何者が毒ガスを提供したのか
題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335
第四章 松本サリン事件から地下鉄サリン事件までの事実
坂本弁護士一家殺害事件においても、すでに遺留品としてオウム真理教のバッジであるプルシャが落ちていたり、脱走信者の岡崎一明の手紙が神奈川県警や横浜法律事務所に送りつけられるということはあった。また松本サリン事件ではオウム真理教の名前は一言も出てこなかった。しかし、地下鉄サリン事件でオウム真理教が大きく宣伝されるまでの間にもマスコミに隠蔽されていた数々の事件が発生していたのである。
地下鉄サリン事件が起きたとき、国民は誰が何の目的でこの凶悪事件を起こしたのか最初は理解に苦しんだのである。この空白を利用して一気にオウム真理教を犯人に仕立てる宣伝が巻き起こった。しかし国民に隠蔽されたオウム真理教への弾圧は、すでに密かに続いていたのである。
教団に対するサリン攻撃
『東京新聞』一九九五年七月十三日 第一面に「子供二十人もサリン中毒?」という記事が載せられた。記事によると次のような内容である(註1)。
「元信者の証言によると、第十サティアン(原始仏典で、精舎または道場の意味)で大規模な毒ガス騒ぎが起きたのは今年一月中旬。(地下鉄サリン事件が起きる三カ月前)一階で多くの女性信者らが倒れ、鼻血を流している子供が何人かいたという。症状が重かった子供二十人を含む約四十人が第六サティアンの近くの教団治療施設に運び込まれ解毒剤の注射を受けた。ある男性信者は、子供が倒れたと聞いて階段を下りる途中、血痰を出してそのまま意識を失った。二時間後に気がついた時には、医師の林郁夫から心臓マッサージを受けており、脈拍は二十ぐらいまで下がったという。第十サティアンでは昨年暮れから(地下鉄サリン事件の三カ月以上も前) 体調不良を訴える信者が相次いだ。十二月中旬には大人と子供合わせて二十数人が治療を受け、教団では『米軍から毒ガス攻撃を受けた』、『スパイがサリンを撒いた』などと危険感をあおり、多くの出家信者はこの説明を信じていた」とある。
解説記事には「近接する教団の研究棟からサリンが漏れだした事故の可能性は高いが、教団は当時『スパイがサリンを撒いた』などと説明していた」とある。しかしサリンを作ったとされる第七サティアンと第十サティアンは四十メートルも離れていてガスが漏れたとしても拡散してしまうので、第十サティアンに影響する可能性は少ないと思われる。このような大事故が起きたときには教団から警察に連絡が行くはずである。さらに病院や診療所は厚生省の管轄下にあり、大きな事故が起きたときには管轄する保健所へ報告することが義務づけられている。警察も厚生省もこの大事件を公表せず、地下鉄サリン事件が起きて三カ月近くたってから、裁判の過程で渋々事実の報道を許したのはなぜなのか。これはひとえに闇権力の犯罪を国家権力を総動員して、覆い隠す企みを露見させたものである。
林郁夫の告白
教団に潜入したスパイによって散布されたサリンによる被害者は教団診療所で治療を受けたが、治療に当たった医師は林郁夫である。林は後で権力に屈服し、警察の誘導に沿った地下鉄にサリンを撒いたという供述をして、無期懲役の判決を受けることになった。彼は教団を裏切った後、『オウムと私』という回想録を書いている。教団での生活体験をもとに書いた記録で、「オウムは毒ガス攻撃を受けている」という見出しの節のなかで要旨次のような記述がある。
「麻原は帰国後、上九を離れ、四国とか伊豆とか、各地を転々としているという話が伝わってきました。麻原の生命を狙って、継続されている毒ガス攻撃を避けるためで、上九にいるとサマナの被害も大きくなるからということでした。麻原や松本知子とその子供たちは、第六サティアンに対毒ガス攻撃用の屋外、屋内半閉鎖循環式の大がかりな空気清浄機、コスモクリーナを設置し終わった(一九九三年)三月七日過ぎに第六サティアンの自宅に戻ったそうです。そのころ、第六サティアンをはじめ、富士、上九のオウム施設では、窓を開けて換気することが禁止され、窓は固定されました。そして、プラスチック系のパテで目張りがほどこされ銀色のプラスチックのような素材で裏打ちされた厚手の暗幕がかけられるようになりました」とある(註2)。
