何者が毒ガスを提供したのか
題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335
第六章 国松長官狙撃事件
地下鉄にサリンが撒かれてから僅か十日しかたっていない三月三十日に、警察庁長官国松孝次が狙撃された。オウム真理教取り調べの最高責任者が襲われたことは、オウム教団の仕業と思い込ませる絶妙の芝居であった。
国際的黒幕の犯罪とされる、昭和二十四年の国鉄総裁下山定則氏の殺害と比べて、企てられた意図が労働組合や共産党の仕業と思い込ませるための工作であったことと類似している。国松長官狙撃事件でも、前日にオウム信者を偽装したと思われる「サリン被害に抗議する」ビラが撒かれていたが、これも同様の類のものである(註1)。 翌日に起きるであろう犯行を事前に知っていた黒い謀略集団の策動であろう。実行犯もオウム信者の警察官とされたが、宣伝効果が達成された後は、曖昧にされたままである。この事件で注目されることは、警察の最高責任者が狙撃されたことである。これは黒い謀略集団が警察さえも手玉に取っていることを示している点である。
国松長官狙撃の経過
九五年三月三十日午前八時半ごろ、国松長官は出勤のため自宅マンション「アクロシティ」で公用車に乗り込もうとしたところ、西側出入口で何者かにより銃撃された。
その日の夕刊各紙は、第一面でこれを報じた。『朝日新聞』は「警察庁長官、撃たれ重傷」との見出しで、「国松長官は二十メートル前後の距離から四発撃たれ、腹部に三発と足に一発当たったという」「摘出された銃弾は長さ約一センチ、直径七ミリで、捜査本部は回転式三十八口径の短銃ではないかとみて銃器の種類などを調べている」とある。また「男は、四十歳前後で、白いマスクをして黒っぽい登山帽をかぶっていた。黒い自転車で、南の方向に逃げたという」とも記している。第一報はあくまでただ一人の犯行とされていたのである。
一橋文哉の著書の中で、命中したのは三発で「残りの一発は、九月六日になって、自宅マンション北側の歩道の植え込みの中から発見された」とある。さらに、「国松の自宅マンション周辺で犯行前夜、『麻原尊師、真相を語る』などと書かれた教団への強制捜査を批判するビラが信者の手によって撒かれていたことが判明」とある(註2)。
これは事前に狙撃事件を知っていた者の予告行動とみられる。地下鉄サリン事件の場合は、黒い謀略集団の小手先となってスパイ井上嘉浩一味が、オウム真理教青山総本部に前夜火炎瓶を投げたのと対応する。同じく井上の仕業であったかも知れないが、国松長官狙撃事件では、国松氏を殺すことに失敗したので、隠蔽されてしまった。
「植え込みの中に、国内では市販されていない北朝鮮人民軍のバッジのレプリカ、韓国の十ヴォン硬貨、外国製たばこ五本が発見された」とある。これが事実とすれば、坂本一家殺害事件のとき現場にオウム真理教のバッジであるプルシャが落とされていたとする報道とともに謀略的事実といえる。
「国松に当たった弾丸は三発で、一発は右足を貫通して左足で摘出され、一発は背中から腹部を貫通し、背広との間で止まっているのが見つかった。もう一発は臀部から入り、破片を残して腹部を貫通していたという」(註3)。 三発目の臀部から撃ち込まれたということは、倒れかかった数秒の間に続けて弾が発射されたことを意味し、短時間に連射が行われたのである。あとで犯人は二人であったことが明らかにされたのであるが、これは大分たってからのことであり、初めから事実を隠蔽した謀略的な事件ではあった。
国松長官は日本医大病院に運ばれた。運びこまれた時には、心肺停止状態だった。血圧も極端に低下し、まさに生死の境を彷徨っていたのである。六時間以上に及ぶ手術の結果、奇跡的に一命を取り留めた。その後左腎臓にも銃弾が貫通していることが分かり、破片の摘出をも行なった。
オウム信者と称する警察官小杉敏行の自供
国松長官狙撃事件は暗黙にオウム教団の犯行とされたまま事件捜査は進まず、教団信者の捜査と信者の逮捕のみが進んだ。
