2011年10月17日

「共食い」の論理とは(1/2)

 
《1》
 人間は哺乳類を先祖とし、哺乳類の一種だったサルから進化してヒトになった。ヒトは人間に発展して認識を誕生・発展させて、問いかけて外界を反映するとともに外界に働きかけるようになり、本能によらずに認識によって実体を統括するまでになったのである。

 人間は本能がほぼ消失しているが、実体は哺乳類なので、とりわけ食の問題に限っても、生命体としては哺乳類の食事(=地球を食べて)代謝しなければならない存在である。ところが認識が勝手に好き嫌いをした食をするものだから、哺乳類としての構造をもつべき食を蔑ろにしてしまう。

 大きくはその食の問題が人間をして病気をつくるのだと言えよう。だから、人間は哺乳類としての構造を大事にというか維持すれば、本来的には病気にはならないものであろう。
 
 福島原発メルトダウンによって放射能が心配される。だが、本来、生命体は原始の地球で誕生して以来、過酷な生命体が維持しにくい環境を克服しながら進化発展を遂げてきたのであり、放射能についても同様に、耐え抜く実力をつけて乗り越えてきたものである。
 だから生命体としての放射能をブロックし得る実力を、自らの実体の構造に把持し得れば、放射能は怖くないのである。

 震災直後の週刊誌にもあったが、米ソ冷戦時代には今よりひどい水爆実験が行われ、放射性物質が日本にも降り注いでいたのであり、われわれはずいぶんと放射能を浴びていた。だが、ほとんどはたいしたことはなかったのである。

 インフルエンザの危機も叫ばれ、昨年は新型インフルエンザで日本では3億人が死ぬなどと石原慎太郎が煽っていた(「文芸春秋」誌で)が、実際は何事もなかった。石原に、3億人はどうしたんですかと聞いてみたい。
 新型インフルエンザ、あるいはエイズなどで人が死ぬという事実はあるだろうが、死なない人、感染しない人もまた多数にのぼる。何千人、何万人が死ぬと医者やメディアは脅すが、では死なないで生き残る人がいるのはなぜかの問いには答えようとしない。
 放射能やらウイルスやらがいかに強毒だとて、人間のほうの条件を全く無視して「死ぬ、死ぬ」「怖い、怖い」と騒いではいけない。

 人間のほうの条件とは、一言で言えば健康体でいることである。健康体なら、放射能も病原菌もブロックし得るのである。健康なのに病気になるのではない。病気にかかってもおかしくない状態にしているから病気になるのである。
 だから私は30年ほど、風邪をひいたことはない。インフルエンザで高熱の人とキスしてもヘッチャラであった。

 健康体でいることの大事な条件は、食事をしっかりとることである。
 人間は本来病気になどかからないものと言われる。しかし、ならないはずの病氣に何故なるのか、だ。それに答え得る医者はほとんどいない。医者は「病気というものがある」と思っている。

 食事はしっかりとっているつもりでも、その構造に立ち入ってみれば、単に栄養素さえ満たされていればいいとは言いきれない。バランスのとれた栄養も大事ではあるが、それだけではない。
 例えば、食物を煮たり焼いたり揚げたりして食べるのは人間だけである。長持ちするよう添加物を加えるのも人間である。素材としての野菜や肉類にしても、そもそも人工的に育てて食品にしている。野生の哺乳類のような、生で自然のエサを食べているのではない。

 そうした栄養素以外の「食の要件」のなかに、一つ「共食い」がある。
 共食いは本来、野生の動物にはないものだ。というとただちに、野生動物が共食いする事実はいくらでもあるぞと反論されるだろうが、いかにも事実としてはある。しかしそれは動物にとってエサがないなどの緊急事態で共食いが生じる。

 ある種の動物が、共食いをしていたら、その種は滅んでしまう。だから論理的には(原則的には)共食いは生命体としては避けなければならない。ゆえに共食いはしない。

 人間の場合、共食いとは何か。人肉食いもあるがそれは認識が大きく関与する特殊な話であろう。人間にとっての「共食い」は、一つには同じ哺乳類を食べることになる。哺乳類同士が食いあうことは当たり前のようにあるけれども、それはおそらく例えばライオンがシマウマを襲って食べる場合は、ライオンは肉食動物として進化して、特定の食がなされるよう本能で決まっている。
 だから落ちこぼれの生命体であり、発展はない。

