マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

日本人が知らない闇社会

2011年11月09日 14時50分22秒 | ひとりごと
説明しだすと非常にややこしいことになるけど、とりあえず今日からしばらくの間、藤原肇先生の著書「平成幕末のダイアグノシス」(1993年5月初版 東明社)から、その第六章 「アメリカから読んだリクルート事件の深層」をお届けします。
本から手入力で打ち込むため、やや時間がかかり、数回に分けて掲載することにします。

なお、著作権等の問題がありますが、掲載する趣旨は以下の説明をご覧いただければ理解いただけると思い、許可なく転載することにします。
ただし、本人からクレームが来た場合、中止することもあり得ます。

ついでの話ですが、私はシーグレイブ氏のGoldwarriorsとYamatodynastyの翻訳を自分で行い、かつ無料でHPで公開して来ました。もちろん著者に無断でしたことです。しかし、何の抗議も来ないばかりか、出版の関係者からシーグレイブ氏もそれを承知しており、非常に喜んでいたと聞いています。文筆家である以上、自分の書いた記事が広く世間に伝わることは本望であり、必ず著者にも喜んでいただけると信じております。

さて、本文へ行く前に宇宙巡礼というサイトで「記事」をクリックし、「藤原肇・本澤二郎が語る日本の現在と未来」http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/zaikai111102.htmlを読んでいただきたい。

そして、次に宇宙巡礼の掲示板http://jbbs.livedoor.jp/study/2491/のなかの: 「松下政経塾内閣の危険と放射能汚染で破滅に向かう日本」http://jbbs.livedoor.jp/study/2491/#4を見てください。

最後にお暇のある方は、そこの過去ログで「掲示板やHPの維持管理を今後どうするか 考える」(http://jbbs.livedoor.jp/study/2491/storage/1318525859.htmlを見てください。

