2011年10月25日

手作り豆乳ヨーグルト


 最近は、豆乳ヨーグルトがマイ・ブームである。手作りして食べている。

 作り方は、以下の「ふじっこ」のサイトにあるものを参考にしている。ご覧あれ。
http://www.caspia.jp/making/tonyu.html
 種は、カスピ海ヨーグルトだ。
 乳酸菌を取り入れたいが牛乳は避けたい…と思っていたら、豆乳でヨーグルトが出来ることを知った。スーパーマーケットでも何種類か売っている。

 ふじっこからは、牛乳のカスピ海ヨーグルトと豆乳のカスピ海ヨーグルトの両方が発売されている。どちらを種にしてもたやすく豆乳ヨーグルトが出来る。豆乳は、成分無調整のものを使う。

 牛乳でできた市販のプレーン・ヨーグルト(森永とか明治とか)はなにかと添加物も多いが、同じく市販のカスピ海ヨーグルトは添加物が少ないのも気に入った。
 それにしても森永や明治はなんでプレーン・ヨーグルトに顆粒状の白砂糖をつけるのだろう? よけいなお世話だ。あれは毒だ。
 私はどうしても甘みがほしいときは、ヨーグルトにハチミツか果物を入れて食べる。

 普通のヨーグルトとカスピ海ヨーグルトの違いは、乳酸菌の形状が違うことだそうだ。
 乳酸菌には、球菌と長細い形の乳酸桿菌があって、カスピ海ヨーグルトには球菌が多い。だから細長い形より球形のほうが1グラムあたりに含まれる菌の量が多くなる。

 カスピ海ヨーグルトには普通のヨーグルトの3〜5倍の乳酸菌が含まれるらしいから、豆乳ヨーグルトの種はカスピ海のほうにした。

 ヨーグルトは1日最低300グラムは食べると良いらしい。腸内環境がそれで整う。ヨーグルトを1日350グラム食べている人は病気をしないと言われる。東大医学部の光岡知足名誉教授の発見だそうだ。

 乳酸菌がどのような働きをするかは、周囲のことなので書かない。







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2011年10月24日

ドブネズミは汚い!


 テレビのCMで、女優の宮アあおいが、ぼけーっとした表情でギターを弾きながら歌っている。
「♪ ドブネズミみたいに 美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから …」
 と、こういう歌詞である。女のくせにベッドであぐらをかいて(股を広げて)仏頂面でギターをつまびいている。壁によりかかり、片足をギターを支えるためか壁に足裏をつけているバージョンもあるが、これも無作法で、人を不快にする。
  http://www.youtube.com/watch?v=uLdEnRzdpRc

 これは、この歌はもとはTHE BLUE HEARTSの「リンダリンダ」(作詞・作曲 甲本ヒロト)である。
http://www.youtube.com/watch?v=5UECiIco6oI&feature=related
 
 お嬢さんぽい宮アあおいが、なんとひどい歌を歌っているのかと驚かされた。ドブネズミを「美しい」とは! 
ほとんどテレビはみないが、たまに見たときに、何度かこのCMを見させられたから、普段はよほど大量に流されているCMらしい。

 いったい何のCMなのかわからなかった。なにがいいたいのかも不明というCMである。
 しかしYouTubeで探してみると、これはアパレルやアクセサリーの製造販売を手がけるearth music & ecologyというブランドの広告であることがわかった。
 会社名は、クロスカンパニーで岡山市に本社がある。

 このテレビのCMにはおそらく何億円、何十億円が投入されているのだろう。そんなに儲かっている服屋なのか? 私は名前も何もしらなかったが…。
 このCMはほとんど、宮崎あおいとこの曲の宣伝にしかなっていない。まあ男性をターゲットにしていないと言えばどうでもいいのだろうが、ただ何の説明もなくearth music & ecologyと言われたって、わけがわからない。

 ターゲットの若い女性は、あのCMを見てどういう気持ちになり、そして服を買いに行こうと思うのだろうか? 私には理解のほかである。

 THE BLUE HEARTSというロックバンドのことも知らなかったが、そういえば昔「リンダ、リンダ、リンダ、リンダ」と絶叫している歌を聴いたことはある。その歌詞の前に「ドブネズミみたいになりたい」などという文句があるとは、今になって知った。
 これは1987年にヒットしたそうだ。
 今、彼らが歌い狂っているさまを動画で見ると、とても正気の沙汰とは思えない。ロックはこういうものだと言われるかもしれないが、ああいうものは、ユダヤ・イルミナティがタビストック研究所をつくり、そこで流行させるよう仕組んだ音楽である。

