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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

転重軽受について。








いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会大石寺の言う教義の中に「転重軽受」と言うものがあります。
これは、生まれる前の宿業が強く未来に苦しみを受けなければならないが、過去の業を軽く受けることができるという、涅槃経由来の教義になります。
この点は以前も少し書いたことがあるのですが、あえて日蓮の述作の『転軽軽受法門』(真蹟:中山法華経寺)から引用してみましょう。



「涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」
創価学会版御書全集1000ページ)



ところで、この教義なのですが、日蓮以前に主張されていた人がいます。それは浄土宗の法然です。法然の書簡に「鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書」というものがあり、そこから引用してみます。この「鎌倉二位の禅尼」とは北条政子のことです。



「宿業限り有て受くべからん病は、いかなるもろもろの仏神に祈るとも、其れに依るまじき事也。祈るに依て病も止み、命も延ることあらば、誰かは一人としてやみしぬる人あらん。況や又仏の御力は、念仏を信ずるものをば、転重軽受と云ひて、宿業限り有りて、重く受くべき病を、軽く受けさせ給ふ。況や非業を払ひ給はん事ましまさざらんや。されば念仏を信じる人は、縦ひ何なら病を受くれども、皆是宿業也。」
(浄土宗略抄「鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書」より)



この書簡は正治元年(1199年)以降に書かれたものとされています。日蓮の『転重軽受法門』は文永8年(1271年)ですから、「転重軽受」の教義を述べるのは法然日蓮より70年ほど先行しています。



加えて法然の述べる「転重軽受」は少し意味合いが創価学会大石寺系教団で述べられているものとは異なってきます。
上述の法然の書簡によれば、法然は前世の宿業による病を患った場合には、それを仏や神に祈って治すのは無意味であると考えています。仏は念仏を信じる者の病を軽くする力を持っており、宿業以外の病気にはかからないようになるのだそうです。



法然は自身が病を患った時には医師の診察を受け、灸や湿布をし、唐から調達した薬を飲んでいたと記録にあります。法然は自身の病の治病のために祈祷を行ったことはないのです。ただ他者から頼まれた時に祈祷を行っていたことはわかっています。



翻って、創価学会日蓮正宗の信徒たちが「転重軽受」を信じてお題目を唱える姿勢というのは……私も元活動家なので経験があるのですが、ほとんど加持祈祷というべきものです。
頭から湯気が出るほど題目を唱え、一心不乱に何時間も唱題し続ける感覚は、まさに祈祷であり、浄土真宗からみれば単なる「自力」に固執している姿に見えてきます。まあ退会して過去の自分の姿を客観的に見られるようになったがためにそのように自分も初めて言えるわけなのですが……。



法然親鸞の考える教えは、徹底した「他力」であり、「自力」の無意味さを知り、剥き出しの凡夫に過ぎない自身の愚かしさに気づくことにあります。だからこそ「転重軽受」も前世の宿業を受け止めることに本意があるのであって、無理矢理に呪術で治すようなことを意図したものではありません。




参考文献
小山聡子『浄土真宗とは何か』中公新書、2017年













末法思想と極楽往生。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私はかつて創価学会日蓮正宗の信徒であったものが、非活から退会を選び、現在は龍樹の『十住毘婆沙論』等から念仏思想に接近しています。



以前、源信の『往生要集』について、記事を書いたことがあります。



「念仏思想について」



源信は『往生要集』で極楽往生するために二つの念仏を分けています。それは観想念仏と称名念仏です。



観想念仏は心の中に仏や浄土を思い浮かべる念仏であり、称名念仏とは「南無阿弥陀仏」と口で唱える念仏のことです。
源信は平生に行う念仏は観想念仏を重んじましたが、臨終時には観想念仏はあまりに難しく、心を乱さずに正念で一心に念仏を唱えることで、阿弥陀仏の来迎があり、極楽往生できると考えていました。



したがって源信にあっては、臨終時の念仏が大切なのであり、ここから「臨終行儀」ということが時代の流行になっていきます。亡くなるその瞬間に心を乱しては阿弥陀仏の来迎がないかもしれない、だからこそ痛みや苦しみを克服し、安らかな心で服装を整えて念仏を唱えて臨終を迎えることが平安時代には流行していきます。源信は臨終行儀に当たって身を清める際に鼻毛まで抜いたと言われています。