ここまでお読みいただけば、なぜ私がこれを公開するかがお分かりいただけると思います。

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   第六章 アメリカから読んだリクルート事件の深層

プロローグ 日本人にとってのリクルート事件

仮説としての全体像の構成
 リクルート事件とはいったい何だったのだろうか。事件そのものに多くの日本の政財官界のトップが関与して、平然と背信行為をしていた犯罪性は言うまでもなく、うその証言をした人が沢山いたのにもかかわらず、偽証罪で告発されることも無かったこの事件は、いったい何だったのかと思うと気詰まりな気分になる。
 それにしても、あれだけ日本の報道界がエネルギーを注入したり、一億二千万人の日本人が注意を払って追求したのだから、リクルート事件の教訓が一種の歴史的遺産になっていいはずだが、泰山が鳴動して数匹の子鼠が捕まっただけだから、何が間違っていたらしいという印象が残るばかりだ。
 言論の自由が存在すると考えられている社会では、基礎事実が報道されているという神話があり、日本で活字になったものが事件の全容を伝え、それが犯罪を立証できなかったので仕方がないという態度が、一種の社会的な暗黙の諒解になっている。そして、この基本原理が人々の意識を支配しているために、狡猾な権力者にそれを利用される懸念があり、初期の段階で警察官僚出身の秦野代議士による、もみ消し工作による情報操作が試みられたとか、検察当局がやる気を持っていなかったと伝えられたが、記者クラブの現状からすればありうる形だから、これは心配のし過ぎとは言えないことになる。
 こういった種類の苛立ちを感じることで、不必要なストレスを人生に持ち込むのは、実に愚かなことであり、「あんな不祥事に関わりをもたないで、のんびり瞑想して生きていればいいのに」とよく忠告を受ける。しかし、余計な発言をして権力者に怨まれたり、親しい人に生命の安全を危惧させてしまうにしろ、歴史の証言を残しておくことは一種の義務であるし、歴史感覚疼きがそれをさせるのかもしれない。
 地質のプロとして四十五億年の地球の歴史を扱うし、石油開発の専門家としての修行を通じて、時間と空間を取り扱う訓練を受けている私は、断片的な破片か全体像を組み立てることに慣れている。その結果、国際政治や社会現象を観察する場合でさえ、相似象転換と位相解析を使いこなして、兆候から病理の全体像を診断するのが得意である。
 こうして身につけたダイアグノシスの能力を武器にして、二十年前に石油危機の襲来を感知した時に、私は「石油危機と日本の運命」(サイマル出版会刊)という本を書いたが当時は誰も石油危機の襲来を信じなかったので、パニックが現実のものになるまでは冷笑されたものだ。しかし、造船王国の沈没、鉄鋼産業の低迷、株式市場の暴落などの例をみても、私の予感はその後の時間の経過を通じて、不幸なことに的中しているのである。
 そして今、このリクルートゲートとよばれる疑惑事件の背後に、日本人が気づいていない不吉な影が潜んでおり、未だ光が当たらないまま闇の中に隠れているが、日本の歴史と社会の運命に極めて重大な影響を及ぼす、不気味な始動の始まりを告げていることを感じ取っている。果たしてそれが杞憂であったか否かについては、歴史が証明してくれるに違いないが、取り返しがつかない事態が起きてからそれに気がついて後悔しても手遅れである。
 また、考えられないことを考えつくという所に、戦略発想を持った史眼の輝きがあるとすれば、出来る限り集めた情報源のマトリックスを使い、歴史の場でシュミレーションすることで、意表を突くモデルを取り出すのは価値ある挑戦になる。そして、二十世紀の支配者だった国際石油政治の中に陣取って、戦略思想を磨いてきた私にとっては、このモデル作りはそれほど困難な挑戦ではないと思えた。
 そこで太平洋の対岸のアメリカに陣取って、故国で発生した奇妙な事件を観察した記録を歴史の証言として活字に残すために、ロスで発行されている「加州毎日」新聞の紙面を利用し、一九八八年十二月五日から、一九八九年十二月五日にかけて発表したのである。
 証言としてのリクルート事件の解析の本文に続き、それが佐川事件と同根の構造に由来する点を分析した。短いエピローグから本稿は成り立っているが、その基礎には株と投機をめぐるホワイトカラー犯罪と、世紀末を象徴する倒錯精神の関係を取り出し、それが共に犯罪病理と精神病理にかかわりをもち、しかも、知能犯罪はメタストラクチャーの側面から追わない限り全体像は捉えられないことを証明したのである。

  定説や常識を懐疑する精神
 
 報道が作り出す公認された全体像を通じて、その時代における通説が出来上がりビジョン化した概念を共有しあったものが、ある時代を特徴づける情報空間を構成する。
 だが、公認された定説や通説がどこまで事実の全体を示すかは、多くの疑問が残るところであり、それが単に有力者の見解に過ぎなかったり、単なる一部分が水面上の氷山のように全体だと信じられ、まかり通っているというのは普通である。そして、ありきたりな疑問への考察がなされないまま、定説や通説をそのまま鵜呑みにした挙句に、定説の修正を繰り返すのが世の習いだが、それが歴史の実態であることを叡智ある史眼は知っている。
 常に仮説として立ち現われたものが定説化し、時たま異端者と呼ばれるタイプの人間が出現して、それを否定したり修正を試みる過程で新仮説を生み、その繰り返しを続けたのが歴史の実態である。それにしても、情報化が進んだ大衆社会とよばれる今の時代は、異端の立場に立つ気概を持つ人間の絶対数が、目立って減少していると言えないだろうか。
 異端の説として時代から冷笑されたり、反逆しそうの烙印をおされて指弾されるにしても、主張するに値する仮説を考え続けた人間を、歴史は後になって知識人と名付けてきた。このような知識人の生きざまの外見には、保守と進歩の両面がちぐはぐに現れるが、その動きの方向性は一義的ではない。問題は自分の生との関わりの仕方にあって、価値の根源との結びつきで物事を捉える姿勢と、不易の上に立って流行に左右されない点で、知識人は常に孤独なタイプの人間であった。
 知識人と大衆の問題について思索し、高貴な生とは何であるかを洞察し続けて、生を誠実に生きようとする限り、人は単独行の道を選ぶしかないと結論した。あのスペイン生まれの哲人オルチガ・イ・ガゼトは、「自らを特別な理由づけに基づいて考えて、善いとも悪いとも評価しようとせず、自分が皆と同じだと感じて苦痛に思わないどころか、却って、他人と自分が同一であるということに、快感を感じるような人々の全体が、大衆なのである」と「大衆の反逆」の中に書いている。
 ある事柄を前にして思索と懐疑を行い、自分なりの評価から決断を生みだすという点で、この指摘は知識人の思索体系のモデルだし、その生きざまを方向づける道標の言葉である。
 そんなことに思いをはせると「ロッキード事件で軍用機のP3Cの代わりに、民間機のトライスターに焦点が移されて、しかも、五億円が田中首相の外為法違反に矮小化」したり、「リクルート事件ではスパーコンピュータが介在し、これは主に軍事的な用途に使われるのに、真藤や江副の起訴にはスパコン疑惑には触れず、もっぱら株の問題に矮小化」されているのがなぜか疑問になってくる。
 そこに共通しているのは軍事問題であり、それは六十年前にあった「満州某重大事件」と共通する、国家機関の中枢が関与する重大機密に対して、権力が総がかりで張作霖の爆殺を隠蔽した、あの謀略事件を思い出させてしまうのである。