 ローリングストーンズ、ビートルズ、ボブ・ディランなどがそうであったし、現在の「ガガ」なんかもそうであろう。
 退廃の極み、既成文化のぶち壊しである。若者のアタマを腐らせるための音楽であった。

 THE BLUE HEARTSなどのロックバンドは日本において、そうした役割を担わされたのであろう。だからイルミナティに気に入られて、彼らの手でいっときスターダムにのし上げられた。
 ドブネズミは汚いものである。伝染病の媒介者だ。それを美しいなどと言うのは、日本文化のぶちこわしである。顔を背けたくなるのが当たり前であるのに、日本の現状に不満なだけで何もやろうとしないアホな若者に受けるのである。壊せばいいという…。というか、歌に酔って壊した気分になりさえすればいいのだろう。

 earth music & ecologyのCMの目的も、80年代後半に流行した汚いロックをもう一度若者に聴かせることが目的なのではないか。つまり、あれではろくに自社の広告になっていないのに、何十億円もかけるのはおかしいからだ。
 昔は、堤清二がつくったパルコ(PARCO)というファッションビルが、空っぽの感性というのか、中身のない個性をCMで流していた。パルコを知らない人には、何のCMかわけがわからなかった。
 
 earth music & ecologyはその同じ手法でCMを作っているのであろう。
 一見清純なイメージの宮アあおいに、誰もがぎょっとするドブネズミになりたい、なんていう歌を歌わせることで、インパクトだけを狙っている。文化の破壊なんか知ったこっちゃない、視聴者にただインパクトさえ与えられればいい、とするものだ。

 宮アあおいは、アヒルが登場するアフラックという保険会社のCMに長く関わっている。アフラックはユダヤ資本である。日本人から保険料名目でカネを捲き上げて、アメリカに持って行く会社だ。
 つまり宮アはユダヤに気に入られたのであろう。だから「ドブネズミが美しい」などという日本人の顔に雑巾をなでつけるようなCMを流すことに同意しているのだ。嫌な女優だ。

 親会社のクロスカンパニーは、英語表記ではCROSSCOMPANY Co.,Ltd.である。周知のようにCROSSは十字、十字架を意味する。
 ということは、この会社の経営者はキリスト教を信仰しているのではないかと推測できる。キリスト教とは、今ではほとんどユダヤ人に支配されている宗教である。だからユダヤ勢力になんらかの関わりがあるのではないか。
 
 今年になって同社の別ブランド「E hyphen world gallery」では、キャラクターに上野樹里を起用し、さかんにCMに登場させている。
 ヨーロッパの街で、子どもにおいかけられた上野樹里が、横町に入ると妙な犬みたいはお面をかぶって今度は子ども達を追いかけるというつまらないCMや、手品師に空中に浮かばせられるCMを見たことがある。
http://www.youtube.com/watch?v=9TbTc0BlmwA

 これらも取りようによっては気持ちの悪い、そして意味のわからないCMである。何を言いたいCMなのかわからないのに、やたらに放映される。まあたぶん、女優たちの着ている腹やアクセサリーが、広告したいブランドのものなのであろうが…。あおいちゃんや樹里ちゃんが着ているような服を着たいと思わせる趣向か。
 宮アあおいや上野樹里という人気トップの若手女優を使えるのだから、よほど資金が潤沢なのであろう。

 テレビを見るのが好きな人、習慣と化している人にとっては、こうしたCMはだだ漏れ状態で入ってくる像である。何の広告かわからないが、有名な美人女優が出てきて目を引いてくれる。ついでに妙な映像や音楽を聴かされる。
 おそらくほとんどのテレビ好きな人間は、何の反発もせずに、だだ漏れの音と映像を認識に注入されていく。

 なにせCMの制作は、そういう方面で優秀な技量をもった制作者が腕によりをかけて必死に作っているのだ。ほんの何十秒かの間に、最高の印象効果を与えるために。
 テレビを見ていれば、無意識的に刷り込まれていくような仕掛けになっている。恐ろしいことだ。