天台宗の教義では釈迦の入滅後2000年後に「末法」が始まるとされています。多くの創価学会大石寺系信徒の方も「末法」の概念は、ご存知かと思いますが、末法は釈迦の教えが力を失うとされた時代です。そして終末思想、末法思想が流行した平安時代の貴族社会には、源信の『往生要集』が大きな影響を与えていきます。
例えば藤原道長は書家に『往生要集』を書写させていますし、臨終の20日前に沐浴をして念仏をしたと言われています。
10円玉の絵で有名な平等院鳳凰堂藤原道長の息子・頼通が建てたものです。また阿弥陀仏の来迎を演じる迎講は観衆に浄土への憧れと共に、極楽往生の様子を脳裏に焼き付けて観想念仏の助けとすることを本来目的としたものです。



それに対し、法然は臨終行儀を重んじることをしませんでした。法然源信の臨終行儀の念仏を否定し、日頃からの専修念仏があれば極楽往生は疑いないとしたのです。
法然の弟子である親鸞は、この法然の考え方を継承し、龍樹の易行道・難行道を「自力・他力」と展開していきます。



彼らの根底にあるのは、末法という時代に釈迦の教えが効力を失い、そもそも「難行道」である法華経等の教えは力を持たないし、それらを修行することもできない、だからこそ念仏によって極楽往生を遂げようというものです。背景にあるのは政情の不安等、終末思想、明日の命さえもわからない不安というものです。



日蓮は、承久の乱において後鳥羽上皇方が負けたことを「亡国の証」と捉え、法華経を中心にした比叡山の再興を謳い、効力を失ったとされる法華経をもう一度中心にした祭政一致国家を夢見るようになります。そもそも日蓮のアプローチはベクトルが全く異なっており、日蓮は救いというより、国家の奉ずる宗教の問題に入って立正安国の世界を求めていくのです。



承久の乱について」




法然日蓮も、どちらも「末法」という政情不安な時代に生きたパラダイムを共有していたのであって、その中でどのように生きるのかを模索した人であったということです。同時に法然親鸞日蓮も当時の「末法」という歴史のパラダイムからは離れることはできませんから、それについて現代に生きる私たちは、何が今の自分達に必要なことなのかを自分で考えて一定の答えを出す必要に迫られているのだと私は考えています。
そのような検証の試みを根本から否定し、完成された教義を装って偽り、借り物の教義を信じるだけの人たち、とりわけそのような創価学会大石寺系の信徒たちは、真の信仰者とは到底言えないと今の私は考えています。










日目の『申状』から考える。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて前回の記事は、何度となく引用している日興の『三時弘経次第』から考える内容でした。
ところで、この日興『三時弘経次第』に見られる極端な国家主義、また本門寺構想、そして垂迹神天照大神八幡大菩薩という考え方はその後の大石寺教義のルーツになります。



それが示されているのが、大石寺第3祖日目の『申状』です。
日目の『申状』の中には、きちんと天奏において日蓮の『立正安国論』や日興の『申状』とともに、この『三時弘経次第』も添えて提出されたことが記録されているからです。
全文を引用してみましょう。



日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す。

 殊に天恩を蒙り、且つは一代説教の前後に任せ、且つは三時弘経の次第に准じて正像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請うの状。

副進
 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年勘文
 一通 先師日興上人申状 元徳二年
 一通 三時弘経次第
右、謹んで案内を検えたるに、一代の説教は独り釈尊の遺訓なり、取捨宜しく仏意に任すベし。三時の弘経は則ち如来の告勅なり、進退全く人力に非ず。抑、一万余宇の寺塔を建立して、恒例の講経陵夷を致さず、三千余の社壇を崇めて如在の礼奠怠懈しむることなし。然りと雖も顕教密教の護持も叶わずして、国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も験なく、自他の反逆歳を逐うて強盛なり、神慮測られず仏意思い難し。倩(つらつら)微管を傾け聊か経文を披きたるに、仏滅後二千余年の間正像末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三つあり、所謂法華本門の本尊と戒壇妙法蓮華経の五字となり。之を信敬せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を鎮めん、此の条如来の金言分明なり、大師の解釈炳焉たり。就中我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず。三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を誡む。然れば則ち爾前迹門の謗法を退治せらるれば、仏も慶び神も慶ぶ。法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え国も栄えん。望み請う、殊に天恩を蒙り諸宗の悪法を棄捐せられ、一乗妙典を崇敬せらるれば、金言しかも愆(あやま)たず、妙法の唱え閻浮に絶えず、玉体恙(つつが)無くして宝祚の境ひ天地と疆(きわ)まり無けん。日目先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。誠惶誠恐謹んで言す。
元弘三年十一月 日  日目花押」
(日目『申状』日蓮正宗歴代法主全書1-211〜212ページ、真蹟:保田妙本寺蔵)



