2011年08月09日

『自主防衛を急げ!』の中途半端


 伊藤貫氏は若手の国際政治アナリストということなのか、最近ちょっと売り出し中の人物である。YouTubeでもしゃべっているのが見られる。http://www.youtube.com/watch?v=mqdPWx6JOjE
 東大経済学部を卒業後、アメリカに留学してコンサルタント会社に勤めつつ25年をワシントンで過ごしたそうだ。

 ワシントンに在住して、アメリカ政府の高官とも知己を得、友人知人に経済や政治に一家言あるアメリカ人とつきあっているという。だからなかなか内情に詳しい。

 私は、伊藤氏のことは日下公人氏との対談本『自主防衛を急げ!』(李白社)で読んで知った。この本はもっぱら伊藤氏がガンガンしゃべりまくり、日下氏は聞き役に徹しているような印象である。

 伊藤氏は日米同盟の虚構をさまざまなアメリカ政府高官の証言(本音)から読み解いていて、それはそれで参考にはなったが、この人はユダヤ国際金融資本によるアメリカ支配、あるいは世界支配という視点が完全に欠落している。

 だから新聞報道の裏側を解いてみせている程度の知識である。日本のマスメディアが報じる世界(アメリカのこと、中国のことなど)は、アメリカ“政府”の本音を知らずに報道している、という、いわば“表”のところでの話に終始している。
 日下公人氏も同じくユダヤによる世界支配を捉えてはいないので不満はあるが、世界や日本を見る目が弁証法的なので、氏の評論はよく読む。

 だが伊藤氏は、例えば日米同盟はアメリカ“政府”が主導していると思っているようだ。表向きはそうだろうが、本当はユダヤ国際金融資本がアメリカ政府を動かしているのである。そこにいっさいの言及がない。
 
 アメリカの歴代大統領だとか、キッシンジャーだとかが世界を動かしているとみている。そうじゃないのに…。

 今回の世界同時株安だって、これはアメリカやEUの政治の失敗によるものではないのだが、新聞は決して、これを裏で操るユダヤ資本のことには言及しない。G7で協調すれば収まるかのような書き方をする。
 こんな騒動はみんなユダヤ金融資本が仕組んだ八百長だとは、絶対に書かない。

 伊藤氏もそういう立場である。世界は今も「バランス オブ パワー」なのだと言う一点張り。バランス オブ パワーは表の顔であって、裏にユダヤ国際金融資本に指が動いていることを抜かしていくら喋っても、それはむなしいだけである。

 だから『自主防衛を急げ!』は読んでいて、いたく退屈であった。伊藤氏はとっておきの、誰も日本人が知らない裏話を自慢げに喋っているが、これでは画龍天晴を欠く、である。

 私は「日本は核武装すべきである。それが戦争抑止力になり、経済的安全保障にもなる」という伊藤氏や日下氏の主張には賛成であるが、日本もアメリカも中国もロシアも、本当はユダヤによって作られて檻の中でにらみ合っているだけなのだという視点がないのがどうしても納得できない。

 鬼塚英昭氏の近著『ロスチャイルドと共産中国が2012年、世界マネー覇権を共有する』(成甲書房)のほうが圧倒的に信用できる。
 鬼塚氏は「この世の中で起きることに偶然はあり得ない。そこには必ず、何かの必然なるものが存在する」としたためている。その通りである。

 今世界を覆っている恐慌は、「国際金融寡頭勢力(金融マフィア)が新しい世界秩序を創造するために、金融崩壊を演出したのである」
 昨日今日の世界同時株安も演出されているに違いないのだ。

     *       *       *
 アメリカは、私たちが今まで教えられていたアメリカとは全く違う国家なのではないのか、ということである。否、これは推測ではないのである。建国以来、間違いなくアメリカを支配し続けたのは、イギリスのロンドン・シティに住みついたロイスチャイルドを中心とする国際金融寡頭勢力である。

 2008年にその姿を見せた「八百長恐慌」により、アメリカのかなりの多数の人々が、自分たちが敗北させられたと考え始めている。誰によってか? アメリカ人にはその姿を鮮明には知ることができていない。内部にいる敵を知るのは難しいからである。

