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2011/02/24

何者が毒ガスを提供したのか

題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335

第三章 松本サリン事件
 
 オウム真理教が犯人とされる事件において、坂本弁護士一家殺害事件に続いて起こされたのが松本サリン事件である。この事件も、オウム真理教の犯罪として定着しているかにみえる。これは警察や裁判所などの国家権力を利用したうえ、新聞やテレビなどのマスコミを動員した宣伝結果の典型的な事例である。第一通報者である河野義行氏が犯人とされたが、一年もたってから商業新聞各紙をはじめ「真実を伝える」というふれこみの共産党機関誌『赤旗』も訂正と謝罪をしたのに表れている。
 この事件は坂本弁護士一家殺害事件と異なり、河野氏の犯行とされたが、サリンを合成したという罪状は、最初から破綻していたにもかかわらず、地下鉄サリン事件が起きるまで疑いが晴らされなかった。従ってまたオウム真理教とのかかわりも全く取り上げられなかった。これがまた地下鉄サリン事件が起きたとき、国民は誰が犯人であるか分からず、混乱した原因でもある。
 松本サリン事件もオウム真理教を陥れるための一つのステップであり、松本が選ばれたのも、オウム真理教が長野地方裁判所で民事訴訟があり、松本市にある裁判所職員宿舎を狙うという謀略が潜んでいたのである。

河野宅に撒かれた毒ガスは無臭だった
磯貝陽悟氏の著書に、当時の状況を示した次のような記述がある(註1)。
一九九四年六月二十七日夜十一時九分、松本広域消防局の通信指令室に、緊急電話がはいった。
「妻の様子がおかしいんです。苦しんでいます、救急車をお願いします」
「お名前は」
「コウノといいます。妻が息苦しくなったみたいで、大至急お願いします」
 現場に向かう救急車は、今一度住所を問い合わせ、苦しんでいる女性の年齢と、収容先病院の有無を確認し、現場から最も近い丸の内消防署の救急隊(西尾広之隊長、他二名)が古い城の北側にある住宅街目指して急行した。
路上で待ち受けていた男は車を止めると、左側の開け放たれたスライドドアから救急車に乗り込んできた。「どうしました」と聞く西尾隊長の質問に答える余裕もなく、車の中央にあるベットに倒れ込み「家の中で妻が苦しんでいます。お願いします」と絞り上げるような声で訴え、吐き気に襲われながらタンやツバを吐きはじめた。その男の治療を中村隊員と窪田車長にまかせ、西尾隊長は家の門から玄関に走った。
「家の中に入ると、玄関の上がり框の所に男の子が待ち受けていました。ガスなどの匂いは全く感じませんでした」とある。さらに廊下の右側の居間に入ると「食卓とピアノの脇の通路のような所に、中年の女性が倒れていました。その女性は全く動かず、呼びかけにも答えない状態だったので、脈をとりましたが、すでに心拍停止状態でした」とある。
 サイレンの音で安眠を破られ、心配顔で遠巻きにする人々をふり切り、救急車は第一通報者の男性とその妻、長女と長男一家のうち四人を乗せて、十一時二十五分現場を出発し、五分後に駅の向こう側の協立病院に滑り込んだ。西尾隊長の要請を受けて、十一時四十分頃二名の警察官が河野宅に入った。
西尾隊長は、もう一人の中学生くらいの娘を河野宅に残してきたのが気になって、現場に戻っている。この時、救急車を取り囲んだ住民も、それぞれ家の中でサイレンを聞いた人々も、誰一人として数十分後の大パニックは予想もしていなかった。河野宅から約三十メートル、駐車場と道ひとつ隔てた家に住むIさんは
 「十一時ごろ、本を読んでいたら、何となく周囲が暗くなったように見えまして、開いていた南側の窓を閉めようと立ち上がった途端に、鼻水がたくさん出てきたので風邪かと思ったんです。臭い?いや全く感じませんでした。その後、救急車のサイレンの音がして止まって、再びサイレンの音とエンジン音がして、やがて音が遠ざかっていって、いつものように静かになったんです」と話している。
「風邪かな」と思うほど撒かれたサリンは無臭だったのである。
救急車が遠ざかった夜の町に再び静寂が戻ってきた。しかし、その後数十分後に大パニックが起きたのである。