「三月十三日、第六サティアンの二階で『マスタード臭』が漂い、毒ガスが撒かれたという騒ぎがありました。その後にも同様のことがあり、麻原の自宅で村井、遠藤、中川ほか数名のものが同席していたときに、中川が検知管を取りに行き、麻原の自宅の空気を検査し、マスタードガスの中等度陽性という判定を村井に確認させて出したのです。このとき私は初めて検知管なるものを見ました」(註3)。
「この騒ぎのあと、それまで修行の一つとして行われていた呼吸法を合わせて歩行する『経行』という修行を、外へ出ることを恐れて、誰もやらなくなってしまいました」
「オウムが毒ガス攻撃にさらされているということは、麻原が自ら詳しく語っていました。麻原は平成五年(一九九三年)十月、毒ガス攻撃を受け生命が狙われていると、初めて毒ガスについて説法で語りました。弟子の一人があたかもそれで生命を落としたかのように暗示していたので驚き、危機感を抱きました」(註4)。
「平成六年一月から四月の説法では、次のように言及していました。毒ガス攻撃はエスカレートしてきて、麻原の生命はサマナ(出家信者)もろとも抹殺されようとしている。麻原自身の被害はイペリットガスでは最重度の四期にあたる症状を呈している。松本知子も石井ら高弟も重症で、そのため各地を逃げ回っている。麻原の息子は皮膚症状が出ている。しかも、その説法のテレビ映像には、重症度からみた病気分類まで示されていました。当時、知識のなかった私にとっては、驚く内容でした。」
「麻原の話は具体的で、オウムに対する毒ガス攻撃の拠点としては、ドクターズヴィレッジ(第六サティアン隣接の医師用別荘)と廃棄物処理施設(第二サティアン近傍)と富士総本部道場から一キロメートル離れた農家の三ヵ所で、オウム施設周辺の監視小屋から、人の出入りだけでなく、毒ガス攻撃がオウムに及ぼす効果を観察している、とまで説明していました。同じ説法のビデオ映像で、ロシアから持ち込んだという毒ガス検知器を用いて、サリンとイペリットガスの検知をしたと野田成人が説明していました」(註5)。
「青山総本部での記者会見」の見出しの節では次のような記述がある。
「一九九七年一月四日、青山総本部でオウムが毒ガス攻撃を受けている、ということを訴える記者会見が行われました。私はそこに出席させられ、オウムの主張を支える発言をしました。前日の三日午前中の早い時間に、青山が私の部屋に来て、オウムが毒ガス攻撃を受けていることを訴える記者会見をやることにした。尊師から指示があって、出席してもらうことになったと言って、新聞のコピーを見せられました。読売新聞の一月一日の第一面のコピーで、上九でサリン残留物が検出されたという内容でした。オウムは毒ガス攻撃の被害者であるのに、このままでは松本サリン事件の犯人にされてしまう。毒ガス攻撃の手先になっている肥料工場も訴えて、オウムこそ被害者なのだということを世間に知ってもらうことにした、そのための記者会見なのだ、その席でTBSの取材時に公表したサマナの健康障害アンケートのデータを発表してもらうつもりだ、と青山から説明がありました」「一月四日の青山総本部会場には、たくさんの報道関係の人が集まりました。青山、飯田に私と松本知子も加わって、会見を開きました。私はやっとオウムが不当に弾圧されている、毒ガス攻撃で抹殺されようとしているという真実を公表できる時がきたと思いました。国に言っても通じないし、世間に直接知ってもらうしかないと思いベストを尽くしました」(註6)。
教団のこうした折角の努力も、マスコミは公開を妨げられ国民は何一つ知ることはできなかったのである。
ここに出てくるマスタードガスは香辛料の辛子(マスタード)の臭いがするので名付けられた毒ガスである。イペリットとも呼ばれる皮膚が爛れる糜爛性皮膚剤で、吸い込むと肺水腫を起こして死亡する。麻原の息子に皮膚症状が出ていたのはこのためである。オウムがサリンを作ったとしつこく宣伝されているが、イペリットが作られたという話は全く出てこない。現実にイペリットの症状が出ているのであるから、この毒ガスは一体何者が供給したのであろうか。
生物兵器による攻撃
