何者が毒ガスを提供したのか
題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335
第二章 熊本県波野村での騒動
坂本弁護士一家殺害事件では、すでに岡崎一明によって龍彦の埋められた場所の地図を警察が入手していたにかかわらず、事実を何年も隠蔽していたし、積極的な捜査も行われなかった。しかるに波野村では、オウム真理教が土地を入手する段階から警察の関与が行われた。国土利用計画法違反、森林法違反、果ては農地法違反の罪名が利用された。目的は家宅捜査の名目で、教団の内部情報、特に信者名などの収集にあった。もともと坂本弁護士一家殺害事件はオウム真理教を弾圧する目的の権力犯罪であったが、波野村の事件はオウム教団の進出を抑える目的と共に、権力犯罪をオウム教団になすり付ける下準備として行われたといえる。
同時に坂本弁護士一家殺害事件は、村民にオウム教団に対する不安感を増幅するのに最大限に利用された。
オウム教団の波野村進出の経過
波野村は阿蘇山の東山麓、大分県と境を接する過疎の村である。道場が建てられた約六万平方メートルの森林伐採地が売りに出されたのは、オウム教団が進出する前年一九八九年の夏であった。森林不況の最中で、再植林する経費を考えると、ただで土地をもらっても採算が採れないと断られる状況にあった。四月末、阿蘇郡内の不動産業者が下見に来た。二度目は九〇年五月七日の連休明けであったが、この時は一の宮警察署の警察官が付いてきていた。この翌日、森林組合長は警察から電話で「買い主がオウム教団である」と知らされた。民間の土地売買に警察が関与していたのである(註1)。
森林不況は深刻で、負債額は森林組合員一人平均で三百万円、億単位の負債を抱えている農家もあった。土地を売りに出した地権者に組合長が「得体の知れない教団」に売らないように説得が行われた。しかし地権者は「借金返済が迫っている。村で買って欲しい」と頼んだが、前例となっては困ると断られてしまった。当初教団は土地を購入する予定で、役場に土地売買届けがなされた。しかし地権者は借金の抵当に入っていた土地をオウム教団が借金を肩代わりすることになるのを承知で売買ではなく贈与の形を取ることにしたのである。本来ならば、地権者が土地を売り、それで借金を払い抵当権を解除した後に売れば警察の付け入る余地はなかったのであるが、土地の買い手が全くない条件では、地権者にとってやむを得ない措置だったのである。
県は、この「負担付きの贈与契約」は届け出前に結ばれたもので国土法による「無届け契約」に当たると難癖を付けてきたのである。その他、建物を建てるのは森林法違反であるとか農地法違反であるとか文句を付けてきた。実際には森林伐採後は原野として売買されていて、いずれも該当していないのである。
国土法は予防的な措置を規定したものであって、例え違反しても違反は個人または社会に対して実害をもたらす性質のものではなく、刑法では所謂形式犯であって、そもそも大騒ぎをするような性質のものではなかったのである。
信者の生活
熊本日々新聞社の記者は許可を得て教団施設を見学している。教団は道場全体を修行場としているが、内部では「修行棟」と「生活棟」とに呼び分けている。修行棟では約百人の信者が大広間に座禅の形で瞑想していた。信者の前にはベニヤ板が立てられ、そこに麻原教祖の写真や押し絵を書いた紙が張られている。暖房装置はなく、信者は下半身を毛布で包んでいた。
生活棟には、広間を囲むように炊事場、食堂、洗濯場、衣料整理所などがある。「オウム食」は菜食が原則で、主食は胚芽米。おかずは野菜やヒジキ、海苔、豆腐、納豆など。調理には塩や醤油を使わず、ほとんどど味がない。食事も「味への執着を絶つ修行」としているためである。希望すれば醤油も使えるが、使っている人は見なかった。お世辞にもうまいとはいえない食事であるが成人の健康食にはなる。当然酒もたばこも禁止である。「たまには美味しい物も食べたくないですか」と若い信者に尋ねたら「あのねえ、ここは修行の場。禅の坊さんがハンバーグだ、エビフライだと食べますか」と笑われた。
このような平和的な宗教活動を営む教団施設の追放運動が、村民をそそのかせて繰り広げられたのである。
最初に弾圧を煽動した警察
すでに五月七日の土地取引の段階で、一の宮警察署の警官が不動産会社の事務員を装って私的な土地取引に秘密裏に偵察活動を行なっていたのである。同日、村役場村長室で、一の宮警察署の田上防犯係長が、この土地取引はオウム真理教の土地取得であると村の岩瀬助役らに伝えた。同時にオウム真理教を中傷する週刊誌のコピーまでもその場で手渡し、しかも土地取引を阻止するように依頼したのである。このときの様子は岩瀬氏自身が村議会で明らかにしている。