地獄絵
 第一通報から約四十分後の十一時四十八分、河野氏の北西隣の開智ハイツ一階の会社員N氏から消防署に第二通報が入った。N氏は東京から特急あずさに乗って松本に帰り、家に九時四十分前後に戻ったという。その後、突然くしゃみが何回か出たり、視野が急に狭くなり電気が暗く見えたという。N氏は体調の異常を抱えたまま外に出て、河野氏宅に来た救急車の作業を見守っていた。部屋に戻った後、同じマンションの三階に住む先輩社員も同様の体の不調を訴えているのを知り、「体調がおかしい。ガスかどうか調べてほしい」と消防署に通報を入れた。
 午前零時五分、第三の通報が同時に二本入ってきた。いずれも女性で、「友達が苦しいといって、吐いて痙攣して、死にそうです」という訴え。もう一本は「胸が苦しい、何度も吐いている、もうだめ」という悲痛な叫びだった。通報は開智ハイツの隣の松本レックスハイツと、その南隣の住人からであった。
 警察の捜査隊と消防署の救急隊が現場に向かった。開智ハイツに向かった渚救急隊は四階、三階、二階にそれぞれ一人の死亡者を収容した。その後、明治生命寮三階で一人の死亡者を収容した。同じころ松本レックスハイツに到着した本郷署と庄内署の救急隊は三階で二人、二階で一人の死亡者を収容した。
 結果的には松本市内全域の救急車の全車が出動し、探索隊やレスキュー隊を含めれば合計五十一名の消防隊員と六台の救急車や消防車によって救出、搬送、治療が行われた。死亡者七名、重症者約二百名を出したこの事件は原因が何だったのかも分からずひとまず終わりを告げた。

サリンが検出された
 事件が起きてからわずか六日足らずの七月三日朝九時、松本警察捜査本部の浅岡一課長は定例会見を開いて「現場から採取したものの中から、『サリン』と推定される物質を検出しました」と発表した。調査したのは、長野県衛生公害研究所だったとある。これによると、河野氏宅の池や部屋の空気を持ち帰り、検査機械にかけたという。検査の機械は、ガスクロマトグラフ(ガスクロ)と質量分析器が用いられたとされている。
 但し、この検査には問題が多い。池の水や泥に含まれる成分は、加水分解されているのでサリンそのものではない。ガスの微量分析ではガスクロが有力である。しかし河野宅から採取された空気は翌日のものであり、サリンの濃度は極めて微量と推定される。また別の疑問の声も上がった(註2)。それはガスクロの原理にかかわるものである。ガスクロは活性物質を詰めた管(カラム)に被検査ガスを流すと、分子量の小さいガスは早く流れ大きいガスは遅れる性質を利用して分離分析をするのである。カラムを通り抜ける時間差が分かるだけでガスを特定することはできない。サリンを特定するためには、同じ条件でサリンを流し通り抜ける時間が同じであればサリンと判定されるのである。日本は科学兵器禁止条約によって、製造も保有も禁止されているのである。標準試薬としてのサリンをどこから手に入れたのであろうか。
 『東京新聞』一九九八年九月四日八面、オウム真理教第八十八回公判において、松本サリン事件で使われた毒ガスをサリンと断定したのは長野県警科学捜査研究室であったとして、その研究室の小林寛也研究員を証人として喚問した(註3)。弁護人は長野県衛生公害研究所が原因物質をサリンと特定した分析方法との関連を問いただした。これに対して小林は池の水に溶けた物質からサリンを確定したとして、「二十九日の遅く、午後十時か十一時にサリンを検出していた」と答えた。いかにもずさんな内容である。この後、小林はサリンを作ったと発言した。「サリンは化学兵器であるため、どこかにあっても入手の可能性はない」と米軍から出ていることを否定した。そして、犯罪をオウム真理教になすり付ける目的で市販品からサリンは簡単に作れると主張した。弁護人はあっけにとられ、証言の信憑性を確かめるため「サリンを作ったのは、試験管程度か」と尋ねたところ、「サリンを含む一連の溶液は一〇㏄もなかった」と答えたという。試薬として作ったとしても、わずかの量であれば化学兵器禁止条約に違反しないとでもいうのであろうか。

