2011年08月24日

開高健、心の闇の正体(3/4)


《3》
 『開高健の憂鬱』の著者・仲間秀典氏は「開高の告白にはまた、西洋近代小説の呪縛と苦闘する日本人作家の姿を垣間見ることができる」と述べている。
 日本の小説家たちも、西洋近代の文学に漂う心の問題について無縁ではなく、ともに悩みを共有しているという認識があるというわけだ。

 やや嫌みな書き方をすると、西洋人が精神病になるほどに悩みを抱えている状況を、日本人作家もいっしょになって精神病になるほどに悩みを抱えこんだのが、明治以降の日本の小説世界であったのである。

 それで。
 仲間氏は、そうした日本文学の事情を開高がそう書いているかを紹介している。

    *       *      *

 少なくとも第一次大戦後の多彩な精力と原理と情熱の噴出ぶりにくらべて第二次大戦後の西洋文学はひどく受胎力や勃起力を失ったように見受けられる。バスに乗り遅れてはいけないと思って私はつぎからつぎへ輸入、翻訳される作品をノミとりまなこで読んできたけれど、感想を野蛮に短くつづめてみると、おもしろくないのである。

 新しい試みだと思わせられるものがあって読みにかかっても、すぐに、ああ、これはいつかどこかで読んだと思ってしまうのである。新しい本を寝床に持ち込んで第一頁を開くときのたのしさ、未知数性だとか、謎だとか、冒険、鮮烈、新しい開花、とつぜん活字の群れのなかに白い窓がひらいて風が吹き込んでくるような感触、あるいはキラキラ輝く暗い淵をいきなり覗きこませられるような不安などをおぼえることがほとんどなくなった。

 本の腰や最終頁の解説文にはおごそかな主張や神話的託宣があふれているけれど、作品そのものは退屈でならない。隙間風がいたるところから入ってきて心を冷ましてしまう。
 (開高健『告白的文学論』)

     *        *        *

 仲間氏は開高の著作からたくさん引用しているが、これだけでも十分であろう。
 開高は「気分的述懐」を延々と漏らしているにすぎまい。引用した箇所を見るだけでも分かるように、文章の絢爛たる修辞と饒舌な物言いには感心するが、いささかも論理的ではないからだ。

 開高は芥川賞をもらった作家としてのデビュー当時、たしかにこれまでの日本文学がいささかもその文章を支えるものが論理性でないことを指摘し、自分は文章を論理が支える小説を書いてゆくのだと宣言したのだった。
 その意気やよしと、私は開高に期待したが…。

 しかし開高は、当時の日本社会というものも、ヴェトナム戦争も、心の闇についても、論理的に捉えることに失敗した。

 そして最後の絶筆となった『珠玉』ではついに好きな愛人に小水をかけてもらう性行為を書いて、自分の文芸の出発点も、また解決を求めて苦闘してきたものは「女だった」と呟いて、それをひとつの到達点であるかにしたためてこの世から去った。
 あんた、それは違うんじゃないの?と私は情けなかった。

 言わせてもらえば、開高がいうところの第二次世界大戦後の文芸が面白くなくなった理由は、もっと論理的に究明すべきであったのだ。
 文学の力が衰えたという事情はいかにもあったであろうが、それを論理的に究明するのならどうしても、弁証法と認識学との研鑽が必須であるのに、開高にそれを教えてやる周囲の文学界は存在しなかった。

 あの読書家としては日本で最も本を読んだらしい、開高の親友だった谷沢永一氏も、完全スルーした南郷継正の著作の中にしか、開高が本当は求めてやまなかった答えがあったのに…。
 
 『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義(4)』(現代社白鳳選書)には、「認識の成立の過程性を説く」として、心理学がどのように人類に誕生してきたか、その発展史を見事に捉えてある。
 ここを真摯に学ぶことのなかにこそ、開高が己が文学の支えとすべき金の鉱脈があったのだ。
 むろん、「“夢”講義」は開高の死後刊行された著作ではあるが、『武道の理論』や『武道講義』の連載なら生前に読めたものを…。

 それからもう一つ。
 これは私の勝手な推測であるが、第二次世界大戦後の西洋文学が面白くなくなったわけは、第二次世界大戦(第一次大戦もそうだが)が八百長の戦争だったことと無関係ではあるまい。
 戦争の論理性が作家たちにはつかまえられなくて当たり前なのではなかろうか?

