2011年10月10日

『詩集 病者・花』を読む(2/2)



《2》
 『初学者のための「看護覚え書」(2)』(神庭純子著 現代社)で紹介されている『詩集 病者・花 細川宏遺稿詩集』とはどんなものか。
 著者の細川氏は東大医学部解剖学の教授であった。若くして軍医を務めたあと戦後、東大に戻った。
 詩集は細川氏が癌で闘病中に病室で書かれたものであった。

 では、いくつかの詩を取り上げてみたい。「花さまざま」の中から…。

      *      *      *

つた(せいようきづた)

 湿潤をいとわず
 乾燥に負けず
 陽かげ陽ざしを意に介せず
 ひたすら生き
 まっしぐらに伸び栄えようとするつた
 この一見繊細にして強靭な蔓くさは
 生命の執念の不気味な化けもの

 緑濃いつたの葉の茂みを
 さわやかな風が吹きわたる
 そのそうそうの風音は
 生命の執念の化けものどもが
 いのちの繁栄をたたえる鬨(とき)の声

 生命の執念のつたの茎は
 意志あるもののごとく行く手をまさぐりつつ
 ジリッジリッと触手を延ばして 
 その執念のいとなみを瞬時もやめない

      *      *      *

 神庭氏の指摘するように、「この書から直接に、病んでいる、それも辛くとも耐えようとしている人の心の声が聞こえて」くる。
 建物の壁に繁茂するつたを眺めている「病者」の、その奥にある心の動きが見てとれなければなるまい。
 癌と闘う病床にあって、この詩にはユーモアさえ漂っている。つたの生命力を賛嘆しながらも、自分の命を痛いほど意識している様がみてとれもする。「生命の執念」という言葉は重い。細川氏自身が懸命に生命への執念を把持しなければと決意を固めているのもわかる。

      *      *      *

はなあざみ

 あざみの花は
 ふっくらとベレー帽をかむった
 どこかの国の兵隊さんだ
 腰には葉っぱの短剣
 高い背たけをピンと張り
 ニホンの皆さんこんにちは
 よく見てごらん
 人の顔が一人一人異なるように
 ベレー帽の色や形も
 一つ一つ微妙にちがっているよ
 花だって
 すっかり同じいものなんて
 二つとはないのだね

      *      *      *
 見舞客がもってきた花束が病室に生けてあるのだろう。そのなかのあざみの花を病者は見ている。ひととき、花の美しさや形の面白さに慰められたのだろうが、最後に「花だって すっかり同じいものなんて 二つとはないのだね」と書くことで、病者はふたたび現実の病と闘う自分自身に向き合うのである。

 「花に2つとて同じものはない」とは、何を意味しているのだろう。
 自分の生命は、自分の家族や研究室の弟子やその他の周囲の人たちにとって、2つとしてない、大事性を持っているということを言おうとしているのか。
 それとも、医者や看護婦が患者を一律に同じ病者として扱うことの無神経さに口にはできない悲しさ、無念さを抱いているのだろうか。患者はみんな同じではないのに…ということか?
 看護者はそこがわかっているのだろうか。

      *        *        *

やぐるまそう

 ピンクの矢車草は
 花冠をかむった若い乙女
 青い矢車草は
 花冠をかむった中年の婦人
 そして赤紫の矢車草は
 花冠をかむった老婦人
 三代の女性が集まって
 たのしげに笑いさざめいている 
 その花瓶の周りだけ
 陽の光りがさんさんと明るい

     *         *        *
 
 これも良い詩だ。花瓶に集められた色とりどりの矢車草の花々が見えるようである。だが、大事なことはその「さんさんと明るい」矢車草の花を見ている病者の視線であろう。彼は矢車草の花に何を見ているのだろうか。三代の女性という言葉から、自分の家族のことを思っているのだろうか。自分が留守にして家族に心配かけていることとか、万一自分が死んだら遺された家族がどうなるのかとか、自分が死んだあとでも家族たちはやっぱりこんな花のような明るい団らんのひとときを持つのであろうかとか、…そんなことをクシャクシャと病者はつい考えてしまうものだろう。

 「矢車草が笑いさざめき。陽光が明るい」と書きながらも、そうしてひととき明るく和みながらも、病者の心は救いを求めているのだということを、看護者はわからねばならないということだろうか。

