何者が毒ガスを提供したのか
題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335
第五章 地下鉄サリン事件
地下鉄サリン事件でオウム真理教弾圧が頂点に達した。何者かにより、三月二十日に地下鉄にサリンが撒かれた事件である。
その直前三月五日の深夜に、予告編として、京浜急行浦賀行きが横浜駅を出た直後、三両目の電車で刺激臭が発生し、十一人が横浜市内の病院に運ばれる事件が発生した。また三月十五日には、地下鉄霞ヶ関駅で三個のアタッシュケースから蒸気が噴き出す事件が起きた。いずれも犯人は捕まっていないが、黒い謀略集団による、地下鉄サリン事件を引き起こすための準備演習と見ることもできる(註1)。さらに二十八日、目黒公証役場事務長假谷清志氏拉致事件が起きている。これは明らかな教団弾圧の下準備であった。
地下鉄サリン事件が起きた後も、国松長官射殺未遂事件、村井秀夫氏刺殺事件に続き幹部信者の逮捕と教団への破防法適用の企みなどが続く。異臭事件、列車妨害事件と度重なる病原性大腸菌O―一五七による食中毒事件などの国民に不安を与える事件が頻発した。その雰囲気の一九九六年に開始されたオウム真理教裁判も、教団によるサリン製造の証拠も示されず、今なお不明な事実も多いなか、極刑判決が行われた。それらに対する控訴も行われているが、いまや完全に過去のものとして忘却の彼方に消し去られようとしている。以下には地下鉄サリン事件が起きる前からと起きた後のオウム真理教に対する国家権力を背景にした黒い勢力の策動の過程を教団幹部逮捕までを中心に辿ってみる。
公証役場事務長假谷清志氏拉致事件
假谷清志拉致事件とは『毎日新聞』三月十日夕刊の記事を引用すると「假谷さんは二月二十八日午後四時半頃、目黒通り沿いを歩行中、路地から飛び出した二十代の四、五人の男に襲われた。『助けて』と三回叫んだが、リーダー格の男が『早く乗せろ』と、抱えるようにしてワゴン車に連れ込んだ。車は猛スピードで一方通行の道路を逆走していった。男たちの多くは長髪で、髪を染めたような者もいた」と不思議なほど詳しい状況を報じている。さらに続いて「事件発生から三時間ほど経過した二十八日午後七時過ぎ、都内の新聞社にオウム真理教のメンバーと名乗る男が電話し『夕方、目黒公証役場の職員を誘拐した。こんなやり方は許せないので調べてほしい』と語った。約一時間後にも別の新聞社と出版社にも同じ趣旨の電話が入った」という。名前を尋ねると『自分の生命が危うくなる』と答えた」という。「助けたいなら一一〇番するはず、マスコミへの電話は別の意図を感じる」とも述べている。
この事件は、オウム信者がオウム真理教を取り調べろということになり、辻褄の合わぬ話ではある。新聞は最後の部分でオウム真理教側の六日の声明「事件はオウム真理教を陥れようとしている勢力が暗躍して引き起こされた謀略の可能性が高い」と関与を否定したと報じた。この時点では、教団側はスパイ井上嘉浩らが事件に関与していることを知らなかったのである。
假谷氏の妹が九三年十月六日にオウム真理教に入信したが、假谷氏の家族が九五年二月二十五日、船橋市の知人の家に監禁されたことがことの発端である。假谷氏の自宅を訪ね、妹の所在をしつこく聞いたのが、「オウム真理教目黒地域担当者」と名刺で名乗る松本剛であった(註2)。この松本剛らが、井上嘉浩の指示を受けて教団破壊に狂奔することになったのである。
「極秘捜査」には「事件から十日後の三月十日すぎ、貸し出し中の三菱デリカがやっと戻ってきた。急に派遣された捜査員は、すぐ内部の検分を行なった。遺留指紋鑑定報告に捜査一課は色めき立った。松本剛の指紋はもとより、假谷の指紋がクリアーに検出されたからだ。だが、捜査一課の興奮は、鑑識からの続報に一瞬にして消し飛んだ。車内から、假谷と同じ血液型の血痕が多量に検出されていた」とある。これが事実なら、假谷氏は既に死亡した可能性がある。あとで行われた假谷氏拉致事件は一体何だったのだろうか。
二十二日から開始された教団への「強制捜査の令状に書かれてあった被疑事実は、假谷清志拉致事件である。オウムのどこかの施設に閉じ込められていると思われる假谷を救出しなければならない。すべてのサティアン群に踏み込むためには絶好の大義名分だった」(註3)とある。 この事件を口実に機動隊など二千五百人を動員しての一大捜査を開始したのは、それまでサリンとオウム真理教を直接結びつける報道は避けられてきたからである。この日の捜査員の恰好は『朝日新聞』第十八面の写真にあるように、防毒面を被り、手にはカナリアの籠を持ったいでたちであった。この防毒マスクは四千二百セットも防衛庁から貸し出された。このことはオウム真理教をサリンと結びつけようとする意図的な行動と判断され、目的の假谷氏拉致事件とはかけ離れていると判断されても仕方のない事実ではあった。二月二十八日に起こされた假谷氏拉致事件は三月二十二日の一大捜索の口実として事前に用意されたことは明らかであり、これ以後のマスコミは新聞やテレビをはじめサリンをオウム真理教と結びつける報道一色となった。
地下鉄サリン事件が発生する前日前夜
『読売新聞』三月二十五日の三十五面に「地下鉄サリン前日に予告ビラ」の見出しで、「地下鉄サリン事件の前日に、事件を暗示するようなビラが都心で配布されていたことが二十四日わかった」として次のように述べている。「このビラは麻原代表の『日出る国、災い近し』を宣伝したもので、三月十九日午後銀座で二十代の男が配った。ビラの裏には、都内地下鉄の路線図が印刷されてあった」とある(註4)。
この記事は情報源が明記されていないが、驚くべきことである。後で述べる国松長官狙撃事件でも前日にオウム信者を偽装したと思われる「サリン被害に抗議する」ビラが撒かれていたが、これも同様の類のものである。翌日に起きるであろう犯行を事前に知っていた黒い謀略者集団の策動であろう。
さらに前日三月十九日午後七時二十五分ごろにオウム真理教を擁護してきた日本女子大学の島田裕巳教授のマンション一階踊り場附近に、時限式小型爆弾を仕掛け爆発させている。島田氏は後でサリン製造プラントとされた上九一色村にある教団の第七サティアンを訪ね、これは宗教施設であると断定しているのである(註5)。 島田氏の口封じを狙った事前工作とみられる。
さらに夜八時四十五分ごろ、南青山にあるオウム真理教東京総本部一階にあるパソコンショップに何者かによって火炎瓶が投げ込まれ被害を受けたのである。犯人は現場に「オウム、断じて許さない」(二十日『朝日新聞』朝刊)といったビラを撒いて逃走したという(註6)。後の裁判で、自衛隊のオウム信者と称する白井孝久三曹と浅野伸哉三曹の演じたオウム真理教の自作自演の犯行とされた。そしてオウム真理教が被害者であるという印象を与えるのが犯行の動機であるとされた。これはビラの内容と合わせ考えると、辻褄の合わぬ話である。そもそも大きな犯罪を計画している集団とあれば事件決行までは隠密行動を取るはずである。であるから、これらの事件は二十日の地下鉄サリン事件を知っている者の計画的な犯罪であることは明らかである。自衛隊は一定の日課に従って行動するはずであり、特殊行動には上部も把握していなければならないのである。奇怪な事実ではある。島田氏宅ならびに教団東京総本部への火炎瓶事件もまた、スパイ井上嘉浩が黒い謀略集団の手先となって行われていたのが、後の裁判で明らかになった(註7)。