 毎日こうやってだだ漏れ的に見させられていくと、ドブネズミが美しいという“価値”もありじゃないかと容認し、わけのわからないCMもそれも個性じゃないかと容認していくようになる。
 こうなると、連綿と続いてきた日本の伝統文化、風習も、どうでもよくなる。なんでもありで、いいじゃないかと。

 ユダヤ・イルミナティが世界政府をつくって、日本も有象無象の国、民族とごちゃ混ぜに統括されるときが来たら、日本人がユダヤ文化になじまないなどといって反抗しないように、今から「ドブネズミは美しい」という像を抵抗なく受けいれさせるよう仕掛けているのだろう。






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2011年10月21日

山下俊一氏の弁証法的解説

 
 ブログ「こころとからだな日々」の山下様から「がんの特効薬はなぜ世に出ない?」にコメントを頂戴した。主要部分をこちらにも掲載しておく。

    *     *     *
 私も自分がガンになったらどうするか、真剣に考えたことがあります。自力療法の操体法をしていて病気になったら他人におまかせというわけにもいかないと思いました。近藤誠の著書や、森下敬一の自然医学による指導を調べるうちに、ガンは必ずしも苦しみの大きい病気でもなく、恐ろしい病気ともいえないという面もあると分かりました。調べるうちに、ひょっとしたら自分は必要以上に恐怖を植えつけられていたのかもしれないとも感じました。

 ガン検診そのものが発がんを促す要素があるとも指摘され、手術も抗がん剤も痛みや不安、恐怖などマイナス要素も大きいと分かってきて、各人いろいろ自由に判断することですが、自分個人としては、すっぱり生活改善のみで、死ぬまでできるだけふだんどおりに過ごすというのもよいのではないかと結論した次第です。検診を受けずにガンと知らないまま、ガンに振り回されることなく死ねればそれはそれで自分には幸せな選択のように思われるのです。
     *     *     *

 「ひょっとしたら自分は必要以上に恐怖を植えつけられていたのかもしれない」という感想にはまったく同感である。
 私たちはことさら癌は恐ろしい死の病だと聞かされている。しかし実際は、船瀬俊介氏が言うように、人は癌で死んでいるのではなく抗がん剤の投与や放射線治療によって殺されているのだ。

 そして癌が怖いと日々怯えて神経質になり、癌検診で癌が見つかったらパニックになる。つまりは癌よりも心の問題のほうが大きい。

 癌にならないように普段から生活過程をととのえれば良く、それでもなお癌と宣告されたら、なおいっそう生活過程(とくに食事)を見直して、あとは山下様がおっしゃるように「死ぬまでできるだけふだんどおりに過ごす」が良いと思う。

 2008年に俳優の緒形拳ががんで亡くなったけれども、死去の5日前にはTVドラマ「風のガーデン」の制作発表会に出席していた。癌だと感じさせない見事な振る舞いだったと記憶している。

 「必要以上に恐怖を植えつけられていた」ということで言うと、原発事故による放射能被害も同様であろう。
 放射能で癌(甲状腺がん)になるとやたらに怯えるのはいかがかと思う。
 細胞が癌化する要素は、食事の悪さが第一であろうが、その他に体内の癌化をうながす活性酸素を増やして、DNAを傷つける要因はほかにもある。例えば水道水、農薬、環境ホルモン、食品添加物、電磁波、たばこなどである。
 福島原発から放出された放射性物質程度の量(100ミリシーベルト)なら、まったく問題にならないのに、子どもや妊婦が今日にも発癌するとわめきちらすのはどうかしている。

 あくまで「防護」の指標として、年間100ミリシーベルト以下なら大丈夫というものを、日本国では50ミリシーベルト以上は除染や避難の対象としているようだが、「市民運動家」どもはそれでもダメだ、1ミリシーベルト以下にしろと騒いでいる。

 私はYouTubeで、長崎医大の山下俊一氏の講演「福島原発事故の放射線健康リスクについて」(2011年4月17日)を見た。
前半 http://www.youtube.com/watch?v=9q9kaIIpSpw
後半 http://www.youtube.com/watch?v=kTF2gCugInc&feature=related

 山下氏は「福島県アドバイザー」にもなっていて、あちこち講演して住民の不安を取り除こうとされている。ところがその発言が無責任だとか、東電寄りだとかでぼろくそに批判する輩がいる。
 「福島県アドバイザー山下俊一氏の解任を求める記者会見」というのも見た。
http://www.youtube.com/watch?v=BLbQydJZbgI&feature=related

