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右傾化からファシズムへ - 暴力に恐怖する冬の時代へ
今日(12/26)で今年の記事は終わりとし、恐縮ながら一足先に冬休みを頂戴する。今年も、読者の皆様に支えられ助けられた。本当に心から感謝する。一年間、いろいろなことを書いてきた。官邸前デモについて、尖閣有事と日中衝突のシミュレーションについて、佐野眞一と橋下徹の部落問題について。本当は、今月(12月)は右翼と左翼の問題について政治学的に掘り下げ、丸山真男の8.15革命説の問題を検討したかったが、突然の解散と選挙があり、その情勢を追いかけるうちに時間を潰してしまった。来年の宿題になった。書きたいこと、閃いたことがありながら、それに手を着けられず、見過ごして後戻りできなくなってしまう。尼崎連続殺人事件もそうだ。この事件は、例えば佐野眞一のような作家が、詳しく調査探求して真実を究明し、人々にその意味を問うということはあるのだろうか。殺人鬼たちの加害責任はどう裁かれるのだろうか。断片的な事実が警察のリークでテレビに流されたが、事件の全貌を独自に構成して説明を試みたり企てたりしたジャーナリズムはない。そうした作品や営為が出現するかどうかも疑わしく思われる。私を含めて、この事件に感じるのは異様な恐怖であり、ある意味で、動機だの手口だのの詳細が情報提供されなくても、何が起きたかは一人一人が直観で分かっていることなのだ。むしろ、全貌が解明されたとしても、恐くてその本を読む気が起きないのではないか。


いつでも尼崎事件の犠牲者になってしまう。運が悪ければ、何かの偶然であのような地獄に突き落とされてしまう。そして、そうした受難と破滅を予防する三つの要素というか防壁が薄くなっている。一つは地域の健全な市民社会、二つめは警察、三つめは自分自身の堅固さ(経済的な余裕とか、何かのときに頼れる確かな人脈を日常に持っているとか)。尼崎事件の報道を見ながら不思議に思うのは、角田美代子らは何であれほどやすやすと、狙った標的を次々と襲って殺すことができたのかということだ。警察は何をしていたのだろう。加害者の周辺での異常は、警察の情報網に全く入ってなかったのだろうか。どういう経過や事情があり、問題が見過ごされるという顛末になったのだろう。本当に警察は何も知っていなかったのだろうか。事件と警察との接点に不審な感覚を抱いていたら、事件の全てを知る主犯が警察署の中で不審な自殺を遂げた。以後、事件について何も情報は発信されない。本当に警察が説明するような自殺があり得るかという疑惑についても、マスコミは医学的に検証をしようとしない。(1)健全な市民社会と、(2)健全な警察と、(3)健全な自己というのは、実は一つに繋がったもので三位一体のものだ。周辺小社会での異変に気づき、監視し、犯罪を防止するためには、市民の個々がそれなりに健全でなくてはいけない。隣人を、見知らぬ他人を、きちんと助けられる能力と精神を持った存在でないといけない。

つまり、われわれは、実は身辺で起こっているかもしれない、あのような虐待と暴力の惨劇を見逃しやすい存在になっているということだ。健全であるということは、定職と家庭を持ち、職場や地域での立場も確固として、中間層市民として余裕があるということだ。一人一人が「わけあり」的存在になり、あるいは「わけあり」に近い身の上で生きていて、周辺他者の不幸に対して、正常な市民的倫理で関心を持ったり、危機や異常の想像力を組み立てたり、救済すべく接触を試みるということができない。失業とか、リストラとか、貧困とか、離婚とか、DVとか、不登校とか、鬱病とか、そういう「わけあり」を抱えて生きている。それと関連して、この悲惨で残虐な事件で感じるのは、例えば、光市母子殺害事件の本村洋とか、栃木リンチ殺人事件の両親とか、被害者の側で、仇を討って無念を晴らそうとする者が出て来ないことだ。真実と正義を明らかにしようとする者が一人もマスコミに出ない。犠牲になった者たちの名誉と怨念を自分が引き受けて立ち上がるという、そういう行動に出る者を見ないことだ。今回の場合、主犯が自殺したため、殺人鬼たちの罪が軽くなり、すぐに娑婆に出る可能性がある。本来、それを阻止しようとする者が現れてもいいのだが、おそらくそういう場面はないのだろう。殺され損であり、殺し得である。同じ事件が再び起きなければいいがと思いつつ、実は同じような事件が密かに頻発していて、警察が摘発していないだけではないかという想像も過ぎる。

平均的な一人一人の生活の基盤が壊され、脆弱になって行くと同時に、社会の倫理も壊され、あってはいけないこと、許されないことが平然とまかりとおり、公共空間でチェックを受けることなく、容認され当然視されて行く。今年、マスコミは橋下徹と石原慎太郎についてそれを続け、年末の総選挙でファシズム党を躍進させた。右傾化とは、社会における倫理破壊の常態化でもある。核武装も、徴兵制も、国政選挙の公約で平然と言われる言葉になり、テレビ空間にそれが飛び出しても誰も違和感を感じるものではなくなった。これまで、自民党の中でタカ派色を売り物とする政治家が出て、選挙でそれをアピールして票を集めるときは、保守的偶像をこよなく愛する中年女性の支持者たちが、集会の前列で日の丸の小旗を打ち振る絵が登場するのが恒例だった。例えば、中曽根康弘、橋本龍太郎、小泉純一郎。今回の選挙では、極右化した自民党の支持者が振る日の丸は小旗ではなく大旗に変わり、右翼が集会で毒々しく示威するサイズと同じになった。さらに、民主党の幹部が街頭演説する場に右翼が押しかけ、嫌がらせの選挙妨害をして、それをネットに動画投稿する行為も茶飯事だった。それに対してマスコミはチェックをかけなかった。おそらく次の選挙では、右翼は改憲に反対する野党候補を襲撃し、暴力事件による選挙干渉が頻発することだろう。マスコミはそれを見て咎めることをせず、日常の風景として流し、護憲などを言えばこうなるのが当然だという態度を決め込むに違いない。

