新説・日本の歴史第8弾

天皇権を奪おうとした人

横浜市 井上友幸


 今回は、律令制度の頂点にいる「天皇の権力を奪た人」または「奪おうとした人達」についてみる。ただし、この内容は、当方の研究成果とも言うべきものであり、通常の歴史の学説とは違うものである。

(2000年3月1日)

 古代から多くの人が認める律令制度の天皇権とは、以下のようにものである。


1.天皇は、最初に日本国を統一、建国した神々の子孫である。
2.天皇は、外国に対して、代表権をもつ存在である。
3.天皇は、暦、地名を取り決め、神に対する政を行う存在である。
4.天皇は、日本にある神宮、神社(神道)の総統である。
5.天皇は、律令制度の頂点の人である。

 以上が、古代から江戸時代まで続いた天皇権の内容である。このいつくかは、形骸化したものもあるが、おおよそは納得の行くものである。

 古代律令制度においては、天皇の下の皇太子が置かれ、太政官の最高位を占めていた。すなわち、皇太子は、総理大臣であったと同時に、天皇の後継者でもあった。そして、内閣のポストとしては、左大臣、右大臣、大納言、少納言といった順である。(中納言のポストは後でできた)

 大化の改新後、天皇は、孝徳天皇であるが、皇太子は中大兄皇子であった。したがって、改新後は、中大兄皇子が、孝徳天皇の意を酌んで政治を行ったのである。中大兄皇子が天皇(天智天皇)となってからは、大海人皇子が、皇太子になり政治を行ったのである。しかし、天智天皇には、晩年に天皇の位を吾が子である大友皇子に譲ろうと考えた。そこで、新たな官職として太政大臣を作り、大友皇子を太政大臣につけたのである。

 つまり、これまで、皇太子が総理大臣であったが、これ以降は、皇太子は天皇の後継者で、総理大臣は太政大臣としたのである。この段階では、まだ大友皇子を天皇にするには、不十分であったが、これが、当時、天智天皇ができる最大限のことであった。

 大友皇子は、日本書紀では伊賀の采女(うねめ)の子とされている。しかし、これは真実とは思えない。当時、皇子の名は母方の姓を付けるのが一般的であった。仮に、大友皇子が、伊賀の采女(うねめ)の子ならば、「伊賀皇子」名付けるはずである。

 しかし、大友皇子となっているのは、大友氏(大伴氏と同じ氏族)の娘の子だからである。泊村江の戦い以来、力を失った中大兄皇子は、大友氏の力に支えられて政治を行っていたものと思える。その証拠として、当時、近江京あたりは、大友氏の勢力範囲であった。

 したがって、大友皇子が天智天皇の後継者となるのは、当時としては当然だったのである。日本書紀で、大友の皇子を伊賀の采女の子としたのは、母方の生まれが卑しいから大友皇子は天皇になれるような人ではなかったとしたかったのである。こうすることにより大海人皇子が天皇になることを正当化したのである。

 つまり、律令制度の最も重要な部分「だれが政治をするのか」というところが、こうして改定されたのである。これは、父から子へ政権を委譲するための改定であったが、後世、皇室に限らず太政大臣になった人が政治をすることができるという新たな道を作ることにもなった。

 平安時代になると藤原氏の摂関政治が、はじまる。これは、天皇の外祖父が、天皇に代わって摂政や関白が政治を行うといった方法である。この政権奪取方法は、中国や朝鮮でもしばしば見られる方法で、日本特有の政治形態ではない。むしろ、東洋的政治形態といえる。

 これに対して、天皇家では、院政という方法で摂関政治に対抗した。これは、天皇のOBである上皇が、天皇に変わって政治をすると言うのではなく、上皇自身が上皇の権限で政治を行うのである。実は、日本の律令制度では、天皇と上皇が同じ権限を持っているのである。