 もう一つ、これは思いを花に託している、というよりももっとストレートな表出の詩である。「胸の水」としてくくられた詩群のなかの一つ。

     *         *        *

しなう心

 苦痛のはげしい時こそ
 しなやかな心を失うまい
 やわらかにしなう心である
 ふりつむ雪の重さを静かに受けとり
 軟らかく身を撓め(たわめ)つつ
 春を待つ細い竹のしなやかさを思い浮かべて
 じっと苦しみに耐えてみよう

     *         *        *
 細川氏はこの詩をつくってから、ひと月ほどして亡くなるのである。癌末期で胸に水がたまり、大変苦しんでいる最中の思いを綴っているのだ。
 誰しも苦しむことなくポックリ死ねればと願うものだが、なかなかそうはいかないで、死ぬ間際まで苦しんで逝く。だからこうした詩は人ごとではない。自分もいつかは…と思うし、また家族や友人のこうした場面に横着することもまたあろう。

 そのとき、自分の心をできるかぎり平静に保ったり、病者を傷つけないために、こうした先人の書きとどめた心のありようをしっかり学び、生き方、接し方を間違えないようにしたいと思う。

 神庭氏は、昨日引用した文章のあとに続けて以下のように書く。
      *        *        *
 あなたには、とぎすまされた神経を襲う苦痛にじっと耐え忍んでいる病む人の心の状態が感じられることと思います。
 ベッドの周りの怪物にあざけりいたぶられる苦痛に耐え続けている病む人の心の痛みが見えてきて、起きている時も寝ている時でさえも悪夢として見えない何かに脅かされている、このような病んでいる人を前にした時に、看護者としてどんなふうに存在していたいあなたでありたいと思えてくるでしょう……。


     *       *       *

 神庭氏は前回引用した文章で人間の心は「分からない、にもかかわらず分からなければならない、分からないからこそ、分かろうとしなければならない、ということ」としたためている。
 そのとおりに、細川宏氏は遺稿詩集で、後進の私たちにこの詩を読んでわかろうと努力しなさいと語りかけているのである。





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2011年10月08日

『詩集 病者・花』を読む(1/2)


《1》
『初学者のための「看護覚え書」(2)』(神庭純子著 現代社)が上梓された。
 「まえがき」にはこうある。

      *       *       *

 このように人生を支える具体的な現実の生活に活かすためにも、『看護覚え書』にしっかりと学んでほしいのですが、実はナイチンゲールの言葉を読み取るには読み取るだけの基本の学びの過程が必要なのだ、ということを指摘したのが第1巻の内容でした。
 すなわち、ナイチンゲールの『看護覚え書』を読むには、読めるだけの実力を養成することが必要であり、そのために、まずは「看護のための教養編」として、弁証法や認識論、一般教養の大事性について説いてきたのです。

 第2巻では、それをふまえて、ナイチンゲールの文章をどのように読み取ったらよいのかということを、『看護覚え書』にそって現代の視点から説いていきます。具体的には生活過程の構造論に関わる内容を読み取っていきます。
   (中略)

 どの章においても、ナイチンゲールの言葉を単にその言葉から考えるのではなく、ナイチンゲールはなぜそのように説いているのか、説くことができたのかと、彼女の認識の背景にあるものを読み取り、また、それが人間の生活にとってどういう意味を持っているのか、ということから説いてきていることに読者のみなさんは気づいてほしいと願っています。

 すなわち、人間にとって食事とは、空気とは、住居とは……といった人間の生活にとっての意味を「いのちの歴史」にさかのぼり、また人間ゆえの「認識」に着目して説きおこしているのです。言葉を換えれば、本書は、いのちの歴史(弁証法性)と認識論の基本を基盤にして、看護のための生活の「実践編」として説いているものであるといえます。


      *       *       *

 私はまだ入手して一通り読んだだけだが、神庭氏の言うとおり、「ナイチンゲールの言葉を単にその言葉から考えるのではなく、ナイチンゲールはなぜそのように説いているのか、説くことができたのかと、彼女の認識の背景にあるものを読み取り、また、それが人間の生活にとってどういう意味を持っているのか、ということから説いてきていること」に感嘆させられた。
 これが学問的に説く(解く)ということか! と。

 しかし、それがわかるには、これまた神庭氏が言うように、「ナイチンゲールの言葉を読み取るには読み取るだけの基本の学びの過程が必要」なのであり、
「読むには、読めるだけの実力を養成することが必要」だと分からされる。そして「そのために、まずは弁証法や認識論、一般教養の大事性」が“まえがき”で説かれているのである。

