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1Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/03(土) 07:56:34
エスペラント版ウィキペディアからエスペラント関連記事を
日本語に訳出していきましょう。

2Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/03(土) 10:49:19
Esperanto-movado
http://eo.wikipedia.org/wiki/Esperanto-movado
【エスペラント運動】
エスペラント運動は世界中にエスペラントを広める運動である。
それを広めようとする動機は多種多様である。ある者は世界平和を
望むから、またある者は単に全世界の人々とコミュニケーション
したいから、またある者は世界的規模で労働者の闘いを組織するために、
またある者は言語的平等のためにエスペラント運動をする。

エスペラント運動にはUEA,TEJO,SAT,ILEIのような世界的規模の団体や、ラウミス
モ(*原文はRaŭmismo)に着想を得たエスペラント国(*原文はla Esperanta Civito
Civito de Esperantio)のような他の組織が存在する。(*続く)

(*)は訳者註です。
間違いや不明な点はどしどし指摘訂正してください。また、続きを
他の人が訳してくださってもけっこうです。

3Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/03(土) 20:39:39
(*>>2に続く)
有用なエスペラント・サーヴィスはエスペラント文通サービスとパスポルタセル
ヴォ、世界的なエスペラントによる宿泊サーヴィスである。

エスペラント運動の周りには世界言語問題調査記録センター(CED)のような様ざまな
国際語学機関が存在する。

エスペラント運動には様ざまな目的の企業も存在する:
・出版社
・旅行代店: エスペラントトーゥル(*原文はEsperantotur)
・LF-koop(*原文のまま)
・Aspike 1997(*原文のまま)
(*本文訳完)
(*)は訳者註

4Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/03(土) 21:52:50
>>3で「出版社」と訳したEldonistojは固有名詞のようです。

5Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/04(日) 11:11:53
Desuprismo
http://eo.wikipedia.org/wiki/Desuprismo
【上から主義】
上から主義は、上からの活動によって、すなわち権力者の影響によって
成功に達しようとするエスペラント活動の手法である。

信念を持った一人の有力者は時には100人の一般人よりも成功のために多くをな
しえるーこれが上から主義のエセンスである。


・上から主義的活動の枠内でヨーロッパのエスペランティストは、EUでのなんら
かの方法でのエスペラント公用の可能性を探るために欧州議会における彼らの代表
と接触している。
・上から主義的活動の枠内で中国、クロアティア、リトアニアその他の国のエスペ
ランティストは国家の財政的支持を(たいていの場合、"人民外交"と"文化交流"を
支持するために)受けている。(*本文訳完)

6りょほう:2007/11/04(日) 11:49:51
>>5
Googleで、desuprismo,desubismo はあまりヒットしません。
日本語版に載せるのは見合わせたほうがいいと思います。

desuprismoを日本語に訳すなら、「上意下達主義」、または「トップダウン主義」の方がいいかと。

7Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/04(日) 11:53:19
Desubismo
http://eo.wikipedia.org/wiki/Desubismo
【下から主義】
下から主義は、下からの活動によって、すなわちエスペラント環境の固有の力によ
って一般人の間にエスペラントを広めて目的を達しようとするエスペラント活動の
手法である。


地域のエスペラントクラブが自前の会場で講習会を開くのはある意味で下から主義
的活動の実例である。講習会の結果エスペラント話者が増加するだろうーそうして
運動は強化されるだろう。
 
下から主義的活動は非常にいい結果をもたらしえる:国家が全面的にエスペラントに
対立していた特定の歴史的時期(たとえばスターリン死後のソ連)には下から主義的
活動だけが可能だった。(*本文訳完)

8Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/04(日) 20:48:58
>>6
desuprismo,desubismoの訳は「上からの運動」「下からの運動」が
いいでしょうね。

9Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/04(日) 20:52:13
Historio de Esperanto
http://eo.wikipedia.org/wiki/Historio_de_la_Esperanto-movado
【エスペラントの歴史】
エスペラントの歴史は言語兼運動であるエスペラントの様ざまな外見で満たされて
きた。
目次
1エスペラント史料編集
2歴史的鳥瞰
3最初期の構造("ロシア・フランス時代")1887=1903
4エスペラントの創立者期(または"国際時代")1903-1914
5組織論争とケルンの解決1920-1933/34
6禁止と第二次世界大戦
7冷戦の中のエスペラント1945-1989
8ベルリンの壁倒壊後のエスペラント(1989-)
9ここも見よ(*内部リンク)
10文学
11外部リンク
(*続く)
訳の続きを他の人がやってくださってもけっこうです。

10Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/05(月) 22:58:19
(*>>9から続く)
エスペラント史史料編纂

エスペラント史に関する著書(*内部リンク)を見よ

何がエスペラントの歴史であるかを定義することは難しい。各国の歴史はその国に
集中し、各団体の歴史はその団体に集中する。エスペラントの歴史は複数の外観を
持っている;
・言語史、すなわち言語自身の発生と発展;
・エスペラントを話す人々、すなわち言語共同体;
・エスペラントを支持し受け入れさせようとするエスペラント運動;
・諸組織
・言語共同体の文化生産
研究調査のために有用な著書はエスペラント百科辞典(*原文はEnciklopedio de E
speranto)とエスペラント展望(*原文はEsperanto en perspektivo)である。充分
に鳥瞰的な著書はあいかわらず少ない。正確には真のエスペラント史の教科書は存
在しない。(*続く)
(*)は訳者註。
続きを他の人が訳してくださってもけっこうです。

