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〈プロメテウスの罠〉第2シリーズ 研究者の辞表(1)~(21)完

10月 27th, 2011 | Posted by nanohana in 1 子供たちを守ろう | 1 放射能汚染 | 1 福島を救え | 3 隠蔽・情報操作と圧力
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朝日新聞 長期連載

第1シリーズ 頼む、逃げてくれ 〈プロメテウスの罠〉 防護服の男(1)~(13)はこちら

第2シリーズ「研究者の辞表」は、情報は誰のものかを考えます。約20回の予定です。敬称は略します。
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研究者の辞表(1)測定 まず僕が行く
3月11日午後。地震の瞬間を、木村真三(44)は川崎市にある労働安全衛生総合研究所で迎えた。

研究所員の木村は、放射線衛生学の専門家。医師や看護師の被曝(ひばく)調査や、チェルノブイリ事故の現地調査に取り組んでいた。

大きな揺れの後、木村はテレビに駆け寄って「原発どうなった!」と叫んだ。大丈夫、とテレビは報じていた。千葉県市川市に住む家族とは翌日の午前2時まで連絡が取れなかった。

翌12日は土曜日だった。家族と会うことができ、午後は3歳の長男と買い物に出かけた。家に戻ると、妻がいった。「原発が爆発した」。瞬間、木村は反応していた。スーツに着替え、長男に「お父さん、しばらく帰ってこないから」と告げた。

研究所に戻って現地入りの準備をした。住民を放射線から守るにはまず測定しなくてはならない。それには速さが求められる。時間がたてばたつほど測定不能となる放射性物質が増える。急ぐ必要があった。

準備を急ぎながら、木村は最も信頼する4人の研究者にメールを出した。京大の今中哲二、小出裕章、長崎大の高辻俊宏、広島大の遠藤暁。

「檄文(げきぶん)を出したんです」と木村は振り返る。

「いま調査をやらなくていつやるんだ。僕がまずサンプリングに行く。皆でそれを分析してくれ、と書きました」

えりすぐりの人たち、と木村はいう。

「全員、よし分かったといってくれました。一番返事が早かったのは小出さんです。私は現地に行けないけれども最大限の協力をします、と。あとの人たちからも次々と返事がきました」

木村はその檄文を七沢潔(54)ら旧知のNHKディレクター3人にも回した。測定したデータを公表する手段が要る、と考えていた。

じきに携帯電話が鳴った。七沢だった。七沢は七沢で知り合いの研究者と連絡を取りまくっていた。七沢はいった。「特別番組を考えている。協力してくれないか」

13日に市川で七沢と会った。打ち合わせを終えて七沢と別れたとき、携帯に研究所からの一斉メールが入った。研究所は厚生労働省所管の独立行政法人。文面にはこうあった。

〈放射線等の測定などできることもいくつかあるでしょうが、本省並びに研究所の指示に従ってください。くれぐれも勝手な行動はしないようお願いします〉

研究所に放射線の専門家は自分しかいない。これは自分に向けて出されたメールだ。木村はそう思った。自分の現地入りをとめるつもりだ、と理解した。(依光隆明)

*2011.10.17朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(2)家人には一切いわず
木村真三(44)は、1999年に起きた茨城県東海村の臨界事故を思い出した。

当時、木村は千葉市にある放射線医学総合研究所に勤めていた。同僚とすぐ調査に行こうとしたが、許可が出ない。休日に有志で周辺を調査し、本格的な調査に向けて根回しを始めた。と、上司から「余計なことをするな」と大目玉を食らう。

「3月13日のメールを見て放医研のときと同じだなと思いました。同じことを繰り返したら死ぬまで、いや、棺おけに入っても後悔する」

出した結論は、労働安全衛生総合研究所を辞めることだった。

「家人には一切いわず、すぐ研究所に行って総務課長の机の上に辞表を置いてきました」

軽い決断ではなかった。任期5年の満期で放医研を辞めた後、木村は専業主夫を経て塗装工になった。雨の日以外は土日もなく働いた。ただ、ときどき休みをもらった。

「明日はつくばで論文書かないかんのよとか、京大で実験に入るからとか。研究者公募情報はずっとチェックしていました」

1年半後、公募情報で労働安全衛生総合研究所がアスベストの研究者を募集していると知る。「アスベストの中皮腫はプルトニウムによる症状とよく似てるんです。で、アスベストは知らんけど放射線は知ってると書いたら採用されました」

そのとき40歳。正職員になったのは生まれて初めてだった。悪い職場ではなかった。「労働衛生と関係ないからチェルノブイリ調査事業は廃止を」と求めら れた際も泣く泣くのんだ。「事業は廃止になるが、自腹でも調査を続ける」と仲間にメールしたのは原発事故直前。研究者が職を得る苦労は身にしみていた。

それだけに、職を手放したことは妻に言えなかった。思い切って打ち明けたのは3月の終わり。妻の言葉は「あなたらしいわね」だった。

NHK教育テレビのETV特集ディレクター、大森淳郎(53)は、原発事故の直後から関連番組づくりを考えていた。行き着いたのは、原発に詳しい七沢潔 (54)を呼ぶこと。七沢は現場を離れ、放送文化研究所の研究員を務めていた。3月14日、プロデューサーの増田秀樹(48)に相談すると、「すぐ呼ぼ う」。

その日の夕方、七沢と木村が東京・渋谷のNHK6階に現れた。木村は測定器や防護用品をたくさん抱えてきて、「明日から行くんです」と主張した。(依光隆明)