林郁夫の著書には毒ガスによる教団攻撃のみならず、生物兵器による攻撃も述べられている。「サマナの呼吸器障害急増」の節には「一月に入って、医務室で受診するサマナが急に増えてきました。それまでは外傷はあっても、サマナが病気するとか、しかも受診しにくるというのはあまり多くないことでした。一月のはじめ頃、一日に百人、多いときは三百人という桁違いの受診者の増加があったのです。初めは鼻炎、喉頭咽頭炎、こじれると気管支炎で、高熱を出す人も少なくなく、腸炎の人まで現れました」「ちょうどそのころ、十二月三十日だかに、上九のオウムの施設の上をヘリコプターだか、飛行機の小編隊が現れていた。その後にサマナの病気が増えた。毒ガス攻撃に加えて、細菌兵器が使われたのではないかという噂が伝わってきました」「治療省では流行の発生源をつきとめようと、診療録を調べ、流行の初発が第十サティアンの住人ということを割り出しました。」「私たち医療スタッフは、第十サティアンに住む抵抗力の弱い子供たちを狙った細菌攻撃があったのかも知れないと思い、そのような話を交わすようになっていました」「麻原はこの上九(富士)のほとんどのサマナに及ぶ感染症を重視して、全サマナに薬を配り、薬の副作用を抑えるためのヨーグルトと薬剤耐性ビフィズス菌の整腸剤と、抵抗力をつけるためにチーズ、それまでも配給されていたビタミンドリンク、ゼラチンといったものを忘れずに合わせて摂るようにと指示を出しました。麻原は、けっこうこういうことも知っている人なのでした」(註7)とある。
『東京新聞』に第十サティアンで、スパイによりサリンが撒かれ、多数の中毒患者が発生したと報じられたが、米軍飛行機により、毒ガスのみならず細菌兵器の攻撃も受けていたのである。
これに関連して、「Q熱騒ぎの発端」の節には、次のような記述がある。
「このような感染症騒ぎのさなか、一月半ば過ぎのこと、私は麻原から呼ばれました。麻原はサマナの病気が『Q熱だ』と言うのです。遠藤(誠一)が雑誌を見て、現在サマナに現れているのと全く同じ病気を見つけた、それがQ熱だと言ったのです」「麻原は遠藤からその雑誌を見せてもらって、二人で対策を検討するようにと私に言いました」「遠藤の話では、生物だか動物だかに関する雑誌を定期購読していて、それにQ熱の記事が出ているのを自分のところのサマナが見つけた。その症状がサマナたちが今訴えている症状と同じだと言うのです。人畜共通の病気なんだ、自分はその分野に詳しいから、と言っていました。『Q熱』は細菌とヴィルスの中間の大きさの『リケッチア』という病原微生物が起こす病気で、糞便などの排泄物の吸入による気道感染で伝播します」とある。さらに「その雑誌の記事では、ある県では牛に集団感染があったと記してありました。教科書的には、日本にはないことになっていたそうです」(註8) とある。
林の著書にはさらに次の記述がある。「私ははじめに見た雑誌の文献から、ある県の環境衛生センターに連絡をつけ、Q熱について教えてもらうことにしました。同時に、臨床検査を扱っている会社ではやっていない『Q熱の抗体価』の検査もお願いできるように交渉しました。それを麻原と遠藤に話したところ、何日かして遠藤が自分もオーストラリアから、『Q熱の血清抗体価測定キット』を取り寄せた。環境衛生センターに提出する献体を折半して、双方で確認すればよいと言ってきました。私ももちろん賛成し、採血した血液を血清分離し、半分を遠藤に渡し、半分を衛生センターへ持って行き、検査を依頼しました」「センターの話では、猫などのペットを介して、十数人の人間への感染症例があるとのことでした。また最近の文献では、日本の野生動物の大半や家畜の間にもQ熱リケッチアは広がっているとわかりました。オウムのまわりは酪農家ばかりなので、そのためにサマナへ感染したのかもしれないと考えました」そこで(教団の)広報担当の人に、保健所などにヴィルス性の上気道感染と思われるような病気が流行しているかどうか、尋ねてくれるように頼みました。オウムの周辺には、そのような流行はないというような返事でした。私はやはりオウムだけが狙われたために、サマナに病気が発生したのだと思いました」(註9) とある。
このように、オウム教団が細菌兵器でも、米軍の狙いうち攻撃を受けたことが知られる。地下鉄サリン事件の直前のことである。ここで強調しておかなければならないことは、教団は地域の環境センターと密接に協力し、情報交換もしていたということである。この事情も報道管制に妨げられて国民は当時何一つ知ることはできなかったのである。