 ついでながら、このことは天寿堂ホームページでの管理人氏と有象無象との“論争”にも当てはまるのである。管理人氏(愚案亭主)が「なぜそのように説いているのか、説くことができたのか」が読み取れないで、儚い既存の「学説」の知識ばかりを振りかざしてくる輩…。管理人氏の「言葉を読み取るには読み取るだけの基本の学びの過程が必要」なのに、それをしないでイチャモンばかりつけてくる輩には、いくら口を酸っぱくして管理人氏が説いても理解できない醜態をご覧になればわかるであろう。

 「読み取るには読み取るだけの基本の学びが必要」とは、まさに金言である。基本の学びを蔑ろにして、わかったつもりになっている人間のいかに多いことか。
 ところが、この点に関しては、私たちは受験国語の実力で読んでしまう(読めてしまう)という「基本の学び」を小学校から大学までやってしまっている。だからその国語力、もっと狭くは読解力でできていると思ってしまっているのである。だから「そのために、まずは弁証法や認識論、一般教養の大事性」ということが、上っ面でしかわからないのではないか。

 そんななか、天寿堂では来年1月から再び新たに弁証法の講座を開設されるという。「弁証法講座第弐期生募集!」とある。下記のアドレスで確認されたい。
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=tenjumichi&mode=res&log=159

 弁証法はほとんどの大学で教えてはくれない。三浦つとむさんの弁証法の本で独学できないことはなかろうが、ほとんどの人は失敗したのである。だから最良の指導者について学ぶのがベストの選択である。
 自分のアタマの実力を今よりも1ランクも10ランクも上げたいと望むなら、ぜひに天寿堂の講義の門を叩いて弁証法の学びを!と願っておきたい。

 さて、話を戻すけれど。
 『初学者のための「看護覚え書」(2)』のなかにある詩集が紹介されていた。『詩集 病者・花(細川宏遺稿詩集)』(現代社刊)である。

 その紹介箇所を引用させていただく。「病む人の思いを理解するために」という箇所からである。
       *       *       *

 しかし、本当の意味でナイチンゲールが指摘しているような、慢性期のベッド上での単調な生活を強いられている病む人の感情そのものは、決して分かりえないといえます。

 なぜなら、本当に体験した人でなければ分かりようもない、ということでもありますし、その感情像は一人一人異なることでもあり、しかも時々刻々変化しているからでもあるからです。さらに、その感情像は脳の機能であるだけに、それをその人のアタマの中から直接にとりだしてきて他人が見ることは当然にできないことであるからでもあります。

 しかし、看護者であるからには、そこを分からなければならない、一人一人身体の病みの質も心の痛みの深さも質も全く違うから、とうてい分かりえない、しかし、それにもかかわらず分からなければならない、だからこそ分かる努力が必要である、ということなのです。

 端的に言えば、分からない、にもかかわらず分からなければならない、分からないからこそ、分かろうとしなければならない、ということです。分かったつもりでは、絶対に分かりえない、それが看護の対象である一人一人の人間の認識なのだということなのです。そここそが看護の出発点だと思うのです。

 それでは、病んでいる人の思いは永遠に分かることはない謎なのでしょうか。どうにかして分かることはできないのでしょうか。病んでいる人の思いに少しでも近づくことはできないのでしょうか。そうではありません。分からないからこそ分かろうとして関わる、ということを通して、その人の思いに近づくことができるのが看護者の力だといえるのです。

 そうした病に対する心の内なる思いを病む人の語りや書物に学ぶことで、病む人に観念的に二重化し、追体験することが可能である、そういうのも人間の認識の特徴の一つなのですから。
 ここでそのヒントのために、病んでいる人の声に耳を傾けるために『詩集 病者・花 細川宏遺稿詩集』をご紹介しましょう。この書は、細川氏が闘病生活の中で書き記した詩や随筆がおさめられていて本当に心をうたれるものです。とてもすばらしい書ですので、みなさんには、ぜひとも手にとってこの書から直接に、病んでいる、それも辛くとも耐えようとしている人の心の声を聞いてほしいと願っています。

     *        *       *
 それではこの詩の紹介は来週月曜日に。




posted by 心に青雲 at 08:01| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年10月05日

