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広瀬隆の「あとがき」 - 「御用学者」と「トンデモ」の位相
昨日(5/10)、菅直人が会見で国のエネルギー計画を白紙に戻すと言い、2030年までに原発を14基以上増やし、総電力に占める原子力の割合を50%以上とした「基本計画」をリセットする意向を表明した。先週(5/6)の浜岡停止要請に続いて、政権の原発離れの姿勢を鮮明にするサプライズ第2弾である。これによって、国の原発推進行政は事実上ストップがかかり、原発の新規増設はもとより停止中の原子炉の再稼働も難しい状況になった。この方針転換は、6月の中期財政フレームと8月の概算要求に影響することが確実で、原子力関連の予算の大幅削減へと落とし込まれるに違いない。菅直人は、「脱原発」を政権維持の機軸として操縦桿を握り、政治の主導権を取り戻しつつある。自民党は大勢が原発推進派で、甘利明と細田博之が「原発を守る政策会議」を発足させるなど妄動しているが、このような利権防衛の動きが国民の支持を得られるはずがない。原発政策が争点になるかぎり、推進派の自民党は国民の失望を買い続け、保守マスコミを動員した倒閣気運は頓挫させられる。菅直人の「脱原発」の奏功によって、いずれ自民と民主の支持率は拮抗するだろう。保守マスコミは菅直人の首穫りを諦めないだろうが、原発への国民の不信と反感は高まる一方で、当面、反原発の世論が菅直人の政敵をブロックする恰好となり、政権延命に順風の環境を与えるだろう。マスコミも、官僚も、暫くは原発擁護を言えない。


広瀬隆の『原子炉時限爆弾』は、「あとがき」がとても感動的な内容で、様々なことを思わせられる。マスコミとアカデミーの腐敗と退廃、政治の堕落と反動、日本の知性の荒廃と劣化、そして日本の若者の知的虚弱化。こうした時代状況への悲観的な認識や感慨は、この20年間、私がずっと思い感じ言ってきたことと同じだ。共通し一致している。言いながら、訴えながら、状況は年を追う毎に悪くなって行った。広瀬隆は、なぜ「トンデモ」の烙印を押されたのだろうか。それも、左右の両翼から。私は、よくわかるような気がしてきた。要するに、私の言葉で言えば、広瀬隆は新自由主義にも脱構築主義にも靡かず、独立不羈の知識人の矜持を貫徹したということなのだ。「トンデモ」のレッテル貼りをして興じる者たちには、左右を超えて共通する浮薄さと奇矯さと傲慢さがある。特有の腐った無責任な精神性がある。と同時に、彼らに共通するのは、アカデミーに在籍するしないを問わず、既成のアカデミーの制度上の地位や役職を崇め、権威として無条件に絶対視する心性である。東大教授なら信用に値するのであり、価値あるブランドなのであり、誹謗中傷の対象ではないのである。東大教授なら「トンデモ」ではないのだ。広瀬隆は、なぜ「トンデモ」と揶揄され蔑視されるのか。広瀬隆が大学教授ではないからであり、学会員でないからだ。アカデミーの身分を持たない素浪人の作家なのに、科学上の仮説を提出し、社会に大胆な警告をするからである。

現代人は、特に若い世代の者は、所与の肩書きを信用する傾向が強い。地位や身分とは離れたところで、宇宙の真理があり、普遍の真理を探究する科学や学問があり、学者がいるのだという前提がない。真理を探究する営為は、組織や機関とは無関係で、常に独立した個人に平等に拠るものだという思想を持っていない。学問や研究をするのに資格が必要だと思っている。ライセンスが要ると思っている。国家や機関が認定した有資格者のみが、その専門作業に従事し、責任ある発言や発表ができるものと信じ込んでいる。その思考は、受験の偏差値ランキングの序列と信仰に還元されるもので、序列の最上位に所属する者が立場を占有するという観念である。こうした思考は昔からあったが、現在の方がはるかに強力に社会全体を拘束している。学歴社会は、その上に資格社会を相乗させ、肩書きなしに生きていけない社会になった。と同時に、日本の科学技術は廃れ、学問も教育も衰退する一方になっている。最近のテレビの報道番組で、「専門家」と称する者が出演するときは、やたら賑々しく肩書きプロフィールをテロップで見せるように変わっている。以前はこのような慣習はなかった。そのような軽薄で虚栄的な自己紹介は、研究者や評論家にとっては恥の行為だった。そうした愚劣な権威づけ情報が、マスコミ世界では説得力として持て囃されるのであり、世間一般に通用しているのである。「独立不羈の知識人」などラテン語的な古語範疇であり、若い人は言葉を知らないどころか、意味を説明されても理解不能だろう。

今回、原発事故が起き、「御用学者」という言葉が復活した。昔は、この言葉は批判言語としてよく使われていたものだ。ところが、最近はすっかり言われなくなっていた。マスコミと論壇に登場する研究者が、すべて例外なく体制に阿る御用学者になっていたからであり、御用学者ならざる者はなく、それが研究者や評論家の一般形態になっていたからだ。政治学と経済学も同じである。政治学では、小選挙区制による二大政党制という「政治改革」の大義を担がない者は、異端となり、抹殺処分を受けて絶滅した。生息できない環境になった。社会科学系は、脱構築主義と新自由主義の回路を通じ、全てが体制派のバリエーションとして収斂され、自己を御用学者と自覚しない低俗な御用学者で溢れる世界となっている。文科省と睦み、公費で海外出張して「国際派」をネットで自慢する学者や、企業に飲み食いの金銭をせびり、「産学共同の成果」を文科省に報告して出世する学者や、女子学生をセクハラして性趣味を愉悦する学者ばかりの世界になった。政府の審議会に呼ばれて尻尾を振り、官僚の政策の広告塔となるのが唯一無二の勲章となった。そうして箔たる肩書き情報を無闇に増殖させ、紙屑を大量に出版社に刷らせて喜ぶインダストリーに成り果てている。真理探究などしていない。だから、そういう世界からは予言など一切出ないのだ。警告など発せられないのだ。「御用学者」という言葉が消失したのと、「トンデモ」の言葉が風靡したのは、思想的にはパラレルな一つの現象である。脱構築主義に与することなく、アカデミーの外でラディカルに体制批判する広瀬隆のような知識人が、異端になり、排斥と殲滅の対象にされたのだ。

私は、15年前、ネットの普及を前に、ネットでアカデミーの堕落と官僚化を批判する挑戦を考え、徒手空拳ながら、無謀にもそれを試みる企てを始めた。若かった。そのとき思っていたのは、退廃するアカデミーから排除されたところで、しかし真理探究の志を持った者はいて、秀逸な研究論文を次々と発表し、想像力を閃かせ、自由なネットの世界で真のアカデミアの王国を建国しようとする動きが勃興するということだった。そうした文化の営みと勢いが、政治を変える一助になるだろうと楽観した。15年前の日本は、そういう無邪気な夢想が、それなりにまだ可能な時代だったのである。けれども、実際の進行は、その期待や希望とは全く逆で、ネットの中は汚い罵詈雑言の掃きだめとなり、誹謗中傷を吐き捨てる痰壺となり、デマと風説を流布し、人を傷つける犯罪の温床となった。ネットで飛び交う言語は、年を追う毎に空疎になり、刺々しく偏狭で狂暴な攻撃性を帯び、極端に右翼化し、個性や質感や弾力を失って行った。ネットへの希望や情熱は失われ、カネ儲けの道具にするか、揶揄と罵倒の痰唾を吐く道具にするかの存在になって行った。それは、もう戻ることはない。正常になる、清澄になる、正気になる、充実するということはないと思う。現在では、遂に、ネットの言論は140文字のフォーマットに限定される窮極に至った。最もデマの拡散に具合がよく、誹謗中傷に最適で、人に物事を考えさせず、扇情と扇動に便利な情報形式である。破滅的な事故や事件が起きるまでは、真面目に警告する者は「トンデモ」にされるのだ。広瀬隆の「あとがき」には、日本の思想状況に対する透徹した批判がある。以下、抜粋転載する。