 内部にいる敵は巧妙に姿を隠し続けている。その内部の敵はメディアを支配し、真実を隠し続けている。
     *       *       *


 伊藤貫氏がいくらアメリカ政府の内情、本音に詳しかろうとも、アメリカの真の支配者が誰なのかを解明しないでは、説得力に欠ける。







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2011年08月07日

ツバメと『幸福な王子』

  《1》
 東北の内陸部に在住の方からメールをいただき、近況を知らせるなかに、今年は初めて自宅の軒先にツバメが巣を作ったという話があった。
 
 ツバメが営巣しやすいように、軒先の天井付近に小さな板をくくりつけておいたところ、首尾よくツバメがやってきたそうだ。
 もう間もなく雛が巣立つようで、狭くなった泥の巣から2羽ほどの子ツバメが顔を出している写真が添えてあった。
 
 聞けば今年は東北の内陸ではツバメが多いそうである。どうやら南方から渡ってきたツバメが、例年なら三陸地方へ来て子育てしながらひと夏を過ごすものを、ご存知の津波のためにツバメの営巣する家屋がなくなってしまった。だからツバメたちは、内陸へ移動していったのではないかと地元でも囁かれているそうだ。
 
 たぶんそういうことなのだろう。
 ツバメは原則として生まれ故郷に戻って再び営巣し、子を育てる習性がある。その故郷が壊滅してしまったから、あちこちに散ったのだろう。
 
 実は、私の住む東京でも、普段見かけないツバメを今年は見かけるなあと思っていた。だいぶ以前から東京ではツバメが激減して、めったに見かけなくなっていたのだ。
 東北で営巣することを諦めたツバメが東京にも来ているのかもしれない。
 野鳥にとっても想定外の受難だったのか。
 
 ツバメが営巣した家では、地面(床)がフンで汚れるという。そのわけを観察すると、ヒナがフンをするとき、お尻を巣から出しているからだとわかったということである。
 「その様子を父がビデオカメラを設置して撮影したので、家族で夜の団らんのときに再生して見てみんなでおもしろがっています(笑)」とのことだった。
 
 鳥の糞は一般的に袋(薄い膜)包まれているはずだが…、ひなのうちは親鳥がくわえて巣の外に捨てるためにそういう袋に入っているという説明を読んだ記憶がある。
 そのうち雛が巣立ち近くなれば自力で巣の外へ排泄することができるようになる。
 
 鳥は体の構造上、体重をできるだけ軽くしなければならないので、食べ物が腸内にとどまる時間は短く、糞をひっきりなしに出して、食物や便で体重が増えるのを防止している。
 
 犬でも、まだ目が開かない赤ん坊の子犬の糞は親が食べてしまう。乳を飲ませたあと、親犬はしきりに子犬の肛門をなめて、排便を促し、子犬が便を出すとすぐさま食べるのだ。
 たぶんほかのほ乳類もそうではないか。
巣を清潔に保つためと、匂いで外敵に気づかれてしまうことを避けるためであろう。
 
 
《2》
 私はツバメということ、どうしてもオスカー・ワイルド作の童話『幸福な王子』を思い出す。まあキリスト教の説教くさい話ではあるが、幼児のときに聞かさされたか、絵本を読んだかして感動したことが後々まで残った。
 
 あらすじはこうだ。
 
 ヨーロッパのある街に自我を持った幸福な王子の像が立っていた。両目には青サファイア、腰の剣には真っ赤なルビーが輝き、体は金箔に包まれていて、心臓は鉛で作られていた。王子は街の人々の自慢だった。
 ある晩、冬も近くなってエジプトに旅に出ようとしていた一羽のツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると上から大粒の涙が降ってくる。
 
 王子はこの場所から見える不幸な人々に自分の宝石をあげてきて欲しいとツバメに頼む。 ツバメは言われた通り王子の剣の装飾に使われていたルビーを病気の子供がいる貧しい母親に、両目のサファイアを飢えた若い劇作家と幼いマッチ売りの少女に持っていく。
 ツバメはエジプトに渡る事をやめ、仲間と別れて街に残る事を決意する。
 
 ツバメは街中を飛び回り、そして両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんの不幸な人々に自分の体の金箔を剥がし分け与えて欲しいと頼む。
 
 やがて本格的に冬が訪れ、王子はみすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも次第に弱っていき、王子の像の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れる。
 
 みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外される。溶鉱炉で溶かされたが鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。
 
 時を同じく天国では、下界の様子を見ていた神が天使に「この街で最も尊いものを二つ持ってきなさい」と命じる。
 天使はゴミ溜めに捨てられた王子の鉛の心臓と死んだツバメを持ってくる。
 そして王子とツバメは天国で永遠に幸福になったとさ。
 
 こういうストーリーであった。なかなかヒューマンな話だった。
 けれど 白人の問題は、これが自分たち白人だけ、またはキリスト教徒だけへの「博愛」で、人種が違えば当てはまらないで、平気で腹黒くなれる連中だということである。
 
 だから白人だけがこの「幸福な王子」のようになれる資格のある人種であって、あとの人類は王子とツバメの善意がわからず、ゴミタメに捨ててしまうようなひどい連中なのだ、とこの童話を使ってガキに教えるのではないか。
 
 『幸福な王子』の童話を、あまねく人間全部へ適応される愛の教えなのだと理解するのは日本人くらいだろう。オスカー・ワイルド自身でも日本人のような理解の仕方を想定していなかったのではないだろうか。彼は要するに、こういう温かい心はキリスト教を信じている人間にだけ当てはまる、と考えていたはずだからだ。
 
 幸福な王子の、全身金ぴかで、目はサファイアで、装飾の剣にはルビーが埋めてあって…というド派手な格好は、実は極端な派手で妙な格好を好んだワイルド自身を投影したものだったろう。
 男色で、梅毒で、世界中を放蕩して歩いた変人である。奇行の数々でも有名だった。まあ精神病者であったとも思える。
 
 …ツバメの話からだいぶ脱線した。
 
 


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2011年08月04日

中国新幹線の「阿鼻叫喚」

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」(8月4日付)に、宮崎氏が「週刊現代」に書いた中国新幹線の試乗記に触れた記事があった。
 
      *      *     *
 車内の阿鼻叫喚は凄まじい。怒鳴り合いの会話、携帯電話で大声、イヤフォンをしないでゲーム。となりでラーメンをずるずるすする人。まるで闘鶏場にいるようですが、さて、一番の驚きは何か。中国人は車窓の外を見ないのです。
      *      *     *
 
 民度の低さには目をおおうばかり。これで副島隆彦氏が強要するように中国人と仲良くしろと言われたって、日本人の感情が許さないだろう。
 以前、JALのキャビンアテンダントをやっていた女性が、私の道場にいたので、聞いたことがあるが、上海や大連などの中国路線に乗って勤務するのが憂鬱だと言っていた。
 
 うっかりするとあらゆる社内の備品が持ち去られる。サービス品は際限なく奪っていこうとする。機内を汚し放題にする、とこうだというのだ。
 
 それにしても、宮崎氏が一番の驚きと書いているこの「中国人は車窓の外を見ない」には驚かされる。日本人は車窓の外を見るのが、旅の大きな楽しみになっていて、それを誰も疑わない。伊豆なんかには車内の椅子が全部海を向いていて、景色を楽しみながら目的地まで行くのがサービスになっている例もある。
 
 近年、中国から観光客が大挙やってくるが、いったい彼らは何が目当てでくるのだろう? ショッピングが最大の狙いで、かつ楽しみであるようだが、観光地へ行っても景色を楽しまないのなら、行く意味がなかろうに?
 
 それとも日本へ観光に来ながら、車中やホテルの中で「阿鼻叫喚」を演じることが楽しみなのか?
 富士山をみても、華厳の滝を眺めても、実はみていない?
 
 たいていの人は、東海道新幹線に乗れば、車窓から富士山がみられるかどうかにかなりの関心が向けられるだろう。曇っていて富士の姿が見えないと損した気分になるのが日本人である。
 しかし中国人はそんなことに関心がないのだとは、ただただ驚きである。自分のことしか関心がない。金儲けにならないことには関心がない、ということか?
 