 例えば、ロスチャイルド家の初代マイヤー・ロスチャイルドの夫人グートレ・シュナッパーはこういっている。
 「息子たちが戦争を望まなかったら、戦争は一つも起こらなかったでしょう」と。
 ロスチャイルド家の初代マイヤー・ロスチャイルドは息子5人をそれぞれロンドン、パリ、フランクフルト、ウイーン、ナポリに配置させて、その国の王権から財政・金融を奪取していった。そのために戦争は引き起こされたからである。

 その根本を抑えない学問も芸術も、すべては対象に肉薄するにあたって隔靴掻痒にならざるを得まい。
 レストランの料理がまずいとすれば、それは第一に経営者の責任であるのに、料理人の腕や素材や食器の善し悪しなどをあげつらってもしょうがないようなものだ。
 
 開高だけではなく、大江も石原も三島も、みんな捉えそこねた文学でしかなかった。作家としては晩年の林秀彦氏だけが、捉えかけたのみである。



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2011年08月23日

開高健、心の闇の正体(2/4)


《2》
 さて。
 本稿を書くキッカケは、仲間秀典著『開高健の憂鬱』を読んだからである。
 仲間秀典氏は公衆衛生が専門らしいが、作家の精神病を扱った『開高健の憂鬱』(文芸社 2004年)をものしている。これは開高の作品からその精神病理を読み解いた著作だ。
 仲間氏の専門が精神医学ではないからかもしれないが、既存の精神科医師らの分析を細かく紹介しているにとどまっているように思える。なぜなら彼もやはり認識とは何かが解けていないからであるが…。

 仲間氏の手法は、「病跡学」というそうで、端的には天才と狂気を関連づけようという試みである。その研究対象に、開高健が選ばれ、縷々作品を取り上げ、さまざまな評論家たちの分析を紹介している。

 しかし、日本の作家たちの多くは、明治以降、どれもこれも精神病に関わる人間ばかりである。夏目漱石もかなり心を病んでいた。胃が悪くなったのは精神的ストレスのせいであろう。芥川龍之介は、自殺にまで追い込まれるほどの病が進行してしまった例である。
 
 どうも一般的に言って、芸術家なるものはみんななにがしか狂気を抱えているものなのではないかという“常識”があるような気がするほどである。
 たとえば絵画におけるゴッホとかダリとか、音楽におけるモーツアルトだとか、枚挙にいとまがない。天才と狂気は紙一重、みたいな言われ方をする。

 芸術家は要するに自己の感覚を至上のものとして、世に問うものであり、その作品が絵であれ音楽であれ文芸であれ、鑑賞に堪え得るものなら、世間の認知を受けることができる。
 それが狂気であっても、鑑賞に堪えさえすれば、「芸術」たり得る。
 そもそも芸術家は(とくに画家と音楽家は)、貴族のお抱えとしてスタートしているのだから、狂気だろうがなんだろうが、パトロンである貴族が満足すれば良かったのであろう。

 文芸の場合も、フィクションはとくに作家の創り話であって、要はありもしない空想をこねくりまわして、本当の話らしく書いているものだから、まともじゃないとは言える。自分が億万長者でもないのに、あたかも億万長者になったかのような小説を書いても許されるのだ。つまりは嘘つきである。それでも鑑賞に堪えれば、世間の評価を受ける。
 すなわち、文芸には根本的に狂気を孕んでいるのかもしれない。

 しかしながら開高の場合の特異性は、その作品が精神変調とリンクしている点にあるのだろう。加賀乙彦氏はこう解説する。
 「躁病性の輝くような、溢れるような緊張感の高い文体で生命の躍動感に溢れた世界を描くと同時に、鬱病性の虚ろな、抜け殻のような倦怠感を基調とする文体で物憂い疲労感に満ちた日常も表現するという、作品群の振幅の大きさ」(「開高健と躁鬱」『開高健 その人と文学』所収)

