2011年12月04日

コメントくださった方に

 みなさま。
 12月1日に本ブログ休載のお知らせをいたしました。
 以後、みなさまからやめてしまうのは大変残念であるとの温かいコメントを頂戴しました。身に余る光栄に存じます。
 しかし、すでに本ブログは閉鎖する決断をいたしました。少しだけ躊躇しましたが、やはり一度決めた事は実行しなければと思います。

 再開を期待してくださるメールを頂戴して、誠に感謝にたえません。「ひでひこ」様から、「また何かの形でブログを新しく始められましたら、お知らせいただけたら…」とおっしゃっていただきました。ありがとうございます。
 もし再開することになれば、コメントをくださった方にはメールでご連絡いたします。

 ブログをはじめたのが06年6月の22日でしたから、本ブログは12月22日のちょうど5年半のくぎりをもって閉鎖破棄いたします。残す事はいたしません。
 それまでにコメントいただいた方には、もしも再開の折にはご連絡することにします。
 1年経っても再開されなければ、あいつはもうくたばったのだなと思ってください。仮に再開するとしても「心に青雲」というタイトルではないでしょう。

 もう一度最後に12月20日にでもお別れのご挨拶をして、それで終わりとします。
posted by 心に青雲 at 13:38| Comment(23) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年12月01日

しばらく休載します

 みなさま。
 日頃は本ブログをご訪問してくださり、また激励していただきありがとうございます。

 思うところ多々あって、反省するところ多々あって、しばらくブログを休みます。
 年内は更新できないと思います。

 そのまま廃絶にしてしまうか、新たな形で再開するか思案中です。
 実に月日の経つのは早いもので、はや師走となりました。今年はブログを引っ越すなどいろいろな出来事がありました。しばらくは本ブログの総括をしてみたいと思っており、再開するにせよ廃絶するにせよ、私として新たな出発ができればいいかなと思っています。


 「人は自分が思うほど弱い生き物ではない」を書いている途中でしたが、これも思うところあって打ち切りました。
 くだくだ私が解説するより、丸山健二氏の『あなたの若さを殺す敵』を読んでいただくのがベストと思ったからです。
 シナモン様への拙いながらお答えとして書いていた文章なのに、途中で切ってしまい申し訳なく思います。
 シナモン様にはお詫びかたがたいったんはブログを終わりにするとメールで申し上げたところ、「ブログを閉鎖されるとは、残念至極です」と温かい激励のご返事を頂戴し、ちょっと決心がぐらついています。

 最後に、一つブログで紹介する予定だった本を手短に紹介します。
 それは『真実の中国史』宮脇淳子著(李白社 10月刊行)です。
 中国というものをこれほど見事に「暴ききった」著作はないのではないでしょうか。黄文雄氏の一連の著作はありますが、あれは雑学的です。これは正当な学問的中国史です。
 教科書や権威筋の中国史はウソばかりということが、実にわかりやすく説かれています。目からウロコが何十枚もぼろぼろと落ちます。

 著者は「はじめに」でこう問いかけています。
 「日本の枠のなかだけで考えて生きていくと、あまりにも違う文化を持つ相手に自分の持つイメージを押しつけがちです。いろいろな齟齬や摩擦も当然起きてくるでしょう。
 ですから、日本人がイメージする歴史観を外すことが大切なのです。
 われわれに特有の歴史観を外せば、中国も含めてさまざまな世界の人たちと相互理解がしやすくなります。相手への対処の仕方も分かり、今後生きていくうえでの力になるはずです。
 本当の中国の歴史を知ることで、日本人の内向きな視野を少しでも変えられれば幸いです。」

 この文章の最後のところは、まさに私がブログで目指したところでした。つまり言い換えれば「本当の歴史や社会の仕組みを知ることで、日本人の内向きな視野を少しでも変えられれば…」でした。
 






posted by 心に青雲 at 03:32| Comment(8) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年11月30日

人は自分が思うほど弱い生き物ではない(2)


《2》
 シナモンさんから頂いたコメントには「私事ですが、先日、大切な人を傷つけてしまいました。本質的な思想の話をした日の翌日に会った時に、無意識のうちに傷つけてしまったらしく、『昨日話したのに何も伝わってなかったのがショックだった』と言われてしまいました」とあった。