高橋英利の告白
高橋英利は信州大学時代にオウム真理教に入信した。地下鉄サリン事件が起きてから早い段階で教団を離れてしまったが、著書『オウムからの帰還』で、一九九三年大晦日から脱会するまでの信者体験を述べている。これには次のような記述がある。
「サリン攻撃」の節で、「(一九九四年)三月十一日。NTTの専用回線を使った麻原さんの説法が、全国の支部、道場に流れた。『われわれはサリン攻撃を受けている』久しぶりに聞く麻原さんの声は、驚くほど低くしわがれていた。『第二、第三および第五サティアンで、毒ガスの噴霧が検出された』『私のこの左のこめかみに水泡ができている。これはイペリットガス、あるいはマスタードガスと呼ばれている糜爛性のガスによる末期の症状をあらわすものだ。神経ガス、糜爛性ガス、そういったものをわれわれは何者かによって噴霧されている。』強烈な話だった」とある。
「僕のほうは、ひさしぶりの麻原さんに感激はしていたが、フリーメーソンだの、米軍の攻撃だのを説き、ひたすら『闘争』を呼びかける説法にはついていけなかった」、「それで闘争はどうでしょうかとの質問に対して、『いいか高橋君。闘争は必要なんだ』 『例えば戦いのない世の中とはどんなものだと言ったらだよ、まさにそれは家畜あるいはペットの生活だと考えていただきたい』と闘争の必要性、必然性を説きはじめる」とある(註10)。
この米軍による毒ガス攻撃の記述は林郁夫の告白と一致する。「マンジュシュリー」の節ではマンジュシュリー即ち村井秀夫氏との会話の中で、「こんなこともあった。後に僕が占星術のワークについたときのことだ。『高橋君、コンピュータを与えよう。何がいいかな。一番いいやつがいいよね。じゃあね、取り敢えずいま私が使っているやつを使いなさい』と言っていきなり、ペンティアム(インテル製)の強力なCPU(演算集積回路)が入ったマハーポーシャ(教団付属の計算機会社)製のコンピュータを二台僕に与えてくれたのだ。さらにコンピュータ ネットワークの話になり、『君がそういうのに興味があるんなら』と、僕を第七サティアンと第十サティアンの間にあるプレハブ小屋に連れていった。ここには通信モデムを付けたコンピュータが置いてあり、インターネットに接続されていた。これでさまざまなネットに入って情報を集め、あるいは製品の購入に利用しているという。『高橋君、オウム科学技術省は凄いだろう』、『ええ、凄いですね、こんな田舎で』、『こんなド田舎でもやる仕事があるから、いま見せてやるよ』アメリカで、ある製品を購入しようとする。それを扱っている企業をすべてリストアップして、価格リストを表示させる。その中の一番安いものを購入するのである。その製品番号と業者名を確認して、オウムのニューヨーク支部に連絡して購入の指示を与える。これだけのことを僕の目の前でさらりと村井さんはやって見せた」とある(註11)。高橋にもコンピュータを使わせていたのである。
スパイ チェックの節には次のような記述がある。
「あるとき僕は村井さんに、オウム内部でLAN、つまりコンピュータのネットワークを組んではどうかと提案したことがある。とにかくオウム内部では人も物も含めて、その管理体制がずさん極まりないものだった。誰がどこにいて、何がどこにあるのか、その全体をつかんでいる者がはたしているのかと思わせるほどの混乱ぶりだった。コンピュータをつないで総ての情報をまとめて管理すれば、少しは整然とした組織運営ができるのではないかと考えたのだ。しかし村井さんは首を横に振った。『高橋君。それはできない。なぜかというと、教団内部にスパイが入りこんでいるからだ』ネットワークを構築してしまうと、重要なデータをスパイに見られてしまうというのである。『スパイがいる』という噂はあちこちで聞かされた。僕が出家してからの五、六、七月あたりは、とくにスパイに対して過敏になっていた時期だったと思う。」とある(註12)。この時期は何者かによって松本にサリンが撒かれる事件が起きた前後と一致する。河野氏が警察によりアメリカ製のウソ発見器にかけられたが、『スパイチェック』に、アメリカ製のウソ発見器を使われたかもしれない。また教団自作の『ヘッドギア』と呼ばれているものが使われたようでもある。
