瓦上公主      瓦波打つ屋根の上を、ひょいひょいと渡る影がある。  小柄な体を柿色の装束で包み、金色の尻尾がぱたぱたと波打つ。狐人である。  日差しで熱くなった場所は避け、日陰から日陰へ音もなく渡り歩く。建物同士が離れているところにでくわせば迂回し、それでも渡れぬとあれば、するすると柱を伝い降りてはまた反対側へと身を現す。中々堂に入った身のこなしである。ときおりさっと身をかがめては、何かから隠れる様子を見せる。あたりには同じような高さの建物しかなく、屋根を見下ろす楼閣や塔などはない。それでも狐人が身を隠そうとするのにはわけがある。  何かが上空をよぎる。女性が空を舞っている。  ひらひらと翻る薄絹をまとった女が、空中を飛び回っては笑い声を上げる。顔はいずれの獣人族にも似ていない。卵のように滑らかな顔立ちである。その身は薄く透き通り、折からの風に拭き流されて、まるで布のように全身がたなびく。風精である。  風精はひとしきり飛び回ると、空中に解けるようにして姿を消した。その様を注視していた人影が、ほっと息をついた。  およそ開けたところなら、風精はどこにでも現れる。大方は人に構おうとしないが、自ら人型をとるような者は例外であり、人懐っこくついて回ろうとすることが多い。ましてそれが知り合いであったならなかなか離してはもらえない。そのことが、瓦上の狐人には不都合であった。  ――見つかったら、精霊宮中のひとたちが見物にきちゃうです。  大延国皇帝・朱王クウリが第三十七子、吉風公主セイランは息を吸い込むと、再び瓦の上を駆け始めた。  ここは禁裏、すなわち大延国皇帝のいます宮殿である。  それからしばらく後のこと。  後宮の一角に設けられた女官の私室で、開け放たれた窓から黒い影が飛び込んだ。  そのまま音もなく着地すると、人影は床をころころと転がり、寝台の下に収まって隠れた。息を潜め、油断なく室内を見回しながらも完全に気配を殺す。 「公主さま」  その一部始終を見ていた部屋の主が、あきれたように声を上げた。 「出来ればその、次は扉からお越しください」 「無理です」  寝台の下から這い出しながら、セイランは悪びれもせずに言う。 「もう私の顔を知らない兵士がいません。勉強の時間割もばれてます。変装はこないだ見破られました。太白殿のところに見張りの死角があってすごくよさそうでしたが、先週埋められてしまいました。なので、この部屋に扉から入るのは無理です」 「そこまで無理なら、いっそこの部屋においでにならないでください」 「いやです。絶対きます。屋根に上るほうが簡単です。それに、いざというときはテンコウがいますよ」 「そういうことを申し上げているのではありません」  レイレイと呼ばれた小間使いは唇を尖らせた。おとなしげな印象の狸人であるが、太眉を逆立てたその迫力はなかなかのものである。 「公主さまが万が一お怪我でもされたら、私も叱られてしまいます」 「それこそ大丈夫ですよ。ちゃんと私が言うですから」 「――実を言うと、すでに怒られてます。もう余計なことを吹き込むなと言われました」 「なにが余計なことですか。レイレイはもうずーっと命の恩人です」  セイランはレイレイに抱きつき、手を伸ばして頭を撫でた。体格はセイランのほうがはるかに小さいが、レイレイはおとなしく撫でられている。 「レイレイがいなかったら、あんな面白いものがあると知らないまま、わけのわからない本ばかり読まされつづけてこの世をおさらばしていたかもしれないのです」 「そんな大げさな」 「いや、今日は本当に危ういところでした……本当にあと少しで死因が『五帝記』になるところでした」 「おいたわしや。そんなにひどいのですか。去年の暮れに『三皇伝』を学んでいらしたときも大変そうにしておられましたよね」 「五帝に比べれば三皇なんて小物です……なにより三は五より二つも少ないですよ、二つも」 「はあ」 「おまけに昔のことすぎてろくな記録もないですから、そんなにたくさん覚えなくて済むのです。それに引き換え五帝ときたらですね!」  腕をぶんぶん振り回し、セイランは怒りをぶちまけた。 「んもう、本人たちの一生を詳しく詳しくくわしーく読まされるのは許します! 許してあげます! けどどうでもいいことであればあるほど詳しくかいてあるのです! 範帝のはとこの息子の五番目の妻だかなんだかが、いついつの正月に催された宴で何を何皿出されてどのように食べたか? なんてことまで書いてあるですよ! 何とか帝の三番目の離宮のどこそことかいう庭に植わっていた草の種類も! そんなのが今なんの役に立つですか! まず間違いなく読んだ人を苦しめるためだけに書かれた本です!」 「左様ですか……」 「あんなものをありがたがる人たちの気が知れないです……」 「お察ししますわ……」  怪気炎を吐くセイランに茶を運びながら、レイレイは小首をかしげた。 「うかつにも皇帝の血を引いてしまったというだけの理由であんなもの読まされる筋合いはないのです」  セイランはしみじみと茶を口に運んだ。と、やおら卓の下にかがみこみ、辺りを見回して声を潜めた。 「ところでレイレイ、例のものは?」 「こちらに」  同じく卓の下にもぐりこんだレイレイが、懐中から小さな本を抜き出した。いかにもつくりの荒い、庶民が読む雑本といった装丁であり、文字もまた簡字体である。 「新作ですか?」 「苦労しました」  奪うようにして本を受け取ったセイランは、表題を読んで顔を輝かせた。 「ついに『双侠狐狸』のつづきが?」 「左様でございます」 「やったー!!」  はじけるように声を上げたセイランが、はっとなって口に指を当てた。 「だめです、続きを読まずに捕まったら一生の不覚です。あ、レイレイ、ごめん、ちょっと見張っててください。私はこれからちょっと集中しますから」  しかつめらしく命ずるセイランの顔が、すぐさま笑み崩れた。 「待ちました。二ヶ月ぐらい待ちました。前回は銅任国に狸が流されたところで終わってて、ふたりが離れ離れになっちゃってもうどうする!? ってところで終わってるんです。ああもう、読む前からドキドキしますねえ!」  一時もじっとしていない。それどころか、読みはじめることすら危うい。きゃーきゃーと騒ぎ立てながら、『双侠狐狸』の主人公がどれほどかっこいいのか、どれほど自分がこの続きを待っていたのかを言い立てる。なお、ここで言う銅任国とは、一般にいうドニー・ドニーのことである。 「公主さま……そんなにうれしかったのですか」  そりゃもう! とセイランは目を輝かせた。 「私はもう、この本だけを楽しみにして今日の日を耐えてきたです。来る日も来る日もあのジジイにわけのわからない書を読まされて、それでもがんばってこれたのはレイレイのおかげです」 「セイラン様、大師さまのことをじじいとお呼びするのはちょっと」 「ただのジジイじゃないですよ、わからずやで冷血漢のクソジジイです。あんなの読ませてなんとも思わないんですから」 「そんなにもわけのわからない書でしょうか。『五帝記』といえば私でも存じておりますほどの有名な書です」 「それだけ多くの人を苦しめたってことですよ。ほら、『ホウ半双剣』だって嫌われてるけど、武林では知らないものはいないです。それと同じですよ。憎まれっ子世になんとかです」  と『双侠狐狸』の登場人物を挙げて訳知り顔で頷く。武林とは、武芸者の社会のことである。 「はあ」 「あー、信じてないですね? それじゃためしに、『五帝記』がどれぐらい退屈なのか分かるように暗誦してあげます」 「公主さま、なんだかんだいいながら覚えていらっしゃるのですか」 「もうここ十日ぐらい軟禁されて読まされてるです。イヤでも覚えますよ……いいですか、行きますよ」  得意げに胸を張ると、セイランは椅子に登って息を吸った。  そしてそのまま固まった。 「あの、公主さま」 「やめです。せっかく抜け出してきたのにわざわざ勉強のこと思い出すなんておかしいです」 「覚えていらっしゃらないんですか?」  セイランの耳が逆立った。 「そんなことないです! ちゃんと覚えてます!」 「左様ですか」  セイランの耳がぱたんと寝た。座りこんだ椅子の上で、セイランは仏頂面を作った。 「……ええとね、最初がわかればいけるとおもうです。ほんとですよ」 「――左様ですか」  レイレイが椅子からすっと立ち上がった。息を整え、おもむろに朗唱し始めた。セイランは目を瞠った。 「あ、それですそれです。レイレイ、どうして『五帝記』を知ってるですか。読んだことあるんですか」  レイレイは答えず、手を伸ばしてセイランから『双侠狐狸』を奪い取った。 「あ」 「さあ公主さま、はじめの部分をお教えしましたよ。次は公主さまの番です」 「ええと、レイレイ……どうしちゃったですか」 「私は別に。さあ、公主さま、続きを。今日やるはずだったところですよ」 「へ? え、ええとですね」  しどろもどろになったセイランとは裏腹に、レイレイは柔らかな笑みを崩さない。と、その顔がふっと脇を向いた。  セイランも釣られてそちらに目をやり、覿面顎を落とした。 「あ……」  部屋の扉の向こうで、もう一人のレイレイが立ちすくんでいた。  凍りついた時間の中で、セイランは二人のレイレイを呆けた顔で何度も見比べた。扉の向こうのレイレイが腰を抜かしてくずおれるのをみるが早いか、セイランは声も立てず一目散に窓めがけて走り、そこから飛び出した。いや、飛び出そうとした。  実際には、椅子から立ち上がることすら許されなかった。力強い腕が、セイランの肩をしっかりと押さえつけていた。 「まあ、いずれ新しい逃げ方を考案なさるだろうとは思っておりましたが」  レイレイの声音が濁り、老人のそれとなった。するすると伸びた背の天辺でぎちぎちと音を立てて顔が崩れ、変形した。 「まさか屋根を伝ってお逃げになるとは思いませなんだ」  岩に刻まれた模様のような顔が、凍りついたセイランを見下ろしていた。 「信じられないだまし討ちです! あんな卑怯者見たことないです! 兄上もそう思いませぬか!」  ぷりぷりと怒るセイランのキンキン声が、静かな室内に響く。  吏部尚書の執務室の中を、涼しげな風が吹き抜けていく。高い天井近くに空けられた天窓には風精が宿り、屋内を快適な温度に保つ。宮城でも珍しい設備である。  その片隅にしつらえられた机の前で正座しながら、セイランは『五帝記』を筆写していた。  本来ならば、吏部尚書の部屋で子供が勉強することなどありえないことである。行部は帝国における官僚の人事を担う機関であり、その長官たる尚書のもとには、巨大な官僚機構を動かすために必要な決裁を要する書類が文字通り山のように持ち込まれる。子供がいてよい場所ではなく、ましてやその子供が不平を声高に叫び散らしているとなればなおさらである。  にもかかわらず、セイランがこの場所に預けられているのにはわけがあった。端的に言えば、お仕置きである。 「兄上! 聞いていますか!」 「いいや」  ドン、と音を立てて判子をつくと、ハンリョウは次の書類を手に取った。セイランのほうには目も向けない。 「邪魔をするな。その程度さっさと写してしまえ」 「『その程度』って、あと十八頁もあるのですよ!? しかも今日中に。無理です」 「たった十八頁ではないか」  さらさらと筆を滑らせては温石をあて、墨を乾かす。そうして書類を巻き取り、決裁済みの山に投げる。うずたかく積みあがった書簡からはときおりはみ出した躍字があたりに漂い、思い出したようにもとの場所へ戻っていく。 「文句を言うから能率が上がらぬのだ。黙って手を動かせ。そうすればすぐ終わる」  セイランは黙った。  吏部尚書ハンリョウは大延国皇帝・朱王クウリが第六子であり、つまりはセイランの兄である。だが二人を並べて衆にその関係を問えば、親子だと見るもののほうが多いだろう。何しろハンリョウの長男はセイランより年がいっている。それほど年が離れているのである。  ハンリョウは英明な秀才であり、狐人の貴族階級では受けるものがほとんどいない科挙を受けて合格、以来官僚の道を歩んできた。ほとんどの官僚は民間から登用された狸人ほか雑多な種族が中心であり、特権階級たる貴族に対する反発が底流している。そんななかで吏部尚書にまでのぼりつめたハンリョウの実力は並大抵のものではなく、政敵ですら一目置く。  だがセイランにとって見れば、ただの口うるさくて怖い兄である。早くに死した母と、皇帝であるが故に親らしいことの出来ぬ父の代わりとなって育ててくれたという恩は承知しているのだが、いかんせんセイランのような年頃の娘にとっては煙たいことに変わりない。          しぶしぶながら、セイランは筆写に戻った。もそもそと二、三文字をつづるも、たちまち文字が紙から逃げ出しては宙に解ける。