しかるに、事件から一年半も経とうとしていた九六年十月二十五日、マスコミ数社に送られた告発文書をきっかけに、衝撃的な報道が駆けめぐった。現職の警官小杉敏行警視庁巡査長が長官を銃撃したというのである。しかも、五カ月も前に『私が撃ちました』(註4)と自供していたというのである。「銃を捨てた」という供述に基づき警察は何度も神田川のどぶ浚いを行なったが、銃は発見されなかった。
小杉は十一月二十八日、懲戒免職されたが、この警察の不祥事の責任を取るかたちで、櫻井勝警視庁公安部長が更迭され、その後間もなく井上幸彦警視総監も辞任させられた。後任には暴力団対策部長だった林則清がおさまった。林は「公安に関しては門外漢であった」し、「櫻井勝反対を公言して憚らない男だった。林は刑事部の子飼いの捜査員を使って事件を再捜査し、それまで中心になって捜査してきた公安幹部を追放したり、大々的なかわ浚いを行なって、公安警察に地団駄を踏ませている」とある(註5)。
この人事更迭は、警察庁トップの勢力争いなどと報道されているが、実際は黒い犯罪者集団が、公安警察の人事に介入し、真相究明を妨げようとした、圧力の所産であろう。
小杉巡査長の懲戒免職の理由として二つあげている。その一つは「井上嘉浩の依頼によって、九四年九月ごろから警察内部の資料や車両所有者の照会結果などの情報を提供、頻繁に電話で連絡をとっていた」こと。その二は「教団に一斉捜査が始まった九五年三月以降も在家信者として教団にとどまり、地下鉄サリン事件の捜査本部が置かれた築地署に派遣された後も、服務規程に違反し信用を失墜する行為をした」とある(註6)。
この警察の発表は非常に興味がある。第一の理由は井上嘉浩が大分前から警察のスパイであったことを、警察がみずから認めたことである。第二の理由はさらに重要である。小杉はもともと本富士警察署の警邏課勤務であった。しかるに、その後公安警察に転じ、地下鉄サリン事件に際しては、重点地域である築地署に派遣されていたのである。公安警察には地下鉄サリン事件は事前に分かっていたことを示す証拠でもある。
嘘で固められた小杉の供述
小杉の供述の詳細はさらに三カ月を経て公表された。『東京新聞』によると、
「銃撃事件に直接かかわる供述は、事件の五日前の三月二十五日夜の、長官自宅マンションの下見からで、井上被告から『敵の居場所が分かった。手伝って』と頼まれ、中年の男の写真を見せられたが『誰だか分からなかった』としている。二回目の下見は、二十七日早朝。作業員風の男性に顔写真を提示して『この人が住んでいるか』と聞いたら、『警察庁長官じゃないですか。あなたの方が知ってるんじゃないの』と言われた。井上被告に『オウムを陥れようとしている敵だ』と言われ、『敵は長官である』と認識したなどとしている。
三十日の供述は詳細で、午前七時四十五分ごろに、文京区の警察官寮の近くの公衆電話から井上被告に電話。『長官を撃て』と指示され、『警察官を撃てるわけない』と断ったが、何度も頼まれるうちに『手伝わないと』という気持ちになった、としている。現場には、教団車両省所属の平田信容疑者のほか早川と教団科学技術省幹部の林泰男の両被告もいたこと、早川被告から『オウムが弾圧されている。尊師が期待している』と励まされ、頭がボーッとし、『オウムを守らなければ』と思ったことなどが供述され、井上被告から渡された白っぽい錠剤を飲み、用意された赤茶色の自転車に乗って狙撃現場に向かったという。銃撃は井上被告の無線連絡で行い、背広姿の男を、両手撃ちに構えながら狙いを定め、左腹部を狙って撃ったこと、二発目、三発目はダブルアクションで撃った後、『逃げろ』という井上被告の声がし、正確に狙いをつけずに四発目を撃つと外れたこと、逃げるときには『オウムを守った』とすがすがしい気持ちになったことが供述されている」とある。
この報道の情報源について「供述の全容が五日までの『東京新聞』の調べで分かった」と記載されているだけで、法廷で明らかにされたのか警察発表なのかは不明にされている。