火炎瓶被害や、同時刻に起きた大阪での警察によるオウム真理教大阪支部捜査に対するオウム真理教の全面否定の対応からみても、翌日地下鉄にサリンが撒かれるのは全く予期できないことであったと推測される。
以上の事実は新聞などで三月二十日までに明らかにされた事件にすぎないが、実は隠密に警察や自衛隊がすでに前日にサリン散布の計画に対応する準備行動に入っていたのである。これについては後で明らかにする。
新聞に見る地下鉄サリン事件の経過
前代未聞の大事件である東京の地下鉄にサリンが撒かれたのは平成七年、一九九五年三月二十日午前八時から九時にかけてであった。この第一報はその日の夕刊に大きく報道された。これを前年七月二十七日深夜に起きた松本サリン事件と比較すると大きな差異がある。
その第一は最初から警視庁は猛毒サリンと断定したことである。松本の場合は最初は「ナゾの有毒ガス」と発表され、七月四日になって「神経ガスサリン検出」と一週間もたってからのことであった。同時にサリンは化学兵器全面禁止条約の規制物質だと指摘したり、陸上自衛隊化学学校の研究員による「熱を加えたり、かなり複雑な過程でできるものだし、手に入りにくい物質も使うので簡単に調合ミスでできたとはいえないのではないか」との話も紹介されている。
その二は犯人とされた「第一通報者」の河野義行氏が疑いをかけられたが、根拠のない取り調べに終始し、地下鉄サリン事件発生まで七カ月もかかっている。それに引きかえ地下鉄サリン事件の場合、それまで新聞にもほとんど載らなかった存在のオウム真理教に対する「大動員異例の厳戒捜査」が事件から二日後の二十二日に始まったことである。
その三は地下鉄サリン事件を契機として「坂本弁護士一家拉致事件」、「松本サリン事件」などのほか、この十日後に起きた「国松長官狙撃事件」も集中的にオウム真理教の犯罪とされたことである。この点で地下鉄サリン事件の究明がオウム真理教事件の真実を解き明かす鍵となるものであると思われる。
この事件は三月二十日午前八時から九時にかけて地下鉄数路線に一斉に発生した謀略事件である。何者かによって用意周到に準備されたものであるが、その情報は公安警察幹部と自衛隊化学学校などの一部に、三月十七日ごろにかけて事前に知らされていたのである。地方警察の末端組織や、まして新聞などの報道機関は全く知らされていなかったとみるべきである。従って新聞の第一報第二報が事件の実体を知る上で重要である。時間がたつにつれ、マスコミの情報操作を目的とする言論統制が真実を隠蔽することになる。
有毒ガス散布の状況
サリンは無臭である。しかるに地下鉄に撒かれたものは異臭を伴っていたことが特徴である。後にも詳しく検討するが、用意周到に準備された混合物と推定される。
事件の第一報である三月二十日夕刊の記事から犯行状況を追跡する。『朝日新聞』十四、十五面で「神谷町駅では午前八時十分過ぎ、中目黒発東武動物公園行き電車の先頭車両で異臭が発生した。新聞紙に包まれた五十センチ四方ぐらいの包みが原因らしい」としている。新聞紙に包まれた物体の写真も掲載されている。
築地駅では八時十六分ごろ、北千住発目黒行き三両目車内に透明な液体が撒かれたようだ。新聞紙にくるまったものをだれかがけとばして人形町の駅で降りた」とある。八丁堀駅、人形町駅でも同様な所見が報じられている。
霞ヶ関駅では千代田線で八時十五分ごろ、一両目の車内にビニール容器のようなものがあり、同駅助役が下ろしたがその場で倒れ息を引き取った。さらに同じ電車の八両目の車内に新聞紙に包まれた薬品 しいビンも見つかったとある。
中野坂上駅では八時四十分ごろ、丸ノ内線の電車の三両目にあった異臭のする物質を駅員が駅事務室に運んできて、「液体はビニール袋二つに入っていて、一つは空だった」と話している。丸ノ内線ではこのほか九時八分、本郷三丁目駅で薬物が発煙とある。
『読売新聞』の第一報が報じている内容で『朝日新聞』と異なっている点は、日比谷線の前から三両目に乗っていた乗客の話として、八丁堀駅付近で「緊急ボタンが押されたあと『ボタンを押された方は築地の駅で申し出て下さい』との車内放送が終わるか終わらないうちに、一つ前の車両から「人が倒れているぞ」と叫び声があがったと報じている。事故発生車両が二両目と三両目とで異なる。また丸ノ内線本郷三丁目駅で発見されたものは新聞紙に包まれた骨壷大のものであったとしている。
さらに駅構内にガスを撒いた者もいた。『朝日新聞』二十日夕刊ドキュメント欄に「九時八分丸の内線本郷三丁目駅で薬物が発煙」とある。さらに霞ケ関駅では「一両目にビニール容器のようなものが見つかったほか、八両目の車内に新聞紙に包まれた薬品らしいビンも見つかった」と述べている。『読売新聞』二十日夕刊一面には「築地駅では、男が新聞紙にくるんだ二十センチ四方の包みをホームに投げ込むのが目撃され、その直後に駅構内に異臭が充満した」とある。続いて「小伝馬駅でも不審物が見つかった」とある。『読売新聞』二十日夕刊十五面には小伝馬町駅で、「乗客の一人が車内にあった直径約三十五センチの筒状のものをこれは危ないとホームにけとばすと白っぽい液体が地面に広がった」とある。これは日比谷線神谷町駅や築地駅で見つかったものとは別のものである。
三月二十一日朝刊の第二報を検証する。
『朝日新聞』の記事によると、十二の路線で被害を受けている。このうちサリン発生とあるのは②⑨⑩⑪および⑫の五路線としてある。この五路線についてはサリンを入れた容器や包み紙が置かれた車両番号など、図に示したように詳しい報道がなされている。すなわち②は日比谷線北千住発中目黒行き。八時六分築地駅に到着。前から三両目で新聞紙に包まれた弁当箱大の異物を発見。⑨は同線中目黒発東武動物公園行き。八時十三分霞ヶ関駅着。先頭車両から新聞紙に包まれた異物発見。⑩は丸の内線池袋発荻窪行き。八時二十六分、中野坂上駅で三両目に薬品のようなものが入った十センチ四方の容器を発見。⑪は池袋発新宿行き。八時四十二分本郷三丁目駅で二両目車両で新聞紙に包まれた異物を発見。⑫は千代田線我孫子発代々木上原行き。八時十一分第一車両でガソリン容器のようなものが倒れ、異臭発生とある。
残りの七路線については③④⑤⑥の電車で異臭が発生、それぞれ八丁堀、茅場町、小伝馬町で臨時に運行打ち切り。これらの駅からは多くの人が病院に運ばれているとしている。「臭いがした、電車のダイヤが密なため、どの電車に乗った人が被害に遭ったかははっきりしない」と述べているに止まっている。被害者の多くは瞳孔が狭まるというサリン特有の症状を訴えていることから、異臭物質に致死量以下のサリンが混入されていた疑いもないとはいえないのである。