以下に通解を載せてみます。



日蓮聖人の弟子である日目が、謹しんで申し上げます。殊に天皇の恩をいただき、一方には釈尊一代の説法の爾前経と法華経の説法の前後にまかせ、他方には釈尊滅後の時代区分である正法・像法・末法という三時弘経の順序によって、正法・像法時代に弘まった爾前迹門の謗法を退治し、末法衆生が救われる妙法蓮華経の正法を崇められることを、心より望み奉る状を捧げます。

副えて進呈します。
 一巻 立正安国論 先師日蓮聖人・文応元年の勘文
 一通 先師日興上人の申状
 一通 三時弘経次第

右の趣旨を謹んで述べれば、一代の説教とは独り釈尊が遺された教えです。その多くの経々を取捨選択するときは、あくまで仏意を根本としなければなりません。釈尊滅後の正像・末の三時に弘む経についても如来の告示があり、それらを人の力と思ってはなりません。

およそ仏法が伝来して今に至るまで、一万余りの寺院を建立し、仏の徳を賛嘆し、経典の講義は一向に衰えてはおりません。また、三千余りの神社を敬って、そこに神がおられると思って礼を尽くし、供物を捧げることを怠ったことはありません。しかしながら顕教密教による護持の祈祷も叶わず、国土の災難は日が経つにつれて増長しています。大法や秘法の祈りも効き目がなく、自他の叛逆は年とともに盛んになるばかりです。これでは、神の御意がどこにあるのか測ることもできず、仏の御意がいずれにあるのかもわかりません。

非才の身でありながら少々経文を開いて考えてみるにつけ、仏の滅後、二千余年が経過し、その間に正法・像法・末法の三時に流通した教えのなかで、迦葉尊者・竜樹菩薩・天台大師・伝教大師が弘めずに残された秘法が3つあります。それこそが法華本門の本尊と戒壇妙法蓮華経の五字です。今こそ、この三大秘法を信じ敬っていけば、世の中は正しく治まり、秩序を乱そうとする国内の反逆者を鎮めることができるのです。このことは仏の経典に明らかに説かれていることであり、天台大師等の解釈にも明白です。

就中、この日本国は神州、神により守護される国土です。神は非礼を受け入れません。また娑婆世界を含めた三界はみな仏国です。仏は謗法を諌めています。したがって、爾前迹門の謗法を退治するならば、仏も慶び、神も慶ばれます。法華本門の正法を立てるならば、人も栄え国も栄えるのです。願わくば、とくに天皇の恩を被り、諸宗の悪法を棄て、法華一乗の経典を崇め敬うならば、仏の金言には誤りはありません。つまり、国のいたる所で妙法蓮華経を唱えられ、玉体は健康に恵まれ、天子の政治が永遠に続いて、世の中も栄えます。

私日目は、先師の望みを遂げんがために、後日には天皇に奉上申し上げる次第です。

誠に恐れながら、謹んで申しあげます。

 元弘3年11月 日  日目花押」




と以上のような文面です。

日目の天奏の際に、日興の『三時弘経次第』がきちんと添付されているのがわかるかと思います。したがって日興『三時弘経次第』は正しく正文書であると考えるのが自然でしょう。

そしてこれを読む限り、日興の思想と同様に日目もまた日本という国を「神州」と考えており、極端な祭政一致国家を理想としているのがわかります。つまり法華経を根本にした祭政一致国家の樹立、そしてその結果として神州日本が守られ、玉体(天皇の身体)は守られるという考え方が日蓮、日興、日目と継承されていることがよくわかるかと思います。




以前の記事「日蓮の思想を考えると」(https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/02/21/080309も書きましたが、大要以下のようにまとめて述べました。




1、日蓮は大前提として日本古来の神道を深く信奉しており、天照大神八幡大菩薩の加護を深く信じていた。


2日蓮は国家の奉じる宗教に法華経を用いるべしと考えており、かつて比叡山が国家権力と結びついたのと同様に、自身が国家に重用されて加持祈祷を行うべきだと考えていた。したがって「折伏」とは国家権力としての「賢王」が行う行為であり、僧侶となって法を弘持するのは僧である日蓮の役目となる。