 中国では、皇帝以外に権力を持つことは許されないが、日本では、持統天皇のときに律令制度が確立したという背景があり、持統天皇の退位後の待遇を考えて上皇も天皇と同じ権限をもつことになった。このことが、院政がおこる法的根拠である。これは、日本特有の政治形態であり、中国や朝鮮にはない形態である。考えてれ見れば、天皇が2人いるようなもので、おかしなことになるのだが、これでも平安時代の末までは、問題なくやってこられた。

 ところが、平安時代の末になると院政が行われ、その上、天皇と上皇の意見が対立するようになると、下々は、どうしていいかわからなくなる。そこで、それぞれの立場や利害から、天皇方につくもの、上皇方に付く者とに分かれ、戦うことになった。 これが、保元平治の乱である。

 このように、保元平治の乱は、院政に対する天皇や藤原氏の反発から起きている。しかも、そのおおもとは、律令制度の不備によるものである。持統天皇への配慮から上皇の権限を強化したことが、結果的に院政が起き、ついには、律令制度の崩壊(実際は形骸化)がおきたのである。こうして登場して来たのが、武家政治の最初の政権を作った平清盛である。

 ――――――――――――――――――――――――――――

  征夷大将軍というポストがある。これは、律令制度の外に置かれたポストと言うことで、「令外の官(りょうげのかん)」と言われている。これ以外に有名な令外の官としては、検非違使(けびいし)がある。(法を違えたものを検査するの意、今の京都府警察署)

 当時は、警察権も軍隊も区別がないから、征夷大将軍も検非違使も軍事に関するポストと言うことになる。このように、日本の律令制度には、軍事に関する規定がない。これが、中国では、左大将や右大将がいて皇帝がこれを統括するということになるが、日本では、軍事に関するポストがないのである。

 これについて、作家の井沢元彦氏は、日本固有の思想「穢れの思想」で説明している。すなわち、穢れの思想によれば、軍事に関することは、穢れた行為であり、そのようなポストを律令体制の中に作ることは、日本人の思考としてできなかったといのである。ところが、実際には、蝦夷征伐をしなければならないし、京都の取り締まりもしなければならないから、征夷大将軍や検非違使といったポストを律令体制の外においたとの説である。

 しかし、私は、この意見に賛成しない。すなわち、律令体制には軍事に関するポストがないのは、中国に対する遠慮だと思っている。つまり、中国へ服従の意を表すため、「日本には、軍事がありません。」としたかったのである。こうして、奈良時代までは過ごして来たが、平安時代になると桓武天皇は、中国への貢物の調達のため、蝦夷征伐を繰り返し行った。

 そのため、征夷大将軍というポストを作り、これを遂行させたのである。そして、中国に対しては「征夷大将軍は、東国の蝦夷を征伐するための軍隊で、あくまで一時的なものです。」という意思を示したのである。これは、今の日本の軍隊を「自衛隊」と呼んでいるのと同じ発想である。また、征夷大将軍に限らず、平安時代の武人は、「健児」と呼ばれたり、「北面の武士」と呼ばれ、その存在が、過小評価するように仕組まれていた。

 当時の征夷大将軍で有名なのが、坂上田村麻呂である。彼は、百済系の武人との説もあるが、戦の仕方から見ると中国系の武人と思われる。(坂上田村麻呂の父も武人であった。)坂上田村麻呂は蝦夷民族の皆殺し作戦を展開した人で、降伏して来ても殺されるものが多かった。

 当時の日本の戦い方は、縄文以来の伝統で、降伏したものは殺さなかった。しかし、坂上田村麻呂は、容赦なくこれを殺害したのである。この戦のやり方は、日本や朝鮮のもではない。漢の劉邦と戦った「項羽」のやり方である。これにより、多くの蝦夷民族が殺害され、悲惨な目にあったことは、言うまでもない。 