 まずここから回答していきたい。その回答にぴったりの文章が作家・丸山健二氏の『首輪をはずすとき』にあった。以下引用。

    *    *     *
 人は、人が思っているほど弱い生き物ではありません。
 弱さを簡単に認めてしまうことから弱さが際限なく深まってゆくのです。それだけのことなのです。
 そうかといって、ひとたび強さを求めれば、たちまちのうちに高い障壁に囲まれてしまい、身動きが取れなくなり、孤立感に責め苛まれることになります。

 しかし、好きも嫌いもなく、この世を生き抜くには後者を選択するしかないのです。それは命を与えられた者の使命と言えるでしょう。殊に、搾取されるばかりで、いつまでも金銭的に恵まれない我々庶民としては尚更です。

 人間は強いからこそ幾多の危難と無数の犠牲者を乗り越えてここまで種を保ちつづけることができたのです。本当に弱い者は淘汰される宿命にありますから、今、生きているということは強い証しにほかなりません。

 ですが、文明の発達が人間を弱い方向へと引きずりこみました。あらゆる便利さが弱くても生きていかれそうな錯覚を与えました。
 (中略)
 存在意義があるとすれば、それはひたすら強く生きることにあるのでしょう。
 強く生きることにこそ人生の醍醐味が隠されているのでしょう。
 面白く生きるとはそういうことに違いありません。

 そして、姿勢を強さへと転換するきっかけをつかむには、居直りに勝るものはありません。
 そうです、まずはふてくされ、ついで開き直るのです。それが強く生きるための入口というわけです。

 また、強い生き方を持続させるにはけっして怒りの感情を自分で抑えこんでしまわないことです。
 自分を強いと決めつけたがる自分に対する怒り。
 その弱みにつけこんでおのれの利害に利用しようとする他者への怒り。
 税金をむしり取るばかりで、口先だけの理念をふりまわすだけで、結局は大したこともできない国家への怒り。

 この国を陰で牛耳る大企業がもたらす取り返しのつかない被害への怒り。
 非常時に何の役にも立たないどころか、国家や企業の手先となって真実をゆがめてしまう、腐れ学者たちへの怒り。

 とはいえ、どんなに激しい怒りであっても長くはつづきません。悲しみや喜びと同様、怒りもまた時が押し流してしまいます。
 怒りが薄らいでからが本当の勝負になるでしょう。
 強い生き方を身に付けられるかどうかは、心の起伏が少ないときの状態をどう意識して過ごすかにかかっています。

 意志というものが精神の奈辺にあるのか知る由もありませんが、しかし、確かに存在するこの意志こそが重大な鍵となります。意志があってこそ人間なのです。意志があっての自由なのです。意志がすべてと言っても過言ではないでしょう。
(引用終わり)

    *     *     *

 ご感想はいかがだろうか。
 丸山氏は意志が大事だ、意志こそが人生如何に生きるべきかの要なのだと説く。それはそれで聴くべきものだと思うが、その意志がどのように形成されるのか、教育され・学習して培われることについての言及がほとんどないのが欠点だと思う。

 しかしそれには目をつぶろう。どう学習すべきかは明日書いてみたい。

 丸山氏は強い心を持つには、まずは居直りが、開き直りが、必要だと言っている。シナモンさんの場合も、事実としては大切な友人を心ならずも傷つけてしまったのだろうし、それを悔やんでおいでだ。それは気持ちとしてはわからないではないが、相手にだって落ち度はあるのである。

 それに悪意で傷つけたわけではないのであれば、過剰な内省は無用である。悪かったと思うなら心から謝れば済むことではないか?
 謝れば済む話を、頑として非を認めようとしない人が最近目につくような気がする。まずは謝って、それからじっくり相手の言い分を聴き、また自分の主張を落ち着いて言うことでほとんどは足りるはずである。

 こんなことで(というと失礼だろうが)、いちいち心に動揺が走っていたら体も心も持たない。だから開き直ることが大事だと思う。それが「入口」だと丸山氏は説く。あくまで「入口」と言っているのであって、それでおしまいにしろとは言っていない。

