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小沢派の胎動と田中角栄への郷愁 - 民主党の逆説現象
9月に入り、今年のカレンダーも残り3分の1となった。昨夜(8/31)のBSフジの報道番組に小沢派の中塚一宏が出演し、小沢派の政策主張と今後の戦略を語っていた。いつもなら、9時からはNW9を見るところだが、中塚一宏の話が続いていたので最後まで付き合う結果となった。小沢派あるいは小沢一郎というのは、注目の存在なのだから、テレビで直接に意見を発信しなくてはいけないし、そうした機会があれば、国民は積極的に視線を向けるのである。小沢派は、現在の日本政治において、ある意味で唯一の野党の存在であり、他に野党らしい勢力が皆無なため、国民の期待は小沢派に向かわざるを得ないのだ。この翼賛体制の中で、マスコミが獰猛に排撃する小沢派こそ、真の「たしかな野党」である。したがって、野党の党首や幹部が国民の前で政策や政局を説明するのは当然で、それがされていない現状が異常と言うほかないのだ。まるで、小沢派は非合法組織か暴力団の如くであり、マスコミは小沢一郎をテロリストの親玉のように、悪の領袖として報じている。何度も言っているが、この異常については、マスコミだけでなく小沢一郎にも責任の一端がある。ニュース番組の小沢一郎の映像というのは、赤坂の一ツ木通りの飲み屋から出て来てワゴン車に乗り込む夜の絵であり、常に身内の議員と会食している場面である。


小沢一郎はマスコミには登場せず、身内議員も出演させず、その慣習と通念が定着しているため、マスコミ側は小沢派を悪の集団に演出することができるのだ。反論が返って来る心配がないから、安心してリンチを加えられるのであり、小沢派を封じる言論攻勢を何の阻害要素もなく進められる。これまで、小沢派のスポークスマンとしてテレビに出ていたのは平野貞夫だが、いかにも腹に一物ある怪しげな寝業師の風体で、悪の一味の食客の雰囲気を漂わせ、話の内容もいかがわしさに満ちていた。ピントが外れた老人の昔話が多く、政策の中身のない政局論ばかりであり、説得力がなく、小沢派のイメージを損なう恰好の材料となっていた点は疑えない。平野貞夫の得意顔に窺われたのは、小沢派を代表してテレビに出るのは俺だけだと有頂天になって自己表出する動機だけで、誰も知らない小沢一郎のエピソードの一つも披露してやればマスコミは喜ぶだろうと、その程度の意識と準備でテレビに出ていた。森喜朗あたりを彷彿させる20年前の環境認識であり、頭の中の政治風景が変わっていない。平野貞夫を前面に出し続けたために、小沢一郎と小沢派には「政局主義」のイメージが塗り込められてしまった。こんな男に派を代表して国民に喋らせ、自分は赤坂の飲み屋を徘徊している小沢一郎に、国民の支持や共感が広がるはずがない。

小沢一郎と小沢派は、自らを野党と認め、野党としての責任を真剣に引き受けなくてはいけない。昨夜(8/31)の中塚一宏の話には二つの内容があった。第一は、小沢派が軍団として結集し、本気で代表(首相)の座を取りに行くという姿勢表明である。そして、今後は政策の発信を重視し、国民へのコミュニケーション(広報)を努めるとも言っていた。これまでは、党に対する遠慮があり、活動を控えていたのだと釈明していた。第二は、3党合意とマニフェストの見直しに対する批判で、マニフェストの財源論を前面に出し、一般会計と特別会計を統合し、207兆円を組み替えて16兆円を捻出するのだという主張である。去年の代表選以来1年ぶりに、ようやく小沢派の政治家から、この正論をテレビで聞くことができた。誰も言わないので、私が一人でブログで言い続けていたことだ。この議論は、テレビを通じて公共空間に放擲されると、実に影響と効果が大きい。国民の政治意識を覚醒させる。蹲っていたものが甦る。国民を原点に連れ戻す。この政策主張に国民はコミットして、2年前に民主党に投票して政権交代させたのだ。そのことはマスコミの誰もが知っている。だから、マスコミの人間は、この財源論が電波に情報漏洩するのを何より恐れている。恐れつつ、一度それが生放送で飛び出し始めると、阻止できる反論材料がなく、誰も遮ることができない。まさに封じられた正論。国民の代弁。

小沢派が軍団として再興するのだという発言に対して、それは昔の田中派の復活じゃないかというマスコミからの横槍があった。今後、朝日を始めとするマスコミから、この種の批判が噴出することだろう。それに対して中塚一宏がどう応じたかは忘れたが、私は咄嗟に思ったものだ。それで別に構わないではないかと。小沢派は田中派を目指すべきで、あの体育会系の最強軍団の復活こそ、国民が政治に求めている姿だろう。田中派の中には人材が揃っていた。個性派揃いでありながら、一糸乱れぬ統制と機動力を誇り、他を圧倒する野武士軍団の強さを持っていた。梶山静六のように、武闘と政策の両方ができる子分が参集していた。今、田中派の集団文化の面影を残すのは、おそらく田中真紀子だけである。田中派と民主党がどう違うかは、田中真紀子と松下政経塾の連中の違いを考えると分かりやすい。小沢一郎は、小沢派を逞しい野武士軍団にするべきで、人材がいないのなら、外部から積極的に招聘し登用するべきである。中塚一宏は今後は政策発信を重視すると言っていたが、とにかく小沢派には政策で前へ出る人間がいない。指を屈する者がいない。田中派はそうではなかった。主流派の幹部やマスコミの論者と対戦して、完膚無きまで論破する能力の論客が必要で、小沢派こそが日本の政策論議の中心基地にならなくてはいけない。人を集めることだ。能弁でセンスがよくルックスグッドな人材を。