ただ、この供述に対して「警視庁は➀聴取から九カ月、供述が一貫して変わっていない➁犯人しか知り得ない『秘密の暴露』が少なくない、などから一部疑問点はありながらも小杉元巡査長が実行犯、との見方を強め、詰めの捜査を進めている」とも報道されている(註7)。次に述べるように、このあとすぐに小杉の供述が嘘であることがばれるのであるが、警察の対応の酷さ加減が露わになったといえる。
国松長官自身が小杉供述を否定
小杉の自供は、単に新聞記事に文章で発表されたものに止まらなかった。この新聞報道のあと間もなく、九七年二月十八日午後十時五十四分からの日本テレビに放映された録画ビデオに登場し「このようにして長官を撃った」と実演して見せたのである。このビデオ放映には、脳機能学者と称する苫米地英人が愛人と称するオウム三姉妹の一人を同席させて「小杉にカウンセリングを行なった」などと解説に及んでいた。
このテレビ放映に対して、当の国松長官は直ちに「捜査の妨げになる」と全面否定の見解を明らかにした。それとともに、国松氏は警察庁長官を退任させられた。
小杉は長期にわたって拘束され続けた。『週刊現代』は村木一郎弁護士の意見として「事実上、警察の拘束下にあるにもかかわらず、被疑者であれば保障される外部との接見が認められない。身内から人身保護請求が出されてもおかしくない状況です。これだけ長期にわたって不自然な拘禁状態が続いているのだから、日弁連なり東京弁護士会が動くべきなのに動かないのは理解に苦しみます」と述べていたという(註8)。
小杉はこれだけの騒ぎを起こしているのに起訴猶予になり、静岡の田舎に戻り母親と二人で暮らしているという。警察は定期的に訪ねてきて、「起訴猶予だが、口外すると起訴される」と脅かされ近所つき合いのない生活を余儀なくされている。
狙撃犯は二人だった
半ば迷宮入りにさせられてしまった国松長官狙撃事件について、週刊誌に新たな報道が現れたのは、丸五年も経ってからのことであった。犯人は二人であり、凶器は小杉の自供とは異なり拳銃ではなく「傘のように長い、黒光りする物」即ち狙撃銃であったという(註9)。
「誰が国松を狙撃したのか。ここで衝撃的な事実をお伝えしよう。実は、長官狙撃事件では三十八口径以外の弾丸が発見されていたのである」(註10)。 二人の犯人は短時間に代わる代わる銃を発射したのである。警察は弾丸が二種類発見されていて、このことを知っていたのに永らく隠蔽していたのである。
さらに狙撃事件当日の小杉の行動も暴露された。それは真実を伝える映像があったというのである。「その映像は、九五年三月三十日に遡った。時刻は午前八時半すぎ。文京区本郷にある本富士警察署。二階。警備課の大部屋。白いビニール袋を下げた男が顔を出した。『当直ごくろうさん』小杉はそう言って缶ジュースを取り出し、無精髭を伸ばした同僚たちに配り始めた。その直後のこと。作業台の上。共通系の無線機。ピーピーという警報。『至急!至急!警察官が撃たれた模様!』さらに続けて、警視庁通信指令センターから、広域緊急日々指令を告げる緊迫した声が流れた。本富士警察署から、現場のアクロシティまで四キロ。小杉の『アリバイ』はここに完結していた。それを証明する目撃者である警官は何人も存在していた。警視庁首脳部は、ただ『小杉供述』という魔物に怯えた。そして『アリバイ』捜査だけでなく、小杉が供述したすべての裏付け捜査から逃避したのだ。しかも、その目撃者たちも永遠に口を閉ざした」とある(註11)。嘘の小杉のアリバイを証明するような映像を誰が何の目的で撮ったのか甚だ奇怪なことではある。「警視庁首脳部は、ただ『小杉供述』という魔物に怯えた」とあるが、本当は小杉に出鱈目なことを言わせた黒い犯罪者集団に警視庁首脳部は怯えたのであろう。
マインドコントロールとは何か
小杉の供述内容が九カ月も一貫して変わっていないと警視庁は述べているうえ、放映された映像でも「国松長官を狙撃した」を実演して見せているのである。ありもしないことをさも実体験としてのように思い込ませる思考操作を洗脳またはマインドコントロールという。