  ダイアグノシスの重要性
 異常な現象や症状が発生した時には、その治療が可能かどうかにかかわらず、先ずは生理的な情報を集めてマトリックスを作り、それを病理学的な問題として扱うべきかについて、色んな側面から比較検討して判定を試み、ダイアグノシスを呼ばれる診断をするのが、医学における伝統的なアプローチである。
 だいたい、疑獄や政治的な腐敗現象の基本パターンは、社会病理学の問題に属しているから、多様な自然と幅広い歴史現象を下敷きにして、多層構造をもったマトリックスを組み上げれば、「天網恢恢、疎にして漏らさず」と老子が言った、威力のあるスクリーンを作り上げて世紀末の日本を覆うことができるのである。
 特筆に値する二十世紀の異常精神として、全体主義体制の中で暴虐と乱行の限りを尽くした二人の特異な政治家の病跡学的な診断の試みの形で、早野泰造博士は「ヒトラーとスターリンの精神医学」(牧野出版社刊)と題した非常に興味深い本をまとめている。このように日本は優れた精神病理のプロを誇っており、優れたパイオニア的な仕事がなされているので、一九八〇年代についての分析の実現する日が、出来るだけ早く訪れるようにと期待したい。そして、診断を下すという事実がインパクトを生んで、日本文化が内包する自然治癒力を目覚めさせ、病巣の自壊による快癒現象をもたらせれば、治療行為を施さなくても社会の健康が蘇るし、日本列島が健全な生活環境になるに違いない。
 ウィーンの世紀末現象についての記録は、十九世紀の代表的なものとして有名だが、このヨーロッパの辺境の王朝都市からは、異常精神についての分析の大家として、リビドと無意識機制で新時代を築いたフロイトや、エゴによるコンプレックスのアードラーが輩出した。そして、フロイトが確立した精神分析の手法は、まさに意識体系の複雑なマトリックスであり、リクルート事件として姿を現した錯誤行為の断片から、入り組んだジグゾーパズルを組み立てることで、世紀末の病理の検証が可能になりそうだ。
 最終的には、豊かな経験と卓越した手腕を誇る日本のプロの手で、カルテの分析を通じた病跡学的な仕上げが行われて、世紀末としての一九八〇年代が記録されるだろうが、それに先んじた診察と診断のまとめが必要になる。
 そこでリクルートゲートがメディアに登場した、事件の発端でもある一九八八年六月の時点から、東京地検が公式に捜査の終結を宣言した一九八九年五月末までの経過を振り返ると、最初に株にまつわる事件が川崎市で発覚した段階で、一冊の本が犯罪の輪郭と主役の横顔について浮き彫りにしていた事実がわかるのである。

 歴史の証言 リクルート疑惑(その1)