8/29の民主党代表選の中継を見ながら、この政治の影の主役は田中角栄だなとつくづく思わされた。特に馬淵澄夫の演説がそうだったが、明らかに、時代は田中角栄の指導力を懐かしんでいる。本来、田中角栄を否定し、田中派的な政治からの脱却を志向して結党した民主党で、中堅の議員が田中角栄を郷愁する政見で党内の共感を獲得している。疲弊した地方への視線とか、家族の繋がりの重要性とか、中産階級の再建とか、そういう理念や信条を訴えようとするとき、中堅世代の保守政治家が持ち出すシンボルとして、田中角栄が絶好の素材になっているのだ。高度成長期に少年時代を過ごした者にとって、親や周囲が語った田中角栄の像というのは、実に鮮明に心に刻まれるものだったのである。長く生きている者は気づいているが、今は昔よりずっと凄まじく学歴偏重になっている。学歴社会になり、資格社会になり、プロフィール万能になっている。Twitterのフォロワーの情報を見ると、何故これほどと思うほど、過剰に自分の出身大学とか留学経験とかを記していて、読みながら気分が悪くなる。昔は、そのようなことは恥ずかしくてできなかった。言論者として生きる者は、注目され評価されるべきは言葉なのだ。昔に較べて、大学入試全体は簡単になっているが、東大は入りにくくなり、入試の前段で受験者がセレクトされる仕組みになっている。こうした中央の官僚支配が窮極まで至った状況に対して、反動の渦が底流で蠢いているのだ。

それが思想的に拠っていく先が、田中角栄なのだろう。それに関連して、もう一つ、民主党の政調会が内閣と離れて独立した問題がある。これについて、自民党と同じ方向への逆戻りではないかという声があり、2年前のマニフェストの理想からの逸脱だという批判があるが、私は、これでいいと感じている。2年前、民主党は議員100人を政務官として省庁に送り込み、政治家が政策の立案と決定を担い、政治主導を実現するのだと意気込んでいた。しかし、蓋を開けてみれば、副大臣と政務官を2人か3人送り込んだところで、何の政治主導にもならず、官僚の操り人形が増えただけで、党の政調会は何の政策機能も果たさなくなった。率直に言って、過去の自民党の方が、現在の民主党よりもはるかに政治主導の力を持った政党だった。これは、選挙制度による負の影響が大きい。現在の小選挙区制では、政策に有能な議員が当選を続ける仕組みになってない。選挙は常に時々の風に左右され、政治家は選挙にビクつき、政策立案どころではないのだ。そして、首相は1年で変わり、政務官として省庁に入っても、席を温める間もなく離れざるを得ない。これで官僚が政治家に従うはずがない。昔の自民党の族議員の方が、決してよい意味で言うわけではないが、はるかに政策決定に影響力を持ち、霞ヶ関に睨みを利かせていた。海外はともかく、少なくとも日本の小選挙区制と二大政党制は、能力のある政治家を育てないシシテムであり、徒に官僚機構の権力を肥大化させる方向にしか導かない。

中選挙区制の自民党の時代の方がよかった。庶民感覚として、経験的実感として、特にわれわれの世代はそう強く思う。今の政治と社会の中で生きる若者は不幸だと同情する。田中角栄や三木武夫や大平正芳の時代はよかった。それは、自民党という政党がよかったわけではない。緊張感を持って監視する野党の存在があり、選挙する国民にも、国の仕事をする官僚にも、真摯なエートスがあり、平和主義と経済成長と福祉国家の理想を持っていたということだろう。理想や信念に対して一人一人が妥協せず、真面目で、社会の建設や発展や正義にコミットする内面を持っていた。生活態度と職業倫理がサムライだった。中産階級の黄金時代であり、サラリーマンが主役の時代だった。今、サラリーマンという言葉が死語になっている。サラリーマンの存在がない。働く者たちは、社員と非正規の二つに分かれ、正規と非正規という概念に変わっている。そして、働かないアウトサイダーの群れが、社員の上と非正規の下に大量にいる。格差社会の上のクラスにあって、株やFXで稼いで遊んでいる者が多くいて、ニートやフリーターが無数にいる。地方は、公務員と非公務員の格差社会になっている。田中角栄を否定した地平から出発した民主党で、田中角栄が雄々しく復活するのは皮肉な政治現象だ。今、脱構築主義と新自由主義の時代が終わろうとしている。まだ言葉にはなっていないが、人々の心の中で変化が起きている。朝日やNHKが、つまり官僚が、必死に田中角栄を叩くのは、きっとそういう恐怖があるからだろう。

20年前に否定されたものが、否定の否定へと首を擡げつつある。



by thessalonike5 | 2011-09-01 23:30 | その他 | Trackback | Comments(0)
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