徐々に春が近づく頃だった。その日、たくさんの雪が積もった。 あまりに雪が多く降ったため、交通事故が相つぎ、電車も止まってしまった。 その影響で陵桜学園など、あらゆるところで遅刻が相次いぐ様な、混沌とした朝だった。 それは泉こなたなど、ワザと遅くに家を出る人間が現れるほどだった。  そんな騒々しい一日もようやく終わり、日が落ちて、やれやれと皆が帰宅についている頃。 誰もいない公園を一組のカップルが独り占めにしていた。 夜になっても空にへばりついた雲は、都会の灯りを受けて全体が光っている。 それが月明かりと同じように、公園を照らし出した。 だから公園の雪は、闇のなかでも目立って白く、ぼんやりと見える。 二人にはそれがとても魅力的に思えた。 この公園は二人にとっては近所であり、とても慣れ親しんだ場所だった。 だから二人にとってはここが自分たちの場所であり、独り占めしたからと言って誰かに文句を言われる筋合いはない。 二人は公園に設置されたベンチに、積もった雪を払うと座った。 ロマンチックな、二人のための公園で、二人は愛を深めていった。  雪が再び降り出した時、公園にカップルの姿はなかった。 ただ、代わりに大きな雪だるまが一つ、木の陰で切なそうに、たたずんでいた。  前日の大雪のせいで庭には雪が未だに残っていた。 昨日の夕方以降にも降ったのか、その時に付けたはずの足跡が消えている。 普段見慣れている場所で、普段では見ることの出来ない光景を見ることは、なんとも、不思議な感覚がするものだ。 しかしみさおの場合は少し違う。 「あぁあ、今日の部活も雪かきからだなこりゃ……。」 あやのとの待ち合わせ場所に行く事は、小学校の頃から習慣付いていた事だった。 当然、今日もいつもと同じように待ち合わせ場所へと行く。 あやのがまだ来ていない。普段ならみさおよりも早く来て待っている。 珍しいことではあるが、長い付き合いの中では何度かあった事だった。 こういう時、みさおはあやのの家に迎えに行くことにしている。 だから今日もあやのの家を目指した。 こちらの道は、隣接の住人の雪かきで、随分と雪は減っていた。 そのお陰で昨日の朝に比べて、かなり楽に歩く事が出来た。  道沿いに歩いていると公園が見えてくる。 みさおも昔はこの公園でよく遊んでいて、とても思い出の多い場所だった。 あまり大きくはなく、近所の子供がたまに遊びに来るという程度だ。 ただ、今日に限っては雪遊びをしに、大勢の子供たちがやって来るだろうと、みさおは予想した。 誰もいない公園の筈だった。 なんとなく公園の中を覗いてみると、明らかな異変があった。 見慣れた色の布のようなもの。それは陵桜学園指定のコートだった。 はじめはコートが雪の上に敷いてあるのだと思った。ただそれは不自然な事である。 その場所へ駆け寄ってみると、何故そうなっているのか、それが何のかわかった。 つやつやした茶色い髪の毛を広げて、顔を雪に埋めて倒れているのは、間違いなくあやのだった。 「あやの!」 みさおはあやのの肩をつかんで、うつ伏せから仰向けの状態に体制を変えると、揺さぶりをかけた。 くぼんだ雪の跡は赤く染まっていた。あやのの額から血が流れている。 あやのの反応がない。意識がないようだ。 みさおは何をどうしたらいいのか直ぐにはわからなかった。 ただ、幸いにもパニックだけは起こさずにいた。 「誰かー、助けてくれよ!救急車を呼んでくれー!」 朝の静けさの中で、みさおのかん高い声が響き渡った。 数分後には近所の住民達数名が集まり、10分後には救急車が到着していた。 救急車に担ぎ込まれるあやのに、みさおが引率しようとした。 しかしその頃には、騒ぎを聞き付けたあやのの母親が駆け付けていた。 みさおの母親は、 あとは私に任せなさい、心配なのは分かるけどみさちゃんは学校へ行かないとダメよ、 と引率を拒絶した。 