本と映画と政治の批評
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プロ政治家集団の民主党 - 菅・小沢・鳩山の三方一両損
不信任案否決の政局劇が終わった昨日(6/2)の夜、報ステの三浦俊章は次のようにコメントした。民主党の出発点は市民政党だったのに、いつの間にか政治家のプロ集団となり、国民とのパイプを喪失している。そのため、一般の期待や要望から遠くかけ離れたところで不毛な政局をやっているのだと。この指摘は、一見、昨日の騒動の総括として正鵠を射た言葉のように聞こえるが、実は間違った見方である。そうではない。逆だ。民主党は結党の原点からプロ政治家の集団であり、プロ政治家が寄り集まって権力奪取のために結成された政党である。そもそも、理念や綱領を脇に置き、政権を獲るという一点を目標として結党し、ひたすら政権交代を追求することで存在を維持し拡大してきた政党に他ならない。永田町のプロ集団たることが民主党の本来性であり、永田町から離れた地域や職場に活動拠点や存在理由を持っていない。それは、民主党の幹部の来歴を一瞥すればよくわかる。菅直人も小沢一郎も、政治家以外の職業の経験がない。前原誠司や野田佳彦や原口一博ら松下政経塾組は、大学を出たときからプロの政治屋として歩んできた者たちだ。民主党には結社の理念はなく、あくまで「政権交代」が唯一の看板で、日本の政治を二大政党制の体制にすることが党の使命だったのである。だからこそ、彼らのイデオロギー的本質は、後房雄の『政権交代のある民主主義』と山口二郎の『政治改革』によって検証され確認される。


ここで考えなければいけないことは、二大政党制というシステムは、二つの政党の地位存続に永久保障を与えているという事実である。米国の民主党と共和党、英国の労働党と保守党。山口二郎と後房雄が手本にして導入を説いた欧米の政体は、二つの政党が、言わば歴史始原から未来永劫に政権交代を反復することが想定されている。二つの政党が政権交代のゲームを永続することで、経済社会と市民生活を発展させ向上させるのだというフィクションが、制度の思想的前提として基礎づけられている。地位は固定で不動なのであり、途中で消滅するというシステム設計にはなっていないのだ。公明党や社民党や共産党は、途中でなくなる可能性がある。と言うより、「政治改革」で定着させたレジームにおいて、これらの政党の存在はイレギュラーなのであり、生息が原理的には認められていない。ターミネイトして、二大政党に吸収される運命が前提されている。「政治改革」が目指した体制、すなわち90年代以降の二大政党制は、二つの政党にのみ正統性を与え、安定的で優先的な地位を保障するのであり、二つの政党に対して、米国の民主党と共和党のようになれと催促するのである。このことと、民主党の「プロ政治家」の集団的属性とは無縁ではない。二大政党制では、政治家の枠とポジションが最初から確保されているのであり、党が公認すれば、ほぼ自動的に職業政治家の身になれるのである。地域や職場でコツコツと地道に政治活動し、指導者の資質力量を修得し涵養する必要がない。

山口二郎と後房雄は、周知のとおり、結党時の民主党を指導し、「オリーブの木」だの「日本版ブレア」だのと調子よくマスコミで宣伝し、その立ち上げを理論面でバックアップした政治学者である。こうして、二人は民主党の指南役となり、政治改革関連法案によって民主党の地位を制度的に恒久不動にすると同時に、イデオローグとしての自らの地位を終身安定させて今日に至っている。民主党というのは、一つの「公務員」的なインダストリーであり、個人にとっては、そこに寄り集まってポジションを得れば、人生の最後までメシが食えるという政治生業の共同体である。だから、民主党の政治家になるということは、自己の理想を実現するべく地域や議会で政治活動することではなく、民主党という株式会社に社員として就職し、幹部に可愛がられて出世し、組織で給料をもらうことである。したがって、政治家になる個人にとっては、三浦俊章が言うような「国民とのパイプ」など最初からないのだ。そんなものは必要がない。党に公認されればよく、公認の条件は、血統、縁故、財産、学歴、経歴、資格、年齢、思想信条である。国民とのパイプなど無用で、松下政経塾とのパイプこそ必要なのである。国民とのパイプが政治家にとって必要だったのは、中選挙区制の時代の政治家である。彼らには、地域や職場との密接な関係が必須であり、その小社会圏で人望を得て能力を評価されることが、国会議員のパスポートを掴む重要な条件だった。

昨日(6/2)の政局ドラマの中で、スポットライトを浴び、ヒーローになった感のある松木謙公は、古きよき中選挙区制時代の政治家の臭いが漂う。右翼系の体育会系だが、人間に裏表のない田舎者の純朴さがある。松木謙公が、選挙区であるオホーツクの農民の経営と生活を守ろうと願い、自給率を50%に上げたいのだと切実に訴え、TPPへの旋回とマニフェスト破りを批判するとき、その政策主張は欺瞞や思惑のない本心の吐露であると、われわれは松木謙公を信用できる。北海道の人間の素朴さがあり、その率直な言葉を聞くと安心する気分になる。彼の言葉の背後には、苦境の中で必死に生きている北海道の農家の人々の姿が映る。昔の中選挙区制の時代には、こんな感じの自民党の代議士が少なくなかった。スジを通して除名覚悟で白票を投じた松木謙公と、一晩で立場を変えて調子よく口先で言い逃げる原口一博。後者は、まさに「政治改革」の小選挙区二大政党制の申し子のような存在だ。二大政党制時代の政治エリートの範型である。とにかくがめつくテレビに出演し、その場その場で詭弁と巧言を吐きまくって立場を正当化し、ポピュリスティックに立ち回って「人気者」を演出する政治家像。こういう政治家になるように、松下政経塾では教育マニュアルが用意されているのであり、大衆を騙す手法と出世の早道が叩き込まれているのだ。油断のならない原口一博がテレビに出ると、私は自然に神経が緊張する。今度はどんな嘘をつくのだと、言葉を漏らさず追いかけようと身構えるからだ。尻尾を掴まえてやるために。