 しかし人間は、進化の過程で雑食になった。エスキモーのように、なま肉しか食べない民族もあるように、肉が食べられないのではないし、食べていけないことはないのだが、問題はその肉が人が飼育した牛やブタであることである。
 エスキモーのように野生のカリブーのような肉を食べるなら良い(共食いの構造が一重である)のだが、たいていは人間が狭い小屋に押し込めて養ったものだ。

 オージービーフの牛のように放し飼いにされたものであればまだ良いらしいが、霜降り肉みたいにこれでもかと人の手が加わったものは最悪である。霜降り肉はやわらかくで箸で切れるし、噛まなくても口のなかで解けてしまうそうだが、これはその牛が病氣だからである。それゆえ牛は若いうちに(病気が発現しないうちに)出荷して肉片にしてしまう。

 天寿堂岡目八目氏はこのことに関連して、「“共食い”という発想を聞いたときは、初めは何なのだと思いましたが、人間が創った分身を人間が食べるから共食いなのだ、と納得がいきました」とメールでしたためて来られた。
 「共食い」の論理を見事に捉えておられる。人間は同じほ乳類としての牛やブタを食べるから共食いになる、というだけにとどまらない重層構造があるのであろう。単層構造でだけ捉えてはいけないことなのだ。

 生物にとって共食いは種の絶滅に至るから、本来的に避けるべきことである。また、ライオンならライオンはそれまでの進化過程の生命体すなわち単細胞から多細胞、カイメン体、魚類、両生類、哺乳類などを食べることは、生命の歴史を一身のうえで辿ること必要があるからだ。人間も同様であって、哺乳類以前の生命体を食べて、食の進化過程を辿ることで重層構造を創らねばならないのであろう。

 ところが、人工的に飼育して霜降り肉にしたような場合は、「共食い」が(悪い方向へ)多重構造になっていく。それを端的に述べれば、岡目八目さんの指摘するように、「人間が創った分身を食べるから共食いになる」のである。

 「人間が創った分身」とは、例えば牛の飼料の稲わらとか大豆とか麦とかである。これら飼料は農作物であって、自然の草ではない。
 牛小屋も自然環境ではない。地面は土ではなくコンクリートだ。そういう自然でないという意味で劣悪な飼育環境である。
 そういうふうに食用にされる牛を、われわれは食べる。だから「人間が創った分身」を多重構造的に「共食い」している。




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2011年10月14日

マスコミとネット系ジャーナリズムの戦い


 阿修羅掲示板で、「もはや関係修復は不可能 小沢一郎氏vs記者クラブメディアの戦い」と題して、フリージャーナリストの上杉隆氏が、書いている。
 10月7日、東京地裁でいわゆる陸山会事件の初公判が行われたあと、小沢一郎氏が記者会見を開いたときのことを取り上げている。それについては以下にアクセスして本文を読んでいただきたい。
http://www.asyura2.com/11/senkyo120/msg/374.html

 その記事に関して、掲示板のあるコメントが注意を引いた。
 以下に紹介する。

       *        *        *
2011年10月07日 03:46:34
 田中角栄と同じ攻撃を受けてるんだ。仕方ないよ。
 敵は1人じゃない。All自民党、Allマスゴミ、All官僚、半分の民主党、All経団連、宗主国アメリカ、まだまだいるけれどもこんなのと20年も戦って消されてないだけで奇跡だよ。おそらく裁判は小沢が死ぬまで続くだろう。

 そして田中と同様裁判は小沢の死去をもって完全に目的を達するのだろう。しかし違いが1つある。
 それは田中の時にはなかったネットジャーナリズムだ。

 この20年間にマスコミが小沢を攻撃した軌跡は、ネット文化の広がりと安定に正比例するような気がする。田中のときは新聞テレビ雑誌週刊誌等がまさにクロスオーナーシップで総攻撃が可能であったので、国民はこぞって騙されたもんだが今はネットがあるからそうはいかない。

 上杉氏は小沢と既存マスコミとの戦いと定義するが、私には既存マスコミとネット系ジャーナリズムの戦いに思える。既存マスコミはネットを見下す。我々はエリートですけどあなたがたネットはゲリラだと言う。それは単に優越心に彼らが浸っているだけではない。かれらの内在は彼ら自身が気が付いてないだけで深層心理では意識しているのだ。ネットの根本は個人主義だということを。