『読売新聞』と『毎日新聞』の第二報は共に五路線だけに触れているだけで、ほとんど変わらない。しかし『毎日新聞』は第一面で「六本の電車から不審物六個」の記事を載せている。丸ノ内線で七時四十八分池袋発の電車は「折り返し運転をしており、この直前は荻窪発池袋行きで運行、霞ヶ関駅には同九分に到着しており、この際すでにサリンが置かれていた可能性もある」と報じている。犯人はさらに一人増えることになる。
地下鉄サリン事件の犯人として元オウム真理教の信者五人が裁判にかけられた。この数字は第二報の五線路と対応している。しかし第二報までに報道された犯行事実と相違する。三月二十日『朝日新聞』第一報の十四面に「千代田線霞ヶ関駅で電車の一両目にビニール容器のようなものがあった。同駅助役の高橋一正さんが容器をホームに下ろしたが、倒れ息を引き取った」とあり、その犯人は林郁夫とされた。しかし続いて「同じ電車の八両目の車内に新聞紙に包まれた薬品らしいビンも見つかった」とある。この犯人は特定されていない。同じ十四面のドキュメント欄に「九時八分丸の内線本郷三丁目駅で薬物が発煙」とある。この犯人も特定されていない。
『読売新聞』第一報の一面に「築地駅では、男が新聞紙にくるんだ二十センチ四方の包みをホームに投げ込むのが目撃され、その直後に駅構内に異臭が立ち込めた」とある。裁判の状況からこれは別な犯人の仕業と推定される。同じく『読売新聞』第一報の十五面で日比谷線の三両目に乗っていた乗客の話として築地駅の一つ手前の八丁堀駅付近で「乗客の誰かが緊急ボタンを押した。ボタンを押された方は築地の駅で申し出てくださいとの車内放送が終わるか終わらないうちに、一つ前の電車から人が倒れたぞと叫び声が上がった」とある。これは裁判で林泰夫が三両目に乗っていて犯行に及んだという経過とは別の状況とも考えられる。
『毎日新聞』の第二報三月二十一日一面によると、捜査本部や営団地下鉄によるとして「五本の電車から不審物六個」と報道している。その根拠として「池袋発新宿行きが本郷三丁目駅で停車したが、「池袋で折り返す前すでに置かれていた可能性がある」としている。この発表によると、犯人はさらに一人増えて五人のほかに三人いることになる。
さらに『朝日新聞』が報じた異臭発生のために停車した七路線を加えると犯人は合計十五人になる。少なくとも実行犯が五人で済むような事件ではなかったる。
日を追うにつれ変わってしまった犯人の遺留品
三月二十日および二十二日各紙に報じられた遺留品と後に行われた裁判の審理内容とはもっと著しい相違がある。『毎日新聞』社会部編「裁かれるオウムの野望」ではビニール袋とされていたものは、ポリエチレンが内張りされたナイロン製であるとしている。犯人五人はいずれも同じものを使ったことになっている。しかるに第一報に現れたものは『朝日新聞』で、「ガソリン容器のようなものが倒れていた」、千代田線霞ヶ関駅で、八両目車内に「新聞紙に包まれたビン」が見つかったとある。日比谷線霞ヶ関駅では「新聞紙にくるまれた五十センチ四方くらいの四角い包み」が原因とある。『読売新聞』の第一報では築地駅で「男が新聞紙にくるんだ二十センチ四方の包みをホームに投げ込んだ」とある。東武動物公園行き電車の中に「新聞紙に包んだ弁当箱のようなもの」があったという。日比谷線小伝馬町駅で、「乗客が車内にあった直径約三十五センチの筒状のものをホームにけとばした」とある。転がりやすいように円筒状の容器を使ったのかも知れない。丸の内線本郷三丁目駅では「骨壺ほどの大きさの新聞紙に包まれたもの」があったとしている。
しかし遺留品に対する報道は次第に変化してゆく。事件後五日たった『毎日新聞』は二十五日の夕刊第一面に「当日の朝刊で包む」とあり、「不審物は計五個。このうち二、三個が新聞でくるまれており、いずれも二十日の朝刊であった」としている。朝日新聞』は同じく二十五日の夕刊第一面で「当日の朝刊で容器包む」の大見出しを載せている。それによると警視庁築地の捜査本部の調べとして「五本の電車から各二個見つかり、いずれも『読売新聞』に包まれていた」とある。同じ遺留品の調査でも新聞社によって少しずつ異なっているのが特長である。共通していえることは、五路線に限定されていて、第一報や第二報で知らされた五路線以外の事実はこの段階で切り捨てられたことである。
続いて次の日二十六日の朝刊にはこれを訂正し、やはり警視庁築地の捜査本部の調べとして「不審物はすべて新聞紙に包まれていた。中身を確認したところ三つは弁当箱くらいの大きさの容器、あとの二つはビニール袋であった」としている。六日もたったあとの発表であるから、事実を十分勘案してのものであるといえよう。そうとすれば後の裁判で五個とも同じナイロン袋というのは事実を偽っているとしか言いようがない。
しかるに、さらに一日たった『読売新聞』二十七日夕刊の第一面に「包装の新聞は四紙」なる見出しが掲げられた。ここでは「五個の発生源はいずれも新聞にくるまれ、中には弁当箱大の容器やビニール袋が入っており」とあり、五個ともナイロン袋としていない点は朝日の報道と同じであるが、新聞紙は『読売新聞』、『日本経済新聞』、『報知新聞』、日本共産党の機関誌『赤旗』の何れも当日朝刊で、このうち『赤旗』は定期購読か、地区委員会で販売しているだけ」としている。やがて「弁当箱大の容器」も切り捨てられすべて「ビニール袋」に代わるのである。いずれも警視庁築地の捜査本部の調べとあり、新聞社に別々の報道を流し世論操作をしていたことがうかがえる。
京王井の頭線でも不審物を発見
『朝日新聞』二十日夕刊ドキュメント欄に「九時八分丸の内線本郷三丁目駅で薬物が発煙」とある。この他、不審物の発見は十数カ所にも上るという報道がある。『東京新聞』三月二十日夕刊一面に「京王井の頭線駒場東大前駅でも薬物とみられる液体の入った不審な箱が発見されており、不審物が発見されたのは合わせて十数カ所に上っている」とある。また『日本経済新聞』三月二十日夕刊一面にも「このほか、京王井の頭線駒場東大前駅ホーム上でも不審な箱のようなものが置かれていたとの情報もあり、警視庁では、犯行グループが複数の電車や駅構内に不審物を置いた可能性もあるとみてさらに詳しくしらべている」とある。
このように大規模な犯罪が行われたのにかかわらず、警察が取り上げたのは五カ所の犯行に止まったのである。
隠蔽されたか?真犯人
『毎日新聞』三月二十一日の朝刊第一面に「不審な男、つぶさに目撃」とあって、「サリンを車内に置いて恵比寿駅で下車した男の詳細な目撃証言を若い女性から得た」、また「この証言をもとに、警視庁はすでに似顔絵を作成している。但しこの似顔絵は公表されていない。
『読売新聞』では二十六日の三十五面で、「病院収容者を洗え」との大見出しで小伝馬町駅で倒れた不審な男を報じている。そして二十八日朝刊第一面に「入院の男、容疑者と断定」と大見出しで報道され、「目撃情報で突き止める」とした上で、「特別捜査本部は二十七日、入院の男を容疑者とほぼ断定した」としたのであった。しかし、その次の日の夕刊では早々と「容疑者の身元が分かり事件と無関係」としたのである。これ以後、事件は事実の究明どころかオウム真理教追求に的が絞られてゆく。
サリン散布は三月二十日以前に企まれていた