サリンとは如何なるものか
 猛毒化学兵器、神経ガスが開発されたのは、第二次世界大戦当時のドイツにおいてであった。最初に作られたのは、タブンである。このガスは一九三六年に殺虫剤の研究で生まれたものである。それから二年後の一九三八年にサリンが発見された。その後、一九四四年にソマンが作られるに至った。
 サリンは有機リン農薬と同様、五価の燐化合物ではあるが、弗素が付いているのが特徴である。このため容易に加水分解を受け、燐イオンが離れてしまい毒性が失われてしまう。常温では液体であるが、気化しやすい。
サリンの毒性は神経の情報伝達機構を阻害することにある。神経細胞内では、情報は電気インパルスで伝えられる。しかるに神経細胞と神経細胞との間の情報伝達は、アセチルコリンの授受という化学物質の媒介による。一個の電気信号が次の神経細胞に伝えられた後、アセチルコリンは神経細胞間にあるコリンエステラーゼという酵素が絶えず働いてアセチルコリンを消滅させる。これにより、次の電気インパルスが受け入れられるようにしている。サリンはこのコリンエステラーゼと結合して濃度が低下する。そのため次々に電気信号がくると、アセチルコリンが神経細胞間に溜まってしまい、電気信号インパルスが伝達されなくなってしまうのである。致死量は五十キログラムの人でもわずかに〇・五ミリグラムで、たったそれだけを吸引しただけで死に至るという猛毒物質なのである。
 毒ガスは第一次世界大戦に際して、初めてドイツで使われた。このときは塩素であった。戦後の一九二五年、国際連盟の提唱で毒ガス禁止条約が締結された。ドイツはこれに配慮して第二次世界大戦では開発したサリンなどを使用しなかったのである。ドイツが敗北したとき、サリンや製造法の一切は米軍に抑えられ、一方のタブンやソマンは旧ソ連軍が持ち帰り、それぞれに備蓄された。現在、アメリカには化学兵器としてのサリン砲弾が約三万トン貯蔵され、ロシアにも同量以上の化学兵器が備蓄されているという(註4)。
 この危険きわまりないサリンなど化学兵器が一時期沖縄に配備されていたことは、あまり知られていない。事実はこうである。
 一九六九年七月、米国の新聞『ウォールストリートジャーナル』が、「日本の米軍基地(沖縄、知花弾薬庫)で、神経ガスの容器からガス漏れ事故が起こり、約四十二名が病院に入院した」と報道した。アメリカは化学兵器禁止のジュネーブ協定に調印しているのに、この協定に違反した事態が明らかになったため、二年後の一九七一年、毒ガスを沖縄からハワイのジョンストン島に移送した。この移送に立ち会った日大農獣医学部教授和気朗氏は、地下倉庫に、サリンや、VXや、マスタードガスなど全体で一万三千トンといわれるガス弾があったという。この毒ガス移送計画で、米軍はすべてのガス弾を沖縄から撤去したのか疑わしいという疑問の声も上がっているが、実体は明らかにされていない。
 ところで、沖縄にサリンが貯蔵されていたのはベトナム戦争の時期で、こともあろうにベトナム戦争時にサリンが使われたとアメリカCNNが報道したのである。このことがあって米国防総省のスポークスマンが、ベトナム戦争当時、沖縄にサリンが貯蔵されていたことを認めたのである(註5)。 なお、この時のコザ暴動に代表される反米感情の盛り上がりに対して、当時のアメリカ高等弁務官は化学兵器の撤去を渋る一幕もあったという。

毒ガスは一時間前から発生していた
 今回の事件は死亡者は勿論、重軽症者の全員が約二百メートルの範囲内に集中しているのに、入院患者のうちに二名だけ遠く離れた住所の被害者がいたのである(註6)。 その一人、浜地氏は後で被害者が多数出た松本レックスハイツの真向かいにあるコーポ小林に住む友達の部屋に遊びに来ていたのである。帰り道、部屋から路上に出た途端に目がチカチカし、鼻水が出てきたという。河野氏と同じ症状である。但し河野氏と異なっている点は「僕、コーポ小林を九時か遅くても九時半に出ているんですよね」という証言があることである。これからみると、今まで毒ガスの発生時間とされて定説になっている十時四十分から十一時と、一時間以上前にガスを浴びたことになる。
一時間以上前にガスが発生したという事実に立てば、当然ガス発生場所の根拠も崩れてくる。松本測候所の記録によれば、河野氏が通報した十時四十分から十一時には南西の風が吹いていて、風向きが変わっていたのである。しかし一時間前には、北西の風は吹いていたが、南西の風は一度も吹いていない。この風の吹いている時間帯に、ガス発生源とされる河野宅の南側の池の北側で浜地氏は被害に遭っているのである。この被害に遭った場所から北東七十メートル先の民家のTさんは九時過ぎに、突然鼻水が出て胸が苦しくなったという。さらに、その道ひとつ隔てた南側の民家のSさんも同じ症状に襲われたという。
 これら複数の事実は、定説とされた発生時間(十時四十分から十一時)や発生場所(南側の池近く)の変更をせざるを得ない重大な証言である。