 本物の個人主義を持った者は百万遍の嘘八百を並べられても、官憲が罪を捏造し獄につなごうとも、そして殺されようとも確立された個人という自己を変えられないことを。この考え方は日本の支配層にしてみれば怖いことだ。しかし日本人は物事を相対的にしか見れない欠点を持っている。性別、容姿、家柄、学歴、職歴等々あるが上か下かですべてが決まる。この特性は支配者達にとって見れば思う壺だ。

 彼らはこれを見識と呼び既存マスコミを通じて国民に喧伝する。そして国民はそのピラミッドの中に自分を探す。抑圧の連鎖は定着し支配は徹底される。しかし相対ではなく絶対性を持った個人主義はそうした欺瞞を瞬時に理解しいとも簡単に見破る。権威を振りかざし、かさにかかってこようとも王様は裸だと躊躇なく反論する。その個人主義をもった人間をネットジャーナリズムは育む。既存マスコミの小沢攻撃が増せば増すほど、ネットジャーナリズムの必要性もまた増すのだ。

 新聞でテレビで雑誌で小沢を叩けば叩くほどネットジャーナリズムはその欺瞞を暴き王様は裸だといい続け個人主義は広がりを増す。皮肉なものだ。

 小沢を排除し続ければ個人主義が広がってしまうのだ。小沢問題とは権力闘争を超えた日本人の心理の根底に個を植え付け芽生えさせる戦いである。日本人の持つ心のカースト制度を崩壊させ、個々人が自身の考えと尊厳と誇りによって立つための闘争なのだ。小沢が復権しようがなかろうがあまり意味をもたないだろう。この闘争に時間はかかっても必ず勝ち得ると信じるならば、小沢はすでに勝っているのだ。  
       *        *        *

 このコメントは、この事件が小沢一郎という政治家と、現在の日本の権力システム――司法・検察、官僚、そしてマスコミ(記者クラブ)――との戦いに他ならないことを指摘している。
 そしてそのうえで、既存マスコミとネット系ジャーナリズムの戦いを取り上げている。核心をついたコメントである。私も同感だ。

 この文章を投稿した人物は最後に「小沢が復権しようがなかろうがあまり意味をもたない」と言っている。これは慧眼である。

 私は以前から、小沢一郎をさほど買っていないと述べてきた一方で、もしかすると西郷隆盛のような男なのかも、と書いてきた。つまり、私は小沢は基本的にはユダヤの召使いなのだろうと思っている。だから自民党のかつての田中派のホープだったし、今も自民党・公明党、民主党の半分、そして官僚勢力が恐れるほどに力を持っている。
 ユダヤ・フリーメーソンだったからだろう。小沢は国連中心主義者だから、世界統一政府を支持しているのであろう。

 しかし、一方で小沢はフリーメソンを裏切るというか、日本の独自性、独立性も維持したいと考えているのではないかとも思える。暗殺されたケネディ大統領のような立場に似ているかもしれない。ケネディはユダヤによって大統領にしてもらいながら、それに反抗してアメリカをユダヤ支配から独立させようとして、〈彼ら〉の逆鱗に触れて暗殺された。

 今、小沢が仕掛けられて抹殺されようとしているのは、ケネディと同じような経緯をたどっているからではないだろうか。
 話を戻すと、この投稿の筆者は、そういう動きは動きとしてあったとしても、それとは無関係に、日本人は個人主義に(ネットメディアを通して)目覚めていくのではないかと説いているのである。







 
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2011年10月13日

ブルーマウンテンの怪


 コーヒー豆の銘柄ブルーマウンテンは、周知のようにジャマイカ産の高級ブランドである。
 ブルーマウンテンは、現地ジャマイカのブルーマウンテン山脈の標高800〜1200メートルあたりの限られた土地で栽培されるコーヒー豆であって、収穫量がきわめて限られるので、大変高価なものになる。この特定エリア以外のコーヒーには、ブルーマウンテンという名前をつけることができない。

 近所のスーパーとか、コーヒー専門店で「ブルーマウンテン豆」として売ってはいるけれど、そんな高価で希少なコーヒー豆が、やたらにあるわけがなく、私は買わない。あれは偽装表示にあたらないのか? いかさまなのだろうが、日本の役人が利権ほしさに許しているのだろう。