「ヘイジュード」の不思議な歌詞



 ビートルズはイルミナティがデッチあげて、グループサウンズの先駆けとして世に登場させ、大流行をつくりだしたものであった。鬼塚英昭氏の『20世紀のファウスト』によれば、彼らは楽譜も読めず楽器もいじれなかったチンピラ連中で、むろん作曲なんかできようはずがなかった。
 すべてイルミナティがお膳立てしたのである。

 なぜか? 
 それは世界の若者を麻薬漬けにし、退廃的な文化を受け入れさせるためであった。人類の文化の破壊が目的であった。

 私はいわゆる広い意味で「ビートルズ世代」といわれるジェネレーションに属するらしいが、ただの一度もあれらの曲を好きになったことがない。むしろ嫌悪してきた。だからビートルズにいかれた同世代の友人たちと相容れなかった。

 ところが最近、ひょんなことから、ある人からユダヤ問題の権威というべき宇野正美氏の講演の動画を教えてもらって、見る機会があった。いくつか見るうちに「アセンションか?アウシュビッツか?」と題する講演の動画に行き当たった。そしてその2つに分かれた動画のうち、(2/2)の、宇野氏の講演が終わったあと、いくつかの音楽が流れる。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13393419

 そのなかにビートルズが演奏する「ヘイ・ジュード」があった。動画の中では6分8秒〜9分56秒の間である。
 「ヘイ・ジュード」("Hey Jude")は、1968年8月にビートルズが発表した18枚目のオリジナル・シングル曲であった。これまでなにしろ私はビートルズが大嫌いなものだから、まじめに聴いたことなどなかったが、この宇野氏の講演のあとに、おそらく投稿者が挿入したと思われるものには目を見張った。歌詞に、ではあるが…。

 宇野正美氏は反ユダヤ、反フリーメーソンの立場の論者であり、この講演でもナチスによるユダヤ人600万人虐殺はなかったという正論を述べておられる。ユダヤといっても、真性のユダヤ人(スファラディ)ではなく、いわゆるアシュケナージ(偽ユダヤ)と呼ばれる白人系のカザール人の子孫が、フリーメーソン・イルミナティを結成して世界を混乱に陥れ、人類に塗炭の苦しみを浴びせている張本人だと指摘している。

 そうした内容の講演の後に(宇野さんではない誰かが)挿入した曲が「ヘイ・ジュード」であった。
 この曲は、巷間、ジョン・レノンが当時の妻と破局が決定的になった頃、彼の長男ジュリアン(当時5歳)を励ますためにポール・マッカートニーが作ったとされている。作曲した…は怪しいものだが。

 したがって、「ヘイ・ジュード」の「ジュード」はユダヤ人(Jew)のことではなく、息子のジュリアンのことだとされてきた。だが発音がそっくりである。
 名前がJulianなので、最初"Hey Jule"としていたが、あるとき"Hey Jude"の方が響きがいいのでこれにしてしまった、などという伝説になっているそうだ。

 しかしながら、ドイツ語ではJudeはユダヤ人のことだし、英語では俗語で「ヘロイン」を意味するとか。本来はヘロインを想像させるための歌なのだろう。だからいかようにも解釈できる歌詞なのだそうだ。5歳の子に向けての慰めの歌(曲)とはとうてい思えない。

 では実際に歌詞を見てみよう。
 「すてぃまろ庵」というブログの方が訳しているのを拝借する。

     *       *      *

「ヘイ・ジュード」和訳歌詞

ヘイ、ジュード 落ち込むなよ
悲しい歌も少しはましにできるさ
彼女を君の心に受け入れるのさ
その時 全てが良い方向に向かいはじめるさ

ヘイ、ジュード 恐れるなよ
君は出て行って彼女を手に入れる事ができるさ
彼女を君の心に受け入れるのさ
その時 全てが良い方向に向かいはじめるさ

そしてどんなにつらい時でも
ヘイ、ジュード 思い出して
全てをひとりで背負い込むことはない
君はクールを気取っている奴は馬鹿だって知っているだろ?
それは人生を少しつまらなくするだけさ

ヘイ、ジュード がっかりさせるなよ
君は彼女を見つけて手に入れる事ができるさ
彼女を君の心に受け入れるのさ
その時 全てが良い方向に向かいはじめるさ

全てを捨てて全てを受け入れろ
ヘイ、ジュード はじめよう
君は誰かが助けてくれるのを待っている
でもそれは君がやるべきことなんだ
ヘイ、ジュード 君ならできるさ
君に必要なことは君にしかできない