 開き直って、まずは自分の心の強さを確保したうえで、ゆっくり反省したらよいのであろう。だから入口なのである。
 それから丸山氏は怒りを持てと言っているが、他者への怒りだけで終始してはいけない。自分への怒りも向けなさいというのだ。これは怒りだけではなく、悲しみも喜びも、“他者へと自分へとの対立物の統一”として捉えなければなるまい。

 レイモンド・チャンドラーの有名な言葉があるのはご存知か。
 「男は強くなければ(タフでなければ)生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」である。ハードボイルド小説『プレイバック』のなかで私立探偵フィリップ・マーロウが、作中のヒロインに「あなたの様に強い(hard)人が、どうしてそんなに優しく(gentle)なれるの?」と問われて、答えるセリフである。

 なかなか含蓄のあるセリフだった。シナモンさんが大切な友人を傷つけてしまったと悔やんでおられるのはわかるが、その優しさはいかにも「生きている資格」ではあるが、一方でタフでなければいけないのである。男も、女も。

 ご友人から「昨日話したのに何も伝わってなかったのがショックだった」と言われたそうだが、先方の言い方が悪かった場合もある。「ごめんね、大事な話だからもう一度聴かせて」と言えば、先方も意固地に怒ってばかりはいないだろう。
 これがタフということだろうと思う。





posted by 心に青雲 at 06:54| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年11月29日

人は自分が思うほど弱い生き物ではない(1)


《1》
 11月19日付ブログにシナモン様からコメントがあって、「どうしたら頭が良くなるか、回復するか、ご教授願えないでしょうか?」というお尋ねがあった。
 
 その前には、「私事ですが、先日、大切な人を傷つけてしまいました。本質的な思想の話をした日の翌日に会った時に、無意識のうちに傷つけてしまったらしく、「昨日話したのに何も伝わってなかったのがショックだった」と言われてしまいました。
 私の脳みそは理解力に乏しいのだと痛感して、不安になりました。半年そこそこの玄米菜食では、薬の毒素は抜け切らないのかなと。」

 こういう悩みがつづられていた。
 似たようなケースの相談事というか悩みを吐露されてくる方が何人かおられる(旧・心に青雲の時代に)。同じような悩みを持っている人が多い(?)と驚いたのである。

 そこで私はシナモン様にメールで、「シナモン様の人生の課題は、まずは「自立」ということかと思います。自立とは的確な判断ができるということですから、そういった世間では曖昧な「的確な判断」でしょうが、それができるために弁証法を学ぶのです。」
 と、簡単にお答えした

 もう少し詳しく説かねばと思いつつ、時間が少し経ってしまった。
 シナモン様はこの半年、玄米食に変えて体調は大変良くなったとコメントしてきてくださったが、玄米を食べればただちに頭が良くなるということではない。

 玄米菜食とは、畑の作物を植える例で申し上げれば、土を見事にするようなものである。有機の堆肥肥料を施し、よく耕して空気を入れ、微生物を大量に繁殖させる…これが健康な作物をつくる土台である。
 その土台(土壌)のうえに、どんな種を撒き育てていくか、つまり人間ならば目的をもって賢くなっていくかは、端的に言えば、自立すること、志を掲げること、情熱を燃やすこと、誇りを把持することなどにかかっている。
 
 人生の土台(土壌)という事で言えば、食事以外に睡眠、運動、住居、衣服などの生活過程をととのえて、病気にならずつねに絶好調の体を持てていることになる。
 そこを見事に説いているのが、神庭純子氏の『初学者のための「看護覚え書」(1)』(現代社)であると本ブログで紹介したことがある。

 同書に「推薦の言葉を南郷継正先生が寄せておられる。若干引用させていただくと。
     *     *     *
 人類の歴史上、「人間いかに生きるべきか」に関わる人生指南書、すなわち人生論という名の著作は数多く存在しています。しかし、その人生を生きていくために必須の土台となるべきものを思想性高く掲げながら、かつ学問レベルでまともに説ききっている書物は、そう数多くはありません。

 その数少ない書物の中でも、一際輝きを放っている書物が、このナイチンゲールの『看護覚え書』なのです。
 (中略)