 実際、「ブルーマウンテン」の名を付けられながら日本に輸入されている豆の多くは、標高800m以下の麓で栽培されものであることが多いらしい。そうであろう、だから日本中のスーパーで出回っている。

 本来のまともなブルーマウンテンを入手することは極めて難しいのだ。
 Wikipediaを見ると、国内での本物の「ブルーマウンテン」販売量は、正規輸入量の3倍という事態になっているそうで、一般の喫茶店でも1kg当たり5万円〜10万円(2005年の相場)もするため、かなり高価なコーヒーとなる。
 そんな高価なコーヒーはよほどの金持ちか好事家でなければ注文しがたいから、数が出ないため、店でも置くことが極めて困難な豆になる。なのに置いてあるのは怪しいと言わねばなるまい。

 私もいつかは本物のブルーマウンテンを飲んでみたいとは思うが、これが本物の標高800〜1200メートル限定のコーヒー豆だと言われたところで、私の舌のほうがそれを感じ取れるかどうか心もとない。標高800メートル以下の麓でとれた豆との違いなどわかりようがない気がする。
 そんなものに、1杯1万円も出せるかといえば、二の足を踏んでしまう。

 そういうコーヒー愛好者の足下を見て、業者は標高800メートル以下の麓でとれた豆にも「これが噂のブルーマウンテンでっせ」と騙しにかかるのである。
 本物のブルーマウンテン豆のほとんどが日本向け輸出だとも言われる。そんな贅沢をしていいものだろうか。騙されているのは日本人だけか…。

 私は以前、友人にブラジル産の豆で淹れたコーヒーをごちそうになったことがあった。ただそれは現地のブラジル人が普段飲んでいるコーヒーだという。ブラジルに旅行したとき買ってきたのだという。
 おそろしくまずいコーヒーであった。カネをもらっても飲みたくないシロモノだった。友人によれば、ブラジルは貧しいから、味の良い貴重な豆は全部輸出用に回され外貨獲得の先兵になる。それで現地の人間は粗悪な豆で耐えているのだそうだ。

 その味はだから、まずいというより、悲しい味になった。日本の私たちがいかに恵まれているか、贅沢か、でもある。
 ブルーマウンテンも事情はおそらく同じであろう。現地の人の口には入るまい。

 ところで、私たちはコーヒーとか紅茶とか、あるいは果物にしても、味の良いものは品種がいいからだという思いが強いのではないだろうか。ブルーマウンテンという品種が優れてうまいのだ、と。その優れた豆のうちで、さらに標高800〜1200メートルあたりが気候的に適した条件になっているのではないかと思うのがせいぜいではあるまいか。

 それはそれで間違いではなかろうが、私には一つの疑問がある。それは土の問題である。どんなに優れたコーヒー豆の品種であっても、長年栽培していれば、いくら肥料を注ぎ込んでも、土地はやせてくるし、連作障害もおきてくる。
 現地では質を維持するために必死の努力がなされているのだろうが、例えば100年前のブルーマウンテンと、現在のブルーマウンテンが同じ味になっているとは言いがたいのではないかと想像するのである。

 これはもう比べようがない。昔のコーヒー豆はもう残っていなし、100年前にブルーマウンテンを飲んだことがある人が現存していたとしても、味覚の記憶など当てにならない。これが50年前でも、あるいは10年前であっても、同じことだ。

 現地の農園では、毎年毎年、テイスティングをやって、味を維持してはいるのだろうが、それでも少しずつ変化はしていく。それが弁証法性である。

 最近、行きつけのコーヒー豆焙煎店で、ブルーマウンテン種のニューギニア産という豆を勧められた。ジャマイカからブルーマウンテンの種を運んで、ニューギニアで栽培しているのだという。
 そうすると、もともと香り高い品種がニューギニアの肥沃な土地で育ち、非常にうまいコーヒーが出来たのだそうだ。

 ブルーマウンテン種はジャマイカで栽培されてこそブルーマウンテンなのではあるが、たぶんそのブルーマウンテンも連作障害や土の栄養素が減っていることで100年前とは違うものになっている。それを思えば、ニューギニアで豊かな栄養の土で育った豆のほうが、味は良いのかもしれない。