 「罠」を読む
 日本では年間五万点近くの新刊書が出版されるとかで、本屋の店頭は本を求める人で賑わっている。こんな様子を目撃すると、眼光紙背に徹する読書人口も多そうな印象を抱きたくなる。しかし、ある読書子の意見によると「あれは隣の百姓気分がベストセラー作りに貢献しているだけのことで、話題の本に目を通していないと流行遅れになる、という強迫観念を利用した商業主義が、有名人の名前や題名の付け方で勝負しているだけです。動機も目的も金儲けであり、内容的にタイムリーな本が書店にあったり、横積みになっているわけではありませんよ」ということになるらしい。
 内容的に幾らタイムリーでも数年前に発行された本だと、ほとんど誰も思いだそうとしない場合が多いことからして、これは首肯できる好説明である。
 その典型的な例が一九八六年に講談社から出版された「罠」(東郷民安著)という題名の本だ。副題に「殖産住宅事件の真実」とあるこの本のまえがきには「私が本書を刊行した目的は、とくにこれから大企業に成長しつつある未上場会社の経営者諸賢に対する、迂闊にも張り巡らされた罠にまんまとはまってしまった私の苦い経験からの忠告のためである」とあって、まるでリクルート社の現在を予想したような文章が印象的である。
 しかも第三章の「運命の岐路」には新聞記者や東京地検特捜部検事たちに見落とせない、株を使った錬金術の手口が活写されている。
 一一五頁の「会がはじまり中曽根や木部代議士の挨拶が終わって間もなくのことだった。中曽根が、うしろに手をついて体をそらせるようにしながら、顔だけ私のほうにむけて、なにやら小声で話しかけてきた。『今度君の会社は株を公開するそうだね、その機会に、私にひと儲けさせてくれないか。実は今は名前をいえないが、ある有力なスポンサーが金を出してくれると言ってるから、それを使い株式公開を利用して政治資金を作りたいんだ。なんとか協力してくれないだろうかぜひ頼むよ』とか、その一ヵ月後には『このあいだ頼んだ資金造りについて、ぜひとも協力してもらいたい。総裁選ともなると、二十五億円くらい準備しなければならないんだよ』」と言われ東郷民安は「彼が本気で殖産住宅の株式公開を利用して政治資金つくりをしようと考えているのだということを、その時改めて知った」と告白している。そして、一一四頁には、野村証券からの話として、「規定上、個人に割り当てうる最高額は五千株までだから、中曽根先生個人には百万株を割当たることはできない。そこで、表面的には法人割り当ての形をとる必要がある。この形をとって、中曽根先生が資金を法人名義口座に払い込めば、新株式は先生のものになる。そして、先生が時機を見て、それを売却すれば相当の金額を手にすることができる。ついてはそれに必要な法人の名義貸しを殖産住宅の取引関係会社で引き受けてもらいたい」との要請を受けるのだが、ここに二匹目のドジョウをリクルートで狙ったパターンが浮かび上がっている。