つまり日目の思想にも、日興の『三時弘経次第』の内容はきちんと踏襲されており、日蓮や日興における天奏とは、本来この国体の護持と祭政一致国家の樹立という観点から為されたものであったということです。








久成釈迦仏と付属の弟子。

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いつもみなさん、ありがとうございます。


さて、冒頭画像に示したのは、大石寺開山、白蓮阿闍梨日興の『三時弘経次第』の本文画像です(日蓮正宗歴代法主全書1-43ページ)。



ここでは日興により、末法の本門寺構想が、迹門にあたる比叡山を手本にしていることが具体的に述べられていきます。



画像に赤くマークをしたところをよく見て頂ければわかるのですが、比叡山の本仏が「始成釈迦仏」なのに対し、末法における富士山本門寺の本仏は「久成釈迦仏」とされています。どこにも「日蓮本仏」とは書かれていません。
さらに加えて、その「久成釈迦仏」の付属の弟子は「上行菩薩 日蓮聖人」と書かれています。つまり広宣流布における末法本門寺の日蓮の立場は久成釈迦仏付属の弟子であるということです。これは保田妙本寺の万年救護本尊の讃文とほぼ一致します。



以前の記事でも書いたことですが、日興は『原殿御返事』の中で、仏像の造立について「それが始成釈迦仏ではなく四菩薩を伴う久成釈迦仏ならば構わない」旨を述べています。繰り返しになりますが、再掲してみましょう。



「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を、御用途も候はずに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は、責めて故聖人安置の仏にて候はばさも候なん。それも其の仏は上行等の脇士も無く、始成の仏にて候いき。其の上其れは大国阿闍梨取り奉り候いぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき。御力契い給わずんば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」
(『編年体 日蓮大聖人御書』1732〜1733ページ)



上記の概要を述べてみますと、



「日朗が日蓮滅後に一体仏の像を安置したのを見て、波木井の原氏もまた釈迦像を造立しようとした。」
「日興はこれに対し、一体仏の造立は始成の釈迦仏ゆえに不可とし、四菩薩を伴った仏像の造立ができるまでは、日蓮御筆の紙幅の曼荼羅を以って仏像の代わりにしてもなんら問題はないとした。」



ということになります。
つまり日興の思想はあくまで久遠実成の釈迦仏こそが末法本門寺における「本仏」なのであり、日蓮はその「付属の弟子 上行菩薩」に過ぎません。
日興の著作を丹念に読めば、どこにも日蓮本仏説を読み取ることはできません。そもそも菩薩とは「ボーディ・サットヴァ」の音写で「悟りを求める心を起こす者」です。如来と菩薩とではその位も異なります。菩薩が仏であるはずもなく、そもそも日興は日蓮を「久成釈迦仏の付属の弟子」と表現しています。
あくまで日興における末法本門寺の本仏は「久成釈迦仏」なのです。



さらに加えれば、その末法における本門寺の「垂迹神」もきちんと「天照大神 八幡大菩薩」と書かれています。
すなわち広宣流布の暁に、天照大神等が富士山本門寺垂迹神になることを日興本人が認めています。



大石寺系教義に染まってしまうと、そこから離れて思索することが不可能になる方が少なからずいらっしゃいます。それは今まで信じてきたものが全て崩壊してしまうからです。
しかしながら虚心坦懐に遺文や文献を読めば、後世に作られた虚偽の教学がわかってくるものです。それをまず認めること、自分たちの信じてきたものが全て間違いだったと認めるところから始めなければならないでしょう。
それができないのなら、教義の不整合を認めようとしない大石寺創価学会という教団側の姿勢となんら変わるところがないでしょうから。








戒壇本尊に紙幅の原本は存在しない。

 

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて、このブログでは、大石寺戒壇本尊が後世の偽作に過ぎないことを何度か検証しています。

 

 

「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/31/000248

 

「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/06/060449

 

「日興書写曼荼羅戒壇本尊との相違」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/06/10/000000

 

戒壇本尊の重さ」

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/07/11/000000

 

 

 