11Gardejo ◆GARDEJo6fA:2007/11/06(火) 04:25:55
Rakuさんの途中で失礼致します。

Masxintradukado
http://eo.wikipedia.org/wiki/Ma%C5%9Dintradukado

【機械翻訳】

 機械翻訳とは或る自然言語を他の自然言語へコンピュータを介して
翻訳する処理のことを指す。
 機械翻訳は情報科学、特に自然言語処理への挑戦に勝利を収めて
いないままである。
 こんにち、既に複数の翻訳システムが入手出来る。それらは
完全な実装ではないが、人手による翻訳を支援する用途として
多くの分野で用いられるに値する高い品質を備えている。
 機械翻訳のための有用な道具や、民族語へ翻訳する原文言語、
民族語間でテクストの翻訳を仲介する橋渡しとなる言語として、
エスペラントは度々思い付かれている。

 エスペラントを利用または処理している特徴を備えた企画としては、
DLT(分散言語翻訳システム)や、より最近ではUNIKOMがある。


目次

1. 機械翻訳史上の主な実装
2. 機械翻訳処理の概念図
3. 文の構文解析の例
4. 5言語の相互翻訳のために必要な翻訳プログラム数
5. 翻訳関数の数と言語数との関係
6. リンク集
7. 関連項目

12Gardejo ◆GARDEJo6fA:2007/11/06(火) 04:29:19
(*>>11から続く)

1. 機械翻訳史上の主な出来事

* 1933年:ロシアのスミルノフ=トロヤンスキーが翻訳機械の
 設計を企画したが、それは一度も開発されなかった。
* 1946年:アメリカのウォーレン=ウィーバーとD. ブースが、
 イギリスのR. H. リチェンズと共に、コンピュータによる
 自動翻訳システムの開発に実際に着手した。
 1951年、このグループにヨシュア=バル・ヒレルが合流した。
* 1952年:自動翻訳についての最初の国際会議が開催された。
* その後、イタリア・スウェーデン・スコットランド・中国・
 日本・イスラエル・メキシコ等に於いて、研究者の諸グループが
 自動翻訳を開発した。
* 1960年:当時の技術事情について述べられた『自動言語翻訳』が
 A. G. エッティンガーによって著された。
* 1962年:英語の書籍『機械翻訳の未来』が上記のバル・ヒレル
 によって刊行された。
* 1964年:アメリカに於いて米国学術研究会議と米国科学アカデミーが
 ALPAC【訳注:Automatic Language Processing Advisory Committee】
 という委員会を組織した。その任務は自動翻訳についての
 当時の研究結果を客観的に調査するものであった。
 【訳注:resultatojnはrezultatojnの誤記と思われるので原文修正済。】
* 1966年:ALPACが調査結果を公表した。残念ながら、
 満足のゆく自動翻訳の可能性について悲観的な結論である。
 しかし、失敗する見込みであるとの結論にもかかわらず、
 研究結果ではこのテーマによる調査が言語学と翻訳技術にとっては
 概して実に役立つものであるとも論評されており、
 成果は以下の分野へと展開された。
 - 翻訳結果の評価のための、より実用的な測定法。
 - 翻訳をより高速に行うための手段。
 - 訳文の品質についての基準。
 - 翻訳費用についての基準。
 - 翻訳についての統計。
 - 翻訳の遅延とその原因についての研究。
 - 翻訳家のための参照道具。
 - 自動翻訳の多少の効用。
【訳注:dikonigasはdiskonigasの、trdukartoはtradukartoの
 誤記と思われるので原文修正済。】

 これ以降、自動翻訳についての研究は下火になった。
 これは恐らく、ALPACによる冷や水を浴びせるような
調査結果の影響による。調査結果はこの分野の研究に対する
予算やその他の土台を縮小するものであった。
 とはいえ、その後には他の機関および営利企業が
改めてこの自動翻訳のためのシステムの開発という課題を担い、
進歩を達成しつつある。
 問題が複雑であるため、この研究はまだこれからも続くであろう。
【訳注:malentuaziasmigaはmalentuziasmaの誤記と
 思われるので原文修正済。】

(*続く)

13Gardejo ◆GARDEJo6fA:2007/11/06(火) 04:34:11
(*>>12から続く)

2. 機械翻訳処理の概念図

      “翻訳処理”
対象言語       目的言語
  \           /
解析 ┘   変換   ┐ 生成
    \───→/
      ・    ・
       ・  ・
         ・
     原語の内容(意味)

【訳注:transferoは英語transferの
 エスペラント化と思われる。transigadoが妥当。】


3. 文の構文解析の例

       F
      /   \
    /       \
  /         \
 SG           VG
 |         /||\
 |        /  ||  \
 |      /   ||   \
 |     /   /  |     \
 |   /   /   |      \
 S   V    SG   PG         A
 |  |   /\  /\        |
 |  | art  S  P  S        |
 |  |  |  | | |  ───┴───
Maria dornis la libron al petro hieraux matene

【訳注:hierauはhierauxの字上符付け忘れと思われる。】
【訳注:略語は以下の通りであると思われる。
 S: substantivo(名詞, 英N: noun)
 V: verbo(動詞, 英V: verb)
 art: artikoro(冠詞, 英det: determinizer)
  ※自然言語処理界隈ではarticleではなく
   限定詞をあてる理論が大勢
 P: prepozicio(前置詞, 英式ではprep: preposition)
 A: adverbo(副詞, 英式ではA: adverb)
  ※自然言語処理界隈では(AP (hieraux/A) (matene/A))と
   副詞二つでAP: adverb phrase = 副詞句が出来る
   とする理論が大勢
  SG: substantiva grupo(名詞句, 英NP: noun phrase)
  VG: verba grupo(動詞句, 英VP: verb phrase)
   ※「句」はvortgrupoと思われることから類推した
  F: frazo(文, 英S: sentence)