聖路加病院で被害者治療に当たった奥村徹医師は著書『緊急招集』の「疑心暗鬼譚」の項で「事件後、横浜駅、映画館の異臭騒ぎ、新宿駅および茅場町駅青酸ガス未遂事件がたて続けに起きた。誰が何の目的で行なったのか全く見当のつかない事件が続いた」とある。続いて、悪質な悪戯も多かったとして次の例を挙げている。
それは当直の夜起きた事件であるが、東京消防庁からと名乗る電話で、多数のガス中毒の患者が都内各所に出ているとして、聖路加病院に二十人搬入したいというものであった。東京消防庁に問い合わせて悪戯に気が付いたという。同時刻に都内複数の病院にも同様の電話が掛かってきたことが後で分かり、悪戯は組織的な犯行の匂いすらあったとしている。その際、電話の遣り取りで被害者の瞳孔が小さくなっているかどうかを確かめた際に、「電話の奥から真に迫った交信音や信号音が流れてきた」とある。このような手の込んだ音響効果を備えて相手を信じさせてしまった電話の手口は、これもまた背後にある謀略組織の犯行の疑いを抱かせる事件ではある。
その後に記述は続く。「地下鉄築地駅構内に、事件後しばらくして、『不審な物を見かけた方は、駅職員に通報下さい』という張り紙が構内に張られた」とあり、やがて「物」の字の上に、「物、人物」という訂正の張り紙が張られたとある(註8)。 人物と訂正はしたものの、地下鉄築地駅に物が落ちていたからこその掲示である。『読売新聞』二十日の夕刊にあった「築地駅では、男が新聞紙にくるんだ二十センチ四方のみをホームに投げ込むのが目撃され、その直後に駅構内に異臭が充満した」という記述が想起される。しかし後の裁判では五路線の犯行を問題にしているだけで、この記述は完全に黙殺されている。
地下鉄サリンと松本サリンとの殺傷効果比較
地下鉄の車内に容器を破ってサリンを発生させたとき、停車した次の駅ですぐに下車するであろうが、猛毒であるからその間発生したサリンで犯人自身が死亡する恐れがある。実際にはそのようにならないように工夫されていたのである。
この秘密はサリンが溶剤アセトニトリルに溶かしてあったことである。『毎日新聞』の二十一日朝刊第三面に、倉田英世元陸上自衛隊幹部学校戦術教官室長の話として「アセトニトリルに溶かしてうすめると、揮発しにくく扱いやすくなる。容器に密閉して持ち運び、車内で容器を割る。揮発までわずかながら時間がかかるので、すぐ降りてしまえば犯人は大きな影響を受けない」とある。また昭和大学薬学部の宮坂貞教授は「アセトニトリルは、人の体からも吸収されやすい。ビニール袋を溶かすこともない。溶剤として絶妙な選択で、熟練した者の存在を感じる」と話しているという。アセトニトリルはエーテル臭があるというから、それほどの悪臭ではない。サリンは無臭であるから、鼻を突く悪臭の原因はアセトニトリルにサリン以外に悪臭を発する物質が混合されていたと疑われる。
もっと重大なことは死者と負傷者の比率なのである。『読売新聞』二十二日夕刊の第一面では、二十二日正午現在として「東京消防庁のまとめによると、二十二日正午現在、病院で手当を受けた人は犠牲者を含む五千五百十人に達し、そのうち一千三十六人が入院している」とある。死者は最終的には十一人に達した。これに対して、前年の深夜生じた松本サリン事件では「死者七人、入院患者約六十人をはじめ、二百二十人が被害を受けた」と『朝日新聞』平成六年(一九九四年)七月二十三日夕刊第十三面に報じている。死者の比率は被災者の三・二%である。この割合でいくと五千五百人の被害者に対しては百七十五人の死者が出た勘定になる。松本の場合、開放空間で人間の密集度も住宅地で、それほど高くはない。それでもサリン噴霧地点から五十メートル離れた地点でも死者が出ている。地下鉄の場合、閉鎖空間であり、駅は人口が密集している。松本と同じ量のサリンが撒かれたら、本当は百七十五人どころか何千人もの死者が出たことであろう。
実際に十一人に止まったことは、アセトニトリルに混ぜたサリンの量を少なく調整して十人前後にするよう周到に準備されたものであろう。千人を超す死者が出たのでは、国民の怒りが頂点に達し警察に対する追求に止まらず、政府の責任追及といった政治問題化して収拾がつかなくなる恐れがあるであろう。
『朝日新聞』が報じた五路線以外の七路線でも、悪臭が発生しただけと報じられているが、目に異常を感じたと訴える被害者が多いことから致死量以下のサリンが混ぜられていた疑いもあるであろう。さらに騒ぎだけはできるだけ大きくするが犠牲者はできるだけ少数に止めようとする策謀があったと疑われても仕方がない。
聖路加国際病院の救急治療
サリン散布で狙われた築地駅と、駅の近くにあったアメリカ系大病院である聖路加国際病院とは運命的な出会いであった。日野原重明院長をはじめ所員が全力を挙げて被害者の救急に当たった。この中で同病院救急部で治療に当たった奥村徹医師が『緊急招集』という著書を書いている。この本は前にも引用したが、当時の状況が時間を追って述べられている。
これによると、午前八時三十分「築地駅で爆発事故が起きたとの連絡を受けた」、午前八時三十五分「女性被害者から話を聞き始めた。目が痛く息も苦しいという」から始まっている。その後続々と被害者が運び込まれ、八時五十五分には「緊急招集」がかかったという。
九時十二分「消防庁より、中毒物質はアセトニトリルらしいとの一報が入った。しかし、症状的にまた検査上、特にアセトニトリル中毒を疑わせるものは無かった」としている。消防庁は薬物検査の設備を持っているのかどうか。それにしてもアセトニトリルの存在を初めから知っていたのではないかと疑わせるほどの素早さではある。奥村氏は続けて「被害者に共通する瞳孔の縮小や鼻水は、医学的には有機リン化合物が最も考えやすい、とそこまで考えたときに松本市で起きたサリン事件のことが頭をよぎった。しかし僕には誰が何のためにと考えると全く分からなかった」とも言っている。一月一日の「読売新聞のスクープは知らなかった」とも述べている。
「救急センターは、点滴を受けながらも目を押さえ苦しむ被害者であふれかえった」とも述べている。「被害者のなかには、こんなことをしやがって、ただでは済ませねえと、自ら苦しい症状に苛まれながらも、怒りを露わにする地下鉄職員の姿もあった」とある。十時十五分松本サリン事件の治療経験を持つ信州大学付属病院の柳澤院長から救急センターに電話がかかってきて、情報交換の結果、原因物質がサリンの可能性が高まったとある。
午前十一時重症の被害者を前に僕らは決断した。「PAM(パム)を使おうと」。PAMは沃化プラリドキシムといって、サリンや燐を含む有機農薬中毒の特効薬である。戦後の食料増産時代にニカメイチュウなどの害虫駆除に活躍したのが有機燐系殺虫剤である。農薬中毒や服毒自殺者の治療に使われ特に農村の医療機関に常備されていたものである。しかし、近年農薬の改良が進み毒性が減ったためにPAMの需要も著しく減少しているのである。PAMの製造会社は、毎年採算性が悪いために、社内では生産を続けることに疑問の声が上がっていたにもかかわらず製造を続けていたのだそうである。当然、生産量、在庫量も少なかったことであろう。今度の地下鉄サリン事件に際しての対応について奥村氏は「初期の段階から東京のPAMの在庫が底をつくことがないよう、大阪茨木の工場からいち早く空輸した。空輸されたPAMはパトカー先導で都内各所の問屋に運ばれた。また名古屋に本社のある薬問屋では、新幹線こだま号の停車各駅で、各営業所にあるPAMの在庫を次々と載せて東京に向かった」という話を紹介している。