ところで、上記記事「戒壇本尊の重さ」で書いたように、戒壇本尊は楠木の丸太の表面を削って作られています。これ自体がすでに偽作であると私は考えているのですが、大石寺系教義に固執したい信徒の方々には「もともと紙幅の元の本尊があって、それを楠木に彫刻したのではないか」と希望的観測のように考える方もおられるようです。

 

 

 

結論から言えば、戒壇本尊の原本になったような紙幅の本尊は存在していません。そしてそのような紙幅本尊の原本の存在を、大石寺日蓮正宗は公式な見解として否定しています。

なぜならそれらの議論はすでに明治12年北山本門寺と上条大石寺の問答(両山問答、または霑志問答とも)で、すでに議論されているからです。

 

 

 

この両山問答の中で、北山本門寺の玉野日志は以下のような質問をしています。

 

 

 

「又其彫刻は現に久遠院弁妙・国学の友大堀有忠に(今猶存生)語ツて云ク大石寺戒壇の本尊あり惜イかな九代日有師之を彫刻して其ノ本紙を失すと、有師板本尊を彫刻して病を感ぜりとは日興一派の伝説なり、」

(『両山問答』富士宗学要集7-44ページ)

 

 

 

これに対する大石寺52世の鈴木日霑の回答は以下のようになります。

 

 

 

「又其ノ彫尅は久遠院便妙・国学の友大堀有忠に語ツて云ハくとは死人に口なし能キ証人なり、彼ノ便妙なる者、吾ガ信者ならざる方外の友杯に妄りに法話をすべきの人にあらず、是レ必ず死して其ノ人の亡きを幸とし斯る胡乱なる証人を出し給ひし者か、若シ万が一彼の人にして此語あらば彼の人の殃死は必ズこの妄言出せし現報なるべし豈慎まざるべけんや。」

(『両山問答』富士宗学要集7-101ページ)

 

 

 

久遠院弁妙の友人である大友有忠が玉野日志に語ったところによれば、紙の戒壇本尊の「本紙」があって、大石寺9世日有がそれを板に彫刻した際に紛失したとされているのですが、鈴木日霑はこれらが「死人に口なし」であって「妄言」であると結論付けています。またこの発言が仮にあったとすれば、彼が亡くなったのは「妄言による現報」であるとさえ述べています。

 

 

 

蛇足ながら、日蓮が亡くなる時、池上邸にて奉掲した本尊は、弘安3年3月書写のいわゆる「臨滅度時本尊」です。現在この臨滅度時本尊は鎌倉妙本寺に存在します。また西山日代の『宰相阿闍梨御返事』で、日蓮入滅に際し、この臨滅度時本尊が掲げられたことが述べられています(日蓮宗宗学全書2-234ページ)。

もし日蓮が亡くなる時に、紙幅の戒壇本尊が仮に存在していたと仮定すると、なぜこの池上邸に戒壇本尊が懸けられなかったのかが不自然になります。加えて臨滅度時本尊は縦161.5cm、横102.7cmの大きな紙幅本尊です。表面の面積で言えば戒壇本尊よりも大きいことになります(戒壇本尊は縦143cm、横65cmです)。

大石寺26世堅樹日寛が「究竟中の究竟」とまで呼ぶ「戒壇本尊」が丸太以前に紙幅で先に存在したと仮定するなら、その「究竟中の究竟」の本尊をなぜ日蓮が入滅にあたって懸けなかったのか非常に不自然です。

 

 

 

以上のことからも、戒壇本尊は丸木で作られた後世の偽作であり、そしてその紙幅の原本が存在したということもあり得ないということです。『両山問答』からも明らかなように、大石寺日蓮正宗自体が戒壇本尊の紙幅原本説をそもそも否定しているのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歎異抄を読む

 

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。

 

 

 

私が最近、親鸞の著作を読んでいて、念仏思想に接近しているのは、このブログ読者の方なら多くがご存じのことかもしれません。

親鸞の『歎異抄』を読んでいて、最初に衝撃的だったのは、次のような一節に出会ったことです。

 

 

 

「をのをの十余ヶ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たち、おほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行をもよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふ歟。詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々。」

(金子大栄校注『歎異抄』、42~43ページ、岩波文庫、1931年)

 

 

 

文章を読んで、親鸞の弟子たちには「念仏は地獄の業である」とする説に戸惑う者も多かったことが推察できます。それはともかくとして、私が驚いたのは、「念仏が地獄の業であるか否か」と質問された親鸞の答えは「知らない」(存知せざるなり)と答えていることです。