ヘイ、ジュード 落ち込むなよ
悲しい歌も少しはましにできるさ
彼女を君の心に受け入れるのさ
その時 全てが良い方向に向かいはじめるさ 

    *       *      *
 と、こうなのである。まあ一般的にはこんな感じで受け止められているのだろう。それに対して、宇野氏講演会動画に挿入された「ヘイ・ジュード」はまったく違い、もろにユダヤ問題を扱っているように見えるからすごい。
 原文とその下に、その訳を入れてみる。かなり意訳ではある。

    *       *      *

Hey Jude don't make it bad
(なあ、ユダヤ人達よ。悪いことばかり考えるなよ)
Take a sad song and make it better
(自分達を悲劇の被害者として立場を良くしてきたけれど)
Remember to let her into your heart
(人間としての真心を思い出してくれ)
Than you can start to make it better
(それで地上の悲劇が終わり、全てが良くなっていく)

Hey Jude don't be afraid
(なあ、ユダヤ人達よ。怖がらないでくれ)
You were made to go out and get her
(君たちの方からみんなに歩み寄るんだ)
The minute you let her under your skin
(ゴイムなんて言葉は捨てて 誰をも人間として認めた瞬間から)
Then you begin to make it better
(君たちが人類の歴史を好転させられる)

And any time you feel the pain, Hey Jude (Refrain)
(「度重なる迫害の歴史」「繰り返したくない」って言うけれど ユダヤ人達よ)
Don't carry the world upon your shoulders
(ザイニチみたいなこの被害者特権意識の世界観を背負い続けるのはもうやめれば?)
For well you know that it's a fool who plays it cool
(君たちは愚かさとは何かを知っているだろう? クールにスカしている奴)
By making his world a little colder
(そんな世界を見下した奴らが世界を凍らせているんだ)

na na na na....

Hey Jude don't let me down
(なあ、ユダヤ人達よ。がっかりさせるなよ)
You have found her now go and get her
(もう気付いているはずだ、後は実行するだけだ)
Remember to let her into your heart
(人類全てをハートで受け止めるんだ)
Then you can start to make it better
(そうすれば全てが良くなるスタートを踏み出せる)

So let it out and let it in
(世界に投げかけたものが違ってくるのさ)
Hey Jude begin
(なあ、ユダヤ人達よ。はじめるんだ)
You're waiting for someone to perform with
(誰かの助け舟を待っているのかい?)
And don't you know that it's just you
(いや、君たちからしか始めようがないんだよ)
Hey Jude you'll do
(ユダヤ人達よ。出来るさ!)
The movement you need is on your shoulder
(今、この瞬間に君らの肩に全てが掛かっているんだ)
Na Na Na Na ...

Hey Jude don't make it bad
(なあ、ユダヤ人達よ。これ以上悪化させてはいけない)
Take a sad song and make it better
(すべての悲劇は好転できるのさ)
Remember to let her under your skin
(さあ、全人類を同格として迎え入れるんだ)
Then you'll begin to make it better better better
(君たちの一歩が世界をより良く、より良く、より良く 変化させられるんだ)

na na na na na na na... Hey Jude...

(Repeat As mant times as needed)

     *      *      *

 これは当然、ビートルズ自身が作詞・作曲してはいまい。楽譜すら読めなかったというのだから。ビートルズを操ったイルミナティが、若者を退廃的気分にさせ、恋愛にうつつを抜かさせ、ヘロインを吸わせる目的でつくった歌だったはずなのに、原詩をつくった誰かは、もしかすると裏的に聴けば反ユダヤともとれる歌詞を忍ばせたのかもしれない。

 そう捉えると、にわかにこの歌が悪くないように感じられてくる。




posted by 心に青雲 at 07:12| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年10月04日

丈夫な野菜


 先月の20日前後だったか…台風15号が変な動きをしながら近畿、東海、関東、東北を広範囲に襲って、長雨を降らした。
 その動きは
 http://www.imocwx.com/typ/tyani_15.htm
 で見られるが、なぜ「変な動き」と言うかというと、妙に直線になっているからだ。
 その前に来た台風12号も、妙に直線的に北上した。
 http://www.imocwx.com/typ/tyani_12.htm