*2011.10.18朝日新聞朝刊
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研究者の辞表(3)雨がっぱとゴム長
3月15日。木村真三(44)とNHKの七沢潔(54)、大森淳郎(53)は、ロケ用のワゴン車で福島に入った。

途中、ゴム引きの雨がっぱとゴム長靴を買い求めた。人がいる地域に防護服で乗り込むのは違和感がある、と考えた。

長靴をはき、その上からポリ袋をかぶせて雨がっぱとの間を粘着テープでしっかりとめた。木村の指導だった。マスクも活性炭入り、5層構造の品を木村が用意した。

放射線量を測り、検査用の土を採取しながら福島第一原発の方向を目指した。汚染はまだら模様だった。毎時300マイクロシーベルトまで測定できる機器の表示が振り切れる場所もあった。原発に近い割には線量が低い場所もあった。

開いていた三春町の旅館に泊まりながら、とりあえず原発周辺を3日間走り回った。その後、ETV特集プロデューサーの増田秀樹(48)も加わって29日まで断続的に現地調査を続けた。目的は放射能汚染地図を作り、番組にして流すことだった。4月3日の放映を目指した。

番組放映までの歩みは平坦(へいたん)ではなかった。22日、局内の会議で企画そのものがボツになった。増田はあせった。4月3日のETV特集に穴が開 く。かといって震災と関係ない番組はやりたくない。七沢らと話し合い、三春町に住む作家、玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)とノンフィクション作家、吉岡 忍の対談を番組にして放映することを決める。それが24日だった。

だが、放射能汚染地図を柱とした番組づくりもあきらめてはいなかった。25日、増田が大森に連絡した。

「30キロ圏内も入れるぞ」

NHKは30キロ圏内入りを自主規制していた。入れるというのは勘違いで、のちに増田は始末書を取られることになる。大森は郡山で借りたレンタカーを運転して浪江町や葛尾村、南相馬市を駆けまわった。

大森は昨年夏、「敗戦とラジオ」という番組を作っていた。その中で感じたのは大本営発表の危険性だった。戦時中、なぜ報道機関は大本営発表しかできなかったのか。

大森は戦時中の「勝った」「勝った」という大本営発表が、今の政府の「大丈夫」「大丈夫」と重なってしようがなかった。大本営的発表があったとき、それ を疑わないと意味はない。あとで振り返っても何にもならない。たとえ厳しい放射線値が出ても、本当の数値を報じることが重要ではないか。そんな思いに突き 動かされていた。(依光隆明)

*2011.10.19朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(4)「これは棄民だ」
3月27日。NHKの七沢潔(54)と大森淳郎(53)はレンタカーで浪江町の山間部を走っていた。

昼曽根トンネルを西に抜けた辺りで毎時20マイクロシーベルトまで測定可能な表示が振り切れる場所があった。まさか人はいないよなあ、と2人で一軒の家を訪れると人がいた。

なぜまだここにいるのか。驚いた七沢が尋ねると、「町が何も言ってこないから」。

元板前の天野正勝(70)。20キロ圏外なので、ここは安全だと信じていた。心臓に不安を抱え、避難所には行けないとも思っていた。

妻と犬と一緒だった。電話が通じないため、誰とも連絡が取れない。携帯が通じる場所まで行ったら親戚に電話してくれ、と頼まれた。

天野は「近くの赤宇木(あこうぎ)集会所に10人くらいが避難している」と教えてくれた。すでに夕暮れだった。

集会所を訪れると、12人の避難民が暮らしていた。警戒された。「ほんとにNHK? 私たちを追い出しに来たんじゃないの、と」(七沢)。七沢と大森が持つ線量計の積算値はぐんぐん上がっていた。ここは放射線量が高いです、と言っても12人には信用されなかった。

それぞれ事情を抱えていた。ペットがいるため避難所に行けない人がいた。隣の体育館には夫婦がいて、段ボールで囲った空間で暮らしていた。妻は足が悪くてポータブルトイレしか使えない、だから皆と一緒には暮らせなかった。夫は心臓の薬が切れたといっていた。

大森がぽつりといった。「これは棄民だ」。行き場のない12人。正規の避難所ではないため、食料も自分たちで調達していた。

夜。別行動をしていた木村真三(44)に集会所のことを伝えた。木村は言った。

「調査は一時中止しましょう。僕が避難を説得します。説得しないと僕の仕事はない」

翌28日。赤宇木集会所前の駐車場で放射線量を測ると、毎時80マイクロシーベルトあった。木村は驚いた。この数値は人が住めるレベルではない。集会所の中に入り、マスクを外して危険を説明した。所内の線量も毎時25~30マイクロシーベルトあった。

「線量計の数値を見せ、初めて皆が納得したんです。それまでにも警察や役場が『危ない』と言ってきたが、数値を示したことはなかった。数値を見せたから納得したし、僕が専門家だったことも大きかった」(依光隆明)

*2011.10.20朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(5)放射線量も赤裸々に
木村真三(44)と調査を続けながら、NHKの七沢潔(54)と大森淳郎(53)、増田秀樹(48)は4月3日の番組づくりを急いでいた。

もともと汚染地図の作製を番組にする計画だったが、3月22日の会議で企画自体がボツになっていた。急きょ考えたのが、福島県在住の作家、玄侑宗久とノ ンフィクション作家、吉岡忍の対談。対談の合間に、赤宇木(あこうぎ)集会所に避難している12人の情景を入れることにした。