その議事録によると、岩瀬氏は五月七日に「ある筋」の人物からオウム真理教が土地の取引をしようとしていることを聞かされた。そして同助役がオウム真理教について質問したところ、「知らんならちょっと言いますが、これが入ってくると大変なことになりますから」といった不安をあおるような返事をした。さらに、その人物は「(我々が)内々に情報を流して土地取引を止めさせることもできるが、それは行政の方でよろしくお願いします」と助役に依頼している。
このように警察が村行政を使って土地取引の当初から圧力をかけてきた事実が公の場で明らかにされている(註2)。
地元権力者による煽動
波野村はもともと「政争の村」であった。村長の楢木野惟幸は農民派であるが、反楢木野の商工会派と林業派が村を二分する戦いを行なってきた。過疎の村では人口の減少が続いているのであるが、この閉鎖社会では、外部からの住民の転入に対して過敏になっていたのであろう。
村長の従兄弟であり村の教育委員長である楢木野元一は、九〇年十一月十一日の「第三回波野村村民総決起集会」において、「このオウム真理教が本村に入ったということになりますと、オウム真理教の村長ができ、あるいは村会議員ができる。これでいいかどうかです。我々はさらに力を合わせ、このオウム真理教の退治まで、完全に退治するまで頑張らなければならないわけです」などと述べている(註3)。この発言は、新たな転入者によって現在の村の権力構造が崩れることを危惧していることをよく示している。
この教育委員長楢木野元一は、また教団反対を目的とした「波野村を守る会」の代表格であり、反対運動の中心人物でもあった。
「波野村を守る会」と「オウム真理教被害対策弁護団」
「波野村を守る会」は教団が土地を入手して一月もたたない六月十日に結成されたが、当時村民はオウム教団に何らの実害を受けてもおらず、教団について何たるかも知らない状況であった。会を発足させた楢木野元一は村長楢木野惟幸の村政を歪め、信者の「住民票不受理」のような憲法に違反する不当な行政を行わせた。
この「守る会」の教団に対する敵対行動は現代の「村八分」そのものであった。
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不売運動を組織した。砕石、生コン業者に圧力を加えたこと、また教団信
者に対して商品を売る店に対して「信者に売るなら火をつけるぞ」と電話
で圧力をかけた。これらの事実を『熊本日々新聞』は報じている。
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村民五十人が教団施設に至る林道に集まり、林道をパワーショベルで削り取って通行を妨害した。
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村民約六十人が出家信者を拉致し、精神病院に入れようとしたが医者に断られて事なきを得た。また交通整理をしていた信者が警官、村民に連れ去られる事件が起きた。
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パンフレットを配っていた信者に殴りかかり、二週間の安静を要する傷を負わせた。警察は犯人の捜査をしようとしなかった。
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村民と右翼約七十名が役場前に座り込み、出家修行者の転入届を実力で阻止した。
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熊本県福祉会館で教団福岡支部が予定していた集会が、「守る会」の圧力によって使用許可が取り消された。「守る会」の楢木野元一が電話で取り消しを迫り、熊本県社会福祉課の課長牛島浩からも会館に許可の取り消しを求める電話があった。
特に許せないのは八月五日、「守る会」主催の第二回村民総決起大会で、東京や神奈川から九州まではるばるやって来た「オウム被害者の会」や、「オウム被害対策弁護団」などの連中が、オウム真理教を誹謗中傷する発言を行い、またチラシを配布した。
