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辺見庸が語る大震災 - 瓦礫のなかから言葉をひろって
失われてみて、その記憶の大きさが自分の中でいかに大事だったか、自分の表現を支えてきた土台に、あの魚臭い町があったということを思い知らされたわけです。堤防があった。海岸で遊ばない日はなかった。いつも耳鳴りのような、幻聴のような潮騒と海鳴りを不思議に思ってきた。僕にとっては、あの荒れ狂った海が世界への入り口だったし、授業中に校舎の窓からも海が見えた。いつか、あの海の向こうに行くんだと、自分で決めていた。私はいつも自分をコスモポリタンだと、根無し草だと思ってきた。僕にはルーツなんか無いものだと思ってきた。記憶の根拠になるものなんて本当は無いものだと思い続けてきたけれど、今度という今度は本当に思い知らされた。慌てている。自分には立つ瀬がないとさえ思うようになっているわけです。2011年3月11日に一体何が起きたのか、僕らはまだ3・11から時間がそれほど経過していないので、正直、呆然自失していると思うんです。その理由は、その破壊の大きさと、あのダイナミズムをあらわす言葉を誰も持っていなかったということだと思うんです。それを言い表す言葉が数字以外にないということは、こんなに実は淋しいことはない。皆さんが待ち望んでいるのは、水であれ、食料であれ、暖房かもしれない。と同時に、胸の奥に届く言葉でもあるような気がしているのです。それは決して、がんばれとか団結とか復興とか、通り一遍の言葉をスローガン的に言うことではない。


私が死ぬまでに精々できることは、今度の出来事をしっかり深く考えて、考え抜いて想像して、言葉を打ち立てて、打ち立てた言葉を、死者たち、それから失意の底に沈んでいる人々に、僕自身の痛みの念と共に届ける。それが、私に残された使命なのではないかと思うんです。甚大な被害を受けた石巻、そして三陸の沿岸都市には、気配、兆しというものが常に孕んでいたし、充ちていたに違いないと思うんです。(詩集『生首』の紹介と「入江」の朗読のあと、3/11の津波の映像を見ながら)決して、水の仕業とは思えないんだ。津波が。もっと金属的な、ひどく重いものが一気に押し寄せて来る、突進して来るんだ。鉄とかコンクリートとか、そういうどでかいものが、爆弾を受けたみたいに、破弾すると言うか、そうすると容易に想像がつくと思うよ、人間の身体がどうなるのか。一発で捻じ切れてしまうわけだ。それは、僕の友人はそういう大袈裟なことは言わない人間だけれども、地獄だと言っていた。テレビの映像は、いつの間にか、凄いんだけれど事態が希釈されている。私が友人から送ってもらった写真で見ている映像と違うんです。例えば、車が何台も折り重なって、中に人がいるまま黒焦げになって、私のいた小学校が焼け爛れている。その絶大な風景をあらわす言葉がない。ただ慟哭するしかない。ただ泣き叫ぶしかない。

実は、3・11の事柄の経験したこともない巨大さから、いろいろな、私の目から見れば危ない事象が、今、芽を出し始めていないではないと思っているんです。それは、一つは今回の物事を宗教的な予言のように、或いは誰かが言ったかもしれないけれども、天罰が来たとかという形で、今度のわれわれの経験というものを回収して行く。こういう思考のプロセスは、きわめて危険だと、私は断言したいと思うんです。そうではない。これは天罰では断じてあり得ない、と私は考えています。私が思いついたのは、新約聖書の最後に配置されたヨハネの黙示録の最後に出て来る、「神と子羊の怒りの大いなる日が来たからである。誰がそれに耐えられるであろうか」の一節です。人間の王国が滅びてですね、神の完全な支配が実現してゆく過程の中で表現された、いわばキリスト教的な黙示文学。文学ですね。先人たちが持ったイメージを手掛かりとして、このことを私は想起したわけです。イメージすることは、別に罪ではないし、悪いことではない。ただ、これに拝跪して行く、跪いてしまうのは、私はそれは違うのではないかと思っているんです。そこからは、立ち上がる術がない。人としての希望があり得ない。3・11がわれわれに根源的な認識論上の修正を迫っていると、僕は感じているわけです。世界認識上あるいは宇宙認識上の改変を、あの未曾有の出来事は僕たちに迫っている。

ものごとは、世界の事象は、①あり得ないこと(the impossible)、②あるかもしれないこと(the probable)、③回避できないこと(the inevitable)の三つに大別できるのではないかと、長じて私は自然に思うようになっていたと思うんです。で、差し当たり私が考えているのは、①はあり得ないと修正しなければならない、かつてあり得ないとされていたことは最早あり得ないということです。つまり、すべての可能性は、可能性の②と③に収斂されて行くであろうという認識論上の修正です。すなわち、①はなく、①に属していた認識は、②か③に修正せざるを得ないだろうと思うのです。あの光景とは、尺度を変えて考えてみれば、宇宙的な規模で考えてみるとしたら、喩えに語弊があるかもしれないけれど、恐れずに言えば、宇宙の一瞬のクシャミのようなことかもしれない。かつて地震というものは最大眼でもこの程度でしかなかった、したがって、それ以上は想定しないで済むというのは、データ主義からきた不遜な行為ではないかと思うのです。それは著しく反省しなければならない。大自然はそんなものではない。宇宙の一瞬のクシャミが人類社会の破滅に繋がるんだということをわれわれは考えなくてはいけない。そうしたら、核というものを用いる発電というものが、本当に根源的に安全かどうか、それは宇宙の摂理というものに照らせばどうなのか、ということをもっと謙虚に考えるきっかけになるのではないかと思うのです。