親鸞の言葉には一切の虚飾がありません。弥陀の本願とは「いづれの行も及びがたき身」の私たちのために発起せらるるもので、そもそもの最初から親鸞は自身の見解とか解釈というものを持つことを放棄し、裸の人間として振る舞っているように私には思えます。

さらには「師の法然に騙されても構わない」とし「いかなる仏行もかなわない愚かなるおのれの身なれば、地獄は一定」「それであるならば、弥陀の本願を信じる」ということ。自分自身が仏道に適う身ではないとさらりと述べてしまうところが、親鸞らしいなあと感じてしまいます。

 

 

 

続いて次のような文章に出会いました。

 

 

 

「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ、そのゆへは、わがはからひにて、ひとにまふさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたり荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかえさんとまうすにや、かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと、云々。」

(同51ページ)

 

 

 

ここで親鸞は自身が師匠になることを否定しています。自分についてくるもよし、離れるもよし、そのどちらも認めています。他者に何かを教えようとか伝えようとかする私心が全くない。ただおのれはおのれの信じる道を進んで弥陀の本願にすがるだけとしているのです。

創価学会大石寺系教団は、やたら師弟関係を強調します。創価学会なら池田大作氏が教義的に「永遠の師匠」となっていますし、大石寺だったら法主が「手続ぎの師匠」ですし、また所属寺院の住職も「手続ぎの師匠」の一分にあたります(『大百法』平成13年6月16日、教学用語解説他)。顕正会でしたら「無二の師匠」は浅井昭衛氏になるはずです。

しかしながら「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と述べています。親鸞にあっては信心は自分の力によって起こすものでもなく、また自分の力によって他者の信心を起こすことでもなかったのだと思います。つまり信心は如来の働きによって起こるもので、そして弥陀の本願の前で自分たちは単なる煩悩具足の凡夫に過ぎない、そのことを親鸞は徹底して自覚しているのでしょう。だからこそ彼は「自分は一人も弟子を持たない」と言い切り、自身も後進もまたともに仏道を学んでいく同朋であると考えているのだと思います。

 

 

 

「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころををさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転する苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこいひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へまいりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなましと、云々。」

(同54~55ページ)

 

 

 

弟子の唯円が「浄土を信じて念仏を唱えているけれど、歓喜の心も湧いて来ないし、浄土への思慕の思いも薄い。これはどうしたことか」と親鸞に尋ねると、なんと親鸞は「自分も同じだ」と答えます。喜ぶべきものを喜べないのは煩悩の所為であり、浄土への思慕がわかないのは現世への執着が残っているからだと彼は述べます。

そこにこそ煩悩具足の人間の現実がある。親鸞の言わんとしていることは「その現実を見ろ」「そのような愚かな自分であることを認めるべきだ」ということなんですね。だからこそこの節の末尾で親鸞は「歓喜の心もわいてきて、急いで浄土に行きたいなどという人が出たら、煩悩のない人なのかと怪しく思うべきだ」と述べてさえいます。

校注者の金子大栄はここの解説で以下のように述べています。

 

 

 

「念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。」

(同56ページ)

 

 

 

大石寺系教団の題目を唱えている人たちの多くが、一種のトランス状態のようになっているように私には思えてきます。

それに比して、親鸞の自身を見る眼差しこそ、今の私に必要なものだと改めて感じます。

私の言葉で言い換えれば、宗教の意義とは私たちを恍惚の境地に導くものなのではなく、剥き出しの自分の弱さと罪深さに覚醒することにあると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

神社建立・本尊奉納は大石寺の本来の教義

 

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて前回の記事で、日蓮・日興も法華経を中心とした国家思想を考えていたこと、そしてその上で「法華垂迹天照大神宮」を建立し、本門寺建立の暁に本門寺垂迹神天照大神になることを実質認めていたことを簡単に書きました。

 

 

 

以前の記事でも書いたことですが、このことは実は大石寺も認めていまして、日蓮正宗の公式な見解としては「広宣流布の時に至って神社を建立し、その中に曼荼羅本尊を懸け奉ることは本来のあるべき姿」であるということです。だからこそ日蓮正宗の公式な見解として沼津・東井出の浅間神社大石寺33世日元書写本尊が奉納されている事実も認めています。平成18年の『慧妙』から引用してみましょう。

 

 

 