もともと「被害者の会」は、共産党系の「横浜法律事務所」の偏見にとらわれた弁護士らの悪影響を受けた信者の親たちの集団である。この会の会長である永岡弘行は「麻原の辞書の中には謝るということと、更生するということと、自己反省するということの文字は本当にないんじゃないか」とか、「(拉致事件が)もしかしてこれから発生するかもしれない」とか、「子どもたちを救出するだけでなく、坂本弁護士さんを救出することも被害者の会の目的としました」などと述べている(註4)。
警察は坂本事件の真相究明を怠る一方で、これをオウム教団圧迫に最大限に利用したのである。
住民票転入拒否がもたらしたもの
波野村は憲法に定められた「居住の自由」を踏みにじり、教団信者の住民登録申請を受け付けなかった。この結果は信者に多くの困難をもたらした。
まず住民サービスが受けられないことであった。
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屎尿のくみ取りを、住民でないという理由で断られた。屎尿は法規上くみ取ったものを簡単に捨てるわけにもいかず、敷地内で乾かして燃やすなどの処理をしていたが、蝿が大量に発生する事態を引き起こした。また地下水を汚染し、井戸水に大腸菌が発生し、飲料水に困難を生じた。
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電気、水道も引くことができない。電話も携帯電話で、隣村にある事務所と話して連絡を取らなければならなかった。
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国民健康保険証を発行してもらえなかったために、高額医療費を負担しなければならなかった。
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燃えないゴミがたまっても、処理してくれない。敷地内に場所を作って置いてはいるが、日一日と増える一方で、先行きが不安になる。
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参政権の侵害。すべての選挙の投票権が奪われた。
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諸種の行政手続きができない。第一にパスポートが取れないのである。信者はチベットやインドでの修業の機会を奪われることになる。印鑑証明も取れない。これでは自動車の取得、廃車また名義変更もできない。国民年金も受け取れない。
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電気が引けないので、自家発電に頼らざるを得ないのだが、阿蘇広域行政組合は、オウム教団側から出されていた軽油貯蔵のための危険物貯蔵所設置の申請を不許可とした。
このような状態が続くと信者の生活にとって耐えられない事態が予想され
る。
教団はこのような不正常な状態を解消すべく裁判に訴えることになった。この判決は九一年八月八日、熊本地裁で行われたが、教団の訴えは棄却された。しかし、この判決理由は「市町村長の行政処分取り消しの訴えは、都道府県知事の審査請求を受けた後でなければならない」という形式的な内容で、訴え自体を門前払いにした恰好のものであった。敗訴した原告のうち、百一人は福岡高裁に上告した。熊本地裁でも、後で転入してきた信者の原告が残っていて裁判は継続された。判決は結局、教団信者と波野村の軋轢に何の解決の足しにもならなかった。判決直後は「勝利宣言」をした楢木野村長も、その後「住民票訴訟でも、問題は何ら解決していない」と語ったという。(註5)
住民票不受理の矛盾
波野村の議会は一枚岩ではなかった。村を二分した村長選挙の対立が後を引いていた。村議会は教団を批判して「公序良俗に反するがごとき新興宗教関係者を住民と認めない」とする「異例の議決」を下した。このとき議長を除く十一人の議員のうち、四人が賛成しなかった。賛成しなかった議員たちは、「反対だから、つまみ出せという理論は納得いかない」、また「行政を批判すると、お前もオウムかと言われる。そんな村のムードが自由な論争を困難にしている。苦戦は覚悟で、村の意識改革を訴えたい」と信念を強調している。
自治省は波野村に出す新年度の地方交付税の中に、道場の信者約四百七十人を人口増と認め、約一億二千万円を増額する方針を示した。これは前年行われた国勢調査が根拠となった。村幹部はこの事実を村民に知らせなかった。「信者の住民票を受理したら、村政がパンクする」という論拠が破綻しかねないからである。