 冒頭の小説『夏の闇』はまさに鬱の状態をそのまま描いたものだろう。私はそんな鬱のものなど読みたくなかった。躁状態の作品のほうがなんぼも面白かった。
 しかし、その開高文学を、「躁と鬱の両極端があったればこそ、晩年になると珠玉になった」と評価する向きも多かったようである(精神科医・高橋英夫氏)。

 そう言えることもあろうが、鬱状態を凝視し続ける恐ろしさにはいささか辟易を覚える。開高は、小説を書くために自宅に居て座っていると、鬱になってくるから、釣りと外国旅行に出かけることで鬱病の克服を図っていたのはおそらく衆目の一致するところで、 仲間秀典氏も『開高健の憂鬱』で、多くの評者の言葉を紹介している。

 開高自身もあらゆる作品で自分の鬱を告白している。それで稼げるのだから良い身分だといえなくもない。彼はただのお調子者ではなく、元来が内面の苦しみにのめり込むタイプなので、心に奥行きが生まれ、作品にも奥行きが生まれたとは言えよう。
 ただ、その鬱が度を超していると思われる。

      *         *       *
 
 新進作家としてデビューした頃、「たちまちもみくちゃにされるままとなり、三作目の『裸の王様」で芥川賞をもらったまではよかったが、あと『なまけもの』という一作を書いたきり、ひどい抑鬱症に陥ちこみ、ウイスキー浸りとなって、書けないばかりか、肝臓がへたばってしまった』(「頁の背後」『開高健全集 第22巻』)
 
 「何年も以前のことになるけれど、ノイローゼになったのである。これは、はじめのうち、芥川賞をもらってドサクサさわぎに巻き込まれ、書キタクナイ、 書キタクナイ、と泣きつつ局部をおさえて逃げまわっているうちに、半真性になってしまった。

 モノが書けないばかりか、頭もなんとなくかすんでにぶくなり、眠たげな蒙古系の眼をうっすらとひらいて町を歩いていると、いつもあまり明るく見えない世のなかが、なにからなにまでまっ暗に見えてならなかった。神経だけがむやみにささくれだち、つまらないことにそよいで分裂を起こした。」(『食後の花束』)


     *      *     *

 デビュー当時の開高は、サントリー宣伝部の花形社員で多忙を極めていたようで、そこへ望んでなったとはいえ芥川賞作家としての仕事も抱えるようになった。サントリーのトリスなどの宣伝コピー(たとえば「人間らしくやりたいナ」とか)は今日も名作の誉れ高いし、「洋酒天国」の編集者としての腕は今みても抜群だった。
 言ってみれば持て余すほどの才能を絢爛と開花させていたのだ。

 その上に日本文学を背負って立とうかという野望をひっさげて文壇に登場すれば、それこそ開高の言う「もみくちゃ」になって当たり前だった。

 むちゃな生活をしたものだった。緊張と集中がそんなに続けられるはずもなく、食事も不規則で栄養が十分でなくなり、仕事柄酒に浸るチャンスがあるとなれば、鬱に陥ちいるのも当たり前じゃないかと言いたくなる。本当はまず開高は生活過程を正すべきであったのである。
 それを酒に逃げ、愛人に逃げ、グルメに逃げ、海外に逃げ…あげく抑鬱状態になった自分をひたすら見つめてどうする、ということなのだ。

 開高の場合は、真性の鬱となって終生苦しめられることとなったようだが、決して医者にもかからず、薬も呑まなかったという。気力だけで「つきあった」というべきか。
 彼の『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇』の“闇三部作”の「闇」とは、鬱になって見つめる自分の心の闇なのであろう。

 開高は、最後は食道癌で亡くなるのだが、これは酒とグルメの果てであった。外食で、しかも鯨飲馬食ばかりしていたことは、以前のブログで取り上げたことがある。ちゃんとした食事をして、昼夜逆転の乱れた睡眠をやめ、運動を怠らなければ、鬱に苦しむことは少なくなったであろうに。
 





posted by 心に青雲 at 06:59| Comment(2) | 評論 | 更新情報をチェックする

2011年08月22日

開高健、心の闇の正体(1/4)