 いずれも人工的に進路が操作されているような印象を受けた。

 それはともかくとして、長雨が続いたせいで葉もの野菜が品薄になり、価格が高騰した。とくにレタスなどはスーパーマーケットに買いにいくと、とても小さくなり、葉が腐ったりしていて、買おうかどうしようかと迷うような状態になっていた。

 テレビのニュースで取り上げていたが、長雨で土に水分が充満してしまい、根が空気に触れられなくなって呼吸できなくなり、腐ってきたのだという。また強い雨が直に葉っぱにあたり、そこから腐っていく病気が生じた、とも言っていた。

 たしかに長雨で土が水に漬かってしまうこと自体は、植物にとって歓迎すべからざる事態ではあろうが、ちょっと待てよ。野草、雑草はその程度の長雨で腐ったり、枯れたりしていないじゃないか。
 
 レタスやホウレンソウなどが、あの程度の雨で腐ってしまい生育が悪くなるとは、あきれた栽培の仕方と言うべきなのではないか。消費者が、形の良いもの、柔らかいものを嗜好したせいで、農家が迎合してひ弱な、手をかけないと育たない異常な野菜をつくってきたせいであろうか。

 また。
 台風12号では、奈良県や和歌山県などの山間部に被害が集中した。十津川村では土砂崩れが起きて、川がせき止められダムが出来てしまったり、洪水で家屋や橋が流されるなどの大被害が出た。今も土砂ダムの決壊が心配されている。

 台風などの大雨で土砂崩れ、土石流が起きるのは、おおむね人工的に川を改修したり、鉄道や道路を通すために山を削ったりした箇所である。つまり土台を弱くされた所が、大雨に耐えられなくなる。
 何百年も何千年も自然のまま、という山や谷では土砂崩れはまず起きない。人間がいじるから弱くなり、歪んでくるのだ。
 さらに弱いからといって、土木補強工事をやればやるほど、もろくなる。

 話を野菜に戻せば。
 野菜を畑で栽培するというのは、そもそも地球への反逆であり、よほどうまくバランスをとって農業をやらないと、野菜はひ弱になり、大地も歪んで災害を招きかねなくなるのである。
 だから少々の長雨で、野草は元気なのに、野菜は腐ってしまうということが起きる。

 そこで農作物を元気にかつ商品化すべく育てるには、窒素、リン酸、カリウムの三大肥料ばかりを土壌にぶちこむことにあいなる。これがまた土壌をゆがめ、弱らせていき、病虫害を受ける仕儀となり、大量の農薬を注ぎ込まねば済まなくなり、その結果さらに土壌が弱ってしまう。

 こういうザマだから、少々の台風や梅雨などの大雨で、野菜が育たなくなり、品薄になってしまう。
 先の土砂崩れなども、人工的に土木工事をやりすぎたせいであるのと同様であろう。これでもかと手をかけるほどに大災害を惹起してしまう。

 現代の、農水省や農協が推奨する農業は、肥料や農薬で儲けるための農業であるから、野菜は栄養価が低くなり、味わいも乏しく、ひ弱である。
 土木工事も、一応自然災害を防止するための計算はしているだろうが、工事で儲けるための「公共工事」であるから、土地がひ弱になるのだと思われる。

 中嶋常允(なかしま・とどむ)氏の『食べもので若返り、元気で百歳』(地湧社刊)を読んでいたら、以下のような文章にあたった。

     *      *      *
 北海道もかつては大変肥沃で栄養バランスのとれた土壌でした。北海道の農業にくわしい八〇歳以上の有識者の人たちに、昔の十勝地方の農業のようすを尋ねてみたことがあります。
「入植されて最初に何を作りましたか?」
「アズキです」
「肥料はどのくらいやりましたか?」
「肥料は使いません」
「農薬はどうですか?」
「農薬も使いません」
「反当たり、どのくらいとれましたか?」
「毎年のようにアズキが7俵とれました」

 それが現在は1反当たりの収穫が3俵か4俵くらいです。肥料は10アール(1反)当たり80キロから100キロの窒素、リン酸、カリ施します。消毒は1年に4回しないと収穫できません。

 昔は冷害もなかったといいます。大正2年に1回あって、その後の冷害は軽症にすぎません。化学肥料が出始めた昭和13年頃から少し障害が起こりはじめ、昭和29年以降にひどく冷害が出るようになったということです。
 