 しかしながら、彼らを毛嫌いしてばかりいてもダメで、研究しなければならないだろう。こういう宮崎氏のような情報が必要である。顔つきが似ているアジア人だから分かり合えるだろうと、はじめから信じてかかってはいけない。しっかりと相手の長所と欠点を冷静に見極めてつきあうしかない。
posted by 心に青雲 at 08:03| Comment(4) | 評論 | 更新情報をチェックする

2011年08月01日

三陸の漁港は甦るか

  《1》 
 毎日新聞2011年7月29日付け夕刊の記事。

     *        *        *
 「浜は甦るか(1) 岐路の三陸漁業  おらたちの漁村なくなる」
 
 過疎化で閉校している宮城県女川町の小学校に22日、町内の漁師ら約130人が集まった。安住宣孝町長と教室の床にあぐらをかいて向かい合い、震災からの復興計画の説明を受けた。「それではおらたちの漁村がなくなってしまう」。漁師たちは口々に叫んだ。

 同町の12漁港は全て壊滅的な被害を受けた。町は全部を復旧するのは無理と判断し、優先整備する「拠点港」の候補を7港に絞った。拠点港周辺の高台に漁村も集約したい考えだ。「漁業はこれからなんぼでも伸びる。そういう考えで復興計画を作ってほしい」。避難先の秋田県から駆け付けたホヤ養殖業者、阿部次夫さん(59)が声を張り上げた。

 平行線のまま終わった説明会の2日後、阿部さんは後継者の長男竜一郎さん(22)と故郷の竹浦に立ち寄った。町の拠点港の候補に、竹浦漁港はない。「ずっと暮らしてきた竹浦で、もう一度漁をしたい」。地盤が沈下し、今も海水があふれる岸壁を見つめた。

 東日本大震災で被災した三陸地方の主産業・漁業。約4カ月半が過ぎても、漁再開のめどが立たない地域が多い。浜の仕事と生活を甦らせるため歩き出しながらも葛藤する漁業者たちの姿を追った。


     *        *        *

 東日本大震災で、漁港が壊滅し、今も港は地盤沈下のため使用できない。そういう漁港がたくさんあるそうだ。
 だから県はすべての漁港を従前のように復旧する財源がないから、いくつかの拠点港にしぼって復興させる案を行政は持ち出したのである。
 その拠点構想に外れた被災地の漁港は、再建を断念してくれというのだ。

 聞くだに辛い話である。できるものなら、誰しもこの行政から再建を拒否された港(記事では女川町)の漁師たちに思いを馳せれば胸がふさがる。
 
 私は復興計画に財源がないから増税しようという前程で、官僚もマスメディアも語ることを大きなまやかしだと思っている。財務省が奇貨居くべしとばかりに増税を民主党に焚き付けているが、本当は有り余る「特別会計」(=役人が好き勝手に使っている闇の国家予算)から出せばいいのだ。
 ところが誰もそんなものはないというような涼しい顔をしている。
 
 特別会計は400兆円以上あるのだ。これを東北の復興に回せば一発で財源不足など消し飛んでしまう。ところがこの期に及んでも、役人どもは素知らぬ顔を決め込む。財源(一般会計)がありませんから、復興計画はこの規模ですなどと…。どれほど非情な輩だろう。

 この女川の漁民も、「漁業はこれからなんぼでも伸びる。そういう考えで復興計画を作ってほしい」などと行政に頼らずに、「特別会計から出せ」と要求することが先決である。民間から奪ったものを返せ、と。復興計画の話はそれからだと言えばよい。
 民主党も「事業仕分け」などと何の拘束力もないパフォーマンスでごまかしたから、こういう体たらくを招いている。


《2》
 ここで話は一転。
 特別会計がなく、本当に財源がないのだとして話を進める。
 拠点港をつくって、漁業を集約しようとする考えの是非に関して述べる。

 日下公人氏が伊藤貫氏との対談本『自主防衛を急げ!』(李白社発行)のなかで、こんな興味深いことを説いておられる。

     *        *        *

 日本人は「日米は同盟国だから非常時にはアメリカが日本を助けてくれる」と思いがちです。しかし、そう思わないほうがいいというのに賛成です。苦戦している友軍は助けに行かない、という戦場の常識があります。日本陸軍にも実例があります。