(*続く)

14Gardejo ◆GARDEJo6fA:2007/11/06(火) 04:41:54
(*>>13から続く)

4. 5言語の相互翻訳のために必要な翻訳プログラム数

 上側【訳注:原文では図が左右に掲示されているので左側】は
原文言語・対象言語の組に対して1本のプログラムを用意した場合である。
 下側【訳注:原文では右側】は(DLTでエスペラントを使ったように)
橋渡し言語を援用した場合であり、言語の組に対して(橋渡し言語を
数に入れないで)プログラムは2本のみで足りる。

      仏語
   /|  |\
西語─┼─┼─独語
 |\ |  |/|
 | ×   × |   プログラム20本
 ||  ×   ||
 ||/  \||
英語────日本語

     仏語
     |
西語─橋渡し言語─独語 プログラム10本
    / \
  英語   日本語


5. 翻訳関数の数と言語数との関係

 直接翻訳式と橋渡し言語式の比較。

  140├
     |                            ○
  120├
プ   |                         ○
ロ 100├
グ   |                      ○
ラ  80├
ム   |                    ○
数  60├
     |                 ○
   40├              ○
     |           ○
   20├        ○             ●  ●  ●
     ◎  ◎  ◎  ●  ●  ●  ●  ●
   0 └─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴
     2   3  4   5   6  7  8  9  10  11  12
             言語数
    凡例:●橋渡し言語式 ○直接翻訳式 【◎訳注:重なる点】


6. リンク集
 (略)

7. 関連項目
 (略)

(*以上、お粗末様でした)

15Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/07(水) 06:22:19
(*>>10から続く)
歴史的鳥瞰(*本文無し) 

最初期の構造("ロシア""フランス"時代)

新言語の最初の募集書は1887年7月にルドヴィック・ラザル・ザメンホフ(*原
文ではLudoviko Lazaro Zamenhof)がワルシャワで発行した『第一書』だった。事
実上は40ページの小冊子だけが問題だった。『第一書』その他の募集書をザメン
ホフは配布し、また雑誌に広告を掲載した。

新しいエスペランティストたちを結び合わせるために彼は住所録を出版した。18
89年の最初の住所録には既に100人が含まれていた。但し、その全員が必ずし
もエスペラントを(うまく)話したわけではない。とはいえこの控えめな数が示して
いるようにザメンホフは単にかれの事業を公開しただけではなくてその最終的勝利
を期待していたが、多大の金と時間を投じた。住所録は後に年鑑になった。

1888年末、ニュールンベルグ(ドイツ)のヴォラピュック会がエスペラントに移
った。ニュールンベルグ市民とともにザメンホフは『ラ・エスペランティスト』誌
を出版した。それは新言語のメンバーの最重要な紐帯となった。そして今ではこの
時期の重要な資料である。寄付のおかげで事業は継続できたが、1895年ロシア
の検閲は短期間この雑誌のロシアへの持込を禁じた。世界に定期刊行物を供給する
という任務はウプサラの若いスェーデン人が引き継いだ:『リングヴォ・インテル
ナツィーア』。

1894年に運動を去ったニュールンベルグの会の他に幾つかの個別的な会が例え
ばモスクワ、ぺテルグルグ、シャルケ(現在はゲルゼンキルヒェンの一部)に存在し
た。一般に運動の成長はゆっくりだった。

1898年、フランスのエスペランティスト、ルイ・ド・ボーフランがフランス語
協会(1903年に自ら事実上フランス語(*原文ではfranca)を称した)。そこには
非フランス語諸国のメンバーも入っていたが、機関紙L'espérantisteはほとんど
フランス語だけで書かれていた。宣伝家ド・ボーフランに人々は知識人例えばテオ
フィル・カールやカルロ・ブールレやイポリット・セベールの募集をも断定(*この
訳未定。原文はaljuĝas)している。
(*続く)

16Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/08(木) 20:52:46
(>>15から続く)
エスペラントの創立者期(または国際時代)1903ー1914

1903年ごろから第一次世界大戦まで多くの国別団体が創立された。例えば19
03年スイス、1906年ドイツ、1910年アメリカ。

この時代に世界大会の列も始まった。最初のやや大きいエスペランティストの国際
的出会いが1904年にフランスのカレー市とイギリスのドーバー市で行われた。
最初の世界エスペラント大会は1905年北フランスの海岸ブーローニュシュルメ
ールで行われた。

その大会で人々はとりわけ言語委員会とエスペラントの基礎をその言語の安定と発
展に奉仕するために受け入れた。

世界エスペラント協会は1908年に創立された(UEAの歴史を見よ)。始めの意図
にもかかわらずそれは各エスペラント活動を自己の傘のもとに引きつけることに成
功しなかった。一方、国別団体は自立的に連合を設立しようと試みたが、国際エス
ペラント協会連合(1913)は第一次世界大戦のせいで真の生命を得なかった。

特にエスペラントの発展を見たこの時期の確かな破壊は、1907/1908のイド
-危機とその後の数年だった。しかし、この新言語の事業に移ったエスペランティス
トは非常に限られた数にとどまった。

