2011年11月03日

巨人・柴田章吾投手の闘い


 10月27日にプロ野球の新人選手選択(ドラフト)会議が行われたそうで、私にとってはどうでもいいことながら、なにか巨人に入りたかった選手が抽選で日本ハムに行くことになってちょっとした騒動になったということくらいしか知らなかった。

 そんななか、毎日新聞の11月1日付け夕刊で、明治大学の柴田章吾投手が巨人に育成枠で指名されたが、彼は「ベーチェット病」という難病と向き合いながらプロ球界入りの夢を追い続けてきたのだという記事を読んだ。

 柴田投手は、例によって最近流行の「同じ病気と闘う人たちに勇気や希望を与えることができれば」と語ったそうで、こういう台詞にはうんざりするが、まあそれは置いておくとして、「ベーチェット病」を克服した根性には注目した。
 「G育成枠指名の柴田 難病と闘いながら夢追い」という記事の一部を引用する。

     *      *     *
 ドラフト会議当日、柴田は明大野球部合宿所の食堂で、チームメートらとともにテレビ中継に見入った。エースの野村が広島に1位で指名されてから約3時間後、巨人の育成枠3位で名前が呼ばれると、祝福するチームメートの輪の中で、目には涙がにじんだ。野村祐輔投手(広島1位指名)や楽天6位指名の島内宏明外野手とともに会見し、「2人に追いつけるように頑張りたい」と意気込みを語った。

 三重県出身。中学3年の時に臓器や皮膚などが潰瘍や炎症に侵される厚生労働省指定の難病「ベーチェット病」が発症し、医師からは野球をやめることを勧められた。だが、諦め切れず、名門・愛工大名電高(愛知)に進学。同校在学中には入院生活や長期間練習ができない時期もあったものの、3年夏には甲子園のマウンドに立った。

 明大に進むと、症状こそ軽くなったものの「野球のことで悩むことが多かった」と柴田。同期の野村らの控えに甘んじ、外野手の練習をしたこともあったという。しかし、明大の厳しい練習を経て、プロへの道が開けた。最速145キロの直球を投げる左腕として「直球とスライダーのコンビネーションを磨き、三振の取れるピッチャーになりたい」と抱負を語る。明大の善波監督は「信念の強い選手。壁が高いほど、乗り越えていくと思う」と期待する。【村社拓信】

     *      *      *
 ほう、たいしたものだ。詳しいことはわからないが、よく食事制限に耐えつつ、大学野球部の猛練習についていった。
 柴田投手が中学の時、野球をやめろ、あきらめろと言った医者は、今は恥ずかしい思いをしているだろうか? 柴田投手はどう思うかしらないが、「見返してやった」もしくは「医者の言葉をウソにしてやった」ということになろう。

 まともな医者なら、そう簡単に少年の夢をぶち壊すことは言わないだろうに…。

 以前のブログでも書いたと思うが、なにしろ医者は「栄養医学」の専門教育を受けていない。日本の治療の現場では、患者に体系的な食事指導がなされていない。せいぜい「脂っこいものはやめて」「酒は控えて」「野菜を食べるように」という程度の「注意」レベルである。まったく体系的指導はないのだ。あきれ果てた問題である。

 看護婦がそれをフォローするかと思えば、彼女らもなんら体系的栄養学を学んでいないし、忙しいことを理由に医者に言われたルーチン業務を行っているだけ。詳しいことは栄養士に聴いて、となる。

 その点、言いたくはないが、アメリカでは当たり前のように医師が栄養指導を患者に行う。故・丸元淑生氏はそれを日本に紹介してくれた。アメリカの栄養学が体系的だとか優れているとかいうのではないが、まったくやらないでコンピュータ上でデータを眺めては薬を処方するばかりの怠慢な医者に比べればマシではないか。

 癌患者には当然のこと、あらゆる病気(ケガも)に対して医者は食事指導をしなければならない。だが、そんなことをやっても報酬につながらない。カネにならないからやらない。

 中学時代の柴田クンを診た医者も、おそらくは栄誉学の知識は皆無で、血液データだけみて、野球は無理と言ったと思われる。マニュアルどおりの処置でしかないのだろう。どうして医者は、こうすれば克服できるかもしれない、と患者に希望を与えられないのか。
 そしてついでながら、放射能被曝の問題も生活過程を良くしていれば心配ないこと、ベーチェット病に同じなのである。

 それにひきかえ、彼は堅固な意志で辛い食事療法に勝った。同じ野球友だちが好きなおいしいものを食べるのを横目で見つつ、よく自制し得た。
 だから福島原発の放射能をブロッックしたいのなら、まずは食事で自制することでしかない。

