何者が毒ガスを提供したのか
題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335
第八章 オウム教団の壊滅策動
地下鉄にサリンが撒かれた事件を契機にして、オウム教団壊滅の策動が一気に顕在化した。麻原教祖を初めとする教団幹部の大量逮捕、教団施設への立ち入り検査などで、教団の運営に障害をもたらした。さらに国松長官射殺未遂事件や、村井秀夫殺害事件やこれを契機にして繰り広げられた気違いじみたマスコミ報道が横行した。
地下鉄サリン事件が起きたとき、「一体誰がサリンを撒いたのだ」という一般市民の声がわき起こった。強制捜査とともに始まったオウム教団の強制捜査に合わせて、警察がマスコミを通じて大量にばら撒いた宣伝はオウム教団がサリンを作ったとの印象を国民に与える目的があった。その典型は、九五年四月二十六日の土谷正美被告の逮捕に現れている。
土谷被告は筑波大学応用化学科出身で教団内では唯一の化学工学の専門家として、サリン製造の犯人に仕立てられる恐れが初めからあったのである。案の定、土谷被告が逮捕されて間もなく、「土谷がサリンを五回にわたって製造した」という報道が警察を通じてマスコミに流された。これを読んだ国民はオウム教団がサリン製造に関わったと思わざるを得えないのである。実際はその後の裁判で明らかになったが、土谷被告はサリン製造を全面的に否認しているのである。
オウム教団壊滅策動には、地下鉄サリン事件に追い打ちをかけるように犯人不明の異臭事件の頻発や、営団地下鉄の青酸ガス発生騒動や、都庁小包爆弾事件が発生した。あとの二件はその後の裁判で教団に潜入していたスパイ井上嘉浩の画策によることが明らかになったが、これも当時は隠蔽されていたのである。
強制捜査の目的は、オウム教団の幹部だけではなく全組織の信者リストの作成にあった。これによ全組織の壊滅を企んだのである。
これによりオウム教団が運営していた資金源としてのパソコン・ショップやラーメン屋が信者逮捕で潰され、教団は破産に追い込まれた。破産は刑法の対称ではなく商法が扱う問題であるにもかかわらず、麻原裁判が進行中で、判決が出ていないのに、破産法で施設が競売にかけられ処分されたり、サリン製造の重要な証拠物件である第七サティアンの取り潰しのように証拠隠滅に一役買った。
営団地下鉄の青酸ガス発生騒動
九六年四月二十六日の井上嘉浩の裁判において、一連の犯罪に井上がかかわっていたことが検察側冒頭陳述に示された。
地下鉄にサリンが撒かれたのはオウム教団の仕業と騒がれたのに飽きたらず、さらに国民の不安をかき立てるために企まれた犯罪として、営団地下鉄新宿東口の男子公衆便所に第一回目の青酸ガス発生装置が仕掛けられたのは九五年四月三十日のことである。
冒頭陳述には「仕掛けた青酸ガス発生装置には、塩化水素ガス発生用に塩を使うべきところ、砂糖を間違えて使用したため、青酸ガスの発生に至らず、失敗に終わった」とある(註1)。しかし、この冒頭陳述自体が間違っている。青酸ガス発生には、青酸ナトリウムに直接に塩酸または希硫酸を加えるべきで、塩を加えて塩化水素(塩酸)を発生させる化学反応は存在しないのである。
五月五日、再び新宿東口の地下鉄公衆便所に、時限式の青酸ガス発生装置が仕掛けられた。しかし「清掃員が発見、トイレ出口付近に移動させた。発火装置が作動して発火炎上し、通行人が発見した。通行人から通報を受けた駅員が水をかけて消火し、警察に通報した。営団では、その間一時地下鉄の運行を停止するなどした」とある(註2)。青酸ガスを発生させるには青酸ナトリウムに希硫酸を加えるだけでよいのであって、発火装置は全く必要のないものである。これも青酸ガス発生を装ってはいるが、人々に恐怖を与えるのが目的の策動であったといえる。
もし本当に青酸ガスが発生していたら、一万二千人以上の致死量が見込まれていたというから、地下鉄の密閉空間を考えると多数の人命の被害が予想された。マスコミはオウム教団の犯罪を臭わせて大々的にこの事件を報道し、権力犯罪に協力した。
青酸ガスを使用した無差別テロを行う動機として、井上嘉浩裁判の検察側冒頭陳述で、九五年四月十一日ごろ、村井は教団東京総本部において、井上らに対し、「捜査を攪乱し、尊師の逮捕を防ぐため、できることは何でもしろ」と重ねて指示したという(註3)。これは「強制捜査を逃れるために地下鉄にサリンを撒いた」という理由づけと同種の見え透いた無理な言いがかりである。しかも殺された村井氏の名を騙る卑劣な策動でもある。