  株と秘書名義を使った中曽根流の錬金術

 より意味深長な記述は第四章の「祭りのあと」の」「中曽根の取り分五億円の処置」に書かれている。一四四頁から一四五頁にかけての記述は「十月五日、野村証券から中曽根割り当て分百万株の売却代金が、何の連絡もなく突然、榎本の口座に振り込まれてきた。このやり方は私も首をかしげざるをえなかった(中略)早速、私は中曽根の所に行き、金額の詳しい説明をすると同時に、中曽根に渡せる分(五億円)をどのようにしたらいいのかの指示を仰いだ。『今すぐ必要な金ではないから、君の所でもう少し預っておいてくれないか』この中曽根の返事には私は少々腹が立った。彼が拝むようにして頼んできたので私としても非常に無理を重ねて、やっとここまで漕ぎ着けたというのに、いざ金ができると、このようなそっけない返事である。あまりにも身勝手すぎる話ではないか。『とんでもない。君の金を僕のほうで預かるなどというのはとうていできない』そう言って、私はきっぱりと拒絶した。『そうか。だったら上和田の名で預金しておいてくれないだろうか』上和田というのは中曽根の秘書の名前である」とあり、ここには秘書の名前を使った中曽根流裏金作りと、それまで金にガツガツしていた中曽根が五億円に大喜びしない状況が描かれている。しかし、その翌朝の十月六日には三井銀行銀座支店において、上和田秘書官と日本学術会議事務局長の名義を使った口座が開設され中曽根の政治資金としての五億円は預け入れられるのである。
 この殖産住宅事件と今回のリクルート事件を、青年時代の一時期にフランスに滞在して、レヴィ・ストロース流の神話の構造分析や、ジャック・ラカン流の深層心理の構造解析の洗礼を受けた構造主義者としての私が眺めるならば、状況の背後に潜んでいる基本構造を、疑獄のモデルとして抽出が可能になる。
 東郷民安が五億円を中曽根に渡す以前に、中曽根はその金額をはるかに上回るだけのものを入手済みであり、それは日本のジャーナリズムや検察当局が追求し得なかったロッキード事件にまつわる対潜哨戒機P3Cがらみの収賄であることは、ほぼ確実であると言えるのではないか。二匹目のドジョユを狙ったたけに中曽根は殖産住宅のやり口を繰り返し、構造疑惑の一端を氷山の一角として露呈したようである。
 公判維持のためにはまず物的証拠が必要だ、という先入観に支配された検察当局や事件記者たちは物的証拠という捕物帳レベルの伝統思考のまわりで右往左往しているだけである。しかし、現代における知能犯罪のやり口や国家権力を総動員して役人を手駒のように使う政治業者たちの悪行を、状況証拠の蓄積を突破口にして一掃するだけの気概と勇気を持ち合わせないなら、社会の道義心の低下が経済力を根底から損なう結果をもたらすことを教えている。
 かって伊藤検事総長が「巨悪は眠らせない」という名言でマスコミの拍手喝さいを受けた時に、発言の狙いが中曽根にあると噂されたが、腰の座らない検察当局に対して警察官僚は密かに嘲笑の声を漏らしたと伝えられている。
 検察官たちが検事総長の遺言を看過し「秋霜烈日」ということばを戯れに愛しょうし続けるなら日本列島に生きていく次の世代の多くは、正義とはいったい何を意味するものかについて、まったく理解できない人間になり果ててしまうと思わざるをえないのである。