 いくら立派な言葉で人生を説く書物があっても、それはあくまでも「人生、いかに生きるべきか」の思想、野望、大志等々の、精神や観念すなわち頭脳活動の中の世界、心の拡がりの中の世界のお話なのであって、そこでは肝心の土台となるべきものに関わる事実は、まともに説かれてはいないからです。つまり、決して現実の、実際の生きるということの「生の暮らし」をしっかりと説くことでは、まずないのです。

 ここで人生の土台とは、まともに生活する、すなわち健康的に生活できることがそうであり、それなしには生きることの理想をいくら掲げても健康的な生活を保てずに、病人や、半病人になったりして、ゆがんだ生活で生きることになってしまったのでは、どうしようもないのです。

 すなわち、人は信念や情熱などの精神的生活のみでは現実の世界でまともに生きていけないのです。
 (引用終わり)

    *     *     *

 だから、シナモンさんが食事を玄米菜食に替えたことはまず大正解であったのだ。そうして健康的に生きることが、頭がよくなり、充実した人生を送れる土台となる準備ができたということである。
 
 ではその準備ができてきたとして、次にはどうやったら自立した人生、目的的人生、情熱を燃やせる人生になっていけるか、になる。
 そうした指南の書物は、南郷先生が「推薦の言葉」で述べておられるように、古典から始まって現代のものに至るまで、数多く「人生如何に生きるべきか」が説かれている。

 私もそうした書物を数多く読んできた。玉石混淆であった。座右の書となっているものもあれば、ろくに読まずに捨て去ったものもあった。
 そんななか、お勧めできる書物を1冊取り上げたい。

 それは作家・丸山健二氏の『あなたの若さを殺す敵』(朝日新聞出版)だ。
 丸山健二氏の著作は、本ブログでは『田舎暮らしに殺されない法』と『生者へ』を取り上げて論じたことがあった。
 丸山健二氏によるいわゆる人生論的なエッセイは、いくつかある。最近では庭創りに絡めたり(『さもなければ夕焼けがこんなに美しいはずはない』)とか、3・11震災に絡めたり(『首輪をはずすとき』)しているが、いずれも非常に優れているので、もし『あなたの若さを殺す敵』が気に入ったらほかのエッセイもお読みになるといいだろう。

 しかし今回はそれらの中から2010年4月に刊行された『あなたの若さを殺す敵』を紹介することにしたい。
 シナモンさんにもぜひお読みになられるようお勧めする。頭をガーンと殴られたような衝撃をおそらく受けられるだろう。今までの自分はいったい何を馬鹿なことをやっていたのか、と。

 だから冒頭に紹介したシナモンさんの「どうしたら頭が良くなるか、回復するか、ご教授願えないでしょうか?」というお尋ねへの回答は、まずは『あなたの若さを殺す敵』を読むことだと申し上げる。

 明日からそれを少し詳しく紹介しながら説いていきたい。




posted by 心に青雲 at 08:59| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2011年11月28日

紙幣の空白


《1》
 世界に数多紙幣は存在するけれど、そのほとんどに余白というのか、白い部分がある。

 世界各国の紙幣のイメージが以下のサイトで見られるからご覧になればよく分かると思う。
http://banknotes.visithp.jp/
 ユーロ紙幣も片側が白というか薄い色、つまり空白に近いデザインになっているのがわかる。

 日本の紙幣はどれもが中央に楕円形の空白部分がある。透かしになっているからだと政府は説明するだろうが、実はこの空白は偽札防止のためにあるのではない。

 アメリカのドル札は以下で見ると、透かしのための空白がほとんどない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国ドル
 アメリカはドル紙幣の模様替えをすると言いながら、まだやっていないようだ。

 これを読み解いた本が、宇野正美氏の『戦後五十年 日本の死角』(光文社)である。以下にその部分を引用する。
      *     *     *

 これら主要通貨に共通して存在する空白は、何を物語っているのだろうか。
 あるときからその空白部分に、特別なスタンプが押されることになるのである。スタンプが押されたものは国外にも通用するが、押されていないものは国内のみの通貨とされる。

 中国の通貨「元(ユエン)」を思い出していただきたい。
 中国の元には2種類ある。兌換券と人民元である。前者はドルや円など外国通貨と交換することができ、中国国内の外国製品ショップで買い物することもできる。