高橋自身もスパイチェックを受けている。高橋が豊田亨の部門で仕事をしていたときに、「僕が一度、彼を怒らせてしまったことがある。僕が『武器』の噂のことを話したのだ。あるサマナから聞いたんですけれど、オウムはもしかして武器を作っているかもしれないなんて噂があるんですよね、と何気なく言ったのだ。『誰ですか、高橋さん、そんなことを言っているのは。武器を作っているなんて誰が言っているのですか。名前を言ってください!』その時の豊田さんの怒り方は、ちょっと普通ではなかった。僕はうろたえて、名前は知りません、僕の知らない人が話していたんです、と言い訳をした。『スパイかもしれませんね。スパイチェックが必要ですね』僕はほんの軽い感じで聞いただけだったが、予想以上の反応だったのですっかり驚いてしまった」 「数日後、豊田さんは僕にこう言った。『高橋さん、AHI(治療省)に行って健康診断を受けてください』 そこで第六サティアンのAHIに行ったのだが、健康診断ではなかった。体じゅうに電極を貼り付けられて、『嘘発見器』にかけられたのである。僕は『スパイチェック』に回されたのだ。あの豊田さんが僕を!ショックだった」とある(註13)。
なおスパイに関しては、地下鉄サリン事件後の四月三日ころのことであるが次の記述がある。高橋はパソコン通信で新聞のオウム叩きの記事を読んで動揺し、村井氏に「頼み込むような口調で『一体どうなっているのですか。教えてくださいよ。今回の事件、大変なことになっているんじゃないですか?』村井さんは冷静だった。不思議なほど冷静な態度で、われわれはやっていない、とだけ言った」とある。
高橋が杉並道場で村井氏と顔を合わせた時の会話である。「杉並道場には信者がたくさん集まっていて、不当な宗教弾圧に対する抗議のビラ配りなどの活動を行なっていた。だが、僕は村井さんから『いま、ビラ配りなどを盛んにやっているが、高橋君はやる必要がない。あれは信者を微罪で不当逮捕させるためのスパイの罠だ。私は指示を出していない』といわれたから、まったく別行動をとっていた」とある。村井氏は教団にスパイが潜り込み、挑発の策動をしていたことを知っていたのである(註14)。
地下鉄サリン事件以前の假谷さん拉致事件が起きた当時のことに戻るが、高橋は「その夜は杉並道場に泊まった。そこでアーナンダ(井上嘉浩)の部下だった人からこんな話を聞かされた。独房で瞑想修行をしているアーナンダに、ワークの報告をしようとドアを開けたところ、土気色の顔をして、何か思い詰めたような険しい表情をしたアーナンダがいたという。「待て、いまはだめだ、後にしてくれ!」体調が悪かったのかもしれないが、あれは何か非常に苦悩していたようだった」とある(註15)。
井上については、次の記述がある。「東京霞ヶ関の人事院ビル四階と五階。警察庁警備局。警備、公安警察が誇る心臓部の奥の院。九四年十一月二十日。公安第一課大衆班のカルトチームが、密かに分厚い資料を完成させた」この「公安警察が作成したオウムに関する初めての総合資料」とあり、続いて「霞ヶ関から百十キロ離れた上九一色村、サティアン群の片隅で、オウム真理教中枢部に直属するある秘密部隊が産声を上げた。井上嘉浩という若干二十四歳の信者が組織し始めていた、もっとも秘匿された集団。その秘められた存在について、警察庁カルトチームはまだ知る由もなかった」とある(註16)。警察庁も知らない井上による秘密のスパイ組織が、闇の権力に繋がる公安調査庁と思われる謀略機関によって進められていたのである。アーナンダとは釈迦の最後を看取った弟子であり、釈迦の信頼が厚かった弟子であった。井上はこのようなホーリーネームを麻原教祖からもらうほど信頼が厚かったのであるが、教団破壊のスパイ分子になり下ったのである。
田村智の告白、ホームレスの救済
田村智は微罪で服役した後、小松賢寿氏の寺に籠った。田村、小松共著『麻原おっさん地獄』にも、全く報道されなかった田村の教団体験が述べられている。