 実際、購入したその豆はなかなか悪くなかった。安いから、プロの目にはそれなりの豆という評価なのだろうが…。
 名前に騙されないでいたいものだ。
 



posted by 心に青雲 at 07:36| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年10月12日

本当の歴史


 先日、私のブログを読んでくださっている方から、感想が送られてきた。かつて私がブログで本当の日本史とはどういうものかを書こうとしたときの文章を引用してくださっていた。

 「以下をご教示いただき、ありがとうございます。みんな、私の知らないことばかりです。そうだったのか!と驚くことしきりです。このようなことを、すべての日本人が平凡な庶民が知って、かつ、理解できれば、今の日本人にも活力・行動がでてくるであろうにな、と思ったりします。」

 とのことであった。今日はその引用をそのまま掲載する。以前アップした文章ではあるが、元のブログが閉鎖されてしまったので、再録するのも良いかと思ったしだいである。

 引用していただいた項目は以下である。

(1)安政の大獄の真実
(2)カタカナの起源および、漢文と日本語
(3)武士の起源
(4)日本における、奴隷解放と花開いた庶民の文化
(5)天皇・公家を皆殺しにできなかったのは、背後に支那がいたから
(6)火葬の起源と、寺の儲け
(7)日の丸(白地に赤く)の由来

 それぞれに対する解説文を以下に載せる。
      *        *         *

(1)[日本史の本当の姿を求めて(上) | 2007年04月09日]
> 安政の大獄は、(省略) 八切止夫の『野史辞典』(日本シェル出版 昭和55年)をひもといてみると、「征夷の勅命さえ賜れば、征夷大将軍になれるものと考え、水戸斉昭が京屋敷の鵜飼幸吉に献銀させ入手した密勅事件。つまり次々と各大名が公家に出入りの商人に銀を贈って、勅を賜っているのに驚き、井伊大老が贈路側と贈賄した双方を捕え、ついでに過激派の者も一緒に治安維持のためにと逮捕した疑獄事件。(省略)
 安政の大獄は、水戸藩らの卑しい疑獄事件だったものを、明治政府が自分たち「新時代を創ろうとした」勢力を弾圧した事件にすり替えたのだ。

(2)[日本史の本当の姿を求めて(下) | 2007年04月10日]
> 藤原氏は端的には支那人だったから、公文書関係も私的文書もすべていわゆる漢文、すなわち支那語で書いた(書かせた)。それを字の書ける女たちが、素早く書く必要から仮名が生まれ、読み方の工夫からカタカナが生まれた。(省略)
 日本語は、原日本人と、あとから渡来した支那勢力(公家)との相互浸透によって成立していった。
 最初は原日本語あるいは朝鮮語のようなものに漢字を当てはめて使用する。なにしろ、藤原氏(公家)は支那語でしゃべっても、原日本人を従わせねばならないから、漢文(支那語)を日本語に置き換えて、わからせなければならない。例えば古事記でも万葉集でも記述は漢文(支那語)で書かれたが、原日本人は支那語表記(漢字だけ)のまま返り点だのなんだの記号を加え、自分たちの使っている言葉で理解した。(省略)

(3)[日本史の本当の姿を求めて(下) | 2007年04月10日]
> 例えば承平・天慶の乱(平将門と藤原純友の乱)は、奴隷状態に置かれた原住民部族の叛乱であったようだが、これを鎮圧するべく派遣されたのもやはり原住民のなかの公家支配層の傭兵になった連中だった。夷をもって夷を制す、だからまさに支那人の常套手段。今でいうなら第二組合を使って、第一組合という過激不満分子の叛乱を鎮圧させた。この第二組合と第一組合がやがて武士に変化発展することになる。武士の起源は、あれは貴族が変化したのではない。つまり公家が、原住民弾圧のために原住民から軍隊を創らざるを得なかったものなのだ。

(4)[日本史の本当の姿を求めて(下) | 2007年04月10日]
> 歴史は支配者階級がつくるものであり、文化も基本的には支配階級が、貴族がリードして創るものである。庶民には文化は創ることはできない。
(省略) ところが、わが国の場合は、何度か原日本人が政権をまがりなりにも奪回した時期(平家、源氏、北条氏、信長、秀吉、家康)があったこともあって、庶民の文化が上流階級と混ざる機会が生じた。ここが他の国と大きく異なる歴史なのである。