赤宇木の放射線量が異常に高いこと、そこに12人が避難していることは27日に七沢と大森が見つけ、28日に木村が避難を呼びかけていた。12人は30日に避難するのだが、その前日、29日に吉岡を集会所に連れて行き、30日の避難もカメラに収めた。

それから編集。普通1カ月かかるのを3日で仕上げた。若い局員も手伝い、5人で寝ずにやった。「でき上がったのはオンエアの30分前でした」と増田はいう。

赤宇木のシーンは視聴者に大きな感銘を与えた。

「NHK内部で取材規制の内規を見直す契機にもなりました。30キロ圏や20キロ圏の中に入って取材するべきじゃないか、と。1週間後の4月12日、内規は変更になりました」

4月3日の番組が成功したのを背景に、増田らは当初の目的だった番組を実現させる。ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」。放映は5月15日深夜。こちらの反響はさらに大きかった。

「視聴者から電話が1千件きました。実態が分かった、こういう調査報道こそやってほしい、なぜ深夜にやるんだ、などでしたね」

発表に頼らず、独自に調査したことが大きかったと増田は振り返る。

「赤裸々というか、番組では放射線の数字も含めて出しています。政府はパニックを心配していたようですが、実際は逆でしたね。自分たちがどんな状況にあるのか知りたい、という意見が多かった」

七沢はいう。

「こんな所までよく来てくれた、と取材中も喜ばれるし、放送した後にありがとうって言われるんです。見た人からありがとうと言われる番組なんて、やったことがない」

たとえ厳しい数字が出ても、本当のデータを知りたい。増田にはそんな声が届いたという。住民は情報に飢えていたことになる。

情報はなぜ末端に届かないのか。赤宇木のお隣、飯舘村長泥(ながどろ)ではこんなことがあった。(依光隆明)

*2011.10.21朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(6)車から出てこいって
原発事故後、浪江町山間部に隣接する飯舘村には南相馬市からの避難民が集まっていた。

避難してきた人たちに食料が要る。飯舘は村ぐるみ救援に動いた。同村長泥(ながどろ)の地区長を務める鴫原(しぎはら)良友(60)も、地区の家々に米1升ずつの供出を頼んで回った。

集まった米を炊き、長泥の人たちは握り飯を握って避難した人たちに届けた。3月15日が600個、16日と17日は300個。

「放射能? そんな意識は全然なかった。原発の交付金も来なかったが、放射能も来ない、そんなふうに信じ切っていたな」

村の南端にある長泥は、高原地帯に約70軒が点在している。原発からは33キロも離れていて放射能とは縁遠いはずだった。ところが……。

長泥の南東は浪江町赤宇木(あこうぎ)で、その隣が昼曽根。福島第一原発から見ると北西に昼曽根、赤宇木、長泥と続く。飛散した放射性物質は、それら北西方向の集落に落ちていった。

「見てみな、3月17日のデータ。毎時95マイクロシーベルトあったんだ。あんとき、おら握ってたんだよ、おにぎり」

95という値が出ていることも、数字が持つ意味も長泥の人々には知らされていなかった。そればかりではない。鴫原の脳裏には腹立たしい記憶が刻まれている。

3月20日の数日前と記憶している。地区中心部に白いワゴン車が止まっているのに気がついた。

「2時間くらいいたんだ、最初。車止めてな。車から棒出してんだ。白い防護服着て。ガスマスクして」

車から出ることもあったが、すぐまた車に入ってしまう。

「ちょっと出てきて話しろっていったんだ。おらはこのまんまだから。マスクもしねえで」

30キロ圏の外は全く安全なはずだった。そこにガスマスク防護服男が現れ、車から出ずに棒を出して測定する。異様な光景といっていい。

「どうなんだっていっても答えない。線量の数値も教えない。どうなんだっていったらたばこ吸ってんだよ。ふざけんなこのやろうって思って追及したんだよ。文部科学省の職員なのかって聞いたら違うと。なんでこんな車さ。文科省の職員じゃないのかといったら違うと」

やがて押し問答に。

「わあわあといってるうちに、今度は下請けなんだと。下請けの下請けなんだと。上さ聞かないとだめだと」(依光隆明)

*2011.10.22朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(7)教えない、貸さない
飯舘村長泥(ながどろ)の区長、鴫原(しぎはら)良友(60)は福島市で避難生活を送っている。彼の記憶をさらにたぐる。

3月20日の数日前、長泥。白ワゴン車に乗る防護服男とのやり取り。

「車の中の男たちはみんな線量計を二つずつ持ってんだからあ、一つだけ貸さないかといったんだ。あの人たち、積算のやつと二つ持ってんだからな」

「線量計を見ないのかっていったら見ないんだっていうんだけど、貸さないんだよ。長泥地区にひとつ貸してくれ、おらが見て、みんなにこうだというからと」

「分かった。貸さねえんなら今度は掲示板書けといったんだ。それでもすぐには書いてくれなくてな。書いてもらうまでに1週間くらいかかった」

鴫原の要求で、やがて地区の掲示板に数値が載り始めた。さかのぼって載せたのだろう。17日が毎時95.1マイクロシーベルトで、18日が52、19日59.2、20日60、21日45、22日40、23日35、24日30、25日27……。