ハービー・ワインスタイン著/苫米地英人訳『CIA洗脳実験室』には、著者で精神科医のワインスタインが、実業家であった実父がCIAによる洗脳実験の被害者にされ、廃人になってしまった経過を告発している著作である。訳者苫米地は、前にも出てきた脳機能学者なるものである。
CIAは冷戦が始まった一九五一年、『アーティチョーク』プロジェクトを発足させた。これは
●
ある人間から、当人の意志に反して、また知らぬ間に情報が得られる方法の評価
と開発。
● そのような方法が我々に対して使われる場合の対策。
●
ある人間をコントロールし当人の意志に反し、また防衛本能のような自然の法則
に逆らい、我々の命令に従うようにさせることは可能か。
● そのような方法が我々に対して使われた場合、どうすれば対抗できるか。
というものであった。
その後、『アーティチョーク』プロジェクトは『MKウルトラ』へと発展する。これは行動に影響を及ぼす物質の研究で二十年以上にわたって各種各様の薬物が試された。CIAは、モントリオールにあるアラン記念研究所にいた脳神経生理学者であるキャメロンに資金を提供し、薬物実験を行なった。この結果多くの精神後遺症患者を生み出した。ワインスタインの父はその一人であった。
小杉は「井上から渡された白っぽい錠剤を飲み、狙撃現場に向かった」と自供の中で述べている。薬物で洗脳されたことを自白しているようなものである。LSDのような幻覚を与える薬品の発見や、特に最近は脳科学の進歩が著しく、脳機能に影響する物質も多く開発されている。洗脳の技術は非常に進んでいるのである。しかし、その実体は秘密のベェールに包まれているのが現状である。
この本の最後に、翻訳者苫米地と評論家宮崎哲弥の対談「洗脳実験の病理が潜む日本社会」が付録として付いている。この中で宮崎氏が国家権力が洗脳技術を行使する危険性を指摘して、「公開性、透明性」の必要を述べたのに対して、苫米地は
「結果だけでなく、過程も透明にしないといけない。当時のCIAが批判されるのは、隠そうとしていたことですから。こういった実験のプロセスは、国民全員が知ったなかで、よいか悪いかを判断すべきですね。たとえば、国松長官を撃ったと告白した元警官K氏(小杉)について、私が催眠的手法で『撃った』という自白の詳細を引き出しましたが、最初引き受けたときは、真実を知る側である警察権力が、洗脳に対応するような介入的手法を身につけるべきだと思っていた。だけどその後、実際にそのような手伝いをした結果、考えを改めて、それが本当にいいことかどうかは、やはり社会に判断して貰うのが正しいと考えました。というのも、警察内で真実を隠蔽するような事件は、いつだって起きかねませんから」と述べている(註12)。
苫米地は自ら催眠的手法で洗脳に関与したこと、また最初は警察が洗脳の手法を身につけるべきだとの考えから手伝ったとも告白している。この著書が出版されて間もなく、小杉のアリバイが報じられ、洗脳された供述の出鱈目がはっきりしたのである。
警察による小杉洗脳の目的は、供述にあるように井上嘉浩から「長官を撃て」と指示されたとか、現場に平田信、早川紀代秀ならびに林泰男がいたとか、国松長官狙撃事件をオウム真理教の犯行と見せかける世論誘導の目的があったことは明らかである
しかし、この洗脳自白は、地下鉄にサリンを撒いたという五人の実行犯の供述の信憑性も問われることになった。サリンは大宮の自衛隊化学学校で作られていた可能性があるが、そのほかはオウム真理教は勿論、日本国中何処でも作ってはいないのである。米軍から提供されたものが撒かれた事実をすり替えて、オウムと関係付ける元信者の如何なる供述も、小杉の供述と同じく警察の洗脳による所産である。
蓋をされた国松長官狙撃事件
