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2011/03/03

何者が毒ガスを提供したのか

題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335

第九章 破壊活動防止法発動の破綻

 一九九五年五月十六日、公安調査庁はオウム真理教を「調査団体」に指定した。教団を破壊活動防止法に基づき解散することを企んだものである。
 壊活動防止法は一九五三年(昭和二十八年)四月二十八日の「サンフランシスコ平和条約」と「日米安保条約」が発効した直後の七月二十一日公安調査庁設置法と同時に公布されたものである。その前後に、あとで警察が仕組んだことが判明した菅生事件をはじめ吹田事件、大須事件ならびに芦別事件のような原因不明の事件が頻発した。こうした集団犯罪を背景に急遽破防法は制定されたのである。
 公安調査庁の設置は、それまでアメリカがやってきた諜報活動を日本政府の責任でやらせようとするもので、戦前の所謂「特高」の復活であった。破防法はしかし制定されて以来四十年以上も経つが、一度も発動されてこなかったものである。
 破防法はもともと共産党対策として制定されたものである。共産党はレーニンによって定式化されたように、合法活動と並行して、地下に潜り非合法活動により権力を奪取する政策をとっている。破壊活動防止法はこの地下活動をする団体を封じ込めようとするものである。
 地下活動を必要としていない宗教団体に対して、破防法を適用して宗教弾圧を行うことには無理があったのであるが、これを強行するには「教団の武装化計画」なるものの宣伝ほか、「信者の地下潜行」という演出が必要とされた。

オウム元幹部等の地下潜行
一九九五年五月十六日、麻原教祖が逮捕され、井上嘉浩を含む何人かの幹部が逮捕されたが、何人かの元幹部は地下に潜行する形で姿を隠し逮捕を猶予された。これらの主だった者の顔写真は派出所は勿論、駅構内、集会所、街頭、果ては職場にも張り出された。
その後早くも七月四日には新宿駅と茅場町駅で青酸ガス発生装置が見つかり、オウム真理教信者の地下活動を思わせる事件が起きた。その後もコマ劇場や京浜急行車内や横浜駅での異臭事件、盗まれたと称する電車無線を用いた運行妨害やコンクリートブロックを線路内に置く列車妨害事件、果てはビル屋上から危険物を投下するという騒動が頻発した。自動販売機から薬物の混入された飲料が見つかったり、アジ化ナトリウムを用いたコーヒー中毒事件も何件か起きている。いずれも犯人は不明のままである。
遺伝子組み替えで作られたベロ毒素を生ずる病原性大腸菌O ― 一五七による集団中毒事件の発生も世間を大きく騒がせた。感染源はいずれも不明のままであり、O ― 一五七は生物兵器と見られるのである。
『東京新聞』十月二十四日には「オウム逃亡七カ月どこに」という見出しで林泰男、高橋克也、北村浩一、菊地直子、平田悟および平田信の大きい顔写真が掲げられた田町駅改札口の写真が掲載されている。看板の大きさは高さ一メートル幅十一メートルの大きなものとある(註1)。この看板の平田悟の顔写真の上には、顔を隠すように大きな紙が張られており、赤い文字で「検挙」と書かれておりその下に「ご協力ありがとうございました」と記されていた。実はこの写真が新聞に載った直前の十九日、平田悟は前橋市郊外で、行動を共にしていた松本小百合とともに逮捕されたのである。平田悟は井上嘉浩の忠実な部下として、「假谷さん拉致事件」に関与したとされ、松本小百合は井上嘉浩を匿っていた「犯人隠匿」容疑ならびに五月五日の「新宿青酸ソーダ事件」にかかわったとされていた(註2)。 
 九七年一月三十一日、公安審査委員会はオウム真理教への破防法適用の申請を棄却した。既に九六年の暮れには破防法の企みは破綻していたので、秘密警察は元信者を地下に潜行させておくことは無意味になってきた。事実十一月十四日矢木沢善治が所沢署に出頭し、その供述から北村浩一が逮捕された。北村は地下鉄サリン事件で「運転手役」をしたとして殺人罪などに、矢木沢は新宿青酸ガス事件の殺人未遂事件容疑で手配中であった。最重要の容疑者として手配されていた林泰男が沖縄県石垣島で逮捕されたのは翌月に入った十二月三日であった(註3)。
 共産党の地下活動では党員の行動はあくまで党の方針に忠実であるのだが、地下潜行した元信者は、逮捕後は麻原教祖に反逆し、教団に打撃を与える発言に終始した。これでは何のための地下潜行であるか疑問であり、謀略者集団の手に踊ったとしか言いようがない。その代表的な事実は林泰男の発言である。麻原教祖の第七十三回公判で「議論自体が不毛だ。麻原がすべてを認め謝罪した上で(弁護団は)弁護活動をすべきだ」と暴言を吐く始末である(註4)。
 地下潜行した元信者のうち平田信、菊池直子ならびに高橋克也の三人は、教団の度重なる出頭勧告にもかかわらず、依然として逮捕されていない。そのうち地下鉄サリン事件の容疑者とされている平田信はまた、国松長官射殺未遂事件にも関係したとの噂も流されている。国松長官を撃ったとのニセの発言をした公安警官小峰敏行の「平田が現場にいた」との発言が関係しているが、当てにはならない。
「三億円事件」の犯人がアメリカに逃亡していたように、これら三人も外国に逃亡しているか、あるいは殺されているのかもしれない。