放射線量の低下に従い、男たちの格好は変化した。ガスマスクに防護服姿が、やがて普通のマスクに変わった。防護服もいつの間にか普通の作業服に替わっていた。

住民が普通に住む場所に防護服姿で乗り込み、測定値を聞かれても教えない。測定するから線量計を貸してくれ、と求められても貸さない。

傍ら、政府は安全といい続けた。

3月18日午前。官房長官、枝野幸男の記者会見。

「周辺の数値でございますが、部分的に大きな数字が出ているところはありますが、全体としては人体に影響を与える恐れのある大きな数値は示されておりません。若干高い数値が出ているポイントがございますが、ここについても、直ちに人体に影響を与える数値ではないと」

23日午後にはこう言った。

「30キロ圏外の一部においても、年間100ミリシーベルト以上の被曝(ひばく)線量となり得るケースも見られますが、現時点で直ちに避難や屋内退避をしなければならない状況だとは分析をいたしておりません」

住民は安全と信じて住み続けるほかなかった。鴫原はいう。

「防護服の男たちが来たとき、子どももいたよ。俺の孫もいたもんな。まあ、10人か20人いた」

防護服男は「文部科学省の下請け」的ないい方をした。彼らはなぜこれほど秘密主義だったのか。(依光隆明)

*2011.10.23朝日新聞朝刊
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研究者の辞表(8)「箝口令」と呼ぶ文書
一枚の文書がある。

旧日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)が1999年10月に出した。放射能の影響予測や放射線量のデータを公表する際のルールを記した一枚紙だ。

外部からデータの提供依頼があれば、依頼された者はデータ管理者にお伺いをたてる。管理者は部長に聞き、部長は所長に聞き、所長は副理事長に聞く。

副理事長がOKを出すと、逆の順番でOKが伝達され、安全管理室を通じて外部に提供される。注釈が付いていて、「学問的に十分な質であることを確認」とある。

要するに、相当に面倒な手続きを踏まなければ外部にデータを出せないことになっている。

「われわれはこの文書を『箝口令(かんこうれい)』と呼んだんですよ」

同機構労組の委員長を長く務める岩井孝(54)が説明する。同労組の略称は原研労組。機構には旧動燃系の原子力研究開発労組もある。

「自分たちが知った情報は、たとえ住民のためになることでも職務上の秘密だ、出すなということです」

文書が出たのは同年9月30日の東海村臨界事故直後。つまり、臨界事故に伴う各種データを流出させないためにこの文書が作られた構図になる。だから「箝口令」。

「あのとき、われわれの仲間が測りに行ったんですけど、なかなか国がそのデータを出さなかった。住民被曝(ひばく)の懸念を示すデータもあったのに、出さない」

個人で出せば処分が待っている。ならば組合でまとまってやればいいのではないか。そう考え、組合として住民に知らせるべき情報を出したりしたという。

同じようなことが、12年後の今も繰り返されている。

「原子力機構にはモニタリングや環境測定を仕事にしている人たちがいます。その人たちが動けない。だめだ、放射線量を測ってもデータを出せないんだという。なぜ出せないんだと聞くと、国が情報を管理するから機構として測っても発表できない、と上司にいわれたと」

データなんだから出さないのが間違っている、と岩井は憤る。

「出すべきものを出さない、だから国のいうことは信用されない」

「放射線量を書いたメモも廃棄しなくちゃだめだといわれているんです。外に流れたら困るからと」

一枚紙の時代とそう変わってないな、と岩井は思う。(依光隆明)

*2011.10.24朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(9)暴力団からスカウト
現在、放射線量を測るモニタリングの定点は文部科学省が決め、日本原子力研究開発機構の研究者らが計測に当たっている。

「研究者が単なる作業員になってるんですよね」。日本原子力研究開発機構労組(原研労組)の委員長、岩井孝(54)がいう。

「定点で測るのもそれはそれで意味はありますが、それ以外に、線量の高い場所などを探して歩くことが絶対に必要なんです。そういう意味では研究者は歯がゆい思いをしていると思います」

その歯がゆさを、辞職という手段で飛び越えたのが木村真三(44)だった。勤めていた労働安全衛生総合研究所に辞表を出し、縦横に動いて放射線を測定した。時には住民にデータを示して危険を説明した。

やっと得た職を辞してまで現場に行く。木村が思い切った行動を取った背景には、おそらく木村の反骨心と独特の経歴が影響している。

木村は愛媛県西南部、四万十川の支流に広がる広見町(現鬼北町)で生まれた。父は傷痍(しょうい)軍人の町職員で、厳格だった。母は保育園長。小学校から高校まで地元で過ごす。

実は相当な不良だった。

「小学3、4年のとき、いじめられている女の子をかばったら今度は僕が徹底的にいじめられたんです。中学に入ったときに思いました。こいつらよりもっとワルになったらこいつらをたたきつぶせる」

授業に出ず、体育館の屋根裏でたばこを吸った。けんかもした。北宇和高校に進んでも同じだった。けんかに勝つため体を鍛えに鍛えた。177センチの身長にがっしり筋肉がついた。一時はプロレス入りも考えた。

卒業間際には暴力団にスカウトされた。

「お前やったら頭も切れるけん、うちに来い。舎弟分の事務所が松山にあるから、そこで1カ月修業して、それからうちに来い、と。就職の誘いは暴力団だけでした」

父親は「お国のために死んでこい」といった。自衛隊に入れ、という命令だった。そのとき、木村は人生でし忘れていることはないかと考えた。そういえば勉強をやったことがなかった。大学に行きたいな。

もともと天文学者になる夢を持っていて、ぐれてからも天体観測を続けていた。物理学を学びたい、と思っていた。父親は「お前みたいなやつに勉強する資格はない」と怒ったが、母親が「私がお金を出します」といってくれた。(依光隆明)