  倒錯精神の危険

 専制政治というものは全体主義であり、帝国主義、民主主義、社会主義、そして自由主義という好みの名前で幾ら自分を飾りたてようと差異はなく、権力者による専横が続いている限りは基本構造を支配する腐敗体質が政治体制を特徴づけることになる。
 特に日本のように一党による権力支配が四十年以上も永続すれば、幾ら自由や民主を名乗ろうとも悪い風通しの中で支配機構の空気はすえたものになる。そして官僚機構の上層部が供応と共同謀議の慣れでバランス感覚を喪失して放免集団化して、権力の持ち駒として飼いならされてしまうと自浄機能が全く動かなくなる。こうした状況においでは、エリート集団が異常精神の持ち主によって構成されることを人類の歴史は末法時代や世紀末現象として教えているが、現在の日本を支配しているのがこの狂の時代精神である。
 そのことを拙著「アメリカからの日本の本を読む」(文芸春秋刊)の一五六頁から次の頁にかけての部分で「そして今、空洞化する産業界とカジノ化した経済環境の中で狂気と呼ぶしかない(円高)に振り回された日本ではナルシスト集団の饗宴の日々が司祭政治として中曽根時代を特徴づけたのである。国際化への派手な掛け声とは裏腹に孤立化への度合いは強くなり、自閉症的な人びとが好んだエリート主義は自由社会圏における経済競争を激化させたというのが新体制時代顛末である。また、生の様式としての男の友情がひとつの時代精神を構成したこともあり、中曽根首相の私的諮問グループに結集した学者の八割が、倒錯精神によって特徴づけられる人材だったという事実。(中略)さらにこの時期に三島文学に傾倒した外国の文学者たちが大挙して日本にコロニーを作り、友情に結びついた海軍賛歌の静かなブームの中で情念の美学が文学界に浸透した。
 同性愛が時代精神を彩るにしても、このことばは現代最大のタブーである。そうである以上、倒錯精神やナルシズムをキーワードにして世界史や現代史の謎に挑み閉ざされた秘密結社の扉を開く鍵にしたらよい」と書いた。
 現代における最大のタブーに挑んだが故にその頭目から暗殺命令がでるかもしれない、大変きわどい章句を含んだ本書が出版された時、私はちょうど秋の東京を訪れていたが、折しもリクルート事件が燃え上がっていた。そして宮沢叩きがマスコミ界を賑わせていたが、私の読者であるジャーナリストの多くはこの事件の本質が単なる株のバラまきだとは拙著を読み抜いていれば考えなかったはずである。
 先の引用部分のメタファーを一読しただけで、第二臨調や中曽根首相の私的諮問委員グループに結集した異常精神に支配されたエリートたちがリクルート事件に関係していたと予想できる。それも国鉄、日本航空、電々公社などの国有財産を利権化し、鳴り物入りで大宣伝した民活のカモフラージュの陰で収穫物を仲間のうちで分かち合おうとしたときに、川崎市という権力の周辺で発覚した収賄事件の余波から思わぬ疑獄構造が露呈してしまttのだ。また、そうである以上は第二臨調や首相の私的諮問委員グループの顔ぶれが、最終的に企みの配役として舞台に姿を現すことになる。「中曽根ファミリー」(あけび書房刊)に登場する二一四の諮問機関や審議会の顔ぶれを丹念にクロスチェックすれば、その全貌はたちまち明らかになるはずである。
 また、偶然ともいうべきか、私の東京滞在のある日のことだが、親しくしている日本のエスタブリッシュメントの家庭で、禁裏にも近い人を訪問して拙著を贈呈したら、本の内容について話に花が咲いた。中曽根政治と倒錯趣味についての話題になった時に奥方が「そういえば、お友達の家でアルバムを見せてもらっていたら、中曽根さんが長い髪を垂らして女装している写真がありましたのよ。そこで皆で、中曽根さんて変わった趣味をお持ちなのねって噂したんです。それもカルメンのいでたちでして実に板についておりましたわ・・・・」と教えてくれたが「フォーカス」あたりが耳にしたら大喜びしそうな情報だ。
 そういえば、何年か前に「週間朝日」だったじゃ「サンデー毎日」だかの記事で笹川良一が似たようなものを保管しているという発言をしたのを読んだ記憶がある。
 火のないところに煙りが立たないのだろうが、学生時代の仮装行列ならともかく、こういった病理学に属すような良くない趣味を国政のレベルにまで持ち込まれたのでは、一億二千万の日本人はたまったものではない。政界と財界を巻き込んだリクルート事件に関連して、これから次々と姿を現すナルシストたちは、ある意味では気の毒な異常精神の持ち主かもしれないが、こういった腐りきった倒錯趣味や疑獄への不感症を国政のレベルから一掃しない限りは日本に明るい未来は訪れないのではないか。
 私は構造地質学の学位をフランスの大学でもらったが、学士入学した文学部は中退だったし、ファシズムやナチズムの歴史や異常心理について学んだのは、政治学部や医学部のフリーの学生としてだった。それにしても政治の中に異常心理や倒錯趣味が紛れ込むような国がいかに悲惨な結果を招来するかについては、ナチスの歴史を通じて徹底的に学びとったつもりだ。
 そこで提案になるのだが、ロッキード事件やリクルート疑惑の追及を担当する東京地検特捜部の犯罪分析スタッフとして異常心理に精通した精神病理学の専門家を加え、世紀末の日本を地獄につき落としかねないエリート犯罪への対策を整えていただきたい。
 政治家たちの選良意識と倫理感覚がなくなっている以上、もはや歯止めになるものとしては犯罪病理学を徹底習得することと、児童心理学的なアプローチが役に立つと思うからである。

