなかった筈だ。そのあと大野一雄が舞踊から舞踏を峻別する。
 土方巽の公演は、63年10月、草月会館での「あんま」を経て、65年11月、千日谷ホールでの「バラ色ダンス」をピークとして、66年7月に、紀伊国屋(*14) ホールで、暗黒舞踏派解散公演を行っている。「バラ色ダンス」では土方巽、大野一雄のほか、大野慶人、石井満隆、笠井叡の三人がそろい、新人として玉野黄市も出演している。これは、聖と酷と華を持った、舞踏の歴史の記念碑的公演だった。
 傍ら、66年1月アルトー館の公演に、及川演出の河野典生作「爆弾」と並んで、大野一雄、慶人が阿部昭作「部屋」を呈出し、67年4月のアルトー館の第2回公演、及川 廣信演出、大沼鉄郎作「ゲスラー・テル群論」には、土方巽のほか、大野慶人、石井満隆、笠井叡、武井慧、ジュン・大橋、三橋郁夫などが出演した。

 60年代後半は学生運動の時代だった。そしてまた、前半の舞踏の勢いを受けた感じで、アンダー・グラウンドの演劇が活動する。劇団状況劇場はそれ以前からすでに動いていたが、天井桟敷、自由劇場、早稲田小劇場、転形劇場、劇団日本、発見の会などが加わる。
 60年代も末になると、学生運動も演劇もますます過激化し、また70年代の万博の反対を旗印に、資本に組するものと、しないものと二派に分かれる。「環境芸術」を経て、光とイメージの空間構成を得意とするアーチストは、誘われるままに万博に協力する者が多かった。
 私はアルトー館とはべつに、66年同人として「ミモ・サピエンス」に参加する。7月、草月会館での及川、大野慶人による「ハムレット」を皮切りに、この団体は60年代後半らしい活動をする。私と大野のほかのメンバーは、佐々木博康、吉村修、城山忠正、ジュン・大橋、若月つねお、松岡園子、三橋郁夫、キキ・島川、長坂代、山崎繁男などである。
 68年頃、新宿のピット・インはわれわれにとってもっともその時代を代表する存在だった。ジャズ演奏のほか、すまけい、天井桟敷、夜行館などが公演した。ミモ・サピエンスは、「聖淫の華MIME」を連続公演する。
 69年、私は万博反対の側に立つ。地下にもぐるように表面に出ない。吉村修の企画で日劇地下の「リトル・クラブ」で、モダンアートのより急進した形でやる。土方巽がまたここで顔を合わせることになる。彼はその頃、すでに赤坂のクラブにもレギュラーとして契約していたが、このリトルクラブにも私のあと、作品を呈出し、その後、新宿のアートヴィレッジに出向く。官権の手は学生運動だけでなく演劇にも及び、発見の会はつぶされる。
 60年代の後半は、ポーランドやチェコなどの実験映画、アニメーションの影響もあって、アンダグラウンド映画や実験映画が盛んに作られた。金坂健二、足立正生、飯村隆彦、藤野一友、大林宣彦たちであり、またイラストレーターの横尾忠則、宇野亜喜良、カメラマン西宮正明、横須賀功光、藤井秀樹なども作った。
 また、それより以前から「映像芸術の会」が活動していた。松本俊夫(修羅)、大沼鉄郎(ミクロの世界)、黒木和雄(飛べない沈黙)、東陽一(サード)、野田真吉(モノクロームの画家イブ・クライン)、松川八州雄(鳥獣戯画)、杉原せつ(生れる)、長野千秋(大野一雄の連作)、土本典昭(水俣病の連作)、小川伸介(成田問題の連作)たちが、その全員であり、作家としての活動と同時に、雑誌「映像芸術」を出版し、記録を脱してアヴァンギャルドをめざし、事実を知らせることよりも、作者の内的なものを表出しようとした。
 また、松本俊夫の、その後の「FILM」によるアンダーグラウンドとプライベート・フィルムの促進。原将人などの、アマチュア出身の映像作家の育成。それに、大沼鉄郎、野田真吾、佐々木基一などによる杉並シネクラブの努力は、今日の盛んな地区の映画鑑賞会の最初の道を開いた。
 私は反抗の精神を映画によって学んだ。溝口健二の「浪華悲歌」、「祇園の姉妹」、ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」、「黄金時代」、「忘れられた人々」。アメリカのアンダー・グラウンド映画の作家ジョナス・メカス(樹々の大砲)、カール・リンダー(悪魔は死んだ)、ケネス・アンガー(スコピオ・ライジング)、アンディ・ウォーホル(眠り)などだ。

 アンダー・グラウンド演劇は、既成の演劇形式の破壊から始まった。しかしその後の表現方法と、作家の問題など、未解決の部分が多く、早稲田小劇場の鈴木忠志などそれに苦闘する。
 ことばの問題もある。詩人の側の実験があった。諏訪優のジャズと詩の朗読、木原孝一のことばの演劇性、発見の会での大岡信、堀川正美、三木卓などの詩人による自作の朗読。谷川俊太郎のことばと音とリズムと遊び、人間座で上演された栗田勇の「愛奴」、吉増剛造のことばの魔術性への没入。またバタイユの言語の肉体性への関心も深まった。しかしことばの問題は、まだ今後に残されている。