私たちの命というものが何て短いんだろう、何て予定されてないんだろうということに、打ちのめされたわけです。そして、小さな命というものが、簡単にモノ化されていくということ、そして、宇宙の悠久の命というものが、実は重なり合っている、交差し重なり合い、肌と肌を合わせていること。その恐怖と恍惚を、法悦というものと畏怖の念の両方を、今度、私は自覚したわけです。もう一つ、見たこともない荒ぶる光景を見ながら思いついたのは、アドルノが言った言葉なんです。アウシュヴィッツ以降に詩を書くことは野蛮であると。ユダヤ人たちは、信じがたいほどの殺戮という苦難に遭いながら、アドルノはこう語ったのですが、これはどういう意味なのだろうと。私は前からアドルノの『文化批判と社会』を読んでいながら、よく分かっていなかったわけです。われわれのコミュニティやソサエティが持っている、言語を含む文化というものを、アウシュヴィッツを前提しないで、その苦難と残虐と殺戮というものを通さないで見た場合、それを平気で美しい詩を書くことができるのか。世界がここまで来てしまったのに、なおかつ美しい詩を書くのか。あるいは、かつてわが国でもそうであったように、社会とも、世界とも、世界のいかなる悲劇とも一切関係のない、真綿でくるまれたような幸せを詩とするのか。つまり、この一大悲劇を表現する私たちの文化というのは、3・11以前にあった文化と今後も同じであっていいのかという設問なんです。それは、アドルノの警句にどこかで導かれている気がするわけです。

カミュが考えた『ペスト』の世界。オランという町の出来事は、こういう場面に立ち至ったときに考える叩き台にはなるであろうと、私は思うんです。ペストで、何十人も、何百人もが死んでゆく中で、主人公のベルナール・リウーは、この破綻に瀕した状態の中でどうあるべきかということを問うたときに、呆れるほど単純なことを言うわけです。ベルナール・リウーはこう言ったわけです。人は人に対して誠実であること、これが大事なんだと。このあらゆるレトリックを削ぎ落とした「誠実」という一語を、私は若いときに一寸バカにしていました。私の胸には届いていなかった。だけども、今やっと分かったような気がするわけです。リウーの言っていることはこうなんです。人は人にひたすら誠実であること、そのかけがえのなさというのは、混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなくて、他者に対していつもよりやさしく、それから誠実であること。愛とか誠実という、今までそれなりの安定の中で、安寧の中で、ある種の悠々としてわれわれは演じることができたことが、果たして可能なのか。家もない、食料もない、ただ震えるだけの被災者の群れ、そして貧しい人たちと弱い人たちに、今、われわれは自らのものを分け与えて共に生きることができるのか。私たちが負わなければいけないもの、私たちが担わなければいけないもの、それは、人の苦しみなんです。個人の苦しみなんです。私たちが問われているのは、国でもなければ民族でもない。今、真価が問われているのは、明らかに疑いもなく、個人なんです。個なんです。

かつての震災のときもそうでした。戦争が立ち上がって来る以前もそうでした。国難という言葉が必ず登場する。国家存亡のとき、大和魂、日本人としての精神、日本人としての団結。なぜ他民族はあってはいけないのか、たくさんの外国人も亡くなっている。カミュは、結局、人間は禍を制し得ないであろう、人は一度起きた悲劇を忘れるであろうというふうなことを示唆して、『ペスト』という小説を閉じていくわけですけれども、私はそういう予想を思いつつも、でも、救いは例外的な個人にあるというようにも思う。常に個人は例外的ですけれど、例外的な個人が、悪魔的な破局の中で誠実ということを実践していく。この壊された町、壊された大地、そして荒れ狂った海は、また時が来れば、カミュの『ペスト』でも同じように、平らかになる。無かったことのように、海は青くなり、海は凪ぎ、大地は鎮まり、草は生えてくる。新しい命がたくさん出て来る。しかし、それでも私は、痛み続けなければならないと思っているわけです。そして、何よりも、私が私に課さなければいけないことは、もっともっと私は考えなくてはいけない、そして考えたことを少しずつ言葉にしなくてはいけないと、私は思っています。放射能がかなり高いレベルの場所に留まって、患者を診ている医者、どうあってもそこを動かないという医者。あれがベルナール・リウーだよ。あれが誠実さっていうもんだよ。あれが救いなんだよ。原発の放射能の前に置いて行かれて、老人ホームかなんかの人たちが死んで行っていた。で、これだけの数字が出て来ると、そのような本当に哀切きわまる死っていうものが、軽く考えられてしまう。

80歳、90歳の人間だから、もういいだろうということになる。俺はそうではないと思うんだよ。今、ホスピスにいる母親から電話がかかってきたけれど、死ななきゃいけないと思っているわけね。死ななきゃいかんと。そういう人たちこそ励ました方がいいんだよ。そういう人たちこそ生きるべきなんだよ。助けてあげなくてはいけないんだよ。この人は若いから、この人は有能だから、この人は社会に役立つから、だから生きてもらうということでは、絶対にあってはいけない。違う。


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by thessalonike5 | 2011-04-25 23:30 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
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