実際、あやのの母親の言うことは正論だった。 みさおが付いて行っても足手まといになるのは明らかで、それはみさお自身も理解していた。 あやのの母親は、ありがとうもう大丈夫よ、と言い残し、あやのと共に救急車で搬送されていった。 残されたみさおは、ただ呆然と救急車を見送った。 救急車のけたたましいサイレンの音が、辺りに響いていた。 後はボーッとしながら学校へ向かうだけだった。 ただ気がかりなのは、あやのの安否。 あやのは雪の積もった公園を歩いており、途中、何かにつま付いて転んだらしい。 いや、走っていたのかもしれない。 とにかく、雪で足元が見えなかったのだ。 そして運悪く、頭を石の段差に打ち付けた。その石とは、植木と広場をへだてるための柵だった。 どうしてあやのがそんな所へ行ったのか。みさおには検討が付かなかった。  みさおはその日の昼食をかがみと一緒にとっていた。 そこではみさおは、なんともぎこち無くかがみと会話をしていた。 普段はあやのが相手なのに、今日の相手はかがみだ。どうにも馴れない。 あやのの事は桜庭先生がクラスに伝えてある。 だからかがみにあやのの事を伝える必要はなく、今までその件について、みさおは一言も話さなかった。 「ねえ、日下部。詳しく教えてよ、峰岸の事。」 「……。うん。」 「きっと大丈夫だから。」 「大丈夫?さっき兄貴にメールしたんだ。まだ意識が戻らないんだって。重傷なんだって。 今は集中治療室にいて、医者がつきっきりなんだって。まだ大丈夫じゃないんだよ!あやのは。」 興奮したみさおの声は、嫌悪に響いた。 「わ、悪かったわよ……。学校が終わったら病院に行こ?」 「柊も付いて来てくれるのか?」 「当たり前よ!」 「ひいらぎいぃ……。」  その日、みさおは部活をサボった。そしてかがみと共に病院へ向かう。 その途中、グラウンドの雪かきに追われる仲間がみさおを睨んだが、本人は気にしてはいられなかった。  病院に着いた二人は受付係にあやのの病室を聞いた。 すでに集中治療室から、一般の病室に移されているらしい。 二人は聞いた番号の部屋を探し当て、ノックをし、そしてゆっくりと中へと入った。 「あやの!」 あやのはベットで眠っている。みさおは駆け出した。 部屋の中にはみさおの兄と、あやのの母親がいた。 みさおの兄は大学を休んでいた。 彼は大学を皆勤で通していたため、少し休んだ程度では単位に影響はない。 彼は、あやのは峠を越えた、言う。 しかし、これから目が覚めるかどうかはまだ分からない、あやの次第、とも言う。 みさおは落胆した。 部屋を移ったと受付係に聞いた時、あやのと話せるくらいはできるだろうと、期待していた。 しかしその期待は砕けた。 結局、何もする事は無く、二人は虚しく帰るだけだった。  かがみと別れたみさおは、今朝、あやのの倒れていた公園に寄り道をした。 あやのが倒れていたところには、すでに血液の跡は無かった。 まだあったらどうしよう、と思っていたが、白い雪を見て安心した。 あやのは何故、こんな公園にやって来たのか。そして何故、慌てて走ったのか。 その答えは直ぐにわかった。 大きな雪だるまが一つ、木の陰で切なそうに、たたずんでいた。 胴体から生える、木の枝で作られた腕の先に、あやのが普段使っていた手袋が付いていた。 みさおは、なるほどと思った。 何故なら雪だるまの首には、みさおの兄のマフラーが付いていたからだ。そして、頭が半分に割れていた。 みさおの兄が昨日の夜まで帰ってこなかった原因。 その時、あやのとみさおの兄がこの雪だるまを作っていた事。 そして今朝、あやのが雪だるまの頭を慌てて直そうとした事。 その三つの事柄を、この雪だるまが語っていた。 頭の割れた雪だるまは、頭を打ったあやのを連想させた。 みさおは慌てて雪を集めると、それを割れた頭に詰め込んだ。 