異臭がした
 サリンは無臭である。しかし「臭いがあった」という複数証言がある(註7)。例えば「十二時三十分ごろに外へ出たら、急に嫌な臭いがしてね、火事の臭いでもないし、都市ガスでもないし、スッパイような不思議な臭いがあったんですよ」(松本レックスハイツより北側民家Nさん)、「十二時三十分ごろに急に気持ちが悪くなり、トイレにかけ込んで吐きましたね。外ではサイレンの音やスピーカーで『眠らないで下さい』という声やらでね。それで外に出たんです。そしたら、その時ものすごく変な臭いがしておりましてね、私はあわてて家の中にもう一度入ってしまったんです。その臭いは何ともいいがたい、初めて嗅いだイヤな臭いでしたね。そう何か腐っているというか、コゲているというか」(裁判所寮の向かいKさん)、「何時ころだったか、救急車が何台も来たころに外に出ると、おかしな臭いがあったんですね。そうペンキの臭いに近いんだけれどペンキじゃなくて、揮発性というのかしら、とにかく臭いましたよ、間違いなく」(保育園裏のAさん)、「救急車の音で目がさめて、あわてて家を出たら、その途端にセルロイドの焼けたようなイヤな臭いが鼻をつきました」(松本レックスハイツ北側の民家のKさん)などと現場で臭いを感じた人々は数十人存在している。
 しかも臭いに関して、注目すべき証言は発生時間(十時四十分から十一時)よりも前に臭いがあったという発言があることである。「夜の十時過ぎにね、家に帰るときにとにかく今までに嗅いだことのないような、いやな臭いがあったんです。場所は家の前あたりで、その臭いを嗅いだらすぐに鼻水がドッと出てきてね。そりゃ、すごい量の鼻水だったです」(裁判所西側民家M氏)、「確か十時をちょっとまわったころでした。私はいつものように風呂屋の番台に座っておりましてね。男のお客さんが入って来られたんです。その人がガラス戸を開けて入ってきた時、とにかくひどい臭いがしたんです。その人も気になっていたみたいで、『何か変な臭いがこのへん一帯でしていませんか?』と聞かれましてね。私も『そうですね、臭いますね、変ですね』と話したんです」(河野氏宅北西、大衆浴場の女主人)
 この異臭を感じたと証言した人々には一つの共通点がある。それは発生現場とされる場所からかなり離れたところで臭いを嗅いでいるという現象である。つまり異臭があったと証言した人々は現場を中心に円を描くと、明らかに外円の位置にいることになる。中心ゾーンにいた人は全員臭いは全く感じていなかったと言っているのである。