  代議士の分身としでの秘書

 一握りの権力者たちが情報と決済権を独占することにより、国政を政治業化している状態を指して、田原総一朗が「情断」国家と形容した点に関しては彼の「新・内務官僚の時代」に指摘してあるとおりだ。そして、情断化が巧妙に完成した国に、いかにも似つかわしい形で起こったのがリクルート事件であり、これは日本流のインサイオd・トレードがもたらせた大疑獄の氷山の一角である。
 株式の上場を利用して巨大な政治資金を作る錬金術は、中曽根康弘が最も得意にしていたやり口でそれは東郷民安の「罠」という本に詳述されている。そのものズバリの賄賂を受け取ると田中角栄のように収賄罪で御用になるから、コロンビアやシシリー島の犯罪シンジケートの手口をまねて不正に入手した汚れた金をクリーニングするのである。
 また、老獪な政治業者として熟知するノウハウは、秘書をつかってその名義で取引することで、そうすればいざという時に秘書に全責任を負わせて自分は責任を逃れることができる。しかも秘書は雇い人だから使い捨てが可能でいくらでもボロ雑巾のように使ってポイである。
 リクルート株でボロ設けをした灰色高官として、公表されたリストで自民党の重鎮代議士を整理すると、その秘書の使いぶりが次のように歴然とする

  竹下首相関係(元蔵相)
    青木秘書官・・・・・・・・・・・・三〇〇〇株
    福田施設秘書(竹下の親族・・・・・一〇〇〇〇株
  宮沢蔵相関係
    服部秘書官・・・・・・・・・・・・一〇〇〇〇株

  安倍幹事長関係(元外相)
    清水秘書官・・・・・・・・・・・・一七〇〇〇株

  中曽根前首相関係
    上和田秘書官・・・・・・・・三〇〇〇株
    築比地秘書官・・・・・・・二三〇〇〇株
    大田私設秘書・・・・・・・・三〇〇〇株

  渡辺政調会長関係(元蔵相)
    渡辺私設秘書(長男)・・・・五〇〇〇株
  
  藤波前官房長官関係
    徳田秘書官・・・・・・・・二〇〇〇株


  加藤農水関係
    片山秘書官・・・・・・・七〇〇〇株
    加藤私設秘書(次女)・・・五〇〇〇株

ざっとこんな具合であり、国会を舞台に日本の政治業界ではヤクザの世界で子分が親分の身代わりになり、ムショいりするのと同じパターンが出来上がっている。そして税金を払わないでいい濡れ手に粟の黒いカネを求めて、蔵相や閣僚時代に手口をマスターしたホワイトカラー犯罪の名人たちで賑わっている。しかも。竹下首相以下が口裏を合わせたように「違法ではない」とうそぶいているが、「その身を正すこと能わずんば、人を正すを如何せん」である。為政者が政は正であると考えずに政治の要諦を見失い、上に立つものが「してはいけないことは絶対にしない」という倫理観を喪失すれば、これは亡国路線以外の何物でもない。特に蔵相を歴任した渡辺美智雄にいたっては「法に触れていねえことをやってどこが悪いと言ぐのか」とズーズー弁でまくしたて、盗人猛々しい態度で居直ったが、犯罪が実証されて起訴されないならば政治家はどんな破廉恥なことでもやっていい、とでもこの男は考えているのだろうか。

