末法思想と極楽往生。
日目の『申状』から考える。
殊に天恩を蒙り、且つは一代説教の前後に任せ、且つは三時弘経の次第に准じて正像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請うの状。
元弘三年十一月 日 日目花押」
副えて進呈します。
一巻 立正安国論 先師日蓮聖人・文応元年の勘文
一通 先師日興上人の申状
一通 三時弘経次第
右の趣旨を謹んで述べれば、一代の説教とは独り釈尊が遺された教えです。その多くの経々を取捨選択するときは、あくまで仏意を根本としなければなりません。釈尊滅後の正像・末の三時に弘む経についても如来の告示があり、それらを人の力と思ってはなりません。
およそ仏法が伝来して今に至るまで、一万余りの寺院を建立し、仏の徳を賛嘆し、経典の講義は一向に衰えてはおりません。また、三千余りの神社を敬って、そこに神がおられると思って礼を尽くし、供物を捧げることを怠ったことはありません。しかしながら顕教・密教による護持の祈祷も叶わず、国土の災難は日が経つにつれて増長しています。大法や秘法の祈りも効き目がなく、自他の叛逆は年とともに盛んになるばかりです。これでは、神の御意がどこにあるのか測ることもできず、仏の御意がいずれにあるのかもわかりません。
非才の身でありながら少々経文を開いて考えてみるにつけ、仏の滅後、二千余年が経過し、その間に正法・像法・末法の三時に流通した教えのなかで、迦葉尊者・竜樹菩薩・天台大師・伝教大師が弘めずに残された秘法が3つあります。それこそが法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字です。今こそ、この三大秘法を信じ敬っていけば、世の中は正しく治まり、秩序を乱そうとする国内の反逆者を鎮めることができるのです。このことは仏の経典に明らかに説かれていることであり、天台大師等の解釈にも明白です。
就中、この日本国は神州、神により守護される国土です。神は非礼を受け入れません。また娑婆世界を含めた三界はみな仏国です。仏は謗法を諌めています。したがって、爾前迹門の謗法を退治するならば、仏も慶び、神も慶ばれます。法華本門の正法を立てるならば、人も栄え国も栄えるのです。願わくば、とくに天皇の恩を被り、諸宗の悪法を棄て、法華一乗の経典を崇め敬うならば、仏の金言には誤りはありません。つまり、国のいたる所で妙法蓮華経を唱えられ、玉体は健康に恵まれ、天子の政治が永遠に続いて、世の中も栄えます。
私日目は、先師の望みを遂げんがために、後日には天皇に奉上申し上げる次第です。
誠に恐れながら、謹んで申しあげます。
元弘3年11月 日 日目花押」
と以上のような文面です。
日目の天奏の際に、日興の『三時弘経次第』がきちんと添付されているのがわかるかと思います。したがって日興『三時弘経次第』は正しく正文書であると考えるのが自然でしょう。
そしてこれを読む限り、日興の思想と同様に日目もまた日本という国を「神州」と考えており、極端な祭政一致国家を理想としているのがわかります。つまり法華経を根本にした祭政一致国家の樹立、そしてその結果として神州日本が守られ、玉体(天皇の身体)は守られるという考え方が日蓮、日興、日目と継承されていることがよくわかるかと思います。
以前の記事「日蓮の思想を考えると」(https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/02/21/080309)でも書きましたが、大要以下のようにまとめて述べました。
1、日蓮は大前提として日本古来の神道を深く信奉しており、天照大神や八幡大菩薩の加護を深く信じていた。
2、日蓮は国家の奉じる宗教に法華経を用いるべしと考えており、かつて比叡山が国家権力と結びついたのと同様に、自身が国家に重用されて加持祈祷を行うべきだと考えていた。したがって「折伏」とは国家権力としての「賢王」が行う行為であり、僧侶となって法を弘持するのは僧である日蓮の役目となる。
久成釈迦仏と付属の弟子。
戒壇本尊に紙幅の原本は存在しない。
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて、このブログでは、大石寺・戒壇本尊が後世の偽作に過ぎないことを何度か検証しています。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/31/000248
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/06/060449
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/06/10/000000