 柴田投手はこれからプロ野球というアマチュアより厳しい世界に飛び込むことになる。「食事さえきちんとしていれば大丈夫」と語っているそうだが、意気やよし、陰ながら応援したい。
 そしてできることなら、野球選手として成功するだけでなく、食事と運動の理論を世に問える人間になってほしいものだ。

 たしかに自分がプロ野球で活躍すれば、「同じ病気と闘う人たちに勇気や希望を与える」ことにはなるかもしれないが、そんな志の低いレベルで満足してほしくない。なにせ大学を出ているのだから。
 医者や看護婦も青ざめるような体系的栄養学からのベーチェット病克服の道を探ってほしい。





posted by 心に青雲 at 06:28| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年11月01日

切支丹迫害のウソ


 メルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」に、中川洋一郎・中央大学教授の著作『ヨーロッパ経済史 I』を巡って、(ST生、千葉)という読者の方と著者本人とのやりとりがあって、面白かったが、そんななかに2011年10月30日付けの「読者の声」にST生さんの以下の記述、および宮崎氏のコメントがあった。

     *    *    *
 姉崎正治氏の「切支丹迫害史」以来、切支丹迫害があったように一般に言われています。1990年代以降この事に関する精密な歴史研究が行なわれ、実際は切支丹の多くが集団で、残虐な犯罪行為を行なうというケースが頻発して、仕方なく秀吉が取り締まったというのが実態でした。しかも改宗すればお構いなしであったそうです。
 秀吉が特に問題視したのは、切支丹大名たちが戦闘で捕獲した敵側の領民達をスペイン人やポルトガル人の奴隷商人に売り渡すことでした。総数10万人と推計されているその数は、当時世界中で行なわれた奴隷貿易の過半を占めるものでした。
 戦国時代は正に日本人を日本人以下の存在に貶める精神風土をも持ち合わせていたものともいえます。(ST生、千葉)

(宮崎正弘のコメント)秀吉の朝鮮への二度に渡る「遠征」にしても、あれは「侵略」ではなく予防戦争、キリシタンとの戦いであり、こんにちの政治学でいうところの「プリエンプティブ」(予防的先制攻撃)。この点を正確に把握しないシナリオがいまも日本人作家の多くによって書かれ、NHKドラマでも侵略史観とすりかわっているのは、残念なことです。
     *    *    *

 この件については以前の「旧・心に青雲」で書いたことがあった。切支丹大名はとんでもない奴らで、火縄銃や大砲の火薬ほしさに、領民を奴隷として売り払ったのだと。
 ザビエルを筆頭に、宣教師もそうした奴隷貿易を担うためにやってきていたと。

 しかし宮崎氏も書いているように、NHKなどの歴史ドラマでは真実は脇に追いやられ、左翼史観、官許史観がいまだ幅をきかせているのは残念なことである。

 ザビエルはいまだに日本でもキリスト教国でも聖人にされていて、ホントかどうか知らぬが、ミイラ化した片手が大事にまつられていたりする。しかし奴はフリーメースンの一員として日本に工作員としてやってきたこの上ない悪党であった。
 なのに、大分市では「聖ザビエル生誕500年祭」なるものを2006年に大々的に行ってみせた。不勉強きわまる。

 大分に行くと「ザビエルまんじゅう」なんてのもあるが…。これ以上ザビエルを悪く言うと営業妨害になるか?

 そのザビエルがやったことが、先のST生さんが書いておられるように、「切支丹の多くが集団で、残虐な犯罪行為を行なうというケースが頻発」したが、それを背後で操ったのがザビエルら宣教師であったのであろう。

 それをキリスト教徒どもは、明治維新後にやってきて逆に当時のキリスト教信者(?)を卑劣にも被害者=殉教者に仕立てたのであった。
 「キリスト教信者(?)」と?マークをつけたが、本当に今でいうところの信者だったか疑問である。

 以前にも書いたことがあるのだが、宣教師が日本にやってきて布教しようにも言葉が通じないのだ。どうやって奴らは神だの救い主だのを説明し、信仰させることに成功したのだろう。
 切支丹といったって、侍もいたかもしれないがごく少数で、ほとんどは民百姓である。文字の読み書きもできない。土着の宗教か仏教を信じていたであろう民に、どうやって舶来の耶蘇教に転向させられるのか?