 千里を走る政治家の悪事
  一九八八年八月十日付の「ニューヨークタイムズ」をはじめ「ウォールストリート・ジャーナル」やロンドンの「エコノミスト」誌などは日本におけるインサイド取引を取り上げ「世界の常識からすると収賄なのに、日本では誰も刑務所に行かない」「米国なら即座に首が飛ぶようなことでも日本の当事者たちは悪いことをしたとは思っていない」「収賄した閣僚が誰ひとりとして辞任していない。日本は本当に大国たりえるのか」といった論調で首をかしげている。
 われわれ海外で生活している日本人にとって、日本の汚名は自らのものとおもわざるをえないので、故国のこの醜態と悪評を実に恥ずかしいと感じてしまう。
 日本の政治業者たちは国内のことしか考えないから出来るなら収賄事件を揉み消そうと居直っているが、情報化時代の現在は国内のスキャンダルにとどまらず「悪事千里」で伝わっていくのである。だから国際社会における日本の信用は損なわれ近代国家としての体面は大いに傷つけられたのだから、腐敗行為の責任を取ってケジメをつけるためにも竹下内閣は総辞職して国民の信任を問うべきだろう。
 われわれの祖先が伝えた「恥を知る」人間が内閣にいないが故に、天寿を全うしようとしている天皇でさえ安心して冥界に旅立つことができずに苦痛の中で生命力をすり減らしているではないか。
 拙著「アメリカから日本の本を読む」の中にも書いておいたが、中曽根や竹下のごときヤクザ政治家たちに首相の印綬を帯びさせたことに対して白虹が帝都の上に架からなかったのが不思議でならない。
 拙著といえば私はその中で山田正喜子の「アメリカのプロフェッショナル」(日本経済新聞刊)を講評した時に米国の証券取引委員会(SEC)の問題にふれておいた。そして「粉飾決算、インサイドトレード、株価操作といった日本では日常茶飯事化しているホワイトカラー犯罪は米国では日本で想像できないほどリスキーなビジネスだ。そのベースにはコインの両面である情報公開を、プロフェッショナツ倫理への信頼がバランスを保って共存しているのである。日本にはSECに相当する独立した監視機構が存在せず、そのためにほとんどの会社が粉飾決算に近い行為をやっている。(中略)その結果、株主総会が儀式化してしまい総会屋という珍妙な事件屋が横行する羽目になり政治家と暴力団が結びついて、日本の経済的体質を不明朗なものにしてきた」と書き。SEC的な監視機構の設立が急務だと強調した。それなくしては世界の経済コミュニティのパートナーとして真の信頼に基づく仲間入りはなしえないのである。
 実際、米国のSECは二五〇〇人以上のプロフェッショナルをスタッフにもち、悪質な証券犯罪がアメリカン・キャピタリズムを蝕むのを防ぐために目を光らせている。ところが日本にはSEC的な組織は皆無であり辛うじて大蔵省証券局の数人の役人が、証券市場全般を担当しているにすぎない。そして殖産住宅事件をはじめタテホ科学事件や新日鉄事件とかリクルート事件などのように株を使った悪質行為が野放し状態である。しかも歴代の蔵相経験者がリクルート事件では顔を並べて巨大なボロ儲け話に加わっていたのだ。
 また、NTT株の放出の手口を見ても明白なように大蔵省自体がリクルート社と同罪の違法を試み詐欺まがいの投機的な株式操作を演出して、十兆円近い資金を証券市場から吸い上げ国庫に入れたが、その直接の担当が証券局だったのである。こんな泥棒が十手を預かるような茶番劇をしていたのでは、日本が世界から信用されるはずがないではないか。同じ民活でもブリティッシュ石油(BP)の株式を公開した英国は、利回りが公定歩合に見合うように価格を設定し、しかも公平を期して一回で全株を放出している。
 ところが日本では小出しの公開を大蔵省が行い、その設定価格だと利回りは1%に遠く及ばずこれは投資ではなく信用詐欺の同類だとおえる。仮にNTT株の利回りが定期預金並みならば放出価格は五十万円以下のはずで、この株が世界の投資家に受け入れられるためにはPERから一株十五万円くらいが相場だが、大蔵省は十倍以上も吹っ掛けたのだった。
 アメリカ人のエコノミストの友人は「日本の兜町は株式市場ではなくてカジノだ」と言ったが、私も同じ意見で三流市場のデンバー並だと思う。いずれ東京市場は大ガラに見舞われNTT株も三十万円くらいのレベルで落ち着き日経ダウも三桁台になることだろう。その時に汚れた日本の大掃除をする瞬間だと悟り、西方浄土の方角に立った大きな虹が限りなく透明に近い白光で包まれていると気づいたのではあまりにも情けないといえないであろうか。

今日はここまで、明日また続きを・・・・



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