しかし、聖路加病院にはPAMの在庫があったのである。奥村氏は言う。「有機リン化合物は農薬として用いられるために、有機リン中毒は特に農村地帯では決して珍しい中毒ではなく、PAMは治療にしばしば用いられる薬剤である。しかし、PAMはすべての有機リン系農薬に万能というわけではなく、化学構造上PAMの効き目の薄い有機リン系農薬も近年増えてきていたため、PAMを臨床上、使用する機会も減っていたことも確かであった。ましてや都市圏では患者数も少ないため、PAMを持っている病院は少ない。聖路加では、たまたま有機リン中毒の患者が少し前に入院していたこともあって、院内には初期治療に十分なPAMの在庫があったことが幸いした」と。
この事実にも疑惑が持たれる。オウム真理教がらみでも、坂本一家をはじめ二度のサリン事件で多くの犠牲者を出している。オウム真理教自身でも村井秀夫氏が殺害される事件も後で起きている。謀略集団によって、意図的に有機リン中毒にされた者がいてもおかしくはない状況ではあったのである。この有機リン中毒患者を調べることは患者のプライバシーの問題もあって不可能なことである。それにしても「少し前に入院していた」とは絶妙なタイミングであったといわざるを得ない。それにしても聖路加病院の医師たちがこれによって多くの被災者の命を救うことができたので、この「中毒患者の発生」に疑念を抱きつつも、謀略集団の企みでないならば、神様に感謝すべきことなのかも知れない。「お宅は、サリン治療の専門病院なので、お聞きしたいが::」と電話がかかってくることにもなった。
午前十一時テレビのニュースで、警視庁捜査一課長の談話として、今回の事件の原因物質はサリンであることが発表されたとある。そして「いったい誰がどんな目的でサリンなんかを地下鉄に撒いたのだ。怒りがこみあげてきた」この犯人不明の犯罪に対する怒りは国民すべての感情であったのである。それにしてもサリンとの責任ある発表は余りにも早すぎると思われる。サリンの存在はガスクロマトグラフという装置で調べられたとの別の報告もある。この決定は試料の採取からのスペクトル分析、さらにサリンそのものとの比較同定というプロセスが必要なのである。その前のアセトニトリルの場合もそうであったが、予め知っていたと疑われても仕方がないほどの素早さである。その疑いは時間が前後するが次の記述で一層深まる。
午前十時三十分、「自衛隊中央病院から医師一名と看護婦三名が応援に駆けつけてくれた。この自衛隊中央病院の医師は、三日前に自衛隊衛生学校で化学兵器の防御について研修を終えたばかりだった。報道された状況から化学兵器の使用の可能性も考えられ、試料を携えてやってきた」とある(註9)。
この記述は極めて重大である。サリン事件の三日前に自衛隊衛生学校で訓練が行われたというのである。まず「報道された状況から化学兵器の使用の可能性も考えられ」とあるがこれは事実に反する。三月二十日夕刊から二十一日朝刊までは新聞各社とも、オウム真理教の犯行とは一言も触れていない。それどころか『朝日新聞』は二十一日朝刊で「姿なき凶悪犯、許せない」とまで述べている。地下鉄サリン事件をオウム真理教と関連付けようとしたことは三月二十二日の「オウム総本部などへの大動員、異例の厳戒捜査」(朝日夕刊)によっている。この日からマスコミは総力を挙げてオウム真理教に対する批判キャンペーンを展開することになったのである。
『東京新聞』は「第一報は信州大病院」という見出しで、「地下鉄事件が起きたのは午前八時前後で、信州大の連絡は発生から一時間余り後。聖路加国際病院には当日、たまたま毒ガス対策を学んだ自衛隊の医官が派遣されており、迅速な情報や偶然が重なり被害の拡大を抑える結果となった」とある。この記事は奥村氏の「サリン事件が起きたので、自衛隊の医官が来た」という記述と異なって、派遣されていたのである。この偶然は起こるにしては余りにも確率が低く、サリンが撒かれることを事前に知っていたことに因る計画的な準備と判断されても仕方がない。
治安部隊の出動
地下鉄サリン事件がオウム真理教と関係があるかのように国民が強制的に思わされたのは他でもなく三月二十二日朝からのオウム真理教山梨教団施設への機動隊員など二千五百人を動員しての強制捜査によっている。防衛庁までが一万二千人を待機させていたという。後の裁判で検察側はオウム真理教が地下鉄にサリンを撒いた動機として「強制捜査を逃れるため」なる理由付けをしているが、事実は反対で、「地下鉄サリン事件を口実にオウム真理教に大弾圧を加えた」と見られる。三月二十三日『毎日新聞』朝刊第二面に「防衛庁によると、今回の家宅捜査のため、警察庁から十七日と二十一日の二回にわたり戦闘用の防護服や防護マスクの貸し出しの要請を受けた。理由について警察庁は十七日の段階では明らかにしなかったが、二十一日には日時や規模は明確にしなかったものの、オウム真理教関連の家宅捜査に使用することを伝えた」とある。二十日、地下鉄にサリンが撒かれる以前の十七日にすでにこの日のための準備がなされていたのである。
治安警察が地下鉄サリン事件を予知していたと見られる事実が、他にも見られる。それはその直後に起きた「国松長官狙撃事件」に関してである。実行犯と自白した警視庁本富士警察署巡査長の小峰敏行を懲戒免職にした理由として、警察は次のように発表している。
第一は「井上嘉浩の依頼によって、九四年九月頃から警察内部の資料や車両所有者の照会結果などの情報を提供、頻繁に電話で連絡をとっていた」というものである。第二は「教団に対する一斉捜査が始まった九五年三月以降も在家信者として教団に留まり、地下鉄サリン事件の捜査本部が置かれた築地警察署に派遣された後も、服務規程に違反し信用を失墜する行為をした」という。小峰が地下鉄サリン事件当時、築地警察署の公安課に派遣されていたことは重大である。築地駅でホームに異物が投げ込まれ多数の被害者が出たこと、聖路加病院の存在を合わせ考えると、この築地警察署派遣は計画的であったと推定せざるを得ない。小峰はその後、本富士警察署公安課に戻り、「国松長官狙撃事件」ではアリバイが示されたのである。これについては「国松長官狙撃事件」として後で記述する。
マスコミを使った世論操作
三月二十一日までは地下鉄にサリンを撒いた犯人が誰なのか、国民は全く知らなかった。それが三月二十二日のオウム真理教施設への大々的な捜査で事態は一変した。二十二日の大捜査は名目的には地下鉄サリン事件とは無関係の假谷氏監禁事件の捜査だったのである。