《1》 
 作家・開高健の傑作とうたわれる小説『夏の闇』にはこんな記述がある。

 「私はすりきれかかっていて、接着剤が風化して粘着力を失い、ちょっと指でついただけでたちまち無数の破片となって散乱してしまうように感じられてならない。いつか女が駅前広場の早朝の酒場で外国暮らしをしていて“人格剥離”が起きるとつらいといったと思うが、私には人格と呼べるほどのものがあると思えないのに、“剥離”だけがひどく感じられる。」

 「気がついたときはいつも遅すぎて私は茫然として凍え、音も匂いもない荒涼の河原にたって、あたりをまじまじと眺めている。そうでなかったら、酒瓶や、皿や、コックの頬肉や、ピカピカ光るガラス扉や、その向こうに見える巨大なビルなどが、壮大で無慈悲な塵芥の群れ、手のつけようのない屑と感じられ、私は波止場におりたったばかりの移民のようにたちすくんでしまう。」

 「子供のときから私は名のないものに不意をうたれて凍ったり砕けたりしつづけてきた。いつ剥離するかしれない自身におびえる私には昂揚や情熱の抱きようがなかった。情熱は抱くのもおそろしいがさめるのもおそろしかった。」

……

 『夏の闇』は、簡単に言ってしまえば、主人公の「私」が休暇でパリに行っている間に、昔の恋人だった「女」とアパートで過ごす一夏のありようを描いている。主人公の「私」はほとんど開高自身を色濃く投射していると見えるが、ほとんどベッドの上で過ごしていて、眠るか食うか「女」と情事にうつつを抜かすかしているという話である。

 こういった記述は、小説(フィクション)とはいいながら、彼・開高の心の状態を描いていると見てよかろう。なぜなら、開高健は釣りやグルメなどのエッセイでもしきりにこういう自分の精神状態について記述していたからである。小説はだから私小説に近くなった。

 私は開高健のファンだったけれど、それは主に初期の「非私小説」つまり「外へ向かって書いた作品」やルポの類いであって、彼がヴェトナム戦争取材以降、内部の己にこだわって小説を書くようになってからのものは評価できなくなった。
 引用したような心の闇を、私は共有し得なかった。

 ずばり言えば、精神病者の繰り言には付き合いきれない、という思いである。
 開高は己の心の闇を、科学的に(医学的に)分析することなく、華麗な修辞の実力で描写してみせた。実に描写の巧みさには感心するけれど、開高のような“人格剥離”などとはこちらは無縁だった。

 その開高の心のありようを、近代日本人の置かれた精神状況と読み替えて評価する向きは多かったのかと思う。だから『夏の闇』が傑作と言われたのだろう。
 文芸評論家の山崎正和氏は、『曖昧への冒険』(新潮社)で、開高の『夏の闇』を日本人の精神史的な観点から捉えて激賞していたけれど、私はあまり共感できなかった。

 山崎正和氏は開高に「なんでヴェトナム戦争に関わって取材やエッセイ、小説を書くのか」と激しく非難していたのに、一転『夏の闇』は絶賛していた。山崎にしてみれば、作家が自己の内面の「なぜ書くのか」を離れたところで、いうなれば自分と関係ない他国の戦争なんかにうつつを抜かしているのは正道を逸していると言いたかったのだろう。戦争を書くのなら記者か国際問題評論家などの仕事じゃないかというのだろう。

 しかし開高は『夏の闇』で自己の内面を凝視した作品をものしたので、山崎に評価されていたのである。開高は「山崎正和の認識論はすばらしい」みたいな感謝の仕方をしていた記憶がある。
 「山崎正和の認識論」という言葉に大変違和感を覚えたものだった。もうだいぶ以前のことになってしまったが…。それは端的には、山崎も開高も、認識とは何かを何も説かずに、それこそ曖昧なままに解釈を重ねていこうとしていたからであった。



posted by 心に青雲 at 07:00| Comment(1) | 評論 | 更新情報をチェックする

2011年08月20日

エチゼンクラゲの怪


《1》
 昨日に続いて、中国関連の話題を。
 昨日紹介した日下公人氏の本から。

     *      *      *
 バイオなどは攻撃兵器にもなる。たとえば、中国から日本を攻撃しようと思ったら、インフルエンザ菌を渡り鳥に乗せて放せばインフルエンザ菌が攻撃材料になる。アメリカに対しても。アラスカ経由で流すことが考えられる。
 これは笑い話や冗談ではなく、中国はそういうことをやりかねない国である。
  (中略)