 時代の区分を56年から始めたが、60年安保、70年安保をそのあとの時代の、2つのメルクマールと考えるのは妥当だろうか。だが70年の前半の69年には、万博反対のムードの盛り上がりと、東大の安田講堂での闘争、また海の向うではウッドストック・フェスティバルに60万人ものロックファンが集まった。
 70年に入ると、三島由紀夫の事件、赤軍よど号事件、72年の連合赤軍の浅間山荘とテルアビブ。73年の石油危機による日本の資本主義構造の根底からの揺れ。74年の三菱ビル爆破と物騒にエスカレートしていく。
 期待の70年は石油ショックもあってか、途中から肩すかしを食った感じでいるうちに、体制はいつの間にか末端までシステムかされ、対象が掴み難くなる。
 演劇は70年に入ると二つの方向を模索しながら分離して行く。つかこうへい、星野共、六月劇場から流れた深田良介らが研究会COREをやっていたが、その後、星野は兵藤哲と「げきば」を結成し、若月つねおのマイムを受け入れ肉体化していく。そしてさらに大野一雄の舞踏の方法論を舞台に持ち込もうとする。一方、つかこうへいは、表現技術というより、セリフの内容と、その語られる状況にドラマ性を見い出す芝居を作る。
 演劇が肉体化してことばを失って行った例として、岡本章の「錬肉工房」と大駱駝艦を上げておこう。
 美術の方でも60年代後半から表現を最小限にとどめようとするミニマル・アート、さらにデュシャンに帰ったかと思われるコンセプチュアル・アート。創作から素材を分離し、さらに素材から、フォルムと色彩を遊離させて行く傾向。たしかにこれはヴィトゲンシュタインの思想の影響を受けているようにも思われるが、そのあと、作者の表現よりも、素材そのものに表現させる方向に向かって来ている。
 演劇も古典的になったと云われるが、そんな単純なものでないだろう。破壊のあとに、人間ともの、環境との関わり。そして表現と演劇そのものを客観化というより、物体化して行き、その働きを冷静に見て、ドラマの本質をのぞくこと。ドラマの流れとしての構造形式。この問題を解くには、56年以降の芸術の流れをあれこれ考えるよりも、いっそ、ニーチェに遡って考えてみる方が早いかも知れない。歴史の流れよりも、ニーチェとヴィトゲンシュタインの方が教えてくれるのだろうか。
 70年代に入ると、外面的には構造主義などかなり問題にされたが、実際にはそれよりも柳田國男、折口信夫などの再認識と研究成果の方が、意識の深まりと広がりの発端を持たせてくれたと思う。また、それに宇宙的な広がりを持った思考法と、実践的神秘思想がひとつの流行の中に意識を変革させて行った。
 演劇の場も広がりを持って行った。若林彰、舟木日夫、遠藤琢郎、朝倉摂が国際演劇センターを作ったのは72年である。このセンターは、ナンシー演劇祭の事務長のジャック・ラングの招聘と、日本からの代表団の送り込み、またラバールの招聘も行っている。そのほか、笈田勝広、三浦一壮など海外で活動する人間も増えて来た。
 70年に入って土方は、芦川羊子、小林嵯峨の2人を世に出し、人間のみじめさと、顔面表情による交感を通路に、終末観による暗黒宝塚を創った。一方、田中泯のハイパーダンス、大野一雄門下の武内靖彦、独創的な岩名雅記と徳田ガン。それにアメリカで活躍している武井慧、畑中稔、菊地純子などが期待される。
 マイムは、毎月創作発表して100回を越えた佐々木博康。中山幹雄と詩とマイムの会を続けている上野陽一。西森守、ジュン・大橋、若月つねお、吉田洋、並木孝雄、それにイタリーで活躍している山内春彦を加えよう。
 70年代はたしかに60年代とは違った動きをしている。60年代末から70年の始めにかけての、自己の解体された経験が、生かされない筈はない。遅れているが、たしかに芽生えているのだ。60年代の神話にあこがれ、イミテーションを追うだけでは、折角の自己を失うことになる。

 78年の今年、2つのバレエを観た。ローラン・プチと、モーリス・ベジャールのバレエ団である。この2人にアメリカの「ウェストサイド・ストーリー」を振付けた、ジェローム・ロビンスを加えた3人は、50年代から世界のバレエの第一線で活動して来た人たちである。とくにベジャールは、ニューバロックとかトータルシアターとか云われて批評家に持て囃されているが、私はその実体を今度初めて観たのだが、なんのことはない、哲学ぶった理窟を付け、バレエをダンス化した、おかまバレエに過ぎなかった。ピーター・ブルックの「真夏の夜の夢」の場合もそうだったが、どうして日本の批評家は、言葉と上辺だけに惑わされて、眼の前の日本の現実と、真面目に苦労してやっている者の仕事を顧みないのだろう。
 ローラン・プチの機気と技巧も、その使用したピンクフロイドの音楽に完全に圧倒されていた。ロックの偉大さと、その背景をなす時代の流れをまざまざと知らされた感じだった。ローリング・ストーンズに続くパティ・スミスとブルース・スプリングティーン。ウォーホルの下から出たルー・リードとデヴィッド・ボウイ。彼らこそ西洋の本当の70年代の選手なのだ。
 私は60年代を中心にして反抗と破壊と再生の時代を振り返り、私なりの記憶を記した。

*1 原文では「いづれ」
*2 原文では「暗み」
*3 原文では「ユニーク・バレエ団」だが最初の表記である中黒無しに統一した。
*4 原文では「除々に」
*5 原文では「づうっと」
*6 今日ではシュルレエルによってたつ考え方あるいは実践の意味でシュルレアリスムとするのが一般的だが、原文のまま収録した。
*7 水平線のことか
*8 原文では「出世話し」
*9    原文では「張られ」
*10 原文では「少しづつ」
*11 原文では「滝口」
*12 原文では「アクション・ペンティング」
*13 原文では「名命」
*14 原文では「紀の国屋」

(初出:「肉体言語」No.9/1979年3月1日発行)
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