『読売新聞』二十二日の夕刊には早々と「オウム真理教強制捜査」の大見出しの第一面に「地下鉄サリン死者は十人に」と地下鉄サリン事件をオウム真理教と結びつける意図を持った記事が現れ、続いて「サリン、現場で生成」なる報道がなされている。内容は警視庁捜査一課と築地署の特別捜査本部の捜査で分かったとその情報源を述べている。しかし、これは松本サリン事件でも囁かれたことであるが、サリンが容易に作れると印象付ける意図でなされているものである。しかし、これはあり得ないことであることが明らかにされているし、事実、後の裁判ではこのことが否定されたのである。
二十二日と二十三日に続く二十五日の強制捜査でも名目は目黒公証役場事務長の拉致監禁事件であったが、二十六日の捜査は次第にエスカレートして、殺人予備罪を適用して行われたという。サリンをオウム真理教に結びつける目的に終始した。そして三十日早朝の「国松長官銃撃事件」へと続いて行く。国松長官はオウム教団を巡る事件の総責任者であったので、「オウムの仕業」と国民に印象づける意図の下に企まれたもので、幸い命は取り留めたものの昭和二十五年の国鉄解雇騒動のなかで起きた下山国鉄総裁殺害事件に匹敵する権力陰謀を疑わせるものである。
この「大動員、異例の厳戒捜査」の結果は二つの効果をもたらした。一つはサリン犯罪はオウム真理教の犯行ではないかと国民に信じさせることにあったことである。他の一つはオウム信者を恐怖に陥れ、教団から引き離すことであったことである。
第一の点については、「名目は假谷さん事件の捜査」でも「実質はサリン事件と結びつけようとする宗教弾圧」であり、このようなガサ入れは、厳密な意味では違法捜査といわれても警察は弁明の余地はない。事実、假谷さんの保護も拉致犯人の逮捕もできず仕舞いであった。
尤も、これも計画的であったかもしれない。『朝日新聞』三月二十三日の夕刊には松本剛らしき者が道路交通法違反で警察の取締りを受けたとだけ報じられている。実は姓名を名乗り指紋も採られていたが、放免されたという。これが後でレンタカー借用の際の指紋と一致したとされ假谷氏拉致事件解決の糸口とされているからである。新聞発表が強制捜査の行われた二十二日の一日遅れというのも絶妙のタイミングではある。
第二の点については、それに続く大々的な信徒の逮捕であった。『朝日新聞』五月四日の朝刊によると、二十二日の強制捜査に続き五月三日までに逮捕された信徒は釈放者を含めて百八十人以上に上るという。多くの信徒は何らかの救いを求めて入信したのである。国家権力による大々的な弾圧を予想はしていなかったであろう。動揺し権力に屈服する者が現れてもそれは予想されたことであった。
教団の切り崩し
二十二日の一斉捜査で、信徒約五十人が救急車十台で運び出されたという。全員が「栄養失調状態」であったという。また現場にいた四人も監禁の現行犯で逮捕されたと報じられている。しかし同じ上九一色村の施設に居た子供たち五十人ほどには異常はなかった上に、強制捜査に合わせて突然起きた事態とも考えられる。現に『毎日新聞』二十三日朝刊三十一面には「捜査前日に薬を飲まされた」という証言があり、作為的に薬物を飲まされ意識混濁状態にされた人もいる可能性が高まったとも報じられている。その後の裁判では、この信者監禁事件の実態はどうであったのかは全く知らされていない。
林郁夫は強制捜査を避けて、早々に教団から離れ、カプセルホテルに宿泊していて、「テレビでは『五十人のフラフラになったサマナもいた』など報道されていましたが、私には全く理解できませんでした。第十サティアンには修行班があったので、その人たちかとは思いましたが、フラフラになるわけがありませんから、これは捜査に入った際、何かガス状のものを噴霧して、それをオウム内部の『異常な修行』に見せかけようとしているのだと思いました」「やっぱり警察は卑怯だ。汚い手を使ってもオウムを潰そうとしているのだ、と憤りが沸いてきました」「責任者である私が、まるで敵前逃亡をして、何の役にも立てないことを恥じました」とそのときの印象を述べている(註10)。
『朝日新聞』三十日夕刊二十五面に「オウム科技庁の名簿」という見出しで、滋賀県彦根市で逮捕された二十六歳の男性信者が持っていた光ディスクの分析で教団の組織が分かったと報じている。年齢から松本剛と見られるが、警察の調べに対して強制捜査が始まった前日に上九一色村の教団施設を出たという。車のトランクからは光ディスクのほか書類も見つかり、書類の中から「化学工場の設計図のようなものを含め、数種類の設計図、化学式を書いたメモなどを見つけたとある。すでに二十四日に逮捕されているのであるが、スパイとしてオウム真理教に潜入していたとされている男松本剛の情報提供を利用したマスコミ操作と信徒逮捕の口実を与える下準備ではあった。
信者児童の親との切り離し
『朝日新聞』四月十五日朝刊は山梨県警が児童福祉法に基づいて、児童五十三人をオウム施設から山梨県中央児童相談所に収容したと報じている。十四日午後二時半過ぎ、バスで甲府市の中央児童相談所についた後、警察官に抱かれて所内に入った。一時間ほどして、約二十人の信徒を乗せて追っかけてきたバスが到着し、「子供と会わせなさい」と叫んで入り口を固める機動隊員と一時間ほど押し問答になったという。
このように親の親権を制限する場合は家庭裁判所の承認が必要で、警察の行動は違法行為の疑いがあるのである。これまでして子供たちを収容したのは子供を人質にとって親たちを脱落させようとの目的であったといわれても弁解の余地はないと思われる。
オウム真理教対策委員会の策動
教団切り崩しの策動は警察のみではなかった。「信徒たちの脱出を手助けしてきた」と称する上九一色村の竹内精一は九五年七月二十四日の『赤旗』評論特集版に「オウム真理教と闘った六年」という一文を書いている、れっきとした共産党員である(註11)。
彼は九十年六月に「オウム真理教対策委員会が結成されたときに五人の代表委員の一人になっている。この一文のなかで、地域住民を組織し、教団排斥に狂奔した実体が明らかにされているが、教団壊滅に狂奔する警察を先頭とする国家権力の違法行為には、目が届かなかったのである。
この連中は、地下鉄サリン事件後に記者会見やテレビ出演で「オウムの潔白」を繰り返し主張してきた青山弁護士に対して、「懲戒請求」の提訴をし、弁護士資格の剥奪を図った(註12)。後で青山弁護士は懲役十五年の不当判決を受けることになるのだが、オウム真理教対策委員会の連中は、この先回りをしていたのである。
契約の書
警察の内部情報を事後にリークさせる目的で書かれたものに、麻生幾の『極秘捜査』がある。そのなかに次のような記述がある。
「分厚い二通の封書。うち一通の宛先は、刑事警察のトップであり、オウム真理教捜査の最高責任者であった警察庁刑事局長の垣見隆。もう一通は、公安警察の最高指揮官だった警備局長の杉田和博に宛てられていた」「垣見の秘書が封をあけた」「出てきたのは『契約の書』という小冊子。オウムの機関誌だった」「機関誌の記事には、在日米軍などの航空機やヘリコプターからオウムが毒ガス攻撃を受けているとし、麻原の次男が毒ガスによって皮膚が爛れたとする赤ん坊の裸の写真まで掲載していた。また『上九一色村の施設では、毒ガスによる信者の健康被害が続出している』として数字を挙げたデータまで詳細に紹介されていた。『挑戦状ですね』警察庁幹部は、国松にそう言った」「同じ頃、東京中野区にある警視庁職員の宿舎にも『契約の書』が投げ込まれていた」「機関誌の中にも、宗教弾圧という言葉が何度も登場しています」「自らサリン被害について語るなど、その理解しがたい思考回路」などと書かれている。(註13)