宗教法人法の認証の取り消し
 与謝野馨文部大臣がオウム真理教の解散請求について初めて言及したのは、強制捜査開始直後の三月二十四日のことである。解散請求の時期については、「教団枢要な幹部が起訴された段階」と述べていた(註5)。
 宗教法人の認可は都知事の権限に属する。五月十六日の都庁小包爆弾事件は宗教法人法に基づくオウム教団解散の下準備であった。六月六日、麻原教祖ら七人を殺人と殺人未遂罪で、九人を殺人予備罪で起訴した。このように手回しよく準備を整えた後の六月三十日、オウム真理教の解散請求を東京地裁に請求した。本来は東京都が行うべき解散請求であるのに、東京地検と合同の訴えとなった。
 東京地裁は十一月六日、裁判の審問を非公開で行なったが、地検側は同月二日に「第七サティアン」を検証したとして、ここでサリンが製造されたと主張した。教団側はこれに対してサリンが製造できる施設かどうかを専門家を交えて検証するようにと主張した(註6)。 
 それにもかかわらず東京地裁は何ら実地検証を行うこともなく、十月三十日オウム真理教の宗教法人としての認定を取り消す決定を行なった。請求から僅か四カ月での判決である。教団側は東京高裁と最高裁で争うことを余儀なくされた(註7)。
 教団は十一月二日東京高裁に即時抗告するとともに、「第七サティアン」でのサリン製造を否定すると同時に麻原教祖の弁明を求めた。しかし今回も東京高裁(裁判長柴田保幸)は実質審議をすることなく教団側の抗告を棄却する決定を出すとした(註8)。東京地裁の決定から僅か半月の決定である。教団はこれに対しても即日抗告を行なった。
これに対して九六年一月三十一日、最高裁判所(裁判長小野幹雄)がオウム真理教の特別抗告を棄却し、宗教法人の認定の取り消しが確定した。東京地裁で裁判が開始されてから僅か七ヵ月で最高裁の判決が出てしまったのである。一般に裁判は長期化しておりオウム裁判はいつ果てるともしれないのに、この異常な早さはその後の教団弾圧に欠かせないものとなったのである。         
 さらに驚くべきことは最高裁決定の内容であり、次のように述べられている(註9)。
「東京高裁が確定したところによれば、オウム真理教の代表役員だった麻原彰晃被告とその指示を受けた多数の幹部は、大量殺人を目的として毒ガスのサリンを大量に製造することを計画した上、多数の信者を動員し、教団の物的施設を利用し、教団の資金を投入して計画的、組織的にサリンを製造したというのだから、法令に違反して著しく公共の福祉を害すると明らかに認められ宗教団体の目的を著しく逸脱した とが明らかである」 
 まず最高裁判所は地裁や高裁など下級裁判所の決定が正当なものであるかを審査する機関であるはずである。しかるに、この判決では前述のように「東京高裁が確定したところによれば ::: サリンを製造したというのだから」と東京高裁の決定を鵜呑みにしている。これでは最高裁の存在価値が無いというべきである。さらに下級裁判所の東京地裁で麻原教祖の裁判も開始されないうちに、麻原教祖を名指しで「サリンを製造した」と断定しているのである。最高裁判所が早々と「サリン製造」を断定してしまった以上、これから展開される裁判は猿芝居にすぎないであろう。