 「民」という字には、そもそもからして「愚か」という意味が含まれているそうだが、そういう無学文盲の連中がコロッと赤毛の異人様が意味不明の言葉で喋るのを聴いて、納得するか? 馬鹿にしたもの言いになって恐縮だが、できるわけがなかろう。
 うさん臭いと逃げるに決まっている。

 いや、それは史料があるからだ、切支丹は厳然たる事実だったと言いたい向きもあろうが、そんな史料なんか絶対ではない。常識で考えなさいってば。

 だが、いかにも切支丹はいた。だからどういうわけかだったのか、その実態は? と考えるべきであろう。
 それを読み解くヒントが、先に引用したST生さんの記述なのである。
 「戦国時代は正に日本人を日本人以下の存在に貶める精神風土をも持ち合わせていた」、これである。この背景を抜きに、今の感覚で昔の人もありがたいイエス様の言葉を聞いたのだなどと思ってはなるまい。

 「日本人を日本人以下の存在に貶める」ために切支丹になったらしいのである。それが証拠に、ヨーロッパに多数の日本人婦女子の奴隷がいたのだ。
 だからイメージとしては、黒沢明監督の名作『七人の侍』に出てくる野盗の一群、あれが切支丹だったと思えばよい。

 戦国時代は、まさにカネになればなんでもやる、人の命を奪うことは何の抵抗もない、そういう時代である。だから切支丹どもは、集団で、残虐な犯罪行為を行なったのであり、戦闘で捕獲した敵側の領民達を奴隷商人に売り渡すことを平気でやったのだ。
 「総数10万人と推計されているその数は、当時世界中で行なわれた奴隷貿易の過半を占めるものでした」とあるほどに、その暴虐は猖獗を極めたのだ。

 八切止夫はたしか10万どころか、ヨーロッパに50万人の日本人婦女子が奴隷として連れていかれたと書いていた。丸裸にされてつながれる女性たちを天正遣欧少年使節団が目撃して、「見るに耐えない」と嘆いているのだ。

 その50万人と引き換えに火薬が日本に持ち込まれ、戦争に使われたのである。

 ここから見えてくるものは、切支丹とは要するに倭冦みたいな連中であったのではないか。スペイン人やポルトガル人と奴隷貿易で莫大な利益を上げるために、切支丹になったのではなかろうか。
 有名な「踏み絵」にしても、禁制の切支丹を取り締まるために残酷なことをしたと教科書にあるが、むしろ奴隷売買業者を見つける方便だったかもしれないではないか。
 たぶんにああいうことは、後になってから話を作るのだから。

 イスラムがなぜ世界中に広まったかというと、イスラムを信仰すれば、交易上メリットがあったからである。信用して貸してくれるとか、預かってもらえるとか、安値で仕入れられるとか、である。
 信仰がないとは言わないが、なにか経済的メリットがあればこそ宗教に加わるのだ。日本の新興宗教をみればわかるじゃないか。






posted by 心に青雲 at 07:39| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年10月30日

心情さえ純粋なら…か?(下)


《2》
 民主主義の原則というべきか、近代人の常識というべきか、言論の自由は尊重されなければならないと私は考えている。
 だから、たとえ自分と意見が異なるとか、相手の意見に反対であっても、その意見を相手が述べる自由は尊重するのが鉄則である。

 それが近代人、民主主義の最低限のルールである。
 自分と意見が違う人間を、売国奴呼ばわりしたり、土下座させたりせねば気が済まぬというのは、朝鮮人や支那人によく見られる性向である。日本人は元来そういうことを嫌った高潔な民族であったはずが、戦後、韓国や中共とつきあうようになってから相互浸透して、「人間が悪く」なってきた。

 気に入らない奴は2チャンネルであることないこと書いて、誹謗中傷、火だるまにしてやる、などというのは本来日本人になじまないやり方だった。2チャンネルはザイニチが主宰していると聞いたことがあるが…。
 政治家やタレントを、週刊誌で中傷しても平気、というのも日本人なら眉をひそめるものである。だから週刊誌なんかはまともな人間は買わない。

 天寿堂談論サロンで管理人氏に悪罵を投げつける輩は、あれは討論ではなくてまるで「人民裁判」ふうである。南郷学派を誹謗してなんとしても土下座させたいという一念でやっているとしか思えない。
 稲村氏が誠心誠意、解答しても感謝のかけらもなし。反論するのは許されているが、いちいち「……(W)」とか「……(爆)」などと揶揄して悦にいっているらしいが、相手の見解をまずは尊重するというルールを守るべきである。
 私はルールを守らない人を相手にして増長させるべきではないと言ってきている。

 あちらの話にクビを突っ込みたくないから、話を戻すが…。
 例えば「竹島問題」とか「従軍慰安婦問題」とかで、韓国人は日本側の資料、史料をみようともしないで、自分たちの歪曲・捏造された見解だけを相手方(日本側)に押し付けるだけだ。