田村は言う「一九九五年の一月十七日に起きた阪神大震災では五千五百名もの死者が出て、二十数万人の方々が不自由な避難生活を送りました。この大震災が起きてから四、五日経った頃、麻原教祖は被災地に救援物資を運んで見舞うことを決めました」「この時、私は四トントラックを運転していました。このトラックの荷台には、パンや菓子類が山積みされていました。」「しかしどうしたわけか、石でもぶつかったのか私の運転するトラックのフロントガラスが高速道路を走行中に割れてしまったのです」「私は、『麻原教祖がどうしても被災者に届けたい救援物資なのだから、ここは教祖の善意に協力しなければならない』と思いつつ、破れたフロントガラスから入ってくる冷たい風に歯を食いしばって耐えたのです」「それはそれは大変な運転だったのです。『でも、これは麻原教祖の救済なのだから』と自分を駆り立てて、何とか運転することができたのです。それに加えて、私はこんなことを考えていたのです。『これは寒冷地獄のカルマ落としだ。嬉しいな、嬉しいな。この極寒を味わう修行を尊師は私に与えて下さったのだ。有り難いことだ』私は心から本当にそう思って運転していたのです」(註17)。オウム真理教が阪神大震災のとき、いち早く現地に赴き救済活動を行なったのである。
また、こんな記述もある。「青山元弁護士に呼び出されて、こう言われたのです。『今度はホームレスたちと一緒に暮らして欲しい』その時に、ある幹部がホームレスたちに言ったのです。『これから映画を作るのだけれども、お前たちをエキストラに使ってやるからついてこい。食べ物も住まいも確保されている』。すると、大勢のホームレスが喜んでついてきた。このことを麻原尊師に報告したら、尊師は大変喜ばれて、『それならば、これからはホームレスをターゲットに導きをやれ。年内に五百人を目標に集めろ』と指示されました」とある。
田村はホームレスの指導をまかされた。「そこで都内のアパートに集められていたホームレスとの合宿生活が始まったのです」「その合宿は岐阜県の高根村の山奥でした」「環境もよく、修行生活にはもってこいの場所でした」「ところで、ホームレスというと、一般には不潔で無気力な乞食扱いにされる人たちを連想するでしょうが、私がホームレスに見たものは全然違っていました。一人ずつの話を聞いてみると、親を亡くした人とか、事業に失敗した人たちとか、とにかく一般の人よりも苦労をしてきた人が多かったのです。彼らの心は清らかであり、それにいろいろな専門の技術を持っていたり、さまざまな人生体験を積んでいる人たちだったのです」「一番大きな印象は若い人たちが多かったことです」とある(註18)。
田村はホームレスとの生活の中で、「彼らを真理に導いてあげたいと思い、十戒を彼らに示したのです」「驚いたことには、こうしたホームレスたちがやがて次々と決意表明するようになったのです」「こうして、いつしか私とホームレスは集団で清らかな生活を送るようになったのです」(註19)。「ホームレスたちは、次から、どんどんやってくる新しいホームレスを指導する者へと成長していったのです」とある。
その後大阪で集められたホームレスと合流して、和歌山の最南端串本から山に入った古座町で合宿したときのこと、蚊の発生に悩まされた。「ところが、私たちは十戒の第一に『不殺生戒』を掲げていましたから、虫を殺してはいけなかったのです」「ある日、一匹の頑丈そうな蚊が私の腕に食らいついたのです。私は腕をそっと伸ばしながら、ホームレスたちに次のように説法したのです。『皆さん見てごらん。この蚊はこうして私の血を吸っているけれど、この蚊を殺してはいけないんですよ。この蚊は皆さんの死んだ家族の生まれ代わりかもしれないんだよ』私はこう言いながらも我慢してこう説法したのです」(註20) とある。
ホームレスはルンペンプロレタリアートとも呼ばれ、共産主義運動では落伍集団として見捨てられた存在である。高度工業化が進めば進むほど、生産の自動化が進み生産現場から人間が排除される。これは現代社会の宿命的病根であるが、これらの人々の救済の道は閉ざされている。出家信者の献身的な労働による収入が、この人々を救っている上、ホームレス自身にも建築の作業や農場の仕事をしてもらうなどの生産活動に従事するなど自活の道を開いている。一部の社会団体がホームレスの救済の運動を進めているが、宗教団体でこれを取り上げているのはキリスト教の救世軍など少数にすぎない。しかも援護に止まらず、自立と仏道による心の救済を進めているオウム真理教の活動は特筆に値するものということができる。
田村の著書には、教団に対するスパイ活動を示す記述もある。田村自身スパイチェックを受けたのである。「一九九四年の三月、私は出家を果たしました」「二週間も過ぎた頃、嘘発見器によるスパイチェックを受けたのです。手の指に電極をつけられ、幹部のサマナから質問を受けるのです。質問にははい、いいえで答えなければならないのです。質疑応答は次のようなものだったのです。