 映画やテレビ・ドラマを見ていると、「彼らは苦戦しているぞ。それッ、助けに行け!」というシーンがよく出てきます。しかし実際はそんなことはめったにない。稀にみる“美談”だからドラマになるわけで、本当は助けに行かない。助けに行って巻き添えを食らったら、自分たちの命も危ないし、ひいては味方全体の戦力低下につながってしまうからで、「われわれは大苦戦だ。助けにきてくれ!」と言われたら、「いま行く、いま行く! 待っていろ!」というだけで、実際には助けに行かないのが戦場の常識です。

 もちろん、上級司令部が強く命令して応援部隊を結集するときは助けに行くでしょう。しかし、助けに行かないほうが多い。見殺しにされて死んだ将兵たちの声は残らないから、上級司令部は危機に瀕した部隊が全滅したあと、「彼らはじつによくやった」と表彰すれば、それですむ。損害を局限するのが軍隊のマネジメントです。アッツ島もサイパンも硫黄島も沖縄もそうだったのだから日本人はわかりそうなものです。

 「日米同盟」の裏にもこうした“戦場の常識”が横たわっていることを忘れてはいけません。 


     *        *        *

 これは考えさせられる“戦場の常識”である。
 三陸の被災地は戦場ではないぞ、いっしょにするな、という声はあるだろうが、(本当に財源がないとしたらだが)3月11日以前の漁港に戻すことができなくて“苦戦”している状況はきわめて類似していると私には思われる。

 つまり、女川町には従来の漁港をすべて復旧させる財源がない。平等にならしてカネを配れば、どこの中途半端な復興しかできなくなり、「ひいては味方全体の戦力低下につながってしまう」、すなわち三陸の漁業は当分できなくなってしまうのだ。

 見殺しにされる=補助金が出ない漁港にしてみればやりきれないだろう。なんで俺たちだけが貧乏くじを引くのか、差別ではないか、利権がらみではないのか、などと憤懣やるかたないことになろう。アッツ島やサイパン島で玉砕させられた将兵の気持もかくや。
 しかし、どんなに非情であっても、泣いてもらわねばならない漁港が出てくる。
 
 なんとか話し合いで、と戦後民主主義に毒された人たちは「心優しく」主張するであろうが、果たして、それが優しさなのだろうか。共倒れになっても、民主平等で行くのか?

 毎日新聞の記事は、どちらかというと行政のやり方にあたかも批判的であるような姿勢を見せている、外される小さな漁港の気持を踏みにじるなという主張が言外にあるような口吻に思える。ひたすら小さな漁港の漁民に寄り添おうとしているからだ。
 こういうのは卑怯である。

 民主主義で、平等にカネをばらまいたらどうなるかを記事にしないで、気の毒な漁民の主張にだけ加担するような記事を書く。
 それが「それではおらたちの漁村がなくなってしまう。漁師たちは口々に叫んだ。」というとても同情的な書きっぷりに現れている。

 仮に計画から外される漁民の叫びに同情して、すべてを元通り復旧させるためには、全国民からカネを巻き上げてそれを復旧工事に充当しなければならない。増税である。財務省はそれを狙っている。だからマスメディアに(おそらく)指示してこういうカネがなくて東北の漁民が困っているんだぞという記事を書かせる。
 増税に反対すれば、ささやかな三陸漁民の復興の夢が断たれちゃうんだぞと。

 しかし大増税をやらかせば、国民全体は塗炭の苦しみを味わう。消費は落ち込み、不景気になる。仮に三陸の漁港は復興しても消費動向が消えてなくなる状況に追い込まれる。決して恫喝しているつもりはないけれど、増税やむなしとなったら、日下公人氏の説くように「助けに行って巻き添えを食らったら、自分たちの命も危ないし、ひいては味方全体の戦力低下につながってしまう」ことになるのだ。
 日本全体の経済の沈没が起きる。

 だから、女川町の小漁港には泣いてもらわねばならない。このことは誰かが言わねばなるまい。損な役回りだ。末代まで恨まれるかもしれない。
 
 



posted by 心に青雲 at 07:24| Comment(0) | 評論 | 更新情報をチェックする

2011年07月30日

放射能汚染より怖い肉牛の飼育

 
 岡目八目さんがご自身のホームページの「天寿道整復院・らくがき帖」に「放射能より恐ろしい肉牛の育て方」(2011/07/29)を掲載しておられる。以下引用。

      *        *       *

 この放射能騒ぎで、出荷停止措置で出荷予定日を過ぎても出荷できないでいる農家の悩みをテレビで放映されていました。何と出荷予定日に出荷できないと牛はだんだん弱っていって死んでしまうことになるらしい。めいっぱい太らされた体重を支えられずに関節が腫れ、内臓もやられて食べられなくなってしまうのだそうだ。

 つまり、われわれは牛が生きていけないほど目一杯不健康に育てられ、これ以上は無理という限界ギリギリのところで出荷された牛の肉を食べさせられているということである。これが一般的な現代の肉牛の育て方だという。一時的な放射能よりも、こちらの方が問題ではないのか!!