 私は山下俊一氏の説明は実に懇切丁寧で誠実なものであると思う。住民の中に放射能ヒステリーがいるのを承知で「闘って」おられるのは見事だと感じた。
 講演の質疑応答と、「山下俊一氏の解任を求める記者会見」で山下氏を避難する者は、アタマが悪いのではないか。科学的な説明を理解できていない。あきれるばかりだ。
 
 現状、放射性物質は恐れるにたりないと説く山下氏を、市民運動家どもは、それが東電やほかの電力会社の自己対応を甘やかすことになるという一点で避難、罵倒する。
 現下では放射能は心配ないとなれば、東電の責任はかぎりなく少なくなるかもしれないが、それと原発をやめるかどうかの議論とは関係ない。

 私は原発はやめるべきで、急ぎ代替エネルギーを開発すべきだとは思うが、放射能被害をことさらに煽りたてることには反対である。
 山下氏を非難する輩は、氏自身も語っているが、まさに風評被害を作り出している張本人である。被害者意識の行き過ぎが却って別の被害者を大量に作り出してしまっている。

 動画のなかで山下氏は「正しく怖がってほしい」と述べている。そのとおりだ。市民運動家たちは「間違って怖がっている」のである。
 なにも原発が100パーセント安全だとも言っていないし、今の放射線も100パーセント安全だとは言っていない。それを「怖い怖い」の市民運動家は、100パーセント安全と言わないからウソつきだ、まやかしだと騒ぐ。

 「絶対」とか「完全」とかの言葉の意味が理解できていない。
 まさに○か×かの受験勉強的読解力しかないのか…。
 だからこそ、弁証法的な捉え方の理解が必要なのである。山下氏はしっかりと弁証法的に説いているのに、市民運動家は「あれかこれか」の形而上学的にしか理解しようとしていない。





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2011年10月19日

がんの特効薬はなぜ世に出ない?


 大学時代の友人が、昨年来、癌になって闘病中と聞き、私も心配して彼に余計ながら情報を送っている。
 たとえば船瀬俊介氏のYouTubeの動画などで、絶対に抗癌剤は使ってはいけないことを説いている。それを見てくれた友人は、抗癌剤をやめたと言っていた。玄米菜食を勧めてはいるが、果たして実践しているかどうか…。

 友人がそうなったので、私も改めて癌について調べている。
 そんななか、岡崎公彦氏の『がんの特効薬は発見済みだ!』(たま出版)を図書館で借りて読んだ。わずか50ページほどの小冊子。

 岡崎氏によると、がんの特効薬とは「ベンズアルデヒド」というもので、これはすでに1987年ごろに東風睦之(こち・むつゆき)博士の手によって発見されているものだそうだ。
 本文には以下のように説かれている。

 「東風博士は、イチジク抽出液からハツカネズミの腹水がんの移植阻害に有効な成分を分離し、これをベンズアルデヒドと同定しました。この物質は、揮発性の有機溶媒なので、ブドウ糖と化合させて水溶性としたのち、末期がん患者六十五名を対象として、がん治療効果を調べました。 
 その結果、五五パーセントという高い有効率を得たのです。副作用も皆無でした。」

 さらに詳しく知りたい向きは、同書をひもといていただきたい。
 Wikipedia によると、ベンズアルデヒドはアーモンドや杏仁の芳香成分だとある。しかし癌に効くとは書いてない。
 このベンズアルデヒドが癌に有効なのかどうかも私にはわからない。私がもし癌になったら、抗癌剤その他の西洋医療は全く効果がないと知っているから、こういうものを試すだろう。

 さて、問題はこのような癌治療上の大発見が、東風氏によって米国国立スローンケタリンク癌研究所の機関誌という国際的に権威ある学術誌に掲載されたのだが、普通なら数多くの追治験が実施され、報告されるであろうに、なぜか皆無なのだそうだ。
 岡崎氏もこれを追認した研究発表を出したそうだが、どこの学術雑誌も掲載拒否になったという。この特効薬が本当に有効かどうかは、誰か研究者が追治験するのが普通なのだが、いっさいなされていない。
 どうやら丸山ワクチンと同様の仕打ちを被ったらしい。

 岡崎氏は以下のように解説する。
     *        *         *

 がん学界の権威と言われる人で、私の知人でもある某氏は、ベンズアルデヒドのことをよく知り、本音としてはその効能を認めていることを私は知っています。
 ところが、彼だけでなく、すべてのがん学界の重鎮が、ベンズアルデヒドを「がん特効薬」として認めたくても認められない理由があるのです。それはいったい何でしょうか。