躍字を書くに当たって初心者がつまづくのは、文字をきちんと御すること、わけても紙の上にしっかりととどめておくことである。呆然と文字を見送っていたセイランは、我を取り戻すと再び声を張り上げた。 「兄上! 自分の師を悪くいいたくはありませんが、あれは卑劣きわまるうそつきジジイです!」 「その話はさっきも聞いた。筆に気持ちをこめろ。気が軽いから字が逃げる」  まったく取り合われないが、セイランはめげない。 「確かに、師として私が勉強しているかどうか見張っておきたいというのは分かります。勝手に抜け出したのも私が悪かったです。でもよりによってレイレイに化けることはないでしょう! しかもわざわざレイレイの部屋にまで忍び込んで。底意地が悪いにも程があります!」 「お前が普段からきちんとしておれば、そうやって大師の手を煩わせることもなかったのだ」 「もとよりちゃんとしてます。自分で穴を掘っておいて落ちた人を笑うような真似をするジジイの方はお咎めなしですか」 「自分の師になんと言う口を利くのだ。そういう態度がいけないと何故気付かん」 「私はきちんとやっています」 「もしお前が自分で言っている半分ほどもきちんとしておったなら、今頃は筆写もおわり、自由の身となって茶でも飲みながら、例のなんとかとかいう戯書でも読んで楽しくしておったことだろうな。ここで私の仕事の邪魔をしながら、自分の恩師をジジイ呼ばわりする代わりに」 「私だってお邪魔するためにここにおるわけではありません。何なら今すぐ出て行きます」 「ならん」 「どうしてですか」 「大師殿との約束である」 「うう〜」 「黙って続けよ。お前が文句を言っている間に、私がどれだけ仕事を片付けたか見るがいい」  未決裁書類の山は、いまやその大半が机の反対側、つまり決裁済みに移っている。その山を目にしては、セイランも黙るほか無かった。おとなしくまた五文字ほど書き、逃げぬように文字を押さえ、それでも失敗して逃げられる。セイランはため息をつき、三度兄に助けを求めようとした。  今しも山の一つに投げ上げられた巻物が、ころころと斜面から滑り落ち、床を転がってセイランの前で止まった。 「あ……」  巻き取られた紙はしっかりと紐をかけられ、転げ落ちてきた後でもほどけていない。おずおずと手を伸ばして拾い上げると、セイランは恐る恐るハンリョウに声を掛けた。 「あの、兄上」 「邪魔をするな」  セイランのほうを見もせず言う。セイランの眉毛が逆立った。負けん気だけは一人前である。 「でも――」 「尚書殿」  聞きなれた声がして、セイランは反射的に身をすくめた。書物の山の間で、ハンリョウが目を上げた。 「我が弟子がご迷惑をおかけしておりますようで」  開いた扉の向こうには、異相の仙人がたたずんでいた。        皇帝に子が生まれると、精霊宮はちょっとした騒ぎになる。後見人を選出するためである。  次代の皇帝を選ぶのは精霊たちであり、候補となるのは皇帝の子らである。このことを踏まえて、皇子が幼いうちから精霊たちとのかかわりをもたせておこうというのが、後見人制度の一つの名目である。とはいえこれはあくまで名目であり、実際には精霊たちが皇子たちの面倒を見たがるというのが実態である。もともと精霊宮に集うのは人に対して友好的な精霊たちばかりであり、また自らが選んだ皇帝の子供であるから、かわいくて仕方がないということであるらしい。皇子が生まれると、精霊たちはよってたかって母子のもとを訪れ、贈り物をしては自分たちを後見人にしてほしいと頼む。ほとんどの場合、後見人が決定されるのはこうした会見の席である。後見人と被後見人はみずからの名をあらわす躍字を交換し、一生の絆を結ぼうとする。  だがセイランの場合、事情は少々異なる。セイランの後見人は異例の二人、うち一人は仙人である。その名を十面大師という。       「これは十面大師どの」  ハンリョウが席を立ち、拱手して頭を下げた。 「わざわざお越しくださるとは」 「無理なお願いをしているのですから、こちらから伺うのは当然のことです」  ずかずかと部屋に踏み込むと、十面大師はセイランの机の前に立ち、帳面を覗き込んだ。あわてて姿勢を整えると、セイランは精一杯無害そうな顔を作り、筆を滑らせた。文字が書くそばから空中に逃げ出していく。その一つを、十面大師がぱっと掴んだ。 「この字は『巌』といいます」  そのまま手のひらを帳面に押し付け、わずかに力をこめる。逃げようと身をよじっていた躍字が、観念したように動きを止めた。 「元は穆河のそばで飼われていた犬の名であったそうです。あるとき主人が世を去り、周囲のものは代わりに飼ってやろうとしたが、巌は餌を食おうとはせず、ひたすら主人を待ち続けました。その身はいつしか岩となり、穆河が氾濫した折にも流されず、故に我ら延人はこの躍字に『忠節』という意味を与えたのです」  十面大師が手を伸ばすと、文字は紙に張り付き動きを止めた。逃げ惑っていた躍字たちが、そろそろと周りに集まってきて行儀よく並んだ。 「本来ならこのようにひらひら動く文字ではありません。きちんと書けば文字は応えます。練習なさい」 「――はい」 「聞こえませぬ」 「はい! 分かりました、十面大師大先生!」  十面大師が鼻を鳴らした。異相に落ちる影が、わずかにその形を変えた。  変わった顔である。  何しろ、どの種族に属しているのかも判然としない。目に注目すれば虎人となり、鼻を見れば狸人と見え、耳は兎人のように細長く伸び、自重で折れて垂れ下がっている。頭部を縁取るたてがみの下にあるのは鱗に覆われた顔面であり、しかし手のひらや腕を包むのは白色の毛である。口を開けば鋭い牙の間から蛇のような舌が突き出す。仙人の多くは俗世を超越した姿をしているものだが、これほどの変わり者もまた珍しい。  そして十面大師の変わっている点はこれだけに留まらない。彼は変身術の達人であり、いかなる姿にも化けることができる。先にセイランの小間使いレイレイに化けてみせたのも、その能力の一端である。  十面大師はしばらくの間、セイランが筆写に励む様を見守っていた。そうして、ハンリョウに目を向けた。 「全く、ご迷惑をおかけします。私の監督が行き届かないばかりに、尚書殿に見張りをお願いすることになってしまって」 「お気になさらず。大師どののおっしゃることですから。それに、わが妹には少々あきれております。手を動かさずに口ばかり。きっと日ごろからお手を煩わせているに違いありません。私からお詫び申し上げます」 「いやなんとも面目ない。以降はこのようなご迷惑をかけることがないよう、しっかり教育につとめてまいります」 「いやはや、セイランは幸せ者ですよ。先生のようなお方に教えてもらうことができるのですから」  ――全然そんなことはないです。  『幸』という字をなんとか筆先から逃がすまいと苦戦しながら、セイランは心中悪態をついた。セイランの見るところ、十面大師のほうも同じ意見のようであった。  およそセイランにとり、十面大師は一貫してクソジジイである。初めて顔を合わせたその日から今日に至るまで、戦いが絶えたことはない。ビービー泣きながら後宮中を逃げ回ることから始まって、あの手この手で勉強から逃げ、監視を抜け出し、説教を喰らっては日記に愚痴を書きなぐる日々が続くこともはや十年。凡人が仙人を出し抜くことなどほとんど不可能なのだが、セイランは毎度毎度首尾よくやりおおせている。気合が違うのです、と彼女は自負している。だが最後まで逃げ切れるほどではなく、いつも捕まっては折檻を受け、翌日になってまた逃げる。いたちごっこである。 「ときに尚書殿、伺いましたのは公主のことではないのです。皇上がお呼びです」 「おや、大師どのもお人が悪い。最初に言ってくだされば皇上を待たせずに済んだものを」 「大事ではないようですよ。例の案件についていくらか確認したいことがあるとか」 「官僚の言葉ではそれを大事というのですよ。皇上に面倒をかけないようにすることこそ官僚の務めなれば」 「覚えておきます」 「セイラン」  立ち上がったハンリョウが、ことさらにいかめしい顔を作った。 「我々は行くが、お前はそこで勉強しておるのだぞ」 「――はい」  セイランのおとなしい答えに満足げに笑むと、ハンリョウは大師を伴って部屋を出て行った。扉の閉まる瞬間、十面大師は立ち止まると、セイランを一にらみしてからきびすを返した。          足音が遠ざかってしばらくしてからも、セイランはずっと息を潜めていた。落ち着きを取り戻したのは、天窓から吹き込んできた風がほほをひとなでしてからのことである。 「ふぁああ」  深く息をつき、セイランは床に倒れこんだ。筆を投げ出し、机を蹴り、墨をこぼしそうになってあわてて机を立て直す。運よく墨が一滴もこぼれずに済んだのを確認すると、セイランは安堵のため息をついた。墨をこぼしたぐらいで公文書がどうこうなるはずもないのだが、怒られる理由が少ないに越したことはない。  セイランは天井をぼんやりと眺めた。  うるさい兄がいなくなった今、もとより勉強する気は失せている。  ――どうやって抜け出しましょうか。  扉に未練がましく目をやると、セイランはため息をついた。この部屋からでるのは簡単である。だがそれは頭に『勝手にやっていいなら』という但し書きがつき、実行の後にはきつーいお叱りも待っている。セイランがあくまで逃げ続けるのは学習能力がないからではなく、心が頑丈なためであるが、それにも限度がある。天窓から勝手に出ることも考えて、セイランはその案を捨てた。一人では不可能であり、かといってテンコウの助けを借りるとなると、お叱りは扉から歩いて出て行った場合の比ではない。  ――なにかこう、抜け出せそうな大義名分をですね。  セイランは執務室を探り、そうして、大師が来る直前まで自分が掴んでいたものの事を思い出した。  辺りを見回すと、巻物は机の下に転がり込んでいた。大師が現れたとき、驚いてそのまま投げ出してしまっていた。結局これが転がり落ちたことはいえずじまいだった。何かに利用できないだろうか?  ――望み薄そうですね。  セイランは部屋を埋め尽くした書簡や巻物の山に目をやった。兄の対応がそっけなかったのも無理のない話に思われてくる。この中の一つがちょっとなくなるぐらいがなんだという気持ちが湧き上がってくる。それほどまでにこの部屋は書類で埋まっている。以前にこの部屋を訪れたときは、こんなにひどくはなかったという気がする。 「ほんとにぜんぶ読んでるですか、これ……」  決裁に要していた時間が信じられないほど短かったことを思い出しながら、セイランは巻物をためつすがめつした。セイランからすると、この巻物だけでも目を通すだけで一日仕事のように思われる分量である。にもかかわらず、ハンリョウはちらっとみただけで何事か書き込んでから決裁済みの山に投げていた。どう見てもいい加減な仕事である。  ――偉そうな事言ってるくせに、自分は手抜きですか。  セイランは鼻を鳴らした。と、ちょっとしたいたずら心がわきあがってきた。さんざん書き取りで怒られた仕返しをするいい機会である。  ――ちょっとみてやるです。ちょっとだけです。  セイランは紐に手をかけ、巻物を開いた。  とたんにあふれ出した躍字が、セイランの顔を掠めた。      奔流。  両手でも押さえておくことができない。セイランは巻物を投げ出し、自分が開放してしまったものを呆然と見上げた。  猛烈な勢いで逆巻く躍字の集合体は、鳥の群れのようにまとまるや否や、執務室を所狭しと駆け巡った。ぱっと飛び散ってはまた群れ集まり、その中から一つの文字が飛び出して発光、セイランの顔の前で点滅した。 『巌』  ――お前は我が主人ではない。  意志がセイランの心に流れ込んできた。そのあまりの冷たさに、セイランは思わずひるんだ。  躍字で書かれた書、わけても公文書は読み手を選ぶ。守秘を要する書面は心得のある書記官によって書かれ、文面そのものが厳重な封印となって盗み読みを拒む。そのことはセイランもまた知識として知っている。だが対処法はといえば、全く想像の埒外である。  故に、セイランは普通なら取られない対処法を選んだ。 「なんですか、馬鹿にして! そんなに私に読まれるのがイヤですか! これだから難しい字は嫌いです!」  腕を突っ張り、自らを巻き取ろうとする巻物を押さえつける。 「私だってちゃんと読めます! だからおとなしくしてください! さもないと墨で塗りつぶしちゃいますよ!」  だが、文字の流出はその間も留まるところを知らない。ついにセイランは巻物を机の上に投げ出すと、自分の体でもって文字を押さえつけようとした。  そのことが、踊り狂う躍字を追い詰めた。  ドン、と大気がはじけた。セイランはいともあっさり吹き飛ばされ、巻物の山に着地して目を回した。