破産法による弾圧
 オウム真理教の宗教法人取り消しとそれによる解散命令は破産法の適用とそれに基づく財産の精算を可能にした。そして九六年三月二十八日、東京地裁はオウム教団の破産を宣告した。破産管財人には阿部三郎弁護士が選任された。
教団は千人を超す出家信者を抱え、自給自足の体制を余儀なくされていた。食料自給のため農業に携わるもの、病院、診療所、パソコンショップやラーメン屋の経営等多岐にわたっていたとみられる。しかし、それらの経営に当たっていた幹部信者がことごとく逮捕され、既に破産状態になっていたのである。
 そもそも破産法は商法に属するもので、商売が成り立たなくなって破産した場合に対処する法律であり、犯罪を取り扱う刑法の埒外にあるものである。それにもかかわらず刑事裁判が進行中で、処罰が行うことができないのを補完するがごとく教団の財産を競売にかけるなどの教団潰しに一役買った。そして、その理由は「サリン事件などの被害者救済資金」を得るためとした。教団はサリンやVXガスを作っていないのであり、「被害者救援」は「国家犯罪」の観点からなされるべきものであった。破産管財人はさらに「証拠物件」として残されていた第七サティアンの取り壊しを裁判所に申請して同意を得た後、取り壊すという証拠隠滅を図った。