 2010年はエチゼンクラゲの大量発生がぱったりと止まったが、それは日本の水産業者が怒るので、中国がやめたのではないかとも考えられる。というのは、やめるのは至極簡単で、中国の港の掃除をすればいい。

 実際のところ、中国がわざとやったかどうかは知らないが、港をきれいに掃除すれば大量発生して日本に流れ込んで被害をもたらすことはない。それをこれまでしてこなかったのは、日本に被害が及んでもかまわないという中国側の態度の表れであろう。
 (『2011年〜 日本と世界はこうなる』日下公人著 WAC)

     *      *      *

 日下氏は「インフルエンザ菌」と書いているが、あれはウイルスであって、菌ではない。こういうことは筆者も不注意だが、編集者がフォローしなくてはいけない。

 昨年はエチゼンクラゲの来襲がなかったことは知らなかった。普段テレビを見ないから疎かった。
 エチゼンクラゲは中国の渤海・黄海で発生し、日本に流れつくが、渤海・黄海では漁獲され、食用に加工されている。
 Wikipediaによると、エチゼンクラゲは、ビゼンクラゲに比べて歯ごたえ等が悪く、価格が安い。
 近年、支那から日本に輸入されるクラゲのかなりの部分をエチゼンクラゲが占めるようになったそうで、この背景には「中国国内の活況でビゼンクラゲの需要が伸びていることもあるが、クラゲの質の善し悪しを知らない日本人が多いために、安いクラゲを仕入れて今までと同じ値段で客に出す中華料理店が増えているためとも考えられる」としている。

 ああ、ここでもやっぱり騙しのテクニックと、質の劣化か…。


《2》
 話がまったく変わるけれど、日下さんの話の中にアラスカのことが出ている。
 そこでアラスカに関してちょっとした情報を。
 誰でもアラスカが昔はロシアの領土であったのを、アメリカが買い取ったというのは知っていると思う。ところがなぜ買い取ったかの説明が、例えばwikipedia では以下のように説明している。

     *       *      *
 19世紀後半ロシアは植民を行い、露米会社がアザラシなど海洋動物の毛皮を採集していたが、運送費がかさむこと、乱獲による海洋動物の激減により毛皮事業がなりたたなくなってきたこと、クリミア戦争後の財政難などの理由による資金調達のため、1867年にクリミア戦争の中立国であったアメリカ合衆国に720万ドル(1km2あたり5ドル・計約100億円)で売却された(アラスカ購入)。この交渉をまとめたのは国務長官であったウィリアム・H・スワードである。このことは当時のアメリカ国民から「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたが、その後豊富な資源が見つかったり、アラスカが(主に旧ソ連に対する)国防上重要な役割を果たすことが分かり、現在では高く評価されている。

     *       *      *

 しかし、これは正しくないようだ。
 宗鴻兵(ソン・ホンビン)の『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ』(ランダムハウス講談社)を読んでいて、本当の事情を知った。
 ついでながらこの本は非常に優れたものだ。宗氏は四川省出身で、アメリカ留学をしたのち、本国に帰って証券関連の会社に勤めているらしいが、その人物がどうして? と驚くほど、ロスチャイルドによる歴史の歪ませ方を詳細に語っている。中国では150万部以上を売り上げたそうだ。

 ロスチャイルド家による世界的な金融支配から国家支配にいたるまでの歴史の話から、近年の中国へのロスチャイルド家の支配の過程が述べられ、最終的にいかにその介入を排除するかがテーマとなっている本だ。
 このところ中国人を悪く書いてきたが、何人だろうといいものはいいと評価する。

 ロスチャイルド家の金融支配体制は、初代マイヤーから息子5人を使って欧州各国の国王と関係を結ぶことから始まり、やがて戦争や革命を媒介に、いわゆる情報を素早く取得し利用するシステムの構築と運用により、膨大な資産を手中にしていく。銀行というものを作り、とりわけ国の中央銀行を支配下に置くことによって世界の政治的支配体制を打ち立てた経緯が、述べられている。