風を切るほどの勢いで旋回する躍字は、再びドン、と音を立てて室内を駆けめぐり、天窓に滑り込むと消えうせた。  呆然と見上げるセイランの前に、吹き上げられた巻物が落ちてきた。もともと字があったと思しき場所はすべて空になっている。セイランは呆然と巻物を取り上げ――ふっと耳を立てた。  足音が、近づいてきていた。      戻ってきたのは十面大師だった。きちんと正座をして、一心不乱に筆写にいそしんでいるふりをしながら、セイランは冷や汗を必死に我慢していた。  十面大師はセイランを無視して部屋の中を歩き回った。先に躍字が暴れまわったせいで崩れた巻物の山に顔をしかめ、ちらりとセイランに目をやってまた視線を戻す。 「公主さま」 「崩れました! 何にもしてないのに勝手に崩れました!」  顔も上げずに一息に言い切り、セイランは十面大師を見上げた。大師の口から舌がちろちろとのぞき、すぐさま引込んだ。 「それは見れば想像がつきます」 「はい、先生!」 「尚書どのはことのほか仕事熱心であらせられます。お忙しいので、一つ一つの巻物を積むことに気を使っていられないのでしょう」 「はい、先生!」 「そんなに大声を出さずともけっこう。ところで公主さま」 「何にもしてません!」 「何かしたとは言っておりませんが」  大師はかがみこむと、セイランの手元を覗き込んだ。セイランにとって気の遠くなるような時間が流れ、大師がわずかに口元をゆがめた。 「思いのほかまじめにやっておられるようですな。感心しました」 「は、はい」 「今頃はそう、あの天窓あたりから抜け出しておるかと思っておりましたよ。テンコウどのあたりと結託して」  セイランは正座しなおし、尻尾を足の間に挟みこんだ。震えを隠すためである。 「は、ははは、そ、そんなことしないです、よ」 「大変けっこう。ところで、そのあたりに巻物がありませんかな。青い紐の」 「さ、さあ? 巻物が一杯ありますから分かりません」 「確かに。邪魔しましたな」  すっくと立ち上がった大師が、崩れた巻物の山に向かってつう、と手を伸ばした。毛に包まれた指先が宙を滑り、描き出された文様が虚空からにじみ出して発光した。 『招』  山となった巻物の中から一つが飛び出し、大師の手のひらにすとんと収まった。繰り出して中身を確認した大師は巻物を投げ捨て、また別のを引き寄せる。セイランの胃が悲鳴を上げた。中身の逃げていった巻物は山の一番奥に突っ込んであるが、大師は恐ろしい勢いで山を調べつつある。このままでは発見されるのは時間の問題である。セイランは思わず声を張り上げた。 「あの、十面大師様」  印をつづる動きが止まった。大師の虎目が、セイランに据えられた。 「いったい何をお探しなのですか、よければ、お手伝いさせてください!」  そうさけんで頭を下げる。大師は何も言わず、さらに一つ巻物を引き寄せ、一目見て放った。 「なに、大したことではないのです。皇上にご説明申し上げるときに現物があったほうがいいかと思いましてね」 「あの、現物ってなんですか、皇上に何を聞かれたですか」  セイランは必死に食い下がった。何事かを感じ取ったのか、大師はセイランに向き直った。 「なに、公主さまには関係ないことです」 「子ども扱いしないでください! 私だってちゃんと説明してもらえれば分かります!」  自分の口から飛び出した言葉に、セイランは自分でも驚いていた。十面大師が狸族の眉をひそめ、やがてゆっくりと口を開いた。 「――異界につながる門が開いたということはご存知でしょう」  もちろんセイランは知っていた。といっても、武侠小説で読み、あるいはレイレイから話を聞かされた程度であり、つまりはいい加減な知識しか持ってはいないということである。どこかで開いた門の向こうにある、なんだかよく分からない異世界。曖昧にしか知らないが、だからと言って興味がないというわけではない。宮殿の奥にあっては遠くの出来事にしか思えないというだけのことである。話がどこにいくのかを見定められないまま、セイランはただうなずいた。 「門が開いたので、異界から客人が訪れるようになりました。つるりとした、卵のような顔の異人達です。その異人たちに、大延国の中を勝手にうろうろさせておくのはいかがなものかという声が上がったのです。礼儀や習俗に暗い異邦人が、妖物や民と面倒ごとを起こしてはいけないだろうというわけですね」  セイランはうなずいた。確かに、よそものはいろいろ心細かったり、面倒に巻き込まれたりするものだった。少なくとも、武侠小説の中においては。 「それで、そうした面倒ごとを避けるために、信頼できる案内人をつけてやろうという案が出たのです。私は吏部尚書どのと協力して、そうした案内人の選定に当たっているのです。朝廷が、異界の客人を保護する役目を買って出るということです。分かりますか」 「は、はい」 「今日は皇上にその報告を差し上げるところだったのです。それで、案内人を試験で選んではどうかという話をご説明申し上げるに当たって、大まかな試験問題のたたき台を資料としてご用意しておいたというわけです。それを尚書どのに預けておいたのですが、持って行くのを忘れてしまったので取りに来たのですよ。分かりましたか、公主さま?」 「――分かりました」  大師が眉を上げ、ゆっくりとうなずいた。 「さて、草案とは言え試験問題ですから、私と尚書殿のほかには読めぬようになっております。皇上は言うまでもありませんがね。そういう次第ですから、公主さまの手を煩わせるには及びません。さ、勉強に集中なさい。邪魔者は去るとしましょう」  それだけ言い残すと、大師は部屋を後にした。      セイランが自分を取り戻すまでには、ありったけの自制心を必要とした。 『草案とは言え試験問題ですから、私と尚書殿のほかには読めぬようになっております』  ――まずいことになったです。  これまで数多のいたずらをこなしてきたセイランにも、大人が持っていた大事な書類をなくしてしまったことはない。だが、勉強から逃げ出すこととは比べ物にならない罰を受けることは容易に想像がついた。危機である。  巻物の山にもぐりこみ、白紙の巻物を引き出す。もそもそと広げてため息をつき、セイランは机に突っ伏した。  自分で逃げた字を探しにいくかと考えて、セイランは頭を振った。すぐに追いかければ何とかなったかもしれないが、今から追うには間が空きすぎている。何より、出る方法がない。天窓はセイランにとってもあまりに小さく、かといって扉から出るわけにもいかない。いくらもいかないうちに、事情をいい含められている廊下の兵士に捕まるだろう。部屋に戻るように言われてなんと答える? 「ごめんなさい、大事な書類を逃がしました」。ありえない。かといって手をこまねいていれば、大師と兄が戻ってくるだろう。そうすればどうなることか。  こんこん、と扉を叩く音が、セイランの思いを中断した。 「失礼します。公主さま、お茶をお持ちしました」  女官が湯気の立つ茶碗を載せた盆を運んできた。神妙な表情を浮かべたレイレイである。呆けていたセイランは、レイレイの姿を認めるやさっと身構えた。 「なんですか! 二度も同じ手は食いませんよ! 意地悪大師! 蛇舌! 冷血漢!」 「公主さま、私でございます、信じてくださいまし」 「本当ですかー?」 「本当です、大師様におおせつかって、公主さまにお茶を運ぶようにと」  セイランは目を眇めた。 「ほんとにレイレイなら、いつもみたいにその辺の虫を拾って食べてみてください」  レイレイの太眉がさっと逆立った。 「公主さま! 確かに私ども漣州人は虫を食べますが、あれはその辺の虫ではなくて、ちゃんと食用に飼育したものです! 今度うちのふるさとの料理をからかわれたらお暇をいただきますからね!」 「――本物ですね。ごめんなさいレイレイ、ちょっと確かめないといけなかったんです。全部あのジジイが悪いですよ」  セイランは緊張を解いた。見た目はたおやかなこの公主つき女官は漣州の生まれである。大延国にあっても、虫食はゲテモノ食いとみなされることのほうが多いが、漣州人はその例外である。  レイレイが眉を緩めた。 「それならけっこうです。それと、大師さまをジジイ呼ばわりはおやめください。さ、公主さま、お茶を」 「ありがとうです」  たちのぼる湯気を吹き、ちびちびと口をつける。ふとめぐらした視線の隅に白紙の巻物をとらえ、セイランは顔を曇らせてレイレイにすがりついた。 「レイレイ助けてください、困ったことになりました」 「公主さま、今度は何を」  書類の文字を逃がしてしまったことをとつとつと話しながら、セイランは白紙の上でいたずらに筆を滑らせる。滴る墨は形を結ばず、ただ紙を汚すばかりである。レイレイが手を伸ばして、セイランの手遊びを嗜める。筆を投げ出して、セイランはがっくりと肩を落とした。 「今度ばかりはちょっと危ないです。ものすごく怒られるです」 「公主さま……」 「何かいい方法はないですか。ねえレイレイ、こういうとき武侠小説ならどうするですか。どうやって危機を乗り切るですか」 「そうですね……」  顎に手をあてて頭をめぐらしていたレイレイの動きが、ぴたりと止まった。 「さっと飛び上がって巻物を振り回し、舞い踊る躍字を一息に捉えて着地、周りが『お見事! これぞまさしく領山派の絶技ナントカカントカ』とかなんとかいうのではないでしょうか」 「やけに具体的ですね……でもレイレイ、もう字はにげちゃってるんです。逃げる前ならそういうのもありでしょうけど……」 「でもあれは」  レイレイの指の先に目をやり、セイランは息を呑んだ。  天窓から差し込む光を、ちらちらと動き回る何者かがさえぎる。蛇が樹のうろに首を突っ込むように、一列に並んだ躍字がそろそろと天窓をくぐり、天井のあたりを回遊している。と、そのなかから一文字が飛び出し、セイランの手元にまるで矢のように突き刺さった。 『白』  はね散らかされていた墨が、紙の上で波打った。まるで『白』の一文字から風が吹き出し、それに追い散らされるかのように墨が押しのけられていく。ぴしゃっと音を立てて紙から墨が飛び出し、セイランの服にまだら模様を描いた。  真っ白に清められた紙面めがけて、文字が列を成してそろそろと宙から降りてくる。 「これは……」 「逃げたとのことですけど、ひょっとすると戻ってきたんでは」 「そ、そうかもしれません」  セイランは呆然と文字を見守った。と、レイレイに抱きつき、その目をふさいだ。 「へ、あ、あの、公主さま?」 「見ちゃ駄目です、さっきも中をちょっと見ようとしただけで逃げられたんです」 「あの、でもちょっとくるし――」 「我慢してください」  いいながら、セイランも自ら目をふさぐ。息を殺し、舞い降りてくる様子をちらちらと眺めながら、時々天窓のほうに目をやる。躍字の列は中々途切れない。セイランは焦れたが、耐えた。  そうして今しも、最後の文字が天窓を通過しようとしたそのときである。  セイランの抱きついていたレイレイの体が、突然ぐらりとくずれた。  支えようと伸ばした手が机にかかり、机が倒れ、墨を含んだすずりが宙に舞い上がった。こぼれた墨がセイランの目に襲い掛かり、思わず顔をかばう。再び目を開いたとき、セイランは今しも最後の一文字が着地するところを余さず目撃していた。  すべての文字が宙に跳ね上がった。再び巻き起こった躍字の竜巻は、今度は部屋の中を暴れまわることもなく一目散に天窓を目指し、瞬く間に消えうせた。  そうして、すべてがしん、と静まり返った。 「あの、公主さま、申し訳ありません。息が出来なくて――」  レイレイは口をつぐんだ。セイランの肩が、ぷるぷると震えていたためである。 「あの、本当に申し訳――」 「っっく〜〜〜〜!」  声にならない声を上げながら、セイランはだしだしと床を踏み鳴らした。 「もう、もう我慢の限界です! そんなに読まれるのがイヤですか! 馬鹿にして! 私だって皇帝の血を引いてるですよ! 父上に読めるなら私が読んだっていいじゃないですか!」  セイランは口の端を吊り上げた。 「一度ならず二度までも同じ手が通用すると思ったら大間違いです! 思い知らせてやるです!」  そうして大きく、胸のそこから息を吸い込んだ。 「てんこーーーーー!!!!」  力の限り、喉もさけよとばかりに発された叫び声が、部屋の空気をびりびりと振るわせた。  それに呼応するように、大気に更なる震えが混じった。  外から突っ込んできた何者かが、天窓を突き破った。  木っ端と埃を撒き散らしながら舞い降りたそれが、セイランの足元にふわりと足を下ろした。  吉風公主セイランの後見人は二人いる。常にはないことである。  一端を担う十面大師は仙人であり、本来の職掌は主神金羅の補佐である。精霊宮のことども、わけても皇子の育成に関わることはきわめて珍しい。