「戒壇本尊の重さ」
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/07/11/000000
ところで、上記記事「戒壇本尊の重さ」で書いたように、戒壇本尊は楠木の丸太の表面を削って作られています。これ自体がすでに偽作であると私は考えているのですが、大石寺系教義に固執したい信徒の方々には「もともと紙幅の元の本尊があって、それを楠木に彫刻したのではないか」と希望的観測のように考える方もおられるようです。
結論から言えば、戒壇本尊の原本になったような紙幅の本尊は存在していません。そしてそのような紙幅本尊の原本の存在を、大石寺・日蓮正宗は公式な見解として否定しています。
なぜならそれらの議論はすでに明治12年の北山本門寺と上条大石寺の問答(両山問答、または霑志問答とも)で、すでに議論されているからです。
この両山問答の中で、北山本門寺の玉野日志は以下のような質問をしています。
「又其彫刻は現に久遠院弁妙・国学の友大堀有忠に(今猶存生)語ツて云ク大石寺に戒壇の本尊あり惜イかな九代日有師之を彫刻して其ノ本紙を失すと、有師板本尊を彫刻して癩病を感ぜりとは日興一派の伝説なり、」
(『両山問答』富士宗学要集7-44ページ)
これに対する大石寺52世の鈴木日霑の回答は以下のようになります。
「又其ノ彫尅は久遠院便妙・国学の友大堀有忠に語ツて云ハくとは死人に口なし能キ証人なり、彼ノ便妙なる者、吾ガ信者ならざる方外の友杯に妄りに法話をすべきの人にあらず、是レ必ず死して其ノ人の亡きを幸とし斯る胡乱なる証人を出し給ひし者か、若シ万が一彼の人にして此語あらば彼の人の殃死は必ズこの妄言出せし現報なるべし豈慎まざるべけんや。」
(『両山問答』富士宗学要集7-101ページ)
久遠院弁妙の友人である大友有忠が玉野日志に語ったところによれば、紙の戒壇本尊の「本紙」があって、大石寺9世日有がそれを板に彫刻した際に紛失したとされているのですが、鈴木日霑はこれらが「死人に口なし」であって「妄言」であると結論付けています。またこの発言が仮にあったとすれば、彼が亡くなったのは「妄言による現報」であるとさえ述べています。
蛇足ながら、日蓮が亡くなる時、池上邸にて奉掲した本尊は、弘安3年3月書写のいわゆる「臨滅度時本尊」です。現在この臨滅度時本尊は鎌倉妙本寺に存在します。また西山日代の『宰相阿闍梨御返事』で、日蓮入滅に際し、この臨滅度時本尊が掲げられたことが述べられています(日蓮宗宗学全書2-234ページ)。
もし日蓮が亡くなる時に、紙幅の戒壇本尊が仮に存在していたと仮定すると、なぜこの池上邸に戒壇本尊が懸けられなかったのかが不自然になります。加えて臨滅度時本尊は縦161.5cm、横102.7cmの大きな紙幅本尊です。表面の面積で言えば戒壇本尊よりも大きいことになります(戒壇本尊は縦143cm、横65cmです)。
大石寺26世堅樹日寛が「究竟中の究竟」とまで呼ぶ「戒壇本尊」が丸太以前に紙幅で先に存在したと仮定するなら、その「究竟中の究竟」の本尊をなぜ日蓮が入滅にあたって懸けなかったのか非常に不自然です。
以上のことからも、戒壇本尊は丸木で作られた後世の偽作であり、そしてその紙幅の原本が存在したということもあり得ないということです。『両山問答』からも明らかなように、大石寺・日蓮正宗自体が戒壇本尊の紙幅原本説をそもそも否定しているのですから。
歎異抄を読む
いつもみなさん、ありがとうございます。
私が最近、親鸞の著作を読んでいて、念仏思想に接近しているのは、このブログ読者の方なら多くがご存じのことかもしれません。
親鸞の『歎異抄』を読んでいて、最初に衝撃的だったのは、次のような一節に出会ったことです。
「をのをの十余ヶ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たち、おほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行をもよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふ歟。詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々。」
(金子大栄校注『歎異抄』、42~43ページ、岩波文庫、1931年)
文章を読んで、親鸞の弟子たちには「念仏は地獄の業である」とする説に戸惑う者も多かったことが推察できます。それはともかくとして、私が驚いたのは、「念仏が地獄の業であるか否か」と質問された親鸞の答えは「知らない」(存知せざるなり)と答えていることです。