警察は『契約の書』に書かれた実体を真面目に調査すべきであったのに「理解しがたい思考回路」などと言ってまともに調べようともせず隠蔽してしまったのである。
麻原教祖のテレビ放送
三月二十四日夜七時に、NHKのテレビ放送総合ではニュースに引き続いて「オウム真理教麻原代表の証言」を放映した。要旨は以下のようである。
「上九一色村は、もともと米軍の演習地域には入っていなかった場所であった。しかしオウム真理教が施設を建ててからは、米軍機がしばしば飛来するようになった」「飛行機により毒ガスが散布された」「飛来するたびに信者で被害を受ける者が多発した」というものであり、林郁夫が著書で述べているようにサリンを含む毒ガスなどの被害を訴えるものであった。「米軍による攻撃を受けた」とする発言は、日米安保条約で米軍が日本を守ってくれているという宣伝にならされている日本国民にとっては衝撃的でもあった。しかし、この放送は翌二十五日の『毎日新聞』三十五面に「麻原教祖サリン、拉致事件を否定」とわずか十二行の短文で報道されたにすぎず、『朝日新聞』、『読売新聞』には全く報道されなかった。それどころか各種のオウム関連報道にも現れることはなかった。
オウム真理教の幹部らが二十六日午前、民放テレビ番組「サンデープロジェクト」に出演、警視庁に押収された百ないし百五十トンの三塩化リンなど大量の化学薬品について「自給自足生活のため農薬を作る必要があり、その原料」と説明した。出演した上祐史浩氏と青山吉伸弁護士は「教団バッシングを考えると、今後十分な供給を受けられるか不明で危機感があった」と、化学薬品を大量に備蓄した理由を述べた。さらに「米軍機の毒ガス攻撃を受け、信者に多数の被害者が出た」と主張、真相解明のために第三者の専門家による調査なら応じる意向を示した、と『毎日新聞』は報じている(註14)。
この記事には「農地や農機具、種苗は未入手とも語り、説明に不自然さを残した、とのコメントを付けている。しかしオウム真理教は自給自足生活をしていて農産物を生産している。また布施に頼らない経済基盤を作るため、ラーメン屋やレストランも経営しており、安い農産物の供給を計画していたものと思われる。実際にも田村智が書いているように「ホームレス」の人々に職を与えるために過疎地で集団で働いているのである(註15)。
さらにスリランカやオーストラリアに土地を購入しており、野菜や緬羊の生産を目論んでいたのである。地下鉄サリン事件後に、毎日新聞社のニューデリー支局小島一夫記者が、スリランカのゴールにあったオウム真理教の支部を訪ねている(註16)。 同じくジャカルタ支局の大塚智彦記者は、西オーストラリア州レオノーラにあるオウム真理教の羊牧場を訪問している(註17)。
「教団は九三年六月に西オーストラリア州に不動産会社を設立し、同州中部の牧場を購入した。牧場では教団幹部の子弟らが羊約六千頭を飼育していたが、九四年十月にオーストラリア人に売却された。このオーストラリア人は取材に対し、売却の際には劇物を調合したような施設はなかったと証言している」(註18)。
ところが新聞の見出しで「麻原氏豪州入国時、劇物所持で罰金」との報道を載せている。弾圧の手は、オーストラリアにまで伸びていたのである。
林郁夫虚偽自白の経過
教団に対する米軍による毒ガスの不当性を訴えてきた林郁夫が自ら「地下鉄に毒ガスを撒いた」という虚偽の自白をするに至った理由は、激しい国家権力による弾圧に屈したこと、特に村井秀夫氏の殺害も影響したと思われる。しかし、それ以上に井上嘉浩らの関与した假谷清志拉致殺人事件に関与させられたことが転落の原因となった。松本剛もまた井上と共に假谷拉致事件の実行犯であるが、拉致に使われたワゴン車の中から松本剛の指紋が検出されたというのである。松本剛は以前のビラ張り現行犯逮捕の際に指紋のみならず掌紋までもとられていたのである。假谷拉致事件がオウムの犯行とされ、犯行に使われた三菱デリカの車内から松本の指紋が検出されたと報じられた。井上嘉浩らが引き起こした事件であったにかかわらず、これもオウム弾圧の陰謀と教え込まれ、教団を守るためと思い込んで、林は医師法に違反する指紋の除去手術をさせられたのである。松本剛と逃亡中に、指紋のみならず、掌紋までとられていた事実を知り、林郁夫は次のような悔悟の告白をしている。
「『こいつめ』とそのとき一瞬、ぶん殴ってやろうかと思い、ものすごい怒りにとらえられました。なんで最初からそう言わなかったんだ。分かっていれば手術なんかやらなかったのに、手術なんか断っていたのにと思ったのです」「私は指紋といったら
指先のことしかイメージしていませんでした。いまさら中川(智正)も中川だ、井上(嘉浩)も井上だと怒ってみてもしかたないのに、私は心を動揺させていました」「私は間抜けだったのです。それにしても妻や他の医師や看護婦たちをも巻き込むことで、本当に辛い決断をしたのに、『あーあ』と思いました。犯罪を犯してまでやった手術が、無価値だったと分かって、打撃も大きかったのです」(註19)。林が教団から脱落した原因は、このように違法な手術に手を染めさせられたことにある。
「林が逮捕されたのは四月四日、本格的に供述を始めたのは五月十二日からだ。その間、何が林の口を封じていたのか。実は、五月十二日に、林の妻りらが逮捕されている。假谷氏拉致事件で逮捕監禁容疑に問われた松本剛の指紋を消す手術を手伝ったという犯人隠匿容疑だった。妻の容疑を供述したのは、ほかならぬ林郁夫だった。当時、林は妻を警察に『売った』と一部マスコミから中傷されたが、真相は全く逆だった。林は教団施設内に『人質』に取られていた妻の身柄が安全な場所に確保されていたら全てを供述する、と取調官に語っていたのだ」「妻を逮捕させる容疑を供述することによって、妻を教団から奪還させたのだ。そして、妻の身柄が安全な場所に確保されると、林郁夫は一気に供述を始めていった」と有田芳生は書いている(註20)。林の妻りらは弾圧に屈することなく教団に踏みとどまっていたのだから、林は妻を警察に『売った』ことは間違いない。
林郁夫はサリンを撒いていない
林は三月十八日、第六サティアンの個室で、村井秀夫から地下鉄にサリンを撒く要請を受けたという。この時の出席者は林郁夫、林泰男、広瀬健一と横山真人の四名であったという。林は述べている、「村井は、『近く強制捜査がある。騒ぎを起こして、捜査のホコ先をそらす。地下鉄にサリンを撒いてもらいたい』と一気に言い放ちました。そして一呼吸おいてから、『もし、抵抗があるなら、断ってもいいんだよ』とつけ加えました」と(註21)。
サリンを撒くといった極めつけの犯罪を犯せば強制捜査を呼び込むことは明らかで、村井氏がそのようなことを考えるはずがないし、林もまたそのような幼稚な考えに納得したというが、甚だ疑問である。村井氏に呼ばれたのは、四人だけというのもおかしい。検察シナリオの実行犯の豊田亨が欠けている。