そのあり得ないことが行われているのは、本来セイランの教育を果たすべき後見人が機能不全に陥っているからである。  もう一人の後見人はその名をテンコウという。風精である。 「テンコウ! ちょっと手伝ってください、追いかけっこです!」  テンコウの返事はなかった。セイランとて返事を期待したわけではない。何しろ相手は犬である。  真っ白な雲のように膨らんだ長毛の真ん中に、小さな目と突き出された舌がおまけのようにくっついている。へっへっへっと息をつきながら、テンコウは首を傾け、もどし、今度は反対側に傾けるとことんと寝転んだ。幸せそのものといった表情である。セイランは眉間をもんだ。  見かけに反して、テンコウは犬ではない。精霊宮に住まうことを許されたれっきとした風精である。人語を発さず、人に化身するでもなく、時たま壁や空を歩き回るほかには完全にただの犬として生活している。セイランがテンコウの事を後見人だと意識することは少ないが、この気のいい風精のことは好いていた。  好いているのだが、意思疎通がうまくいっているかというと、それはまた別の話である。 「テンコウ、ねえちょっと、ちゃんと話聞いてください! 困っているんです」  へぇ? とテンコウが寝返りをうった。仕方なくセイランが腹を撫でてやると、テンコウはむあーと幸せそうに鳴き声をもらした。 「聞きなさい! おきてください! 大変なんですってば!」  テンコウはセイランの怒りを気にするようすもなく、よろよろと起き上がってセイランに覆いかぶさった。見た目に反し、テンコウはほとんど重さがない。まさしく雲を掴むようなテンコウの体を押し返しながら、セイランは最後の手段をとることを決めた。 「テンコウ、私の言うこと聞かないんなら、白王様のところに連れて行ってもらいますよ」  テンコウの動きがぴたりと止まった。  精一杯無害そうな顔を作りながら、テンコウはセイランから離れると床に伏せ、ちいさくニャーと鳴いた。テンコウはほとんど犬であるが、鳴き声は別である。おっしゃることがよく分かりませんとでも言いたげに首を傾けるテンコウに、セイランはなおもいいつのった。 「私が連れて行くんじゃないですよ。テンコウが今がんばってくれなかったら、私は怒られて当分外出禁止になります。一緒に散歩にもいけなくなります。そうしたら、きっと大師がテンコウを散歩させることになるですよ、私の代わりに」  テンコウが体を震わせた。セイランはトドメとばかりに言葉を継いだ。 「大師がテンコウを連れてお散歩に出たら、行く先はぜったい白王さまのところです。あの二人の仲がいいのは知ってますよね? 大師は白王様のところで一日中お茶を飲んで、テンコウはそのあいだずーっとお行儀よくしてないといけません。玉投げもかけっこもなしです。あ、でもひょっとしたら白王様が遊んでくださるかもしれないですね――」  どんっ、という音とともに、衝撃波が部屋に走った。レイレイがきゃっと悲鳴を上げて顔を背けた。テンコウはいまや、テンコウに可能な限りのりりしい表情を作ってセイランを見下ろしていた。セイランは紐を取り出すと足元の衣を縛り、白紙の巻物を取り上げてさっと天窓をさした。 「テンコウ、さあ、一緒に行きましょう! 目にものみせてやります」  にゃーとテンコウが応えた。テンコウの体から噴出する風が、セイランの衣をパタパタとはためかせた。 「あ、あの、公主さま」 「レイレイ、それではちょっと行ってきます! 兄上やジジイに何か言われたら止めても聞かなかったといってください!」 「は、はい、あ、あの、それではお気をつけて」 「はい!」  セイランは勢いよく床をけった。巻き起こった一陣の風がセイランの体を持ち上げ、セイランとテンコウはともに天窓から外へと飛び出していた。  俗に『道功術戯』という。精霊に働きかけて魔法を使う、その巧みさをあらわす言葉である。  『戯』とは、文字通り精霊と戯れることをさす。およそ魔法とは精霊の力を借りて望みの現象を引き起こすことであるが、精霊戯はただ精霊とともにありながら、なにかの拍子に自分の望む現象が起きるのを期待することである。種を植えるときに土精を称えて歌うことで豊作を願ったり、物干し竿のそばに鈴をさげ、その音を好む風精に通り過ぎてもらうことで洗濯物を乾かしたりする工夫などが精霊戯に当たる。実際のところ、とても魔法とはいえないもの、精霊と共存する庶民の知恵でしかないものも多く含まれている。  これが一段進めば『術』となる。『術』とは、要するに精霊に命じることである。これこれの事柄をせよと人が命じ、精霊が応えて行う。水を持ち上げ、大地を割り、虚空から火を生じあるいは風に乗って飛行するといった、いわゆる魔法らしい魔法が術と呼ばれる。  『功』ともなれば命じる必要すらなくなる。精霊の力はみずからの手足の延長のごとくなり、心を合一するに至って精霊使いは精霊の欲するように行い、術者の欲するところもまた精霊の望みとなる。  そして『道』を極めたとき、精霊使いは何かを欲することから離れ、ただ天然自然の一部になってしまうという。これは大延国の長い歴史においても、あまり類を見ない。  今、セイランが行っているのは軽身風術なる魔法である。風に乗り、宙に舞いあがって一息に十足ほども翔ける。風精テンコウの力である。      瓦の上にすとんと着地すると、セイランはすばやくあたりを見回し、逃げた躍字の姿を探した。  ――そんなに遠くには行かないはずです。  セイランには確信があった。躍字がもといた場所に戻りたがっていたのを見たためである。一時的に逃げ出しはするが、帰れなくなってもそれはそれで問題になるにちがいない。どれほど遠くに行けば帰れなくなるかはわからねど、先に戻ってきたときはそれほど時間が経っていなかった。今回も同じようになるはずである。セイランは巻物を握り締めた。これさえ握っておけば、勝ち目はこちらにあるはずである。  ――いました。  霊玉殿の門の上で、文字の群れがふわふわと漂っていた。こちらに気付いた様子はない。セイランはそっとほくそ笑むと、ゆっくりと第一歩を踏み出した。  とたんに、この世の終わりのような爆発音が響き渡った。  テンコウが精一杯無害そうな顔を作って周りを見回し、何今の音とでもいいたげに目を見開いた。セイランはといえばそれどころではなく、すさまじい勢いで降りかかってきた鼻水をぬぐうのに必死になっている。テンコウの生態はほとんど犬と同じだが、くしゃみの威力だけは別である。  テンコウを怒鳴りつけるのを必死に我慢しながら、セイランは躍字のいたあたりに視線を向けた。影も形もなかった。 「よかったですねテンコウ、躍字にも耳があるってことがわかったですよ」  テンコウはうなだれた。咳払いひとつ、セイランは気持ちを改めると、瓦の上を駆け始めた。テンコウも付き従い、周囲に風の流れを生み出していく。かっかっかと小気味よい音を立てて瓦を踏みしめ、セイランは隣の棟へと飛び移った。ひととびごとに距離はのび、ほとんど滑るように瓦の上を移動していく。先ほどまで躍字が漂っていたあたりにまで至ると、セイランは霊玉殿の門めがけて飛んだ。飛びながらぐるりと体をめぐらし、視界のすみに清栄殿のほうに向かって逃げていく躍字を捉える。屋根の縁にかすりざま、セイランは腕を伸ばして瓦を掴んだ。テンコウが下から吹き上げた風がセイランの体を押し上げ、衝撃を殺してセイランを屋根の上まで連れていく。躍字との距離は大いに縮まり、その気になれば捕らえられるほどの間となっている。  ――ちょろいもんです。  セイランは内心ほくそ笑んだ。こと逃げることについては、セイランは宮殿一の達人であると自負している。十面大師から逃げ続けた経験によって、セイランは宮殿内の建物や通路の配置に精通していた。清栄殿は宮殿のなかでも端に位置しており、たどり着くための道はいくらもない。加えて、建物も古いために出入り口がとても少ない。追い込まれたなら逃げ出すのは至難の業である。かつてのセイランが身をもって学んだ事柄であった。  ――自分が負う側になるなんて思ってもみなかったです。  セイランはちいさく笑うと、横にかしずくテンコウをぽんぽんと叩いた。再び駆け始めようとしたそのとき――  ふいにあがったどよめきが、セイランの足を止めさせた。  気を取られて、セイランはあやうく虚空に向かって飛び出すところだった。割り込んできたテンコウの体に受け止められてなんとか体勢を保ちながら、セイランは足元に群れる集団をまじまじと見つめた。  大勢の兵士たちのあっけに取られたような顔が、セイランを見返していた。      この瞬間になるまでセイランとテンコウが忘れ果てていた事柄の一つに、「兵士には耳がついている」ということがある。テンコウは尚書の執務室に入るにあたって、天窓を体当たりで粉砕して巨大な音を立てている。くしゃみの事は言うまでもない。そして、まともな兵士は異音がすれば正体を確かめに来るものであり、大延国の宮殿ほど兵士が巡回している場所もないのである。  忘れ果てていた何もかもが流れ込み、セイランの頭は真っ白になった。 「くせものか?」「いや待てあれは公主さまでは」「大師がおっしゃってたとおりだな」「ほんとに屋根に登ってる……」  どよめく兵士たちの間から、怪訝そうな顔をした隊長が進み出た。 「吉風公主さま、お怪我はございませんか」 「べ、べつに普通です」 「今はしごをお持ちしますので、どうかそのままで。おい!」  指示を受け、二人の兵士たちが走り去っていく。虎人の隊長は兜を取ると、気遣わしげにセイランを見上げた。 「いいですよ別に、ちょっと散歩してたところです」 「そうは参りません。十面大師様よりご指示がありました。『ありえないとは思うが、万が一屋根の上にでも公主さまがおられたら、可及的速やかに自分のもとへお連れするように』とのことです」 「大師はへんなこと言いますね。私は屋根になんか上ったりしないです」 「自分もつい先ほどまではそう思っておりました。おい、はしごはまだか」  『はしごなんかなくてもちゃんと降りれますよ』という言葉を、セイランは危ういところで飲み込んだ。話の焦点がずれている。どうにかこの場を脱出しなくてはいけない。セイランはテンコウに目配せした。テンコウがゆったりと頷き、ふあーと大口を開けてあくびをした。目は完全にあさっての方向を向いている。風精の気まぐれさを呪いながら、セイランはじりじりと兵士たちをにらみつけた。兵士たちはみな、こちらに興味津々の様子である。誰一人目をそらそうとはしない。  ふっと視線を横にずらせば、躍字はじりじりと遠ざかっていく。セイランがテンコウを兵にぶつけることを考えはじめたとき、不意に遠くの躍字が弾かれたように伸び上がり、目にも留まらぬ速さで瓦を飛び越え、宙を走って八耀殿の方へと逃げ失せた。あれよあれよという間の出来事である。動揺したセイランが首をめぐらすと、先ほど走っていった兵士が戻ってきていた。その手にはしごは携えられていない。隊長が眉をひそめて怒鳴った。 「おい! はしごはどうした!」 「は、こいつが何かを見たというものですから」 「『何か』とはなんだ! 報告は正確にしろ」 「は、なんだかよく分からない模様であります」 「模様……?」 「は、清栄殿のほうに向かっていくのを見たのであります。空飛ぶ模様であります」  隊長は黙り込み、髭をしごいてうなった。 「公主さま、ひょっとすると賊や妖怪の類が侵入した恐れがありますので、どうかはしごがくるまでそのまま――」  セイランは聞いてはいなかった。一息にとなりの建物へ飛び移り、兵士たちを完全に無視してそのまま走り出す。一息遅れてあがったどよめきを背中に浴びながら、セイランは足を早めた。      洸華苑から菱光台へ、目を白黒させる紀林の学者先生たちの前を走りぬけて三吼塔を登り、龍枕池を一息に飛び越して八耀殿へ。  セイランは三度躍字に追いすがり、三度振り切られた。  その過程で、セイランは躍字の新しい一面を発見していた。一言でまとめれば、『躍字ほどいやらしい存在はいない』ということになる。  まず、すべての方角が見えている。テンコウとともに直上から襲い掛かったところあっさりかわされ、危うく地面に叩きつけられそうになった。めげずに立ち上がり、宙をふらふら漂う字に下から追いすがってもするりと抜けられる。何の前触れもなく向きを変えたように見えることがあれば、必ず反対側から兵士が走ってくる。仕方なくきびすを返すと今度はセイランをあざ笑うかのように再び目の前に現れる。隠れても見抜かれ、兵士を引き離すためにわざと距離をとればこんどは近寄ってくる。  ――さすがは大師の書いた文章ですね。  視界の隅をふらふらする躍字を懸命に捉えようとしながら、セイランは歯軋りした。  混迷である。  躍字はセイランから逃げる。セイランは読み手としてふさわしくないからである。  