 同様なことがイルミナティの問題にも言えるのである。陰謀史観とだけ言って、受け付けない。受け付けないとか信じないのは勝手であるが、第一級の史料があってのことで述べているのだから、そういう資料にあたってから反論してもらいたいものだ。

 陰謀が世の中にないと言い切るオボコぶりにはあきれるばかりだ。この世界は陰謀まみれではないか。騙され、寝首をかかれないよう自己防御しなければ生きていけないのに、日本人だけがノー天気である。

 一例を挙げれば、あらゆる資料が明治天皇は大室寅之助がすり替わったと示しているのだから、それを自分で調べて本当かどうか確認すればいいのに、そんなことはあり得ない、そんなことを言うのはカルトだなどと言うだけ。反論にもなってやしない。
 自分と見解の違う相手側の資料なんか見もしない、というのはまさに朝鮮人らの手口だと言っている。
 
 昔、山本七郎氏が『現人神の創作者たち』で以下のように説いたことがあった。話は赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)に関してである。
 史実の赤穂事件は、バカ殿浅野内匠頭長矩が殿中で乱心して、無抵抗な吉良上野介を背後から刃傷に及んだということであり、一部家臣が無法にも殿の討ち漏らした吉良を襲撃して殺してしまった事件であった。

 それがなんと、四七人が主君の恥辱をそそぐために仇討ちした美談にと祭り上げられた、摩訶不思議な話である。その謎を山本七平氏が解こうとしている。
     *      *      *

 さまざまに論ぜられているが、結局は、法律的にどうのこうのと言い、儒学に基づけばどうのこうの言ったところで、そんなことは問題ではない。

 大石良雄以下が、これが主君の心情と思ったことに自らの心情を託し、全く私心なく、純粋にその通りに行ったことが立派だという説が絶対になってしまう。浅野長矩は法を犯して処刑された。そのことを否定している者はいない。
 (中略)
 
 違法な行為をした。しかしそれが未遂であった。そこでそれを既遂にしようとしたのが赤穂浪士の行動だから、法の適用が正しいというのなら、赤穂浪士の行動をも否定しなければ論理があわない。現代でも、「殺人未遂で逮捕され処刑された。その判決は正しくて、誤判ではない。従ってそれは怨まない。しかし未遂で処刑されては死んでも死にきれまい。

 ではその相手を殺して犯行を完遂しよう」などということは、それを正論とする者はいないであろう。
 こうなれば結局、(中略)理屈はどうであれ、私心なく亡君と心情と心情的に一体化してその遺志を遂行したのは立派だという以外にない。

 これでは動機が純粋ならば、法を犯しても倫理的には立派だということになる。
     *     *    *

 山本七平氏は、こういう本人の心情さえ純粋なら何をやっても許されるという「感情」が日本人の宿痾だと言っているのである。
 その原型が赤穂事件から「忠臣蔵」へと美談が形成される過程にあると見ているのだろう。

 やがてこれが2・26事件の青年将校らの蹶起へとつながると、山本氏は説いていた。
 「勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を一体化して、全く純粋に私心なくこれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる。」
 と書いていた。

 このもうかなり古い山本七平氏の書を思いだしたのは、例えばイルミナティによる世界支配の陰謀なんかない、新聞記事が書いていることが正義なのだ、この世界の動向なのだという「信仰」のいわば「純粋性」と似ていると思ったからだ。あるいは「官許歴史」だけが本当だと言う「心情」の純粋性…。

 あるいはさらに、官許科学である「相対性理論」は本物だと思いたい「心情」であろうか。その心情が立派なら、相手にどんな無作法をしても、馬鹿にした態度をとっても許される、と思い込んでいる、これであろう。

 南郷学派への「心情的拒絶」も、一方的な「心情的信仰」も両極端は一致するである。
 これで本稿は終わる。最後はちょっと奥歯にもののはさまったような言い方になるが、私の言わんとするところは、わかる人にはわかっていただけよう。






posted by 心に青雲 at 07:06| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年10月29日

心情さえ純粋なら…か?(上)



《1》
 「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌を批判したところ、いろいろなコメントを頂戴した。
 だいたいにおいてご返事はコメントで差し上げたつもりである。

 那由様は、あれは「襤褸は着てても心は錦」を歌っているのだとおっしゃるけれど、それならそれで「美しい」という言葉の選択にはならないはずだ。
 「ドブネズミみたいに逞しく生きたい」とか「ドブネズミみたいに日陰の身でいたい」とかなら、生き様に賛成はしないが、わからない話ではない。しかし「美しい」は絶対に許されない。