*2011.10.25朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(10)伝える、それが救う道
異色の研究者、木村真三(44)の過去を続ける。

大学行きは決めたが、学力はない。愛媛の山あいから出た先は高知市だった。市郊外にある予備校の寮に入り、自転車で予備校に通った。

「一念発起して勉強しました。英語の偏差値は29から60まで上がりました。長文解釈が得意でした」

友人が「山口県に東京理科大の短大ができる。そこなら理科大に進める」と教えてくれた。助言に従ったものの、当初は素行不良だった。

「1年の夏休み明けに面接があって、進学したいって言うと、行けるところはないと言われたんです。そこでまた一念発起して。助教授に『生活改め表』を書 けと言われて書いて、必死に勉強した。自分より成績の低い仲間が東京理科大への編入を決めていくのに反発し、国立に行く、九州工大を受ける、と」

推薦をくれた教授が「お前は二部(夜間)で働く人の大変さを味わってこい」といった。合格し、九州工大の二部に3年から編入する。働きながら熱心に学ぶ人たちの姿は目からうろこの驚きだった。

「これはほんとに勉強せんといけんなあと思いました」

専攻は金属材料で、物理と化学の両方を学んだ。学内で技術補佐員の仕事を見つけ、昼は分子構造の解析プログラムをつくったりした。

卒業が迫り、工業高校の教師を目指すか大学院への進学を考えていた。と、推薦状をくれた山口の教授から電話が入る。「お前、来週からうちの大学の助手だから。もう教授会で決まった」

いや応なく山口に戻り、助手を務めた。1年後、大学院への思いが募り、石川県の北陸先端科学技術大学院大に。体内の薬物伝達を研究し、2年で修士課程を修了。博士課程は北海道大に進み、パーキンソン病のメカニズム研究で博士号を取る。

妻の実家が会津の出ということもあり、木村は3月から福島に半ば入りっぱなしで内部被曝(ひばく)調査や汚染地図づくりに取り組んでいる。

木村の信念は「研究成果は住民のもの」だ。仮に深刻な値であっても住民に知らせ、意味を説明することが人々を救う道だと信じている。

だが、木村の考え方は多数派ではない。たとえば3月18日、日本気象学会は会員に研究成果の公表自粛を呼びかけた。「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報に基づいて行動すること」が自粛の理由だった。(依光隆明)

*2011.10.26朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(11)ピンポイントの指示
放射線衛生学の研究者、木村真三(44)らが福島に入った3月15日は、朝6時すぎに福島第一原発の2号機が破損、大量の放射性物質が放出されていた。

原発から5キロの場所には11日夜に国の現地対策本部ができていた。しかし14日夜には2号機の状態を懸念して撤退方針を決める。同日夜から撤退を始め、15日午後には原発から60キロ離れた福島県庁に退いた。

撤退組の一人、渡辺眞樹男(57)は福島県庁に移った後の15日夜に指示を受けた。「大変な事態になっている。測定に行ってくれ」

渡辺は文部科学省茨城原子力安全管理事務所から応援に来ていた。指示された場所は浪江町山間部の3カ所。ピンポイントだった。神奈川北原子力事務所の車 で現地に行き、午後9時ごろ放射線量を測る。数値を見て驚いた。3カ所とも高く、特に赤宇木(あこうぎ)は毎時330マイクロシーベルト。

「いやもう、信じられなかった」と渡辺は振り返る。すぐ報告しようとしたが、携帯はつながらない。雨模様だったので衛星携帯も使えなかった。急いで川俣町の山木屋まで戻り、公衆電話から報告をした。戻る途中、点々と人家の明かりが見えた。まだ大勢の人が残っていた。

「とにかく住民の方々に被曝(ひばく)をしてほしくなかった。線量が高いと報告し、早くこの線量を発表してください、とお願いをしました」

実はこのとき渡辺は防護服を着ていなかった。県庁への撤退が慌ただしかったため、防護服の類は現地本部に放棄していたからだ。

「不思議と自分のことは考えていないですよね。こんな時だからこそやらなきゃいけない、と」

必死の思いで渡辺が伝えた数値は、しかし住民避難に使われはしなかった。文科省は16日にその数値を発表したが、地区名は伏せたまま。浪江町に知らせる こともなかった。町は危険を認識せず、一帯に残る住民に伝えることもなかった。なにより官房長官は「直ちに人体に影響を与えるような数値ではない」と会見 で述べていた。

それにしても、なぜ対策本部は高線量の場所をピンポイントで知っていたのか。渡辺は言う。「ポイントをどなたが決めて指示されたのか、私もいまだに分かりません」

元をたどると、指示は文科の本省だった。根拠に使われたのはSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)。同省は汚染の概要をつかんでいた。(依光隆明)

*2011.10.27朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(12)いきなり同心円避難

3月15日、毎時330マイクロシーベルトの値が出る場所を、なぜピンポイントで指示できたのか。(=依光隆明朝日新聞記者)

東京・霞が関の文部科学省。時に身ぶり手ぶりを交えながら、科学技術・学術政策局次長の渡辺格(いたる)さん(53歳)説明する。「実は、単位放出のSPEEDIを使いました」。

SPEEDI(スピーディ)とは、放射能の影響を予測するシステムのことだ。放出された放射性物質がどう広がるのか。風向きや風速、地形を計算し、飛ぶ範囲を予測する。

放射性物質は同心円状には広がらず、汚染エリアは複数の突起を形成する。そのエリアをSPEEDIで予測し、迅速に住民を避難させなければならない。それが原子力防災の基本中の基本とされている。