そしてセイランは兵士から逃げなくてはならない。これはセイランの思うところ、大師の嫌がらせによるものである。  なおかつ、躍字は兵士からも逃げようとする。このことはセイランにとって都合がよく、また悪くもあった。公文書を逃がしてしまったことがばれずにすむのはよいのだが、兵士は躍字を捕まえる邪魔にもなっている。セイランが躍字にとびかかりたいところを一生懸命我慢して近寄り、さあおいでと巻物を広げて見せさえすれば捕まえられるはずなのだが、足を止めることは兵士に捕らえられることに直結している。なんとしても避けたいことである。  あちらを立てればこちらがたたず。起死回生の策も思いつかぬまま宮殿中を駆け回った結果、全員がセイランを追いかけているのかと思えるほどに兵士が集まってきてしまっている。だれも報告に行っていないのか、いつもなら真っ先に飛んで来る大師の姿は見えないが、それも時間の問題だと思われた。散歩の時間が近づいてきたテンコウの注意力は限界に近く、時折天空に恋焦がれるような眼を向けては大げさにため息をつく。テンコウは犬のようなものであるが、散歩にかける情熱は犬をはるかに上回っている。  八耀殿の屋根に身を伏せ、セイランはあせりにあせっていた。  ――もういっそ大師に全部白状してしまいましょうか。  敗北感まるだしの考えを打ち消すことすら難しい。大師にかかれば、セイランを探し出すことなど造作もないことに違いない。こっぴどく叱られはするのだろうが、今のこのイライラに耐えることに比べればなんと言うことはない気がしてくる。いっそ諦めてしまおうか、ごめんなさいしてしまおうかと考えて、セイランは目の前の瓦をぼんやりと見つめた。  ――この瓦がたまたま大師の変身したものだったりしないですかね。  そんなふざけた考えが頭をよぎり、セイランは乾いた笑いを押し殺した。何で瓦なんかに化けているのかといえば、それは十面大師がとんでもない意地悪ジジイだからだ。セイランがゲンナリしているところを眺めるためなら手段なんて問わないのだ。レイレイに化けたのを見た時点で、セイランは大師に対する手加減や気遣いを捨て去ることを決意していた。仙人というだけの事はあって、大師の考え方はわけが分からないのだ。実を言えば、この騒動だって実はセイランに意地悪するために仕組んだことなのだ。大師はセイランが試験問題を逃がしてしまうことなどお見通しで、その上であえて放置しているのだ。だから、すぐ来てもおかしくないはずの大師がいつまでたっても現れず、セイランはこうして屋根の上で途方にくれるハメになっているのだ。なんてひどい。信じられない、大師のアホ、鱗顔、変顔――。  柔らかい綿毛に顔を撫でられて、セイランはふと正気に返った。心配そうに顔を近づけてきたテンコウが、こんどはセイランの顔をぺろりと舐めた。冷たくざらざらした舌の感触が、セイランの頭を冷やした。 「ありがとう、テンコウ」  テンコウはにゃーと応えると、無造作にセイランを咥え、驚くセイランを飛び上がると隣の屋根に降りた。たちまちどよめきが上がり、下では兵士たちが空を見上げて右往左往し始める。居場所がばれそうになっていたところをテンコウに救われたことに気付き、セイランは安堵のため息を漏らした。やはり捕まりたくはない。  そのまま兵士を振り切るべく駆けはじめたセイランの頭に、ふと疑問がきざした。  ――どうして大師はまだ出てこないんでしょう?  さっきまでは時間の問題と思っていたが、よくよく考えれば大師の不在は不思議である。これだけ兵士がいればとっくに連絡がいっていてもおかしくないはずなのだ。となれば大師本人がその辺りから湧き出してきてもおかしくないはずなのだ。  なのに、いない。  ――兵士が大師を見つけられないなんてことあるでしょうか?  疑問の答えは、ふとめぐらした視線の先にあった。セイランは思わず、あっと声を漏らして足を止めた。  宮殿は兵士であふれているが、ただ一箇所だけ、いかなる兵士も立ち入れない場所がある。禁裏だ。金羅さまと皇帝その人が生活する場所であり、立ち入るためには精霊術や仙術などの強力な使い手であることが条件となっている。守る側より守られる側のほうが強くては本末転倒だから、警備の兵も置かれることはない。セイランもまた、立ち入ることは許されていない。  だが大師なら、禁裏に立ち入ることができる。  兄ハンリョウも同様だ。確か二人とも、皇帝に内密な話で呼びつけられたと言っていた。なら、二人の居場所は禁裏ということになる。兵士が入れないから、ご注進だって届かないのだ。  兵が入れない。  禁裏なら、兵士を振り切ることができる。躍字を捕まえることに集中できる。  セイランは即座に決断した。 「テンコウ!」  応えて跳んだテンコウの首筋を掴み、そのまま飛び上がる。見上げる兵士たちの目が追ってくるのを意識しながら、セイランは天を目指して舞い上がり、視界の中に躍字を探した。よろよろと這うようにして、躍字がセイランを追いかけてくるのを眼にしたとき、セイランは上昇をやめた。人が親指ほどにしか見えぬ高さから見下ろした宮殿の姿ははじめて眼にするものだった。セイランは思わずため息をついた。  落下に転じ、胃袋がひっくり返るような浮遊感に叩かれながら、セイランは頭から禁裏めがけて落ちた。テンコウの毛をしっかりと掴み、小さな庭の一角を見定める。風を切りながら、東屋にぶつからぬよう、池にも落ちぬよう慎重に角度を調節し――  その時、、庭で何かが動いた。  はじめは小さかったそれが、ぐいぐいと大きさを増していく。瞬き二つほどの間に、それの正体が明らかになった。地面からとびだった巨大な鳥。片側だけでもセイランの身長ほどもある大きく真っ白な翼を力強く打ち付け、セイランめがけて一直線に迫ってくる。その瞳に燃えている怒りを見てとってセイランは悲鳴を上げた。ともに落ちていくテンコウの毛を引っ張り、軌道をそらそうと試みた。  手ごたえがなかった。  セイランの手のひらに綿毛だけを残し、風精の姿はどこかへと消えうせていた。  事態に気付き、悲鳴を上げる暇もあらばこそ。  巨鳥のくちばしが迫り、セイランは思わず眼を閉じた。      浮遊感がセイランを押し包んだ。セイランはゆっくりと眼を開けた。  巨鳥はセイランを受け止めていた。落下の勢いを羽ばたいて殺し、反転してゆっくりと高度を下げる。くちばしで襟首をつかまれているセイランはただなすがままになるだけである。巨鳥はやがて禁裏の庭に舞い降りると、セイランをぽいと放り出した。 「あいた、ちょっと、なにするですか」  投げ出されてしりもちをついたセイランが抗議の声をあげても、巨鳥は一顧だにしない。翼を広げてゆっくりとはためかせ、何を思ったか一本の羽を引き抜く。おもむろに空を見上げて一声鳴いた。セイランも釣られて顔を上げた。  視線の先では、躍字がふらふらと高度を下げつつあった。  セイランはあわてて懐の巻物を探った。このよく分からない鳥のことも気になるが、助けてくれたぐらいだから危害を加える気はないのだろう。それよりも今はさっさと字を捕まえてしまうほうが先決だった。なにしろ本当は禁裏に立ち入ってはいけないのだ。用事を済ませてさっさと出て行くにこしたことはない。この鳥はきっと禁裏に住んでいる霊鳥か何かなのだろう。精霊かもしれない。精霊は大抵人の形を取りたがるものだけど、テンコウみたいに動物になりたがる精霊だっていてもおかしくない。あとで口止めでもしておけば何とかなるだろう。ああ、それにしてもテンコウときたら、本当肝心なときに役に立たないですね―― 『招』  視界の隅で突然発光した何かが、セイランの思考を断ち切った。  眼をやったセイランは、息を呑んで硬直した。  鳥は姿を消していた。名残のように一枚だけ残された羽が突き出され、「引き寄せ」を意味する躍字がその表面で波打っていた。羽を掴んで宙に掲げている腕には白い毛が密生していた。宙を漂っていた躍字が羽に向かって突進し、決して充分とはいえない広さのなかにぎゅうぎゅう詰めになって収まっていく様を、セイランは呆然となって見守った。  十面大師の背中では、翼が溶け込んで姿を消していくところだった。大師は体をぶるりと振って息をつくと、そのまま何も言うことなくセイランの手から空になった巻物を取り上げ、羽とともに懐にしまいこんだ。  そうして、うろたえるセイランの手を引いて庭の一角にある東屋に向かって歩き出した。近くまでたどり着くと膝をつき、セイランにもそうするように無言で促した。  わけもわからず従ったセイランが見たものは、あきれたように笑う大延国皇帝の姿だった。     「なんとまあ、今朝目覚めたときには、今日という日が歴史に残ることになろうとは思いもせなんだものだが」  庭の一角に設けられた東屋で、皇帝クウリはからからと笑った。  齢八十を超えていながら、クウリの外見は壮健そのものである。白く長い髭をしごきながら、炯々と輝く眼でセイランを見据える。セイランにはその奥に潜む感情が読めなかった。読めたためしもなかった。父親ではあるのだが、めったに顔を合わせることはないのである。  言葉をなくしたセイランに向かって屈託なく手を振ってみせる。その脇ではハンリョウが苦笑いしていた。卓の上には茶がこぼれ、椅子の一つは蹴倒されている。大師がさっきまで座っていたのだと、セイランはぼんやり考えた。 「朕の知る限りでは五人目になるのか。そうだな、ハンリョウ」 「はい。飛火双星公のお二人、初代ミズハミシマ通信使、それと五代前の玄王様がこれまでの顔ぶれでございます」 「かくも蒼々たる面々にわが娘が加わることになろうとはな。いやはや」  眼を白黒させているセイランに向かって、クウリはいかめしい顔を作った。 「よく聞け、吉風公主セイランよ。そなたは今しがた、『禁裏に空から押し入る』という、大延国の歴史に残る偉業を成し遂げたのだ。誰にでも出来ることではないのだぞ。最初にやり遂げた双星公は二人とも風道を究めた魔法の達人であり、当代の皇帝に挑まれて『いかなる場所にも押し入って見せる』と豪語し、見事やってのけた。ミズハミシマの通信使は彼の地における作法をことのほか気に入ったそうでな。なんでもミズハミシマでは水底にも建物があり、水底では屋根に入り口を設けるそうだ。五代前の玄王はあー、長年仙人境に身をおかれ、なんというか様々なものから解き放たれたお方だったと聞いておる。三百年もフラフラ――おほん、自由に生きておられたそうだから無理もないと思うがな。とにかくセイランよ、そなたはそんなお歴々と肩を並べることになったというわけだ。どう思うか?」 「は、はい」 「申し訳ございません!」  ごん! と音を立てて、十面大師が地面に頭を打ちつけた。 「此度は私の監督不行き届きにてこのような不祥事を引き起こしてしまいました! いかなる処分をも受け入れる所存にございます!」 「面を上げよ、大師」  クウリの声音がわずかに冷えた。 「処分などするつもりはない。だいたい処分して何が解決するというのだ。そなたはよくやっておる。ただ、我が不肖の娘が予想をはるかに超える粗相をしでかすだけのことである」 「しかし……」 「さらに言うなら、もし大師の監督責任を問わねばならんとしてだな、そうすればもう一方の後見人のほうも責任を追及せねばならぬということになる。向こうのほうが責が重いぞ。なにしろセイランがここまでこれたのは彼の力あっての事だからの」 「お言葉ですが、テンコウ殿は……」 「うむ。テンコウはこの場におらぬし、何より彼はあのように犬になってしまっておるから話にならぬ。つまり、このことは犬と飼い主のように考えるのがよかろう。犬のしでかしたことは飼い主が責任を取るものだから、セイランがテンコウの手を借りてしでかしたことはセイランの責任だ。あー、セイランがテンコウの飼い主であるかどうかは微妙なところだが、どうしても厳密にやらねばならん話でもなかろう」 「それはいかがなものでしょうか」とハンリョウが口を挟んだ。「仮にも精霊宮の住人たるテンコウ殿を飼い犬扱いするなど、精霊宮のものたちはいい顔をしないのでは」 「犬として振舞うのをやめるよう、そのものたちにテンコウを説得させてから文句を言わせるとしよう。何なら後で本人の意見を聞いてもよかろう。大師がおらぬときにな。あれも別に逃げずともよかったのだがな。まとにかく、此度のことはセイラン本人に責任を問う。それが結論だ。異論はあるまいな」 「――陛下のご厚情に心から感謝申し上げます」  大師がごんごんと頭を打ちつける。セイランもまた頭を地面に擦り付けたが、内心は全く穏やかでなかった。 「さて、そろそろ本題に入るとしよう。セイランよ」 「は、はい!」 「どうしてまた、禁裏に空から入ろうとした? 一体何用があって空など飛んでおったのだ?」 