 それに対して後者は中国国内においてのみ通用し、外貨ショップでは使用できない。そして、国際的な価値は何もない。

 それと同じことが各国の通貨にも起きる。それが空白部分の意味なのである。
 しかし、主要通貨の中で唯一空白部分を作っていない通貨があった。それがアメリカのドル札だったのである。

 1996年のドル札の模様替えから、空白部分が登場する。これによって全世界の主要通貨はすべて空白を持つことになる。
 では、これらの空白部分が出揃ったことから、何を読み取るべきであろうか。
    *     *     *

 このあと宇野正美氏は、この透かしのある空白部分にスタンプが押されることによって、円その他の通貨は当座の「国際通貨」に化けるというのだ。それからやがてコンピュータ・マネーに統合されていく、と。
 それに加えて、世界的FRBともいうべき機構が誕生するであろうと言っている。

 これが宇野氏が読み解く、ワン・ワールド主義者の狙いだというのだ。
 ただ、宇野氏の本は1995年の発行で、アメリカのドル札が模様替えしたのは翌年1996年であったから、この時点では推測でしかなかった。実際、ドル札は替えられたが、紙幣中央に描かれたリンカーンらの肖像画が大きくデザインされたり、偽造しにくい印刷になったりした程度であった模様である。空白はあえて作られなかった。

 そういう細かいところでは予測が外れたかもしれないが、各国紙幣の空白部分の謎はこのとおりではないかと思われる。
 昔から初代ロスチャイルドがあからさまに言ったごとく、その国の貨幣発行権さえユダ金が握れば、その国で誰が法律をつくろうが関係ない、ということだ。思いどおりにその国を動かせるようになる。
 実際、アメリカ合衆国はその手でむちゃくちゃにされたのである。

《2》
 もう一つ宇野正美氏の『『戦後五十年 日本の死角』から紹介しよう。

 以前にも取り上げたが、ユダヤの教典「タルムード」は、ユダヤ人だけが人間で、異邦人はすべてゴイム(獣、ブタ)であるとしているのだ。だからユダヤだけが永遠の命を得る資格があると豪語する。

 神がゴイムに人間の顔を与えたのは、ユダヤ人が将来彼らを奴隷にして使うときに不快感を感じないためである、とまで言っているおそるべき書なのである。

 さてそれに対して、反タルムードの書物が存在する。それが宇野氏は新約聖書のなかの「ヨハネ黙示録」だと説く。
 実に今から二千年前に書かれたものなのに、反タルムードが宣言されている。
 「ヨハネ黙示録」には、タルムードが世界を覆い尽くしそれによってどんな世界が出来するかが予告されているのだ。

    *     *     *
 「ヨハネ黙示録」には人間奴隷化が予告されている。
 それゆえユダヤ人たちは「ヨハネ黙示録」を非常に嫌う。黙示録について語られることは避けられ、多くのキリスト教世界ではこれが禁断の書に等しくなっている。

 「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手か額に、刻印を受けさせた。
 またその刻印は、すなわち、あの獣の名(この場合の獣はワン・ワールドによって世界を支配する独裁者のこと)またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 ここに知恵がある。思慮あるものはその獣の数字を覚えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は666である。」
 (「ヨハネ黙示録」13章16〜18節)
   
 なんと驚くべき言葉ではないか。コンピュータも何もない時代、二千年前からこのようなタルムード思考の未来を暴露する言葉が記録されていたのである。
 それゆえアメリカ、ヨーロッパでは国民総番号制の反対運動が起きている。

 ワン・ワールド主義者たちはコンピュータによって人間管理を行ないたい。しかしアメリカ、ヨーロッパの良識ある人々はこの「ヨハネ黙示録」を知っているがゆえに、国民総番号制に対して頑強に反対しているのである。
     *    *    *

 「666」の数字は、インターネットのあの「www」である。サタンが好む数字とされる。要するにユダヤはこの「666」を自らの力の誇示に使っている。

 聖書に666という数字が最初に登場するのは、シバの女王がソロモン王に贈った金の666タラントだそうである。ここから分かることは、「ヨハネ黙示録」の言う獣とは、ソロモン王のように富を独占する国家のことなのである。つまり現在のアメリカのグローバリズム支配が厳然とあり、それに服従しない国や民は、物を売る事も買う事も出来なくなる…という訳である。




posted by 心に青雲 at 07:30| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする