この本は今こそ読むべきで、原発震災を経験した今こそ読んで意味がある。迫真の内容に震え上がる。予言書として立ち現れる。この本を読み、NHKの浜岡のニュースを見ると、マスコミ報道が福島の原発事故の前の意識で行われていることに愕然とさせられる。まるで福島の事故などなかったかのような態度で、タイムマシンで半年前に戻って、その立脚点から菅直人の停止要請を論評しているのである。マスコミは、浜岡原発が東海地震の震源域の中心にある事実は伝えるが、想定されるマグニチュード8超の地震がこの地域で起きたとき、そこから何が始まるかをリアルに追跡しようとしない。福島を2か月前に経験しながら、その経験を当て嵌めて浜岡事故の想定被害を論及しない。その感性がない。東海地震について、政府の
地震調査会は今後30年以内に87%の確立で発生すると予想している。だが、東海地震の脅威について騒がれたのは、もう30年以上前のことで、われわれより上の世代は当時をよく覚えている。政府の地震対策行政は、東海地震を予知し防災することを目的に進められた。そうしているうちに阪神大震災が起き、中越地震が起き、想定外の地域で大地震が連発し、政府の地震予知は全く信用できないという通念が定着して、東海地震の恐怖について次第に警戒意識が薄れてしまった点は否めない。この本の第1章は東海地震と浜岡原発について書かれている。未読の方は、第1章だけでも立ち読みして欲しい。
こんな危険な場所に原発がどうして建ったのか。実は、当時東大理学部助手だった
石橋克彦が東海地震の警告を発したのが1976年8月で、その5か月前の1976年3月に浜岡原発が営業運転を開始していた(P.28)。それから、重要な情報だが、2004年に浜岡原発を止めるべく「
原発震災を防ぐ全国署名」の運動が起こされ、京セラの稲盛和夫が賛同人に名を連ねたとある(P.29)。マスコミはこの重大事実を報道しない。世間に紹介されれば、米倉弘昌の粗雑な停止反対論も相対化されるだろうし、世論の反応もかなり違ってくるだろう。浜岡原発と東海地震について書いた第1章では、広瀬隆は2009年8月に起きた
駿河湾地震とそれが浜岡原発に与えた影響について詳しく取り上げている(P.57)。この地震はM6.5と小さく、特に大きく
報道されることはなかった。東名高速の路肩が崩れ、復旧に数日を要し、その様子がテレビに映っていたのだけが印象に残っている。浜岡原発への影響について報道があった記憶はない。ところが、現地では深刻な事態が起きていた。5号機のタービン建屋では壁にひび割れが発生し、建屋の外では最大10センチの地盤沈下が確認されている(P.60-61)。5号機の原子炉建屋3階では、548ガルの揺れを計測していた。5号機は浜岡原発の最新鋭機で、耐震性600ガルを誇る強度を備えている。これは、5号機を設置した地盤が弱く、それに中電が対処したためだったが、M6.5の小さな地震で、揺れは限度ギリギリまで達していたのである(P.72)。
このとき、同じ地震での揺れは、1、2号機で109ガル、3号機で147ガル、4号機で163ガルと計測されていて、いかに5号機の揺れが特別に大きかったかが分かる(P.73)。同じ地震のエネルギーと震度でも、立地する地盤の違いで揺れの程度は違うのだ。直下の活断層を避けて不規則に5基の原子炉が並ぶ浜岡だが、海から向かって右側、すなわち東側へ行くほど地盤が脆弱なのである。このことは、何となく地図を見ても直感されるところで、牧ノ原台地が太平洋に突き出し、黒潮の海流に洗われながら西の遠州灘に面して砂州を形成するに及んでは、端の岬に近い東側ほど地盤は弱くなるだろうと想像される。心細く頼りない砂地に浜岡原発は建っているが、特にその東側の敷地が弱く、地震に対して極端に耐久力がないのである。中部電力は、5号機の敷地よりもさらに地盤が軟弱な東隣に、新たに6号機を建設する計画を進めていた。4号機の稼働が1993年で、5号機は小泉政権時代の2005年に運転開始している。この5号機については、単に地盤が脆弱であるだけでなく、手抜き工事の酷さが言われていて、この点は4/29の明大の
講演会でも内藤新吾が指摘していた。実際、浜岡原発でもコンクリート工事の不正が内部告発され(P.67)、過去に地震がない時に、何と制御棒が脱落する事故が二度も起きている(P.70)。小泉時代を知っているわれわれは、この時代にコストの論理だけで製造された「最新鋭機」の安全性に疑いを持つ必要がある。公共性の論理からの監視が失われた時期だ。
広瀬隆は、大地震の揺れが原発に与える影響について、二棟の建屋を結んで走る配管の破損の危険を言っている。福島の事故についても、津波による全電源喪失で緊急冷却装置が作動しなかったことが炉心溶融に至る原因ではなく、地震で配管が破損して、冷却水を循環させられなくなった点に真因があるのではないかと推測、津波主因説を疑う見解を4/29の
講演でも強調していた。同じ分析は、田中光彦が加えていて、「世界」
5月号で詳述している。引用しよう。「
現在進行中の福島原発事故の原因として多くの人が言及する大津波も電源喪失も、私がこの先述べようとしている冷却材喪失事故とは関係がない。つまり、私が思っていることは、配管が地震時に激しく揺れて破損し、その破損箇所から高温高圧の冷却材(水または水蒸気)が猛烈に噴出したのではないかということ」(P.135)。つまり、政府と東電は、津波を事故の主犯にすることで「想定外」を正当化し、人災の過失責任を免れようとしていると、そう批判するのだ。田中光彦と広瀬隆の指摘が本当に正しいのが、それとも津波が主因なのか、私にはよくわからない。もし、地震の揺れが原因だったとすれば、女川で同じ配管破損が起きておかしくないとも思われる。ただ、広瀬隆によれば、東海地震では浜岡砂丘は一気に2メートル隆起するのである。安政東海大地震の時と同じく(P.84)。その地盤の轟然たる隆起が、直下に何本も走る断層に亀裂を生じさせながら起きる。建屋を繋いで走る配管は、間違いなく弱い溶接部分で破断するだろう。
津波の問題もある。第1章を読んでいると、この本は昨年8月に出されたものだが、まるで半年後から帰って来て書いているように思えてくる。東海地震の津波が浜岡原発に及ぼす影響について、マスコミ報道は全く真面目に説明しない。福島第一とは地盤が違うのである。浜岡の前にある高さ10メートルの砂丘は、一瞬で津波に崩され、防波堤の役割を果たさないことは素人にも自明ではないか。広瀬隆が4/29に言っていたし、われわれも三陸の津波映像で目撃したが、津波は一撃単発で終わるのではなく、水嵩を増して幾派にも地上を襲って来るのである。止まらない。防波堤にしても、防潮壁にしても、それを物理的に破壊して進撃するか、勢いよく乗り越えて突進する。後ろから来る波が、防波堤で堰き止められた前の波に乗り上げ、前の波を土台にして波の高さを上げて陸地に侵入する。1854年11月の安政東海大地震では、4-10メートルの高さの津波が、1時間にわたって繰り返し沿岸に襲いかかり、東海道の宿場町を全壊させ、死者数万人の被害を出した(P.35)。この年はペリーの黒船来航の翌年である。『竜馬がゆく』にも登場する。小説では、このときは江戸で町娘と情事の最中だった(文春文庫
第1巻
P.285)。安政東海地震の翌日に起きた安政南海地震で土佐が壊滅(寅の大変)の報を聞き、大慌てで土佐へ駆け戻っている。東海地震は南海地震と連動するのだ。小説には、道中の東海道の様子は描かれていない。きっと、宿場を結ぶ街道で見た風景は、われわれがテレビで見た東北沿岸の映像と同じだっただろう。
マスコミ報道でも若干出たが、広瀬隆や
内藤新吾が注目し危惧するのは、海に出た取水口に津波が押し流してくる海底の土砂が詰まり、取水槽に水を取り込めなくなる事態である(P.91-92)。復水器を循環して二次冷却系となる海水が取り込めなければ、原子炉を冷やす水はすぐに沸騰し、原子炉が空焚き状態になる。原子炉の水蒸気は配管で復水器に送られ、海に放熱しているから、原子炉の核燃料は炉心溶融せずに済んでいる。海が原子炉を冷やしている。福島の場合は、運よくこうした問題は起きなかった。海底に砂や泥が少なかったのかもししれない。女川でも起きなかった。牡鹿半島の断崖に置かれた女川原発は、海底が深く、泥や砂のない岩場で、海底と取水口との高低差が作用したのかもしれない。ただ、福島と浜岡の二つの写真を見比べると少し設計が異なっていて、福島の場合は建物と海が直結して、取水口がほぼ直付けの構造であるのに対して、浜岡の場合は砂丘と浜辺で海と隔てられており、海底に引かれた取水トンネルが長く伸びているようにも見える。海が遠浅という点もある。福島の場合は、海と取水口と取水槽がほぼ一つであり、分離された構造になっていない。浜岡は内側に取水槽(プール)がある。ここに外から海水が供給されないと、取水槽が干上がって二次冷却が不能になるのだ。第1章の結びに、6頁にわたって、広瀬隆がSF小説的なタッチで地震と津波の直後の世界を描写している(P.94-99)。時間のない方は、この部分だけでも書店で立ち読みして欲しい。この絶句する情景に対して、「信じられない」という言葉や感想は与えられない。
逆なのだ。浜岡の停止問題について、福島以前の感覚でそれを論じているマスコミ、財界、政界の世界こそが、「信じられない」対象なのである。