     *         *        *

 「放射能よりも、こちらの方が問題」とはまったくその通りであって、ウシにかぎらずブタもトリも現在売られていうのはとんでもない食品であって、放射能汚染で癌になるよりもこういう人工的につくられた食品を食べることで病気になるほうが、本当ははるかに怖い深刻な問題なのである。
 「出荷予定日に出荷できないと牛はだんだん弱っていって死んでしまうことになる」という事実は知らなかったが、さもありなん。

 全部が霜降りの「高級肉」になるわけでもないのだろうが、畜産家としては、100グラムで何千円もする高級肉をつくったほうが儲かるのだろうから、ひたすら濃厚飼料を与え、ビールを飲ませ、人の手でもみほぐすことをやるのだろう。
 端的に言えば、どれほど自然に反した行為か、である。

 自然に反したことをやらかせば、かならずしっぺ返しは食らう。それが人間や家畜の病気として発現する。
 ただし、放射能も危険は危険だが、生命体は本来放射能をに耐える実力を把持しているのだから、健康体でありさえすれば、放射能に耐える実力が発揮できるから、病気にはならないのである。

 しかるに、人工的に歪んだ飼育方法で育てたウシやブタなどの家畜の肉は、生命体が耐えられる能力を持ち合わせない。
 だから岡目八目さんが説くように、「一時的な放射能よりも、こちらの方が問題」になる。

 霜降りはやわらかくてとろけると言うふれこみなのだが、自然界の哺乳類にそんな筋肉はあり得ない。霜降り肉を見ると、赤身に脂が混ざり込んで、いわゆる「さし」になっている。筋肉(赤身)としてまとまっていないのだから異様である。あれでは動けまい、走れまい、体も支えられまい。
 だからいきおい、牛舎に一生涯閉じ込めて、運動できない状態でひたすら餌を胃袋に詰め込む。成長期の勢いがあって、病気が発現しないうちに大きくしてしまうのだ。
 とても残酷な飼育方法である。

 いずれウシが病気になるに決まっているではないか。それで病気と診断される直前に解体して肉として食ってしまう。あるいは病気予防のために薬をしこたま投与しているのではないか? 鶏なんかは相当大量の薬を食わせて、なんとか出荷まではもたせる。
 筋肉があろうことが脂まみれになって動けない状態=病気になったウシの肉をうまいうまいと言って食うのだから、人間だって病気になる。

 だから、今度の騒動で畜産農家が、「飼っているウシはかわいい、手塩にかけて育ててきて家族同然なんだ」と涙ながらに訴えるニュースの映像を見たけれど、非常に複雑な思いにさせられた。
 「家族のように育てて…」というにしては、なんという残酷な飼育であろうか。それもいずれ肉用として売るのだから、私には割り切れない思いが残る。
 さはさりながら、畜産農家もそれで食っているのだからむやみに非難するつもりはないけれど、霜降り肉を喜んで食べる消費者のほうにも多大な責任がある。
.
 「これ以上は無理という限界ギリギリのところで出荷された牛の肉を食べさせられている」という類似でいえば、フォアグラなんぞはその最たるものであろう。無理矢理ガチョウの胃袋に餌を詰め込んで、胃拡張ならぬ肝臓拡張=肥大にして(つまりは病気だ)、高級食材として食らう。フランスが発祥だ。
 つまりガチョウが肝硬変や肝臓癌になる限界ギリギリのところで出荷するのだ。

 私も昔、ごちそうになったことはあるのだが、「これがフォアグラだよ」と勧められはしたが、気持悪くてならなかった。二度と食べたいと思わない。

 



posted by 心に青雲 at 06:29| Comment(5) | 評論 | 更新情報をチェックする
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