 この悲惨さが、後々、東北地方で大規模な祭り(供養祭)を催す原因となったものと思われる。この時期は、征夷大将軍には、朝鮮系の人でも、中国系の人でもなれたのである。後世のように、源氏でなければ征夷大将軍になれないと言ったものではなかった。

 源頼朝が、武家の棟梁として征夷大将軍になったいきさつは、はっきりしない。おそらく、なんでも良かったものと思われる。鎌倉政権にとって大事なのは、頼朝の許可なくして、朝廷からは官位がもらえないくしたことである。これにより、鎌倉幕府は、実質的に日本人の序列を決める権限を得た。

 また、朝廷を脅迫して、全国に(最終的な目標)守護と地頭を置くことにより、朝廷からの派遣官僚であった国司から政治力と徴税権を奪うことに成功した。すなわち、頼朝は、徹底的に律令制度の外で、政治を行ったのである。平清盛は、律令制度の中で政治を行った、また、室町幕府や江戸幕府は、律令制度と独自の制度との組み合わせの中で政治をしている。しかし、鎌倉幕府は、時間の流れと共に律令体制の外で政治をしたのである。
 
 頼朝死後、三代将軍・実朝は、自分の内閣に多くの公家や僧侶を入閣させた。(最大事には20人の内、10人は京都出身の人達で占められた)、このことは、鎌倉幕府を守ろうとする関東武士(特に、三浦氏と北条氏)の受け入れるところとならず、つには、実朝暗殺という事態をまねいた。

 それでも、この時代までは、征夷大将軍の任命を天皇が行うと言うことで、鎌倉幕府と朝廷とは繋がっていた。しかし、実朝、死後は、京都に住む頼朝の遠縁の人を形ばかりの征夷大将軍とし、鎌倉幕府は、執権北条義時により運営されるのである。ここにいたり、日本の政治は、完全に律令体制の外で、行われたと言える。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 さて、歴史上、天皇をなくそうとした人が3人いる。自ら国王になろうとした人が2人、天皇制を無くそうとした人が1人である。前者が足利義満と織田信長で、後者が坂本竜馬である。これらの人々は、偶然ではあるが、3人とも暗殺されている。

 足利義満は、三代目、足利幕府の征夷大将軍を引退してから、すべての官位を朝廷に返上し、自ら中国に使者を送り、「日本国王、源義満」の称号を得ている。私達が、彼の所業を歴史の教科書で教わるのは、ここまでである。ところが、義満は、自分が国王になるためにありとあらゆる行為をした人である。

 特に、目立つのが、朝廷、特に天皇の身近な女性に手をつけ、当時、朝廷の子は、ほとんど義満の子といわれたほどである。特に、有名なのが、「一休和尚」で、彼は、後小松天皇とその妃の子となっているが、実際は義満の子であった。だから、幼少のときから寺に預けられたのである。

 義満は、最後に、自分の子を皇太子にして(形式は、この子は後小松天皇の子)、ゆくゆくはその外戚として権力を握ろうとした。しかし、この夢は、かなわなかった。義満は、立太子式の前日に、急死したのである。後小松天皇にとっては、都合のいい義満の死であった。

 このようなとき、歴史書は、ほとんど、何も書かない。推測すると、天皇方による毒殺ということが考えられる。義満の暗殺は、天皇家としても我慢に我慢を重ねての行為であるが、これにより、天皇家の血筋は保たれたことになる。かわいそうなのは、その後である。義満の子と思われる人々が次々と殺されたのである。(一休さんは殺されていない。)

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 織田信長が、天正10年6月2日、明智光秀によって、殺されたというのは周知のとおりである。(本能寺の変)、ところが、最近では、この造反劇に黒幕がいたのではないかいう説がある。明智光秀が天正9年6月2日で、親族にあてた手紙が最近発見された。これによると、光秀は、繰り返し、信長にお世話になり、感謝していると述べている。

 すなわち、光秀は、本能寺の変の1年前までは、信長に異心はなかったのである。また、徳川家康は、光秀の信長襲撃を予知していた節がある。家康がどのようにして、光秀の信長襲撃を予知したかは不明であるが、本能寺の変当日、家康は堺に居たが、情報を得た家康は、京都を迂回するように「伊賀越え」を行い、岡崎城に帰っているのである。

 このタイミングが早すぎるのである。どう見ても家康は、本能寺の変を予知していたとしか思えないのである。これらのことから、本能寺の変には、黒幕がいると憶測されているのである。

 さて、明智光秀は、なぜ信長を攻撃したのか、これより先、信長は、朝廷に対してすべての官職を辞退している。これは、足利義満が取った行為と同じである。そして、意見の合わない後正親天皇に対して、退位を催促したのである。

 信長は、将軍足利義昭を追放している、比叡山を焼き討ちしている、南紀長島と石山寺の一向宗徒を多数(長島で3万人、石山寺で2万に殺している)殺している。このような武将に対して、当時の天皇や朝廷が震え上がったことは想像に難くない。

 朝廷は、すぐに信長対策を考えたと思われる。天皇家の暗殺の常套手段は毒殺である。しかし、信長は、簡単に毒殺されるほど朝廷に気を許していなかった。その結果、朝廷は、信長の適当な部下をそそのかして、信長を殺させるという方法を考え出した。こうして、連絡を受けたのが、徳川家康と明智光秀である。チャンスは、明智光秀に早く来た。信長から秀吉の毛利攻めの応援に出かれるよう命令された光秀は、そのまま、自軍を京都に向け、信長を打ったのである。

 信長を打ったその後の光秀は、実にのんびりしている。その後は、朝廷からの連絡で、徳川家康や毛利輝元が見方をすると言われたものと思われる。しかし、これらの援軍はなかった。それより、秀吉がいち早く引き返してきたので、光秀は早急にこの対策を講じなければならなかった。

 結果は、うまく行かなかった、だれも味方しなかったのである。朝廷から周辺に勅書がだされた様子もない。ようするに光秀は、朝廷にだまされたのである。彼の運はここまでであった。安易に朝廷を信じたのが間違いであった。

 しかし、朝廷にしてみれば、上出来であった。これで、信長からの脅威はなくなったのである。足利義満のときと同様、天皇家は政敵を暗殺することにより、生き延びたのである。しかも、秀吉が、光秀を倒すとすぐに朝廷の使者が秀吉のところに派遣されている。

 朝廷のこのずるさを、知っていたのは、当時は、徳川家康だけであった。要するに、信長暗殺の密書を受けていた家康は、光秀の行為が読めていたのである。彼が、急いで岡崎城に戻ったのは、光秀の応援軍の催促が朝廷から来ることが予想されていたからである。たとえ、光秀の立場が悪くなっても、集めた兵は光秀討伐軍に変えればよかったのである。

 信長は、朝廷を嫌った。彼の性格からすれば、朝廷は、坊主や神官と同じように見えたであろう。軍事力もなく、生活力もなく、ただ血筋だけで生きている一族は、信長にとって、今川義元以下の存在に見えたのである。おそらく、だれが、天皇であろうと信長は、朝廷と対立し、末はこれを廃止したものと思われる。

 信長にしてみれば、自分自身が天皇のような一歩神に近い存在(安土城では、石を信長の代わりに拝ませたとの記録がある)であり、それ以外のものは必要としなかったのである。

(注意)
本能寺の変に関しては、単独行動説と黒幕説に分かれるが、従前から光秀の単独行動と見る人が今でも多数派である。その理由として、光秀が信長を恨んでいたというもので、(信長が特に光秀を嫌う理由は見当たらない)、光秀の母が人質として殺されたこと、家老の斎藤利三の妹婿である長宗我部元親が信長の征伐の対象となっていたこと、光秀の領国である丹波の国を信長が取り上げたことなどをあげている。 また、黒幕説としては、朝廷説以外に、足利義昭説がある。当時、毛利家に居候していた足利義昭の信長勢力の分断作戦が成功したと見ているのである。