 いまだにロイスチャイルドらユダヤ国際金融資本による世界支配を信じない向きはぜひお読みなるとよい。

 それで、アラスカに話を戻すのだが、これはそもそもイギリスがアメリカを植民地として誕生させたところからの歴史をひもとかねばならないが、そこは大きくはしょって、南北戦争の時代に焦点をあてねばならない。
 南北戦争はユダヤ国際金融資本が、奴隷制を争点に戦争が起きるように何年もかけて仕組んだものだった。アメリカを2つに分裂させて、支配しようとしたのが南北戦争の発端である。

 北軍側はご存知リンカーンが大統領で、南軍と戦争状態に入るのだが、当初、ロスチャイルドは南軍に加勢して、カナダやメキシコなどに欧州各国の軍隊を差し向けて北軍を包囲したうえで、北軍(アメリカ政府)にカネを貸さないという手段に出た。
 北軍は戦費に窮してしまう。そこでユダヤ金融資本は、救いの手を差し伸べるふりをしつつ、アメリカの財政機能を一手に握ってしまうよう働きかけるのである。リンカーンはこれに激怒したらしく、ユダヤ金融資本の戦費調達の申し出を断ってしまう。

 それでリンカーンは、政府自身が通貨(金の裏付けがない)を発行して北部の経済状態を好転させ、戦費を調達することに見事に成功する。これを「緑背紙幣」と呼ぶ。
 それまではアメリカは(今もそうだが)アメリカ政府に紙幣の発行権はなかった。

 リンカーンはとりあえず南北を統一したうえで、南部が戦争で作った債務をすべて帳消しすると宣言した。これで、戦争中に南部に巨額の資金を提供していた国際金融資本は莫大な損害を被った。踏み倒されたからだ。
 勝手にリンカーンは、通貨発行権を復活させたのが、ロスチャイルドに逆鱗に触れることになる。ユダヤ金融資本はそれだけは許せなかったのだ。

 だからリンカーンは南北戦争に勝った直後に、ロスチャイルドの手先によって暗殺されねばならなかった。
 北軍の戦費調達方法にはもう一つあって、それがロシアからの借金だった。720万ドルに及んだ。ロシアもユダヤ金融資本の攻勢にさらされていて、ロマノフ王朝のアレクサンドル2世はリンカーンとともにユダヤと戦うことにしたのだった。

 それでアメリカは、アラスカをロシアから買い取ることで、南北戦争における借金を返済したのである。

 宗氏は「アメリカの南北戦争の本質は、国際金融カルテルおよびその代理人とアメリカ政府の間で、国家通貨の発行権および貨幣政策がもたらす利益を奪い合った戦争であった。
 南北戦争の前後百年の間に、両者はアメリカの中央銀行の構築という金融制度上の問題をめぐって、死闘を繰り広げ、その間に7人の大統領が殺され、数多くの議員が命を落とした。
 そして、1913年のアメリカ連邦準備銀行の設立は、国際銀行家が最終的に勝利したことを意味するものであった」と書いている。

 だから本当は、明治の日本はロシアと戦争するのではなく、またイギリスと同盟するのではなく、まだユダヤの毒牙にかかっていなかったロシアと同盟すべきだったのだろう。イギリスこそ、ロスチャイルドの本山だったからだ。まんまと明治維新もユダヤの手でやられてしまった。






posted by 心に青雲 at 07:43| Comment(7) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年08月19日

中国人の買いつけは買い叩くばかり


 テレビのニュースで見ると、震災の影響で一時中国からの観光客が来なくなって、日本のホテルや土産物屋、家電量販店などでは売り上げ激減で困ったそうだが、最近はまた客足がだいぶ戻ってきているようだ。

 日本でデフレになる理由の一つは、欲しいものがないから日本人がものを買わなくなったからである。今夏は節電とか地デジ移行とかがあったせいで、家電はだいぶ売れ行きが良かったそうだけれど、それも扇風機とかテレビとかの一部であって、全体としてみれば欲しいものがないのである。
 それだけ市場が成熟したということだろうか。