サリンは噴射された
 サリンは常温で液体であるが、ガス状に気化したものは比重が空気より重く、地上を這うように漂って流れてゆく。しかるに今度の事件では、四階や三階の人々を殺傷できたのか、下の階の人々がなぜ症状が軽かったのか。実際に、第二通報者の開智ハイツに住むN氏は、窓を開けていたにかかわらず、一階にいたことで軽症で済んでいる。しかるに二階に住んでいたI氏は即死しており、M氏は重体なのである。初め河野氏が疑われたように、庭でサリンを発生させたのでは説明がつかない。
ここで事件当夜、白い煙を見たというY氏の証言がある。
 「僕が煙のようなものを見たのは、十時四十分頃。ベランダに乾かしておいた洗濯物を取り込もうと窓の方を見たとき、正面の暗闇に白い煙のようなものが東(河野氏宅側)から流れてきて、西(松本レックスハイツ側)の方に漂っていきました。その煙が何処から流れてきたのかは分りません。僕の部屋からだと河野さん宅の庭方向はベランダまで出ないと見えないし。とにかく、その煙はゆっくりと流れていきました」(註8)。 上層階ほど被害が大きいことについて、国際基督教大学準教授の田坂興亜氏の「今回の事件の犯人は、サリンガスを噴射したとは考えられませんか」といった示唆を受けて検討した結果、サリンを有機溶媒に溶かして噴射した可能性が高いと磯谷氏は結論に達した。サリン入りの有機溶媒は、ホースの向けられた建物の高層に直接達することができる。有機溶媒が揮発するにつれ、サリンは殺傷力を発揮する。臭いもこの有機溶媒のものである。サリンを有機溶媒に溶かしておけば、気化するのが阻害されるので、持ち運びもある程度安全になる。

サリンは複数箇所から撒かれた
 サリンは無臭である。河野氏宅に撒かれたものは無臭だったので、有機溶媒が混合されてはいなかったとみられる。それ故、噴射によるものとは考えにくい。空気より重いサリンは地面を這うようにして漂い、屋外で飼っていた犬は死に、立って歩いていた河野氏は軽症で済み、気分が悪いと横になった妻の澄子さんはより濃いガスを吸って重症になった(註9)。これらの事実から、発生場所が河野宅南側の池附近一カ所とする警察の捜査には疑問が生ずる。
 昭和大学薬学部教授黒岩幸雄氏は現地調査の上、サリンガス発生源は複数箇所からであると指摘した。理由の第一は時間関係である。黒岩氏は言う、「やっぱりおかしいですよ。サリンの発生時間が十一時ごろとしてもね、被害者の人々が本格的に騒ぎ始めるのが約一時間後の十二時五分の第三通報でしょう。いくら苦しかった、トイレを往復していたからといっても、河野さんの奥さんが倒れた時間から考えれば、一時間以上にもなる。一方、サリンガスは、シュミレーションでは、三分間で九十四メートルも移動してしまう」と(註10)。
 理由の第二は、木が枯れている現場が二ヵ所あることである。河野氏宅の池の畔にある雑草が枯れていたのであるが、木の梢が枯れていたのが目に留まって、「現場からの帰りぎわ、道を挟んだ駐車場の方の木も枯れていましたよね。あの光景がどうにも頭にこびりついていたんですよ。ことによると発生現場は一カ所という考えで固めてはいけないんじゃないかとね」と述べている。
 事件から二ヵ月たった九月二十二日、「テレビ朝日」は十二時からの放送で「定説への疑問」というサブタイトルをつけて、サリンの発生は「噴射式では」、「数カ所からの発生では」、「有機溶媒入りサリンではないか」などの内容の放送が行われた。
 この放送は大きな反響を呼び、事実後でも分かるように真実に迫る予見でもあった。しかし警察の態度はこれとは遠いものであった。
 
第一通報者河野義行氏が疑われる
 六月二十八日夜十時過ぎ、松本警察署で長野県警の浅野俊安捜査一課長が、河野氏への家宅捜索を行い、数点の薬品や今回の事件を関連づける品とおぼしき物を押収したと発表した。翌日の朝刊第一面は、朝日、毎日、読売各新聞ともこれを大きく報道し、原因は農薬の調合に失敗したためであると書いた。さらに『朝日新聞』のその日の夕刊には「押収した薬品はシアン化カリ(青酸カリ)など二十種類以上で、二十数個の薬瓶や容器に詰められ、納戸に保管してあったという。」薬品を専門家の鑑定にまわし、中毒症状との因果関係を調べている」とも報じられた。河野氏が入院中であるうえ、戸主の許可もなく捜査したのである。
 シアン化合物などの薬品のほとんどは、以前勤めていた京都の薬品販売会社の社長から譲り受けた物で、写真の現像液やメッキ液を作ろうと思って持っていたが、封も切らずに保管していたものであった(註11)。しかし青酸カリという猛毒の物質を保管していたという報道は河野氏がただ者ではないという印象を与え、河野犯人説を印象づける重大な動機になった。
 七月三日、捜査本部が原因物質をサリンと認定し青酸カリの疑いが晴れたにかかわらず、新たな攻撃が始まった。七月七日の『中日新聞』に、「捜査本部の調べでは」とあり、「第一通報者供述、妻と作業、煙上がる」などと述べられていた。供述もしていないのに供述したという嘘を述べていること、供述の内容が犯行を行なったことを臭わせる点で、犯人に仕立て上げる警察の手口を示したものである。