第一次世界大戦の間多くの活動が不可能で、さまざまの国のエスペランティストは
エスペラントを戦時宣伝に使ったり、赤十字の救急車を寄付したり、エスペラント
を捕虜その他の被収容者に教えたりするのがせいぜいだった。(*続く)

17:2007/11/09(金) 23:39:56
(>>16*から続く)
組織論争とケルンの解決1920-1933/34

戦後人々は共通の目的のためUEAと国別協会との調和に達しようと努めた。人々は
エスペラントのための国際的ロビー活動、宣伝、固有の運動抜きでの各国での教育、
エスペラントラジオ放送への注意喚起等々を欲し、そしてそのために組織と財政を
必要とした。

すでに国別協会のUEAへの一体化とともに共通の委員会とともに共通の解決の思想が
存在したにもかかわらず、ばらばらの諸機関を伴った組織が一時的に勝利した。19
22年UEAと国別協会はヘルシンキ協定に基づく協力に合意した。このヘルシン
キ・システムでは、一方のUEAともう一方の国別協会が共同で国際中央委員会を
選び資金拠出した。このICKは後に事務所と理事を持った(ロベルト・クレウツ)。

ヘルシンキ組織についての非合意のゆえに国別協会は新しい解決を探した。それ
らは新しい国際協会の創立という脅しをかけたので、UEAは妥協に同意せざるを
得なかった。1933年のケルンのUKで合意に署名し、それによって国別協会は
UEAに加入し、会費を払い、委員会にメンバーを送ることになった。ケルンの合
意は追々修正を経た上で現在のUEAにとっても基礎である。
(*続く)

18Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/09(金) 23:40:59
>>17はわたしです。名前を間違えました。

19Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/10(土) 22:30:20
Historio de Esperantoの訳の途中ですが、別の項目の訳を入れます。

Sektecaj trajtoj en la Esperanto-movado
http://eo.wikipedia.org/wiki/Sektecaj_trajtoj_en_la_Esperanto-movado

エスペラント運動の宗派的特色

エスペラント運動には宗派的特色が存在するか、または場合によってはこの運動は
宗派と呼ばれる得るかという質問はしばしばエスペラント運動の内外で提起される。
実際、時にはこの運動には宗派的と呼べる特色が観察されたし今も観察される。

目次
・1エスペラントの価値の過度の確信
・2個人崇拝
・3教義への引き込み
・4エスペラントについての否定的な情報に対する過度に断固とした闘い
・5運動を去る決心への軽蔑
・6総括

エスペラントの価値の過度の確信

すでにエスペラント賛歌がエスペラント(または、いっそうもっともらしくは、内的
理念)について;「永遠に戦う世界にそれは聖なる調和を約束する」と言っている。
それは運動にあたかも宗教のような性格を付与する。そのうえザメンホフは(ドイツ
国家をモデルにして)「われらの言語エスペラントは世界のすべてのものの上にある
」という語句で始まる詩を書いた。
(*続く)

20Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/11(日) 12:53:29
(*>>19から続く)
個人崇拝

運動の創立者への過度の尊敬の例はヤン・ヘンドリック・ヴィンク編『エスペラント歌集』の中のNella Boonの歌である。1930年ごろの作のその第一節は以下のとおりである:

ザメンホフ賛歌
我らの心の喜ばしく鳴り響き
われらの胸のの音高く脈打つのは
我らの栄光の師ザメンホフのためだ
歌い始めよう一節を
われらの名高きザメンホフのために
讃えよ誉めよ賞せよ
魂がわれらの身を去るまで
(*続く)

21Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/11(日) 13:28:25
>>20の詩の誤訳を訂正します
ザメンホフ賛歌
我らのコーラスの喜ばしく鳴り響き
われらの胸の音高く脈打つのは
我らの栄光の師ザメンホフのためだ
歌い始めよう一節を
われらの名高きザメンホフのために
讃えよ誉めよ賞せよ
魂がわれらの身を去るまで

22Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/13(火) 21:12:32
(*21から続く)
教義への引き込み

ときにエスペランティストは、エスペラントを教え、それの適用について情報提供
するだけでは不十分で学習者を教義へ引き込むことがぜひ必要だと協調する。

エスペラントについて否定的な情報に対する過度に断固とした闘い

ときにエスペランティストはエスペラントについての否定的な情報や経験の公表と
厳しく闘う。1994年にスイスの新聞"ノイエ・チューリッヒャー・タイトゥン
グ"に「エスペラントの死亡記事」というタイトルの記事が掲載されたとき、同紙は
少し後でエスペランティストからの読者の手紙を公表した。その手紙ではエスペラ
ントについての的外れな情報提供が"lingvocido(*手紙筆者の造語であろう)"、し
たがってホロコーストと比べられる"genocido(*=ジェノサイド)"への一歩と名づ
けられていた。
(*続く)

23Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/14(水) 22:18:16
(>>22から*続く)

運動を去る決心への軽蔑

時にエスペランティストは運動の仲間を特に誉め上げ、運動を去った者を特に貶し
て語ることがある。

総括

Frostavallen(*原文のまま。スウェーデンの地名)諸原則によればエスペラント運
動"の宗派的特徴"は"星印と旗の過剰、時と場所にそぐわない賛歌その他の歌の歌
唱、大会その他の会合での服装の異様さ等々"に現れている。