予測の基(もと)になるのは、原発からの放出源情報だ。ところが今回の事故ではそれが入手できなかった。

しかし、そういう事態でも仮の値を入力することで予測ができる。それが、1時間に1ベクレル放出したと仮定する「単位放出」で計算するやり方。渡辺さんはその手法で正確に高汚染地域を把握していた。

渡辺さんが特殊な手法を用いたわけではない。原子力安全委員会が定めた指針では、事故発生直後は放出量を正確に把握することが難しいため、単位放出または事前に設定した値で計算するとある。そうして計算した予測図形をもとに、監視を強化する方位や場所を割り出していく。

「単位放出で情報を流す、という点ではマニュアル通りでした。放出量が分からないときに単位放出を各関係者に配るというのがマニュアルになっていましたから」。

マ ニュアルによると、配る先は一部の省庁と原子力安全委員会、福島県、そして現地対策本部。「実際に避難範囲を決める場合、SPEEDIを使ったのかどうか は文部科学省では分かりません。避難範囲を決めたのは文科省では無く、原子力対策本部ですから。今回は本来の使い方はされず、いきなり同心円状で避難の指 示がなされた」。

マニュアルでは文科省は情報を出すだけで、それを使って避難指示を出すのは原子力災害対策本部、つまり官邸だ。

しかし、首相の管直人も、経済産業大臣の海江田万里も、官房長官の枝野幸男もSPEEDIを知らなかったと主張する。特に海江田と枝野は20日過ぎまで知らなかったと国会答弁している。いったいどうなっていたのか。

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研究者の辞表(13)送られなかった167枚

SPEEDIの予測データはどう流れたのだろうか。(=上地兼太郎朝日新聞記者)
震災から約4時間後の3月11日午後7時3分、国は原子力緊急事態宣言を出す。首相官邸に原子力災害対策本部ができた。
経済産業省の原子力安全・保安院は、対策本部の事務局を担う一方、同省別館3階に緊急時対応センター(ERC)を立ち上げた。他省庁からも人がかき集められた。
SPEEDIの予測は本来、文部科学省が原子力安全技術センターを使って1時間ごとに行う。出来た予測図は保安院にも送られるが、保安院は独自の予測も出そうとした。それに向け、同日夜には同センターのオペレーターをERCに入れた。
保安院が独自で行った1回目のSPEEDI予測は午後9時12分に出た。翌12日午前3時半に福島第一原発2号機でベント(排気)をした場合、放射性物質はどう拡散するかという予測だ。放射性物質は南東の太平洋へ飛ぶ結果が出た。
12日午前1時12分に2回目の予測。今度は同時刻に1号機のベントを仮定した。これも海へ拡散していた。保安院は16日までに45回173枚の独自予測をはじき出した。

保安院の予測の特徴は、様々な情報を集めて放射性物質の放出量を推測したことだ。放出量を1ベクレルと仮定した文部科学省に比べ、予測の精度は高かった。

官邸の地下には、各省実働部隊が詰めるオペレーションルームがある。保安院は課長補佐以下の職員数人をそこに出していた。保安院から予測図を受け取る専用端末も備(そな)えられていた。
官邸5階には首相の管直人ら災害対策本部の中枢が陣取っている。避難区域を決めたのはこの中枢であり、その決定にはSPEEDIの情報を参考にすることになっている。ということは、予測図は専用端末を経て5階まで運ばれていなければならなかった。しかし・・・。

オペレーションルームの専用端末に送られたのは1,2回目の予測図だけ。保安院が独自で行ったSPEEDI予測のうち、43回167枚はERC内で止まっていた。
しかもプリントアウトして内閣官房の職員に渡したのは2回目の分だけだった。2回目の予測図はA4判で計3枚だが、そのうち何枚を渡したか、渡した後どうなったかも保安院は確認を取っていない。何故(なぜ)こんなことになったのか。

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研究者の辞表(14)二つの<やらねば>

商業用原子炉の規制、監督をつかさどるのは原子力安全・保安院だ。今回の事故でも、保安院の動きは最大の焦点だった。(=上地兼太郎朝日新聞記者)
事故当時を知る幹部や現場職員に話を聴きたいと何度も依頼した。もちろん保安院には出向いて話を聞いた。関係者の自宅にも何度か手紙を出し、ときには玄関まで足を運んだ。

保安院の広報は「職員個人への取材はご遠慮いただきたい」と言ったが、当事者から聞かねば分からない事もある。保安院は「担当課から答えさせる」と強調しながら、その答えは常に要領を得なかった。
保安院はすでに民間人となった幹部OBへの取材も規制した。「事故当時のことはすべて担当課が答える」という理屈だった。

そんな中、事実の断片を積み上げながらSPEEDIをめぐる経緯を知ろうとした。匿名(とくめい)を条件に明かしてもらったこともある。

以下、今の時点で最も事実に近いと思われる経過はこうだ。
3月11日午後7時過ぎ。官邸に原子力災害対策本部ができた時、原発から5キロの場所に現地対策本部が作られた。原子力防災マニュアルでは現地本部が対策の中心だ。SPEEDIを使って住民の避難区域案を作るのもここの役割だった。