「おそらくそれは――」  口を挟もうとした大師を、クウリは手を振って制した。 「朕はセイランに聞いておる。さあ、答えよセイラン。お前は一体何をした? というよりも、自分では何をしでかしたと思っておる?」 「あ、あの」  セイランは冷や汗をぬぐった。 「禁裏にその、入ってはいけないところから入ってしまって――」 「違う」  クウリの鋭い声が、セイランの言葉を切って捨てた。 「別に空から禁裏に入ってはならぬという法はない。考えてもみよ、セイラン。これが禁裏でなくただの家であったならどうだ? 屋根から入ってはならぬという決まりなど定めるものがあろうか? わざわざ好き好んで屋根やら天窓やらから入ったりするものなどおらぬであろう? もちろん、お前が読んでおるような小噺の類では別かも知れぬが、それにしたところで、屋根から入るのが当たり前だと書かれておるわけではあるまい。空から押し入ってはならぬというのはな、セイラン、むやみに人騒がせなことをしてはならんというだけのことなのだ。そこがお前の勘違いである」 「あの、でも」 「そういう時は『お言葉ですが』というのだ」 「はい。あの、お言葉ですが」 「うむ。聞こう」 「あの、空からじゃなくても、禁裏には入ってはいけないのに、私は入ってしまって――」 「それは瑣末なことである。むやみに入ってはいけないのは、単に静かにしておいてほしいからだ。ここは朕や金羅様が暮らし、あるいは気を休めるところである。お前とて、自分の部屋にずかずか押し入られるのは御免であろう? きちんとした用があるなら別に入ってきてもいっこうに構わぬのだ。ま、できれば扉からな」 「はい」  ――それじゃどうして怒られているんでしょう。  セイランは困惑した。見透かしたように、クウリが髭をしごいて笑った。 「どうもお前は質問をきちんと聞いておらなんだようじゃの。特別にもう一回言うぞ。セイラン、お前は自分が何をしでかしたと思っておる?」 「それは――」 「先も言うたぞ。『きちんとした用があれば、禁裏に入っても構わぬ』と。セイランよ、お前はいかなる用向きがあったのだ?」  そこでセイランは、つっかえつっかえ経緯を話した。躍字が逃げてしまったこと、テンコウとともにそれを追いかけたこと、兵士が寄ってきたので躍字を上手く捕まえられずにこまったこと、禁裏なら、兵士を振り切れると思ったこと―― 「それで、テンコウと一緒に飛んで禁裏に入ろうと思ったら、大師が出てきて、テンコウがいなくなって、それで――」 「そこまででよい」  クウリがうなずいた。 「要するにお前は、自分のせいで逃がしてしまった文書を取り戻そうとしておったのだな。成る程、殊勝な心がけである」 「はい!」 「だがやり方は最低だったな」 「え……」  一瞬晴れかかったセイランの心に、再び暗雲が立ち込めてきた。クウリは面白そうに笑いながら、セイランに向かって指を振った。 「捕まえようとするから逃げる。ほうっておけばそのうち帰ってくる。セイランよ、知らなかったとは言わせぬぞ。なにしろ一度は戻ってくるところを見ておったのだからな。お前がやるべきだったのは、白紙になってしまった巻物を広げておとなしく待っておくことだったのだ。お前がいらぬかんしゃくを起こすから、このように宮殿中追いかけて回る結果となった」  いかにもその通りだった。実際、一度はそうしようと思ったのだ。だけどレイレイが――と思いかけて、セイランははっとなった。危うくレイレイのせいにするところだったことを、セイランは恥ずかしく思った。だが、言われっぱなしというのも気が済まず、セイランは顔を上げて決然と言葉を発した。 「確かにやり方を間違えました。でもその時はそうするしかないと思って」 「ことが定まったあとからやれあれがまずい、ここを間違えたと言いたてるのは、言う側にとってもあまり気持ちのいいものではない。特に、当人が一生懸命やっておったとなればなおさらのこと。だが覚えておけよセイラン、一生懸命やることと、最善を尽くすことは必ずしも等しいとは限らぬ。これしかないと思い定めてやったことが最低の結果を招くこともある。何かをなそうとするなら、それなりに考えてからにすることだ。この教訓は覚えておけよ」 「――はい、分かりました」  セイランは殊勝にうなずいてみせた。だが、クウリのニヤニヤ笑いはやまない。それどころかますます笑みは深まり、横に控えるハンリョウもまた重々しい表情を浮かべたままだ。居心地が悪くなってセイランが脇の大師に目をやると、大師もまた苦虫を噛み潰したような顔をしてセイランをにらみつけていた。わけが分からず、セイランはクウリに向かって問いかけるような目つきを送った。 「さて、セイラン。お前はまだ大事な事を言っておらぬ」 「へ? あの、でも」 「お前が今しがた申したのは禁裏に入った用件であった。だがお前にはもう一つやらかしたことがある。むしろそちらのほうについて聞きたかったのだ。その顔からするに、自分では分かっておらぬようだな」 「はい。あの、私はまだ何かしたのですか」 「うむ、そこまで言うとはいっそすがすがしいほどだな。ハンリョウと大師を見ておってもまだなんとも思わぬか」  セイランは二人を見比べた。ハンリョウはあきれたように笑い出し、大師は沈痛な顔で地面に目を落としている。わけが分からず、セイランは再びクウリに顔を向けた。クウリがため息をついた。 「セイラン、朕がさきほどからお前に気付かせようとしていたことはな、お前が言いつけられた勉強を怠けておるということなのだ。本来勉強しておるべきときに、あたりを走り回っておったことだ」 「あ」 「申し訳ございません! 私の監督不行き届きでございます!」 「大師、同じことは二度言わぬぞ」  再び地面に頭を擦り付け始めた大師に向かって、クウリが親しげに言葉をかける。 「我が不肖の娘の尻拭いのために大師の偉大な頭脳が磨り減るとあっては、金羅様と父祖から預かっておるこの帝国の損失である。到底認めるわけにはいかぬ」 「いかにも。大師、ご自愛なさいませ。我が妹が悪いのでございますから」  ハンリョウが調子を合わせて、大師を助け起こす。セイランはそれを呆然と見ていた。クウリが髭をしごいて感慨深げに言う。 「帝国きっての頭脳の持ち主たる十面大師を出し抜くというか、もてあまさせるというのだから、我が娘ながら末恐ろしい限りだ。加えてやらかした事でくよくよしたりもせん強い心まで持ちあわせておる。しかるべきところに生まれ落ちておればその道で大成したかも知れぬのう。その場合、母親はよろこばなんだろうが」 「陛下!」 「戯れはこのあたりにしておくか。さてセイラン」  クウリが顔を引き締めた。先ほどまでの楽しげな表情は姿を消し、かわりに現れたのは厳しい目つきだった。 「お前は日ごろから勉強を散々怠け、その結果として大師に手を焼かせておる。そのことについてどう思う?」 「それは――」  セイランは大師を見た。大師の虎目は伏せられ、耳も垂れていた。いつもセイランを追い詰めては怒鳴っているときの面影はそこにはなかった。これほど打ちひしがれた大師を、セイランは見たことがなかった。さすがのセイランも、これには堪えた。 「あの、大師には悪いことをしたと思います。ごめんなさい」 「公主さま……」  クウリが重々しくうなずいた。 「ではセイラン、大師に対する償いとして、お前は何ができると思うか」 「えっと、つぐないですか」 「そうだ。大師はお前に散々迷惑をかけられたのだから、その分を大師の喜ぶことでもして埋め合わせねばならぬぞ。さあセイラン、何ができるか?」  ――大師の喜ぶことですか。  セイランにはさっぱり見当がつかなかった。何か食べ物でも贈ればいいだろうか? しかしセイランは大師が何を好んで食べているのかすら知らなかった。肩でも叩けばいいだろうか。セイランは大師の肩を叩く自分の姿を想像しようとして失敗した。となれば。  ――ひょっとして、おとなしく勉強しろってことですか。  セイランは身震いした。思い返してみれば、大師はセイランを追いかけとおして『五帝記』なり他の書なりを読ませようと死力をつくしてきたのではなかったか。だからあんなにやつれているのだ。ということは、セイランのするべきことはおとなしくするということに違いない。来る日も来る日も大師が持ってくる書物をおとなしく読み、書き写してすごす。散歩もお預けなら、息抜きの本だって後回しになるに違いない。仕方ないのだ。それが大師の望みというなら。  ――無理です。絶対無理です。  セイランはぎゅっと目をつぶった。 「――どう見る、ハンリョウ」 「『無理です。絶対無理です』と言ったところでしょうか」 「そこまで無理か。同じ兄妹でもここまで違うのか。クウエンやお前などは来る日も来る日も紀林に入りびたり、どうかすると飯を食わぬことすらあったと聞いておるが」 「申し訳ございません! 私の教え方がまずいのでございます!」 「とてもそうは思えぬがの。勉強時間のあらかたを逃げることに費やしておったというではないか。嫌いになれるような何かを教わってすらおるまいよ。にしてもセイランよ、お前は果報者だの。お前が普段から足蹴にしておる相手にこんなにも庇われて」 「べ、べつに足蹴になどしておりません……」 「しておる」 「陛下、お言葉ですが、私はべつに足蹴になどされておりませんし、さらに言えば公主をお庇いもうしあげているのではないのです」  大師が声を上げた。 「ほう」 「ただ己の職責を果たしえなんだことが悔しいのでございます。公主さまをお預かりしたというのに、施すべき教育をきちんと施すこともできませぬ。それはひとえに、私が無能だからでございます」 「大師ほどの頭脳の持ち主が無能というのであれば、帝国のほとんどは脳みその腐り果てた阿呆ということになろうな」 「陛下、真に勝手な言い草ではございますが、この場でお願いしたき儀がございます」  クウリが眉を上げた。大師は深々と息を吸い込み、ゆっくりと語りだした。 「先ほど公主様が空を飛んでおられるのを目にしましたとき、この子は手に負えぬと悟りました。私は今まで公主さまにできる限りの教育を施そうとして参りましたが、せん無い事でございました。公主さまは風でございます。空を吹き渡る風を押さえつけることなど誰にも出来ない事でございます。ましてや書物を読ませるなど。  どうかお願い申し上げます。吉風公主さまの後見人から外れることをお許しください。公主さまにはテンコウどのがおられます。かのお方は少々変わったところもございますが、あのお方の下でなら公主さまも健やかに成長されることは疑いございません。そもそも私が後見人についたこと自体が誤りだったのです」  ――なんだかすごいことになってきたです。  大師をクソジジイと呼んではばからなかったセイランだが、こうもはっきりとその大師からでさえ、見込みがないと言い切られるのは悲しいことだった。ちょっと勉強を怠けただけだと思っていたことが大きく膨らみ、セイランの思惑を超えて転がり始めていた。セイランは大師の横顔を盗み見た。大師は決然とクウリを見つめている。セイランはクウリに目を移した。真顔になったクウリが口を開いた。 「――よかろう。十面大師、セイランの後見人から外れることを許す」 「え、え」 「ありがたき幸せにございます」 「吉風公主」 「は、はい!」 「というわけだ。今後はテンコウ殿だけがお前の後見人と相成った。異論はあるまいな」 「あ、あの、でも」 「それに伴って、お前を日々の勉学から解放するものとする。お前に勉学を教えることの出来るものがいれば別であるが。ハンリョウ、どうだ、当てはあるか」 「帝国の人事全てをつかさどる吏部の尚書として申し上げます。大師に不可能ならば、大延国にはセイランの教育を預かれるような人材は存在しませぬ」 「うむ」 「ちょ、ちょっと兄上」 「そういうことだセイラン、今後は監督はつけぬから、空でも何でも好きなだけ飛ぶがよい」  クウリが手を振り、大師が頭を下げた。それで話が終わったといわんばかりに、クウリが立ち上がり、ハンリョウがそれに従った。セイランは思わず立ち上がり、皇帝のゆくてをさえぎろうとした。大師が取り押さえようと手を伸ばしたが、セイランはそれをかいくぐると、クウリの前に立ちふさがった。 「おかしいです! 父上も大師もどうしてそんなに大げさな話にするですか! ちょっと勉強をサボっただけなのに、大師は辞めるっていうし、兄上は私のことを馬鹿にするし」 「大げさも何も、より望ましい方法を取っただけのことだ。お前に勉学をさせるぐらいなら、大海を飲み干そうとするほうがまだ簡単なようだからな」 「私そんなに手に負えないわけじゃないです! 勉強だってちゃんと出来ます!」 「ならおとなしく書を読んでみせるがよい」 「やります! でも一つだけ言わせてください! 