親鸞の言葉には一切の虚飾がありません。弥陀の本願とは「いづれの行も及びがたき身」の私たちのために発起せらるるもので、そもそもの最初から親鸞は自身の見解とか解釈というものを持つことを放棄し、裸の人間として振る舞っているように私には思えます。
さらには「師の法然に騙されても構わない」とし「いかなる仏行もかなわない愚かなるおのれの身なれば、地獄は一定」「それであるならば、弥陀の本願を信じる」ということ。自分自身が仏道に適う身ではないとさらりと述べてしまうところが、親鸞らしいなあと感じてしまいます。
続いて次のような文章に出会いました。
「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ、そのゆへは、わがはからひにて、ひとにまふさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたり荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかえさんとまうすにや、かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと、云々。」
(同51ページ)
ここで親鸞は自身が師匠になることを否定しています。自分についてくるもよし、離れるもよし、そのどちらも認めています。他者に何かを教えようとか伝えようとかする私心が全くない。ただおのれはおのれの信じる道を進んで弥陀の本願にすがるだけとしているのです。
創価学会や大石寺系教団は、やたら師弟関係を強調します。創価学会なら池田大作氏が教義的に「永遠の師匠」となっていますし、大石寺だったら法主が「手続ぎの師匠」ですし、また所属寺院の住職も「手続ぎの師匠」の一分にあたります(『大百法』平成13年6月16日、教学用語解説他)。顕正会でしたら「無二の師匠」は浅井昭衛氏になるはずです。
しかしながら「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と述べています。親鸞にあっては信心は自分の力によって起こすものでもなく、また自分の力によって他者の信心を起こすことでもなかったのだと思います。つまり信心は如来の働きによって起こるもので、そして弥陀の本願の前で自分たちは単なる煩悩具足の凡夫に過ぎない、そのことを親鸞は徹底して自覚しているのでしょう。だからこそ彼は「自分は一人も弟子を持たない」と言い切り、自身も後進もまたともに仏道を学んでいく同朋であると考えているのだと思います。
「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころををさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転する苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこいひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へまいりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなましと、云々。」
(同54~55ページ)
弟子の唯円が「浄土を信じて念仏を唱えているけれど、歓喜の心も湧いて来ないし、浄土への思慕の思いも薄い。これはどうしたことか」と親鸞に尋ねると、なんと親鸞は「自分も同じだ」と答えます。喜ぶべきものを喜べないのは煩悩の所為であり、浄土への思慕がわかないのは現世への執着が残っているからだと彼は述べます。
そこにこそ煩悩具足の人間の現実がある。親鸞の言わんとしていることは「その現実を見ろ」「そのような愚かな自分であることを認めるべきだ」ということなんですね。だからこそこの節の末尾で親鸞は「歓喜の心もわいてきて、急いで浄土に行きたいなどという人が出たら、煩悩のない人なのかと怪しく思うべきだ」と述べてさえいます。
校注者の金子大栄はここの解説で以下のように述べています。
「念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。」
(同56ページ)
大石寺系教団の題目を唱えている人たちの多くが、一種のトランス状態のようになっているように私には思えてきます。
それに比して、親鸞の自身を見る眼差しこそ、今の私に必要なものだと改めて感じます。
私の言葉で言い換えれば、宗教の意義とは私たちを恍惚の境地に導くものなのではなく、剥き出しの自分の弱さと罪深さに覚醒することにあると言えるのではないでしょうか。
神社建立・本尊奉納は大石寺の本来の教義
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて前回の記事で、日蓮・日興も法華経を中心とした国家思想を考えていたこと、そしてその上で「法華垂迹天照大神宮」を建立し、本門寺建立の暁に本門寺垂迹神は天照大神になることを実質認めていたことを簡単に書きました。