――――――――――――――――――――――――――――

  明治維新の元を築いた坂本竜馬は、江戸幕府なき後は、共和制によって日本を運営していこうと考えていた。諸国から、選出された代表により日本を運営しようとしたのである。そこには、将軍も天皇もいなかった。つまり、坂本竜馬は、天皇制を終焉させようとしたのである。しかし、これは、実現しなかった。坂本竜馬が暗殺されたためである。

  だれが、坂本竜馬を殺したか。これは、今でもなぞとされている。明治になってから捜索プロジェクトができて坂本竜馬暗殺の犯人探しが行われたが、このときには見つからなかった。現在考えられる暗殺者としては、新撰組、見廻組、後藤象二郎、西郷隆盛などの名が上がっている。

 しかし、15年程前、自分の曾祖父が坂本竜馬を殺したとして、証拠の刀と共に名乗り出た人がいた。この曾祖父は、当時、見廻組に属しており、これが事実だとすれば、見廻組の犯行ということになる。見廻組は、江戸幕府の京都所司代の管轄下であるから、坂本竜馬は、幕府により殺されたことになる。

  かりに(歴史を学ぶ者は「仮に」といってはいけないといわれているが、わたしは言います。)坂本竜馬が、生きていたとしたならば、本当に、天皇制は、なくなっていたであろうか。わたしは、なくなっていないと思う。おそらく、また、また、朝廷の暗殺と言う方法で、坂本竜馬とともに、日本の共和制への道は、なくなったのではないだろうか。 

 江戸時代までは天皇は、律令制の頂点に存在していた。明治憲法でも日本の元首として残った。(この点、律令制と変わっていない)しかし、これらの形は、第二次世界大戦の敗戦とともに終焉した。本来ならば、この時点で、明治憲法とともに、天皇制はなくなるはずであった。

 しかし、天皇は、現在も存在する。「日本国民の象徴」という形で残ったのである。昭和憲法(現行憲法)の規定の中で、天皇は、日々存在感を示していると思える。特に、日本にとって、中国と朝鮮の外交に関しては、いい面でも、悪い面でも天皇は大きな影響力をもっている。

  最近、韓国の金大中大統領が、明仁天皇を「天皇」と呼んで話題になっている。日本人からみれば、変な話であるが、実は、韓国では、戦後、天皇を「日皇」と呼んでいた。しかし、昭和天皇が、死んだとき(崩御されたとき)、韓国では、日本の国王に「皇」の字が付くのはけしからんとして、新聞は「日皇」から「日王」に代えたのである。

 韓国人の目からみれば、中国を統治する人が「皇帝」と名乗るのは許せるが、日本の王が「皇」の字をつけるのは、許せないというのである。しかし、日本人から見るとんでもない話である。これは、文字の問題ではなく、中国を中心とした東洋史のなかで、見たとき、「天皇」と「国王」では、大きな違いがあるからである。(この違いについては、省略する)

 仮に、金大中大統領を、日本の新聞が「大統領」は、アメリカの統治者を言うのであり、韓国の統治者を大統領とは言わない。せいぜい金大中「統領」であるとしたら、韓国の人は、不愉快になると思う。これと同じことで、1300年間、日本では、日本国王を「天皇」と言ってきた。韓国の人達も「天皇」と呼ぶべきである。

 これまで、韓国人が「天皇」呼びたくなかった理由は判る。戦前の朝鮮併合に対する腹いせである。金大中大統領は、これに終止符を打つために、あえて明仁天皇を「天皇」呼んだのである。ここ20年の日韓関係をみると金大中大統領のこの姿勢は、おそらく、韓国の国民にも理解されるものと思われる。

以上

メイン・メニューに戻る

ご意見は [email protected] へ