宗派的特色は主にエスペラントの歴史に関係している。最近の数十年で幾つかの特
色は(たとえば星印を持っての"巨匠"礼賛)減少し、同時に運動はあらゆる種類の討
論に開かれたものとなってきた。その一例は非常に批判的なツィコ・ファン・ディ
ーコの著書『神話抜きのエスペラント』(1999、2003)である。

「ある程度の宗派性は運動の発展に役立つ。なぜならエスペラントに決定的に好意
的な環境の中でこそ最も容易にいっそうのエスペラント活動へのエネルギーを引き
出せるから」という議論は可能である。
他方では、外部世界で宗派としてのエスペラントの画像が存在するようになれば、
それはエスペラント運動のいっそうの成功の重大な妨げとなる。
(*本文訳完。日本語の「カルト」にあたる言葉はエスペラントではsektoである。
sektecaを「カルト的」と訳したかったが、同じテキストの中にpersonkultoという
言葉があるので、敢えて宗派的と訳した。)

24papageno:2007/11/15(木) 00:29:52
割り込んで申し訳ないですが、「服装の異様さ」って、どんなかっこうしているんですか? 私は大会などというものに行ったことがないので知らないんですが。

25胡人:2007/11/15(木) 07:17:38
当時の詳細は分りませんが、たぶん欧州の文化を敢えて無視する格好:例えば、正式な場所にもかかわらず、季節感の無い緑色中心の普段着(上着、ネクタイを着用しない)がほとんどだったのではないでしょうか?

現在は少しは緩和されていますが、それでも、会場で緑色Tシャツ等は多々見られます。まぁ現在の日本的感覚で言えば違和感無く見れない事もありません。大変カジュアルな服装という部類です。間違っても公共団体への表敬訪問等は出来ません!
初めて日本大会に参加した時、開会式等での壇上の役員たちのラフな格好には驚いたのが正直な感想です。何時もはカジュアルな格好中心の私でさえスーツを着ていったのに場違いな感じがしました。

26papageno:2007/11/15(木) 20:59:03
なるほど、そういう事でしたか。ありがとうございました。

27Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/11/15(木) 21:17:31
とりあえず、布教ビデオでも見てマターリ汁。
http://jp.youtube.com/watch?v=bPcm_8PwuZ8

他の面白映像は以下ので適当に探してください。
http://jp.youtube.com/results?search_query=esperanto

28Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/16(金) 21:43:34
(>>17から続く)
禁止と第二次世界大戦

労働者エスペラント運動に対する妨害は以前に存在した。1930年代にはドイツ
とポルトガルで中立的エスペラント協会も禁止されるに到った。ソ連でもエスペラ
ンティストはもはや組織を持てなくなった。第二次世界大戦は特に1940-194
4の間に運動に更に打撃となった。中立国や非交戦国でも戦争は例えば若い男が召
集されるという帰結を持った。

冷戦の中のエスペラント1945-1989

戦後の短期間だけ東ヨーロッパのエスペランティストは国別の運動を再組織する権
利を持った。すでに1949年、共産主義独裁が強固に確立したときそれらの国別
の運動の多くは活動を停止しなければならなかった。1953年のスターリン死後
にやっと状況は改善されたが、一つ一つの国では国別協会の再結成は長い年月の後
に許可された。それらの諸国の協会がUEAに加入することができるまでには充分長い
年が経過した。例えばソ連はやっと1989。

東ヨーロッパの協会の復帰(1955年ごろまたはその後)の後、運動は東でも西で
も支持を持った。人々は骨を折って可能な限り共同し共産主義独裁における問題に
もかかわらず関係を持った。たとえば、世界大会は何回か共産主義国で開催された。最初のケースは1953年ユーゴスラヴィアのザグレブだった。ソ連圏で開かれた最初のUKは1959年のワルシャワ大会だった。その後ほぼ4回毎にUKは東ヨーロッパの国で行われた。

この時期に中国でも南半球でもエスペラントは強化された。それは1970年代に
例えば複数の南米諸国の協会のUEA加入に見られた。1981年には南半球すなわち
ブラジリアで初めてUKが開かれた。

技術の発展はオーディオディスクの製造を低コストにしたのでエスペラント音楽を
利した。1970年代にコンパクトディスク(オーディオカセット)が出現し、19
80年代にはコンパクトディスク(光デイスク)が出現した。

ベルリンの壁倒壊後のエスペラント(1989-)

1990年代初めに東ヨーロッパが共産主義から解放されたことは東ヨーロッパの
エスペラント協会にとって新しい時代を意味した。そのときからそれらはもはや国
家に資金援助されたプロパガンダの道具ではなく自由な市民の協会となった。

インターネットが一般大衆の通信手段として立ち上がり、エスペラント共同体を利
した。エスペラントの通信と広報のかなりの部分がインターネットでだけ行われて
いる。2007年ポーララジオは地上波のエスペラント放送を終えてインターネッ
トに移行した。
(*本文訳完)

29Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/18(日) 20:12:48
Universala Esperanto-Asocio
http://eo.wikipedia.org/wiki/UEA

【世界エスペラント協会】
世界エスペラント協会(UEA)はエスペラント話者の最大の国際団体で、117ケ国(200
7年年鑑)に会員を有し、国際連合およびユネスコとの公的関係を持っている。およ
そ6000人の個人会員に加えて67の国別エスペラント協会がUEAに加入しており、総
会員数は約12,000人である。UEAの現会長はプロバル・ダシュグプタ、任期2007-2
010。