自白の強要
 河野氏はほぼ一ヵ月入院して、七月三十日朝退院した。退院早々、松本警察署で取り調べ器ポリグラフで検査を受けた。ウソを言っていないのにポリグラフが「ウソを言っていると反応した」と言われて押し問答することから調べが始まった。河野氏が見舞客に「薬品の調合を間違えた」と言っていると、身に覚えのないことを追求された。さらに「あなたは以前、ダイオキシンを三キロ入りで二袋、計六キロ買っている。これは何に使ったのか」と聞かれ、どこかで聞いたことのある名前だが何の関係か分からず「ダイオキシンとは何ですか」と問いただす一幕もあった(註12)。 体力も十分回復していない河野氏を、午後四時まで十時間も拘束し取り調べたのである。
 翌日も取り調べが続いた。前日の警部からダイオキシンはダイシストンの誤りであったと訂正が入った。猛毒のダイオキシンを園芸店でも売っている殺菌剤と間違えるのもいい加減な取り調べであるが、後でダイシストンはサリンの原料にはならないことも明らかになった。
 午後の調べではやくざ風の警部に代わって居丈高に驚くような台詞を口にした。
「お前が犯人だ!」、「正直に言ったらどうだ!」、「お前が犯人だ!」と。
 河野氏は言う。「刑事は僕の言うことを信じていないようであった。こちらの話を真面目に聞くという態度ではなく、初めから疑ってかかっていた。聴取が終わって、僕の言うことが通じない驚きと、汚名を着せられたような悔しさで一杯だった」と。

庭で毒ガスを発生させた 河野氏宅から押収された薬品類からサリンが作れないことが明らかになったにかかわらず、河野氏に対する疑いは容易に解けなかった。その理由は二つある。

 その一つはサリンが庭先で、しかも個人でも簡単に作れるという印象を多くの人々に与える宣伝として意図的に流布されたためである。サリンの製造には専門家集団によって特殊な設備を使って、しかも複雑な製造工程を経て作られるのである。富山医科薬科大学の小泉徹教授は製造過程で「水や空気が入らないような密閉された装置がいる」と言っている(註13)、 現に防衛庁には大宮に化学学校があり、毒ガス兵器を専門に研究していて、この辺の事情は十分に承知のことなのである。事件から三ヵ月過ぎてからも、長野県警科学捜査官は「現場でもサリン生成は十分可能」などと述べているのである(註14)。 庭先でサリンを発生させたというこうした論調は、後でオウム真理教という小集団がサリンを作ったという作り話を信じ込ませる下準備が、早くも松本サリン事件から開始されていたのである。
 第二の理由はより重大であるが、撒かれたサリンは何者により提供されたかを隠蔽するための目的を持ったものであることである。毒ガス兵器としての既成品なら、一体どこから提供されたかが問題になるのである。事実、河野犯人説が崩れかかったときにこれが問題になった。一つは自衛隊説であり、もう一つは外国産説、実際問題として米軍説であった。
 自衛隊については、もと自衛隊に在籍していたという国際政治評論家の小川和久氏は「大宮の化学学校で、サリンの研究はもちろんやっていますよ。しかし、それは世界中の文献を調べ、他国の軍隊がどういう装備を持っているかという研究でね。サリンの実物を自衛隊は持ってはいない。これは断言してもいいですよ。なぜかといえばね、毒ガスは最も非人道的兵器でしょう。所有していることですら他国から大変な批判の的になる。専守防衛を公言している自衛隊が密かに毒ガスを持っていたとなったら、アメリカが放っておかない。日本は袋だたきになりますよ」と断言する。一方、陸上自衛隊幕僚本部に「自衛隊の大宮にある化学学校に、サリンのアンプルがあるという話もあるんですが、取材できませんか」と尋ねたところ、「それはお断りします。憶測に対してコメントはできかねますので」との答が返ってきた(註15)。軍の機密事項ではあろうが、保有していなければ「答えられない」という回答はないはずである。自衛隊の化学学校は、小川氏の言うように化学兵器の対策を専門に研究している機関である。それならば製造方法、保管方法および対処方法などを調査し、サリンも幾ばくか保有していてもおかしくはないと考えられる。しかし、それは全く秘匿されているのである。
 アメリカは「包括的核禁止条約(CTBT)」や、「地雷禁止条約」に調印したが、批准はしていない。それなのに、他国には批准を強制している。後に述べるように「化学兵器禁止条約」についても、同様で自分では所有しているのに他国には日本を含め厳しく監視の目を光らせているのである。従って毒ガスの出所は米軍でしかないと結論されるのである。このことを隠蔽するためには、河野氏を犯人の疑いありとし続けることが必要だったのである。実際にも河野氏は述べている。「私に対する誤認捜査が年が明けても続くという誤りが、第二のサリン事件につながっているのではないかとさえ思う。実際、三月になっても、なお私の知人に聞き込みが入っている」と(註16)。
 公共放送のNHKや真実を報道すると称していた共産党の『赤旗』をはじめ各新聞社の河野氏に対する謝罪と報道の訂正は、地下鉄サリン事件が起きてから三ヵ月も過ぎた六月に入ってからであった。しかし警察は遺憾の意を表明していたが、あくまで謝罪を拒否した。地下鉄サリン事件が起きてから三カ月たってやっと松本サリン事件捜査本部が設置されたが、そのときの記者会見で、長野県警の町田巻雄刑事部長は「遺憾の意は謝罪ではない」と明言したのである。
 このような状況で、河野氏は警察業務の責任者である国家公安委員長の野中広務と面会することになった。野中は「人間として政治家として、心から申し訳なくお詫びしたい」と謝罪した。しかし、この発言の中で「警察の捜査内容については聞いていないので、とかく言える立場ではないが」などと責任逃れの発言とも聞こえる言辞を弄している。事実、オウム真理教弾圧当時の責任者として、その責任の追求が続けられなければならない。