 例えば、安土桃山時代には、奴隷解放がそうとう行われ、楽市楽座(商売をしても税金を課さない)などのおかげで、庶民がのびのびと文化を花開かせることができた。歌舞伎なんかが盛んに演じられるようになり、庶民がそれを楽しむことができたのは、ひとえに(先住民出身の)信長や秀吉が先住民の奴隷状態を解いたからであった。それがなんとか、江戸時代の元禄ころまでは続いた。

(5)[日本史の本当の姿を求めて(下) | 2007年04月10日]
> また、武士(原日本人)が政権を奪取してもなお、天皇・公家は皆殺しにせず、温存させたのは、やはり背後に支那があるためではなかったろうか。支那が怖くて、天皇・公家一族を皆殺しにはできなかった。天皇・公家はなんといっても支那の出先機関であり、支那王朝が朝貢冊封体制の維持を条件に認めている権力者なのだ。(省略)
 南北朝の戦乱にしても、教科書史観では、日本国内のこととしてしか扱わないけれど、足利氏は支那から指示されて北条政権を倒したのだし、後醍醐院の叛乱も支那との関わりなしにはあり得まい。

(6)[葬儀の歴史と寺院のあこぎ | 2007年04月11日]
> 明治以前は、火葬にしろ、土葬にしろ、公家は公家のやりかた、庶民は庶民のやりかたで、風習にしたがってやっていた。ところが明治以降、すべて原則火葬になり、寺が管理するようになった。火葬場と寺は葬儀のセットである。(省略)
 どうしたかといえば、風葬や焼いて適当に丘の上などに埋めたのだ。それでは寺が儲からないと考えたらしく、官憲に葬儀まで干渉させ、葬儀を許可制にしたのである。それ依頼、埋葬には医師の死亡診断書と火葬場の証明、さらに寺の受け入れ証明まで必要にさせられた。
(省略) だから庶民には明治以前は墓などほとんどなかったのである。

(7)[日の丸の旗は庶民の旗 | 2007年04月12日]
> なぜ紅白かといえば、源氏、平家から受け継いでいる。源氏が白の旗、平氏が赤の旗を掲げて戦った。日の丸というのは、この源平の旗を統合したところに由来がある。(省略)
 江戸中期の文化文政のころ、幕府はロシアの脅威に対して北方の防衛策のため言うなれば“海軍”を編成した。(省略) この“海軍”の中心となったのが、源氏と平氏の末裔である。(省略) とはいえ、両派が船中で対立しては困るので、赤旗の平氏と白旗の源氏の折衷案として白と赤を入れた旗をこしらえた。源氏の白の地に真ん中に平氏の赤を丸でいれて、日の丸ができた。(省略)

 ペリー来航によって日本がこじあけられ、日本の船を外国船と区別をしなければならなくなって、再び日の丸が復活し、これを掲げて咸臨丸は渡米した。
 外国船との区別をつけるためには日本船章を日の丸に、と幕府に献策したのは、薩摩藩主で西郷隆盛を抜擢した名君といわれる島津成彬である。
(省略)
 源平こそわれら庶民の味方、代表だったのであり、そこに由来する日の丸は、したがって庶民の旗なのである。決して天皇家や公家の由来の国旗ではなかった。


     *        *        *
 これらの多くは、八切止夫の論考による。全部が正しいとまでは言わないけれど、官許歴史よりははるかに真実をついていると思われたので紹介した。なにしろ教科書で教わる官許歴史とは、あくまで権力者にとって都合の良い「書かれた歴史」なのであるから。
 われわれは本当の日本の歴史をつかまなければ、現代の闇も、これからの時代がどうなっていくのかもわかる方途はないと言うべきであろう。




 
posted by 心に青雲 at 07:28| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年10月11日

韓流ドラマを垂れ流すフジTVを見るのはやめよう


 今日は簡単に。
 以下の動画の紹介です。『フジテレビ騒動 政治的観点からの一考察』です。
http://www.youtube.com/watch?v=p59K8y9fZYo&feature=player_embedded

 これはなかなか良くまとまっています。
 大筋で私も同感です。
 くだらない韓流ドラマを垂れ流しするフジTVを見るのはやめましょう。
 また韓流を提供することの多い、花王製品の不買運動に協力しましょう。




posted by 心に青雲 at 04:15| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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