熊本日々新聞社がこの事実を報道したとき、関係者は「だから、道場内の国勢調査に反対したんだ」と無茶なことを言いながら悔やんだ人もいたという。「使うしかないだろう」とも。年間十六億円しかない村へ、一億円の増収である。本来ならば喜ぶべき話なのに村幹部は苦渋に満ちてしまった。制度上、国への返却はできないという。楢木野村長は「使い道は今後の課題」と言ったきり、これ以上は無言のままであった。「サービスを拒否し続けて、将来、その損害を求められる事態になったら、誰がその費用を持つのか」といった不安を語る関係者も現れた。
人権尊重を求める市民の会
九〇年十一月、「人権尊重を求める市民の会」が結成され、信者の人権擁護運動が始められた。会代表は中島真一郎氏で、呼びかけ人八人の主張は明確である。「私たちはオウム真理教を信じてはいない。ただ、人権は信仰の有無や、好き嫌いで左右されていいものではない。それを要望するだけ」と述べている。中島氏は予備校の教師である。会員には熊本大学教授の鈴木明郎氏や、フィリピンなどの援助機関「対日アジア女性の問題を考える会」の事務局長をしているカトリック信者の女性もいる。
同年十月、熊本県警が国土利用計画法違反容疑などで教団を家宅捜索したのが会結成のきっかけとなった。「国土法の違反は、大捜索が必要な事件でしょうか。警察、行政、議会などが一体となってオウム真理教を解体に追いこんでいることは明らかだ」と中島氏は言う。
「住民票の不受理に象徴されるような人権無視にもかかわらず、これを黙認するように声を上げない弁護士会や市民団体はどうしたことか」と人権擁護団体にも批判の目を向ける。
中島氏らはオウム真理教徒の人権問題を考えるシンポジュウムを四回にわたり開こうとして、熊本県立劇場(鈴木健二館長)に会場使用を申請した。しかし、「集会に反対する右翼団体などによって混乱が予想される」との理由で断られた。これに対して、会は会場使用不許可処分の取り消しと損害賠償を求めて、劇場の管理責任者である県知事を相手に熊本地裁に提訴した。この裁判の三月二十三日の判決では「混乱が予想されるという立証は被告である知事側がすべきで、被告の理由を認めるに足りる証拠はない」と原告中島氏の勝訴となった。
これに対して知事側が控訴したが、九月九日の福岡高裁の判決では「既に開催予定日が過ぎ、訴えの利益がない」として敗訴した。中島氏は「行政側が裁判を引き延ばせば、開催予定日は必ず過ぎてしまう。これでは行政側の時間切れ必勝に決まっている」と司法に対する苛立ちを露わにしている(註6)。
むすび
九四年八月十二日、熊本地裁で波野村の住民票受理の拒否をめぐる裁判で、和解が成立した。村が九億二千万円を教団に支払い、教団は波野村から撤退することを約束した。もともと住民票不受理は「国民の居住と転居の自由」を定めた憲法に違反することなのであるが、村行政の不当なごり押しで、教団は退去を余儀なくされたのである。九〇年五月に教団が波野村に道場を計画してから、わずか五年のことであった。
既に坂本弁護士一家殺害事件が起きていたにもかかわらず、警察は表面的には目に見えた動きを示さなかったのに、波野村に教団が進出すると、土地取得の段階から活発に策動した。国土法違反容疑での何回かの教団の強制捜査もその目的は、国土法の調査ではなく、教団の信者名、信者数などの教団の実態調査であり、やがて行う大がかりな弾圧のための資料集めを目的としたものであったと考えられる。
共産党系の横浜弁護士会と、それとかかわる「オウム被害対策弁護団」が教団に敵対する宣伝を村民に積極的に行なった。例えば、この弁護士本庄正人は「オウムから言わせますと、自分たちこそ被害者なのであると公言しているわけです。私たちはそういうオウムの言い方を許してはなりません。向こうが法律を破るなら、こちらが法律を破ってでもということがありました。それだけ切実な問題であるということに対しては、私も同感したい気持ちでいっぱいでございます」と述べている(註7)。法律を守る立場の弁護士が公然と「法律を破ってでも」などと述べているとしたら恐るべきことである。
文献
註1 熊本日日新聞社編『オウム真理教とムラの論理』朝日新聞社一九九五年八月十五日84頁
註2 青山吉伸『真理の弁護士がんばるぞ PART2』一九九一年九月十五日 オウム出版 4
3頁
註3 青山前掲 249頁
註4 青山前掲
280頁
註5 熊本日日新聞社前掲 182頁
註6 熊本日日新聞社前掲 186頁
註7 青山前掲 275頁
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