都庁知事秘書室での小包爆弾爆発事件
九五年五月十六日、東京都庁知事秘書室で、送られてきた小包を開封しようとした都幹部が小包爆弾の爆発により重傷を負う事件が発生した。都知事は宗教法人法の認可取り消しを行う権限を持っており、オウム教団の認可取り消しを狙う目的を含む事件なのである。しかるに井上らに対する検察の冒頭陳述においては、相も変わらず「被告人らは、青酸ガスを使用した無差別テロの敢行にもかかわらず、死者が出なかったため、松本(教祖)の逮捕を免れさせるに足る捜査の攪乱を引き起こすに至らなかったと考えていた」(註4)などと小包爆弾事件の犯行動機について、誰にも明らかな幼稚な理由付けをしている。
一方、冒頭陳述では「被告人等は、小包爆弾を郵送すべき要人として、青島幸男東京都知事が、当時世界都市博覧会開催中止の政策を打ち出し、これが都議会で強硬な反対にあっており、同知事を狙えば都市博中止に反対する者の犯行に擬装することができる」(註5) など、スパイ井上らが知恵を働かせたとも述べている。小包爆弾事件が、麻原教祖の逮捕と時を同じくして行われており、権力はオウム教団の犯罪に結びつけようとしていたのに、後の裁判では逮捕を免れるための策動だったと言っているのである。
小包爆弾製造に関する冒頭陳述も疑問に満ちている。爆弾は「日本復興」という文庫本サイズの書籍の中をくり抜いた狭い空間に仕掛けられたものとされている。これから知られることは、仕掛けられた爆薬は少量ながら強力な爆発力を示す特殊なものなのである。冒頭陳述によると、「中川(智正被告)は、九五年五月九日ごろから、八王子のアジトにおいて、豊田(亨被告)に手伝わせて、(爆薬)RDXの製造を開始した。そして、中川及び豊田は、翌十日までの間に、RDXを三十ないし四十グラム製造した」とある(註6)。パレスチナ解放戦線の指導者が、携帯電話機に仕掛けられた爆弾で殺害された事件があったが、このような爆薬は特殊なものであり、たった一日で素人が作れるとは考えにくい。黒い謀略集団が用意した物としか考えようがない。
起爆装置についても、「本の表紙を開くと起爆するという仕掛けを考案し」「同日夜から翌十一日未明にかけ、中川は豊田に手伝わせて、起爆剤約十グラムを製造した」とある(註7)。これもまたオウム教団がサリンをはじめ何でもたちまちに作ってしまう魔法の集団であるかのような論法である。
この爆弾は五月十二日金曜日に東京都知事公館に配達された。開封されたのは十六日で、副参事が小包爆弾を開封し、書籍の表紙を開けたところ、轟音とともに爆発した。副知事は左手中指を切断されるとともに右手も骨折し、顔面その他にも損傷を受けた。爆発の衝撃により、副参事が使用していたスチール製の机は直径三十センチのへこみができ、深さ約三センチの窪みができた(註8)。 このように極めて爆発力の大きい爆薬が使われているのである。
この凶悪事件も当初は犯人が誰であるかも分からず、何となくオウム教団の犯行を匂わせる手口の黒い謀略集団の犯行であった。あとで井上嘉浩の裁判で、井上が富永昌弘に命じて投函させたことになっている。井上らが五月十四日、乗用車で移動中職務質問され、逮捕されたとき車両中から強力爆薬が押収されたという(註9)。しかし、このことは当時は報道されなかった。また富永は引き続き地下潜入を続けていたが、九五年十月八日警察に出頭し逮捕された。
教団幹部の相次ぐ逮捕
教団幹部は地下鉄サリン事件発生後の強制捜査開始からひと月以上過ぎたころから次々に逮捕された。 四月八日、林郁夫は石川県内で盗難自転車で逃走した「占有離脱物横領罪」の名目で逮捕された。四月十二日、新美智光が監禁容疑で逮捕された。いずれも悪名高い人権蹂躙の「別件逮捕」である。四月二十日には早川紀代秀が「住居侵入容疑」で富士宮市内の教団道場で、二十六日には遠藤誠一と土谷正実が、五月三日には青山吉伸が逮捕された。
警視庁公安第一課は、信者から入手したメモから早い段階で「オウム幹部たちの逃走を井上嘉浩がコントロールしている」ことを掴んでいた(註10)。 井上が逮捕されたのは、麻原教祖が逮捕される前日であり、一連の攪乱工作が終了するまで泳がされていたのである。井上はスパイ分子として假谷氏拉致事件をはじめ地下鉄青酸ガス発生未遂事件や、都庁小包爆弾事件にかかわりオウム教団破壊の口実を続けてきたのである。麻原教祖の所在が不明であるとの口実で、逮捕が約二カ月引き延ばされた間に、井上嘉浩の警察への協力もあって、オウム教団に対する悪いイメージを国民に植え付ける策動がなされた。井上の逮捕が教祖の逮捕と時間的に一致しているのは決して偶然ではなかった。