林郁夫は二十日午後十一時頃、麻原教祖から呼び出しを受けている。林の著書にはこの模様について次の記述がある。
「話が終わったと思った私が、挨拶をして座を立とうとしたとき、麻原が、『地下鉄サリン事件は、世間ではオウムの犯行だといわれているようだが』と話しかけてきました。新宿の街の反応を見たあとでは、犯行声明が出なければ、証拠がなくても、これまでの世論の傾向から考えて、オウムの犯行にされてしまう、そうなるのは当然ではないか、と思いました」とある(註22)。この教祖の反応が示すように、林は本当なら最大の報告事項である『私が地下鉄サリンを撒いたこと』について何一つ触れなかったと推察される。
これに就いては別の記述もある。幹部信者だった人の教祖との会話について「『たまたま別件の用があって(教祖と)電話したんです。三月二十日の朝です』『どんな様子でしたか?』『事件のことは、もうその時点でテレビの速報でご存知でした。社会はこれもオウムの仕業にするのだろうかっておっしゃってました』『どんな調子でしたか?』『調子? とにかく嘆息というか諦観というか、そんな雰囲気でした。演技だろと言いわれると反論できません。でも、あの時の尊師の声音は今もはっきりと耳に残っています。本当に哀しげな、やるせないといった雰囲気で、今も時々受話器に響いたあの声を思い出すんです。あれが演技で出せる声なんだろうかって考えてしまうんです』(註23)。
地下鉄サリン事件では十一人の死者と多くの被害者が出ている。そのなかでも林が関与したとされる千代田線では地下鉄職員の高橋一正氏ならびに菱沼恒夫氏が死亡している。警察のシナリオによる五人組の犯行では、林を除いて死刑求刑がなされている。林だけ無期懲役になったのは、「自白による捜査協力」だというが、他の実行犯といわれる人たちに死刑判決がなされていることを考えると、道理を曲げた判断というべきである。事実は林が「サリン事件に関与していないにかかわらず関与したと嘘の供述をしている」ことを知っていて死刑を求刑できなかったのであろう。五人組の犯行とする検察側のシナリオはすでに崩れているのである。
第十サティアンで大規模サリン中毒発生
裁判が進むにつれ、重大な事実が明らかになってきた。元信者の証言によると、「第十サティアンで大規模な毒ガス騒ぎが起きたのは、九五年一月中旬。一階で多くの女性信者が倒れ、鼻血を流している子供が何人かいたという。症状が重かった子供二十人を含む約四十人が第六サティアン近くの教団治療施設に運び込まれ解毒剤の注射を受けた。ある男性信者は、子供が倒れたと聞いて階段を下りる途中、血痰が出てそのまま意識を失った。二時間後に気がついた時には、医師の林郁夫から心臓マッサージを受けており、脈拍は二十ぐらいまで下がったという」(註24)。 第十サティアンでは前年暮れから体調不良を訴える信者が相次ぎ、十二月中旬には大人と子供合わせて二十数人が治療を受けたという。
教団治療施設はすでに示したように、地域保健所と連絡をとっている。異常事態が発生したときは厚生省に連絡する義務がある。地下鉄サリン事件が発生する二カ月も前にこのような事件を厚生省も警察も知っていながら隠蔽していたのである。新聞に報道されたのは、事件から三カ月も過ぎてからであり、事前に報道されていれば、地下鉄サリン事件は起こしようがなかったのである。
むすび
地下鉄サリン事件はオウム教団弾圧の頂点に立つ、権力による謀略であった。事件三カ月前の『読売新聞』九五年の元旦第一面の報道に現れたように、上九一色村にサリン残存物が発見されたという記事は、松本サリン事件の不当捜査を証明すると同時に、地下鉄サリン事件準備の世論操作でもあった。
事件そのものは、騒ぎを大きくするために地下鉄のほか井の頭線駒場東大前駅にも不審物が置かれていた。しかし警察のシナリオでは、オウム元信者五人の犯行に絞られた。
オウム真理教が事件に関与したことについて、麻原教祖をはじめ、殺された村井秀夫のほか、青山吉伸、上祐史浩ならびにサリン製造を否認し続けている土谷正美らの幹部は否定しているし、全く知らなかったといえる。事実はスパイ井上嘉浩が黒い謀略集団の手先となって事件に関与していたのである。林郁夫、林泰男および豊田亨らがサリンを撒いたとされているが、実状はなお不明である。少なくとも林郁夫が犯行に加わったのは疑わしい。井上嘉浩が企んだ假谷氏拉致事件に関わり、林は結果として教団を裏切ることになったからである。この林の虚偽の自白によって、教団が地下鉄サリン事件を起こしたとされる決定的な宣伝材料を提供したことになったのである。
その後続いている裁判は、スパイ共のかかわった犯行を、強引にオウム真理教と偽って強行しているのが実状である。わざと、黒い謀略集団がスパイを手先に行なった犯罪行為を、何もしていない教団と関係づけようと狂奔しているのである。
一般に気に食わぬ組織を弾圧するには、スパイを潜り込ませるのが常套手段である。特に宗教団体では、スパイの防止は難しい。親鸞上人のいわれている「悪人成仏」の思想のように、悪人でも心を入れ替えれば成仏できるとの考えが宗教団体、特に仏教関係者の根底にあるからである。ただし金のためならどんな悪いことでもやるという正真正銘の悪党は如何ともできないのである。
マスコミを動員したオウム弾圧はこれに飽きたらず、国松長官射殺未遂事件や村井秀夫殺害事件へと続くのである。
文献
註1 『毎日新聞』一九九五年三月二十日 夕刊 11面
『朝日新聞』一九九五年三月二十一日 1面
註2 麻生幾『極秘捜査』二〇〇〇年八月十日 文芸春秋社 86頁
註3 麻生前掲 283頁
註4 『読売新聞』 一九九五年三月二十五日 35面
註5 江川紹子『オウム真理教追跡2200日』一九九五年七月三十日 文芸春秋社 306頁
註6 『毎日新聞』 一九九五年三月二十日夕刊 27面
註7 麻生 前掲 131頁
註8 奥村徹『緊急招集』一九九九年二月五日 河出書房新社 69頁
註9 奥村前掲 37頁
註10 林郁夫『オウムと私』 文芸春秋社 455頁
註11 『赤旗』 評論特集版 一九九五年七月二十四日
註12 『読売新聞』 一九九五年四月十四日 14面
註13 『毎日新聞』 一九九五年三月二十一日 31面
註14 麻生 前掲 78頁
註15 田村智、小松賢寿『麻原おっさん地獄』一九九六年一月 朝日新聞社 127頁
註16 毎日新聞社会部『オウム事件取材全行動」一九九五年十月 毎日新聞社 88頁
註17 毎日新聞社会部前掲 209頁
註18 『毎日新聞』 一九九五年三月二十二日 2面
註19 林前掲 495頁
註20 有田芳生『追いつめるオウム真理教』一九九五年八月十日 ベストセラーズ社 151頁
註21 林前掲 388頁
註22 林前掲 441頁
註23 森達也『サリン事件から六年』 中央公論 二〇〇一年十一月号 190
註24 『東京新聞』 一九九五年七月七日 1面
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