 そんななかだから、中国人が大挙してやってきて家電を大量に買いこんで帰るのは、先に述べたようなホテルや土産物屋、家電量販店などは大歓迎であろう。
 だが、これはそんなに良いことだろうか。

    *       *        *

 また、こんなこともある。ある人によると、バブルのころ娘時代から憧れであったカシミアのセーターが買えるようになった。しかもだんだん上等なカシミアのセーターが出てきたが、これ以上は上等にならないと思ったから、デパートの大売出しのときにまとめ買いをしたそうだ。

 「なぜあのときまとめ買いをしたのですか」と聞いたら、これ以上上等のカシミアはもうつくれない、たぶんモンゴル人もこれからはこれ以上働かないだろう、いまがピークだと思ったそうである。

 実際そうだったようで、そのあと出てきたカシミアは値段が安くなったものの、どんどん品質が落ちた。店員が後で「奥さんの言うとおりでした。モンゴルへ買い付けに行くたびに、真面目にやるモンゴル人がいなくなった」と言う。
 
 中国経由でカシミアが入るようになったが、「中国人の買い付けはただ叩くばかりで、叩かれたモンゴル人は、もう良いものはつくらない。だから、いまや上等なものは手に入りません」となっているらしい。
 これはカシミアの例だが、デフレで値段は下がっているかもしれないが、質が落ちているものは、いろいろある。

 (『2011年〜日本と世界はこうなる』日下公人著 WAC))

    *       *      *

 まさに悪しき相互浸透である。
 日本に来る中国人は安い商品を求めて観光地やら秋葉原などに押し寄せては、大量に仕入れていくのだが、これはいっときの好況をもたらすかもしれないが、長い目で見ると決していいことではない。ということを日下公人氏はこのカシミアの例で説いている。

 中国人が通った後は草も生えない、と言われるがごとくである。

 私は東京人なので、どうも大阪の商売が好きではない。大阪のあのなんでも値切り倒す買い物の仕方が嫌いである。大阪には大阪の言い分があろうから、だからといって批判するつもりはないが、私はだいたい言い値で買う、正価で買うことを習慣にしている。

 むろん安いに超したことはないし、多少は安い店を探したりもするが、大阪のような絶対言い値では買わないという商習慣にはなじめない。
 やはり、支那人や韓国人が多いせいかも…と思ってみたりする。大阪にはこの日下氏が例に説いたカシミアのようなことはないのであろうか?

 大阪はかつては一つの経済圏として栄えたはずなのに、近年どうもふるわなくなったのは、なんでも安くすればいい、こちらも値切られるから買うときは最大限根切り倒してやる、というあり方は、商品の質をしだいに悪くすることはないのだろうか。

 私がかつて勤めていた会社では、秋の恒例の社内旅行があった、行くところは毎年決まっていたのだが、年々、出される旅館の食事がまずくなり、貧相になっていくのでおかしいなあ、と思っていた。
 すると幹事をやっている総務の人からこっそり聞いたのだが、ウチの会社は徹底的に値切るんです、というのだ。

 団体なんだからと言って値切る、毎年来ているんだからと言っては叩く、さらには「もうちょっとなんとかして…」となにか理屈をつけて交渉する。だから年々、旅館のほうでも悲鳴をあげ、料理の質を落とすしかなくなる。無愛想になる。
 なにせ社長が関西出身の人で、値切るのが当たり前という感覚であったからだそうだ。

 なにも大阪の人全部がこうではあるまい。損して得とれという人もいるだろうに。
 安くなったから良かったというつもりだろうが、社員にしてみれば、少しも楽しくなく、貧相な料理をうまくない酒で流し込んで、義務みたいな感じで終わるのであった。

 こういう場合、旅館の正価で宿泊し、料理をいただいて、ほめて、感謝して帰れば、翌年訪れたとき、良いサービスをしてもらえる、というようにしたほうがいいと私は思う。そういう心が日本人なら通じ合うはずだからだ。
 ところがこれからの世界では、なんと支那人が跳梁跋扈する世界になってゆくのだ。
 
 世界中が「中国人の買い付けはただ叩くばかりで、叩かれたモンゴル人は、もう良いものはつくらない。だから、いまや上等なものは手に入りません」となってしまうのであろう。






posted by 心に青雲 at 07:05| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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