しかし現地本部は地震の揺れで通信回線が途絶していた。要員の集まりも悪い。とうてい、避難区域を検討できる状態ではなかった。
現地本部が機能しない場合、避難区域を考えるのはどこか。意図しないまま、保安院と官邸で重大な勘違いが生じていた。

東京・霞が関。経済産業省別館3階にある保安院の緊急時対応センター(ERC)は、避難区域の案を作るのは自分たちしかいないと確信していた。官邸に置かれた対策本部の事務局は保安院であり、その中核がERCだからだ。
放射線班が避難区域案作りを担当し、原子力安全技術センターに注文してSPEEDIの予測図をはじきだそうとした。住民の避難には放射性物質の拡散予測が欠かせない。班員らは必死だった。

一方、官邸5階に陣取る対策本部の中枢は違う考えを持っていた。現地が機能しなくなった以上、自分たちが避難区域を決めるほかない。官邸中枢はERCの存在を認識できないほどあせり、混乱していた。
時刻は11日の夜9時前後。ERCと官邸で、別々に避難案づくりが進んでいた。(=続く)
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研究者の辞表(15)官邸独断 室内は騒然

事実に近いと思われることをさらに続ける。(=上地兼太郎朝日新聞記者)
3月11日午後9時12分、経済産業省別館にある原子力安全・保安院のERC(緊急時対応センター)は、独自に注文した1回目のSPEEDI(スピーディ)予測図を受け取った。
SPEEDIは放射性物質の拡散を最大79時間先まで予測できる。その能力をフルに使って将来の拡散範囲を予想し、危険地域にいる住民を避難させなければならない。

放出された放射性物質は風に流されるため同心円状には広がらないのが常識だ。何時間後、何処(どこ)に汚染が広がるか。ERCはSPEEDIの予測を続けて汚染区域を見極めようとした。ところが・・・。
その矢先の午後9時23分。原子力災害対策本部長の管直人は同心円状の避難指示を発する。原発から3キロ圏内の住民は避難、10キロ圏内の住民に屋内退避、という内容だった。

対策本部の事務局は保安院が担当し、その中核はERCだ。そこには全く連絡が無いまま、いきなり結論だけが下(お)りてきた。官邸中枢が独自の判断で決めたのだ。
避難区域の案を作っている最中に、一体どうしたことか。ERCは驚き、室内は騒然とした。官邸中枢が避難区域を決めてしまった以上、自分たちに役割はない。そう即断し、この段階でERCは避難区域案づくりをやめてしまう。

官邸中枢が発した避難指示は12日午前5時44分に原発から10キロ、同日午後6時25分に20キロと広がっていった。いずれも同心円状だった。
ERCは16日までに45回もSPEEDIの計算を繰り返すが、それは避難区域を決めるためではなく、官邸中枢が決めた避難区域について検証するためだった。

同心円状に広がらないのは原子力防災の常識なのに、同心円状に避難指示が出る。そのおかしさを感じながらERCはそれを追認した。発せられた避難指示を否定する根拠がない以上、追認が妥当と考えた。
その後、政府はこう強調した。放出された放射能量が不明だったのでSPEEDI予測はそもそも役に立たなかったのだ、と。ERCがSPEEDIを使って避難区域案を作ろうとしていたことは伏せられた。

同心円状の避難指示で最も矛盾が生じたのは、20キロ圏外にある放射線量の高い地域だった。SPEEDIの予測図では20キロ圏をはるかに超え、北西方向に高線量地域が伸びていた。

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研究者の辞表(16)目の前にいたんだ

「俺の目の前に保安院のトップがいたんだよ」。10月31日夕、東京・永田町の議員会館。原発事故当時の首相、管直人(65歳)は強調した。(=上地兼太郎朝日新聞記者)

管が憤るのは3月11日夜に官邸中枢が避難区域を決めた際、原子力安全・保安院のERC(緊急時対応センター)が「いきなり結論が下(お)りてきた」と受 け取った事。それはおかしい、官邸中枢に保安院長がいるんだからERCが知らなかったことにはならない、と管は言うのだ。

浮き彫りになるのは対策本部長の管と対策本部の事務局長を務める保安院長、寺坂信昭(58歳)の間で重要な会話が成立していなかったことだ。ERCが避難区域を決めようとしていたのも知らなかった、寺坂は自分にSPEEDIのことも言わなかった、と管は明かす。

寺坂は私たちの取材に応じていない。保安院は、すでにOBとなっているにもかかわらず、寺坂への取材を強く規制している。

当時、管の前には原子力安全委員会の委員長、斑目(まだらめ)春樹(63歳)もいた。3月11日の午後6時以降、内閣府にある安全委員会事務局のSPEEDI端末に文部科学省が1時間ごとに出す予測図が次々と届き始めていた。

事務局は同じ予測図が文部省から官邸に送られていると思っていた。それゆえ斑目委員長に届ける手立てを取らなかったのだが、実際は文部科学省から官邸に届くルートはなかった。

結局、文部科学省は予測を発するだけで終わり、安全委員会も官邸に予測を届けず、保安院が官邸中枢に届けた予測図0~3枚。保安院はSPEEDIで避難区域案を作ろうとしたものの、それも実らなかった。

SPEEDIは避難区域作りにも使われず、公開もされず、官邸中枢は3月20日前後まで存在すら知らなかったと主張している。

これにより、最も影響を受けたのは浪江町山間部から飯館村長泥(ながどろ)周辺にかけての高線量地域にいた人たちだ。最も放射線量が高い時、長泥地区は懸命に炊き出しをしていた。自分たちのためではない。南相馬市からの避難民を助けるためだ。