 戦前の北海道は、何万年もの間腐葉土が堆積し、生物に必要な栄養をたっぷりと持った肥沃な大地が形成されていたに違いありません。そのような土地で育った作物は、寒さにも乾燥にも長雨にも強いはずで、それが冷害の少なさに証明されています。

 ところが作物による収奪と化学肥料によって土壌が劣化し、微量ミネラルも欠乏するようになりました。そのため、土壌に微生物や小動物が住みにくくなり、通気性・透水性も悪くなります。それにともなって冷害や乾燥や長雨に弱い作物しかできない土壌になってしまったのです。

       *        *       *

 中嶋常允氏が説く通りである。たった1週間程度雨が続いたら、もう農作物が弱ってしまうなど、あってはならぬことであった。土づくりに失敗しているからこうなる。農水省の役人と農協の指導の失敗だ。

 中嶋氏は、土壌にも(人体にも)微量ミネラルとそのバランスが大切だと説かれている方である。講演の動画が以下のニコニコ動画に見られる。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6580038
 ご参考までに…。




posted by 心に青雲 at 05:26| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年10月03日

スライス・チーズはちょっと…


 近所のスーパーマーケットでチーズの売り場に行くと、高級なナチュラルチーズなんかは置いてなくて、せいぜい500円以下のものばかり売っている。
 なかでもスライスチーズ、「8センチ四方くらいの薄く切れているチーズ」がたくさん並んでいる。「今日のお買い得品」などと銘打って安売りもしていることが多い。
 あれをサンドイッチに挟んだり、逆にキュウリやレタスなどを挟んでお弁当に入れたりして、人気があるようである。

 なんでチーズがあんなにきれいに薄く切れているか。チーズもいろいろではあるが、自分でナイフで切ってみればわかるが、あんなに均一に薄く切れるものではない。機械でやっているから出来るに決まっている、と言われれば、むろん工業的な製品だから機械でカットしてはいるのだが、スライスしやすくするために、加工チーズにはアルミニウムが添加してあるのである。

 だいたいチーズ一切れに50グラムほどのアルミニウムが入っているそうだ。
 問題はこのアルミである。たぶん読者諸兄姉は、アルミの鍋はあまり体に良くないと聞いたことがあるのではないだろうか。
 アルミニウムは地球上で最も量の多い元素だそうだが、人体にはまったく不要なのだ。だから、これが人体に蓄積されてくると、よからぬことが発生する。

 その一つがアルツハイマー病である。これは決定的な話ではないようだが、どうやら関係しているらしいとわかってきた。だから例のスライスチーズにアルミが添加されているらしいので、私はあれは食べない。面倒でもナチュラルチーズを自分でスライスして食べる。

 まだ人体にとってのアルミの最小許容量はまだ算定されていないそうだ。どれだけ摂取したら危ないとか、痴呆になるとかは分かっていない。アルミ鍋で料理したらどれだけ体内に取り込まれるかというようなこともまだ不明である。

 毒物という認定もないから、まあいいだろうということなのか、それでアルミの鍋で料理し、スライスチーズにアルミを添加して平気でいるのだ。
 それでもアルミが人体に不要な金属であるかぎり、人体に入れないに越したことはない。
 わが家では料理は鉄やステンレスの鍋で行っている。このことは以前、書いたことがあるが、最も良いのはビタクラフトの鍋である。これは作家の丸元淑生氏の本で知って、さっそく取り入れたものだった。
 非常に優れたステンレス鍋である。

 アルミホイルくらいなら、包むだけなので安全だろうと言われる。
 アルミが心配なのは、このほか、歯磨きにも入っているし、胃の薬にも入っているとか。だから私は歯磨きは遣わずにブラシだけで歯を磨いている。せいぜい塩をつける程度だ。胃の薬なんか飲んだことはない。

 しかし、なんと言ってもアルミニウムは地球上一番多い元素なので、飲料水に含まれてしまうことである。アルミの含有が多い土地では、アルツハイマーになる確率が高いという報告もあるようである。飲料水に含まれてしまうからだ。酸性雨によって地中のアルミが溶けて水に浸透してしまうということが起こってしまうとか。

 中国や韓国で酸性雨を降らせるもとを大気中にばらまかれると、いくら日本が努力しても酸性雨がやってきてしまうのだ。そういう危険性を少なくするためにも、アルミの鍋はやめたほうがよい。







posted by 心に青雲 at 06:59| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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