『あなたはスパイですか』『いいえ』『あなたは教団に爆発物を仕掛けたことがありますか』『いいえ』このスパイチェックをパスした後、私は直ちにこう言われたのです。『あなたは真理科学に配属が決まりました』。この真理科学というのは、山梨県の清流精舎にあったのです」(註21)。 「医師の男性幹部が私に話しかけたのです。『あなたはスパイですね。あなたが尊師の(車の)タイヤに釘を刺したのですね。なぜやったのですか。あなたはスパイでしょう』と。このように、私がスパイであることを完全に肯定しているような質問を投げかけたのです」とある(註22)。このように教団内部には爆弾を仕掛けたり、車のタイヤに釘を刺す事件があったことを示している。
アメリカの秘密工作
林郁夫、高橋英利そして田村智の告白から米軍による毒ガス攻撃が明らかになっているのであるが、この間のアメリカによる秘密工作の一端も明らかにされている。
松本サリン事件で犯人の疑いをかけられた河野義行氏は誤報を流した信濃毎日新聞社を相手に謝罪を求めて提訴した。この際次のように述べている。「提訴したのは三月二十日だった」「この日は、奇しくも地下鉄サリン事件が起きた日だ。昨年十二月、取材で来宅したアメリカの生物化学兵器研究所の副所長、カイル・オルソン氏が、より大規模なテロの可能性を指摘していた。それが現実に起きてしまった」とあるのである。昨年(一九九四年)十二月という月は非常に意味がある月なのである。生物化学兵器研究所はアメリカの専門研究所であり、その副所長は米軍によるとみられるサリンが黒い謀略集団によって松本に散布されたことを十分承知の上で、河野氏宅を訪ねたのに違いない。まず初めに「より大規模なテロの可能性」を指摘できるのは、一体その根拠を示せと言いたくなる(註23)。
第二にアメリカは声高にイラクその他の国の化学兵器を非難していた。松本でサリンが撒かれたことが明らかになったら、その時点で犯人を追及しなければならないはずである。しかるに一向にサリンを撒いた犯人を追及しようとしなかったのは何ゆえか、これもまた追求されなければならない問題である。
第三に河野氏のねばり強い真相究明の努力と日本国内のマスコミの動向を察知して後、地下鉄サリン事件の予告をしに来たのはいかなる意味を持つかである。これには次の報道と関連がある。
毎日新聞社社会部の著書「裁かれるオウムの野望」に、次のような記事がある。
「米国はやはり『世界の警察官』だった。FBI(米連邦捜査局)を中心に国内外で、積極的な情報収集を始めた。三月末にはニューヨークのオウム支部の調査結果をまとめた。『ヒラタサトル、ヒラマツヤスオとマハポーシャがオウムの活動に結び付いているようだ』 目黒公証役場事務長拉致事件で、五月十三日に特別手配される平田悟の名前をすでに掴んでいた」、「随所に日本の捜査当局もつかんでいない独自情報が盛り込まれていた」、「また、教団施設で見つかった九十四年十二月三十日付のサリン製造マニュアルを入手したと報告。一緒に掲載されていたアニメ主題歌の替え歌『魔法使いサリン』の歌詞も公表した。『ナチスのドイツからやってきた もっと危険な化学兵器 不思議な霧を吸い込むと 血ヘドロを吐いて倒れるの サリン サリン 化学兵器サリン』」(註24)とある。
FBIが三月末までに、単にアメリカのオウム支部だけではなく日本国内の調査結果をまとめていたとは、二十日の地下鉄サリン事件以前にアメリカの秘密活動が進んでいたことを示していることは確実であろう。しかし、特に注目されるのは、「ありもしないサリン製造マニュアルを入手した」との発表が十二月三十日になされたことである。昨年(一九九四年)十二月、アメリカの生物化学兵器研究所の副所長、カイル・オルソン氏が、取材で河野氏宅を訪問したことと合わせ考えれば、米国秘密情報機関はこの時期に何らかの決定をしたと想像される。
『読売新聞』一九九五年一月一日の報道