浪江町の津島にも大勢が避難していた。避難者が多すぎて炊き出しのおにぎりは小さくなったが、みんな1日それ1個で我慢した。役場の職員の多くはそれさえ食べなかった。消防団は地面に穴を掘ってトイレを作った。

津波の修羅場を超え、放射能から逃げ、それでも人々は整然と動いていた。

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研究者の辞表(17)来なかった官僚たち

SPEEDI以外にも謎がある。福島第一原発の近くに現地対策本部が設置されて5時間後の12日午前0時ごろ、本部長を務める経済産業副大臣、池田元久(70歳)は自衛隊のヘリコプターで現地に入った。(=依光隆明朝日新聞記者)

現地本部のメンバーは事前に決まっている。例えば茨城県ひたちなか市にある原子力緊急時支援・研修センターの7人は、12日午前1時半に現地本部を目指した。

センター長の片桐裕美さん(59歳)が振り返る。「ところが国道6号が大渋滞で。本来は1時間の距離なんですが、2時間かかって自衛隊の百里基地に着き、 4時半ごろヘリに乗りました」。ヘリは山上の駐屯地に着陸し、自衛隊の車で現地本部に向かった。「まだ雪があったので、機材を運ぶのがしんどかったのを記 憶しています。現地対策本部に着いたのは午前6時から6時半ごろでした」。

現地本部の通信はほぼ全滅していた。使えたのは二つの衛星電話だけで、1本は東京の原子力安全・保安院とつなぎっぱなしになっていた。

片桐さんがまずやったのは放射線値を測るモニタリングだった。測定すべき高汚染地域を探すにはSPEEDIの予測図が欠かせなかったが、回線の途絶でデータは入らない。やむを得ず隣の建物にあった風向風速計で放射能の行方を推測した。

食べ物はほとんどなく、寝る場所もなかった。多くの者は机の上に突っ伏して寝た。疲労が蓄積した。

片桐さんらが踏ん張る一方、来るべき省庁関係者が大量に来なかった。

現地本部には13省庁から45人が集まるはずだった。保安院の審議官を事務局長に、次長が内閣参事官ら4人。残り40人が総括、放射線、住民安全など7班 に分かれて各班のメンバーを指導する。これが現地本部の中核と言える。参集には国が交通手段を用意することになっていた。

だが、集合したのはわずか5省庁26人。何故これほど集まりが悪かったのか。保安院の原子力防災課長、松岡建志(45歳)は「災害対応が忙しかったと聞いている」と話す。地震や津波への対応で忙しく、原発事故の現地本部には行けなかったという説明だ。

以下、課長補佐の中島義人(39歳)との会話。
・・・こっちが忙しいから現地本部にいけないというのはおかしい。
「実態としてはそういう状況だったと聞いている」。
・・・怖くて行かなかったのでは。
「さあ。それは直接聞いてもらわないと・・・」。

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研究者の辞表(18)置き忘れたファイル

3月12日早朝、原発から5キロに位置する現地対策本部に入った片桐裕実さん(59歳)らは、福島県庁のワゴン車を借りて周辺の放射線値を測定した。(=依光隆明朝日新聞記者)

12日午後には1号機の水素爆発に遭遇した。片桐さんが言う。「測定に出ていた人間は原発に比較的近い所にいて、すぐ戻ってきて。凄い爆発があったと報告を受けました」。

14日午前、3号機の爆発音は現地本部にも響いてきた。「これは音が聞こえました。白煙が出て、結構ビックリする音でした」。

測定に出たものは放射能の恐怖に耐えながら放射線値のデータを取っていた。SPEEDIは予測値だが、これは実測値だ。何より住民の避難に使う必要があった。放射線量が高くなっている地域を見つけ、そこにいる住民を一刻も早く避難させなければならない。

しかし現地本部は孤立状態にあった。貴重なデータを取ったものの、それを東京の対策本部に送る手立てはない。「やはり通信手段が無かったのが致命的でした」。

さらにもう一つ、片桐さんにとって残念なことがある。「こういったデータが公表されたのは6月なんですね。3月12日、13日あたりのデータが移転先の県庁にうまく引き継がれなかった」。

現地本部は15日に福島県庁まで撤退する。その際、データを入れたファイルを現地に置き忘れていた。回収したのは5月28日になってから。事故直後の放射線値のほとんどは、6月3日まで表には出なかった。表に出たデータも、極めて分かりにくかった。

3月15日夜、文部科学省茨城原子力安全管理事務所の渡辺眞樹夫さん(57歳)が測定した浪江町赤宇木(あこうぎ)の毎時330マイクロシーベルトは、翌日同省のホームページ(HP)に載せられた。

と ころが肝心の測定地点は、ほとんど地名の無い地図上に○で囲んだだけ。町の関係者ですらその地点を認識できなかった。これではわからないという指摘は多 かったが、改善はしなかった。同省化学時術・学術政策局次長の渡辺格(いたる)(53歳)は、「電話での問い合わせもあり、その時はお教えするようにし た」。

発表方法がHPだけというのも批判の的になった。浪江町は住民と共に役場も転々と避難を続けていた。インターネットに載せても見ることができない。

まるで情報が山し渋られるかのように、大事なデータは末端まで届かなかった。

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研究者の辞表(19)「布団かぶれーっ」

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研究者の辞表(20)「世界で初めてです」

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研究者の辞表(21)いつの日か田植えを

薔薇、または陽だまりの猫

ほかから転載 

 




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