(P.279) 浜岡原発の危険性について、電力会社は、日本という国家の『原子力安全・保安院』や『原子力安全委員会』から独立して、判断を下してほしい。これらの国家的組織の御用学者と官僚集団は、政治家と同じである。まったく微かにも、人間性についても、思考力についても、国民が信頼を寄せることのできない低レベル廃棄物集団だからである。(略)読者もまた、中部電力に対して、地元の電力会社に対して、日本原燃と日本原子力発電に対して、さまざまの豊かな言葉をもって、働きかけていただきたい。テレビと新聞と雑誌もまた、この一件だけは、子供たちの世代に対して、「その危険性はわかっていた」という事後の釈明は、通らないことを自分に言い聞かせていただきたい。これまで、原子力の危険性についてほとんど報道もせず、警告も発しないマスメディアに、私たちは命を預けられない状況に置かれているからである。(略)原発震災の脅威について、これほどまで日本人の無知を助長してきた最大の責任は、言うまでもなく報道関係者にある。記者クラブでお上から貰った物語を、もっともらしく広めるだけの宣伝媒体、それが報道機関であってはならないはずだ。こと原子力については、報道界の常套句である公正中立という言葉にとらわれず、学者への取材や彼らの意見を紹介して満足してはならない。(略)「日本を守る」という報道人としての最後の責任をもって、誰にも頼らず、怯むことなく、自分の調査力と判断力で事実を調べ直し、結論を導かなければならない。いま必要なことは、地下激動する日本列島に住むすべての人が、原発の耐震性の議論に参加することである。

国民すべて、赤児から高齢者まで、男女を問わず、誰もが一瞬で人生を奪われる被害者になる可能性を持っているのだから、「原子力についてよく知っている」と自負する人間に任せないで、自らの手で調べて、自らの頭を使って考えるべきである。ここまで原子力発電所を大地震の脅威にさらしてきたのは、この「原子力についてよく知っている」人間たちなのだから、その人間たちに任せてはいけない。まさに醜議院・惨議院と呼ばれるべき政治屋たちが、これまで一体何をしてきたというのだ。今は「原子炉廃止法案」が国会に提出され、直ちに原発震災の危機から国民を救うべき時なのである。ここ十数年の日本で、大きく変わったことがある。それは、20代、30代、40代の若者と働き盛りの人たちの大半が、このような社会的な問題に立ち上がって、活動しなくなったことである。勿論、活動する勇気ある若者はいるが、私たちの時代とは比較にならないほど少数である。(略)昔も、日本には悪いところがあったし、現在の原子力産業を生み出したのは、昔の世代の責任である。しかし放射能にまみれて恐ろしい被害者になるのは、現在の若者より下の世代である。被害を受けるのは、決して、私のように67歳になった世代ではない。ならば、若者と働き盛りの人たちが、自分の人生を、大地震と無責任な社会任せにするほど、愚かなことはない。私たちの時代には、体当たりをしても、社会悪を食い止めることが良識であった。その良識を失っては、人間としての生きる価値がないと思っていた。こうした時に、社会を変えるのは、若者の最大のつとめであるという信念があった。しかし、責任や義務や権利のために、行動することではないと思う。

自分の身を自分で守る、それだけが大切なことである。私自身も、原子力の危険性に気づいたのは、ようやく30代後半であった。誰でも、気づくまでは、無知の塊である。しかし気づいてすぐに、みなと行動を起こした。現代の若者も、そろそろ傍観する優柔不断な評論家スタイルの自分を捨て、立ち上がって、知性的な声を上げるべき時である。室内に閉じこもって、インターネットだけに頼るようでは、道は開かれない。では、どうすればよいのか。それは、自分の知恵をしぼって考えることだ。沖縄や徳之島の人たちが、目の前で行動の模範を示してくれている。上関原発に反対する祝島の人たちが、人としてあるべき意気を示している。敬愛するこの人たちのどこが違うかといえば、私たちの心を揺さぶってくれるところにある(P.279-283)。


by thessalonike5 | 2011-05-11 23:30 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
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