目次
1構造
  1,1事務所
  1,2青年フラクション
  1,3活動
2対外関係 
3歴史
4会員
5内部リンク(*訳を略す)
6エスペラント百科事典からの引用
7外部リンク(*訳を略す)
(*続く)

30Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/21(水) 23:09:48
(>>29から続く)
構造

UEAはロッテルダム本部に登録される個人会員とUEA加入の国別団体のメンバーであ
る自動加入会員とを持つ。

最高決定機関はUEA委員会で、それがestraro(*原文のまま。公式にまたは習慣的に
どう訳されているのかわたしは知らない。)を選出する。委員会に入るには三つの異
なったルートがある:
・委員A:加入国別団体または専門団体から選ばれた代表として、または(そのグル
ープが最大である);
・委員B:個人会員から選ばれた代表として;
・委員C:かつての委員Aと委員Bは更に一定数の委員を選任する;
(*続く)

31Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/24(土) 22:39:41
(>>30*から続く)
事務所
UEAはオランダのロッテルダムに中央事務所を持っている。そこにはTEJOも同居し
ている。そのほかに複数の他の本部が存在したし存在する。たとえば国連本部の
ニューヨーク事務所(1977年から)とアフリカ本部(2001年から)。ジュネーヴの
Serva Centro(*原文のまま)(1947-1960/1980)とアントワープのGrafika Centro
(*原文のまま)とブダペストの科学出版センターは今では単に歴史的である。
(*続く)

32Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/25(日) 15:57:20
(>>31*から続く)
青年セクション

世界青年エスペラント機構(TEJO)はUEAの青年セクションである。TEJOは委員会と
執行部とともに固有の構造を持っているが、母体であるUEAに依存している。

UEAの世界大会に類似してTEJOは毎年異なった地で世界青年大会を組織する。IJKは
世界中から参加した青年を魅了するコンサート、公演、、講習会や一般的娯楽の、
一週間にわたる催しである。
(*続く)

33Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/25(日) 21:19:29
(*>>32から続く)
青年セクション

世界青年エスペラント機構(TEJO)はUEAの青年セクションである。TEJOは委員会と執行部とともに固有の構造を持っているが、母体であるUEAに依存している。

UEAの世界大会に類似してTEJOは毎年異なった地で世界青年大会を組織する。IJKは世界中から参加した青年を魅了するコンサート、公演、、講習会や一般的娯楽の、一週間にわたる催しである。
(*続く)

活動

世界エスペラント協会の目的は、1980年の規約によれば、エスペラントの使用の拡大、国際関係における言語問題の解決のための行動、人々の間のあらゆる種類の精神的物質的関係の容易化、"会員間の強固な連帯感の育成と他国民への理解と尊敬の発展"である。UEAの主な恒常的活動は:
・毎年、UEAは世界大会(UK)を組織し、それには通常1500-3000が参加する。
・UEAは出版所であり、エスペラント書籍の世界最大の通信販売サービス網を持っている(4000以上の書 籍、コンパクトディスクその他)
・ヘクトル・ホドゥラー図書館はUEA文書庫とともに最大のエスペラント図書館の一つである。
・UEAは代表者の被派遣網を世界中で維持しており、彼らは自分の地域または専門領域について情報提供する。
・UEAは月刊機関誌Esperantoと、年鑑と呼ばれるエスペラント運動についての便覧を出版している。
・UEAは毎年、様ざまなエスペラント作品の芸術コンクールを組織している。
(*続く)
>>29の「青年フラクション」は「」青年セクション」の間違いです。

34Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/01(土) 20:49:35
(*>>33から続く)
対外関係

UEAは多くの専門エスペラント団体と関係を持っている。それらの幾つかは国別団
体と同様UEAに加入し、委員会に委員を送っている。大部分はUEAと協力協定だけを
持ち、それらの中にはたとえば宗教的な団体のようなすべての非中立的団体がある。

国連とユネスコのほかにユニセフや欧州評議会とも諮問関係を持ち、米州機構とは
全般的協力関係を持っている。UEAは国際標準化機構(ISO)で公式に共同の作業に
加わっている。UEAはEUその他の国際組織や会議での情報提供のために活動してい
る。UEAはEU内外で言語と文化についての認識を前進させるための大学と言語団体
の共通のフォーラム、ヨーロッパ言語評議会のメンバーである。
(*続く)

35Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/05(水) 22:18:45
(*>>34から続く)
歴史
もっとくわしい情報を読むには「UEAの歴史」の項を。

1907年末ヘクター・ホドラーと他のエスペランティストたちは実用を通してエスペ
ラントを前進させるための組織を建設し始めた。1908年4月28日彼らは"世界エスペ
ラント協会"の創立のための充分な支持を確認し、その日付は今ではUEAの誕生日と
考えられている。

UEAと国別団体との重要な論争は、誰が運動を対外的に代表し、誰が運動全体の共
通の任務について支払い決定すべきかという問であった。1922年のヘルシンキ・シ
ステムの後に遂に発見された1933年のケルン合意は以下の和解である:UEAは全中立
運動の屋根となるが、最も多くの委員は事実上加盟国別団体が派遣する。

全会長エドアード・ステットラーと全理事ハンス・ヤコブの周辺の少数派がケルン
の和解に心から反対したので、1936年エスペラント運動の分裂が起きた:大多数の
指導者、会員、国別団体はUEAを去り、新たに創立された国際エスペラント連盟に
移った。残留者はジュネーヴUEAと呼ばれた。1947年ジュネーブUEAとIELはいわゆ
る溶融UEAに統合された現在のUEAは法的にはその1947年の新UEAで、現在のUEA規
約は1980年に登記された。
(*続く)

36Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/06(木) 22:14:28
(*>>35から続く)
会員
  もっと詳しい情報を読むには「UEAの会員数」の項目を。

第二次世界大戦後、UEAはそれまでの会員を"個人会員"と名づけた。UEAは国別団体
を受け入れ、その会員を(国別団体を介しての)"結合会員"と名づけた。1949-1955
の間とその後、大多数の東欧諸国のエスペラント団体の結成は始めは禁止され、後
には困難だった;次第に当方の諸団体はUEA加入を許された(ソ連は1989年)。1970代
には複数の南米諸国の団体が加入でき、1980年代と1990年代にはアフリカが参加し
始めた。

個人会員の数は百年間に変化したが、たいていは5000から8000の間で、最高は1920
年代末の数年、最低はとりわけ第二次世界大戦の期間とその直後であった。1960年
代から80年代までUEAは東欧に多くの結合会員を有していた;その数は1989年後急速
に縮小した。
(*本文訳完)

37Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/07(金) 07:06:12
"aligita membro"の正式の、または慣習的な日本語訳をどなたか教えてください。

38KamelioJapana:2007/12/07(金) 08:47:22
aligita membro<aligita membro de UEA

UEA団体会員が一般的です。
慣習的には、UEA個人会員に対して「非個人会員」という言い方もします。

39Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/07(金) 12:49:17
>>38
ありがとうございます。最初に浮かんだ訳も「団体会員」ですが、「団体会員」
はふつうは加入団体そのものを意味する言葉として使われていますから、公式訳で
ないなら別の訳を考えたいです。"aligita"が「加入させられた」の意味なら「受
動加入会員」がいいのかも知れません。"membro"が「会員」でいいのかどうかも
疑問です。

40Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/08(土) 19:49:46
Membronombroj de UEA
http://eo.wikipedia.org/wiki/Membronombroj_de_UEA
【UEAの会員数】
UEAの会員数は多くのエスペランティストにとってまた更に全エスペラント運動に
とってUEAの繁栄の徴候である。他の徴候の中の単に一つではあるが(*原文は
kvankam nur unu signo inter aliaj)。
目次
1鳥瞰
2図と表
3関連項目
4参照
5文学
6リンク
(*続く)

41Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/12(水) 21:30:03
(*>>40から続く)
鳥瞰
凡そ個人会員(IM)の数は通常6,000から8,000の間で、頂点は1920年代
(ほぼ10,000)、底辺は第二次世界大戦後である。事実上、ホドラーはも
ともと実際的な便宜のためにもっと多くの人員を考えながら組織を計画
した。1991年にこの期の最大の8,071だったが以来減少した。

受動加入会員に関して意識しなければならないのは、かれらは大国と
小国の間でよく比較できないことどある:UEA中央事務所からの情報に
よれば小国の団体は会員リストからUEA個人会員の名を取り去って小
さくなった数字をUEA中央事務所に通知するのが常である。大国の団
体はこの作業を時間の浪費と考え、だからすべての会員を受動加入会
員として通知している;この理由でAMとIMの総計は会員資格の総計だが
会員の総計ではない。

国別団体を通しての受動加入会員(AM)の最大は1987年の36,351人だった。
その前に1979年の約2,5000人のAMから8年間増大したが、1987年のピーク
の後その数は7年間に1994年の14,495へ再下落した。注意すべきは、2006
年の11,732への更なる縮小はUEAはもっとゆっくりと起きた。現在受動加
入会員の数は1950年代半ばの状態と同じである;今日約60ヶ国の国別団体
を持っているが50年代には約20だったことである。

1979年から1994年にかけての増大と縮小は大部分は東欧における発展の効
果である:それらの地域のエスペラント団体は非常に高い会員数をを示し、
国家の資金を彼らのために使っていた。共産主義体制が倒れた(ほぼ1989年)
後その会員数は急速に縮小した。

50年代と60年代には受動加入会員の増大が起きた。たとえば1953年の11,085
から1972年25,390へ。それは進歩を示しているように見える-しかし、意識し
なければならないのは、1953年にUEAは約20の国別団体を持っているが、197
2年には約34だったことである。事実上多くの国別団体は既にその期間に縮
小か停滞を経験していた。たとえばフランスの協会は1953年に1243の会員を
持っていたが1972年にはほぼ同じ1271である。

UEAの会員数は単純にエスペラント界全体の増大縮小の徴候としては利用でき
ない。なぜならUEA(及びその国別団体)の外でも多くの活動が起きているから
である。だが、エスペラント話者総体が増えれば増えるほどその一部は国別
団体のまたはUEAの直接の会員になるはずである。

ハンフリー・トンキンは、UEAの数十年来の委員で1974年から80年までと1986
年から89年まで会長だったが、UEAの会員喪失を評してこう述べている:「近年
のUEAの会員喪失(定期的にわずかな増大はあったものの)はエスペラントの魅
力の欠如ゆえに生じたと考えるべきではない:主要な問題は、人々が交流と更
新のために、以前よりも非公式な別の方法-主にインターネット的手段を発見
したことである。」多分、インターネットに国際的会合や母語話者の増加現象
や音楽文化やエスペラントについての科学的文献やヨーロッパ外でのエスペラ
ント使用を付け加えることが必要だろう。