三浦俊章は、民主党の若手中堅の中には、この政局騒動を気恥ずかしく思っている者もいるだろうなどと、気休めにもならぬ楽観論で締め、隣の古舘伊知郎を拍子抜けさせていた。私は、それも違うと思う。そんな純粋な内面を持った政治家は、民主党の中には一人もいないはずだ。原口一博のような尋常でない面の皮を若いうちから持ち、さらに鉄面皮の硬度を鍛える意欲を持った者でなければ、民主党の「プロ政治家」稼業は務まらないし、候補者として公認されることはないのだ。「政治改革」が日本の政治をどう壊したか、国民の政治参加の権利をどのように奪ったか、それを考えるときは、選挙の掲示板の前に佇む瞬間を思えばいい。そのとき、自分は選挙から疎外されていることを人は思い知る。自分の持っているのは死票で、自分のできることは、投票率をコンマ数桁パーセント上げることだけだと知る。掲示板のポスターで不気味に笑っているのは、原口一博を若くした面つきの、プロフィール情報には自信満々と言いたげな小僧である。いや、身近な問題で考えよう、遠くない時期に選挙はあるのだ。言われているのは、次の選挙では自民が300議席取るだろうということで、2年前の選挙で落ちた元職が返り咲きを狙って虎視眈々と蠢いているという事実である。この者たちは、6年前の小泉純一郎の郵政選挙で議員になり、2年前の麻生太郎の惨敗で失職した面々である。この連中が永田町の野獣として甦ると、今度は政権交代の選挙で議員になった面々が失業者となって入れ替わる。それが、山口二郎と後房雄がバラ色に約束した「政権交代のある民主主義」である。

茶番劇と呼ばれた昨日(6/2)の不信任案否決の政治について、他の論者が指摘していない視点を述べよう。昨日の代議士会の司会は、小沢一郎の腹心の山岡賢次だった。菅直人の意味不明な進退意向を含んだスピーチが終わった後、間髪を置かず、山岡賢次は挙手した鳩山由紀夫を指名し、その次に原口一博に順番を振った。結果的に、この二人の大物の発言で、造反中止・不信任案否決の流れが固まったのである。その場面の仕草を注意して見ると、山岡賢次は最初からこの流れを念頭に司会を仕切っていて、会議を予定の台本で方向づける役割を果たしている。つまり、菅直人と鳩山由紀夫と原口一博と山岡賢次はグルなのだ。あの発言の順番は偶然ではなく、事前に申し合わせたものなのである。要するに、小沢一郎は最初から全てを知っていたのであり、投票を各自の判断にした指令は、菅直人の奇策に不意を打たれて、振り上げた拳の始末に狼狽したハプニングではなく、最初からシナリオに沿った決定事項だったのである。小沢一郎と菅直人の勝負は、6/2の未明の時点で「引き分け」の決着がつき、菅直人・鳩山由紀夫・小沢一郎の3人が、巧く三方一両損で収まる「形式」の中身が、6/2の午前中に手配されていたということだ。だから、鳩山由紀夫が岡田克也の発言に気色ばんで「嘘だ」と憤激するのも芝居だし、小沢一郎が「菅と鳩山に騙された」と子分の前で激怒するのも芝居である。世間と子分に対するポーズであり、次の政争に向けての準備である。松木謙公は、それを知らされてなかったのだ。

しかしながら、それ以上に気味悪いのは、あのとき、テレビのカメラが、鳩山由紀夫が挙手する前から鳩山由紀夫にアングルを向け、挙手した瞬間にアップに捉えた事実である。まるで、テレビ局のカメラマンが、最初から鳩山行由紀夫が挙手して指名されるのを知っていて、仕組まれたドキュメンタリー番組を撮影するように、鳩山由紀夫の挙手と発言を待っていた。まるでNHK特集のヤラセのようなカメラの動き。あの場面進行は私には不審だ。不自然すぎる。しかも、そのカメラ撮影は、NHKも民放も同じ映像とアングルになっている。と言うことは、どうやらテレビ局には、最初から「シナリオ」が伝えられていて、菅直人の挨拶の次は鳩山由紀夫の指名で立つから、逃さずカメラを待機するようにという内密の指示が下りていた可能性が高い。あの代議士会は12時からで、NHKは正午のニュースの時間に生中継していた。そして、何とも怪しいことに、発言の中継は、鳩山由紀夫と原口一博の二人で止め、その後に続いたであろう小沢派の議員の発言は放送からカットしてしまったのである。私は、会場の様子と展開を知りたかったが、NHKも民放もカメラをスタジオに戻し、肝心の小沢派議員の反応を窺い知ることができなかった。そして、NHKは即座に「菅首相、辞意表明」とテロップを流した。リアルタイムに菅直人の言葉を聞いた限りでは、特にNHKのように慎重を期する報道が、それを即断して報道することは難しいような微妙な言い回しだったが、NHKは迷わず「辞任」だとして一報した。これは、おそらく、小沢派の造反を止めて不信任案否決を固めるための情報工作であり、NHKもその政治の一部だったに違いない。

空恐ろしく感じるのは私だけだろうか。



by thessalonike5 | 2011-06-03 11:38 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
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