ファシズムの空気への地均しは、NHK(大越健介と三宅民夫)が率先して遂行している。12/22夜に、三宅民夫が司会する選挙後の討論特番が放送されていた。生放送の画面の下側に、視聴者からのFAXやTweetが表示される。番組後半の憲法と国防軍をテーマとした時間中、NHKはずっとネット右翼による過激なTweetを流し続け、NHKの生放送をニコニコ動画と同じものにした。三宅民夫の意図的な演出だ。NHKの政治討論番組が、こうして「視聴者の皆様からのご意見」と称して、局に寄せられたTweetを紹介するときは、必ず準備したサクラを用いるのが通例であり、番組進行中に予定したものを順番に出す。そのため、世間常識から外れた過激で論外なものはオミットされ、NHKの趣旨と台本に沿った穏便な「飾り」が集められる。ところが、この日はそうではなく、猛々しく改憲と国防軍を求めて吠え狂う右翼の声が多数を占める驚愕の状況となっていた。2ちゃんねると同じ世界にNHKがなっていた。すなわち、国民一般の世論はこうなっていると、三宅民夫が狡猾に情報工作していて、改憲を当然視する空気を醸成しているのである。悪質な世論誘導だ。だが、そこから少し踏み込んで考えないといけないのは、安倍晋三の選挙時の公開の場での様々な過激発言である。公示前の記者クラブでの党首討論会では、日教組を口汚く罵って攻撃し、自虐史観だの何だのと喚き散らしていた。選挙で政権を獲得して以降は、竹島の日の公式行事もやめるとか、靖国神社の4月の参拝も見送るなどと言い、姿勢を穏健方向に修正している。

無論、安倍晋三の現在の態度はネコを被っているだけかもしれない。しかし、明らかに言えるのは、選挙中の極右過激発言は集票のためだったということだ。戦略的なものだった。右翼的な妄言をエスカレートさせればさせるほど、票が多く入る効果を知っていて、計算した上で物騒な極右発言を乱発していたのである。昔であれば、選挙でそんな発言をしたら命取りになるとして憚られた極右政策を、敢えて選挙戦で効果を求めて強調して訴求していたということになる。常識が変わったということだ。社会が右傾化しているのである。政治が右翼化を引っ張り、結果的に政治よりも社会の方が右翼化している。そして、マスコミは右翼化した社会に合わせ、そのことでさらに右翼化に歯止めが利かなくなっている。今年の日本のキーワードは右傾化だ。誰が何と言おうと、世界から見た日本の現実は右傾化である。その恐るべき事実を、マスコミもアカデミーも反省的に注視して認めようとしない。自己認識の言葉として用いない。この右傾化は、間もなくファシズム化に変わって行くだろう。来年の年末、日本はどうなっているか見当もつかない。無事に元気で生きているのか、何かの災難に巻き込まれているのか、自分自身の姿さえよく見えない。あの7月の代々木公園のデモの日、灼熱の太陽光線に焼かれながら、瀬戸内寂聴と大江健三郎が「冬の時代」の話をするのを聞いたのを思い出す。もうすぐ暗黒の真冬の時代が来るのだと、大逆事件の時代が来るのだと、そう感じて寒々とした気分になった。瀬戸内寂聴も、大江健三郎も、戦前を知っている者は、そのことを直観していたのだ。

今年一年、ありがとうございました。お世話になりました。来年も同じようなことを書きます。よいお年をお迎え下さい。


by thessalonike5 | 2012-12-26 23:30 | Trackback | Comments(3)
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Commented at 2012-12-26 21:02 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 小倉のゴンギツネ at 2012-12-26 21:10 x
今年一年、貴方のブログ、注目して読んでいました。
結論として貴方は「この右傾化は間もなくファシズム化に変わって行くだろう」と書いておられます。

ですが、そうでしょうか。
本当に冬の時代が来るでしょうか。
大逆事件の時代が来るのでしょうか。

私は、それはありえないと思います。
生麦事件の後は、馬関、薩摩戦争、功山寺決起、鳥羽伏見、東北戦争と考えた方が時代に合うように思うのですが・・・。
まだまだ事は始まったばかりです。

中国革命で言えば、「湖南農民運動報告書」から、「持久戦論」に至る長い戦いです。
ジャーナリストとして、日本の知識人としての、貴方の今年の発言を、本当にありがたく読ませて頂いた。元気づけられまいた。
一読者として心からお礼申します。
来年のご活躍をお願いします。
Commented by タブロウ at 2012-12-26 21:48 x
この一年も、私たちの気がつかない視点とその論拠を読ませていただき、
心から感謝いたします。
記事は常に洞察にあふれていますが、
左右に貼られている写真も忘れられません。
右に私たち日本人が忘れてはならないもの、
左に日本人に必要なものを、常に思い起こさせてくれます。
社会的弱者が埋没するのは自身と周りの「沈黙」によるのだと、
いつも記事とその両側の写真から言われている気がします。
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