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前原誠司の「20年かけて脱原発」の虚妄 - 擬態と詐術
昨夜(7/20)の報ステの特集「原発私はこう考える」に前原誠司が登場、「20年かけて原発をなくす」の持論をテレビで講釈した。20年かけて脱原発するということは、現在の原発をそのまま稼働させるということであり、政策として原発の現状維持の意味である。これは正しくは、脱原発するということではなく、脱原発しないということに他ならない。直近の政策イシューである再稼働について見れば、再稼働させるというスタンスであり、海江田万里や官僚や自民党と同じ立場である。ネットの一部に、この前原誠司の姿勢を「脱原発」だと安易に評価する声があるが、それは誤った判断であり、脱原発の意味を取り違えて騙されているか、そうでなければ、前原誠司への過剰期待に幻惑された自己欺瞞のバイアスに拠る妄想だろう。原発をめぐる最近の政治と言論の状況で、一点指摘し、注意を喚起しなくてはならないのは、脱原発の語義のスリカエが起きている問題である。無論、それは原発を維持しようとする側からの意図的な言語工作の所産であり、巧妙な詐術によって脱原発の定義と概念が混乱させられた結果である。政治戦は情報戦であり、情報戦の内実はイデオロギー戦である。言葉で騙された方が政治で負ける。ネットで脱原発派を自認している者が、次第にこの欺瞞に嵌ってスリカエを覚知できなくなっている現在、「20年かけて原発をなくす」ことが本当に脱原発なのかどうか、再度、言葉の意味を吟味し確認する必要がある。


「脱原発」とは何なのか。それは、7/13の菅直人の会見の説明を借りれば、「原発に依存しない社会」を実現するということである。原発を1基も動かさずに必要な電力エネルギーを自給できる社会と日常に到達することだ。さしあたり、言葉の定義はそれでいいだろう。であるとすれば、その脱原発を実現するのに、どうして前原誠司が言うように20年の長い歳月をかける必要があるのか。あるいは、菅直人が言うように、「計画的・段階的に原発依存度を下げる」悠長なプロセスが必要なのか。情報工作と洗脳の詐術はここにある。小出裕章や広瀬隆の議論と主張を正しいと考えているわれわれは、すなわち脱原発の立場の者は、脱原発の実現にそのような長い時間が必要ではないことを知っている。彼らから専門家の分析と知見を得ているわれわれは、原発を今すぐ停止できること、再稼働は永久に必要ないことを承知している。つまり、潜在的に、物理的に、事実上、脱原発社会がすでに実現されている真相を理解している。脱原発は、事実上は実現されているのに、それが政治的に隠され、原発が無理やり動かされ、原発に依存している現実が作り出されているのである。科学的・客観的にエネルギーの実情を判断すれば、原発は全基即時停止で何も問題はなく、脱原発に20年もかかるとか、段階的な過程が必要だとする根拠は何もないのだ。

「20年かけて原発をなくす」と言うとき、その前原誠司の政策上の意味は何か。ここを見誤ってはいけない。それは、現在稼働中の原発は寿命が来るまで使い切るということであり、原子力村への予算を20年間注入し続けるということである。原子力村を養い、国内の原子力産業を庇護し、海外の新興国にプラントを輸出し続けるという意味である。寺島実郎と同じだ。さらに言えば、政治家が言うところの「20年間」などは、「いつになるか分からない」という含意であって、政策的には「半永久的な持続」の意味しか持たない。厳密にエコノミクスの視点で検討し推測すれば、日本の20年後のGDPは現在より相当に縮小し、電力需要も大幅に減少するシュリンク・カーブが予想される。この経済予測については、是非があるし、前提の問題があるが、ひとまず一般論の未来認識を措定するとこうなるはずだ。とするなら、前原誠司が言うように、この20年間、耐用年数どおりに原発を稼働させ続けた場合、全体の電力供給がオーバーフローして、他の火力や水力を減らさなくてはならない事態に至り、逆に原発依存度が上がる結果になるだろう。自然エネルギーの開発や普及どころではないのだ。日本経済の今後20年間の推移の像がどうであり、電力エネルギーの需要総量がどう変動するかぐらいは、政治家なら誰でも頭の中に入っている。つまり、こうやって前原誠司はわれわれを騙しているのである。

「脱原発」のスリカエは、その語義に10年とか20年のモラトリアムを潜り込ませ、長期の時間をかけた脱原発でも、それを脱原発だと正当に認めさせるという手口である。支配者側(官僚・財界・マスコミ)は、そのスリカエの工作に成功しつつあり、「脱原発」の概念を政治的に変容させつつある。「脱原発」の言語の意味に、10年から20年のタイムスパンを許容する判断が入れば、その認識が一般に定着すれば、前原誠司でも「脱原発」だという定義と位置になる。私が、スリカエだと指弾し、トリックだと強調するのは、こういう言語操作の中身である。すなわち、本当は「非脱原発」である政治的立場が、あざとく「脱原発」に化けてしまうのである。前原誠司は「非脱原発」である。石原慎太郎のような「反脱原発」ではない。しかし、政策の中身は同じだ。原子力村と原子力産業を生き残らせる政策は同じだ。言語の詐術と仮象を利用して、騙しのカラクリで「脱原発」の擬態をとるのであり、その狡猾な標榜と演出で、脱原発を求める国民多数から支持を得ようとするのである。政治家というのは、まさに大衆を騙す職業人だ。3月からの政治戦を振り返れば、もともと、原発維持派は、脱原発に対して、それを「原理主義」だとか、「感情論」だとか、「イデオロギー」だとレッテル攻撃することで、不当に貶めて、政治的に封殺しようと試みてきた。だが、その政治工作に失敗し、作戦を変え、自ら擬態の戦術で「脱原発」の中に入ってきたのである。