図と表(*略)
関連項目(*略)
参照(*略)
文献(*略)
6リンク(*略)
(*本文訳完)
>>40の「目次」の「5文学」を「5文献」と訂正します。

42Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/16(日) 12:22:43
Sennacieca Asocio Tutmonda
http://eo.wikipedia.org/wiki/Sennacieca_Asocio_Tutmonda
【国民性なき世界協会】
Sennacieca Asocio Tutmonda(略称はSAT)は独立の、非中立的な全世界的エス
ペラント団体である。SATはその輝かしい過去において多くの出版をし、それら
の、現在も続いている出版の中には図解エスペラント大辞典がある。SATは多く
の国にSAT仲介者網を持っている。そしてSATは労働者エスペラント協会(LEA)と
ゴーテンバーグ協定によって結ばれている。SATは1921年に労働者エスペラント
運動の組織として創立された。創立者の中の重要人物はエウゲーノ・ランティの
筆名で知られているエウゲーネ・アダムである。1920年代末にSATは6000名以上
の会員を有していた。相対的に大きな個人加入の国際団体として(国別組織を束
ねた傘的な団体とは対照的に)SATは労働運動の中で独特のものであった。執行
委員会といわれる最高指導部の長ヤクヴォ・シュラムは2003年に881名の会員数
を示した。2006年には724名会費納入会員(*原文はpagantaj membroj。この訳
は疑問)が存在した。

目次
1目的
2組織構造
 2.1執行委員長
3活動
 3.1関連項目 
4対外関係 
5外部リンク
(*続く)

43松戸彩苑:2007/12/16(日) 12:42:04
>>42
翻訳、ご苦労さまです。

ところで「ゴーテンバーグ」って書いてありますが、これはスウェーデン第二の都市「ヨーテ
ボリ」のことですね。
原文の Gotenburgo のところを押して、さらに日本語ページに移動すると「ヨーテボリ」と書
いてありますね。

それから「エウゲーネ」ですが、フランス語読みの「ウジェーヌ」のほうが良いと思います。

44Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/16(日) 20:47:53
>>43
全くおっしゃるとおりです。ご指摘ありがとうございます。

45Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/27(木) 19:32:12
(*>>42から続く)
目的
 1.全世界の労働者の階級的目的のためのエスペラントを実用すること;
 2.会員のもとに強固な人間的連帯感を育てながら彼らの相互関係を可能な限り良
好に品位をもって容易にすること;
 3.会員が最も有能に最も完璧に、いわゆる国際主義者からなるように、彼らを学
ばせ、教え、啓蒙す  ること;
4.SATと目的が類似し異言語団体の相互関係において仲介者を務めること;
5.SATの理想を反映した文学(翻訳と創作)の成長を仲介し、出来る限り助けるこ
と。
この定義は1921年の創立総会で受け入れられたが、今まで友好である。1928年に以
下の追加で目的が精確にされた:
 SATは政治的ではなく単なる啓蒙的、教育的、文化的組織であり、その目的は、会
員をしてさまざま な階級闘争的労働者諸政党と労働組合運動が依拠する政治的
哲学的諸流派と諸組織に関して理解力を 持ち寛容ならしめることである;事実と
思想の比較により、自由な討論によりSATが目指すのは、会員 が別々の環境で受
けた教育がをかれらにおいて教条化されることを不可能にすることである。

 一言でいえば、SATの目的は、理性的に考案された言語の恒常的使用と全世界的適
用を通じて、諸思 想、諸命題、諸傾向を良く比べ、的確に理解し判断する能力
し たがって、自己の階級を解放し人類を 文明と文化の出来る限り高い段階へ
連れ去るための、最も真っ直ぐな最も行きやすいと思う道を自立 的に選ぶ能力
を持った理性的に思考する精神の成長を助けることである。

SATは自らをエスペラントのための組織すなわちエスペラントを宣伝する組織として
は考えていない。SATはエスペラントを介した組織である。すなわちSATはエスペラ
ントを自己の目的のために利用する。
(*続く)

46Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/29(土) 22:38:01
(*>>45から続く)
組織構造

SATは脱民族的(原文はsennacieca)構造を有する。会員は個人的に、国別組織を介
さずに加入する。

SATの決定構造は理論的に一般投票を介して基底に再結合されている(すべての総会
決定は一般投票の後にのみ友好である)。その規約上の自由裁量は基本的な民主的統
治を目指している;しかし経験は、大部分の総会決定が一般投票屈服させられなかっ
たことを示している。協会を指導するSATの指導部は執行委員会と呼ばれる。

Sennaciulo(*SATの機関紙)の編集者で長年の事務局長はクレシミル・バル
コヴィッチである。

執行委員長
・ウージェーヌ・ランティ1921-1933
・ヘルマン・プラティエル1933-1935
・ルシアン・バニエ1935-1968(戦時の中断を含む)
・ジュリアン・ピロン1969-1972
・ペトロ・レヴィ1972-1981
・ギルベール・シェヴロラ1981-1984
・イヴ・ペロー1984-2001
・ジャック・バニエ2001-2003
(*続く)

47Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/30(日) 20:52:32
(*>>46から続く)
活動
SATは月刊誌Sennaciulo、年刊誌Sennacieca Revuoや啓蒙的な内容の書籍を発行し
ている。そのなかで最も重要なのはPIV(*図解エスペラント大辞典)である。SATは
もっと啓蒙的な資料をネットで公表してもいる。
(*本文訳完)



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エスペラント日本語辞典 / 日本エスペラント学会エスペラント日本語辞典編集委員会


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