書はつまらないです! どうでもいいことばかり書いてあるし、書き写そうとしたら字は逃げるし。本当にどうでもいいことばかり書いてあるんですよ? 父上だってご存知でしょう!」  クウリは答えず、傍らの大師を顧みた。大師は首を振りながら、ブツブツと何事かつぶやいていた。 「――どうでもよいことと申したか。大師の言葉にも一理あったようだ。この子は何一つ学んでおらぬ」 「面目次第もございません」  クウリの言葉に、セイランは疲れを聞き取った。クウリの伸ばした手がセイランの肩を掴んだ。セイランは思わず息を呑んだ。 「よいかセイラン、お前が今しがたつまらんと切って捨てたものはな、お前が考えておるよりはるかに価値のあるものだ。よかろう、朕自ら教えてくれよう。跪け、吉風公主!」  目を白黒させながら、セイランは膝をついた。ハンリョウがセイランに歩み寄り、その傍らに膝をついた。反対側には大師が位置した。二人が位置についたのを確認すると、クウリは高らかに声を張り上げた。 「これよりお前に三つの問いを発する。首尾よく答えることができたなら、充分とみて今後の勉学はすべて免除し、加えて褒美をも与える。もし答えることあたわざれば、朕の申し付ける雑用を引き受けてもらうこととする。吏部尚書ハンリョウ、十面大師、そなたたち二人が証人となれ」 「は、はい」 「心得ました」 「――心得ました」  セイランの傍らで、ハンリョウと大師が深々と頭を下げた。セイランも習って頭を下げる。ひそかに横を盗み見ると、ハンリョウが目配せしていた。意味が分からず、セイランはゆっくりと頭を上げた。 「大師、かの問題をこれへ」 「は」  大師が立ち上がり、懐に手を入れて何かを取り出した。それは羽だった。セイランが追いかけとおした躍字が表面にひしめき合い、ゆらゆらとうごめいていた。クウリが手を動かすと羽はひらひらと飛んでその手に収まり、とたんに手のひらから発した炎が羽を瞬く間に焼き尽くした。舞い散った火の粉が躍字の形を取り、空中に列をなして整然と並んだ。あごひげをしごきながら、クウリが文字に指を滑らせると、文章がするすると流れた。やがてクウリが指を止め、セイランのほうを向いて高らかに声を上げた。 「では問おう。『我が国の国号は何か?』」 「へ?」  セイランは当惑した。あまりにも簡単な問いだった。何かの罠ではないかとセイランはクウリの目を覗き込んだが、クウリの表情には何も表れていなかった。セイランはためらった。 「答えよ、公主。わが国の国号は何か? 「え、延です。大延国です」 「うむ。正解である」  躍字の一列が発光し、その中の『延』という文字が大きく膨らんで輝いた。クウリが指を一振りすると、文字は輝きを失い、大師が差し出した巻物の中へ戻っていった。  セイランは胸をなでおろした。と同時に、疑問がわきあがってきた。  ――どうしてこんな簡単な事を聞くんでしょうか? 「この国は名を延という。我らが皇祖のご命名である」  まるでセイランの心中に答えるように、クウリが静かに言葉を発した。深々と吸い込まれた息を吐き出し、クウリの発した言葉は歌うような調子を帯びていた。 「かつてこの地に帝国なかりしころ、人々は種族ごとに分かれて互いに争っていた。絶えることのない嘆きは大気を満たし、地に染み入り、すべての火と水を濁らせて汚した。守護する神とてなく、魑魅魍魎が当たり前のように跳梁跋扈し、強者が弱者を肉としてはばからぬ世の中であった。  そんな折、一筋の明るい炎がこの地を訪れた。九尾白面の狐神たる金羅様、我らが金炎聖母である」 「――金羅様を目にした者たちは、みなそろって彼の神を我がもとに招こうとした」  セイランは驚いてハンリョウに目をやった。顔を上げたハンリョウはいたずらっぽく微笑むと、朗々と声を上げてクウリの言葉を引き継いだ。 「神を手中に収めることこそ、この地を制することにほかならぬ。だれもが抜け駆けを恐れるあまり、人々は結託して一つの宴席を設け、金羅様に自分たちを選んでもらおうとした。人々は財物を積み上げ、歌舞音曲を奏で、最高の食材と料理で神をもてなそうとした。これこそ延史における最初の比食にして、食神祭の起源である」 「――そんな中、皇祖は弦の切れた琴と、ひび割れた大皿をもってその場に姿を現した」  ハンリョウの言葉を引き継いだのは大師だった。まるではじめから打ち合わせでもしていたかのように、大師は流暢に言葉を並べていった。 「卓抜した精霊魔法の力を持ちながら、どこの勢力にも属するでもなくこの地を彷徨っておられた皇祖は、驚きあきれる群集を制し、金羅様にもてなしの感想を問うた。金羅様は黙して答えず、重い沈黙が流れる中、宴席の行われた地を治めていた豪族の一人がこっそりと進み出て、皇祖にまともな琴と、料理の載った皿を差し出した。この豪族はかつて、皇祖に大火を鎮めてもらったことがあり、そのときの恩を覚えていたのだ。皇祖は顔色一つ変えずに皿を金羅様に差し出し、自らは琴を奏でるでもなくただ掲げていた。歌い手の一人が琴に近寄り、皇祖の代理として音曲を奏でた。彼の風精はかねてから皇祖とよしみを通じており、窮状を見かねたのだった。緊張した歌い手が喉を詰まらせると、皇祖は杯を取り、ほかの豪族に付き従っていた水精が進み出て杯を満たし、歌い手の喉を潤した。どこからともなく現れた光精と闇精が歌に合わせて踊り、我も我もと持ち寄られた料理を皇祖は割れた皿の破片に取り分けて、金羅様だけでなく居合わせた多くの者たちに振舞った。 「「「こと此処に至り、皇祖は立ち上がって大喝した。曰く、『万事当にかくあるべし』」」」  三人が声を合わせた。唱和はほんのわずかでさえずれることがなかった。まるで踊るように、クウリとハンリョウと大師がお互いの言葉を引き継いでいった。 「そうして、再び金羅様にもてなしの感想を問うた」「金羅様は答える代わりに金炎を生み出し、その場に居合わせたものたちことごとくを暖めた」「人々が何も持たぬ皇祖を見かね、自らできる事で助けようと望んだように、金羅様もまた自ら持てるものを差し出したのだ」「かくして人々は皇祖を唯一の主と戴いて臣下の礼をとり、皇祖はこの宴のようなあり方がいつまでもなくなることのないようにとの思いをこめて、国号を『延』と定めた」  ハンリョウと大師が立ち上がり、拱手して深々と礼をした。クウリも答えてうなずき、呆然とするセイランに微笑みかけた。 「以上の事柄は『延史通鑑』に書かれておる。かの削岩筆こと大コウテツ師の手になるもので、破弦片皿の故事として名高い。ま、お前がそこまで知っておったかは追求せぬことにするがな。いうなればセイラン、我らは未だに宴の中にあるのだ。互いが互いをもてなす、果てしのない宴にな」  セイランはただうなずいた。国の名前の由来など、これまで考えたこともなかった。しかも、それを大師もハンリョウも皇帝さえも一言一句間違えずに暗記しているのだ。セイランは改めて舌を巻いた。これまで親しみのあまり侮っていた二人が、急に大きく思われた。 「では第二問だ」  セイランは固唾を呑んだ。クウリは満足げに髭をしごくとにやりと笑った。 「掃星十八年の正月、範帝が自ら主催した宴において、範帝はある参加者のために特別な料理を用意してこれをもてなした。一体誰のためにいかなる料理を用意したのか、答えよ」  セイランは息を呑んだ。一問目とは比べ物にならないほど難しい問題だった。セイランは必死に頭をひねったが、手がかりすら思い出すことができそうになかった。目が泳いだ。小さな咳払いが聞こえた。脇に控える大師に目をやったとき、セイランは思わず息を呑んだ。 「どうしたセイラン、答えられぬか」  クウリが問いかけたが、セイランはそれどころではなかった。大師は伏したまま、その姿をレイレイに変じていた。ハンリョウがこらえかねたようにぷっと吹き出し、クウリもまた大師に目をやって苦笑いした。大師が咳払いして、再びもとの姿に戻った。 「お見苦しいところをお見せして申し訳ない。時折、姿を保っておくことが出来なくなるのです」  いかにも申し訳なさそうにぼそぼそと言い訳しながら、大師はふとセイランに小さく目配せした。とたんに、セイランの脳裏に閃いた光景があった。部屋を抜け出してレイレイの部屋に転がり込んだときのことだ。まるで何日も前のように思われるその時のことを思い出し、セイランは勢い込んで口を開いた。 「あの、分かりました。範帝のはとこの息子の五番目の奥さんで、出された料理は亀卵料理でした。それで、奥さんは一皿も食べなかったんです」 「その通りである。彼の女はなかなか孕まず、そのことで困り果てておった。卵に箸をつけぬことを夫がとがめると、妻は『これもまた子供でございますから』と答えて涙を流した。範帝はこれを聞き、『亀の卵ですらかつこれを慈しむ、ましてや児をや』と述べて、彼の夫婦がよその子を養子として育てることを認めた。当時は子がなければ家は断絶というのが普通であったから、これは画期的なことであった。範帝はこのようにそれまでの決まりをよりよい形に改めることをいとわなかったがために、彼の御名には『守るべき良き決まりごと』という意味が与えられた」  セイランは力強く頷いた。その内心では、大師に感謝していた。大師は助けてくれたのだ。セイランは大師の横顔を見た。日差しを照り返す鱗の間にあいた口から、ちろちろと舌が出入りしていた。目はぎゅっと瞑られていた。セイランはひそかに頭を下げて、クソジジイ呼ばわりはやめようと心に決めた。 「よろしい。では第三問である。異界につながる門が開いたのを知っておるか?」 「はい」 「よろしい。正解である」 「へ?」  セイランは気の抜けた声を漏らした。今のが問いだとは思えなかった。だがクウリは満足げに髭をゆすると、手を一振りして空中に燃える躍書を握りこんだ。セイランの背中を、ハンリョウが親しげにぽんぽんと叩いた。大師がセイランを助け起こし、ハンリョウはクウリの脇に移ると、懐から筆を取り出してさらさらと宙に滑らせた。筆の先端から滲み出した闇が形を取り、セイランの前で再び文章となって並んだ。セイランにも読むことが出来た。 「吉風公主よ!」 「は、はい」 「そなたはすべての問題に首尾よく答えた。よって、今後すべての勉学を免除する」 「はい!」 「それから褒美として、そなたを界門通関司長官に任ずるものとする」  クウリがさっと腕を突き出すと、ゆったりとした衣の袖が垂れた。そこに炎を宿した指を当てると、袖は焼ききれて一枚の布となった。ハンリョウの書いた文章がそこに飛び込み、染み付いた。できばえを眺めたクウリは満足げに笑うと、セイランに向かって投げ渡した。 「取れ、吉風公主。そなたの任命状である。玉璽はその布を以って代わりとする」  セイランは言われるままに布を受け取った。わけもわからず文章を目で追っていると、躍字が語りかけてきた。その声に耳を傾けるうちに、セイランは驚きのあまり声も出せなくなった。 「界門通関司とは、異界の門から現れるお客人をもてなし、あるいは門を抜けて異界へ赴かんとする民のために便宜を図る役目である。このところ界門において多くの問題が生じており、しかも問題を一括して引き受ける部署がないときておる。だれもが面倒な事は自分の管轄外であるといいはり、一方で旨みのある仕事は率先して己がものにしようとする。このような大騒ぎの始末で政が麻痺しかかっておる。だから、専門の部局を設けることとしたのだ。  さて、問題は人選だった。各所の利害も調整しつつ、ある程度有能な者も集めねばならぬ。加えて、異界に対する窓口となるのだから、できるだけ大延国の代表となるにふさわしい者を選ばねばならぬ。ほとんどの人員は選び出したが、ただ長官職だけが決まらなかった。あてが一人おったのだが断られてな。なんでも、『公主様の教育でそれどころではない』のだとか。まあそれは建前で、仙人を役職につけた前例がなかったことが本当の原因だろう。そうだな、十面大師?」 「ご賢察の通りでございます」 「範帝の故事にならえば前例の有無など知ったことかと思うし、いまや大師は教育係から解き放たれておる。だが、無理強いもよくないからの。さて、そんなところで朕は頭を悩ませておった。吏部尚書のハンリョウに手伝わせて適当な人材を探してみたが、どれもぱっとせん。そこで大師の提案で在野の人間を募ってみることにした。朕は気がすすまなんだが、他に手がないなら妥協するのもやむなしといったところだったのだ。ところがそこに、今までに考えても見なかった選択肢が飛び込んできた。セイラン、お前のことだ」  クウリはぱっと腕を広げた。 「皇族であるから身元は間違いようのない。やる気もある。公文書を追いかけるためとあらば兵士を向こうに回して追いかけっこを演じ、空を飛んで禁裏に押し入ることもいとわぬ。しかも大師の作った試験問題に見事全問正解してのけた。セイラン、お前こそ界門通関司長官にふさわしい人材である。