謎の怪文書
 『宝島30』一九九五年六月号に「謎の怪文書」なるものの全文が公開された。(註17)これは松本サリン事件が発生した僅か三カ月後に、この事件にかかわったとみられる者による真相を暴露した文章である。当時在京のテレビ局、新聞社、大手出版社など十数社に送られてきたものであるが、なぜか一年近く隠蔽されていた。全文は一万五千字を超す長文のものであるが、以下に重要な点を抜粋する。
 「警察の当初の発表が、どうにも推測の幅を狭くしている。つまり、あの夜、故意にせよ偶然にせよ誰かがあの場でサリンを合成したとする根拠はどこにもないのである。発生点が、会社員(河野氏)宅の庭の向こう側、さらに駐車場のフェンスを越えた地点であることから、何者かが、その場にサリンを持ち込んだと考えた方が自然ではないだろうか」とある。
 ここで注目すべき点は二つある。一つは当時河野氏が真犯人と疑われ、庭先でサリンを発生させたとされていたことを早々と否定して、完成したサリンが持ち込まれたと述べている点である。第二はサリンの発生点が一ヵ所ではないという事実確認である。発生点が複数であることはすでに磯貝氏などの指摘で示されている。
「それならば、白いガスの正体が容易に想像できる。それは、常温では猛烈に気化する合成済みのサリンを運搬するために有機溶媒とドライアイスを利用する可能性があるからだ。有機溶媒は、単体では扱いにくい薬物に混ぜて使用される。常温では気化する割合の高い薬品や、激しい化学反応を起こす薬品の気化を遅らせ、扱いやすくするために混ぜる。」「それ(ドライアイスを使用する方法)は、ドライアイスをくり抜き、そこにサリンを充填し密封するというものだ。それを大型の真空容器(魔法瓶)に密封し、それを更にドライアイスを敷き詰めた大型容器に格納し運搬する。目的の場所に着いたら、慎重にサリン封入ドライアイスを取り出し、それを目的の場所に設置する。つまりドライアイスによる簡易式『時限爆弾』である」。
 この怪文書について、評論家の立花隆氏は推理をして問題点を三つ挙げている。
 第一は内容がオウム内部および当該事件を深く知る者でなければ到底書かないものである。第二は怪文書は公安警察ないしその関係者の手になるもので、松本サリンで会社員(河野氏)に容疑を集中していた刑事警察の捜査方針を軌道修正させる目的で流失させた。第三に公安警察が早くから宗教団体であるオウムに注目していた理由について、オウムではなくオウムに潜入していた赤軍関係者など超過激派を追跡していたのではないか、と推理している。そして、その人物として、元教団幹部だった早川紀代秀という個人名まであげている(註18)。立花氏の指摘はかなり本質を突いたものであろう。
 ドライアイス容器は気化すれば跡形もなく消え失せるので、証拠は残らない。河野氏は全く異臭を感じていないのである。松本サリン事件が起きてほどなく現れた『怪文書』と、それに書かれていたサリン入りドライアイスの指摘は衝撃的なものであった。しかし、あとに述べる裁判では臭いを感じなかったという現実は無視され、有機溶剤に混ぜたサリンが散布されたとして、新美智光および中川智正らは死刑の判決を言い渡されている。