『読売新聞』は九五年の元旦第一面に、大見出しで「サリン残存物を検出」「山梨の山ろく『松本事件直後』の記事を掲載した。これによると「山梨県上九一色村で昨年七月、悪臭騒ぎがあり、山梨県警などが臭の発生源とみられる一帯の草木や土壌を鑑定した結果、自然界にはなく、猛毒ガス サリンを生成した際の残留物質である有機リン系化合物が検出されていたことが三十一日、明らかになった。この化合物は、昨年六月末に長野県松本市で七人の犠牲者を出した松本サリン事件の際にも、現場から検出されており、その直後に同村でもサリンが生成された疑いが出ている。警察当局は両現場が隣接県であることを重視、山梨、長野県警が合同で双方の関連などについて解明を急いでいる。」とある(註25)。
この記事の特長は、第一に情報源が明らかでないことである。長野、山梨県警合同で調べているとあるが、それら当事者の発表ではない。現にこの記事は極めて重要なものであるにもかかわらず、『読売新聞』以外には全く扱われていないのである。第二にオウム真理教弾圧を目的としているのに、オウムの一言も出ていない陰湿なものなのである。
警察の対応からみると、第一にサリン残留物の検出が悪臭発生現場とあるが、サリンはもともと無臭なのである。悪臭を発生していた教団施設近くにある産業廃棄物処理業安藤由大を告訴したとして教団青山弁護士が逮捕されることになったのであるが、何者かがサリン残留物質をばらまいた疑いが持たれるのである。第二に松本で死者七人被害者多数が出たサリン事件の直後に、しかも河野氏の疑いが消えてしまっているのを承知の上で、なぜ徹底的な追及を行わなかったかである。長野、山梨の両地方県警は、国家警察や公安調査庁その他黒い権力集団に繋がる秘密警察の支配を受けて泳がされている実体を示しているともいえる。
むすび
米軍はすでに、一九九三年三月以前に飛行機によるサリンやイペリットなどの毒ガス攻撃を上九一色村の教団施設に加えていた。さらにQ熱病原体のリケッチアの生物兵器による攻撃も行なっていた。一方教団の中にスパイを潜入させて、破壊活動を行なっている。特に一九九四年暮れからの教団へのサリン散布で、幼児を含む重症者が多数発生した。しかし、これらの事実は全く隠蔽されていて、地下鉄サリン事件発生後に、裁判の過程で少しずつ明らかにされたのである。
松本サリン事件が発生した後、サリン散布の真犯人を追求することなく地下鉄サリン事件を迎えるに至った間、唯一公表されたのは『読売新聞』九五年元旦第一面の記事である。一連のサリン事件の犯行を教団の仕業にするための予備的報道であったのである。しかも、この記事は、教団弾圧の意図が見え見えなのに、オウム真理教という文言が全くないという異常な配慮がなされているのである。しかし、この間の元信者の教団生活の体験から、教団が阪神大震災に際していち早く救援に行った事実や、ホームレスに対する救援と更生の活動をしていた積極的な側面も明らかになった。
文献
註1 『東京新聞』一九九五年七月十三日 一面
註2 林郁夫『オウムと私』一九九八年九月 文芸春秋社 204頁
註3 林前掲 205頁
註4 林前掲 206頁
註5 林前掲 207頁
註6 林前掲 316頁
註7 林前掲 321頁
註8 林前掲 323頁
註9 林前掲 323頁
註10 高橋英利『オウムからの帰還』一九九六年三月 草思社 77頁
註11 高橋前掲 110頁
註12 高橋前掲 116頁
註13 高橋前掲 165頁
註14 高橋前掲 212頁
註15 高橋前掲 201頁
註16 麻生幾『極秘捜査』二〇〇〇年八月十日 文芸春秋社 66頁
註17 田村智、小松賢寿『麻原おっさん地獄』一九九六年一月 朝日新聞社 47頁
註18 田村、小松前掲 128頁
註19 田村、小松前掲 132頁
註20 田村、小松前掲 152頁
註21 田村、小松前掲 123頁
註22 田村、小松前掲 136頁
註23 河野義行『疑惑は晴れようとも』一九九五年十一月 文芸春秋社 217頁
註24 毎日新聞社会部『裁かれるオウムの野望』毎日新聞社 一九九六年 262頁
註25 『読売新聞』一九九五年 元旦 第一面
何時も興味深く拝見しています。詳細な調査と記述に感謝します。
拙い私のブログでオウム記事(我々よりオウムが正しかったのか?)の連載を始めました。そして勝手ながら、このページの一部を引用さして頂きました。もし、不都合がございましたらお申し付けくざさい、出来うる範囲で善処いたします。
今後のご活躍お祈りします。
投稿 明日に向かって | 2011/09/10 07:07