「沼津に数ある浅間神社のうち、日元上人の御本尊が御安置されている浅間神社のある一帯は『東井出』といい、代々大石寺の総代を務める井出家に連なる人の所領であった。しかも、目と鼻の先には、日蓮正宗の古刹の一つである蓮興寺がある。

蓮興寺は、承応元年(1652年)6月8日、総本山第20世・日典上人によって再興されているから、それ以前のことも考え合わせれば、再興から百年以上も下った日元上人の御代には、一帯全てが日蓮正宗に帰伏していた、といえよう。つまり、この時期、この一帯はすでに広宣流布されていた、と見てよいのである。

ところで日有上人は、『化儀抄』に、日興上人が重須に八幡の社を建立し、その中に御本尊を懸けられた、と記されている。(『富士宗学要集』第1巻157頁)

しかして日有上人は、その意義について、これは、広宣流布の暁には本門寺に八幡の社を建てるように、という手本の意味で建立されたものである、とされている。

つまり、広宣流布の時には、神社を建立し、その内に御本尊を祀ることは謗法ではないばかりか(むろん他の神体などと一緒に祀るわけではなく、あくまでも御本尊のみ)、むしろ、それがあるべき姿である、ということである。

現に、かつて広宣流布がなされた大石寺周辺には、大石寺の歴代上人の御本尊が祀られた社が複数あり、その中には、日有上人に係わる社や、日寛上人の御本尊が祀られている社もあるのである。そして、かつて創価学会は、これらを『正しい祭祀の伝統と誇りある先人の偉績』と評していたのである。」

(『慧妙』日蓮正宗、平成18年11月1日、下線はブログ筆者による)

 

 

 

一読して明らかなように、曼荼羅本尊は広宣流布の時に神社に奉納する姿が「あるべき姿」であると書かれています。しかも沼津・東井出という限られた地域だけの「広宣流布」の事態でも、神社への曼荼羅奉納は教義的に特に問題視されていなかったということです。

 

 

 

そして日興本人による『本門寺棟札』が、北山本門寺に現存しています。全文を紹介してみましょう。

 

 

 

「一、日蓮聖人御影堂

一、法華垂迹天照大神

一、法華本門寺根源

 永仁六年二月十五日造立也

 

(裏書)

国主被建此法之時三堂一時造営也

願主 白蓮阿闍梨日興 花押   二月十五日 日妙 花押 六十歳

大施主 地頭石川孫三郎源能忠  合力 小泉法華寺

大施主 南條七郎次郎平時光   仝 上野講衆中」

(日興「本門寺棟札」、日蓮正宗歴代法主全書1-88ページ、日蓮宗宗学全書2-111ページ)

 

 

 

一読しておわかりのように、確かに日興が「法華垂迹天照大神宮」を造立し、国主が日蓮の教えを用いる時、三堂は一時に造営すべき旨を述べ、きちんと名判まで付けてあります。

 

 

 

とすると日蓮から日興らが引き継いだ思想に明らかに神道が存在し、広宣流布の時の本門寺の垂迹神天照大神になるという日興の考え方を、大石寺はきちんと踏襲していたことになろうかと思います。

つまり日蓮・日興にあっては、法華経を信じるものが天照大神を奉戴するのはむしろあるべき本来の正しい姿なのであって、法華経を信じるものが天照大神や八幡を拝むことはなんら禁止されたものではなかったということです。だからこそ昔からの根檀家とも言うべき伝統講、旧来からの大石寺信者さんの多くが普通に浅間神社を参拝していたのは謗法でも何でもない、普通の信仰だったということです。その信仰が昭和に入り、創価学会による狸祭り事件での小笠原慈聞の吊るし上げ等により、徐々に大石寺の教義が浸食を受け、創価学会寄りの教義に変わっていったというのが偽らざる実態なのではないかと私は考えています。

 

 

 

追記

実際、大石寺33世日元だけではなく、51世日英も浅間神社曼荼羅本尊を奉納しています。以下の記事に画像を載せましたので参考までに。

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/09/031232

つまり33世日元にせよ、51世日英にせよ、これらの本尊奉納は大石寺の日興の教義から考えても、別段問題があるものではなく、むしろ本来の日興の思想としてふさわしいものとして当時は考えられていたということになるでしょう。そうでなければ大石寺法主本人が神社に本尊を奉納するという事自体、筋が通らなくなるはずです。