麻原教祖は五月十六日第六サティアンの自室で逮捕された。地下鉄サリン事件の容疑で逮捕状が執行された。「強制捜査を妨害するためにサリンを撒いた」との検察側の冒頭陳述は「地下鉄サリン事件を口実とした逮捕」の結果を生んだのである。このように検察側の冒頭陳述は出鱈目なものであり、オウム教団にとっては、地下鉄にサリンを撒いたとしたら、動機なき犯行となるのである。
マスコミを使ってのオウム教団攻撃
地下鉄にサリンが撒かれる以前は、オウム教団がマスコミに取りあげられることはほとんどなかった。そのため、地下鉄サリン事件を報じた最初の新聞はいずれも「誰がこの事件を引き起こしたのだ」という怒りの声に満ちていた。しかし事件後、マスコミ報道は一変した。毎日のように第一面の記事はオウム関係で埋められた。
三月二十二日に上九一色村教団施設に対する強制捜査が開始されたが、サリンが作られている証拠は何一つ発見できなかった(註11)。しかし、早くも三月二十三日、警視庁はサリン製造に必要な薬品を調達した三社を確認したとして「三十数種類の薬品を押収した」と発表した。四月二十日には警視庁がドラム缶入りの三塩化リン約百二十本を「サリンの原料」として押収したと報じた。警察はこれを原料として何トンのサリンを作ることを想定したというのだろうか。教団の言うように農薬の原料として購入したものであろう。千人を超す出家信者を抱えた教団は、自給自足のために農場を持ち、肥料や農薬の自家生産を図ったのであろう。
五月二十四日には「ヘリコプターによる東京都へのサリン二百四十キロの空中散布」が報じられた。これは多量生産したサリンの使い道を念頭にしたデマであろうか。六月一日には「オウム教団の武装化計画」と「第二サティアンでバズーカ砲や手榴弾の発見」が報じられた。四月二十五日には、南青山の教団総本部からスパイ信者が極秘のメモやフロッピーディスクを警察に提供しその中に「核兵器研究メモ」があったと報じている。五月二十一日には「細菌兵器も完成直前」の報道がなされた。四月二十日には、「横浜で刺激臭、三百人被害」という見出しで、サリン以外の有毒ガスが駅や電車内で発生し、入院した人も十八人いたと報じられた。四月二十二日には、「オウム拠点で刺激臭」という見出しで、教団関連会社の借りているマンションで四月五日異臭発生事件があったとして、「横浜毒ガス事件と類似」と報じている。さらに「横浜でまた異臭」として駅西口近くのビルで異臭が発生し二十七人が異常を訴えたとも報じられた。
いずれもオウム教団を貶める黒い犯罪者集団の策動であろう。五月十九日の新聞は、それまで五年間も放置されてきた坂本弁護士一家失踪事件が、「十八日までの捜査当局の調べでオウム真理教幹部らが直接かかわっていた疑いが濃厚になった」との突然の発表を報じた。ただし、『東京新聞』では麻原代表との一問一答を載せ、事件と無関係としている(註12)。元幹部(実はスパイ岡本一明)の供述や捜査当局の調べによると「坂本一家三人に薬物を使用、ぐったりしたところを拉致した」という記事となっている。これは、後の検察の冒頭陳述とは異なる報道が最初はなされていたのであり、このことは注目されるべきものであった。
五月十日にはオウム真理教信者自衛官名簿が明らかになったとして、「五十七人中二十六人が空挺団員」と報じられた。五月二十一日にはオウム教団による「空挺団乗っ取り画策」との荒唐無稽な報道もなされた。これに続くかのように、五月二十五日には井上嘉浩の指示でオウム信者で空挺団に属する現職自衛官が「三菱重工から軍事データ盗む」として、「戦車の設計図など軍事技術とみられるデータなどを盗みだしていた」と大々的に報道された。新聞には麻原教祖が戦車の資料を見て、「これは大変な資料だ」と喜んだというが、この三菱重工業広島研究所の小林紀夫副所長は翌日の二十六日の紙面で「軍事情報はもとからない、ましてや戦車の設計図なんて絶対にないと強く否定した」と報じられた。井上嘉浩と連絡があったとされることから、三月十九日の自衛隊信者による青山の教団東京総本部に対する火炎瓶事件と同じく、教団に送り込まれた自衛官と名乗るスパイであろう。