破防法適用の企みと破産
 九五年十二月十四日、社会党出身の首相村山富市は公安調査庁から出されていたオウム真理教に対する破壊活動防止法(破防法)の団体適用方針を了承した。サンフランシスコ平和条約発効直後制定された破防法に対して、戦前の思想弾圧法の復活であるとして激しく反対してきた社会党の党首が四十四年ぶりに破防法を復活させて適用しようというものである。
 この決定に基づき、公安審査委員会が発足した。公安審査委員長は弁護士堀田勝二、委員弁護士は柳瀬隆次、大東文化大学教授中谷僅子、元英国大使山崎敏夫、弁護士山崎恵美子、元日本経済新聞編集局長鮫島敬治の諸氏である。 
 告発側である公安調査庁からは主任受命職員 堀江信之、受命職員 小林正一、恩地宏、森本清治の諸氏が当たり、弁護側からは代理人 弁護士 内藤隆、芳永克彦、清井礼司、李宇海の諸氏が、また立合人としては 評論家佐高信、評論家小沢遼子、一橋大学教授福田雅章、青山学院大学教授芹沢斉、同志社大学教授浅野健一の諸氏が務めた。
 審査の経過に関しては、オウム破防法弁護団編著『オウム破防法事件の記録』に詳しく記載されているし、提出された資料も掲載されているので、詳細はそれに譲る(註10)。論戦の大要は次のようである。
 九六年一月十八日、第一回弁明手続きが始まり、約五時間の論戦が行われた。立会人は厳重なボデーチェックを受け、トイレに行くにも数人の男たちがドア近くまで取り囲むというまるで戒厳令下の軍事法廷のような雰囲気だったという(註11)。弁明手続きでの公安調査庁側の主張は支離滅裂であった。公安調査庁側は「刑事事件の裁判が始まっていないから供述書の実名は出せない」「公安調査官の書いたことを信じてほしい」と言うばかりであった。サリン事件などの裁判が始まってもいない段階で、すべての事件が麻原代表らの犯行と断定されて手続きが始まったところに最大の矛盾があった。
 第二回目の弁明手続きは四月五日開かれた。第一回から一ヵ月半もかかってやっと開かれるに至ったのは麻原代表の出席問題で合意が得られなかったためであった。この席で麻原代表の出席が強く求められ第三回目での出席が決まった。
 公正な審査を実現するための「審査の公開」少なくとも弁護団側のビデオによる写真撮影を強く要求したが、公安審査庁側は一切応じようとしなかった。また公安調査庁側が提出した証拠としては新聞記事が用いられていた。「なぜ新聞記事が証拠になるのか」との弁護団側の追求に、公安側は「新聞記事は正しい」と回答。傍聴席の新聞記者たちも声を上げて呆れていたという(註12)。
五月十五日の第三回弁明は東京拘置所で行われた。この席で麻原教祖は教団に関する自説を展開、「信者に救済計画を示しただけだ」と言いきり、教団の活動内容についても具体例を挙げて「独裁体制ではない」と説明したという(註13)。また「私は起訴後拘留の身ですが、私の奪還が噂されています。信徒にはよく聞いて欲しいのですが、拘置所はコンクリートが厚く、洞穴に近い。個人的には絶好の瞑想の機会を得ている。それを疎外するのは何人たりともできないし、私としても拒絶したいと思うのです」と奪還の策動を拒絶している(註14)。
 また「昨年六月に逃走信者を教団が除名処分にしたことは知っているか」の質問に対して、「把握しております」「富永昌弘君が私の呼びかけに応じて出頭したと聞いております」と述べたという(註15)。秘密警察が性懲りもなく脱走信者を利用しようとしていることをきっぱりと拒絶した。
 五月二十八日の第四回弁明の席では、あとに示す「獄中ノート」が取り上げられ、麻原氏が「教団代表」を降りるという意志を表明していることが示された。公安調査庁のシナリオは、麻原教祖が独裁的立場にあるとの前提に立つものであるが、その当人が教祖の地位を捨てるというのだから公安調査庁の根拠が崩れたことになってしまった。
 麻原教祖は「証拠」と称するもののいい加減さを、実例を挙げて指摘した。供述が証拠の一つとして提出されている人物はスパイと明言。また明らかに教団メンバーではない人間が元信者として供述している疑いが濃厚だと証拠番号を挙げて主張した(註16)。教団にスパイが入り込み破壊活動が行われたことは井上嘉浩の存在で明らかなことであるが、この席でも教祖の口から指摘された。またオウムの犯罪を裏付けるという警察の作り上げた「自白調書」の出鱈目さ加減も指摘されたのである。
 裁判官の「九四年夏から秋にかけての体調は」の質問に対して、麻原教祖は「非常に悪くて九四年四月終わりにはいつ死んでもいいような状態。左腕の上腕三頭筋の断裂もあった。心不全、呼吸不全などの症状も出て非常に体調が悪かった。三月、防衛庁や警視庁のヘリが飛んできて、体調が悪くなった」と答えている(註17)。 既に「米軍機による毒ガス攻撃を受けた」という麻原教祖のビデオ録画がNHKで放映されてはいたが、この席でも毒ガス攻撃を受けたことを暗に述べている。
 麻原教祖の供述が続いている途中で公安調査庁側が時間切れを告げた。弁護団は「まだ途中だ」と反論。麻原教祖も「私への証拠内容を録音したテープ三十六本あります。まだ二十四本残っています。要するにまだ三分の二が終わっていない。それについては弁明権の剥奪をなさるわけですか」と抗議したという(註18)。
弁護団側が打ち切りを反対するなか、公安調査庁側は終了を宣言した。この緊迫した雰囲気の中で立会人の間からは同志社大学浅野健一教授の「民主的にやれよ、日本に表現の自由はないのか」、ならびに一橋大学福田雅章教授の「人権どろぼう」の抗議発言が飛び出した(註19)。
 その後六月二十一日の第五回と六月二十八日の第六回の会合には麻原教祖抜きの弁明となった。二十八日の最後の弁明で教団を代表して村岡達子氏は「麻原開祖は既に死したにも等しい」と述べ、「現在の教団は違法行為とは全く無関係で将来の危険性もない」と指摘したという(註20)。公安調査庁側はこれを最後に弁明手続きを一方的に打ち切った。
 一九九七年一月三十一日、公安審査委員長の堀田勝二氏はオウム真理教への破防法の適用を棄却する決定を下した。これはオウム真理教に対する公安警察の弾圧が失敗した最初のケースとなった。これは公安審査会での教団弁護側の努力もあったが、宗教団体を破防法で縛るのはもともと無理があったのである。
 もともと破防法は共産党弾圧を狙ったものであった。オウム真理教弾圧に血道を上げている共産党が破防法に反対したのは、この死にかかった法律が復活し、やがて共産党の弾圧に利用される恐れをおもんぱかった利己的な目的があってのことであった。