それから、この雪だるまを作っているあやのの姿を思い浮かべながら、ギュッギュッと押し込んだ。 少々不恰好だが、これなら十分に雪だるまに見える。 しばらく雪だるまをながめていたみさおだが、さ、帰るかな、と区切りを付けて家路についた。  次の日の朝、みさおが学校へ行くため玄関を開くと、何かがあるのに気が付いた。 まだ雪の残る正面の門。 その門のすぐ下に、黄緑色をした小さくてコロコロした物が置いてあるのだ。 よく見てみると、それは蕗の薹(ふきのとう)であった。 しかしみさおは気にすることは無かった。 学校が終わり、今日もみさおは部活を休んで、かがみと共にあやのの病院へ行く。 「それでこなたったらさぁ、台風一過って何?て聞くのよ〜。」 「へぇ。」 「……。ねえ、日下部……。さっきからずっとその調子じゃない。」 「んあ?」 「なんて言うか、ちょっと顔が怖いわよ。」 昨日の事もあって、かがみは慎重にみさおに尋ねた。 「そんなことねえよ……。ただ、あやのが頑張ってるって言うのに、親友の私が笑ってたらいけないような気がしてさ……。」 「ん……。」 かがみは何を言えばいいのかわからなった。 みさおの言うことに全く気づかずに、今まで過ごしていた事を恥じた。 「別に、柊が気にする事じゃねえよ。私が一人で勝手にやってることだし。」 その日もあやのに変化は無かった……。 みさおの兄は今日も大学を休んでいる。 みさおも学校を休んででもあやのに付き添いたいと言ったが、兄とあやのの母が断固拒否した。 私たちがいるから大丈夫だと言い張るのだ。 みさおは不公平だと思ったが、それ以降の言及は避けた。  しばらくは、この様な日々が続いた。 その間、みさおは一切笑わなかった。それをかがみは不安に思っていた。 もしも、本当にもしもあやのに何かあったら、みさおは本当に笑わなくなってしまうのか、と。 かがみに出来ることは、ただ、みさおを励ますのみだった。 みさおは毎日公園に来ては、溶けていく雪だるまに雪を付けて、少しでも長持ちさせようと努力していた。 みさおにとって、この雪だるまはあやのの分身である。 だからこの雪だるまを守ることこそ、あやのにしてやれる唯一の努力だと思っていた。 しかし雪は日に日に減って行った。  その日の朝も蕗の薹が門に置かれていた。しかしみさおは特に何もしなかった。 門の脇には今までに置かれた蕗の薹がいくつも転がっていた。 これで六つ目になる。 誰が何の目的で置いていっているのかはわからない。しかし、毎朝必ずここに置かれているのだ。 それでもみさおは拾わない。 単なる子供の悪戯かもしれないし、どうしていいのかもわからなかったのだ。 一日一本ずつ増える蕗の薹。 初めの頃に置かれた蕗の薹など、少し茶色く変色し始めていた。 もう雪は無かった。 雪だるまは既に、元の大きさの三分の一程度しかなく、溶けきるのは時間の問題だった。 公園の雪だるまを一瞥すると、今日もみさおは一人、学校へ向かった。  その日は今までに無いくらいの快晴だった。気温は春を感じさせるほど高く、今年一番の暖かさだった。 皆はこの春日和を心から喜んだ。 それは柊つかさなど、社会の授業中でも熟睡できるほどだった。 しかしみさおにとっては、不安な日でしかなかった。 「ごめん、柊。私、早退するわっ!」 「はあ?ちょっと、待ちなさいよ!?」 みさおは昼休みに、思い切って学校を抜け出すことにした。 陸上部の足で駅に駆け込むみさお。幸いにも電車はすぐにプラットホームに滑り込んだ。 電車からバスに、みさおは順調に公園に近づいている。 そして公園に入った。 そこに、雪だるまは、無かった。 みさおは唖然とした。 水溜りに浸かった、びしょびしょに濡れた兄のマフラーとあやのの手袋が、そこに雪だるまがあった事を物語っていた。 みさおの携帯が震えている。着信だ。 しかしみさおはそれに出ようとは思わなかった。 