六月二十一日には、羽田発の全日空機がハイジャックされ、函館空港に緊急着陸する事件が起きた。犯人はオウム信者を装い、逮捕された信者の釈放を要求しているなどと報道された。しかし、二十三日の新聞報道では逮捕された九津見文郎容疑者は黙秘を続け、具体的な要求はなかったとして動機やその目的も不明という。九津見はハイジャック防止法違反の刑事責任を問われたほか、全日空からの損害補償裁判で賠償金の支払いを命ぜられたが、その後の消息は全く不明で事件の真相は闇から闇に葬りさられた。
松本サリン事件については、まず『朝日新聞』が四月二十日、『読売新聞』が五月十一日に相次いで河野義行氏に対する謝罪の合意書を交わしたことから始まる。これと平行して六月一日には、「松本サリン噴射装置設計」にかかわった信者がいたとの記事が現れたが、さらにオウム教団が支部建設のため「松本市に圧力をかけた」とか、「裁判官宿舎などにビラが貼られた」とかの警察情報が新聞に現れだした。そして七月十七日にはサリンを「裁判官官舎狙い噴霧」したとして、松本サリン事件の犯人として麻原教祖をはじめ十二人を警察が再逮捕したと発表された。
強制捜査が始まって三ヵ月あまりの間に、五年半も放置されていた坂本一家失踪事件や一年以上も不明だった松本サリン事件も一挙に解決するとは、如何にも不自然な経過といわなければならない。黒い犯罪者集団の企まれた意図を感じざるを得ない。
むすび
オウム真理教の壊滅計画は、坂本一家殺人事件では岡崎一明を、地下鉄サリン事件その他では井上嘉浩をスパイとして教団に潜入させ、破壊活動を手伝わせた。これを助けるために警官や自衛隊員も教団に送り込み破壊活動に従事させた。黒い犯罪者集団は、意識的にこのスパイ分子と真面目な信者との区別を隠蔽し、麻原教祖をはじめとする教団幹部を逮捕し、教団の破壊を企んだ。
一方、教団を根絶するためには、幹部逮捕だけでは不十分で、真面目な多くの信徒に圧力を加える必要があった。そのためこの三カ月の期間にまた公安警察は信教と個人のプライバシーを侵害する諜報活動を行なってきた。
オウム教団の極秘資料は早くも三月二十三日滋賀県警の手で押収された。井上嘉浩の指示で逃亡していた小林克彦の車の中にあった。小林は「教団の極秘資料を持って逃げろと指示された」という(註13)。これにより全国に広がったオウム教団の組織が判明し捜査の手は至る所に広がった。既に二十三日公安警察のトップ警察庁警備局長から「オウム信者、車両、秘密アジトの把握に努め、発見した場合には速報せよ」との極秘通達が発せられていた(註14)。この結果逮捕された信者は四月十三日の時点で既に百四十七人に達していた。このほか出家と在家の信者を合わせて四千四百五十八人のオウム信者をコンピューターに納めたという(註15)。
このような情報をもとに一般信者に対しても監視と弾圧が強められた。教団の資金源になるとして、パソコンショップは解散に追い込まれたり、ソフトウェア会社が情報漏洩の疑いで圧力を加えられた。信者の転居においても、オウム信者であるという情報が周辺住民に流され、これに応じた反対運動が組織された。信者の転入を認めない地方自治体が各地に現れた。これは憲法で保証された居住権を侵害するものであった。また秋田市の開業医はオウム信者であるという情報が何者かによって市民に流布されたために、看護婦が退職してしまい営業に支障が出る状態が起きた。マスコミもこの医院がサリン治療薬を多量に買い込んでいたと報道もしていた。国民に知らされていないこうした宗教弾圧は広く繰り広げられていたであろう。
黒い犯罪者集団は信者一掃は不可能とみて、宗教法人の認定取り消しや、さらに破防法の適用へと進んでゆく。
文献
註1 降幡健一『オウム法廷2』一九九八年五月十五日 朝日文庫 57頁
註2 降幡前掲 57頁
註3 降旗前掲 50頁
註4 降旗前掲 63頁
註5 降旗前掲 64頁
註6 降旗前掲 65頁
註7 降旗前掲 66頁
註8 降旗前掲 69頁
註9 降旗前掲 70頁
註10 麻生幾『極秘捜査』二〇〇〇年八月十日 文春文庫 389頁
註11 麻生前掲 312頁
註12 『東京新聞』 一九九五年五月十九日 1面、二七面
註13 麻生前掲 324頁
註14 麻生前掲 329頁
註15 麻生前掲 406頁
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