国松長官は、小杉の供述を「捜査の障害になる」と切り捨てた後に間もなく退官し、警視庁の外郭団体である「交通安全協会」の理事長に納まった。警察庁長官として、やがて、自分の命と引き替えに得られた真相を全く明かすことがなく沈黙を守った後に、スイス大使として国外に去った。外務省は「外交官試験」を通ったキャリアの世界であるから、異例の人事というべきであろう。またこの人事は、国松氏を警察行政から切り離すと同時に、真相究明を求める良心的なジャーナリストとの接触を断つことを意図したものともいえよう。
一方犯人については、二人の男がかかわっていた事実に反して、元オウム信者平田信一人の名前が取り沙汰されている(註13)。ただし、この平田は駐在所などに張り出されている「手配写真のビラ」には假谷氏拉致殺人事件の容疑者となっていて、国松長官狙撃事件は全く追及されていないのである。また現場に北朝鮮人民軍のバッジが落ちていたとの絡みからか、北朝鮮工作員との関連も取り沙汰されている。しかしいずれも、これらは国松長官狙撃事件に蓋をするカムフラージにすぎない。
むすび
警察行政の頂点に立つ国松長官が、二十五メートルからの四発の連射で三発が命中するという二人の名手によって狙撃されたことは、これを企んだ上位の謀略集団の存在を浮き彫りにする事件であった。二発とも腹部に命中し、少し外れれば致命傷になる恐れがあったのである。
これに匹敵する謀略事件は、朝鮮戦争開始の一年前に起きた下山国鉄総裁殺害事件がある。この背景にはレッドパージを意図する国鉄職員の大量馘首があった。総裁を殺すことによって、反対している労働組合のせいにしようとした謀略事件であった。
警視庁警官小杉の供述はオウム真理教に潜り込んだスパイ井上嘉浩との遣り取りがふんだんに盛り込まれている。しかし一般の国民はスパイと真面目な信者との区別がつかないように仕組んでいる。そのため教団に対する悪宣伝に充分に利用された。
しかし、その後の展開は、小杉の自供が完全な出鱈目であったことが知れ、その自供がマインドコントロール即ち洗脳の所産であることが知られた。その結果、オウム真理教関係の信者による自白なるものの信憑性が問われることになったのである。法廷における「サリンを撒いた」との自供から一転して無罪を主張したり、信者同士が矛盾したことを述べ合ったりするのはこれを示している。
それにしても、国松長官が命を取り留めたことは不幸中の幸いであった。黒い手の謀略集団は、よもや生き返るとは思ってもみなかったことであろう。国松氏が死亡していれば、麻原教祖の罪状は確実に一つ増えていたであろう。この幸運は国松氏個人に止まらない。事件の裏を知っている国松氏が生きているために、オウム弾圧に利用することができず、ひたすら隠蔽を図り、「国民の忘却」を期待しているのである。
国松長官が狙撃されたのは警察庁長官としてオウム教団弾圧の詳細を知っていたからで黒い謀略集団は事実を隠蔽する目的とオウム教団弾圧の二つを同時に狙ったものであったがいずれも失敗に終わった。氏が生き続けていつの日にか真相を明らかにしてくれることを期待したい。ただし、全容解明には、国際的な支配権力の手先黒い謀略集団を追放し、日本が独立を回復することが求められているのである。
文献
註1 麻生幾『消されかけたファイル』二〇〇〇年十二月一五日 新潮社 12頁
註2 一橋文哉『オウム帝国の正体』二〇〇〇年七月三十日 新潮社 78頁
註3 一橋前掲 81頁
註4 『フライデー』 一九九六年十一月十五日 74頁
註5 一橋前掲 92頁
註6 『週間現代』 一九九六年十二月十四日 184頁
註7 『東京新聞』 一九九七年二月六日 第一面
註8 「総力取材警視庁の大失態の全内幕」『週刊現代』一九九六年十二月二十一日
註9 麻生幾『週刊新潮』 二〇〇〇年五月四日 65頁
註10 一橋、前掲 86頁
註11 麻生幾 『週刊新潮』 二〇〇〇年六月一日 59頁
註12 ワインスタイン著/苫米地訳『CIA洗脳実験室』二〇〇〇年四月 デジタルハリウッド出版局 317頁
註13 麻生前掲 59頁
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