 (中略)ひと言でいうならば、そこには人間の卑しい“欲”が絡んでいるのです。
 もし、それを認めたらどうなるでしょうか。世界中のがんセンター、がん研究所の研究目標が消滅してしまいます。だからこそ、画期的な発見がなされてはいけないのです。

 彼らは、寝る間も惜しんで「がん治療法」を日夜、研究しているはずですが、そんな彼らにとって、そんな簡単に「がん特効薬」などが発見され、普及しては困るのです。

   (中略)
 人命を助けるべき「医学」の名のもとに、それを施す医師の多くは、悪意からではなく、与えられた知識と経験に基づき、真面目に処置、処方しています。醜い真相を知らないからです。そして、患者の多くは、「がんに罹ったら、切除手術か抗がん剤投与しか方法がない」と信じ切っています。

 そのおかげで、関係機関および関係者は収入が保証され、生活が成り立っています。製薬会社は、抗がん剤で潤っています。

 ある抗がん剤が、がん治療に有効かどうかは、問題ではありません。他に手だてはないと信じる患者は、効こうが効かなかろうが、文句なしに医師の指示に従って、抗がん剤投与を受けるからです。

 最近になって、ようやく、抗がん剤投与に疑問を示す患者も増えつつありますが、一時は、製薬会社にとって抗がん剤はドル箱でした。日本だけでも、医療費は年間30兆円を超えています。年々増加していく個人負担の「健康保険費」は、いつか破綻を迎えるでしょう。

 保険料や医療費に苦しみながら、一方では、何の疑問も抱かずに、医師に言われるままに「誓約書」を書いて、身体を傷害する処置をしてもらっているのが現状です。他人事ではありません。それは、「がん」だと宣告された患者の大半がたどる道なのです。

 
     *        *         *

 ずいぶんと岡崎氏は穏やかにもの申されている方である。
 大病院の医師などは、製薬会社とズブズブである。個人病院のなかにも、悪徳医師はいる。薬のキックバックやら豪華接待で、医師と製薬会社は持ちつ持たれつ。

 …だが。
 医師が「あなたは最近、血圧が高くなってますね。これまでの降圧剤では効かなくなってきたから、新しいもっと良く効く薬にしましょう」などと言う。そこで患者が「先生、薬を変えるって言いますけれど、それは製薬会社に接待されたからではないんですか?」などと疑いでもしたら、医師はカッとなる。

 「不満があるなら、私の治療はやめにしますよ。お好きな病院を探せばいいでしょう」などと脅しにかかる。
 医師に見捨てられると困るのは患者だから、そういう疑問は胸にしまうしかない。大都市なら代わりの病院は見つかるかもしれないが、田舎ではもう処置なしになる。

 そんな医者ばかりではなかろうが…。
 だが、みすみす医者に殺されるよりは、密かに勉強して代替治療を求めたほうがいい。任せっきりはいけない。

 ■ ■
 はじめにベンズアルデヒドはアーモンドや杏仁の芳香成分だと書いたが、生のアーモンドを食べるのは癌に有効だと岡崎氏は書いている。「毎日、30〜50個の生アーモンドを食べれば、初期のがんは治ります」と。
 入手しにくいし、そんなに食べられないだろうが、三共製薬のビオタミンと東和薬品のビオトーワという薬は同じ制がん作用を発揮するそうだ。

 極端な末期がん以外は生還可能、と書いてある。服用の仕方があるようなので、自分勝手にやらずに、心ある医師と相談したほうがいいだろう。






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2011年10月18日

「共食い」の論理とは(2/2)

 
《2》
 「共食い」を歴史的に見た論考があるので、紹介したい。
 これは私が「共食い」について、ある歴史学専攻の友人に話したところ、手紙で感想を言ってきたものである。

     *     *    *

 「共食い」の論理、私なりにですが納得できます。
 人類史の歩みを辿れば人間が外的条件(もちろん地球規模で鳥瞰すれば人間も地球の一部ですが)によって人間を食べるようになった時期、さらに人類の歩みが進んで哺乳類を“家畜”として飼うようになった時期と考えていくと、「共食い」の論理=人間の創った分身=社会・生活が病気を生み出したという像が視えてきます。