麻原教祖の「獄中ノート」 
 オウム真理教に破防法の適用の是非を問う公安審査委員会における論争の中で、麻原教祖の「獄中ノート」の存在が明らかになった。これは九五年十月七日前後に当時の横山昭二弁護士に渡したもので、マジックインキで書かれたものという。原文のままであるが、○は判読不明な部分である(註21)。
横山先生へ。
皆さんは、一連の事件についてオウム真理教が社会破壊をする団体のように思われているかもしれない。確かに逮捕された弟子達の話を聞いたり見たりするとそれも仕方の無いことです。しかし真実そうなのでしょうか。
取り調べ官が口をそろえて皆純真であると言っているのでもわかる通り事件から離れた弟子達一人一人は、真じめで純真なのです。
私は逮捕され、146日あまりになります。この間バトウ(罵倒)を始めカイジュウー(懐柔)ある種の理論構成による責めを毎日8時間から10時間位続けて責められています。その中心は教義のあげ足とり、そして弟子のわたしに対する悪口等、そして事件の内容の繰り返しの記憶等です。これが一人に対して5人から7人の刑事検察がかかってやるのですから。
逮捕拘留されている者達がその洗脳に負けることは時間の問題と言わざるおえません!そして事件はもっとも悪い形で幕をとじル。
わたしの場合も今回の期間中に(動)揺が一度生じました。そして事件の真相は暗から暗へとほうむられた結果になるでしょう。たとえば、現在進行を始めた破防法及び宗教法人解散命令は、司法権を侵害する形で使われているう(の)です。何故かそれはこの2つが事件と関係のない信徒・サマナに対する大きなダメージを知っているわたしわ そのために虚偽の自白をしなければならないからです。
今回の(一)連の事件は、教団からみてあるなしは別にして というのはそのことに付いては裁判所が判断すべきことなのですが 多くの人が死に、また傷害を負ったことは事実です。従って地下鉄サリン以降わたしは第六サティアンで瞑想に励み、5月からは修行をやって、わたしの血と肉を供養してきまして。そして役30㎏の血と肉を供養することができたのです。
これは48時間のうち48時間○○を5時間○○食事をとり43時間は断食し、そのうち24じかんは断水するというもの
137あった血圧も今では106から98迄下がっています。今回の事件の幕引きに付いてはわたし個人は自己の一心をこのようにいじめながら投げうっていじめながら人生の終わりを向かえたいと考えているのです。
もともと自己の死をこのように押し進めているわたしがなんで社会を混乱させようとかんがえるでしょうか。
この記録に付いては留置管理記録に載っていると思います。したがって、外にいる弟子達の修行の場を取り上げるようなことはどうか止めてください。もちろんわたしは 代表者を降りましょう。
もちろんわたしは代表者を降りることはやぶさかではありません。
それよりわたしの一身にかえて、弟子の修行の場お取り上げないでください。
決して国家に対する破壊活動は起きることは無いでしょうし、もちろんわたしの口から(指)示○○○○をすることは無い…。
決して破壊活動が起こること無いことを確信して。
                                   麻原彰晃 
 原文は横書きで、傍線はアンダーラインの部分であり、括弧( )は筆者が加筆したものである。
この文章が示すように、麻原教祖は拷問ともいえる厳しい取り調べで自白の瀬戸際に立たされたことが知られる。これから弟子たちが「洗脳に負けるのは時間の問題」と考えたのは当然であったし、事実そのようにもなった。ただし井上嘉浩のように秘密警察と内通していて、オウム信徒を騙りながらさまざまな事件に関与したことは、このころの麻原教祖は知る由もなかったであろう。