むすび
 世界を支配する闇の支配権力の手先である黒い手の謀略集団は、オウム真理教弾圧を目的として松本サリン事件を引き起こしたと推定されるのだが、地下鉄サリン事件が起きるまでオウム真理教のオウムの言葉もなかったのが特長である。「庭先でサリンを発生させた」という宣伝は、サリンが簡単に作れると国民に思い込ませ、外国勢力から出たものであることを隠蔽し、後でオウム真理教が作ったとの宣伝に結びつけるものであった。事実地下鉄サリン事件が起きた後の裁判で、県警科学捜査研究室の小林寛也もサリンは簡単に作れると述べ、黒い手の犯罪を覆い隠している。
 噴射地点には裁判官宿舎がある。この地点が選ばれたのは、オウム真理教に反対する地元住民との民事裁判が行われていたことと関係する。判決は七月十九日と決定していた(註19)。その前の六月二十七日にサリンを、しかも地下鉄サリン事件まではオウム真理教の名前すら出てこなかったので、いわば覆面で散布するのは裁判に対して全く意味がない。それでサリン散布の動機は「サリンの効果の検証」という無理な理由づけになってしまったのである。但し散布地点は裁判官宿舎が選ばれたといえる。河野氏が最初から最後まで疑われたが、黒い手の犯罪者集団が河野氏の身元を調査していたか否かは明らかでない。河野氏が化学薬品を所有していたことと危険物取扱者、有機溶剤作業主任者といった資格を持っていたことは或いは調べがついていたのかも知れない。但し彼がクリスチャンであり、正義を貫く人物であったことは大誤算であった。彼は疑惑と闘った記録である『疑惑は晴れようとも』の著作の「あとがき」の中で、「現在、松本サリン事件はオウム真理教の組織的犯行の疑いが濃いと言われ、事件に関与したと思われる人達が逮捕され、起訴されている。ところが、この人達は、現段階では無罪が推定されているはずなのに、社会的には犯人と断定され、制裁まで加えられている。真相の解明はこれから進められるわけであるが、昨年の私の状況と実によく似ている」と述べている(註20)。河野夫人が植物人間にされた状況の下でも、このような見解を示しているのである。

  文献
  註1 磯貝陽悟『サリンが来た街』データハウス 10頁
  註2 磯貝前掲 62頁
  註3 『東京新聞』 一九九八年九月四日 八面
  註4 磯貝前掲 66頁
  註5 奥村徹『緊急招集』  一九九九年二月 河出書房新社 79
  註6 磯貝前掲 119頁
  註7 磯貝前掲 197頁
  註8 磯貝前掲 178頁
  註9 磯貝前掲 124頁
  註10 磯貝前掲 216頁
  註11 河野義行『疑惑は晴れようとも』一九九五年十一月 文芸春秋社 128頁
  註12 河野前掲 158頁
  註13 河野前掲 200頁
  註14 『読売新聞』一九九七年九月二十七日 朝刊特集
  註15 磯貝前掲 210頁
  註16 河野前掲 217頁
  註17  『宝島』30号 一九九五年六月号
  註18 立花隆『オウムとサリンの深い溝』一九九五年四日・十一日号 文芸春秋社 
  註19 佐木隆三『オウム法廷連続傍聴記2』 小学館 34頁
  註20 河野前掲 235頁

 

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