「脱原発」が表象としては国民的正論であり、政治的にどうにも動かない現実なので、それに逆らわず、別の戦法の仕掛けに出たのである。私は、ネットの脱原発の者たちに言いたいが、どこまで、これが政治戦であるという意識を持っているだろうか。戦闘だとすれば、そこには敵があり、勝ち負けがある。脱原発の側がこの政治戦に勝つということは何であり、負けるということは何なのか、一人一人が具体的にイメージアップしなくてはいけない。敵が勝ち、われわれが負けるということは、原発が再稼働するということだ。停止していた原発に火が入り、再び電力を供給し始め、原子力村に殷賑と安堵が戻ることである。社会経済と国民生活が原発に依存し、その恩恵の上で成立しているということが、言説だけでなく実在になり、その主張に反論できなくなることである。それが、脱原発であるわれわれの敗北に他ならない。官僚と財界は、脱原発を政治的に潰そうとしているのであって、再稼働を果たし、逆襲に出て脱原発を徐々に少数派へと追い込み、原発維持を正統な国論の位置に据え直し、最終的に国家のエネルギー政策を「原子力立国」の原状に戻そうとしているのである。それは既得権益が保全されることであり、築き上がっている原子力の再生産構造が安定的に循環することだ。目的は一つ。「20年で脱原発」などペテンである。それは再稼働を正当化する口実にすぎない。「反脱原発」も、「非脱原発」も、同じ原発維持派の仲間であり、政治的には一つの勢力であって、われわれの敵である。

政治戦の情勢を正視すると、5/7の浜岡停止から6/11のデモの頃に較べて、少しずつ敵の優勢に戦局が傾いている感は否めない。昨日(7/20)、自民党は堂々と「原発維持」を中長期政策の柱に置く挙に出たが、河野太郎が時の人だった2か月前の世論環境では、この暴挙には出られなかっただろう。菅直人の「脱原発」もトーンダウンし、7/13の首相表明は内閣の政策方針ではなく、単なる個人の思いつきという始末になった。7月上旬の時点では、枝野幸男は耐性テストは再稼働の条件だと言い、稼働しながらの耐性試験などないと明言していたが、7/13を境に再び菅降ろしに豹変し、今は官邸の中が二重権力・三重権力の状態に陥っている。官僚の側の猛烈な巻き返しに遭い、細野豪志もすっかり菅直人を見限って、官僚の側に与した気配がある。そうした中、マスコミを押さえている敵側は、太平洋戦争の米軍を彷彿させるように、徹底的な物量作戦を展開していて、夜はNHKの大越健介が、朝は日経と読売と朝日が、連日すさまじい勢いで「電力不足」のプロパガンダをシャワーしている。「嘘も百回言えば真実になる」のゲッベルスの法則に忠実に。われわれ脱原発の側がもたついている間に、とうとう「埋蔵電力などない」というキャンペーンまで始まった。今日の朝日の2面記事では、「もうどこにも埋蔵電力はない」という結論になっている。恐るべき巻き返し。社民党や共産党は、何で「埋蔵電力」にフォーカスして国政調査権を活用しないのかと、歯噛みする思いだが、この件では敵にやられっぱなしで、効果的な反撃ができていない。

この自家発電をめぐる情報戦で言えば、責任者として最前線に立つべきは広瀬隆なのである。広瀬隆が中心になり、情報を集め、エネ庁や業界(IPP・PPS)の内部告発を促し、説得的で具体的な数値の積み上げ情報を暴露しなくてはならない。小出裕章はこの任ではない。小出裕章は、本人自ら言っているように、原発に代替する電力がなければ、その分は電力消費を減らせという持論である。現代人の生活そのものが、エネルギーを大量消費しすぎていて、ライフスタイルを根本的に改めるべしという考え方だ。この点で広瀬隆とは少し違っていて、信念信条は純粋で悪くはないのだが、「埋蔵電力」の情報戦からすれば、敢えて言えば使いものにならない。財界やNHKが脅迫するところの、電力の安定供給を欠けば日本経済が潰れるとか、企業が海外に出て雇用が失われるとか、そうした攻撃に対する有効な理論武装にならない。彼らの脅しを撃退できず、世論戦線の陣地を奪われてしまう。この情報戦の攻防では、小出裕章を頼れないのであり、「自家発電の火力でカバーせよ」と提唱している広瀬隆が将軍として戦場に立たなくてはいけないのだ。その広瀬隆は、先週、何を思ったか、山下俊一や斑目春樹や勝俣恒久らを刑事告発するという挙に出ている。私からすれば、それは仕事が違うと拍子抜けせざるを得ない。刑事告発に意味がないとは言わないが、それは広瀬隆がやるべき任務ではない。現在、脱原発の言論陣営で最も必要なのは、「自家発電の火力」すなわち「埋蔵電力」の真実である。この真実を暴き出して、マスコミと官僚を論破し、「電力不足神話」の虚偽を衝くことである。

今の時局におけるその情報作戦の必要は、誰よりも広瀬隆が理解しているはずだと思うのだが。



by thessalonike5 | 2011-07-21 23:30 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
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