むすび
八九年末に起きた坂本弁護士一家殺害事件について、岡崎一明の「龍彦埋葬の現場写真」を神奈川県警と横浜弁護士会が受け取っていながら五年も放置し、松本サリン事件についても八ヵ月も放置していながら、地下鉄サリン事件を契機として一挙に教団壊滅に国家権力は活動を始めた。地下鉄サリン事件が発生したときは「一体誰がやったんだ」という声が一斉に吹き出したのである。これをいっぺんに吹き払ったのは教団弾圧に用意周到な準備ができていたと想像される。
 警察当局は「あらゆる法律を使って取り締まる」と明言していたように、主な幹部をすべて逮捕するばかりでなく、刑法による裁判が始まったばかりというのに、破産法という犯罪に関係のない商法で財産の没収や第七サティアンの撤去という証拠隠滅まで行なった。
ただ破防法によって教団の完全破壊を図る策動は破綻した。宗教法人の認定はろくな事実審査も行われず取り消された。しかしオウム真理教は宗教活動の継続を破防法の破綻で逆に認められたことになった。宗教法人としての恩典は失われるが、むしろ手厚い保護で堕落した多くの宗教団体ではなく弾圧に抗して存在を示す真の宗教活動が生き延びる条件となるであろう。
それにしても最高裁判所が裁判が始まったばかりで何らの証拠審査も始まらないうちに、「サリンを製造した」との判決を出したのは問題であった。サリンやVXガスを教団が製造していないし、また出来ないことと、米軍によって教団が毒ガス攻撃を受けていたことを隠蔽する策動の最たるものであった。 

  文献
  註1 『東京新聞』 一九九五年十月二十四日
  註2 『東京新聞』 一九九五年十月二十日
  註3 降旗健一『オウム法廷2』一九九八年五月十五日 朝日新聞社 245頁
  註4 『東京新聞』 一九九八年四月十日 8面
  註5 『オウム事件取材全行動』一九九五年十月五日 毎日新聞社 
  註6 『東京新聞』 一九九五年十月三十一日
  註7 『東京新聞』 一九九五年十月七日
  註8 『日本経済新聞』 一九九五年十二月十六日
  註9 『東京新聞』 一九九六年二月一日
  註10 オウム破防法弁護団『オウム「破防法」事件の記録』一九九八年一月 社会思想社 
  註11 浅野健一『オウム「破防法」とマスメディア』第三書房 20頁
  註12 浅野前掲 31頁
  註13 浅野前掲 35頁
  註14 毎日新聞社会部『裁かれる「オウムの野望」一九九六年 毎日新聞社 193頁
  註15 毎日新聞社会部前掲 195頁
  註16 浅野前掲 42頁
  註17 毎日新聞社会部前掲 215頁
  註18 毎日新聞社会部前掲 221頁
  註19 浅野前掲 77頁
  註20 浅野前掲 51頁
  註21 毎日新聞社会部前掲 222頁

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