誰からどんな用件かは知らないが、もし、これがあやののいる病院からだったらと思うと、怖くて仕方がなかった。 もう二度と笑うことは無いかもしれない、とみさおは自分でそう思った。 みさおは帰宅した。 「あら、今日は早いじゃない。何かあったの?」 「……。」 みさおは何も答えたくはないと思った。黙ったまま自分の部屋に入った。 「みさお?ちょっと、みさおー!」 そして布団の中に潜る。また携帯が震えだす。 その音が脅迫のように聞こえて、それがあまりに怖く、みさおは布団の中で震えていた。 音はピタリと止んだ。 しかしホッとしたのも束の間。今度は家の電話がけたたましく鳴りだす。 スリーコール目で、母親が電話に出た。 そして、自分の部屋に向かって母親の足音が近づいてくる。 みさおの震えはとまらない。もう、ダメだと思った。 「みさお?柊ちゃんから電話よ。」 その名前を聞くと黙って扉を開け、母親から電話を奪い取ると、乱暴に扉を閉めた。 「柊?」 「日下部?まったく何処に行ってんのよ!急に出て行くから、心配して追いかけたのよ。」 「みゅ〜、ごめん。」 「あんたが病院に行ったのかもって思って来てみたけど、いないんだもん。」 「病院にいるのか?あ、あやのは?あやのは大丈夫なのか!?」 「そうだったわ。そうよ、日下部。あやの、目が覚めたわよ。」 「目が覚めた!?本当か!?本当なのか!?」 「本当よ!今すぐ来なさいよ!」 「わ、分かった、直ぐに行く!」 みさおは病院まで自転車をとばした。 どうしても顔がにやける。みさおは久しぶりに笑ったと感じた。 よく晴れ渡った気持ちのいい天気。 少し前までこの天気を憎んでいたが、今では最高に気持ちがいい。 病院に自転車を停めると、開ききっていない自動ドアの隙間から強引に病院に入る。 エレベーターを待つ時間すら惜しい。みさおは階段を駆け上った。 「あやの!」 「みさちゃん?」 「やっと来たわね。」 かがみは久しぶりに笑顔のみさおを目撃した。 よかった。もう何も心配しなくてもいい。 かがみは心から安堵した。 「大丈夫なのか?」 「うん。ちょっとボーっとするんだけどね。」 「よかったー……。」 「みさちゃんが助けてくれたんでしょう?ありがとう。 お母さんが言ってたよ。みさちゃんが私を見つけてくれなきゃ、危なかったんだって。」 「みゅ〜。別に良いんだぜ〜。」 「そうだ……。あのね。私、夢を見たの。 とっても暗い所でね、みさちゃんや柊ちゃんや、あと、みさちゃんのお兄ちゃん達、いろんな人たちの声がするの。 みんな、私を必死で呼んでる。だけど、私には何処から聞こえてるのかわからなった。そこにね、雪だるまが現れたの。 あ、その雪だるまって言うのは、私が倒れる前の日に。」 「兄貴と一緒に作ったんだろ?」 「え?知ってたの?」 「まあな。でも今日、溶けちゃったけどな……。」 「そっか……。」 「どうしたんだよー。」 「雪だるまがね、私を案内するの。こっちだよって……。雪だるまは最初は頭が割れてたんだけど、いつの間にか直ってて……。 それからズーっと雪だるまに付いて行くと、白い穴が見えてきて。それで気が付くと目が覚めてたんだよ。」 「へえ。変な夢だな!」 あやのの精密検査をする必要があるとの事で、すぐにあやの以外の全員は部屋を出た。 みさおは泣いていた。 誰にも見られないトイレの中で、わんわんと。不安から開放された瞬間だった。 今まで我慢していたらしい。止まらなかった。  次の日、いつもの様に家を出る。 みさおは門の所に目をやった。七つ目の蕗の薹は置かれていなかった。 この蕗の薹が誰からの贈り物なのか、みさおはなんとなく分かっていた。 多分、もう蕗の薹が置かれることは無いだろう。 みさおはこの時初めて、蕗の薹を受け取ることにした。 「今日は天ぷらにするか。」 春の様に日差しの強い朝、みさおは元気良く学校へ向かった。