 汚いものは汚いという教育がなされなければならないからだ。むろんドブネズミに罪はないけれど。
 だからなかにはウンチを食べてしまう人とか、ホームレスみたいに汚物にまみれていても平気とかいう人は居はするが、それは本人もまずいが、教育が悪かったのだ。

 だからわれわれは赤子のときから排泄はトイレで、と躾けられる。躾けられなければ、ドブネズミみたいに汚物のなかで平気で生きていけることになる。その教育上、必要な動物さんとして(気の毒ながら)ドブネズミに悪役を担ってもらっている。

 しかし中には、こういう歌を作って流布させているのは、かつてビートルズやボブ・ディランなどの歌手がそうであったように、イルミナティが仕組んでいるのではないかと私が書いたことに、反発してきた人もいる。
 
 かかる陰謀説を唱える輩はカルトであり、われわれの空手組織があらぬ誤解を受けかねない。許せぬというものだった。
 断っておくが、私はこちらにブログを引っ越してからは、私が所属していた空手の組織のことなど書いていない。たまたまそうなっているだけであるが、妙な誤解をして私が空手組織の見解をここで開陳しているかに受け取られては迷惑である。

 あくまで私の意見をブログでしたためているのみであって、私の意見がそのまま空手組織の見解であろうはずがない。
 それでも誤解が絶えないようなのは心外である。

 例えばどこのラーメンがうまいと書いたとしたら、それはわが空手流派が推奨しているラーメン屋だろうと受け取るのか? 信じがたいことだが、そういう人がいないとは言いきれないので、本ブログは匿名でやっている。

 「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌が嫌いだと言っているのは、「私」であって、空手流派の統一見解ではない。こんなことは当たり前だろうに。
 先日、豆乳ヨーグルトを食べていると書いたが、あれもわが空手流派がやっていることになってしまうのか? 私が最近好んでいる、と書いているじゃないか。そうならそうとちゃんと書きますよ。

 本稿のタイトルを「心情さえ純粋なら…か」としたが、「ドブネズミは美しい」を「ドブネズミみたいに嫌われながら生きているものにも強さ(美しさ)はあるのだ、という曲」と解釈するのは、心情においてはドブネズミを「生きているものにも強さ(美しさ)」なんだからいいじゃないか、としてしまうことになる。

 私はそれには反対なのだ。人間社会は勝手だと言われるかもしれないが、ドブネズミは汚いという社会の共通認識が必要なのである。「教育」という視点が抜けてはいけない。

 人間は教育されて人間になるのである。
 だからイルミナティは、地球の人間を悪いほうへと教育しようとして、「ドブネズミも美しい」と押しつけようとするのである。





posted by 心に青雲 at 08:23| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

「使わぬと腐る紙幣を刷ればいい」


 「使わぬと腐る紙幣を刷ればいい」

 と、これは毎日新聞の今日朝刊(10月28日)の、「仲畑流万能川柳」にあった川柳で、主宰者の仲畑貴志氏(コピーライター)は「秀逸」に推している。
 私も思わず笑えたというか、膝を叩いて感心した。うまい!

 タンス貯金を許さないということであり、カネが否応なく使われれば景気が良くなるとの意味である。
 これは日本国内の円だけでなく、世界中の通貨に言える川柳であろう。
 ついでに、香港とかケイマン諸島とかに円紙幣を持ち出したら、すぐ腐ってしまう仕掛けになっているとなお良い。

 まあ、もっとも現在もこれからも電子マネーの時代が到来しつつあるので、この川柳の旬も今のうちか…。しかし使わないと腐ってしまう紙幣なら、金持ちは貯えずにせっせと使うことになって、まことに喜ばしいではないか。

 他事ながら、最近、北海道に出張に行った私の道場生がいる。千歳市内で旧友と一杯飲んだそうだ。千歳といえば飛行場で、自衛隊の基地がある。だから自衛隊の人たちが千歳市内の繁華街に繰り出すものなのに、街は火が消えたように暗かったと報告してきた。

 なんでも公務員が一律に給与削減にあい、自衛隊員もそのあおりを食って給与がカットされるようになったので、とてもじゃないが以前のように皆で楽しく酒席をもうける余裕がなくなってしまったとのことだった。

 自衛隊にも隠しカネはあるだろうし、問題がないとは言わないが、給与カットを自衛隊員にまで広げるのはいかがなものか。命をはって国を守ってくれる(はず)の人たちなのだから、他の役人とは違うだろうに。






posted by 心に青雲 at 14:05| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
検索する
投稿する