 また人間が社会的動物で社会の中でしか生きていけない存在ですから当然にその当該社会で創られた社会的認識が暗黙の規範としてその後の歴史に作用します。

 つまりそれまでの地球に生かされる形での狩猟・採集社会での認識と、家畜を飼う社会での認識は当然異なってきます。

 ところが中学の教科書も高校の歴史教科書も、この時代のことは「前五千年紀には農耕・牧畜が成立し…」とのみ記されていて、主に農耕の起源にスポットがあてられます。
 そしてこの時代から四大文明期に到る過程では(マルクスの影響が強く)貧富の差の成立→富の集中が像として創られるように記されているのです。

 これは社会的発展(量質転化)の一般論としてはもっともで正しい記述なのですが、もう一つの面「家畜」の発想が人類の社会・生活に与えた大きさがまったく記されていません。
 もちろん農耕も「自然への逆噴射」という意味で(自然を創り変える)人類史の一般論を述べるうえで基本となる重要なテーマですが、「家畜」すなわち生き物を支配する(代表例は割礼や去勢でしょうが)技術と、そこから生まれる認識は、その後の人類史に抜くことのできないメタファーでしょう。

 そしてこの「家畜」の発想を社会的認識とするグループが歴史、とりわけ近現代史を動かしてきた(作用してきた)。もちろん目的意識的に。
 歴史の大きな流れの中では“偶然”などないのです。
 このような「家畜」=「共食い」の認識・論理を量質転化的に人類の歩みの中で実践すれば、その先にあるのはすべての人類の社会・生活の家畜化。すべての富の集中に行き着くことが筋道として視えてきます。

 我々は歴史的社会以前については、南郷学派による『看護のための「いのちの歴史」の物語』で蒙を啓かされたのですが、ヘーゲルの歴史哲学を基本に歴史的社会の解明、一般論の構築が課題となります。
 その課題とは具体的には、原始共同体、アジア的社会、古代的社会、中世的社会、近代的社会、加えて高度資本主義社会という一般論としての発展段階と、それぞれの社会での規範(法・ニューマ(pneuma,空気)・エートス(ethos))・人々の社会・生活の実態(=像)を措定することがまずは一点。

 さらに前述した「家畜」の論理を規範とするグループ(少人数で社会の多数を支配。牧羊犬を使う)焼き印、チップの埋め込み等など)が上記の一般的な(論理上の)発展段階とどのように解くことができるか。もちろん目的意識的に関わってきたのかを明確に解ききることが重要です。

 このグループは少ない人数なので、一般論の発展段階を実態として形成せず、いわばウイルスのように各社会に寄生し、その社会を食い尽くす。そして次の社会に目的意識的に寄生し、羊や牛を太らし、そして“羊毛刈り”をやって食い尽くす。

 このグループが少人数でウイルスのように生存・発展して行く方法を身につけたのも、歴史の歩みの中でもまれ(生存を危うくされ)量質転化を」繰り返した末の「否定の否定」の姿、つまり領土や国家や国民国家の形をとらない方法を選択したと言えるのかもしれません。

 今回は「共食い」の言葉から勝手に思いつくことどもを書いてしまいました。

    *    *   *

 これを書いた人物は、滝村隆一氏長年のファンだけあって、即興的に書きながらも文章が滝村氏が書いたような展開に似ている。
 少数のグループが、としたためているのは、おそらくユダヤ人、あるいはイルミナティを指しているものと思われるが、「家畜」を飼育する論理を把持して人類史をリードしてきたのは白人である。そのことを明白に言わないのはいけない。
 あるいは牧畜民族と言ってもよいのかもしれない。スキタイ、匈奴、蒙古などは遊牧騎馬民族であり、彼らが世界を席巻したこともあったのだ。

 これは短いメモ書きだろうから致し方ないが、「地球に生かされる形での狩猟・採集社会での認識と、家畜を飼う社会での認識は異なる」と言いながら、その詳しい認識の違いについては語っていない。その認識の違いがどのような国家の形成、および発展を辿ったかの論考はこれからなのだろう。

 また少数の〈彼ら〉がなぜ国家を超えた支配機関(例えばユダヤ国際金融グループとか、フリーメーソンとか、日米欧三極委員会とか)を形成して、世界を統括してきているかをも、「共食い」の一つの帰結的な論理として展開し得るのではないかと思われるが、それに関しても彼は言及しない。

 またの展開を待ちたい。





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