以前の記事でも書いたことですが、このことは実は大石寺も認めていまして、日蓮正宗の公式な見解としては「広宣流布の時に至って神社を建立し、その中に曼荼羅本尊を懸け奉ることは本来のあるべき姿」であるということです。だからこそ日蓮正宗の公式な見解として沼津・東井出の浅間神社に大石寺33世日元書写本尊が奉納されている事実も認めています。平成18年の『慧妙』から引用してみましょう。
「沼津に数ある浅間神社のうち、日元上人の御本尊が御安置されている浅間神社のある一帯は『東井出』といい、代々大石寺の総代を務める井出家に連なる人の所領であった。しかも、目と鼻の先には、日蓮正宗の古刹の一つである蓮興寺がある。
蓮興寺は、承応元年(1652年)6月8日、総本山第20世・日典上人によって再興されているから、それ以前のことも考え合わせれば、再興から百年以上も下った日元上人の御代には、一帯全てが日蓮正宗に帰伏していた、といえよう。つまり、この時期、この一帯はすでに広宣流布されていた、と見てよいのである。
ところで日有上人は、『化儀抄』に、日興上人が重須に八幡の社を建立し、その中に御本尊を懸けられた、と記されている。(『富士宗学要集』第1巻157頁)
しかして日有上人は、その意義について、これは、広宣流布の暁には本門寺に八幡の社を建てるように、という手本の意味で建立されたものである、とされている。
つまり、広宣流布の時には、神社を建立し、その内に御本尊を祀ることは謗法ではないばかりか(むろん他の神体などと一緒に祀るわけではなく、あくまでも御本尊のみ)、むしろ、それがあるべき姿である、ということである。
現に、かつて広宣流布がなされた大石寺周辺には、大石寺の歴代上人の御本尊が祀られた社が複数あり、その中には、日有上人に係わる社や、日寛上人の御本尊が祀られている社もあるのである。そして、かつて創価学会は、これらを『正しい祭祀の伝統と誇りある先人の偉績』と評していたのである。」
(『慧妙』日蓮正宗、平成18年11月1日、下線はブログ筆者による)
一読して明らかなように、曼荼羅本尊は広宣流布の時に神社に奉納する姿が「あるべき姿」であると書かれています。しかも沼津・東井出という限られた地域だけの「広宣流布」の事態でも、神社への曼荼羅奉納は教義的に特に問題視されていなかったということです。
そして日興本人による『本門寺棟札』が、北山本門寺に現存しています。全文を紹介してみましょう。
「一、日蓮聖人御影堂
一、法華本門寺根源
永仁六年二月十五日造立也
(裏書)
国主被建此法之時三堂一時造営也
願主 白蓮阿闍梨日興 花押 二月十五日 日妙 花押 六十歳
大施主 地頭石川孫三郎源能忠 合力 小泉法華寺
大施主 南條七郎次郎平時光 仝 上野講衆中」
(日興「本門寺棟札」、日蓮正宗歴代法主全書1-88ページ、日蓮宗宗学全書2-111ページ)
一読しておわかりのように、確かに日興が「法華垂迹天照大神宮」を造立し、国主が日蓮の教えを用いる時、三堂は一時に造営すべき旨を述べ、きちんと名判まで付けてあります。
とすると日蓮から日興らが引き継いだ思想に明らかに神道が存在し、広宣流布の時の本門寺の垂迹神は天照大神になるという日興の考え方を、大石寺はきちんと踏襲していたことになろうかと思います。
つまり日蓮・日興にあっては、法華経を信じるものが天照大神を奉戴するのはむしろあるべき本来の正しい姿なのであって、法華経を信じるものが天照大神や八幡を拝むことはなんら禁止されたものではなかったということです。だからこそ昔からの根檀家とも言うべき伝統講、旧来からの大石寺信者さんの多くが普通に浅間神社を参拝していたのは謗法でも何でもない、普通の信仰だったということです。その信仰が昭和に入り、創価学会による狸祭り事件での小笠原慈聞の吊るし上げ等により、徐々に大石寺の教義が浸食を受け、創価学会寄りの教義に変わっていったというのが偽らざる実態なのではないかと私は考えています。
追記
実際、大石寺33世日元だけではなく、51世日英も浅間神社に曼荼羅本尊を奉納しています。以下の記事に画像を載せましたので参考までに。
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/09/031232
つまり33世日元にせよ、51世日英にせよ、これらの本尊奉納は大石寺の日興の教義から考えても、別段問題があるものではなく、むしろ本来の日興の思想としてふさわしいものとして当時は考えられていたということになるでしょう。そうでなければ大石寺の法主本人が神社に本尊を奉納するという事自体、筋が通らなくなるはずです。