むりやり机にかじりついておるよりも、こちらのほうが退屈せずにすむだろうしの」  セイランは目を回しそうになっていた。やっとのことで口を開き、喉を湿らせて言葉を搾り出した。 「あの、でも私はまだ、そういう仕事のことはよく分からなくて――」 「それこそがお前の最も優れた点であるのだ」  クウリが歯をむき出して笑った。愉快で愉快でたまらないという様子であった。 「お前が長官の職に就くことは誰も反対することができん。皇帝と吏部尚書が正式な手続きで選び出したのだからな。そして一度その椅子についてしまえば、お前が出す命令にはすべての部下が従わねばならぬ。それが長官の権威というものである」 「あの、だから、どういう命令を出せばいいのか分からないです」 「だからお前は補佐役探さねばならぬな。お前は自ら仕事を覚えるまで、補佐役の言うことに従えばよいのだ」  大師が深いため息をついた。その小さな音で、混乱していたセイランの頭の中が不意にするりと片付いた。 「分かりました! 大師を補佐役にしたらいいんです!」 「その通りだ」  クウリが手をたたいた。 「仙人を直接長官職につけるとなれば問題になろうが、長官が相談役として仙人を抱えるぶんには何の不都合もない。誰でもやっておることだからの。界門通関司の職は途方もなく難しいものとなるだろうが、幸い大師は帝国きっての頭脳の持ち主である。きっとうまい知恵を出してくれることだろう」 「お言葉ですが陛下、私は――」 「大師はいまやセイランの後見人からはずれ、自由な立場である。だからセイラン、無理強いすることは出来ぬ。もしお前が大師に自分の補佐を務めてほしいのならば、誠心誠意頼まねばならぬ。できるか、セイラン」 「はい」  セイランは大師に向き直った。大師は困惑したように目をそらした。垂れた耳が震えていた。セイランは大師の前に跪くと、地面に頭を擦り付けた。驚いた大師が助け起こそうとしても、セイランは立ち上がろうとしなかった。そうして、腹のそこから大きく声を出した。 「十面大師さま、大師を先生と仰ぎ、そのおっしゃることに従います。これからはクソジジイ呼ばわりもしません。書を読めというなら読みます。あ、でも、逃げない書だったらですけど」 「――無理に読もうとするから逃げるのですよ。本当に読みたいなら、ただ躍字が語りかけてくるのを待てばよいのです。むやみに追いかけようとしてはなりません。私もまた、公主様と同じ過ちを犯しておりました。心からお詫び申し上げます」  セイランは頭を上げた。大師は笑っていた。ばらばらな顔の部品の一つ一つが、力を合わせて不器用な笑顔を形作っていた。セイランは大師の笑顔を初めてみたことに気がついた。  大師がセイランの手を取り、助け起こすと、セイランは大師に抱きついた。      それから三日がすぎさり、セイランの姿は再び吏部尚書の執務室にあった。  運び込んでもらった小さな机で、セイランは書簡に埋もれていた。両脇に積み上げられた山が崩れ、机に突っ伏していたセイランにむかってなだれ込んだが、セイランには払いのける気力も残っていなかった。 「どうした、まだ半分も見ておらぬようだが」  セイランの上に積みあがった書簡を、ハンリョウの手が崩した。あきれたように髭をしごくハンリョウに向かって、セイランはもぞもぞと手を伸ばした。  セイランが埋もれているのは、界門通関司の役人たちに関する資料である。セイランは界門通関司の長官として、人事をつかさどる吏部から資料を分けてもらって、これから部下になる者たちのことを把握しようとしていた。 「だって、多すぎです……どれだけ見てもきりがないです」 「きりならあるぞ。たった五十人分ではないか」 「多すぎです!」  怒りにかられてセイランはがばっと体を起こした。 「だいたい、全部の部下の人の名前を知っておかないといけないなんておかしいです!」 「名前だけではないぞ。大まかな経歴と長所短所、それに親戚関係も押さえておく必要がある。なにしろ人を使うのだから、その人がどのような能力を具えておるのか把握するのは当然のことだ。だいたいを頭に入れたら、後で直接会って面談しておくのも忘れるなよ。きちんと見てやれば、人はよく働くものだからな」 「私はただのお飾りです。そういうのは大師がやればいいんです」 「もうやっておられるぞ」  ハンリョウはこともなげに言った。 「お前に渡した資料のは重要な役職につくものたちの分だ。残りはすべて大師が見ておられるし、ついでに言うならお前が今見ておるぶんも、大師の審査はすでに通っておるのだ」 「じゃあ見なくてもいいじゃないですか」 「バカを申すな。お前の承認なくしては何事も進まぬと思え。大師はお前のためを思って面倒なところを引き受けておられるが、それに甘えてはならん。お前はお前の仕事を果たすのだ」 「……はい」  セイランはおとなしく次の資料を手に取った。飛び跳ねる文章を苦労して読みながら、時折天窓に目を向ける。テンコウが破壊した窓はあれから修理され、外に「進入禁止」という札が貼られたという。テンコウはあの後たっぷりお叱りを受け、聞いたところでは白王さまのところに預けられているらしい。脅しのつもりが、結局現実となってしまった。悪いことをしてしまったとセイランは反省しきりだった。 「――こちらにおられましたか」  執務室の扉が開き、大師が姿を現した。セイランは思わず姿勢を正し、手元の資料に集中しているふりをした。大師はハンリョウに頭を下げると、セイランの前に一つの箱を置いた。簡素な飾りの施された、手のひらに乗るほどの小さな箱だった。 「これは?」 「公主さまに必要なものでございます。皇上から預かって参りました」  要領を得ず、セイランは箱を開けると中身を手に取った。とたんに飛び出した何かが、セイランの周りを一巡りすると再び箱の中に収まった。恐る恐る手を伸ばすと、それはセイランの指をするすると登り、巻きついて細い指輪となった。 「界門通関司の長官職たる証、公印でございます」  大師の言葉に応じるように、指輪の一部が膨らんで躍字を形作った。手元の紙に近づけると、生じた小さなカマイタチが紙を器用に切り抜いた。セイランは目をみはった。 「むやみに使われませぬよう。大事なものでございます。皇上におかれましては、公主さまがそれを正しくお使いになることをお望みでございます」 「はい! ちゃんと正しく使います。大師にいろいろ言われないで済むようにちゃんと使って見せます」 「それは結構」  うれしさのあまり、セイランは指輪を撫でさすって眺めた。何かを授かったということがうれしくて、思わず飛び跳ねそうになった。風の力がこめられているというのも気に入っていた。テンコウに見せれば、さぞや喜ぶだろう。 「大師、あの、この字の、この部分はどういう意味ですか?」  セイランは指輪の躍字と、自分の名前を示す躍字を比べた。ほとんど同じように見えるが、少しだけ違いがあった。セイランの名前には、風をあらわす形が含まれている。でもこれには、他の要素も加わっているように思われた。まるで建物のような―― 「ああ、その、それは」  大師が口ごもった。セイランの指輪を覗き込んだハンリョウが、ことさらにいかめしい顔を作った。 「それは建物、もっと言えば屋根を意味する躍字だ。それをお前の名前とこう組み合わせるということは、つまり公主たるお前の姿が屋根の上にあるということになる。まあ簡単に言えば、こんどの界門通関司長官は屋根に上るようなお方だということが、この印を見たもの全てに伝わるというわけだ」 「それってどういうことですか」  セイランは頬を膨らませた。大師は目をそらした。 「公主様もご存知の通り、役人が新たな地位に着けば、印章も新たに作らねばなりません。どういった印章を用いるかは勝手に決めて構わないのですが、なにぶん慣例というものがございます。あまり突飛なものはいけないのです。それで、公主様が慣例やしきたりといったものが苦手だということをかんがみまして、勝手ながら私が意匠を考えて皇上にご提案申し上げたのでございます」 「それじゃ大師がこの模様にしたんですか。私が印を押すたびに、私が屋根に上ることが皆に伝わるって事ですか!」 「そんなに憤るような話でもないと思うぞ、セイラン。かのロクセイ公などは寝台から転がり落ちる己の姿を印章に使っておられたというしな」 「そんな人なんかどうでもいいです! もう、なんてことしてくれたんですか、大師のバカ!」  セイランは立ち上がると、書簡の山に手を突っ込み、抱えられるだけ抱え揚げた。そうして、決然と大師を押しのけ、部屋の外に歩み出た。 「おいセイラン、どこへ行く?」 「屋根の上です! そこにいればいいんでしょ、ふんだ!」  勢いよく啖呵を切ると、セイランは駆け出した。廊下を曲がり、中庭に飛び出し、セイランは空を見上げて叫んだ。 「てんこーーーーーーーーーーーーーー!!!!」  だが応えるものはなかった。そよ風すら巻き起こらず、セイランは悔しさのあまり地団太を踏んだ。テンコウは白王様のところで謹慎処分を受けているのだった。だがいまさら、大師たちのところに戻るのもはばかられた。仕方なく、手近な兵士を捕まえてはしごを用意させようかとセイランが考え始めたときである。  浮遊感とともに、セイランの体が宙に浮いた。とっさに巻物を抱え込んだセイランの体が舞い上がり、中庭に掛かる屋根の上にふわりと降り立った。つかまれていた後襟が放され、セイランが振り返ると、羽毛を撒き散らしながら大師の翼が腕に戻っていくところだった。大師はセイランを支えると、自分は屋根の端に座り込んでぶらぶらと足を揺らした。大師に似合わぬ子供っぽいしぐさに、セイランは思わず噴出した。大師は懐から取り出した書簡を読み出し、セイランもその横に腰掛けて同じように書簡を読んだ。 「――あのような意匠を選びましたのは、あれこそ公主様を正しくあらわす躍字であると思ったからなのです。」  手元に目を落としたまま、大師がいかにもいいにくそうに口を開いた。セイランは黙り、ただ大師の言葉を待った。 「吉風公主様はその名の通り、風のごときお方でございます。建物、すなわち世間の常識にとらわれず、自由に吹き渡ることこそ公主様の真髄でございます」  大師の耳が揺れていた。セイランは大師の言葉に耳を傾けながら、その様子をただ眺めていた。 「異界は、文字通り異なる世界でございます。門をくぐって現れる異人たちには、我々の常識は通用しないかもしれません。そうしたもの達を相手取るに当たって、必要な事は常識にとらわれることではございません。より高いところから自由に眺める視点が必要なのでございます。そうして初めて、異人たちを理解しようとする出発点に立つことができるのでございます。その点において、公主さまはこの上なく界門通関司にふさわしいお方でございます。ですから、そのことを印章にこめたのです」 「自由な風、ですか」  セイランは指輪に目を落とした。指で模様をなぞり、その意味するところを心に描いた。テンコウを従え、大師に教えを乞いながら、異界の人間達を一生懸命世話してやるのだ。皆は屋根の上を見上げて、セイランの仕事をほめてくれるだろう。セイランが通関司でよかったと喜んでくれるだろう。  ――悪くないです。  セイランは大師に向かって微笑んだ。大師もまたうなずいた。そのまま視線を前に投げていた大師が、ふと眉を上げた。セイランもまた大師が見ている方向に目をやった。 「あ、テンコウ!」  白く膨らんだような毛の犬が、よろよろと宙を駆けていた。そのままセイランに向かってぶつかってくるのを、セイランは全身で受け止めて笑い声を上げた。 「テンコウ、どうしたですか。もう謹慎解けたんですか? 白王様のところもそんなに悪いもんじゃなかったですか」 「にゃあああああ」  テンコウが恐怖に身を震わせてセイランにのしかかった。精一杯無害そうな顔を作ったテンコウの視線がすべり、大師を捉えるとこの世の終わりを見たような表情になった。大師がため息をついた。 「――本来ならテンコウ殿はまだ謹慎中のはずですが、白王さまには私から話しておきましょう」 「ですって。よかったですね、テンコウ」  テンコウはまだ油断がならないという目で大師とセイランを見比べていた。そんなテンコウの頭を撫でて、セイランはにっこりと笑顔を作った。 「テンコウ、私ね、大師と仲直りしました。それだけじゃなくて、偉い地位も授かったんですよ。ほら、こんなの貰いました」  印章を突き出されて、テンコウはへっへっへと舌を伸ばした。そのままごろんと転がると、セイランの膝に頭を預けた。  何かいいたげな大師が、そのまま言葉を飲み込んだ。大師とテンコウにはさまれて、セイランは腰掛けている瓦屋根にそっと手を這わせた。さわやかな風が、セイランと大師の周りを流れていった。       (了)